空手道場の息子から与党・日本維新の会の共同代表へ:藤田文武が語った寄り道だらけの経歴

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概要

日本維新の会の共同代表・藤田文武が、ゲストの高田ふーみんとともに、幼少期から現在までの歩みを振り返った。政治家の家系ではない自営業の家庭に育ち、高校では単位を落とし、就職活動では電通の最終面接で落ち、留学先の学校は途中でやめ、起業では在庫を抱えた。それでも40歳で党の幹事長になり、自民党との連立交渉では前線を担った。本人は「経歴はあまり参考にならない」と言うが、失敗の場面とそこから変えたことを具体的に語っている。

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「共同代表」という役職の仕組み

冒頭で藤田は、自身の肩書きについて説明した。通常、政党の代表は国会議員が務める。維新は地方議員や首長も含めて代表を選ぶ仕組みのため、国会議員ではない吉村洋文が代表になっている。そのため国会側の代表として藤田が就き、その立場が共同代表になるという。

厳しい父と空手道場

藤田の家族に政治家はいない。父は自営業で、藤田は父を「昭和の頑固親父」のような人物と表現する。父はよく「日本はこう変わるべきだ、お前はこうしろ」と語り、藤田はその影響を受けたという。

父は兄である藤田のおじと空手道場を始め、道場は10拠点ほどに広がった。藤田は3歳から空手を「やらされて」おり、本人は嫌だったと話す。団体のトップがおじ、ナンバー2が父だったため、その息子として厳しく扱われ、大会で準優勝すると強く叱られた。ただ、その結果「めっちゃ強くなった」ことと、礼儀を身につけられたことは評価しており、空手は中学まで熱心に続けた。

中学では担任の勧めで遊びとしてバスケットボールも始めた。高校に入ると、バスケ部で一つ上の副キャプテンだった先輩がラグビー部にもいて、半ば強引に入部させられた。これを機に空手はやめ、ラグビーに移る。

四條畷高校で単位を落として卒業

進学先は大阪の進学校、四條畷高校である。中学では2〜3年から塾に通い、勉強は「割とできた方」だったという。ところが校風が自由だったこともあり、高校では授業中ほとんど寝ていた。1年生のテストは良かったが成績は下がり続け、400人ほどの学年で380位より上に行ったことがないと話す。赤点の基準は40点以下で、何度追試を受けても超えられず、2単位を落として卒業した。3つまでなら卒業できるぎりぎりの状態だったという。

のちに母校で教員をしたとき、当時を知る教員から「単位を落として卒業したとんでもないやつ」と言われた。真面目な学校なので、単位を落として卒業する生徒はほとんどいなかったという。ラグビーのせいかと聞かれると、当時は公立校でそれほど強くなく、「ラグビーに打ち込んでるふりをして勉強が全然できなかった」と答えている。

ポジションはフランカーで、スクラムの後方から走ってタックルする役だった。大学時代は体重90kg弱、ベンチプレス130kg、スクワット250kgほどで、体脂肪率も1桁を記録したことがあるという。現在の体重は70kg台と話している。

浪人1年で筑波大学へ:模試1位とセンター9割

大学は筑波大学の体育専門学群に進んだ。高校のラグビー部の先生が筑波大ラグビー部の出身で、その縁がきっかけだった。藤田によれば、国立大学で体育学部を持つのは2校しかない。入試はセンター試験と筆記に加えて3種目の実技があり、藤田はメインのラグビーに柔道と陸上を組み合わせた。

現役では前期・後期とも不合格になり、浪人中は河合塾に通って朝から晩まで勉強した。運動は体がなまらない程度にとどめた。最初は伸びなかったが次第にコツをつかみ、秋ごろからは模試でずっと1位だったという。センター試験は現役時に6割ほどだったのが、本人の記憶では9割3分ほどまで上がった。「当時は易しかったとはいえ」と自分で断りを入れている。

主務として部の上下関係を仕組みで変える

大学生活の比重を10で表すと、ラグビー5、勉強3、飲み会2だったという。成績は悪くなかったと振り返る。

藤田が「真面目な話」として挙げたのが、ラグビー部で主務を務めた経験だ。プレーのリーダーである主将に対し、主務は対外試合の調整、大学本部やラグビー協会とのやり取り、グラウンドの確保など、マネジメント全体を束ねる。藤田は選手も続けながら主務を担った。

