島根の山村から原子の研究、清水建設、プリンストン、そして中道改革連合へ:斉藤鉄夫が語った経歴と新党の理由

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概要

公明党代表の斉藤鉄夫は、立憲民主党の野田佳彦と新党「中道改革連合」を結成したばかりの時期に、このインタビューに応じた。話は島根の山村での幼少期から始まり、研究者を目指した学生時代、清水建設での技術開発、プリンストン大学での核融合研究、政界入り、大臣経験、自公連立の解消、新党結成へと進む。斉藤は、右でも左でもない「中道の塊」を作ることが、暮らしを守り、日本を平和国家として保つために必要だと主張する。

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「中道改革連合」という名前と、中道の中身

冒頭で聞き手は、新党の名前がいかつい印象だと率直に伝えた。斉藤によると、略称として「中核連」と呼ばれることもあるが、党としての略称は「中道」である。爆笑問題の太田光からは「暴走族のような名前」と言われたという。斉藤は笑いながら、「昭和のおじさん代表」である野田と自分が一生懸命考えた名前で、ほかの意見も聞いたがおじさん世代が多かったのでこうなったのかもしれない、と説明した。

では「中道」とは何か。斉藤は今の時代に当てはめて、2つの柱を挙げる。1つは、生活している一人ひとりの暮らしを大切にする「生活者ファースト」。もう1つは、人が人生を懸命に生きるための前提になる日本の平和を守ることだ。この2つを現代における中道の考え方と位置づけ、それを実現する新しい政治グループだと述べた。

戦後7年の山村で、獣医の父についてまわった子ども時代

斉藤は昭和27年、島根県と広島県の県境近くにある山奥の村で、農家の次男として生まれた。兄と姉がいる。戦争が終わって7年しかたっておらず、生まれた場所は広島市に近い山の中である。原爆投下後の広島にまだ爪痕が残る時代に、自分は元気に野山を駆け回っていた、と振り返る。

当時の農家には農機具がなく、田を起こす労働力は牛だった。各家に牛がいて、父はその牛を診る獣医だった。斉藤は父のオートバイの後ろに乗り、村で牛のいる家にはほとんど行ったことがあるという。

それでも獣医を目指そうとは思わなかった。父が牛のお尻に手を入れると、牛が小便をし、続いて大きな糞が出て、父は糞まみれになる。大人になってから聞くと、それは妊娠の検査だった。当時の農家にとって子牛が生まれることは、ほぼ唯一と言ってよい現金収入の手段だったので、大切な仕事だったという。しかし子どもだった斉藤は、糞まみれの父を見て「決して獣医にはなるまい」と決意したと笑って語った。人間と牛が同じ屋根の下で暮らす、貧しい農家が多い中山間地域だったという。

週刊誌のグラビアを見て、中学3年で広島へ

斉藤が通った村の中学校では、半分以上の生徒が卒業後そのまま就職した。塾も家庭教師もなく、習い事をしようにも先生がいなかった。

転機は中学2年のときに来た。都会に出かけた父が週刊誌を買ってきた。そのグラビアには、都会の子が塾という狭い場所で夜遅くまで勉強し、いい高校やいい大学を目指す姿が載っていた。斉藤はこれを見てなぜかひどく焦り、父に「俺も都会に出て勉強したい」と頼んだ。父はすんなり認め、斉藤は中学3年で一人広島に出て、親戚の家に居候しながら高校受験に臨んだ。

進学したのは修道高校である。聞き手が新党の「中道」と似ていると冗談を言うと、斉藤は「そこから取ったわけではない」と答えた。広島に出てみると、都会の子がグラビアほど必死に勉強しているわけではないと気づいたが、志を持って出てきた以上は勉強しようと努力した。得意科目は数学と理科、とくに物理で、国語と英語は苦手だった。

鉄道は子どものころから好きだった。名前の「鉄」は鉄道とは関係がない。兄も姉もあまり丈夫ではなかったので、強い子にしたいと父が付けた名前だという。村にはローカル線が走っていた。駅に立つとレールが伸び、その先に都会がある。当時の田舎の子にとって、都会は自分の将来そのものだった。レールの先に自分の未来があるという思いから、鉄道にロマンを感じたと語る。

