空手道場の息子から与党・日本維新の会の共同代表へ:藤田文武が語った寄り道だらけの経歴
トマホークTomahawk日本維新の会の共同代表・藤田文武が、ゲストの高田ふーみんとともに、幼少期から現在までの歩みを振り返った。政治家の家系ではない自営業の家庭に育ち、高校では単位を落とし、就職活動では電通の最終面接で落ち、留学先の学校は途中でやめ、起業では在庫を抱えた。それでも40歳で党の幹事長になり、自民党との連立交渉では前線を担った。本人は「経歴はあまり参考にならない」と言うが、失敗の場面とそこから変えたことを具体的に語っている。
「共同代表」という役職の仕組み
冒頭で藤田は、自身の肩書きについて説明した。通常、政党の代表は国会議員が務める。維新は地方議員や首長も含めて代表を選ぶ仕組みのため、国会議員ではない吉村洋文が代表になっている。そのため国会側の代表として藤田が就き、その立場が共同代表になるという。
厳しい父と空手道場
藤田の家族に政治家はいない。父は自営業で、藤田は父を「昭和の頑固親父」のような人物と表現する。父はよく「日本はこう変わるべきだ、お前はこうしろ」と語り、藤田はその影響を受けたという。
父は兄である藤田のおじと空手道場を始め、道場は10拠点ほどに広がった。藤田は3歳から空手を「やらされて」おり、本人は嫌だったと話す。団体のトップがおじ、ナンバー2が父だったため、その息子として厳しく扱われ、大会で準優勝すると強く叱られた。ただ、その結果「めっちゃ強くなった」ことと、礼儀を身につけられたことは評価しており、空手は中学まで熱心に続けた。
中学では担任の勧めで遊びとしてバスケットボールも始めた。高校に入ると、バスケ部で一つ上の副キャプテンだった先輩がラグビー部にもいて、半ば強引に入部させられた。これを機に空手はやめ、ラグビーに移る。
四條畷高校で単位を落として卒業
進学先は大阪の進学校、四條畷高校である。中学では2〜3年から塾に通い、勉強は「割とできた方」だったという。ところが校風が自由だったこともあり、高校では授業中ほとんど寝ていた。1年生のテストは良かったが成績は下がり続け、400人ほどの学年で380位より上に行ったことがないと話す。赤点の基準は40点以下で、何度追試を受けても超えられず、2単位を落として卒業した。3つまでなら卒業できるぎりぎりの状態だったという。
のちに母校で教員をしたとき、当時を知る教員から「単位を落として卒業したとんでもないやつ」と言われた。真面目な学校なので、単位を落として卒業する生徒はほとんどいなかったという。ラグビーのせいかと聞かれると、当時は公立校でそれほど強くなく、「ラグビーに打ち込んでるふりをして勉強が全然できなかった」と答えている。
ポジションはフランカーで、スクラムの後方から走ってタックルする役だった。大学時代は体重90kg弱、ベンチプレス130kg、スクワット250kgほどで、体脂肪率も1桁を記録したことがあるという。現在の体重は70kg台と話している。
浪人1年で筑波大学へ:模試1位とセンター9割
大学は筑波大学の体育専門学群に進んだ。高校のラグビー部の先生が筑波大ラグビー部の出身で、その縁がきっかけだった。藤田によれば、国立大学で体育学部を持つのは2校しかない。入試はセンター試験と筆記に加えて3種目の実技があり、藤田はメインのラグビーに柔道と陸上を組み合わせた。
現役では前期・後期とも不合格になり、浪人中は河合塾に通って朝から晩まで勉強した。運動は体がなまらない程度にとどめた。最初は伸びなかったが次第にコツをつかみ、秋ごろからは模試でずっと1位だったという。センター試験は現役時に6割ほどだったのが、本人の記憶では9割3分ほどまで上がった。「当時は易しかったとはいえ」と自分で断りを入れている。
主務として部の上下関係を仕組みで変える
大学生活の比重を10で表すと、ラグビー5、勉強3、飲み会2だったという。成績は悪くなかったと振り返る。
藤田が「真面目な話」として挙げたのが、ラグビー部で主務を務めた経験だ。プレーのリーダーである主将に対し、主務は対外試合の調整、大学本部やラグビー協会とのやり取り、グラウンドの確保など、マネジメント全体を束ねる。藤田は選手も続けながら主務を担った。
当時のラグビー界には、1年生がミスをすると上級生が「こら」と叱る慣習があった。藤田はこうした理不尽な上下関係をやめるために仕組みを作った。1年生は作業を担うが、2年生がそれを補助し、3・4年生が責任を取る。1年生のミスは4年生の責任になる形に変えたところうまく回り、その仕組みは今も部で引き継がれているという。
一方で、卒業論文では担当教員を激怒させた。本来は研究内容を事前に相談し、教員の名前でアンケートを取る許可を得るべきところを、面倒に感じて勝手に書き、教員の名前も使ってアンケートを配った。「君はどういうつもりなんだ」と叱られたが、論文としては形になっていたため卒業はできた。その教員とは後に和解し、今も親しくしているという。
就職氷河期と電通不合格、そして父の一喝
藤田は就職氷河期の最後のほうの世代で、エントリーシートを200〜300社に出し、まず8割は落ちたという。体育会なら有利では、という高田の問いに、今はそうだが当時は違ったと答えている。
本命の電通では最終面接まで進み、「君、最高だね」と言われて手応えを感じたが、結果は不合格だった。内定は3社ほどから得たが本命ではなかった。そこで考えたのが、卒業論文だけ提出せずに「隠れ5年生」として残り、もう一度電通を受ける方法だった。当時は一度卒業すると就職しにくく、そうする学生が多かったという。
これを父に伝えると、父は「お前はプライドがないのか」と言った。自分を落とした会社のために1年を費やし、もう一度頭を下げて入れてもらうのは恥ずかしくないのか、すぐ卒業してフリーターでもして稼げ、という叱責だった。藤田は「その通りやな」と感じ、その道をやめて留学を目指すことにした。
体育教師としての1年:家庭環境と学力の差を見た
留学資金を貯めるため、藤田は1年間、非常勤講師として高校で保健体育を教えた。体育学部で教職課程の単位を取っていたので免許は持っていた。最初は母校の四條畷高校で、ラグビーのコーチも兼ねた。途中で近隣の学校に欠員が出るたびに担当が増え、夜間の定時制、枚方の牧野高校、現在の緑風冠高校(旧大東高校)など、最終的に3〜4校を掛け持ちした。空いた時間はスポーツジムでアルバイトをしていた。
高田が「バレンタインチョコをたくさんもらっていた」という噂に触れると、藤田は、その話は当時保健を教えた1年生で、のちに地元の市長になった教え子から出たものだろうと応じた。そのうえで、23歳で日焼けした筋肉質の体育教師なら、15〜18歳の生徒には多少格好よく見えるものだと付け加えた。
