島根の山村から原子の研究、清水建設、プリンストン、そして中道改革連合へ:斉藤鉄夫が語った経歴と新党の理由
トマホークTomahawk公明党代表の斉藤鉄夫は、立憲民主党の野田佳彦と新党「中道改革連合」を結成したばかりの時期に、このインタビューに応じた。話は島根の山村での幼少期から始まり、研究者を目指した学生時代、清水建設での技術開発、プリンストン大学での核融合研究、政界入り、大臣経験、自公連立の解消、新党結成へと進む。斉藤は、右でも左でもない「中道の塊」を作ることが、暮らしを守り、日本を平和国家として保つために必要だと主張する。
「中道改革連合」という名前と、中道の中身
冒頭で聞き手は、新党の名前がいかつい印象だと率直に伝えた。斉藤によると、略称として「中核連」と呼ばれることもあるが、党としての略称は「中道」である。爆笑問題の太田光からは「暴走族のような名前」と言われたという。斉藤は笑いながら、「昭和のおじさん代表」である野田と自分が一生懸命考えた名前で、ほかの意見も聞いたがおじさん世代が多かったのでこうなったのかもしれない、と説明した。
では「中道」とは何か。斉藤は今の時代に当てはめて、2つの柱を挙げる。1つは、生活している一人ひとりの暮らしを大切にする「生活者ファースト」。もう1つは、人が人生を懸命に生きるための前提になる日本の平和を守ることだ。この2つを現代における中道の考え方と位置づけ、それを実現する新しい政治グループだと述べた。
戦後7年の山村で、獣医の父についてまわった子ども時代
斉藤は昭和27年、島根県と広島県の県境近くにある山奥の村で、農家の次男として生まれた。兄と姉がいる。戦争が終わって7年しかたっておらず、生まれた場所は広島市に近い山の中である。原爆投下後の広島にまだ爪痕が残る時代に、自分は元気に野山を駆け回っていた、と振り返る。
当時の農家には農機具がなく、田を起こす労働力は牛だった。各家に牛がいて、父はその牛を診る獣医だった。斉藤は父のオートバイの後ろに乗り、村で牛のいる家にはほとんど行ったことがあるという。
それでも獣医を目指そうとは思わなかった。父が牛のお尻に手を入れると、牛が小便をし、続いて大きな糞が出て、父は糞まみれになる。大人になってから聞くと、それは妊娠の検査だった。当時の農家にとって子牛が生まれることは、ほぼ唯一と言ってよい現金収入の手段だったので、大切な仕事だったという。しかし子どもだった斉藤は、糞まみれの父を見て「決して獣医にはなるまい」と決意したと笑って語った。人間と牛が同じ屋根の下で暮らす、貧しい農家が多い中山間地域だったという。
週刊誌のグラビアを見て、中学3年で広島へ
斉藤が通った村の中学校では、半分以上の生徒が卒業後そのまま就職した。塾も家庭教師もなく、習い事をしようにも先生がいなかった。
転機は中学2年のときに来た。都会に出かけた父が週刊誌を買ってきた。そのグラビアには、都会の子が塾という狭い場所で夜遅くまで勉強し、いい高校やいい大学を目指す姿が載っていた。斉藤はこれを見てなぜかひどく焦り、父に「俺も都会に出て勉強したい」と頼んだ。父はすんなり認め、斉藤は中学3年で一人広島に出て、親戚の家に居候しながら高校受験に臨んだ。
進学したのは修道高校である。聞き手が新党の「中道」と似ていると冗談を言うと、斉藤は「そこから取ったわけではない」と答えた。広島に出てみると、都会の子がグラビアほど必死に勉強しているわけではないと気づいたが、志を持って出てきた以上は勉強しようと努力した。得意科目は数学と理科、とくに物理で、国語と英語は苦手だった。
鉄道は子どものころから好きだった。名前の「鉄」は鉄道とは関係がない。兄も姉もあまり丈夫ではなかったので、強い子にしたいと父が付けた名前だという。村にはローカル線が走っていた。駅に立つとレールが伸び、その先に都会がある。当時の田舎の子にとって、都会は自分の将来そのものだった。レールの先に自分の未来があるという思いから、鉄道にロマンを感じたと語る。
銭湯で倒れ、片耳の聴力を失う
撮影前、斉藤は片方の耳が聞こえないと話していた。聞き手がその理由を尋ねると、高校時代の出来事を説明した。
広島では三畳一間に居候していて、風呂がないので銭湯に通っていた。昭和40年代の広島の銭湯では、入れ墨をした客をよく見かけ、湯の温度はおそらく44〜45度ほどあったという。熱い湯に長く浸かって上がったとき、意識を失って倒れた。気づいたときには寝かされていた。内耳が破裂したようで、それ以来その耳は聞こえない。平衡感覚も失い、バランスが取れない状態が2〜3か月続いてずっと寝ていた。平衡感覚はしだいに戻り、今は右耳の三半規管だけで平衡を保ち、音も右耳だけで聞いているという。病名はメニエール病と言われた。
全共闘の時代に創価学会へ
斉藤は高校2年のとき、広島で一人暮らしをしていた時期に創価学会に入った。一番の理由は、先に入会していた兄に勧められたことで、いわゆる2世ではない。
当時は学生運動の最盛期だった。修道高校は広島大学のすぐ隣にあり、その影響で校内にも全共闘ができて学校が封鎖され、しばらく授業ができなかった。全共闘の学生たちは「お前は何のために勉強しているのか」と問いかけてきた。「自分の人生のため」と答えられる雰囲気ではなく、多くの生徒が迷っていた。斉藤は、その問いへの答えを見つけたいという思いもあって入会したと語る。