銭湯で倒れ、片耳の聴力を失う

撮影前、斉藤は片方の耳が聞こえないと話していた。聞き手がその理由を尋ねると、高校時代の出来事を説明した。

広島では三畳一間に居候していて、風呂がないので銭湯に通っていた。昭和40年代の広島の銭湯では、入れ墨をした客をよく見かけ、湯の温度はおそらく44〜45度ほどあったという。熱い湯に長く浸かって上がったとき、意識を失って倒れた。気づいたときには寝かされていた。内耳が破裂したようで、それ以来その耳は聞こえない。平衡感覚も失い、バランスが取れない状態が2〜3か月続いてずっと寝ていた。平衡感覚はしだいに戻り、今は右耳の三半規管だけで平衡を保ち、音も右耳だけで聞いているという。病名はメニエール病と言われた。

全共闘の時代に創価学会へ

斉藤は高校2年のとき、広島で一人暮らしをしていた時期に創価学会に入った。一番の理由は、先に入会していた兄に勧められたことで、いわゆる2世ではない。

当時は学生運動の最盛期だった。修道高校は広島大学のすぐ隣にあり、その影響で校内にも全共闘ができて学校が封鎖され、しばらく授業ができなかった。全共闘の学生たちは「お前は何のために勉強しているのか」と問いかけてきた。「自分の人生のため」と答えられる雰囲気ではなく、多くの生徒が迷っていた。斉藤は、その問いへの答えを見つけたいという思いもあって入会したと語る。

ただ、入会直後に聴力を失う出来事が起きた。斉藤は正直に言えば「信仰活動を始めたのにいいことがないじゃないか」と思ったという。それでも兄や周囲から、こういうときこそ信仰の力が必要で、何があっても負けない力をつけるのが信仰の目的だと言われ、一生懸命やってみようと考えた。そのうえで全共闘の問いへの自分なりの答えも見えてきた。社会は自分一人の幸せだけを求めても幸せにはならず、多くの人が幸せになって初めて自分も幸せになれる。そういう社会を作るために勉強するのだ、という目的意識が生まれたという。

東工大、原子の研究、「博士課程に行くのはやめなさい」

大学は東京工業大学(現・東京科学大学)に進んだ。国立大学で数学と物理の配点が高く、英語と国語の比重が低かったため、自分の学力に合っていたと説明する。

もっとも、高校まではトップクラスだった自信は、大学で折られた。全国から集まった優秀な学生を見て、自分よりできる人間が世の中にはたくさんいると気づき、傷ついたという。大学の成績はあまり良くなかったが、それでも研究者を目指して大学院に進んだ。将来は大学教授になり、ノーベル賞を取るくらいの研究をしたいという若い情熱があった。

専攻は物理である。物質を構成する基本的な粒子である原子は完全な球ではなく、平たいパンケーキ型やラグビーボールのように尖った形をしているものがある。斉藤はその形や正確な質量を測る研究をした。修士論文は今でも引用されるような、かなり良いものが書けたと本人は語る。

それでも修士2年のとき、指導教員から博士課程に進むのはやめるよう言われた。当時は大学のポストが少なく、企業も博士を新卒で採る状況ではなかった。研究室には、博士号を取ったのに就職先がない先輩が大勢いた。先生は「ああなりたいか、悪いことは言わんから就職しろ」と助言した。斉藤は、今思えば本当にありがたいアドバイスだったと振り返る。

就職難の中、偶然が重なって清水建設へ

就職活動は昭和51年ごろ、斉藤の言葉では「第2次オイルショック」の後で、就職難の時代の始まりだった。斉藤によると、後に入社する清水建設は、前年まで総合職を年に500〜600人採用していたが、その年は10人になった。多くの大企業が採用を絞り、どこからも相手にされなかったという。

