社員ゼロから年商367億円へ 藤原正明が語る「出世できない」と悟った会社員時代と大和財託の製販一体モデル

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概要

大和財託の代表・藤原正明は、岩手で育ち、岩手大学で機械工学を学んだ。卒業後はバルブメーカーの営業、三井不動産レジデンシャルでの分譲マンション企画、埼玉の不動産会社での2年間の修業を経て、32歳で一人で起業した。前期の売上は367億円、経常利益は33億円だと藤原は話す。本インタビューでは、「会社員として出世したい」と考えていた青年が、なぜ起業にたどり着いたのか、そして会社がなぜ急成長できたのかが語られている。

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「フェニックス藤原」の由来と炎上への姿勢

X上で「フェニックス藤原」と呼ばれていた由来について、藤原はサラリーマン時代の出来事を挙げる。会社の飲み会で急性アルコール中毒になり救急搬送されたが、翌朝きちんと起きて仕事をこなした。それが「復活した」として、当時いた業界内でフェニックスと呼ばれるようになったという。

この話をコロナ禍にXへ投稿したところ、「医療リソースを無駄にするな」「アル中を誇らしげに投稿するな」と大炎上した。藤原は自身を「炎上芸人みたいなもの」と表現し、炎上を知名度の向上に活用していると話す。炎上したのだからプロフィール写真もフェニックスにしたら面白いと考えて乗っかっただけで、自分から「フェニックス藤原」を売り出しているわけではないという。現在はフェニックスの表記を外している。

内装業の家に生まれた「夢が多い」少年

藤原の実家は、床張りや壁のクロス貼りを行う内装工事業を営んでいた。家族経営の4〜5人ほどの小さな会社で、「すごいお金持ちの家庭ではなかった」と藤原は言う。兄がいたため家業に関心を持つこともなく、自分は外へ出ていく次男だったと振り返る。

将来の夢はよく変わった。幼稚園ではコック、小学校ではF1レーサー、中学・高校ではプロの格闘家、大学ではエンジニアを目指したという。

格闘技は小学2年生から空手を始め、中学・高校では極真空手に打ち込んだ。極真は創始者の大山倍達が亡くなった後に分裂しており、藤原が出場したのは最大勢力とは別の、比較的小さな団体の全国大会だった。その高校生大会で全国2位になったという。試合で勝つために高校から筋トレを始め、会社員時代は仕事の都合で途切れた時期もあったものの、起業後は12年間継続しているそうだ。現在の体重は74kgで、ベンチプレスは130kg強。30代後半には145kgまで挙げたという。

空手をやめ、岩手大学へ

高校時代は本気で格闘家になるつもりだった。ところが藤原家では父も兄も空手をしており、あるとき父と兄が激しく殴り合う喧嘩をした。藤原はこれを「藤原家のお家騒動」と呼ぶ。空手が「暴力装置」のようになってしまったことで、空手をやめることになったという。

一方で勉強はできた。盛岡南高校では常に学年1〜2位で、父から「お前は大学に行けるのだから行け」と言われた。藤原によれば、盛岡南高校は偏差値50あるかないかくらいで、現在は人口減少による統廃合で消滅しているという。

進学先を県外にする選択肢は、自分にも親にもなかった。仕送りはできないので、自宅から通える国公立という条件になり、候補は岩手大学と岩手県立大学しかなかった。「行けと言う割に経済的には応援しない」と藤原は笑う。

週7日のアルバイトとクロムハーツの学生時代

岩手大学では機械工学を専攻した。理系は実験とレポートが多く、文系なら2単位もらえるような負担でも1単位にしかならず、忙しかったという。

サークルには入らず、アルバイトに明け暮れた。地元のショッピングモールで野菜の品出しやレジを担当し、月に20万円ほど稼いでいた。他のアルバイトの時給が700円程度のところ、仕事ができたため900〜950円をもらっていたという。土日も含めて週7日働き、休みはなかった。

稼いだお金は服につぎ込んだ。高校まであまりモテなかったことの反動で自意識が強くなり、当時ブームだったクロムハーツのネックレスや大きなキーリング、ウォレットチェーンを買い、レザーパンツを履き、金髪にしていたという。ただしモテたかと聞かれると「普通」と答えている。

大企業ではなく、出世できそうな中堅メーカーへ

岩手大学を選んだのは、得意な物理と数学を生かしたかったことと、車が好きでエンジンや車の設計に関わりたかったからだった。当時は超就職氷河期だったが、理系には学校推薦のオファーがあり、藤原の記憶ではスズキや日産などの枠があった。ただ自動車メーカーは人気が高く、成績上位者から埋まっていった。