ただ、入会直後に聴力を失う出来事が起きた。斉藤は正直に言えば「信仰活動を始めたのにいいことがないじゃないか」と思ったという。それでも兄や周囲から、こういうときこそ信仰の力が必要で、何があっても負けない力をつけるのが信仰の目的だと言われ、一生懸命やってみようと考えた。そのうえで全共闘の問いへの自分なりの答えも見えてきた。社会は自分一人の幸せだけを求めても幸せにはならず、多くの人が幸せになって初めて自分も幸せになれる。そういう社会を作るために勉強するのだ、という目的意識が生まれたという。
東工大、原子の研究、「博士課程に行くのはやめなさい」
大学は東京工業大学(現・東京科学大学)に進んだ。国立大学で数学と物理の配点が高く、英語と国語の比重が低かったため、自分の学力に合っていたと説明する。
もっとも、高校まではトップクラスだった自信は、大学で折られた。全国から集まった優秀な学生を見て、自分よりできる人間が世の中にはたくさんいると気づき、傷ついたという。大学の成績はあまり良くなかったが、それでも研究者を目指して大学院に進んだ。将来は大学教授になり、ノーベル賞を取るくらいの研究をしたいという若い情熱があった。
専攻は物理である。物質を構成する基本的な粒子である原子は完全な球ではなく、平たいパンケーキ型やラグビーボールのように尖った形をしているものがある。斉藤はその形や正確な質量を測る研究をした。修士論文は今でも引用されるような、かなり良いものが書けたと本人は語る。
それでも修士2年のとき、指導教員から博士課程に進むのはやめるよう言われた。当時は大学のポストが少なく、企業も博士を新卒で採る状況ではなかった。研究室には、博士号を取ったのに就職先がない先輩が大勢いた。先生は「ああなりたいか、悪いことは言わんから就職しろ」と助言した。斉藤は、今思えば本当にありがたいアドバイスだったと振り返る。
就職難の中、偶然が重なって清水建設へ
就職活動は昭和51年ごろ、斉藤の言葉では「第2次オイルショック」の後で、就職難の時代の始まりだった。斉藤によると、後に入社する清水建設は、前年まで総合職を年に500〜600人採用していたが、その年は10人になった。多くの大企業が採用を絞り、どこからも相手にされなかったという。
清水建設に入れたのは、偶然が重なった結果だと斉藤は強調する。ちょうど超高層ビルの建設が増え始めた時期だった。超高層ビルの耐震性でいちばん重要なのは、鉄骨の溶接部である。部材を溶接でつなぎながら高くしていくため、地震で引っ張りや圧縮の力がかかったときに接合部が確実につながっているかどうかが、ビルが地震に耐えられるかどうかを左右する。清水建設の研究所は、その検査手法を研究させるために物理出身者を採りたいと考えていた。この話が東工大の建築学科の構造の先生から、物理の指導教員、つまり博士課程に行くなと言った先生のもとに届き、斉藤が紹介された。
入社後、斉藤は鉄筋や鉄骨の接合部の安全性を確かめる試験方法の開発に10年を費やした。完成した「鉄筋ガス圧接部の超音波探傷法」は日本工業規格(JIS)になり、今も使われているという。本も出版した。斉藤は、この収録場所のビルも国会議事堂も、そうした超音波の方法で安全が確かめられて建っていると述べた。この成果を論文にまとめて東工大に提出し、博士号も取得した。博士課程に進まなくても、給料をもらいながら博士になれたわけである。
働き方については、研究所だったので時間は関係なく、朝来て研究するという完全に研究者の生活だったと語った。
プリンストンで核融合を研究する
10年の研究で一区切りの成果が出たころ、景気は回復し、会社には2〜3年好きな勉強をしてよい留学制度があった。社内試験の合格者は毎年1〜2人である。斉藤はこれに通り、プリンストン大学のプラズマ物理研究所に3年間派遣された。すでに博士号を持っていたので修了すべき課程はなく、客員研究員として教授並みの個室を与えられ、研究員として扱われたという。
研究テーマは建築の安全性から離れ、次世代のエネルギーである核融合(フュージョンエネルギー)になった。斉藤の説明では、現在の原子力は重いウランが核分裂するときのエネルギーを使う。ウランは資源としては十分だが、分裂してできる核分裂生成物が高レベル放射性廃棄物になる。一方、核融合は水素と水素が合わさってヘリウムになるときにエネルギーが出る仕組みで、何億年も燃え続けている太陽もこのエネルギーで輝いている。ヘリウムは放射性物質ではないので基本的に安全であり、水素はどこにでもある。
当時は、1年研究すると核融合の難しさが分かって実現が2年延びるという状態で、難しさを研究しているようだったと斉藤は振り返る。その後研究は進み、自分たちが生きているうちに核融合炉で発電できる時代になればいいと語った。環境に優しく、資源が無尽蔵で偏在しない核融合は日本のような国に最も適しており、ぜひ実現したいという。新党でも、こうした科学政策を打ち出していきたいと述べた。
清水建設には、米国での3年間を含めて17年在籍した。最終的な役職は技術研究所の主任研究員で、課長クラスである。
40歳での政界入り:プリンストンでの出会い
博士号も留学も会社の支援で得たので、会社としては残ってほしかったはずだと聞き手が言うと、斉藤もそうだったと認めた。帰国後は核融合施設も含めて清水建設で研究を続けるつもりだった。そこへ40歳のとき、公明党から、高校時代を過ごした広島に戻って衆院選に出ないかという話が来た。
話を持ってきたのは、当時公明党の副委員長だった「塩さん」である。この人物は参議院の科学技術特別委員会の委員長として、プリンストンのプラズマ物理研究所を視察に来たことがあり、そのとき斉藤が案内役を務めた。広島から衆院候補を立てる必要が出たとき、斉藤のことを思い出して声をかけたという。