藤田はこの1年で、家庭環境が学力や学習環境に大きく影響することを実感したという。定時制の生徒や保護者は進学校の保護者と雰囲気が違い、家庭が荒れていたり苦しかったりする現場も見た。家庭が不安定だと集中して勉強できる環境がなく、学力的に厳しくなり、貧困につながる。これはデータにも出ている、と藤田は述べる。定時制の仲の良い生徒から家庭の問題を相談され、保護者に会いに同行したこともあった。ただ後で、先輩教員から「そこまで立ち入ると自分がしんどくなるからやめたほうがいい」と指導されたという。藤田は、それが正解だったかはわからないと話している。
当時は政治的な課題として整理できていなかったが、後から考えると、維新が掲げる教育の無償化につながっているという。親の経済的な理由で進路を諦める子どもがいるなら考えなければならない、という問題意識である。
オーストラリアとニュージーランドへ:学費返還で帰国
教員生活の後、ワーキングホリデービザでオーストラリアに渡った。両国のラグビーの雰囲気を経験したかったのが理由で、現地のクラブチームでプレーした。語学学校に通い、IELTSで6.0か6.5程度を早めに取得して基準を満たし、翌年ニュージーランドのスポーツ系専門学校に入った。体育学部出身だったため、2年制コースの2年目に編入した。
ところがこの学校は途中でやめることになる。ある教員が藤田以外の留学生に差別的な振る舞いを繰り返し、藤田はそれに抗議して大喧嘩になった。クラスメートも藤田に同調し、学校全体の騒動になって、上の立場の人々が出てきて話し合いが行われた。相手は謝らないだろうと思っていたところ、藤田をかわいがっていた女性の校長が「あなたの言う通りで、正義感がある。私たちが悪かった」と謝り、要望を聞くと言った。藤田は「日本人的なやり方」をされて折れてしまったと振り返る。
藤田は帰国すると告げ、学費の返還を求めた。学校はこれを受け入れ、帰国後にオンラインで課題を出せば単位も出すと提案した。藤田は「体験を買いに来たので単位のためではない」と格好をつけて断った。今思えば単位を取っておけば経歴に書けたのに、結果だけ見ると「遊びに行って帰ってきただけ」になってしまったと笑う。当時は英語で激しく言い返せるほど話せたが、26〜27歳で帰国してから約20年、英語を使う環境にいなかったため、45歳の今はほとんど話せないという。
ベンチャーでの急な昇進と、パワープレイの反省
帰国後、就職イベントのブースで出会った社長に惹かれ、スポーツマネジメントなどを手がけるベンチャー企業に入社した。配属先は、スポーツジムや鍼灸・マッサージなどの施設を運営する、立ち上がったばかりの子会社だった。3か月ほどで年上もいる会議を仕切る役になり、入社1年ほどで執行役員になった。
藤田は当時の自分を「嫌なやつ」だったと振り返る。海外で遊んでいただけなのに、社長に気に入られて「自分が一番仕事ができる」という顔をし、反発する人はやめればいいという態度だった。実際に人がどんどん辞め、足を引っ張られ、組織は混乱した。周囲から注意を受けて壁にぶつかるうちに、マネジメントのスタイルが変わっていったという。今は柔らかいマネジメントをするが、昔は意見があれば全部論破する「パワープレイ」だった。一方で、土日もなく誰よりも働いたことは確かで、ビジネスの基本は社長や上司、出入りしていたコンサルタントに叩き込まれたと話す。
独立の失敗と、頭を下げて回った時期
この会社で3年ほど働いた後、28歳ごろに独立した。同級生と共同で始め、ベンチャーでの経験があるから何でもできると考えていたが、うまくいかなかった。
最初の事業は、知人が日本の輸入代理店をしていた「水のいらない歯ブラシ」の販売だった。歯磨き粉が染み込んだ製品を口の中で転がして磨くもので、災害時などに使える。コンビニやドラッグストアに営業して取り扱いも決まりかけたが、貿易上の事情で商品が入ってこなくなった。その時点で数百万円分の在庫を抱えており、この商売は終わった。
いくつかの事業を試すうちに資金が尽き、藤田は複数の経営者に頭を下げて「何でもいいから使ってほしい」と頼んだ。御用聞きとして言われたことは全部やると申し出て、助けてくれた社長が何人かいたという。その後、議員になるまで関わった会社にたどり着く。最初はコンサルタントとして入り、取締役になり、会社が傾いた際には一部を引き受けることになった。潰れそうになったり、多額の借金を背負いそうになったりした紆余曲折の時期だったと語る。
政治を志した原点:父の手紙と維新政治塾
ビジネスから政治への道が見えないという高田の問いに、藤田は再び父の話に戻る。父は、自分の金儲けのためではなく世のため人のため、公に奉仕せよと言い続けていた。大学で一人暮らしを始めた頃に受け取った手紙は今も大切に取ってある。要約すると、「健康に生まれ、勉強も運動もできるように育ったのだから、人の5倍努力して世の中のために働きなさい」という内容だった。これに感銘を受け、大学時代から教育者、経営者、政治家といった道を意識し始め、政治家になろうと考えたという。
維新との接点は、2012年、31〜32歳のときの維新政治塾である。橋下徹が立ち上げた、国会議員や地方議員を目指す人のための塾だった。2012年と2014年の衆院選には出なかった。転機は2015年の大阪都構想の住民投票否決と、それに続く橋下の引退だった。「維新は終わった」という空気になったが、藤田はそこで逆にスイッチが入ったという。
当時の橋下については、懸命にやろうとするほど殺伐とすることもあり、とげとげしいと感じた時期もあったと藤田は話す。自分も今はその気持ちがわかるという。しかし橋下と松井一郎が最後の会見で爽やかに負けを認めた姿を見て、心を動かされた。維新を潰したくない、自分も関わりたいと強く思い、公募に応じた。
落選、補欠選挙での初当選、11人時代の雑用
約1年の選考を経て2016年末に支部長となり、党の低迷期にあった2017年の衆院選に36歳で出馬して落選した。このとき維新の衆院議員は11人しか当選せず、今の4分の1ほどだったという。
活動を続けていたところ、相手の自民党現職が高齢で亡くなり、2019年に補欠選挙が行われた。藤田はそこで38歳で初当選する。11人しかいない党に「中途採用」のように加わったため、若手としてさまざまな仕事を任された。当時の幹事長で後に代表となる馬場伸幸の鞄持ちのような役回りもこなした。
藤田の働き方は、ベンチャー時代に教わった原則に基づいている。「これできるか」と聞かれたら、まず「できます」と答える。持ち帰ってからできないと悩んでも、期限が1週間なら1週間で覚えて仕上げる。そうして仕事に追いつかせる姿勢で重宝されたという。
2021年の総選挙で維新は11人から41人に増えた。馬場が共同代表になり幹事長を決める際、大量に当選した1期生に任せるわけにはいかず、2期生の中でも当選からの期間が短い藤田が「チャレンジ人事」として40歳で起用された。初当選から約2年半だった。