当時のラグビー界には、1年生がミスをすると上級生が「こら」と叱る慣習があった。藤田はこうした理不尽な上下関係をやめるために仕組みを作った。1年生は作業を担うが、2年生がそれを補助し、3・4年生が責任を取る。1年生のミスは4年生の責任になる形に変えたところうまく回り、その仕組みは今も部で引き継がれているという。

一方で、卒業論文では担当教員を激怒させた。本来は研究内容を事前に相談し、教員の名前でアンケートを取る許可を得るべきところを、面倒に感じて勝手に書き、教員の名前も使ってアンケートを配った。「君はどういうつもりなんだ」と叱られたが、論文としては形になっていたため卒業はできた。その教員とは後に和解し、今も親しくしているという。

就職氷河期と電通不合格、そして父の一喝

藤田は就職氷河期の最後のほうの世代で、エントリーシートを200〜300社に出し、まず8割は落ちたという。体育会なら有利では、という高田の問いに、今はそうだが当時は違ったと答えている。

本命の電通では最終面接まで進み、「君、最高だね」と言われて手応えを感じたが、結果は不合格だった。内定は3社ほどから得たが本命ではなかった。そこで考えたのが、卒業論文だけ提出せずに「隠れ5年生」として残り、もう一度電通を受ける方法だった。当時は一度卒業すると就職しにくく、そうする学生が多かったという。

これを父に伝えると、父は「お前はプライドがないのか」と言った。自分を落とした会社のために1年を費やし、もう一度頭を下げて入れてもらうのは恥ずかしくないのか、すぐ卒業してフリーターでもして稼げ、という叱責だった。藤田は「その通りやな」と感じ、その道をやめて留学を目指すことにした。

体育教師としての1年:家庭環境と学力の差を見た

留学資金を貯めるため、藤田は1年間、非常勤講師として高校で保健体育を教えた。体育学部で教職課程の単位を取っていたので免許は持っていた。最初は母校の四條畷高校で、ラグビーのコーチも兼ねた。途中で近隣の学校に欠員が出るたびに担当が増え、夜間の定時制、枚方の牧野高校、現在の緑風冠高校(旧大東高校)など、最終的に3〜4校を掛け持ちした。空いた時間はスポーツジムでアルバイトをしていた。

高田が「バレンタインチョコをたくさんもらっていた」という噂に触れると、藤田は、その話は当時保健を教えた1年生で、のちに地元の市長になった教え子から出たものだろうと応じた。そのうえで、23歳で日焼けした筋肉質の体育教師なら、15〜18歳の生徒には多少格好よく見えるものだと付け加えた。

藤田はこの1年で、家庭環境が学力や学習環境に大きく影響することを実感したという。定時制の生徒や保護者は進学校の保護者と雰囲気が違い、家庭が荒れていたり苦しかったりする現場も見た。家庭が不安定だと集中して勉強できる環境がなく、学力的に厳しくなり、貧困につながる。これはデータにも出ている、と藤田は述べる。定時制の仲の良い生徒から家庭の問題を相談され、保護者に会いに同行したこともあった。ただ後で、先輩教員から「そこまで立ち入ると自分がしんどくなるからやめたほうがいい」と指導されたという。藤田は、それが正解だったかはわからないと話している。

当時は政治的な課題として整理できていなかったが、後から考えると、維新が掲げる教育の無償化につながっているという。親の経済的な理由で進路を諦める子どもがいるなら考えなければならない、という問題意識である。

オーストラリアとニュージーランドへ:学費返還で帰国

教員生活の後、ワーキングホリデービザでオーストラリアに渡った。両国のラグビーの雰囲気を経験したかったのが理由で、現地のクラブチームでプレーした。語学学校に通い、IELTSで6.0か6.5程度を早めに取得して基準を満たし、翌年ニュージーランドのスポーツ系専門学校に入った。体育学部出身だったため、2年制コースの2年目に編入した。

ところがこの学校は途中でやめることになる。ある教員が藤田以外の留学生に差別的な振る舞いを繰り返し、藤田はそれに抗議して大喧嘩になった。クラスメートも藤田に同調し、学校全体の騒動になって、上の立場の人々が出てきて話し合いが行われた。相手は謝らないだろうと思っていたところ、藤田をかわいがっていた女性の校長が「あなたの言う通りで、正義感がある。私たちが悪かった」と謝り、要望を聞くと言った。藤田は「日本人的なやり方」をされて折れてしまったと振り返る。