清水建設に入れたのは、偶然が重なった結果だと斉藤は強調する。ちょうど超高層ビルの建設が増え始めた時期だった。超高層ビルの耐震性でいちばん重要なのは、鉄骨の溶接部である。部材を溶接でつなぎながら高くしていくため、地震で引っ張りや圧縮の力がかかったときに接合部が確実につながっているかどうかが、ビルが地震に耐えられるかどうかを左右する。清水建設の研究所は、その検査手法を研究させるために物理出身者を採りたいと考えていた。この話が東工大の建築学科の構造の先生から、物理の指導教員、つまり博士課程に行くなと言った先生のもとに届き、斉藤が紹介された。

入社後、斉藤は鉄筋や鉄骨の接合部の安全性を確かめる試験方法の開発に10年を費やした。完成した「鉄筋ガス圧接部の超音波探傷法」は日本工業規格(JIS)になり、今も使われているという。本も出版した。斉藤は、この収録場所のビルも国会議事堂も、そうした超音波の方法で安全が確かめられて建っていると述べた。この成果を論文にまとめて東工大に提出し、博士号も取得した。博士課程に進まなくても、給料をもらいながら博士になれたわけである。

働き方については、研究所だったので時間は関係なく、朝来て研究するという完全に研究者の生活だったと語った。

プリンストンで核融合を研究する

10年の研究で一区切りの成果が出たころ、景気は回復し、会社には2〜3年好きな勉強をしてよい留学制度があった。社内試験の合格者は毎年1〜2人である。斉藤はこれに通り、プリンストン大学のプラズマ物理研究所に3年間派遣された。すでに博士号を持っていたので修了すべき課程はなく、客員研究員として教授並みの個室を与えられ、研究員として扱われたという。

研究テーマは建築の安全性から離れ、次世代のエネルギーである核融合(フュージョンエネルギー)になった。斉藤の説明では、現在の原子力は重いウランが核分裂するときのエネルギーを使う。ウランは資源としては十分だが、分裂してできる核分裂生成物が高レベル放射性廃棄物になる。一方、核融合は水素と水素が合わさってヘリウムになるときにエネルギーが出る仕組みで、何億年も燃え続けている太陽もこのエネルギーで輝いている。ヘリウムは放射性物質ではないので基本的に安全であり、水素はどこにでもある。

当時は、1年研究すると核融合の難しさが分かって実現が2年延びるという状態で、難しさを研究しているようだったと斉藤は振り返る。その後研究は進み、自分たちが生きているうちに核融合炉で発電できる時代になればいいと語った。環境に優しく、資源が無尽蔵で偏在しない核融合は日本のような国に最も適しており、ぜひ実現したいという。新党でも、こうした科学政策を打ち出していきたいと述べた。

清水建設には、米国での3年間を含めて17年在籍した。最終的な役職は技術研究所の主任研究員で、課長クラスである。

40歳での政界入り:プリンストンでの出会い

博士号も留学も会社の支援で得たので、会社としては残ってほしかったはずだと聞き手が言うと、斉藤もそうだったと認めた。帰国後は核融合施設も含めて清水建設で研究を続けるつもりだった。そこへ40歳のとき、公明党から、高校時代を過ごした広島に戻って衆院選に出ないかという話が来た。

話を持ってきたのは、当時公明党の副委員長だった「塩さん」である。この人物は参議院の科学技術特別委員会の委員長として、プリンストンのプラズマ物理研究所を視察に来たことがあり、そのとき斉藤が案内役を務めた。広島から衆院候補を立てる必要が出たとき、斉藤のことを思い出して声をかけたという。

それまで政治との接点はまったくなく、斉藤は正直悩んだ。研究者は20〜30代にはバリバリ仕事をするが、30代後半から40歳にさしかかると若手がどんどん伸びてくる。競争社会の中でこれからも研究を続けていけるか、自分の研究者としての力に悩んでいた時期と重なった。そこで、これまでの研究や米国での経験を政治の世界で生かさないかという誘いを受け、飛び込むことにした。

初めての選挙は、岸田文雄と同じ選挙だった。当時の広島1区は4人が当選する中選挙区で、岸田も初挑戦だった。トップ当選は岸田で、斉藤はそこから約2万票離された10万5000票で2位当選した。二人は当選同期である。