それまで政治との接点はまったくなく、斉藤は正直悩んだ。研究者は20〜30代にはバリバリ仕事をするが、30代後半から40歳にさしかかると若手がどんどん伸びてくる。競争社会の中でこれからも研究を続けていけるか、自分の研究者としての力に悩んでいた時期と重なった。そこで、これまでの研究や米国での経験を政治の世界で生かさないかという誘いを受け、飛び込むことにした。
初めての選挙は、岸田文雄と同じ選挙だった。当時の広島1区は4人が当選する中選挙区で、岸田も初挑戦だった。トップ当選は岸田で、斉藤はそこから約2万票離された10万5000票で2位当選した。二人は当選同期である。
環境大臣のエコポイント、国交大臣として迎えた羽田の事故
大臣経験で印象に残ったことを問われると、斉藤はまず環境大臣時代のエコポイント制度を挙げた。地球温暖化対策として、環境性能の良い家電を買うとポイントがつく仕組みである。今は似た制度が多いが、当時としては新しい手法だったという。
国土交通大臣としては、2年前の正月の出来事を語った。能登半島地震が起き、国交省に集まって対策を練っていた翌日、羽田空港で海上保安庁の航空機と日本航空機が衝突し、炎上した。海上保安庁も空港運営も国交省の所管で、斉藤が責任者だった。炎上の第一報を見て厳しいと思ったが、日航機の乗客乗員が全員無事に脱出したという報告を聞いたときは、本当に床に崩れ落ちたという。一方、海上保安庁の職員は亡くなった。自分の部下だったことも大きなショックだったと述べ、二度とこうした事故を起こさないよう対策を打つと決めたと語った。
急な代表就任と、自公連立の解消
斉藤が代表になったのは急なことだった。一昨年10月の衆院選で、代表に就いたばかりの石井啓一が落選し、衆院議員でなくなったため代表を辞任した。その後任として斉藤が急きょ就任した。通常は2年に1度の党大会で、立候補者が複数いれば選挙、1人なら全国から集まった代議員の承認で決める。ただ、このような場合には少人数の代議員が臨時に東京に集まって決めることも認められており、その場で斉藤が選ばれたという。
連立解消の理由について、斉藤は次のように説明した。一昨年の衆院選でも、昨年7月の参院選でも、自民・公明の与党は大敗した。与党は国民の信任を失ったと公明党は受け止めた。信頼を取り戻すには、最大の原因である「政治とカネ」の問題で規制を強化し、二度と起こさないための制度改正を国民に約束しなければならない。公明党は清潔な政治を党是としているので、この点は譲れない。例えば企業・団体献金の規制強化について答えを求めたが、高市新総裁から明確な答えがなかったため、連立離脱を決断したという。
分断と対立ではなく合意形成を:新党結成の経緯
公明党を離れて新党を作る理由は、聞き手が「一番気になるところ」と前置きして尋ねた。斉藤は、今の世界は分断と対立をエネルギー源にして自分の政治勢力を増やそうとする状況にあると述べる。その中で、中道のグループが真ん中に立ち、さまざまな意見を尊重して聞きながら一つの方向を導く「合意形成」を図ることが大切だという。これを斉藤たちは中道と呼んでいる。
連立を離脱した際、公明党は「中道改革の軸になる」という方針を打ち出した。斉藤は立憲民主党、国民民主党、さらに自民党内の「穏健保守」と呼ばれる、中道の考え方に近い議員たちとも話をし、いずれこうした塊を作ろうと呼びかけていた。そこへ急に解散の話が持ち上がった。話をしていた相手の中で、とくに立憲民主党の野田が、公明党の考え方はよく分かる、中道の塊を増やさなければならないと応じた。野田は政治生命をかけた決断として、立憲民主党と公明党のそれぞれから中道の考え方に賛同する議員が離れ、新しい党を作ることを提案した。野田がそこまで決断したことを受けて、公明党内でも話し合い、新しい政治の流れを作る決断をしたと斉藤は説明した。
若い世代へ:食料品の消費税ゼロと財源の考え方
最後に、20〜30代が中心の視聴者に向けた言葉を求められると、斉藤は「生活者ファースト」の具体例として経済政策を挙げた。食料品の価格が高いことに対し、食料品の軽減税率をゼロにする。ただし赤字国債でまかなえば金利が上がり、家が買えなくなったり、ほかの物価高を招いたりする。そこで赤字国債には頼らず、政府が持つ資産を運用する政府系ファンドを作り、そこから税金に頼らない財源を生み出す。こうした形で、多くの若い現役世代が苦しんでいる社会保険料も下げるという。
斉藤は、「中道改革連合」はいかつい名前で、昭和のおじさんたちが作った名前だと言われていると認めた。そのうえで、込めた思いは今の若い世代と同じ危機感であり、若い世代がこれから日本を引っ張っていける環境を作ることが目的だと述べ、中道への支援を呼びかけてインタビューを締めくくった。
トマホークと、イマシカです。一言で自己紹介お願いいたします。
公明党代表の斉藤鉄夫です。どうぞよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。お願いします。
今本当にもう話題の渦中と言いますか。中道改革連合、新党を作ることといたしました。
略して中道は、ちょっと違う略称とかがあったりするんですけど、中核連なんて言われてますけど、あっちではなくて。中道です。あくまでも中道です。なんか爆笑問題の太田光さんに、なんか暴走族のような名前だなと。
名前いかついですよね、結構。ちょっと僕も正直思っちゃって、いかついなっていう風に思って。
なるほどなるほど。すいません。昭和のおじさん代表である野田さんと私で一生懸命考えたもんですから。まあ皆さんの意見もあったんですが、大体おじさん世代が多くてそういう名前になったのかもしれません。
由来とかって聞いてもいいんですか?