藤田は若い世代に向けて、仕事やチャンスがあれば「はい」と言っておくほうが機会が回ってくると話す。好きな言葉として挙げたのは「大事の思案は軽くすべし、小事の思案は重くすべし」だ。人生を左右する重要な選択は普段から考えているのだから、目の前に来たらすぐ決める。逆に日々の細かいことは見落としがちで、安易に返事をするとそこからミスが大きくなるので、確認してから決める。どうせ1日置いてイエスと言うなら、今言ったほうが気持ちがいいという考え方である。
幹事長の退任から共同代表へ
幹事長を3年務めた後の2024年衆院選では、藤田によれば党運営にも至らない点があって支持率が下がり、最後の1年ほどで失速し、議席を38に減らした。馬場代表の交代に合わせて藤田も退き、平議員に戻った。その後、吉村が代表に就いた。2025年夏の参院選でも党は振るわず、当時の共同代表・前原誠司が退任を表明した。藤田は推されて自ら手を挙げ、国会議員による選挙で共同代表に選ばれた。維新では選挙のたびにトップが審判を受け、だめなら交代する仕組みになっていると藤田は説明する。
与党入り後の難しさと連立合意の交渉
今後の展望について、藤田は「本当に難しい」と答えた。今回の選挙では、85の選挙区で自民党と候補が競合して真っ向から戦う一方、自民党と結んだ連立合意書と、それに基づくマニフェストを訴えるという複雑な構図だった。高市早苗首相との信頼関係は深まり、ともに街頭で戦ったが、途中から高市の人気が非常に高まり、藤田は「連立パートナーの僕らも踏みつぶされる」「進撃の巨人みたい」と表現する。議席はもっと減るとも言われたが、ぎりぎり現状維持程度で踏みとどまったという。
大きな党と小さな党が組めば飲み込まれる。自民党は奥が深く、騙すことも丸め込むこともするだろう、と藤田は見ている。それを承知で踏み込んだとし、維新の価値は高市と合意したことを必ず実行すること、つまり政策の実現にこだわることにあると述べた。自民党は300議席を超え、維新は36議席で、規模は10倍ほど違う。それでも1対1の立場で、自分たちの身分を恐れずに進める。国民のために決めた政策を一つでも多く早く実現し、「維新がいて良かった」「維新のおかげで進んだ」と言ってもらうしかないという。
連立合意は、高市らと徹夜で作り上げたものだった。藤田によると、議員宿舎でほぼ毎日会い、文言の詳細や論理の裏付けを一つずつ詰めた。高市から協議の申し入れを受けた際、こうした政策合意は通常3〜5項目程度で済ませることが多い。しかし藤田は、連立に入るのは大きなリスクなので、国家の重要課題をできるだけ幅広く合意したほうがいいと考えた。数人のメンバーで12の領域を箇条書きにして提示し、相手側から出た叩き台の文案を受けて、何度も何時間もやり取りを重ねた。普段大阪にいる吉村も責任を持って関わったが、内容面の細かい交渉は藤田がほぼ担い、報告や相談をしながら交渉の窓口を務めたという。
「すべては人である」
最後に20〜30代の視聴者に向けて、藤田は自分が大事にしている考えを語った。それは「すべてのものは人である」ということだ。物事はすべて人間がやっており、感情一つでだめになることもあれば、無理だと思っていたことが「そこまで言うならお前に賭けてやる」で動くこともある。だから人間を知り、人間を信じなければならない、と藤田は言う。
優れたビジネスモデルや洗練された営業スタイルだけで勝ち続けられるわけではなく、人の熱量がもう一歩を生み、誰かの違う発想が飛躍を生むと藤田は考えている。ただ、働き始めた頃の自分は「気に入らないやつは辞めろ」という正反対のスタイルで、その反省を経てこの考えに至ったと付け加えた。何にでも挑戦し、人を大事にする。それが自分の大切にしてきたことだとして、藤田は話を締めくくった。
バンとくと学歴社会のアクセル役になる。どうも我がTVの高田ふーみんです。
日本維新の会代表の藤田文武です。今日はよろしくお願いします。
また大の方がまた、すごい、という風に結構緊張されてる。いや、緊張してる。与党の共同代表。いや、僕、維新で結構ふーみんって呼ばれてんです。あ、マジっすか?生ふーみん。それで行きましょう。そう、そう、そう。
共同代表ってことなんですけど、吉村さんの代表とはちょっと違うってことですか?はい。普通は政党代表って国会議員じゃないですか?はい。でもうちは地方とか首長とかも含めて代表決めるんで。なんで吉村が国会議員じゃないので、国会の代表ってことで私がさしてもらって、それが共同代表になるっていう、そういう仕組みなんですよ。
ということでこのチャンネルは、人生を幼少期から振り返っていくってチャンネルなんですけども、そもそも家族とかは政治家系だったりします?いや、全然いないんですよ。僕はだから自営業の父親と母親の元に生まれて、ただ政治のことが結構好きというか、うちの親父はもう亡くなったんですけど昭和の頑固親父みたいな人で、とにかく日本変わるべき、お前はこうしろみたいなのをすごい言う人で、それは影響を受けたんですけど、政治は全く関係なく育ちました。
幼少期の興味とかって言うと何にあったんですか?なんすかね。僕はそもそも父親が空手の道場やってたんですよ。へえ。3歳から空手をずっと、言ってみたらやらされてて。はい。で、すごい嫌やったんですよ。
ほんで空手の道場をうちの親父とそのお兄さん、だから僕のおじさんなんですけどが始めて、結構全方に展開してて、すごい10拠点ぐらいあったんですよ。そうなんです。ほんで全部集まれって言って大会とかやるでしょ。はいはいはい。ほんでその団体のボスがおじさん、ナンバー2がうちの親父なんで、その息子じゃないですか?はい。だからすごい厳しくて、準優勝とかするとめっちゃ怒られるんですよ。2位じゃダメなんですかと。うまいね。そう。
それでとにかくしごかれてしごかれて、すごい嫌やったんですけど、ただめっちゃ強くなったんですよ。それで礼儀も覚えさせてもらって、なんで空手はずっと一生懸命やってましたね、中学までは。中学の時に、ちょっと体力持て余してますから、担任の先生にバスケやってみたらみたいに言われて、じゃ、分かりましたって言って遊びでバスケやってたんですよ。
で、高校入った時にバスケ部のその時の1個上の副キャプテンの人がラグビー部にいたんですよ。はい。ほんで「おい、お前何してんねん。早よ来い」とか言って拉致られて、ほんで入れられて名前書かされて入ったんがラグビー部やったんです。あ、強制加入。強制加入、ちょっと若干怖い先輩やしみたいな感じで。そっからもう空手はやらずにラグビーに行ってしまって。で、そこの母校が寝屋川高校と言うんですけど。
進学校です。めちゃめちゃ進学校。ありがとうございます。よくご存じで。トマホークも大阪府立の大手前、大手前高校ですよね。同じぐらい、大手前が上です。ちょ、学区違うからいいっすよ、学区が。
で、その時の先生が寝屋川高校から筑波大学ラグビー部の人やって、僕の先輩やったりするんですけど、ほんでそれで筑波大学にラグビーをしに行ったんですよね。はい。そんなことで。
