ゆる言語学ラジオ本大賞2025:「形は失敗に従う」と「生麦事件は交通事故だった」

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概要

ゆる言語学ラジオの堀元見と水野太貴が、2025年に読んだ本からそれぞれ1冊を選んで紹介する回である。対象は刊行から3年以上たった本に限っている。出版業界では新刊ばかりが注目されるので、少し古い良書を掘り起こそうという趣旨だ。前年は発表イベントを開いたが、今年は年末まで全国5大都市での出版記念ツアーが続くため、通常の収録で発表を兼ねたという。堀元はヘンリー・ペトロスキー的な工学者の視点で日用品を論じた『フォークの歯はなぜ四本になったか』を、水野は大山顕の写真集『立体交差/ジャンクション』を選んだ。偶然にも、2冊は「失敗から形が生まれる」という点で重なり合う。

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堀元の選書:『フォークの歯はなぜ四本になったか』

堀元が選んだのは平凡社ライブラリーの『フォークの歯はなぜ四本になったか』である。本の存在は2人とも以前から知っていた。水野は大学生の頃から読みたい本リストに入れていたが、まだ読んでいなかったという。堀元は姉妹チャンネル「ゆるコンピュータ科学ラジオ」を続けるうちに、身の回りのものの設計思想に興味を持つようになり、その流れで今年ようやく読んだ。

ところが、堀元の予想とは中身が違った。設計思想の本だと思っていたら、むしろ「設計で大事なのは思想ではない」と主張する本だったという。タイトルは狭い問いだが、本書が扱うのはあらゆる人工物のデザインに共通する原理である。堀元は前書きの一節を引用する。ナイフ、フォーク、スプーンの進化をとことん調べれば、テクノロジーが生んだものすべてがどう進化したのかという理論を導き出せる、という趣旨の文だ。水野は「過言ですね」と返したが、堀元によれば読んでみると結構本当だった。椅子や文字のような別の人工物にも同じ理屈が使え、ファスナーがなぜ生まれたのか、流行に流されたデザインはなぜ格好悪いのか、といった問いにもこの1冊から答えられるという。フォークの話は最初の1〜2割ほどで、残りはナイフやスプーン、ほかのさまざまな道具の話だと堀元は説明する。著者は工学者である。

「形は機能に従う」への異議

堀元はまず、デザインがどう決まるかについての従来の答えを確認する。水野が「機能性を追い求める」と答えると、堀元はそれで合っているという。有名な「Form follows function(形は機能に従う)」である。機能から逆算すれば形は自然に決まるという考え方で、頭韻を踏んでいて響きがよいので広く知られるようになった。堀元によれば、これはデザイナーにとって都合のいい答えでもある。機能を突き詰めれば正解にたどり着くという話は格好がよく、自分がデザイナーなら「これは私ではなく機能がデザインしたのです」と得意げに言いたくなる、と冗談を交えて話した。

本書はこの定説に異を唱える。食べるという機能は同じなのに、なぜ西洋ではナイフとフォーク、東洋では箸なのか。機能に従って最適解にたどり着くなら、どちらか一方に収束していなければおかしい。水野は食文化が違うからだと応じたが、堀元によれば、本書には「文化の違いに逃げるな」という趣旨のことが書いてある。形は機能に従うという原則が本当に成り立つなら、どちらかになるはずだ。文化の差で片付けずに別の説明を試みている点が面白い、と堀元は評価する。

ナイフからフォークへ:歯が4本になるまで

堀元は結論を明かす前に、タイトルの問いをたどる。聞きながら「形は〇〇に従う」の〇〇を考えてほしい、とリスナーにも呼びかけた。

堀元によれば、フォークとナイフでは先に生まれたのはナイフである。初めは片手で肉を押さえ、もう片方の手のナイフで切り、そのまま手づかみで食べていた。それが洗練されていないということでナイフが2本になり、両手のナイフだけで食べるようになった。ただ、この食べ方は口を切りやすく危ない。著者は冗談として、肉を頬張っているときに背後から襲われたら死ぬ、とも書いているそうだ。