やっぱりですね、今日本にとって右でもない、左でもない、中道の塊を作ることが非常に日本にとって大事だ。私たちの暮らしを守る意味で、そして日本を平和国家にしていくために、平和国家であるために必要だ。
こういう思いで中道で、その中道って何なんだって言われるんですが、今の時代に即して言えば、もうまさに生活している我々1人1人の暮らしを大切にする生活者ファースト。それから今の我々が人生を一生懸命生きていけるために最も大切な平和、日本の平和を守る。この2つのことを我々は現代における中道の考え方だと思っておりますけれども、それを実現したいという新しい政治のグループです。
なるほど。で、その結党に至るまでも含めて人生をお聞きするっていうチャンネルなんですけども、本当に幼少期からお聞きしても大丈夫です?
もうありがとうございます。
そんな感謝されたことないですけど。じゃ、幼少期はなんかどんな子供だったとかって記憶あったりしますか?
私は昭和27年に島根県の本当に山奥、島根県と広島県の県境の村、ついこの間まで村と言われてた、今合併して町になったんですけども、その村と言われる本当の山の中で、農家の次男坊として生まれましてね。野山を駆けてました。
で、昭和27年ですから、まだ戦争が終わって7年しか経ってなくて、私が生まれたのは広島市のすぐ近くの山の中ですので、いわゆる原爆が落ちた後の広島、戦争で多くの人が傷ついた、まだその爪跡が残る、そういう時代に1人元気で野山を駆けてました。
確かに元気そうですもんね。小さい頃から。ちなみにご兄弟とかいらっしゃったんですか?
兄と姉がおりました。
じゃ、ちっちゃい頃は農家の仕事とかもされてたんですか?
農家で一生懸命親の手伝いなんかをしておりました。あと昔の農家にはですね、農具も何もありません。労働力、田を起こす労働力っていうのはね、牛なんですね。
だから各家に牛がいたんですが、その牛を見る医者、獣医。親父はその獣医をしておりまして、私はその親父のオートバイの後ろに乗ってですね、その村、羽須美村って言ったんですが、その村の牛のいる家にはほとんど行ったことがあります。親父にくっついていつも歩いてた。
じゃ、将来の夢はお父さんみたいになりたいとかもあったりしたんですか?
いや、ある時ですね、子供の頃親父を見てましたらね、牛がいますね。その牛のお尻から手を突っ込むんですよ、お尻に。ぐーっと。でね、突っ込んでると牛がまずね、おしっこをするわけです。バーっとおしっこまみれになる。ね。で、その後、実が出てくる、大きな糞が。で、糞だらけになる。で、手を抜くんですけどね。
で、後から聞くと、大人になってからあれ何したかって聞くと、妊娠鑑定、つまり牛の中に子供が生まれてるかどうか。その頃の農家にとって子牛が生まれるっていうのは唯一と言っていいほどのいわゆる現金を得る方法だった。本当に大切。牛の妊娠っていうのは非常に大切だったんですけど、そのことをやってたらしいんですけどね。
まあ、その糞だらけになる父親を見てですね、私は決して将来獣医にはなるまいと決意をして、別の道を行きました。あの頃は家の中に人間と牛と一緒に住んでましたからね。貧しい農家が多かったから。何せ島根の山奥の山間地域ですから。
そっからね、もう大学とかも行かれてるじゃないですか。大学に行かれる人って多いですか?その辺の地域で。
いや、私の時、私のその田舎の中学校では、半分以上の人が中学校を卒業してそのまま就職してました。
ああ。なんかどこかからやっぱり勉強しようっていう風に転換するんですか?
私、そこで中学校、その村で中学校へ行ってたんですが、中学2年の時にですね、親父が都会へ出て、帰ってきた時になんか週刊誌を買ってきたんですね。で、その週刊誌のグラビアを見させてもらってると、都会の子は塾というところに行って一生懸命勉強して、なんかいい高校、いい大学に行くんだって一生懸命やってるって、そういう写真が出てたんです。なんか塾に行ってね、狭いところに入って一生懸命夜勉強してる。
で、私のところはそんな塾なんてもちろんありませんし、家庭教師なんてのも全くないし、だから私は習い事もしたことがないんですが、習い事しようにも先生がいませんから。そういうところに育って、しかしそのグラビアを見てですね、なぜかすごい焦ったんです。で、それを見て私、親父にですね、俺も都会に出て勉強したい。
すごい。すごいですね。
で、親父もそれを素直に聞いてくれて、いいよ、じゃあ、言うんやったら行ってこいって言って、私、1人で中学3年の時に広島に出ましてですね。親戚の家に居候するという形で。
それ高校受験は広島でしようと思われたんですか?
広島で高校受験しようとした。
ちなみに高校はどちらですか?
修道高校という。今度私たちが作る中道と似た修道高校。
そっから取ったわけでは。
そっから取ったわけではありませんが。
そんなわけで修道高校からやっぱりいい大学目指そうみたいな。
ですから中学3年、1人で広島に出て、都会の子があのグラビアで見たほどみんな一生懸命勉強しているわけじゃないなとその時気づいたんですが、みんながみんな勉強したわけじゃないなと気づいたんですけれども、しかし志を持って広島に出たんだったら勉強しようということで一生懸命勉強しました。
元々勉強は結構得意な方だったんですか?小学校とか。
数学とかですね。理科、あと高校の教科で言うと物理。こういうのは好きだったです。
あ、そう。後々そっちの道に進まれて。多分相当できた方だと。
いやいやいや。その代わり国語とか英語とかそういうのはちょっとあまりできませんでした。
じゃあもう理系。
理系ということで。
そう、乗り鉄なんですか?
鉄道は子供の頃から好きでした。
お名前に鉄入ってるじゃないですか。
それは鉄道とは関係なく、父親がですね、うちはその兄も姉もそんなに強い子じゃなかったんで、強い子にしたいという思いで鉄。単純なあれなんですが、私のその村にですね、当時鉄道が走ってたんですね。路線が。そこの駅に立って見ると、レールが伸びてて、そのレールの先にね、さっき言った都会がある。都会っていうのは、当時の田舎の子にとって自分の将来、未来そのものなんですよ。だからこの日本のレールの先に自分の未来があるっていう思いから、なんか鉄道っていうのはね、すごいロマンを感じるというのが数少ない趣味でしたね。
へえ。高校時代のお話をお聞きしたくて、さっき撮影外で耳が片方聞こえないっておっしゃって、その理由とかお聞きしてもいいんですか?