中学の時、勉強の方はされてたんですか?勉強、当然一応。ただ運動ばっかやる子じゃなかったんですね。はい。僕はね、割と地頭良かって。すいません。いや、今子供もいて、今って受験しよう思ったら小3とか小2ぐらいからめっちゃ勉強するじゃん、中学受験塾とかやったら。僕はあんまりそういう勉強別に好きでもなかったんですけど、普通に勉強してて、中学の2年か3年ぐらいから塾に行き始めてここに行ったんですけど、割と元々多分できた方で。
ただ高校入ったら、うち結構自由な校風やったんで、あんまりこんな場で言っていいかわかんないですけど、ずっと寝とったんですよ。で、テストは1年の時良かったんですよ。で、だんだん急降下していって、400人ぐらいいる同級生の中で380位より上行ったことなかったんですよ。へえ。すっごい頭悪くて。これももう記録に残ってるから嘘つけないんですけど、テスト40点以下やと赤点なんですけど、何回追試しても赤点超えんくて、2つ単位落として卒業したんです。
え。そうなんすよ。3つまではギリセーフらしくて。で、僕その後高校の教員に1年間だけなるんですけど、その時にまだその頃を知ってる先生がいて、こいつは単位を落として卒業したとんでもないやつやと。寝屋川高校って割と真面目な高校なんで、単位落として卒業する人ほぼいないんですよ。
それはラグビーをしすぎてみたいな感じなんですか?ラグビーも昔強かったんですけど、僕の当時は公立高校やったからそんなに強くなかったのに、ラグビーに打ち込んでるふりして勉強全然できんかったっていう、そんな感じですね。
維新スピリッツみたいなのありますよね。橋下さんもラグビー経験者で、吉村さんも。だからやっぱ代表とかまで行こう思ったらラグビーやってないと無理なんすよ。体育会系。体育会系だ。
あんまわかんないけど、ポジションで言うとどういう感じのポジションだった?ポジションは僕はフランカー、ナンバーエイトって言って、スクラムでちょっと後ろ側についてる、走ってタックルする役ですね。で、パワーナイトみたいな。そうですね。だから僕結構ごつくて、今は70kg台ですけど、大学の時は90kg弱ぐらいあって、ムキムキやった。え、全然違うんすよね。一回りでかいぐらいじゃないですか?だいぶ。ほんで一応体脂肪も1桁、1回かしてたんで、一応ちゃんと鍛えてたんですよ。ええ。ベンチプレス130kgぐらい上げてた。えぐ。スクワット250kgぐらいでやって。当時っすよ。すごいっすね。
一応筑波大学の体育専門学群っていう体育学部なんです。運動神経は悪くはなかった、むちゃくちゃいいわけじゃないんですけど。
そこってどういう入試で入るんですか?これは僕一浪して入ってるんですけど、体育学部の中では、国立大学で体育学部持ってるのって2つしかなくて、筑波大とか大学ですね。よく知ってますね。今偏差値のこと言うてません。学歴社会がどうの時で。その中で筑波大学選んで、基本的にはセンター試験と筆記試験、実技で3種目やらないといけなくて、僕はメインが1つでラグビーなんですけど、残り2つが柔道と陸上。で、2つ選択科目で選んで、3つで点数つけられるっていう感じでしたね。
浪人期間はもうひたすら勉強みたいな感じ?浪人期間はマジで勉強しました。あ、運動とかじゃないんですね。運動は一応体育学部の受験なんで、鈍らんぐらいにはやっとったんですけど、ただそれはもう適当っていうか、鈍らんぐらいのもんで、勉強はちゃんとやってて。僕、寝屋川市ってとこ出身で実家が。で、京都の河合塾にずっと通ってました。で、毎日晩まで勉強して。
で、これはね、結構うまくいって。3年間全然勉強してなくて、筑波大を受けて落ちたんすよ。前期も後期も落ちたんですね。ほんで、もうそれだけ受けて、次の年もそれ受けようと思ってやったら、なんと秋ぐらいの模試からずっと1番やったんですよ。え、もし主席みたいな。そうです。で、これ通ったなと思って。寝屋川の伝説あるや。すご。最初全然あかんかった。コツ掴んできて、勉強ずっと朝から晩までやってるわけですよ。なんで割とコツ掴んできて、それでちゃんと通ることできたんですけど。
当日センター何割でした?センター僕めっちゃ取ってました。9割、多分9割3分。むちゃくちゃ取ったんですよ。当時易しかったとはいえ。現役何割やったかとか覚えてます?現役はえっとね6割ぐらい。ええ、すご。60%から93%まで。
大学入られてからは、勉強と運動で言ったらどれぐらいの割合なんですか?これはですね、10で言うと5、3、2ぐらいですかね。で言うと、5ラグビー、3勉強、2コンパ。いやいや、そうそう、そういう体育会の明るい体育会のラグビー部でしたね。飲み会みたいな。飲み会も毎週飲み会でしたね。それは身内のもありますけど。
高校自体は単位落としてみたいのありましたけど、大学大丈夫でした?大学は割とちゃんと成績は悪くない感じで。全然大丈夫です。後輩こき使ってとかしてとか。いや、それはね、僕はもうその頃にはだいぶ大人になってたんで。
いや、これ真面目な話で、僕、主務っていう役目やってたんですね。主務。プレーのキャプテンが主将で、マネージメントする、例えば対外試合組むとか、大学の本体とやり取りするとか、ラグビー協会とやり取りするとか、グラウンド押さえるとか、そういうマネージャーのボスが主務って言うんですよ。僕、プレーヤーも一応やってたんですけど、マネージメントのトップの主務をさしてもらって。
ほんでやっぱり上下関係の理不尽やめようって言って、結構色々仕組み化して。今までは「1年おら、ちゃんとやらんかい」みたいな、ミスあると「1年こら」みたいなのが、一応ラグビー界の全世界共通ルールやったわけです。そういうのはやめていこうっていう時期で、僕結構それ仕組み化して、1年生はもちろん作業するよと、でも2年生はサポートしてねと、それを3年生と4年生が責任取ってねと。だから1年生がミスしたら4年生がダメなんですよっていう仕組みに変えて。そしたらめちゃめちゃうまくいって、その作った仕組み今も使ってるんですよ。おお。え、引き継がれてるんですか?そうなんですね。
なんで、結構ちゃんとやってて、勉強はさほど難しくもなかったんで。ただ1個だけあるんです。最後、卒業論文書くじゃないですか。はい。卒業論文で担当教官にぶち切れられた事件が起こってしまって。なんでかと言うと、普通は担当の先生にこんなん書こうと思うんですとか、こういうリサーチしようと思うんで、アンケート取るんで、先生の名前借りていいですかとか普通やるじゃないですか。で、僕それちょっとめんどくさいなと思ったのか、あの頃若かったんで勝手に書いたんですよ。ほんで勝手に書いて勝手に先生の名前とか使って、ちゃんとしたデータ取ろうと思ってアンケートとかしてバンバンて出したんですよ。ほら、もうぶち切れられて、「君はどういうつもりなんだ」と。で、ただギリギリこれは形にはなってるから卒業はさせるけど、って、すっごい怒られて。一応その後は和解したんですけど、未だに仲良くさしてもらってるんですけど。