さらに、ナイフで肉を押さえると1点で刺しているので、肉がくるくる回ってしまう。そこで先端を2つに分けて刺せば回らないだろうということで、2股のフォークが生まれた。つまりフォークは、押さえる役のナイフを改良したものとして生まれている。

2本歯のフォークは今も鉄板焼き店の調理場などで使われている。堀元の説明では、歯が少ないと刺したり抜いたりを素早く繰り返せるので、プロの道具としては効率がいい。歯を増やすと肉との摩擦が増えて抜きにくくなる。逆に食卓で2本歯を使うと、肉が抜けやすすぎて口に運ぶ前に落ちてしまう。そのストレスから3本歯が生まれ、もう少し増やしてもいいということで4本歯もできた。5本歯や6本歯も作られたが、今度は抜けにくすぎて食べづらく、ある時期から淘汰されたという。

「形は失敗に従う」

ここで堀元は本書の新説を明かす。「Form follows failure(形は失敗に従う)」である。こちらも頭韻を踏んでいる。すべてのプロダクトは失敗から生まれる、というのが著者の主張だ。ナイフ2本で食べると肉が回るという失敗から2本歯のフォークが生まれ、食卓でこぼすという失敗から3本歯、4本歯が生まれた。5本歯、6本歯では抜けないという逆向きの失敗が起き、4本歯に落ち着いた。

本書の副題は「実用品の進化論」である。堀元によれば、実用品は誰かが意図を持って作るのではなく、失敗を繰り返すうちに進化して生まれてくる。水野も、5本歯や6本歯の話はとても進化らしいと感じた。4本歯で環境に適応したあと、過剰な形質を持つものは淘汰され、4本歯だけが残る。ドーキンスを読んでいるような話だという。

堀元が本書を高く評価するのはこの点だ。日用品のデザインは一見いかにも人間の意図の産物に見えるが、本書はそれが生物の進化と並行しているのではないかと提案している。フォーク以外にも驚くほどの数の事例が取り上げられている。たとえばペーパークリップは、細長い針金を二重に巻いた今の形が主流だが、そこに至るまでに三角形を描くような形なども含め大量の失敗と改良があった。初期の状態が少しでも違えば、まったく別の形のクリップになっていただろうと本書は述べているという。

水野は、現代の進化論ではインテリジェントデザイン説、つまり神が意図して生物を設計したという考えが否定されていることに触れた。それは納得できても、工業製品は人間が意図して作っていると思っていた。ところが引いて見ると違う、というのが本書の衝撃だという。堀元は、1人のデザイナーが「これをデザインした」とは言えないのではないかと考えるようになった。デザイナーの仕事は0から作ることではなく、巨人の肩に乗って既存のものを1世代進めることだ、と堀元は受け止めた。水野は、自分がデザイナーなら少し無力感を覚えるかもしれない、と述べ、現役のプロダクトデザイナーからの反論も聞いてみたいとした。

反証はできるのか:ジェルボールの例

水野は、どんな工業製品があれば著者の説は反証されるのかと問うた。堀元によれば、それは本に書かれていなかった。

水野が挙げたのは洗濯用のジェルボールである。液体を詰めたフィルムの袋を丸ごと洗濯機に入れると、中の洗剤と柔軟剤が適量溶け出すので計量の手間がなくなる。計量が面倒だというアンケートが出ていたわけではないのに、発売されると大ヒットした。これは失敗から生まれたと言えるのか、と水野は疑問を示した。

堀元は、著者の立場からすればこれも失敗から生まれている、と答える。少なくとも作った人は計量を面倒だと感じていたはずだからだ。堀元は著者の主張を、デザイナーの仕事とは失敗を見つけること、つまり「このプロダクトはここが失敗しているから直そう」と思うことだ、と言い換えた。水野は、誰かに受け入れられた製品は誰かが不快に感じていたことを解消したものだ、という議論は反証が難しいと指摘した。堀元もそれを認めつつ、そういうものの見方があること自体に感動した、と述べた。