実は高校生の頃まで聞こえてたんですよね、耳。ところがですね、その1人で広島に暮らす、で当然本当に狭い3畳一間の部屋に居候させてもらって、でもちろんお風呂はないですから銭湯に行くんですね。
で、広島の銭湯に当時、まだ昭和40年代、戦争が終わって20年ぐらいしか経ってない。その時に行きますとね、いわゆる仁義なき戦いの町ですから、もういわゆる入れ墨した方が、大体お風呂、銭湯に行くと4人は入れ墨してらっしゃる方がいらっしゃる。そういうところでね。いずれものすごく温度が熱いんです。多分44度、45度ぐらいあるようなお湯だった。
その方がなんか入れ墨の方にはいいんですかね?そう、そうなのか。
そういう風に聞きました。だからお風呂屋さんはね、温度を高めにしてるっていう。
で、その熱めのお湯に長いこと浸かって、わっと上がった時に意識を失って倒れたんです。お風呂場で、銭湯で。で、気がついたら寝てたんですけれども、内耳がこう破裂したみたいで、それ以来、まず耳が聞こえないのと、それから内耳ですので平衡感覚がしばらくなくなりましたよね。三半規管が。バランス取れない。
バランス取れない期間が2、3ヶ月続きまして、ずっと寝て。
それはちょっとマシになっていくんですか、やっぱり。
だんだんそれがですね、もう耳は聞こえませんが、平衡感覚はだんだん取れるようになってきまして、今はだから右耳の三半規管だけで一応平衡感覚と、音も右耳だけで聞いてるという。
へえ。それって病名ってお聞きしてもいいですか?
メニエール病と言われました。
あともう1点、高校で創価学会に入られてるじゃないですか。それ理由って聞いても大丈夫ですか?
1番の理由は兄の勧めです。兄が先に創価学会に入って、入信して、で、私に勧めてくれた。2年生、広島で1人で暮らしてる時です。
で、私の高校2年生、3年生時代っていうのは学生運動がものすごく真っ盛りで、全共闘の時代でした。みんなヘルメットかぶって学校封鎖したり。ということで私の修道高校も広島大学のすぐ隣にあったので、広島大学の学生運動、全共闘の影響を受けて高校の中に全共闘ができて、学校を封鎖したり、で授業がしばらくできなかったんですけども。
そういう中でそういう学生が私たちに向かってですね、お前は何のために勉強してんだ、勉強することにどういう意味があるのかっていう、そういうことを問いかけ、そういう時に、いやいや、それは自分の人生のためですよ、なんて言ったら、そういうことは言えないような雰囲気があるんです。
そういう中で多くの学生が迷う。これは一体何のために勉強してんだろうと。そういう中でちょうど兄からその創価学会の話を聞き、ある意味で全共闘の学生から、お前は何のために生きてるんだ、何のために勉強してんだということの答えを見い出したいなというような思いもあって、創価学会に入りました。
じゃあ2世とかではないってことですか?
2世ではないです。
そう、入って正解って見つかったりするんですか?
正直申し上げますと、入って、先ほどの耳が聞こえなくなるっていう事件にすぐ遭遇するわけです。
ああ、なるほど。時系列的な。
だから私、非常に正直に言うと、入って信仰活動を始めたのにいいことないじゃないかと。耳が聞こえなくなった。という中で兄や周りの方から、こういう時こそ信仰の力が必要で、何があってもそれに負けない力をつけるのが信仰の目的なんだというような話も聞き、一生懸命やってみようと。
で、その上で、やはり先ほどの同級生にお前は何のために勉強してんだって聞かれたことへの答え、やはり多くの方と一緒に幸せに生きたい、生きるために勉強するんだと。社会っていうのは自分1人の幸せだけを求めても幸せにはなれない。多くの人が幸せになって初めて自分も幸せになれる。で、そのための、そういう社会を作るために勉強するんだ、という目的感が生まれてきたということはあります。
当時そう学生運動で、その耳も聞こえなくなって、受験もされてたってことですか?
受験、まずは高校時代は勉強するために、次の大学にステップに上がるために田舎から1人で出てきて広島で勉強した、その目的を達成するために勉強したいっていう事柄が湧いてきましたので、一生懸命勉強しました。
いや、勉強の環境がね、今と違いすぎるというか、そこで大学受かるのめっちゃすごいなって思ったんですけど、最終的に東工大。
東工大です。
元々やっぱりそこに行きたかったってことですか?
途中から、先ほど申し上げましたように、東工大は国立大学でしたが、数学、物理の比重が高いんです。で、英語、国語の比率が低いんです。だから私の学力にあった大学。
確かに。確かに。その後はやっぱその理系的な就職もしようって考えてたってことですか?
で、私は将来研究者になりたいという思いで大学院まで行きました。大学に残って研究者になりたいと。できれば大学教授になり、いい研究をして将来ノーベル賞を取るぐらいの若い情熱を持ってたんですが、大学院の2年生の時に、修士の2年生の時に、私を指導してくださってた先生から、あなたは博士課程に行くのはやめなさいと。能力がないって言われ。
え、そんなストレートに。
今から言うと本当にありがたいアドバイスだったと思います。当時はですね、博士号を取ったけども就職がないっていう人が研究室の先輩にゴロゴロいたんですよ。大学のポストって少ないですから。で、当時は企業も博士を取った人を新卒で取るという状況じゃなかったですから。博士号は取ったけれどもどっかの大学の先生のポストにありつけなくてゴロゴロしてるっていう人がたくさんいて。で、私の大学の先生は、君はああなりたいかって、悪いこと言わんから就職しろっていう。
何系の分野を学ばれてたんですか?