就職活動は4年でされてたんですか?就職活動やってたんですよ。で、僕は就職氷河期世代の1番最後ぐらいの年なんですね。だから200とか300ぐらいエントリーシートを出して、まず8割落とされるんですよ。え、ちょっと体育会系やったら余裕やないですか。いやと思うでしょ。今はそうなんですけど、僕の時代はほんまに就職氷河期やからすごい感じで、とにかくエントリーシートを片っ端から出すと、片っ端からまず落とされるんですよ。
ほんで僕の本にも書いてあるんですけど、電通受けたんですよ。はい。で、最終面接まで行って、「君最高だね」とか言われて、これ絶対受かった、俺はもう来年から電通マンとしてめっちゃ楽しい生活が待ってるわと思ったら落とされて、なんやねんてなって。そっから3つぐらい内定いただいたところがあったんですけど、自分の本命じゃなかったしどうしようってなって、それでやめようと思って。ほんで転換して教員をやろうと。
電通と真逆のイメージです。真逆。いや、もうちょっと言うとですね、電通はすごい褒められて、なんで落ちたんやろうと思いながら、もう1回受けたら通るやろうと思って。で、当時一旦大学を卒業してしまうと第二新卒みたいになるから、当時は1回卒業すると就職しにくいとなって就職浪人する人多かったんですよ。要は単位は全部取ってるけど卒業論文だけ出さずに置いといて、休学したみたいにしてあんまお金かからないという、隠れ5年生みたいなやつを。それを僕も思いついてね。
で、うちの親父にそうやってやろうと思ってんねんって言ったんですよ。怖い親父さんすよね。怖い親父に。親父がじゃんって出てきて、なんて言ったかと言うと、「お前はプライドがないんか」と。「落とされたところに1年無駄にしてもう1回受けて、頭下げて入れてくれって恥ずかしくないんか」って言われて。いや、その通りやなと。いや、電通入りたい。入りたいけど、って言われて、いや、その通りやなと思って。「お前は今すぐ卒業してバイトせえ、フリーターでもして金稼げ」って言われて、「そんなんもうあかん、絶対許さへん」って言うて。で、僕はそれになぜか若いから感銘を受けてしまって、その通りやと思って。
その道はやめて留学しようと思ったんですよ。ほんで留学するためにお金がないと。で、親もすごい剣幕で怒ってたから、お金もちょこっとだけ出してもらったんですけど、お金貯めようと思って、免許持ってたんで教員やろうと思って。で、教員を1年、非常勤講師を3つか4つ掛け持ちしてやり、そして空いてる時間はバイトしてお金を貯めて、貯めたお金で留学するんですよ。で、それでオーストラリアとニュージーランドに行ったんすね。
免許っていつ取られたんですか?免許は体育学部なんで、体育の先生の免許が大体普通に授業受けてたらもらえるんですね。教員の単位を全部履修していったらそうなんですよ。
その体育教師になられるということで。それ1年間させていただいて、ラグビーのコーチもさせてもらいながら保健体育見させてもらって。で、たまたま縁あって途中から2つ増えたんですよ。最初は寝屋川高校の定時制見させてもらってたのが、途中隣の高校で欠員が出て、ちょっと怪我されたりして、そこに行って、その後またもう1個ちょっと欠員が出ていったりして。寝屋川の定時制と、それから牧野高校っていう枚方にあるとこ、中堅校ですね。それから緑風冠高校って今呼んでるんですけど、昔大東高校っていう、僕の選挙区なんですけど、この4つ持たせていただいて、すごいやっぱり地域柄や学力もバラエティに溢れてるんで、すごい勉強になりました。
当時バイトも並行してたんですか?バイトも並行してたんですよ。ええ、すごい。バイトはスポーツジムで、そこで鍛えながら、鍛えてバイトしてお金貯めてみたいな感じですね。
これ噂程度の話なんですけど、ReHacQかなんかで、バレンタインチョコを講師時代にめちゃめちゃもらってたみたいな。はい。それあれでしょ?僕の教え子でもある地元の前市長でしょ?それたまたま僕が寝屋川高校に帰って教えてた、保健を教えてた1年生に地元の市長がいたんですよ。たまたま彼は。ちょっと持ってますね。持ってるんですけど、モテたのはモテたんだ。でもね、考えてみてくださいよ。23でしょ?で、焼けて80kg後半ぐらいでムキムキな。で、一応体育の先生でスポーツできるわけじゃないですか?それはちょっとかっこよく見えるじゃないですか。で、高校生で15から18でしょ。
その時やっぱり教育現場のちょっと問題点とか、ここちょっと直さなあかんなとか見えてきたりとかしたんですか?教育現場もそうですけど、1個はやっぱり家庭環境で学力とかその勉強の環境にすごい影響が出るなっていうのは思って。当時はそこまで政治家としての課題意識にまではまとめ上げられてなかったですけど、後から考えると、僕らって教育の無償化やってるじゃないですか。はい。教育の無償化って何でやってるかって言うと、親の経済的な理由で進路諦めないといけない子がいたとしたら、それはやっぱりちょっと考えないとっていう問題意識があって。
で、それすごい見て、例えば定時制の人たち、またはあの人たちの親御さんを見ると、進学校の親御さんとやっぱちょっと感触が違ったりするわけですよ。いや、そうですね。そうするとやっぱり家庭環境がちょっと荒れてたり、しんどいみたいな現場も見るわけです。家庭環境が不安定ってことは、勉強を集中できる環境がないから学力的にも非常にきついと。これはもうデータ的にも出てて、いわゆる貧困みたいなのに繋がってしまうっていう問題があって。そういうのは結構目の当たりにして。
定時制の子とかすごい仲いい子がいたりして、これは正解かどうか分からないんですけど、そういう家庭環境の問題をすごい相談されて、1回その親御さんとかと会うとか、色々問題がある時に僕一緒に行ったりとかしたことがあって。でも後で先生に、そこまで立ち入ったら自分がしんどいからやめといた方がいいよって指導受けたこともあるんですけど、そういうのに向き合った1年でしたね。熱い先生やったんですね。まあ体育会系の熱血ではあったと思います。
その後1年後に留学行かれるんですか?そうなんですよ。これどういう留学なんですか?これはまず最初ワーキングホリデービザで行ったんですよ。だから働けるし、学校も行けるし、遊べるしっていうところで、オーストラリアとニュージーランドに行ったんですけど、なんでかって言うと、やっぱオーストラリアとニュージーランドでラグビーしたいなと思って。
ほんでまずオーストラリア行って、すっごい楽しみながら勉強してバイトして、語学学校行って、試験にパスするんですよ。昔IELTSっていう、今もありますよね。それを点数を取ったら専門学校とか大学とかにパスできると。それを受けて結構早々に基準をクリアして、ニュージーランドの学校に翌年行くんですよ。要はオーストラリアのラグビーの雰囲気とニュージーランドのラグビーの雰囲気、両方経験したいと思って。つってもクラブチームなんで、普通の地元のクラブチームでやってたんですけど。