この前提に立てば、冒頭の問いにも答えられる。生物の進化と同じで、出発点が少し違えば、別々に進化したものが途中で合流することはない。恐竜から鳥のようなものが分かれて全く違う姿になったのと、箸とフォークが分かれたのは同じ構図だ、と堀元は驚きを語った。

身の回りの道具を観察する目

水野は、子どもは動物図鑑や動物園に夢中になるのに、カトラリーのバリエーションに夢中になる子どもがいないのはなぜか、と疑問を口にした。本書にはスプーンやフォークを熱心に集める人を指す呼び名も出てくる。フォークの柄の部分の形にちなんだ名前だそうで、堀元は名前の由来に首をかしげつつ、カトラリーマニアと呼べばいいのに、と笑った。

箸にも観察の余地はある。先端が細い箸を見るとなぜ高級感を覚えるのか、と堀元は例を挙げる。水野は、以前に割り箸を大量に割り比べるイベントを開いた堀元に、割り箸にも面白がる余地はあるかと尋ねた。堀元は当時この視点はなかったとしながらも、割り箸には個性があると話す。安い割り箸は割った瞬間に粉が散ったり、ささくれ立ったりする。高級なものはきれいに割れ、粉も出ない。これも粉っぽさを嫌って改良された結果で、失敗に従っていると考えられる。飲食店で割り箸をこすり合わせる人がいるのはささくれで手を怪我したくないからで、それを見て改良が進んだのだろう、というのが堀元の見方である。

堀元がこの本から得たいちばん大きな発見は、身の回りの工業製品は誰かが作ったからあるのではなく、人類が積み重ねてきたからある、という認識だった。突然変異が生まれては消えるのを繰り返した結果、今ここにあるマイクもパソコンも机もある、と堀元は語る。

水野は、「身近なものの見方が変わる」と言われる本について、出会う頻度という尺度があると指摘した。高層建築の面白さを伝える本もあるが、地方に住む人は高層建築をそう頻繁には見ない。一方、プロダクトは日常生活で必ず目にする。堀元の見立てでは人は毎日2000個ほど見ているし、スーパーに行けばその数は膨大だ。1回読むだけで世界の見え方が大きく変わる割のいい本だ、という点で2人は一致した。

水野の選書:大山顕『立体交差/ジャンクション』

水野の選書は、大山顕の写真集『立体交差/ジャンクション』である。堀元は、以前に番組で紹介した話ではないかと反応した。水野によると、以前紹介したのは同じ著者の『ジャンクション』という別の本だった。どちらも高速道路などで道路が交差する立体交差、つまりジャンクションを撮った写真集である。

以前『ジャンクション』を紹介したときは、兜町近くのジャンクションについて「証券の守り神とされているが、自分にはジャンクションの守り神にしか見えない」と書いたような、個々の写真のキャプションの面白さを取り上げた。今回の本で水野がすごいと言うのは写真ではない。巻末に収められた25ページあまりの論考「立体交差論」である。大山にとってジャンクションとは何かをまとめた短い文章で、水野はその魅力を「視点・雑学・構成」の3つに分けた。ただ、どう言葉にしても陳腐になるので、冒頭部分の内容を紹介するという。

生麦事件は交通事故だった

論考は、1862年(文久2年)、現在の横浜市鶴見区で重大な交通事故があった、という書き出しで始まる。薩摩藩の行列と、横浜に滞在していたイギリス人たちが衝突した生麦事件のことである。生麦事件を交通事故と呼ぶこと自体がひとつの視点だ、と水野は言う。

大山の論は次のように進む。島津久光の一行が移動しているところをイギリス人が横切り、無礼だとして斬りつけられた。島津の一行は現代ならグリーン車や新幹線を使っていたはずで、そうであれば事故は起きなかった。この事件はのちに薩英戦争に発展する。大名の前を横切ってはならないという文化・慣習の衝突であると同時に、本来交わるべきでない交通同士の衝突でもあった。堀元は、文化の衝突だとは思っていたが交通の衝突でもあったのか、と驚いた。水野は、グリーン車と歩行者がぶつかった事件だと大山は言っているのだ、とまとめた。