私は物理です。東工大の物理学科という物理系の学科で。やっていたことは原子ですね。我々を、こう物質を構成してる最も基本的な原子の形が、本当は球形じゃないんですね。こう平べったいパンケーキ型してたり、ラグビーボールのようにとんがった形してたり、色々あるんです。こう動いてるんですけど、実は。
で、その原子が大体どんな形をしてるのかとか、正確な質量、原子の質量を測る。そういう研究をして、結構いい修士論文書いたんですよ。今でも色々引用されるような。
大学とかってやっぱ勉強も結構トップクラスにできたりとかってあったんですか?
高校までは。
高校まではトップみたいな感じで。
で、大学に行って私はその自信をへし折られました。やっぱり全国から優秀なやつが集まってました。おこがましい言い方ですけども、自分が優秀だと思ってちょっと自信持ってたんだけど、その自信をへし折られるような優秀なやつが世の中にはたくさんいるなっていうことに気がつきましてですね。ちょっと傷つきましたですね。大学の初めの頃はね。そういうこともあったんで、大学での成績はそんなに良くなかったんですが、それでも大学研究者目指して大学院まで行ったんです。
ってことは博士には行かれずに修士の時点で就活をされたってことですか?
そういうことです。
どういうところを志望してたんですか?
それがですね、これ昭和51年という、今からちょうど50年前ですが、第2次オイルショックっていうのがありましてね。
教科書で。そう、歴史の教科書ぶりに聞きましたね。
具体的には就職難の時代の始まりなんです。例えば昭和50年は、高度経済成長がずっと続いてて、その後私が入る清水建設で言えば1年にいわゆる総合職を500人、600人取ってた。それが急にもう今年の採用計画は10人ですと。
あ、そんなにやったんですか?
もうほとんどの大手が就職を絞る。数年間だけ本当に入社してくる人が少なくて、人事上変な、いびつな構造になってると。本当にそういう意味では先生からもう大学院に行く能力ないよと言われ、博士課程に行く能力ないよと言われ、かといって就職活動したらどこからも相手にされず。本当に苦労しました。私最終的には清水建設で採ってもらったんですが。
いや、すごいですよね。
すごいくらい本当に偶然が重なってですね。偶然が重なって、清水もぐっと絞ってたんですけれども、その頃ちょうど超高層ビルをたくさん建設しようという時代の始まりで、で、超高層ビルの耐震性、安全性の最もクリティカルなところは実は鉄骨の溶接部なんです。
鉄骨を入れます。その時に1つ1つ部分的に作ったものを溶接で繋ぎ合わせて高くしていくわけですね。その溶接したところがきちっと接合されてるかどうか。簡単な言葉で言えばくっついてるかどうか。地震の時にそこには引っ張り力が働くわけです。引っ張りだったり圧縮だったり。その時にしっかりとした溶接が行われているかどうかがビルがちゃんと地震に耐えられるかどうかのポイントなんですね。
それを検査する手法、ちゃんとこの溶接は行われてるかどうかと。そういう研究をさせる必要がある。というその研究で物理を出たものをちょっと採用しようという話が清水建設の研究所にあって、たまたまその話が東工大の建築学科の構造の先生から物理の私の先生のところに、つまり私に博士課程に行く能力はないからやめろと言った先生のところに来て、斉藤君こんな話があるけどどうだって言って、そこに行って話をさせてもらったら、じゃあ鉄骨や鉄筋の接合部の安全性をチェックする試験方法を開発するということで物理出身の人間を取ろうということで採用させてもらい。
すごい。
本当にね、偶然に偶然が重なって就職できたんです。
それで清水建設入られて、その途中でプリンストンに行かれてるんですよね。どういう経緯で行かれたんですか?
こういう検査方法を開発しろというテーマをもらって会社に入りました。で、10年間かかりまして、検査方法を開発しました。
すごい。
で、その検査方法は実は今でも使われてるんです。日本工業規格になって。今でも使われてます。超音波を使う方法なんですけれども。それで実は博士号もそのことで論文を書いて、だから博士課程に行かなくても会社でやった仕事を論文にして、それを東工大に出して、それで博士号を認めてもらって。
すごい。給料もらいながら。すごい、すごい、本当に。
それで10年間研究して一旦の成果出したもんですから、ちょうどその頃は、先ほどの就職難の時代からまた逆に景気のいい時代に戻ってました。会社も景気が良くて、会社の中に留学制度があったんです。2、3年好きな勉強してこいというのがあって、もちろん社内の試験に通らないと行かしてもらえないんですが、その試験を受けてプリンストン大学のプラズマ物理研究所というところに3年間行かしてもらい。
それって何人ぐらい行けるんですか?その試験突破できるのは何人ぐらいなんですか?
毎年1人か2人でした。
すごい。
なんか開発されたその溶接をチェックする手法、あれって名前とかついてたりするんですか?
私がやった手法は鉄筋ガス圧接部の超音波探傷法という方法で、本も出しましたし、それから今でも日本工業規格で使われております。
すごいですね。すごい。
実際このビルも、その方法で鉄筋も鉄骨もそういう超音波を使って安全性が確かめられてこのビルが立ってますから。大丈夫です。
国会議事堂も?
大体基本的に全ての建物がそうです。これ日本の安全守ってるって言っても過言じゃないですよね、本当に。
清水建設って当時って働き方とか結構大変でした?ちょっとその勤務時間だったりとか残業時間とか結構大変なイメージがあるんですけど、実際働いてみてきつかったなとか、それともなんか楽しかったなっていうとどっちだったんですか?
いや、研究所でそういう研究させてもらいましたんで、当時はですね時間とか関係ないんですね。朝来て研究して。
ああ、そう。完全に研究者というか。
研究者という感じでした。
プリンストンでも研究者として?