ほんでニュージーランドに次行って、スポーツの専門学校みたいなとこに行くんですよ。で、それを僕は体育学部出身やったから、2年のコースの2年目に編入させてもらって、それで行ったんすけど、これもまた色々あって、学校途中でやめて帰ってくることになったんすよ。
ちょっと先方の名誉もあるんであれなんですけど、当時とある先生が、僕じゃない留学生に対して差別的な振る舞いが結構あったりして、ほんで僕なんかそれで大喧嘩になったんですよ。うわ、怖いよ。ほんなら大騒ぎになってもうて、僕のクラスの子らが「フミの言う通りだ」。フミって言われてたんですね。「フミの言う通りだ」みたいになって、ふざけんなってなって、学校騒動なって、本部から偉い人たちがいっぱい来て、対決が行われたんです。
ちょっと収拾つかへんなってどうしようってなったんすけど、こっちも血気盛んやから、向こうも西洋文化やから謝らへんじゃないですか。それで、僕が可愛がってもらってた女性の校長先生がいたんですよ。女性の校長先生が来て、「本当にあなたの言う通り、あなたは正義感がある。素晴らしい。私たちが悪かった。申し訳ない。だからあなたの要望を聞こう」って言ってきたんですよ。だから僕はそうやって日本人的なやり口をされたわけですよね。今まで謝らへんみたいなのが、いや、お前が正しいって申し訳なかった、改善するってなったから、いや、いいんです、そんなあれじゃないんで、一言そうやって言っていただいたらいいんですって思って、俺折れてもうたね。
で、僕もここまで騒動になったから帰りますって言って、その代わり学費全部返してくださいって。途中で帰らなあかんくなったから返してくださいって言ったら、分かった、返すって。え、すごい、授業受けてんのに。で、なおかつオンラインで帰った後授業を受講したらバチェラーを出すと、要するに単位を出すから、オンラインで受けてやりって言って。で、その時僕もかっこつけて、いや、僕は体験を買いに来てるんで単位のためだけじゃないんです、それはいいんで、お金だけ返してもらったら大丈夫ですとか言うて帰ってきたんですよ。今から考えたら単位取った方が経歴に書けたからよかったね。確かに海外やとかっこよく見えるし、ポスターとかも。そう、そう。結局結果だけ見ると遊びに行って帰ってきただけ。普通どこどこ卒業って書けるけど、卒業書かれへんから、遊びに行っただけになってしまったんですけどね。そんなことありました。
すごいですね、結構その異国の相手に。そうなんですよ。だからあの時めっちゃ英語喋れてて、あの瞬間スイッチ入ってるから、わって言ってきて、めっちゃ英語で言い返してたんですけど、今全然喋れないんですよ。26とか7とかに帰ってきてるんで、もう今僕45なんで、20年ぐらいほとんど英語環境で仕事してないんで、もったいないことになってしまったんですけど。
じゃ、維新が入閣とか噂されてますけど、藤田さん外務大臣はちょっとなし。もう英語使うとこはなしです。別にあれやと思いますけど。
その時の基準点ってどれぐらいなんです?IELTSは専門学校だったんで、えっと6.0かな?6.0で、確か6.0か6.5かなんか取ったんです。そうそう。で、それでパスしてたんです。大学で6.5でしたかね。そのぐらいまでは行ったと思うんですけど、確か。
帰ってきて次はどうなるんですか?帰ってきてそっからベンチャー企業に勤めるんですよ。何のツテもなくて、どうしようと思って。私、体育学部で、海外ではスポーツマネージメントの学部に入ってたんですね。そのスポーツの勉強を生かして、就職のリクルートさんとかいろんなとこがやってるイベントみたいなあるじゃないですか。ブース出してるあれに行ったんですよ。ほんなら入社する会社の社長がいてはって、当時のマネージメント会社みたいなのと、入ってみたらすごい色んなことをやってる会社やって、え、めっちゃおもろそう、この社長と思って、そこに門を叩いたら入れてくれたんですよね。
ほんでそっからスポーツジムとか医療系の施設とか、鍼灸とかマッサージとかそういうのをやる子会社が立ち上がったばっかりで、そこに配属なったんですよ。で、そこであれよあれよと気に入っていただいて、3ヶ月ぐらいで年上とかいっぱいおんのに僕は会議仕切る役になって、半年ぐらいで執行役になったんです。あ、じゃ、1年ぐらいで。1年ぐらいで執行役になって。え、入社して1年で執行役員なって。26歳の、海外でラグビーしてたやつが。そう、ずっとフラフラしてたやつ。
で、その時ね、僕嫌なやつでね。海外で遊んでただけの人じゃないですか。帰ってきたら俺が1番仕事できるみたいな顔してやってたわけです。社長に気に入られてるみたいな感じで。だから僕に楯突いてくるやつはもうやめたらええぐらいの感じでやっとったんですよ。ほら、どんどんやめるし、足引っ張られるし、ぐちゃぐちゃなって。ほんでいろんな人に可愛がってもらって、お前そんなんあかんでとか、色々頭打って、マネージメントスタイルが変わっていったんですよ。
だんだん今はすごい柔らかいマネージメントをするけど、昔はもうめっちゃパワープレイで、言いたいことあったら言えやみたいな、言ってきたら全部バチンって論破して、俺の方がやってるやんけ。橋下スタイル。そう、そう。そのスタイル名はいいのか悪いのか。そういう感じで多分嫌なやつやったんですけど、ただ仕事は一生懸命やってました。もう誰よりも働いて、朝から晩まで土日もなく働いてたのはやってました。だからビジネススキルとか、社会人としてのイロハはそこの社長とか、その時の上司とか、そこにいたコンサルの人とかに叩き込んでもらったんですけどね。
そこで何年ぐらい働かれるんですか?3年働いたんですよ。まるまる3年働いて。20代後半ぐらいまで。そうですね。28ですね。そこやめられた理由はあるんですか?それは最終的には独立しようと思ってやめるんですよ。
で、これはちょっとあんま詳細まで言うと恥ずかしいんですけど、めっちゃ恥ずかしいんですけど、共同経営者がいたんですよ。同級生とスタートして、何でもできるやろ、俺らこんだけベンチャーでやってたしみたいな感じで始めたら、全然うまいこといかへんですよ。
最初やったのが、ある特許商品があって、そこにあるんですけど、水のいらない歯ブラシっていうの始めたんですよ。ちょっとそこ取ってもらえます?本の後ろに緑のやつあるんですけど、これ。これ出していいんかな?わかんないけど。これを口に入れて、これに歯磨き粉が染み込んでるんですよ。で、水がない、例えば災害とかしてる時とかに、歯をそれでコロコロすると磨けるって言って。発想もいいじゃないですか。