藤原は学科100人中20位前後の成績だった。自分に回ってきたのは、上場企業である月島機械や油圧機器メーカーなどの推薦枠だったが、「大企業には行きたくない」と考えて断り、自己応募で就職先を探した。大学院進学も悩んだが、早く社会に出たいと考えた。

藤原が描いていたのは、会社員として成り上がっていく道だった。大企業ではなかなか出世できないと考え、社員400人ほどの中堅メーカーを選んだ。そこなら社長にもなれるのではないかという期待があったという。

バルブメーカーの営業で「陽キャ」に変わる

入社したのは株式会社ベンで、水道の本管などの配管に取り付けるバルブ類を作るメーカーだった。藤原は技術職として入社し、将来は工場で生産管理や新商品開発をしたいと考えていた。しかし会社の方針として、市場の声を知らなければいいものは作れないため、技術職もまず営業を経験することになっていた。結局、藤原は在籍中ずっと営業を担当した。

失敗談として語られたのは、社用車を大破させた事故だ。不具合を起こした商品の修理の帰り、スマホもカーナビもない時代に大きな地図を見ながら運転していて道に迷い、農道で脱輪した。車は1〜2回転して田んぼに落ちたという。会社には100万円強の損害を与えたが、藤原自身は無事だった。稲刈りが終わった時期で水が張られていなかったのが幸いで、水があったら危なかったと振り返る。

藤原は自分を「理系の田舎の陰キャ」だったと言う。トークが得意ではなく、営業には最初苦戦した。それでもベンでの経験で営業として大きく成長し、「強制的に陽キャに変わった」と話す。評価も得て大阪へ異動し、主任として同期や前後の先輩の中でも出世頭の位置にいたという。

退職の理由と、不動産業界への転職

ベンには6年間、2008年12月まで勤めた。辞めた理由は二つある。一つは、出世していくと役員や部長と話す機会が増え、あまり良くない上司に当たったことで「自分もこうなるのか」と思い、憧れを持てなくなったこと。もう一つは、部長になっても年収1000万円に届くかどうかだと分かったことだ。

藤原は2007年3月、26歳で結婚していた。大阪に来てからクラブの存在を知り、毎週通う中で出会ったのが今の妻だという。子どもも生まれ、生活のことを現実的に考えると豊かな暮らしは難しいと感じた。そこで不動産投資をしようと考えたが、当時の年収では融資を引けないと分かっていた。そのため転職を決め、どうせなら不動産業界がいいと考えた。現在は高校生の娘と中学3年生の息子がいる。

応募1000人超から4人の採用に残る

転職先は、三井不動産グループで住宅事業を担うデベロッパー、三井不動産レジデンシャルだった。仕事は分譲マンションの営業企画である。開発部門が用地を仕入れて開発した物件を、最大の利益で売り切るための企画を立てる。広告やCMをどう打つか、何人の人員が必要か、どんなツールで顧客に売るかを考える、幅の広い仕事だったという。

藤原は、中堅メーカーから大手への転職は「めちゃくちゃ奇跡」だったと話す。リクルートエージェントを通じた中途採用で、後に聞いたところ書類応募は1000人以上、採用はおよそ4人だった。飲み会で「よく僕を採りましたね」と尋ねると、社内でも意見が割れたが、とりあえず一次面接は通そうということになったと聞かされたという。

藤原の見立てでは、他の応募者はかしこまって「御社の街づくりの姿勢に共感し」といったきれいごとを話していた。自分は事前準備を細かくせず、方向性だけ固めてアドリブで臨んだ。飄々とした自然な態度から、作り話ではなく本心で話していると受け取られたのだろうと藤原は推測する。この姿勢は、現在のYouTube出演でも変わらないという。

年収はベン時代の約550万円から、1年目で約900万円、2年目で1000万円を超えた。

大手でも出世できないと悟り、起業へ

それでも2年半で退職した。理由は、出世できないと分かったからだという。早稲田や東大、京大の出身者がいる会社で、中途入社の岩手大学出身者は出世できない。「スペックって大事」と藤原は話す。

中堅企業でも大企業でも出世の道がないなら、行くところはない。そこで自分で起業しようと決めた。ただし、その前に起業のための勉強として、埼玉の不動産会社に2年間限定で就職した。社名は、現在は競合になっているため「M社」とだけ述べている。

撤退ラインを決めて32歳で起業

起業は2013年8月、32歳のときだった。家庭も子どももいる中で怖くなかったかと聞かれ、藤原は撤退ラインを決めていたと答える。35歳までにうまくいかなければ、会社員に戻るつもりだった。