プリンストンでも研究者として。で今度はその私がやってきた建築の安全性ということと全く離れて、次の時代のエネルギー、核融合、フュージョンエネルギー。
これはですね、今の原子力がウランという重たい大きな原子が分裂し、核分裂した時に出るエネルギーを使うのに対して、水素と水素が一緒になってヘリウムになる、軽い原子が一緒になって核融合してヘリウムになる。その時にまたエネルギーが出るんです。という全く新しい考え方で、実は太陽、もう何億年も燃え続けてるあの太陽も実は核融合エネルギーなんです。だからそういうものを地上に作ればエネルギー問題から解放される。
核分裂の場合、ウランというのはあまりたくさんないですけどね。まあまあ、これは少しのウランですごいエネルギーが出てくるから、資源的には十分なんですが、ただ重たいものが分裂した、その分裂してできたものが核分裂生成物と言いますが、これが高レベル放射性廃棄物です。原子力が放射性の高い廃棄物を出すという、その原因なんですが、水素と水素がくっついてヘリウムになってもこれは放射性物質でありませんから、そういう意味で基本的に安全で、水素ってどこにでもありますから。そういう研究をプリンストンではしてまいりました。
で、当時はですね、1年研究するとその核融合の難しさが分かって実現が2年延びるっていうね、なんか難しさの研究をしてるみたいでしたけれども、今はその後ずっと研究が進んできて、なんとか私たちが生きてる間に核融合炉で電気を起こす、そういう時代になればいいなと。クリーンエネルギーで、ある意味で環境に優しくて、無尽蔵にあって、資源の偏在性がない。日本のような国に最も適したフュージョンエネルギー、これを是非実現したいと。
それってその政策的にもそういうの含めてたりするんですか?
今回も我々もそういう政策、科学政策ということも打ち出していきたいと思ってます。
プリンストンは卒業したことになるんですか?あれって。
私はその、もう博士号を取ってから行ったもんですから卒業すべきコースがないんですね。ですから研究員、プリンストン大学プラズマ物理研究所の客員研究員ということで、教授と同じぐらいの部屋を1ついただいて、1研究員として遇されて。
それは3年間ぐらい?
3年間。
で、そっからもう1回清水建設に帰ってくるってことですか?清水建設って合計何年いらっしゃったんですか?
17年おりました。アメリカにいた3年間も含めて17年おりました。
最終的な役職ってどんな感じなんですか?
主任研究員っていう、清水建設技術研究所の主任研究員っていう。主任研究員は課長クラスです。
そっからなんで清水建設を退職される流れになるんですか?
もちろん博士号まで取らしてもらって、海外留学までさしてもらったんで。
いや、会社としてはもうちょっといてほしいですよね。
清水建設で一緒に頑張っていこうということだったんですけれども、直接の契機は、私が40歳の時に清水建設に帰ってきて、これから清水建設でその核融合施設も含めてですね、研究をしていこうと思ってた時に、公明党から、広島に帰って、私が高校の時にいた広島に帰って衆議院選挙に出ないかという話がありました。
その話を持ってきたのは塩出さんという公明党の当時副委員長、副代表みたいな立場の方が、実は私がプリンストンにいる時にその方が参議院の科学技術特別委員会の委員長としてプリンストンのそのプラズマ物理研究所を視察に来られて、私がその相手をしたんです。という出会いがあり、その方が広島から衆議院議員の候補を出さなきゃいけないという時に私のことを思い出して私に声をかけてきてくれたと。
でも今までの人生で政治と接点ってあんまりなくないです?
全くありませんでした。
でもやっぱり出ようって思ったんですね。
正直悩みました。悩んだ1つの大きなポイントはですね、やっぱり研究者って、20代、30代はバリバリやって、私も論文書いて博士を取ってアメリカ行ってということだったんですが、この30代後半から40に差し掛かる頃になると、やっぱりそれはそれでまた若手がどんどんどんどん伸びてくるんですね。研究者としての競争社会です。そういうことをこれからもずっと続けていけるかどうかという、研究者としての力に悩んでたという時期ともちょうど重なり、でそういう時期に、今までの研究成果やアメリカでの経験も踏まえて、それを政治の世界で生かさないかという話を聞いた時に飛び込んでみようとしました。
1発目の選挙で当選されたんですか?
1発目の選挙はですね、なんと岸田文雄さんと同じ選挙で。岸田さんも初挑戦。当時はですね、選挙区が大きくてですね。1つの選挙区で、私、広島の場合は4人当選すると。そういう広島1区という選挙で、岸田さんも初めて出る、で、私も初めて出るということで、当選同期です。
どっちが勝ったんですか?
断トツのトップが岸田文雄さん。12万5000票。で、私は2万票離されて10万5000票。
でもすごいですね。10万。
私で2位当選。
2位当選。すげえ。
で、国会議員になられてから、環境大臣とか国土交通大臣とかも経て、1番思い出に残ってることとかあったりします?印象的だったこととか。
いっぱいありますけれども、やはり環境大臣の時は環境政策を進めよう、地球温暖化対策をやっていこうということでエコポイント制度というのをね。環境性能のいい電気製品を買うとポイントがつきますっていう。今はそういうのいっぱいありますけど、当時としてはなかなか新しい手法だったんです。そのエコポイント制度をやったこと。
国交大臣として?