僕の知り合いがこれの日本の輸入代理店みたいなのやってて、これめっちゃおもろいやん、じゃ売りましょうって言って、コンビニとかドラッグストアとか営業行ったんですよ。実はちょっと入って、めっちゃ儲かるでってなったら、詳細は忘れたんですけど、入ってこんくなったんですよ。色々貿易上の話で。ほんで僕らその時在庫数百万買っとったんですよ。え、この在庫どうすんのみたいな。で、その商売はまず終わったんですよ。
ほんで、何個かそういうことをやってるうちにお金なくなってきて、実は何人かの社長のとこにも頭下げに行って、僕はもう商売やと思ってたんですけど、こんな状況になりましたって、何でもいいから使ってくださいって言って頭下げに行って。で、助けてくれた社長が何人かいて、分かったとか言って。何をやるんでもないんですけど、御用聞きで、言うたこと全部やりますとか言うて。ほんですごい助けてもらった時期が何個かあって。
で、そうしてるうちに、仕事が物になったりならんかったりを繰り返しながらやってて、今僕が議員になる前までずっとやってた会社にたどり着くんですけど、その会社に僕は最初にコンサルに入って、その後取締役になって、その会社が傾いたりなんやして、僕は一部引き受けることになるんですけど。そういうようなことで、だから紆余曲折して、潰れそうなったり、借金背負いそうになったりしたっていう。
え、そっから政治家に繋がる道が見えなくて、まだビジネス。元々、ちょっと戻ると、親父が昔ながらの頑固親父で、すごいいい教育受けたと自分では振り返っても思ってて。要は、自分の金儲けとか自分のためにじゃなくて、世のため人のため、また公に奉仕せよみたいなことをずっと言ってたわけです。
で、大学に行って初めて1人暮らしをして、父親に手紙もらったりしてね。その手紙は今でも大事に取ってあるんですけど、簡単に言うと、君は健康体で生まれてきて、頭も運動もできるように育ったんだから、人の5倍努力して世の中のために働きなさいってあったんですよ。で、それ僕は感銘受けて、やっぱり世の中のためって思い始めたんが大学の時やったんですよね。その時に教育者とか経営者とか、または政治家みたいなんに向き始めて、政治家なろうって思ったんですよ。わかんないですけど。
で、維新との出会いは2012年の維新政治塾やったんですよね。はい。橋下さんが立ち上げた、後の国会議員とか地方議員のための塾に申し込もうと思ったんですね。そうなんですよ。塾行き始めたのは何歳ぐらいなんですか?2012年なんで、31とか2とか。
で、議員になられたのが何歳で?僕はその後、2012年って総選挙があって、これには僕も出なかったんですけど、その後2014年に衆議院選挙があって、これも出なかったんですよ。で、2015年に都構想があって、これバツになって、その末に橋下さんが引退するんですよ。もう維新終わったみたいになって。
僕は知らんけどそこでスイッチ入っちゃって。橋下さんもその頃には、僕も今となっては分かるんですけど、一生懸命やろうとするとすごい殺伐とした時も出てくるわけですよ。すごいトゲトゲしてて嫌やなって思ってた時期も。でも騙されたのは、やっぱ最後の会見で、橋下徹さんとか松井一郎さんの最後の会見で、むっちゃ爽やかに負けを認めた時に、あらって思っちゃったんですよね。で、その後維新が潰れるかもみたいなムーブになった時に、いや、維新やっぱ潰したないし、それ俺もなんかやりたいねんけどってすっごい思ったんですよ。
ほんで公募出したんですよ。で、16年、1年間ぐらいかけて公募で選んでいただいて、16年の末に支部長っていう、次の公認になる役を頂いたんですね。で、その当時はもう維新もめっちゃ低迷期。で、17年の選挙に初めて出て、その時は36歳で、出て落選するんすよ。衆議院議員が11人しか通らんくて、今の1/4ぐらいしか通らんくて、私も落選したんですよね。
で、そっから、そのまま続けさせてほしいって言って続けさせてもらって、2019年にもう1回選挙なるんですけど、なんでかって言うと、その前の年に相手が亡くなられたんですよ。自民党の重鎮が高齢で亡くなられたんです。それで補欠選挙に出て、そこで初当選する。それが38歳です。
で、議員やってからの話で聞きたいことが、スピード出世すぎませんかっていうところ。幹事長になったのが40歳なんですけど、2019年に初当選しました。その前の17年の選挙で11人になってるんで、そこの中途採用みたいに入ったんですよ。つまり11人しかいないところに僕は入ったんです。一瞬12人になったんですけど、ちょっと1人やめられたりして、11人時代って言われてんですけど。11人しかいないんで、党の仕事ってもう若いやつチャカチャカやれよみたいな感じなんで、分かりましたみたいな感じで、ちょこまかいろんな仕事させてもらったんですよ。
ほんでその中で当時の幹事長だった馬場さん、その後代表になられるんですけど、馬場さんのカバン持ちみたいなんとか、馬場さんが「これできるか」「やっといて」って、分かりました、分かりましたって言って小間使いをずっとやってたんですよね。ほんで結構認めてもらって。上に気に入られるスキルがすごいっす。いや、それスキルと呼んだらなんかやらしいから、仕事ができたと。
いやいや、もう必死にやってるだけなんですよ。僕、議員になる前の時代に、これできるかって言われたらとにかくできますって言えって教わったん。あ、そういうタイプ。で、できますって言って、持って帰ってから、できひんねんけどって悩むじゃないですか。で、1週間でやらなあかんやったら、1週間以内に覚えてそれを仕上げろって教わったんすよね。だから、これできるかって言ったらできますって、ほんまにできんのか、できますって、持ち帰ってできひんねんけどなと思いながらでも追いつかせるみたいな、そういうスタンスでずっと仕事してきたんですけど、それで重宝してもらったんですよね。若いから、1番ペーペーやし。
それで2021年に総選挙があって、そこで大勝するんですよ、維新が。11人が41人になるんですね。で、1期生がざっと通ってきて、2期生やのに後ろから数えた方が早いの。1期生にはさすがにさせられへんよねと。ほんで2期生に。馬場さんが代表になられる、幹事長どうするってなった時に、じゃ、藤田で行こうかと。チャレンジ人事が行われて、藤田行ってみろ。2019年に初当選、21年にはもう幹事長、ナンバー2か3。2年半で。すごいですね。
若者の人見てるんで、仕事とかチャンスがあったら、なるべくはいって言っといた方がいろんなチャンスが回ってくるっていう。思えますけどね。僕の好きな言葉は「大事の思案は軽くすべし、小事の思案は重くすべし」っていうのがあって、要は大事なことは決めろと。で、細々したものはちょっと慎重に考えろと。普通は逆じゃないですか。でも大事なことは普段から色々考え、思い巡らしたりするから、めちゃめちゃ人生を左右するような2択がドンってきたらすぐ決めろと。そんなの普段から考えとかんとおかしいやろっていう。