環境大臣のエコポイント、国交大臣として迎えた羽田の事故

大臣経験で印象に残ったことを問われると、斉藤はまず環境大臣時代のエコポイント制度を挙げた。地球温暖化対策として、環境性能の良い家電を買うとポイントがつく仕組みである。今は似た制度が多いが、当時としては新しい手法だったという。

国土交通大臣としては、2年前の正月の出来事を語った。能登半島地震が起き、国交省に集まって対策を練っていた翌日、羽田空港で海上保安庁の航空機と日本航空機が衝突し、炎上した。海上保安庁も空港運営も国交省の所管で、斉藤が責任者だった。炎上の第一報を見て厳しいと思ったが、日航機の乗客乗員が全員無事に脱出したという報告を聞いたときは、本当に床に崩れ落ちたという。一方、海上保安庁の職員は亡くなった。自分の部下だったことも大きなショックだったと述べ、二度とこうした事故を起こさないよう対策を打つと決めたと語った。

急な代表就任と、自公連立の解消

斉藤が代表になったのは急なことだった。一昨年10月の衆院選で、代表に就いたばかりの石井啓一が落選し、衆院議員でなくなったため代表を辞任した。その後任として斉藤が急きょ就任した。通常は2年に1度の党大会で、立候補者が複数いれば選挙、1人なら全国から集まった代議員の承認で決める。ただ、このような場合には少人数の代議員が臨時に東京に集まって決めることも認められており、その場で斉藤が選ばれたという。

連立解消の理由について、斉藤は次のように説明した。一昨年の衆院選でも、昨年7月の参院選でも、自民・公明の与党は大敗した。与党は国民の信任を失ったと公明党は受け止めた。信頼を取り戻すには、最大の原因である「政治とカネ」の問題で規制を強化し、二度と起こさないための制度改正を国民に約束しなければならない。公明党は清潔な政治を党是としているので、この点は譲れない。例えば企業・団体献金の規制強化について答えを求めたが、高市新総裁から明確な答えがなかったため、連立離脱を決断したという。

分断と対立ではなく合意形成を:新党結成の経緯

公明党を離れて新党を作る理由は、聞き手が「一番気になるところ」と前置きして尋ねた。斉藤は、今の世界は分断と対立をエネルギー源にして自分の政治勢力を増やそうとする状況にあると述べる。その中で、中道のグループが真ん中に立ち、さまざまな意見を尊重して聞きながら一つの方向を導く「合意形成」を図ることが大切だという。これを斉藤たちは中道と呼んでいる。

連立を離脱した際、公明党は「中道改革の軸になる」という方針を打ち出した。斉藤は立憲民主党、国民民主党、さらに自民党内の「穏健保守」と呼ばれる、中道の考え方に近い議員たちとも話をし、いずれこうした塊を作ろうと呼びかけていた。そこへ急に解散の話が持ち上がった。話をしていた相手の中で、とくに立憲民主党の野田が、公明党の考え方はよく分かる、中道の塊を増やさなければならないと応じた。野田は政治生命をかけた決断として、立憲民主党と公明党のそれぞれから中道の考え方に賛同する議員が離れ、新しい党を作ることを提案した。野田がそこまで決断したことを受けて、公明党内でも話し合い、新しい政治の流れを作る決断をしたと斉藤は説明した。

若い世代へ:食料品の消費税ゼロと財源の考え方

最後に、20〜30代が中心の視聴者に向けた言葉を求められると、斉藤は「生活者ファースト」の具体例として経済政策を挙げた。食料品の価格が高いことに対し、食料品の軽減税率をゼロにする。ただし赤字国債でまかなえば金利が上がり、家が買えなくなったり、ほかの物価高を招いたりする。そこで赤字国債には頼らず、政府が持つ資産を運用する政府系ファンドを作り、そこから税金に頼らない財源を生み出す。こうした形で、多くの若い現役世代が苦しんでいる社会保険料も下げるという。

斉藤は、「中道改革連合」はいかつい名前で、昭和のおじさんたちが作った名前だと言われていると認めた。そのうえで、込めた思いは今の若い世代と同じ危機感であり、若い世代がこれから日本を引っ張っていける環境を作ることが目的だと述べ、中道への支援を呼びかけてインタビューを締めくくった。