国土交通大臣でやりましたけども、色々あったんですけれども、一昨年になりますが、一昨年の正月、今からちょうど2年前です。能登半島地震がありました。これが元旦の大地震でして、急遽国土交通省に集まって対策を練っていたんですが、その翌日、羽田空港で海上保安庁の飛行機、海上保安庁というのは国土交通省の所轄なんです。私が責任者だったんですが、その海上保安庁の飛行機とJALが衝突をして炎上します。
私はその炎上してる第一報を見た時に、これは厳しいなと思ったんですが、JAL機全員脱出、無事という報告を聞いた時は本当に床に崩れ落ちました。
ああ、良かった。
海上保安庁の方は職員の方が亡くなり、私の部下でしたから、そのことも大きなショックでしたけれども、もう2度とこういう事故を起こさない。空港の運営も国土交通省の責任です。海上保安庁も国土交通省の責任です。そういう意味で2度とこういう事故を起こさないために対策をしっかり打っていこうというのが。他にもいっぱいある。
そうですね。僕は1個って言っちゃった。で、その、自公連立解消って、代表でいらっしゃいました。
あ、じゃあその決定をされたってことです。その理由とかってお聞きしても大丈夫なんですか?
一昨年の衆議院選挙で、自民党、公明党、与党は大敗しました。そして昨年7月の参議院選挙でも自民党、公明党は大敗しました。与党が国民の皆様から信任を失った、信頼を失ったのだと我々は考えました。ですからその信頼を回復させるためにどうしても、その信頼を失った1番大きな原因である政治とカネの問題についてしっかり規制を強化します、2度とこういう問題は起こしませんという制度改正をしっかり国民の皆様にお約束するということでなければ、我々公明党はもう一緒に自民党さんと連立政権を組んでいくことはできませんと。
特に公明党は清潔な政治っていうのが党の原点ですので、そういう意味でもこの点では譲れませんということで、例えば企業団体献金の規制を強化する、この是非ということだったんですけれども、高市新総裁から明確な答えがなかったので、もう連立離脱をするという決断をさせていただきました。
でも代表でいらっしゃったわけですけど、その代表になられた経緯とかもお聞きしてもいいんですか?
その一昨年の衆議院選挙、10月にありました。石井代表、代表になったばかりだったんですけど、石井啓一さんがその衆議院選挙で落選をしました。で、やっぱり代表が落選をし、衆議院議員ではいられなくなるということで代表辞任をする。その後に私が石井代表の代わりとして急遽代表になったということです。
急に指名され、急になった、急に。それってあれです?党の中で指名されるみたいなイメージなんですか?代表。
本当はいつも2年に1度大会を開いて、そこで立候補者が複数名あれば選挙をして決める。もし1名であれば、全国から代議員が集まって承認をして決める。こういうプロセスが必ず必要ですが、前回のような場合には、臨時に少人数の代議員が東京に集まって決めるということも許されております。その場で指名をされて私が代表になりました。
で、今回その公明党を離党されて新しい党を結成されるってことじゃないですか?この理由もお聞きしてもいいですか?もう一番気になるとこです。もうここまで1番気になる。
今世界は本当に厳しい状況です。まず分断と対立、これをエネルギー源にして自分の政治勢力を増やしていこうと、そういう時代状況がございます。そういう状況の中にあって、本当は私たち中道のグループがしっかり真ん中にいて、分断と対立ではなくて合意形成を図っていく、皆さんの意見を尊重しながら意見を聞いて1つの方向性を導いていくということが非常に大切。それを我々は中道と呼んでいます。その中道の塊を作っていこうと。
で、昨年、先ほど連立離脱をした時に、公明党のこれからの生き方は中道改革の軸になるという大きな方針を出させてもらいました。いろんな党の方にお話をしてたんです。立憲民主党の方、国民民主党の方から自民党の方にもですね、いわゆる穏健保守と言われる、我々中道の考え方に近い方々、たくさんいらっしゃいます。そういう方々にも話をし、いずれこういう塊を作っていきましょうねと。
こういう話をしていたところなんですけれども、急に解散という話になりまして、我々が話しかけていた方の中から特に野田さん、立憲民主党の野田さんが、その公明党の考え方は非常によくわかると、中道の塊を増やしていかなきゃいけないと。
で、立憲民主党も重大な政治決断、政治生命をかけて決断すると。それは立憲民主党を離党して新しい党を作って、で、公明党からも公明党を離党して新しい党を作って、その中道の考え方に賛同する議員たちで新しい党を作って新しい中道の流れを作っていこうと。こういう提案があり、野田さんがそこまで政治決断をされたということに対して、私たちもみんなで話し合いまして、我々も新しい政治の流れを作っていこうという決断をさせてもらったという、非常にコンパクトに詰めて。長くなりましたが、それなりにコンパクトにしていた。
ありがとうございます。じゃ、最後にですね、このチャンネル、20〜30代ぐらいの若者が視聴者なんですけど、そこに対して何でもいいんで、最後一言もらえますか?
今度新しく作った党、中道改革連合、略して中道は、中道の考え方を政治で実践するというものですけれども、今の時代に即していえば、生活者ファーストと言っています。若い人たちが今悩んでらっしゃること、就職のこと、暮らしのこと、そういうことにしっかりと答えを出せる政治だと思っています。
例えば食料品が高い。これに対しては私たち、食料品の軽減税率、これを0にする。0にするだけでは、これ赤字国債でやったら金利が高くなって今度は家が買えなくなるとか、他の物価高を招いてしまいます。そういうことではなくて、赤字国債ではなくて財源を用意する。その財源についても私たちは今回、政府系ファンド、政府が持ってる資産を運用して、そこから財源を生み出して、税金にはよらない。そういう形で、社会保険料、今多くの若い現役の方々が苦しんでらっしゃる社会保険料を下げる、そういう政策。
中道改革連合っていうと、ええ、いかつい名前だった。ちょっと昭和のおじさんたちが作った名前じゃないかと言われておりますが、その思いはまさに今の若者世代と同じ危機感、また、この若い世代の方々が大きくこれから日本を引っ張っていっていただける、そういう環境を作ることに目的がございますので、是非中道へのご支援をお願いしたいというのが私の願いでございます。
今日はお忙しい中ありがとうございました。ありがとうございました。
だけなのに この町の空に こんな時代のそばに もいなくて
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