「山手線に暮らしたい」はなぜ「に」なのか――マンションポエムと広告コピーを言語学で読む

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概要

ゆる言語学ラジオの定期コーナー「広告コピーを読む会」の回である。水野太貴が取り上げたのは、大山顕の新刊『マンションポエム東京論』に収録されたマンションポエムの一つだ。水野は、著者があまり掘り下げていない言語学的な論点、つまり格助詞「に」と「で」の違いにこのポエムの核心があると主張する。後半では、リスナーが投稿した広告コピー、堀元見の地元・札幌市豊平区のコピー、そして尾身茂が書いた型破りな帯コメントが取り上げられた。

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350ページ二段組の『マンションポエム東京論』

マンションポエムとは、マンションの販売チラシなどに書かれる、やたらと購買意欲をあおる一文を指す。以前の回でも取り上げた題材だが、今回水野が紹介したのは、この分野の大著『マンションポエム東京論』である。350ページで、しかも上下二段組という文字量の本だ。

水野が最初に読み上げたのは、2017年の「ザ・パークハウス」の物件のコピー「JR山手線に暮らしたい」である。大山はこれについて、立地を誇る勢いが余って電車暮らしになってしまったようだと茶化している。格助詞の「に」にはさまざまな意味があり、ストレートに山手線の車両に住むと受け取るのは野暮だが、それにしてもパンチのある表現だ、というのが大山の評である。大山はそこから別の議論へ進むため、このポエム自体はそれ以上掘り下げていない。水野はここを言語学的に考えてみたいと切り出した。

メトニミーは日常に溢れている

まず水野が堀元に、このコピーを直すならどうするかと尋ねた。堀元は「山手線内に暮らしたい」だろうと答える。実際に言いたいのは山手線圏内に住みたいということで、それを「山手線」の一語に縮めている。この修辞は何かと問われ、堀元は、山手線にアクセスしやすい場所全体を「山手線」という別のもので置き換えているから換喩(メトニミー)ではないかと答え、水野はそのとおりだと認めた。

水野によれば、メトニミーは生活の根底に浸透していて、気を配らないとそもそも気づかないほどよく見られる。例として挙げたのが「お風呂を沸かす」だ。典型的には「お風呂」は浴槽を指すが、実際に沸かしているのはお湯である。堀元は、シャワーを浴びただけなのに「風呂に入った」と言うのは嘘ではないかと昔から気になっていたと応じた。水野は、これも「体を綺麗にする典型的な行動」で置き換えたメトニミーだと説明した。堀元が冗談半分に「狭義の風呂」「広義の風呂」を使い分けて回避していたと言うと、水野はその指摘は鋭いと受ける。一面ではメトニミーを許さないと主張している堀元ですら、「お風呂を沸かす」には違和感を持っていなかったからだ。

ほかにも「やかんが沸騰した」(沸騰しているのは中の水)、「鍋を食べる」(鉄の鍋をかじっているわけではない)といった例が続いた。水野は、メトニミーを言わない日はおそらく一日もないと言う。堀元は学生時代に「太宰治を読んでいた」と言っていたが、これも作品を作者名で置き換えている。水野は、認知言語学の立場からすればメトニミーは人間の認知の一部を反映した、言語の本質的な部分だという言い方になると説明した。

引っかかるのは「頻度の低い」メトニミー

では「JR山手線に暮らしたい」に違和感があるのはなぜか。水野は、メトニミーにも容認できるものとそうでないものがあり、そこには頻度が関わると考える。「太宰治を読んだ」は自然だが、「堀元見を読んだ」は変に聞こえる。すべての人の著作を人名で代替してよいなら、この差は説明できない。つまり、よく使われて気づかれないメトニミーと、「面白い言い方をしたな」と感じるメトニミーがあり、「山手線に暮らしたい」は後者、頻度の低いメトニミーだから引っかかる、というのが水野の見立てである。

水野はさらに、大山の「電車暮らし」という解釈自体もメトニミーだと指摘した。JR山手線は車両ではなく路線の名前だからだ。堀元は、山手線は線路の名前ですらなく、その区間を運行する路線という概念だと付け加えた。厳密に読めば、住人の家そのものがJRから山手線として認可を受けるしかない。二人はそこから、マンションを横倒しにして車輪をつけて走らせればいいという冗談に流れていった。

「で」と「に」はどう違うのか

水野が本題として挙げたのはここからだ。「JR山手線で暮らしたい」ならどうか。堀元は、これも変だが「に」のほうが違和感は強いと答えた。水野は例を出す。平日も休日も品川や上野や東京で飲んでいる人が「JR山手線で暮らしてるんだよね」と言うのは自然である。山手線を日常の交通手段として使い、その沿線を生活圏にしているという意味になる。ところが同じ状況で「JR山手線に暮らしてるんだよね」とは言いにくい。したがってこのコピーは、「で」か「に」かが大きなポイントになる。

水野はまず「この町には公園が多い」「この町では交通事故が多い」という例を出した。堀元が、「には」だと他の町には公園が少なそうに聞こえるが、それは「は」のせいではないかと口を挟んだため、「は」を外した例に切り替えた。「教室( )子供がいる」なら「に」、「教室( )生徒が騒ぐ」なら「で」が自然である。なぜか。