続けて大山は、イギリス人たちが向かっていたのが川崎大師だったのは興味深い、と書く。この寺には自動車交通安全祈祷殿があるからだ。ここまでで、まだ最初の1ページである。

止まれない交通と立体交差

大山はさらに、目的地までの距離によって移動の性質が変わる、と論を進める。遠くへ行くなら飛行機や新幹線のように速く移動し、近くなら歩く。距離が長くなると速度が上がるだけでなく、途中で止まらなくなる。新幹線の停車駅が少ないのもそのためだ。生活道路で車が一時停止せずに事故が起きるのは運転手のマナーの問題ではなく、自動車がもっぱら高速で長距離を移動するために進化した道具で、止まる性能が貧弱だからだ、と大山は書いている。

同じことが大名行列にも当てはまるという。行列の前を横切るのが禁じられたのは無礼だからというだけでなく、長距離を移動する大集団は簡単に止まれないという現実的な理由もあったのではないか。堀元は、ぎっしり詰まった行列を止めるのは確かに大変だと納得した。

ここで堀元は、最近読んだ美食ブログの記事を思い出した。テーブルマナーは人をおとしめるための無意味なものだと思われがちだが、そうではない、という内容だったという。ナイフとフォークをハの字に置けば「まだ食べている」、斜めにそろえれば「下げてよい」という合図になり、会話を中断せずに給仕とやり取りできる。水野は、機能が一人歩きして文化になったという点で大名行列の話と同じ型だと応じた。

大山によれば、立体交差とは、ブレーキの弱い長距離の交通と日常の移動のように、モードの異なる交通が衝突しないよう高さで分けるための仕組みである。その論に従えば、生麦事件が起きたのはジャンクションがなかったからだ、ということになる。

2冊が重なるところ

ここで堀元が気づく。生麦事件という失敗からジャンクションが生まれたのなら、これも形が失敗に従っている例ではないか。2冊を同じ回で紹介する意味があった、と2人は盛り上がった。

水野によれば、ここまでの内容は25ページのうちまだ2ページほどである。大山はジャンクションのほかに工場を好み、「工場萌え」という概念を提唱したことや、ショッピングモールの批評でも知られる。最近はマンションポエムにも関心を向けている。外から見るとばらばらな関心だが、「立体交差論」にはジャンクションも工場もショッピングモールも登場し、なぜそれらに惹かれるのか、共通点はどこにあるのかがはっきり言語化されている。大山の写真集を見てきた人には、これまでの関心が一気につながる伏線回収のような気持ちよさがある、と水野は語る。単純計算で、今紹介した視点と雑学が約13倍詰まっているという。本の大部分はあくまでジャンクションの写真で、そちらも見ていて楽しいと水野は付け加えた。

堀元による「実況プレイ」

この後、堀元が収録中に「立体交差論」を読み、「視点だ」と思ったら「視点」と声に出すという形式の「実況プレイ」が行われた。同時に水野も『フォークの歯はなぜ四本になったか』を読んだ。動画にはその一部だけが収められている。

堀元がまず反応したのはスケールの話だった。高速道路や送電線のような国家インフラは国土全体のスケールを相手にしている。しかし電柱は個人のスケールの中に現れるので、動かない巨大なものがぽつんと立っているように異様に見える。引いて見れば、国土全体に送電するための効率のいい網になっている。水野はPhotoshopのレイヤーを重ねるような感じだと表現し、高速道路にカーブが少ない理由の話にもつながると補足した。堀元は、大山が面白がる場所を自分たちは面白いと思っていなかったからこそ、この言語化が気持ちいいのだと語った。

土木工事は時間を止めようとする行為だ、という一節には2人とも傍線を引いていた。重力をコントロールする話や、タイムマシンの話にも堀元は反応した。発電所、ダム、臨海部のコンビナートといった話から、工場萌えの自分がジャンクションの裏側に惹かれたのは当然だ、と大山の関心がつながる箇所では、その後の文章を「うますぎる」と評した。