資金面では、不動産投資と貯金で現金4000万円を用意した。さらに金融機関から創業融資として1600万円を借りた。そのうち1000万円は家庭用に残し、4000万円強を軍資金として起業したという。

資金力がなかったため、最初の事業は一棟の中古アパートやマンションの売り物件を、ネットで集客した顧客に紹介して売買を仲介するものだった。その後の賃貸管理も自社で引き受けた。

起業当初の目標は「10年で売上100億円、経常利益10億円」で、これを9年目で達成した。現在は13年目に入り、前期の売上は367億円、経常利益は33億円だと藤原は語る。1年目は売上がおよそ7億円、経常利益が約700万円だったと記憶しているという。

働き方は、4〜5年間ずっと朝8時半から夜12時までで、休みは正月だけだった。2年目以降はゴールデンウィーク、夏、冬にそれぞれ5日間ほどまとめて休むようになったが、それ以外の休みは基本的にない。年に350〜355日ほど働く生活が今も続いているという。

ハローワークで採った社員第1号

藤原は社員ゼロ、一人で会社を始めた。8月に起業すると、9月には最初の1棟が売れた。売買を担当しながら管理の実務までこなすのは無理なので、人を雇う必要が出てきた。資金がないためハローワークで募集をかけ、アルバイト経験しかない28歳のフリーターを社員第1号として採用した。

仕事は「バチバチ詰めながら」教えたという。また、飛び込みで営業に来た不動産会社の女性社員を「うちに来い」と引き抜いたこともあった。そうやって仲間を集めていったと藤原は振り返る。

成長の理由は「製販一体」の垂直統合

不動産会社が数多くある中で、なぜ急成長できたのか。藤原の答えは「製販一体」である。大和財託は不動産業を名乗っているが、実態は建設業、建築会社だと藤原は言う。社員で最も多いのは設計や施工管理の人間で、不動産営業より建築に携わる人のほうが多い。

ビジネスモデルは、自社で土地を仕入れ、自社で設計・施工して建物を建て、投資家に直接販売し、その後の賃貸管理まで自社で担う垂直統合型だ。藤原によれば、「自社で建築する」とうたう不動産会社の多くも実際は工務店に丸投げしている。また三井不動産のような大手も、スーパーゼネコンにタワーマンションを建ててもらい、それを仕入れている。

この構造では、ゼネコンの利益と不動産会社の利益の両方が乗った価格で、一般投資家に販売されることになる。大和財託はゼネコンとデベロッパーの役割を一社で担うため、両方の利益を一社で取れればよい。中間に入る会社を極力減らしているため、自社の利益も高くなり、顧客もいい利回りといい価格で物件を買える、と藤原は説明する。

役員に言われて上げた社長の年収

藤原の年収は今期から6000万円になった。それまでは4800万円だったが、社員や役員の年収を毎年上げてきた結果、藤原とナンバー2の差があまりなくなった。社長の年収が上がらないと下の伸びしろもなくなるため、役員から上げてほしいと言われて引き上げたという。

社員で最も稼いでいる人は2000万円ほどだという。東京本社の新卒1年目の理論年収は約440万円で、男性の総合職では1年目で約540万円になると藤原は話す。

上場しないから、SNSでは思ったことを言う

経営者としての実績を聞いたインタビュアーは、なぜXでそこまで「暴れている」のか分からなくなったと尋ねた。藤原は、面接のときと同じで、かしこまるのが得意ではないと答える。立場のある社長はSNSでもきれいごとしか言ってはいけない風潮があるが、自分はそれが嫌いで、政治的なこともタブーも思ったことを言う。喧嘩を売られれば、自分も人間だから言い返す。

藤原は会社を上場させるつもりがない。そのため、ステークホルダーとの調整さえうまくしておけば、基本的には自由にできると考えている。この運用方法を大きく変えるつもりはないが、「疲れたらやめるかもしれない」とも話す。今はまだ元気なので続けるという。

20代・30代へのメッセージ

最後に、視聴者に多い20〜30代の若者や学生に向けて、藤原はこう語った。45歳になって振り返ると、20代・30代の生き方が40代以降の人生を大きく決定づける。40代になってからもがいても、リカバリーはほぼ不可能だと思ったほうがいい。だから若い今の時間を有効に使ってほしい。

若さには体力があり、頑張れるし、楽しいはずだと藤原は言う。その時間の一部を将来を見据えて使い、仕事でも生き方でも自分の道を見つけて頑張ればいい、というのが藤原のアドバイスだった。