18世紀初頭の鹿児島方言は、なぜロシアの資料から復元できるのか:漂流民ゴンザの辞書

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概要

昔の日本語の発音は、録音がない以上ふつうは直接たどれない。それなのに、18世紀初頭の鹿児島方言だけは発音やアクセントがかなりの精度で復元されている。隣の熊本などの当時の言葉はほとんど分からないにもかかわらず、である。しかもその手がかりとなる資料は日本国内には一切なく、ロシアに残っている。ゆる言語学ラジオの水野太貴は、この不思議な状況が生まれた経緯を、18世紀の漂流事件とそこで生き残った少年ゴンザの足跡から解き明かしていく。聞き手は堀元見である。

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歴史言語学を阻む「資料の壁」

水野によれば、昔の日本語を調べるときの最大の障害は資料の不足である。堀元は、平安時代にはすでに多くの日記が書かれていたのだから資料は足りているのではないかと問う。これに対して水野は、書き手が京都周辺に偏っていると指摘する。近畿地方の資料は集中して残っているが、九州や東北の当時の言葉についてはほとんど資料がない。文字を書けたのが主に貴族階級だったことも、この偏りにつながっていると二人は話す。

さらに水野は、語彙や文法はまだ扱いやすいほうだと言う。日記などには単語がそのまま文字で残っているからである。一方、その単語をどう発音したかは文字に残らず、観察もできない。そのため音の歴史を研究しようとすると、資料の壁はいっそう高くなる。

発音を記録するのは母語話者ではなく外国人

では、録音のない時代の発音をどうやって知るのか。水野の答えは、発音やアクセントについて書かれた資料を読むというものだ。答えとしては当たり前に聞こえるが、そうした資料が残ること自体がまれだという。

奈良時代の例として、水野は万葉仮名を挙げる。日本語の音に漢字を一字ずつ当てて書いた資料である。当時の漢字音は中国語の音韻研究によってある程度復元されているので、漢字と日本語の音を対応させれば、当時の日本語の発音が間接的に分かる。

なぜこんな回りくどい方法をとるのか。水野は、当時の人々が発音やアクセントを分かりやすく書き残そうとは考えなかったからだと説明する。現代人も日記に「この単語はこう発音する」「アクセントは頭高だ」とは書かない。日本語の母語話者は、そうした資料をあまり残さないのである。

室町時代については、キリスト教の布教に来たポルトガルやスペインの宣教師が、日本語を学ぶために資料を書いている。水野はこれをキリシタン資料と呼び、そのおかげで当時の発音がかなり分かると紹介する。

発音の違いは母語でない言語のほうが気づきやすい、というのが水野の考えである。例として英語の「pen」の語頭の p は息が強く漏れるが、「spin」のような語中の p はそれほど漏れない。英語を学ぶ側ならこうした違いに気づいてメモするが、母語話者はピンとこない。水野自身も中学1年のとき、「apple」の最初の音は「ア」と「エ」の間だと教わり、発音は言語ごとに違うのだと初めて実感したという。宣教師の来日のような偶然で、外国人が話者向けの資料を残すことが歴史上ときどきあった。現代の研究者は、そうしたたまたま残った資料を使って復元を試みている。

近い時代ほど分かるわけではない

水野が日本語の音声史を研究する先生から聞いて面白いと感じたのは、現代に近い時代ほど音が正確に再現できるわけではない、という話だった。奈良時代はかなりの精度で分かるのに、その次の平安時代は資料が乏しすぎて、その先生は「暗黒時代」と呼んでいたという。貴族が日記などの文字資料を大量に残しているにもかかわらず、発音について書いた人がいないため、平安時代の発音は本当に分からないのだそうだ。

江戸時代になると、「今どきの連中はこう発音しているが正しくない」と書いた資料があり、そこから部分的に分かることもあると水野は補足する。水野のイメージでは、書き手はとにかく口うるさいおじさんのような人物である。堀元は、発音にうるさい人が各時代にいてくれればよかったのだと応じた。

1728年、大阪行きの船がカムチャツカへ

ここまで挙げた万葉仮名やキリシタン資料は、どれも国内の資料である。一方、鹿児島方言の資料は国内にない。堀元は、九州に入っていた宣教師の資料が国外へ持ち帰られたのではないかと推測したが、水野はそれを否定し、もっと意外な歴史の偶然だと答える。