一方、水野は『フォークの歯はなぜ四本になったか』を読んで、2股の枝のような道具は先史時代からあったのに、フォークの普及はずっと遅かったという話に興味を示した。堀元によれば、この本は解説もよくできている。解説者は、著者が指摘しそびれた点として、フォークが普及した時期がルネサンスと同じであることを補足しているという。水野は「必要ではなく贅沢こそが発明の母なのである」という一節にも「視点だ」と反応した。

「立体交差論」の結びでは、2017年に生麦ジャンクションが完成したことが語られ、その立体交差の裏を見上げると、高架下に生麦事件碑がひっそりと建っている、という場面で終わる。生麦事件から始まり、その原因はジャンクションがなかったことだと論じ、実際に最近できた生麦ジャンクションで締めくくる構成に、堀元は「ブラボー」と拍手した。水野は、写真集は2500円(税別)だが、この25ページの文章だけでその価格を払ってもいいと思う、と述べた。堀元は総括として「視点の暴力」と表現し、「そんな見方があるのか」と12回ほど思ったと話した。

水野が受けた影響と、写真集としての価値

水野は、大山がどんな作家でどんな文章を書くのかを知りたい人には、この25ページが一番いいと考えている。この文章は立体交差に惹かれる理由を言語化し尽くしているが、説明という感じではなく、レトリックで殴る文章だという。水野はこれを読んで「自分が書きたかった文章はこれだ」と感じ、メモに「言語版の立体交差論」という項目を作った。大山のような文章を言語学で書くなら何がありうるかを試行錯誤したが、まだうまくいっていない。番組を始めて5年ほどの自分が書けるレベルではなく、円熟した人の文章だと水野は語る。それでも、自分が本当に書きたい文章や持ちたい作家性がわかったといい、今年は大山の過去作を含めてほとんどすべての著作を読んだという。水野は、紅茶やウイスキーやコーヒーを用意して、1ページずつじっくり読んでほしいと勧めた。収録中に急いで読まされた堀元は、もっとゆっくり味わいたかったと応じた。

水野は写真そのものも非常に良いと強調する。そのうえで、自分たちのように写真よりテキストのほうが理解しやすいタイプにとって、この本は写真集の入門にちょうどいいという。「立体交差論」を読んだ後は写真の見え方が変わり、立体交差を味わえる体になれる。堀元も、文章の中で、すべての写真を極端なパノラマで撮っているのは自分の心象風景を写真に落とし込みたかったからだ、という趣旨の記述を読み、大山に見えている世界がわかった気がしたという。写真集の見方一般を考えるうえでも役立ちそうだと述べた。水野は、写真家は自分の視点を人に再現してもらうために撮るものだとしたうえで、大山は写真でも言葉でも視点を提示できる珍しい存在だと評した。

同時代に顧みられないものを記録する

最後に水野は、大山が本の中で書いていたエピソードを紹介した。大山は昔から工場の写真を撮り続けてきたが、ずいぶん後になって工場を持つ会社に呼ばれ、御社の工場をたくさん撮ってきたと伝えたところ、とても感謝されたという。当事者は自社の工場を価値あるものとは思わず、記録を残していなかったからだ。立体交差、老朽化した建築、団地、工場、ショッピングモールと、大山は同時代の人に評価されていないものばかりを撮っている。そうした人が視点を持って記録しているからこそ、後の世代が助かることは多いはずだ、と水野は語る。

堀元は、「ゆる民俗学ラジオ」の黒川くんから聞いた話を重ねた。民俗資料は暮らしに密着したものばかりなので、驚くほど残らない。ある時代に米を炊いていた釜のように、当たり前すぎて誰も貴重だと思わないものは捨てられていく。大山はそうした、普通なら捨てられるものを記録してくれている、と2人は評価した。

番組の締めくくりでは、2人はリスナーに対し、自分たちが詳しくなかったり関心を持っていなかったりするジャンルでも「自分たちが読んでも面白い」と感じられる本があれば、コメントで教えてほしいと呼びかけた。