そういう思想なんで、その代わり日々の細々したことって見落としがちやから、これいいですか、あれいいですかってなった時に、はいはいはいってやってたら、そういうところからすごいミスが大きくなっていくってあるから、小さなことほど、ちょっと待ってくださいねって確認してから決めろと、そういう教えがあってですね。だからドンって言われたら、どうせ1日おいてイエスって言うんやったら、今言った方が気持ちいいじゃないですか。
大事な仕事があったら、じゃあ藤田に任してみようかっていう思考になりやすいってことですよね。そうかもしれないですよね。そういう部下やったら頼もしいすもんね。確かに。いや、それはもう使い勝手いいっす。
ちなみに共同代表になられるまでの経緯を聞いても大丈夫です?全然大丈夫ですよ。まず、2021年に幹事長になりました。そっから3年させてもらうんですけど、次の選挙は2024年やったんですよ。あの時、僕らの運営も最後やっぱり至らない部分もあったりして支持率が結構下がっていって、最後1年ぐらいで、最後負けるんですよ。38に議席をちょっと落とすんですけど、それで馬場代表が交代する。私も馬場代表がやめる時に一緒に交代するっていう形で、2024年の選挙終わった後に平議員に戻ったんですよ。全て無になって、で、吉村になるんですけど。
で、その後参議院選挙が去年2025年の夏にあった時に、そこがあんまり振るわんかったんで、当時共同代表だった前原さんが、自分は降りるとおっしゃられて。次、共同代表誰にするかっていう時に、人にも推していただいて、私も手上げて、そこで国会議員の中で選挙して私が選んでいただいて、共同代表になるっていう。うちは選挙の度にトップとして審判を受ける、ダメだったら変わろうという、そういう仕組みになってるんで、そんな形で共同代表になったんですけどね。
今後の展望とかってあったりしますか?いや、今後は難しいんですよ。本当に。与党入りして。そうなんですよ。今回の選挙はすごい難しくて、野党として自民党とガチンコで戦うっていうだけじゃなくて、私ら85の選挙区でバッティングしたんでガチンコで戦ってるんですけど、でも自民党と一緒にこれをやろうって言った連立合意書とマニフェストを訴えてるわけじゃないですか。
で、高市さんとのやっぱ信頼関係ものすごい深くなってきたし、一緒に街頭でも戦ってて、途中から高市さんがすごい人気で、人集まりすぎっすよ。すごいことなってて、野党どころか連立パートナーの僕らも潰されて、進撃の巨人みたいに踏みつぶされるんで、もっと減るかって言われたんですけど、ギリギリなんとか現状維持ぐらいのところで踏みとどまったと。でもこれは僕らもそうなる可能性も分かって踏み込んだとかあるんですよ。
やっぱり大きいところと小さいとこが組むと飲み込まれるし、自民党って奥深いんで騙すこともするやろし、丸め込みもするやろし。でもそういう中で僕らの価値っていうのは、高市さんとこれやるって決めたことをとにかくやるっていう、政策実現にこだわるっていうことを言ってきたんで。大きさで言うと10倍ぐらいの差あるんですけどね。向こうは300超えましたと。で、うちは36なんで。でも1/1であれ、自分らの身分も怖がらんとにかくやろうっていうところでやっていくんで。だから今後の党の展望っていうと結構難しくてですね。とにかく国民の皆さんのために決めた政策を1つでも多く早く実現するっていうことをやる姿勢を見てもらって、あ、維新良かったやんとか、維新進んだやんって言ってもらえるようにやるしかないかなっていう。そういう感じなんですよね。
徹夜で高市さんたちと一緒に作ったみたいな。そうです、そうです。連立合意を。そうです。高市さんもこれ終わった後にちょこっとエピソードで言ってくださいましたけど、議員宿舎で結構毎日お会いさせてもらって、連立合意文章の詳細とか、ここの文言はこうちゃうかとか、これってこの理論に基づいてるよねとか、そういうのをずっと話して1個1個詰めていったんですよね。
だからハイライトで言うと、高市さんから協議やってほしいと、分かりました。で、大体そういう政党の合意って、3つから5つぐらいでこれでやろうかみたいなんが多いんですけど、
いや、連立政権入るってむちゃくちゃリスクやから、いや、それやったら政権の全体像というか国家の課題、重要な課題をできるだけ多く幅広く合意できる方がいいやんて思ったんですよ。ほんで僕と何人かのメンバーで項目を箇条書きにして、12領域これでどうですかって出したんですよ。ほんで叩き台の分とかもらって作って出したら、これいいやんてなったんですよ。
ほんで1個1個、そっからが詰め作業で、いやこれ多そうとか、いやここはこうしてとか、ここはこう書こうとかっていうのをずっと何回も何回も何時間もかけてやり取りして、夜な夜なやりましたね。
そう、吉村さんが普段大阪いるから。
はい。
もう結構な部分も、吉村さんも責任持ってやるけど藤田さんにも任せてもらってみたいな関係。内容のところはほとんど私が先方との細かいやり取りはして、当然報告しますよ。ここはこれ言ってますとか、ここもちょっと言ってほしいとかっていうやり取りはあるんですけど、交渉のフロントの担当者は私だったので。
うわ、すげえ、すごいや。
最後にこのチャンネルの視聴者層が20〜30代ぐらいなんですけど、そこに向けて何でもいいんで一言もらってもいいですか?
はい。私の人生の、なんて言うんですかね、今言った経歴みたいなのはあんまり参考にならないけど。
確かにあんまり再現性はない。
あんまり参考にならないと思うんですけど、私が大事にしてるものがあって、1つは全てのものは人であると思ってるんですよね。
うん。やっぱり全てのことは人間がやってるから、人間の感情1つでダメになることもあるし、本当は無理やろうと思ってたことでも、いいや、そこまで言うんやったらお前に懸けたるわっていうこともあるし。なので人間を知らなあかん、人間を信じなあかんっていうのが僕の大元にあるんですよね。
優れたビジネスモデル、めっちゃおしゃれな営業スタイルみたいなので勝ち続けるかって言うと、そうじゃないと思ってて、結局はそこに人の営みがあって、そこに人の熱量があるからもう1歩出たり、人が、いや、それ違うわと思って違う発想がパッて舞い降りてきたから跳ねたみたいなのっていっぱいあるじゃないですか。だから人を大事にしようっていう、そういう発想なんですよね。
ただ働き始めた頃はそれと真逆のスタイルですけど。
スタイル、
俺のこと気に入らんやつは辞めろみたいな。そういう反省を経てここに来たんですよね。そうだから、何でもチャレンジ、そして人を大事にしようみたいな、そんなことを僕は大事にしてやってきました。
うん。ああ、勉強になります。
いやいや、どうでしょう?
素敵な人。
今日はお忙しい中ありがとうございました。楽しかったです。ありがとうございました。
この町の空にせ こ時代のに もいなく となり
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