鍵となるのは、江戸時代の薩摩の海運である。薩摩からは大阪に向けて頻繁に船が出ていた。水野によると、1728年11月ごろ、17人が乗った大阪行きの船が暴風に8日間苦しめられ、太平洋へ押し出されて方角が分からなくなった。その後、半年間どこにも着けずに漂流を続けた。備えが比較的あったため生き延びたが、船はそのまま北上し、ロシア東端のカムチャツカ半島に流れ着いた。

上陸した一行は喜んだが、彼らを発見したシュティニコフという人物が、兵士たちに日本人を殺すよう命じた。水野は、なぜそうしたのかは分からないとしている。日本人が恭順や礼儀を示すために差し出した刀で切りつけられたり、弓で射られたりして、ほとんどが殺された。

生き残ったのは2人だけだった。11歳のゴンザと、36歳のソウザである。ゴンザは日本側の資料にほとんど名前が残っておらず、ロシア側で音として記録されているだけなので、どの漢字を書いたのかは分からないはずだと水野は話す。後の場面で辞典を見ながら姓がないことが話題になり、江戸時代の庶民は苗字を名乗っていなかったからだろう、という結論に二人はたどり着いた。

女帝アンナの思惑

日本人の殺害を命じたシュティニコフは、その後、当時の女帝アンナ・ヨアノヴナの命により処刑されている。水野によれば、アンナは漂着した日本人を保護するよう命じていた。しかしカムチャツカは帝国の辺境で、その指令が伝わっていなかった。

アンナが保護を命じたのは、人道的な理由からではなかった。当時のロシアは日本と通商を結びたかったが、日本は鎖国しており、そもそも日本語も分からない。そこで漂流してきた日本人から日本語を学ぶことに利点を見いだしていた、と水野は説明する。堀元は「いいやつだと思ったのに」と驚いたが、水野は、ロシア側が2人を解放し、首都ペテルブルクに送ってロシア語を教え、のちに日本語学校の教師を任せるなど、きちんと扱ったことも付け加えた。

ゴンザは薩摩の人間だったので、彼が書いた日本語の辞書や入門書は、そのまま当時の薩摩方言を写した資料になった。堀元が言うように、もし漂着したのが仙台の人なら、仙台の方言が残っていたことになる。水野は、津軽など他の地域の漂流民にも似た話があったと記憶しているが、大量に読んだため具体的な情報は忘れてしまったと断っている。

ロシア語を習得したゴンザと、覚えられなかったソウザ

11歳だったゴンザはロシア語の読み書きを習得した。一方、25歳年上のソウザはロシア語ができるようにならなかった。そのため資料を残した人物として記録に名が出るのはゴンザで、ソウザの名前は出てこない。

それでも水野は、ソウザが何の役にも立たなかったとは考えていない。ゴンザが資料を作ったのはソウザが亡くなった後だったという。日本語を話せる人が1人しかいなければ、その人はやがて日本語を話さなくなる。ソウザはそばにいることで、ゴンザが日本語を忘れないようにするうえで欠かせない役割を果たしたのではないか、というのが水野の見方である。堀元は、この2人の関係を絵本のようだと評した。

ロシア初の日本語学校と6冊の本

水野によると、1736年4月に日本語学校ができ、ゴンザはそこで教えた。これが記録に残るロシア最初の日本語学校とされている。ゴンザはここの生徒向けに6冊の本を書いた。「日本語会話入門」や「簡略日本文法」といったタイトルのものである。

ゴンザは1人で書いたわけではなく、ボグダーノフというロシア人が協力していた。ロシア人が日本語の文法や単語を理解できるようにする必要があったため、共同で作ったらしいと水野は説明する。

キリル文字だから残せた「母音の無声化」

資料の価値を高めているのは、使われた文字だと水野は言う。日本語の仮名は、子音と母音のペアを1文字で表す音節文字である。「か」は k と a から成るが、まとめて1文字で書く。一方、キリル文字は子音と母音を別々に書けるので、日本語の文字よりも細かく音を写し取れる。子音だけを発音しているような音は仮名では書き残せないが、キリル文字なら残せる。