藤田は帰国すると告げ、学費の返還を求めた。学校はこれを受け入れ、帰国後にオンラインで課題を出せば単位も出すと提案した。藤田は「体験を買いに来たので単位のためではない」と格好をつけて断った。今思えば単位を取っておけば経歴に書けたのに、結果だけ見ると「遊びに行って帰ってきただけ」になってしまったと笑う。当時は英語で激しく言い返せるほど話せたが、26〜27歳で帰国してから約20年、英語を使う環境にいなかったため、45歳の今はほとんど話せないという。

ベンチャーでの急な昇進と、パワープレイの反省

帰国後、就職イベントのブースで出会った社長に惹かれ、スポーツマネジメントなどを手がけるベンチャー企業に入社した。配属先は、スポーツジムや鍼灸・マッサージなどの施設を運営する、立ち上がったばかりの子会社だった。3か月ほどで年上もいる会議を仕切る役になり、入社1年ほどで執行役員になった。

藤田は当時の自分を「嫌なやつ」だったと振り返る。海外で遊んでいただけなのに、社長に気に入られて「自分が一番仕事ができる」という顔をし、反発する人はやめればいいという態度だった。実際に人がどんどん辞め、足を引っ張られ、組織は混乱した。周囲から注意を受けて壁にぶつかるうちに、マネジメントのスタイルが変わっていったという。今は柔らかいマネジメントをするが、昔は意見があれば全部論破する「パワープレイ」だった。一方で、土日もなく誰よりも働いたことは確かで、ビジネスの基本は社長や上司、出入りしていたコンサルタントに叩き込まれたと話す。

独立の失敗と、頭を下げて回った時期

この会社で3年ほど働いた後、28歳ごろに独立した。同級生と共同で始め、ベンチャーでの経験があるから何でもできると考えていたが、うまくいかなかった。

最初の事業は、知人が日本の輸入代理店をしていた「水のいらない歯ブラシ」の販売だった。歯磨き粉が染み込んだ製品を口の中で転がして磨くもので、災害時などに使える。コンビニやドラッグストアに営業して取り扱いも決まりかけたが、貿易上の事情で商品が入ってこなくなった。その時点で数百万円分の在庫を抱えており、この商売は終わった。

いくつかの事業を試すうちに資金が尽き、藤田は複数の経営者に頭を下げて「何でもいいから使ってほしい」と頼んだ。御用聞きとして言われたことは全部やると申し出て、助けてくれた社長が何人かいたという。その後、議員になるまで関わった会社にたどり着く。最初はコンサルタントとして入り、取締役になり、会社が傾いた際には一部を引き受けることになった。潰れそうになったり、多額の借金を背負いそうになったりした紆余曲折の時期だったと語る。

政治を志した原点:父の手紙と維新政治塾

ビジネスから政治への道が見えないという高田の問いに、藤田は再び父の話に戻る。父は、自分の金儲けのためではなく世のため人のため、公に奉仕せよと言い続けていた。大学で一人暮らしを始めた頃に受け取った手紙は今も大切に取ってある。要約すると、「健康に生まれ、勉強も運動もできるように育ったのだから、人の5倍努力して世の中のために働きなさい」という内容だった。これに感銘を受け、大学時代から教育者、経営者、政治家といった道を意識し始め、政治家になろうと考えたという。

維新との接点は、2012年、31〜32歳のときの維新政治塾である。橋下徹が立ち上げた、国会議員や地方議員を目指す人のための塾だった。2012年と2014年の衆院選には出なかった。転機は2015年の大阪都構想の住民投票否決と、それに続く橋下の引退だった。「維新は終わった」という空気になったが、藤田はそこで逆にスイッチが入ったという。

当時の橋下については、懸命にやろうとするほど殺伐とすることもあり、とげとげしいと感じた時期もあったと藤田は話す。自分も今はその気持ちがわかるという。しかし橋下と松井一郎が最後の会見で爽やかに負けを認めた姿を見て、心を動かされた。維新を潰したくない、自分も関わりたいと強く思い、公募に応じた。

落選、補欠選挙での初当選、11人時代の雑用

約1年の選考を経て2016年末に支部長となり、党の低迷期にあった2017年の衆院選に36歳で出馬して落選した。このとき維新の衆院議員は11人しか当選せず、今の4分の1ほどだったという。

活動を続けていたところ、相手の自民党現職が高齢で亡くなり、2019年に補欠選挙が行われた。藤田はそこで38歳で初当選する。11人しかいない党に「中途採用」のように加わったため、若手としてさまざまな仕事を任された。当時の幹事長で後に代表となる馬場伸幸の鞄持ちのような役回りもこなした。