その具体例が母音の無声化である。「たくさん」の「く」を言ってみると、声帯が振動していない人が多いはずだと水野は言う。「ありがとうございます」の最後の「す」も無声化している。無声化させずに言うと「ありがとうございますう」のようになる。無声化には地域差があり、関西は関東に比べて少ない。大阪などの話者が「〜です」「〜ます」の「す」をはっきり言うのはそのためだという。

ゴンザの資料には、無声化している母音にそれを示す印がついている。日本人の日記には「このクは無声化しています」とわざわざ書かれることはない。水野は、母語話者はそもそも母音の無声化に普通は気づかないと言う。ゴンザが気づいていたかは分からないが、ボグダーノフのような非母語話者なら、「たくさん」の「く」と他の「く」は違うと感じるはずだ。そこをきちんと書き取っている点で、非常に貴重な資料だというのが水野の評価である。

資料そのものを疑うところから始まる研究

ゴンザが関わった一連の資料は「ゴンザ資料」と呼ばれる。ただし、どのように作られたのかには諸説がある。ボグダーノフと一緒に作ったことまでは分かっているが、どこまでがボグダーノフの仕事でどこまでがゴンザの仕事なのかは分からない。そこで国語学の研究者は、筆跡を見比べて同一人物のものを特定し、4人ほどの筆跡があるといった分析をしているという。

水野は今回のリサーチで、文献学や国語学の研究が、目の前の資料がどの程度信用できるのかを確かめるところから始まっていることに気づいたと話す。いい加減な資料を信頼すれば、その後の研究がすべて崩れる。ゴンザ資料についても、どこまで資料に依拠して論を進められるかは研究者によってかなり差がある。それでも貴重な資料であることは変わらず、研究は今も続いている。

『新スラブ・日本語辞典』をめくる

水野は、現代に刊行された『新スラブ・日本語辞典』(ゴンザ編、ボグダーノフ指導)を持参した。左にロシア語の単語とその意味、右にゴンザがそれを日本語で何と言ったか、さらに現代日本語での訳が並ぶ。原資料はキリル文字だが、この本ではゴンザ資料の研究者である村山七郎が、キリル文字の読みを仮名にしている。

堀元が目を留めたのは、「上手じゃねえ」が一語の見出しのように載っていることだった。水野によると、ゴンザはボグダーノフに「これは何と言うのか」と聞かれ、ぴったりの単語が浮かばないときには文で説明的に答えることもあった。これはゴンザの頭の良さを示す部分でもある、と水野は言う。日本語の中から当てはまる表現を選び出していたからだ。

堀元は即興で「ゴンザクイズ」を出した。「冗談を言わない」という意味のロシア語を、ゴンザは何と訳したか。水野は「真面目」「正直」と答えたが外れた。正解は、ふざけることや冗談を意味する語に否定をつけた形だった。辞典の注記によれば、元の語は熊本県や鹿児島県で使われる言葉だという。ゴンザは京都などの言葉を知らなかったので、地元の言葉で答えた。だからこそこの資料は鹿児島方言の資料になる。この語が今も使われているかを堀元が会場の九州の観客に尋ねたが、知っている人はいなかった。現在は残っていない言葉かもしれないと二人は話している。

ほかにも、ハ行の音が当時はまだ「ファ」に近かったこと、「テ」「デ」が「チェ」「ジェ」に変わっていること、一部の環境でラ行がタ行に変わることなどが、辞典から観察できると水野は紹介した。

21歳で亡くなったゴンザと、日本への「逆輸入」

ゴンザは3年半で6冊の資料を作り、21歳で亡くなった。死因は分からない。ここまでの話は基本的にロシア側の資料によるもので、日本側にはゴンザという青年についての資料がほとんどないと水野は言う。

ゴンザの研究は19世紀初頭に一度行われたが、その後途絶えた。再び光が当たったのは、辞典を刊行した言語学者の村山七郎が、モスクワの学会でソ連の言語学者からゴンザの辞典の話を聞いたときである。それまで村山は知らなかった。これをきっかけに村山は自ら研究を始め、日本でも広めていった。

村山は鹿児島などでも講演を行った。講演を聞いて感動した一人、吉村道一さん(字幕に基づく表記)は、ゴンザの著作を日本に返してほしいと、専門家の手を借りてロシア語で手紙を書き、クレムリンに毎月送り続けた。それが8年間続き、8年目にようやく返事が来て、マイクロフィルムが送られてきたという。水野は、自分の郷土にこんなにすごい日本人がいたという思いが大きかったのではないかと推し量っている。

その後、有志がゴンザファンクラブを立ち上げた。ゴンザの出身地は鹿児島のどこかということまでは分かっているが、どの町かについては諸説ある。辞典に載っている語形がどの地域で使われ、どこで使われないかは、地元の人が協力すれば調べを進められそうだ。そうした活動をする市民が現れ、水野が読んだ本によれば、一時は会員が300人を超えたという。

アクセント記号が示す鹿児島方言の古さ

資料の一部にはアクセント記号もついている。これをもとに当時の鹿児島方言のアクセントを復元する研究もあると水野は紹介する。鹿児島のアクセントは、大きく分類すると東京式のアクセントとはかなり違うところに位置づけられる。ゴンザの資料からは、18世紀初頭の時点ですでにかなり違うものだったことが分かっているという。本来なら分からない歴史的経緯が、アクセントを書き残すという「超ファインプレー」のおかげで分かった、と水野はまとめた。

ソリマン・アガのコーヒーとの類似

話を聞いた堀元は、オスマン帝国の使節ソリマン・アガを思い出したという。堀元の説明では、彼はオスマン帝国とフランスの友好を図る外交戦略のため、ルイ14世の治世のフランスに派遣された。しかしオスマン帝国のほうが大国だったため高圧的な態度で臨み、ひどく嫌われて早々に帰国させられた。ところが彼はアラビアンナイトのような豪華なトルコ風の邸宅に住み、うまいコーヒーを飲んでいた。それを見た近所の人々が憧れ、それまで田舎者の飲み物だと思っていたコーヒーを真似して飲むようになった。結果として、外交の目的とは関係のないコーヒー文化を広めて帰ったことになる。

ロシアに行く気すらなかったゴンザが偶然流れ着き、薩摩方言の資料が生まれたのも同じような歴史の偶然だと堀元は言う。水野は、当時の評価とは別に、何百年もたってから引いて見ると大きな功績だったという点で共通しており、本人たちも後世にこう評価されるとは思っていなかっただろうと応じた。

知られていない漂流民の資料と、方言で話すことの意味

水野は今回の調べものを通じて、もう一つ考えたことがあるという。ゴンザ資料は村山七郎が広めたことで日本でも研究が進んだが、他にも漂流民が現地で資料を残している例が、知られないまま眠っている可能性は十分ある。そうであれば、自分たちの地元の方言や中央語の昔の姿が、高い精度で復元できる可能性も皆無ではない。

堀元は、自分たちが撮っているYouTubeも500年後には良い資料になっているかもしれないと言い、水野も同意した。水野はさまざまな場所で、自分の母方言でポッドキャストを録ってほしいと呼びかけている。方言の音声資料はかなり少なく、日本の研究者は危機意識を持っているが、人手が足りない。方言を調査する言語学者を大幅に増やすのも難しい。そこで普通の雑談を方言で話して記録しておけば、後世の人に役立つ。水野は、父親が名古屋方言でポッドキャストを録っていてくれたら、父親が亡くなった後に聞き返して名古屋方言はこうだったと思い出せるだろう、という例を挙げた。

一方で、方言を消す人の話も出た。堀元の本の担当編集者は青森出身だが、地元にいた頃から方言を消しており、標準語が得意な人としてクラスで目立っていたという。前日に会ったYouTubeチャンネル「ゆっくり解説」の制作者は関西出身だが、話していても京阪式のアクセントが出ない。水野が理由を聞くと、塾講師をしていたとき、自分の話が面白くてウケているのか方言でウケているのか区別できなかったので、東京アクセントで話せるようにしたと答えたそうだ。

水野にも似た経験がある。大学生のころ教えていた授業で、ノートに日付を書かせようと「9月25日」と名古屋のアクセントで言ったところ、生徒に言い直されて笑いが起きた。水野は、練り上げた授業の美しさで生徒をひれ伏させたかったのにそれができず、ノイズになったのが悔しくて、アクセントを直したという。

水野は、これらの例は方言に劣等感を持っているという意味ではないと断ったうえで、みんなが自分の母方言で話せるようになればいいし、それは後世の人にとっても意味のあるものになると話す。九州で開かれたこの公演の最後に、方言の強い九州の人たちに向けて、直さずにむしろ強化していってほしいと呼びかけて締めくくった。