藤田の働き方は、ベンチャー時代に教わった原則に基づいている。「これできるか」と聞かれたら、まず「できます」と答える。持ち帰ってからできないと悩んでも、期限が1週間なら1週間で覚えて仕上げる。そうして仕事に追いつかせる姿勢で重宝されたという。

2021年の総選挙で維新は11人から41人に増えた。馬場が共同代表になり幹事長を決める際、大量に当選した1期生に任せるわけにはいかず、2期生の中でも当選からの期間が短い藤田が「チャレンジ人事」として40歳で起用された。初当選から約2年半だった。

藤田は若い世代に向けて、仕事やチャンスがあれば「はい」と言っておくほうが機会が回ってくると話す。好きな言葉として挙げたのは「大事の思案は軽くすべし、小事の思案は重くすべし」だ。人生を左右する重要な選択は普段から考えているのだから、目の前に来たらすぐ決める。逆に日々の細かいことは見落としがちで、安易に返事をするとそこからミスが大きくなるので、確認してから決める。どうせ1日置いてイエスと言うなら、今言ったほうが気持ちがいいという考え方である。

幹事長の退任から共同代表へ

幹事長を3年務めた後の2024年衆院選では、藤田によれば党運営にも至らない点があって支持率が下がり、最後の1年ほどで失速し、議席を38に減らした。馬場代表の交代に合わせて藤田も退き、平議員に戻った。その後、吉村が代表に就いた。2025年夏の参院選でも党は振るわず、当時の共同代表・前原誠司が退任を表明した。藤田は推されて自ら手を挙げ、国会議員による選挙で共同代表に選ばれた。維新では選挙のたびにトップが審判を受け、だめなら交代する仕組みになっていると藤田は説明する。

与党入り後の難しさと連立合意の交渉

今後の展望について、藤田は「本当に難しい」と答えた。今回の選挙では、85の選挙区で自民党と候補が競合して真っ向から戦う一方、自民党と結んだ連立合意書と、それに基づくマニフェストを訴えるという複雑な構図だった。高市早苗首相との信頼関係は深まり、ともに街頭で戦ったが、途中から高市の人気が非常に高まり、藤田は「連立パートナーの僕らも踏みつぶされる」「進撃の巨人みたい」と表現する。議席はもっと減るとも言われたが、ぎりぎり現状維持程度で踏みとどまったという。

大きな党と小さな党が組めば飲み込まれる。自民党は奥が深く、騙すことも丸め込むこともするだろう、と藤田は見ている。それを承知で踏み込んだとし、維新の価値は高市と合意したことを必ず実行すること、つまり政策の実現にこだわることにあると述べた。自民党は300議席を超え、維新は36議席で、規模は10倍ほど違う。それでも1対1の立場で、自分たちの身分を恐れずに進める。国民のために決めた政策を一つでも多く早く実現し、「維新がいて良かった」「維新のおかげで進んだ」と言ってもらうしかないという。

連立合意は、高市らと徹夜で作り上げたものだった。藤田によると、議員宿舎でほぼ毎日会い、文言の詳細や論理の裏付けを一つずつ詰めた。高市から協議の申し入れを受けた際、こうした政策合意は通常3〜5項目程度で済ませることが多い。しかし藤田は、連立に入るのは大きなリスクなので、国家の重要課題をできるだけ幅広く合意したほうがいいと考えた。数人のメンバーで12の領域を箇条書きにして提示し、相手側から出た叩き台の文案を受けて、何度も何時間もやり取りを重ねた。普段大阪にいる吉村も責任を持って関わったが、内容面の細かい交渉は藤田がほぼ担い、報告や相談をしながら交渉の窓口を務めたという。

「すべては人である」

最後に20〜30代の視聴者に向けて、藤田は自分が大事にしている考えを語った。それは「すべてのものは人である」ということだ。物事はすべて人間がやっており、感情一つでだめになることもあれば、無理だと思っていたことが「そこまで言うならお前に賭けてやる」で動くこともある。だから人間を知り、人間を信じなければならない、と藤田は言う。

優れたビジネスモデルや洗練された営業スタイルだけで勝ち続けられるわけではなく、人の熱量がもう一歩を生み、誰かの違う発想が飛躍を生むと藤田は考えている。ただ、働き始めた頃の自分は「気に入らないやつは辞めろ」という正反対のスタイルで、その反省を経てこの考えに至ったと付け加えた。何にでも挑戦し、人を大事にする。それが自分の大切にしてきたことだとして、藤田は話を締めくくった。