堀元は、「いる」は動きがなく静かなものだから「に」、「騒ぐ」は動きがあるから「で」を使うのだと答えた。水野は、それがこの上ない正解だと言う。水野が参照した『現代日本語文法2 第3部 格と構文 第4部 ヴォイス』の54ページには、「に」は静的状態にある事物の存在する場所を表すのが基本であり、「で」は動作・出来事の成立する場所を表すのが基本である、と書かれている。続けて、そのため「で」は動きのない存在状態のみを表す述語では用いることができず、また状態のない動きのみを表す述語では「に」を用いることができない、とある。水野の言い換えでは、「に」が表すのは存在の場所、「で」が表すのは出来事の場所である。

「に」が生むのは「滞在している」という優越感

この区別をコピーに当てはめると、「山手線に暮らす」はその人がずっとそこにいる静的なイメージになる。一方「山手線で暮らす」は、通勤、飲み歩き、買い物といった出来事の場所を指すので、そのエリアを動き回っている印象になる。

水野はさらに例を重ねた。「埼玉に家があるけど山手線で暮らしてる」は言える。住まいは埼玉だが、山手線沿線で遊んだり働いたりしているという意味になるからだ。しかし「埼玉に家があるけど山手線に暮らしてる」はかなり不自然である。ただし、仕事が忙しすぎて沿線の会社に寝泊まりしていたり、沿線のホテルに泊まり続けていたりする状況なら言える。つまり「に」を使うと、居住地がどんとそこにある、あるいはホテル暮らしのように滞在しているという印象が生まれる。

ここから水野は、このコピーは「で」ではないことがポイントだと結論づける。「で」のコピーは、埼玉に住んで通ってくる人にも当てはまる「活動範囲」の話になってしまい、マンションポエムとして成立しない。「生活圏にしているだけではなく、自分はそこに滞在しているのだ」という優越感を出せるのが「に」であり、水野の見立てでは、マンションポエムにおいては「で」より「に」のほうがいけている。

もっとも水野は、これは独自のアイデアではなく、このポエムの話を言語学者の飲み会でしたところ、島村先生が言っていたことをほぼ受け売りしたものだと明かした。『マンションポエム東京論』でも格助詞は注目されていて、第1章「マンションポエムの文法的特徴」には「マンションポエムの真髄『を』」という節がある。「〜を住む」のような用法はすでに大山が気づいているので、自分は「に」を推したいと水野は言う。大山がこの点に気づいたうえで書かなかった可能性もあるが、書かれてはいなかったので、ここで話したという位置づけである。

「困ったね」という一言の効き目

後半はリスナーから寄せられたコピーを堀元が読んでいく。クリンボーさんが送ってきたのは、二人の著書の版元でもある新潮社のコピー「知性の差が顔に出るらしいよ 困ったね」だった。

堀元は、現代の広告っぽくない、ともすると差別っぽさや嫌なスノッブさもあると認めつつ、投稿者の「『困ったね』を書き加える勇気がすごい」というコメントに同意した。「知性の差が顔に出るらしいよ」だけでもコピーとしては成立する。そこに「困ったね」を足すことで、エゴっぽさが薄れる。水野は、伝聞の「らしい」も興味深いと指摘し、全体として嘆き節の、平熱感のあるコピーになっていると言う。「お前みたいなやつはバカだ」という脅しではなく、「自分の知性がバレたくないな」という側に立っているから好感が持てる、というのが二人の読みだ。出版社なら「知性の差は顔に出ます」と脅すこともできるが、それでは確実に炎上する。敬語にするといちばん感じが悪くなる、と堀元は言う。

堀元は、「困ったね」は常人からは出てこない、異常な量の訓練を積んだ人の言葉の使い方だと評した。水野は本業の雑誌編集で記事タイトルを考えるとき、入れたい要素を棚卸ししてしまうので、そのやり方からは「困ったね」は絶対に出てこないと語った。このコピーは、そうしたアプローチから遠く離れた場所で考えられている感じがするという。

投稿者によれば、こうした要素はコピーライターの間で「エビフライの尻尾論」と呼ばれている。エビフライをエビフライたらしめているのは、食べられない尻尾である。意味は何も付け加えていないのに、それがないと良いコピーにならない、という意味だ。水野が、自分がタイトルの冒頭に勢いで「驚愕」と付けるのもエビフライの尻尾かと尋ねると、堀元は、それはなくても成り立つので違う、観光地のソフトクリームに載っている金箔だと切り捨てた。

「学歴、そして筋肉。」

ヨレさんからの投稿は、何年も前の東京六大学野球のキャッチコピー「学歴、そして筋肉。」である。厳密にはある東大の選手を紹介するコピーで、この選手は東大生ながらベンチプレス140kgを持ち上げ、神宮球場で通算4本塁打を放ったという。投稿者は、甲子園に出てスポーツ推薦で入学した野球エリートの早稲田の選手と対峙し、学歴だけでなく筋肉でも圧倒していくという展開が気に入っていると書いていた。

堀元は、絶対に組み合わせないもの同士の距離が面白いと評した。一方で、「学歴で殴る」という言い方もあるくらいで、意外と相性はいいのかもしれないとも言う。水野は、東大生は筋トレにはまりやすいという話を聞いたことがあると紹介した。やった分だけ返ってくるという点で筋トレと勉強はよく似ていて、そのフィードバックが楽しいのだという。ひょろひょろのガリ勉というステレオタイプとは裏腹に、実は遠いものではないのかもしれない、と二人は話した。ここから水野は、高校のハンドボール部で試合に負けると相手校の偏差値を調べていたという思い出を語り、雑談へ流れていった。

故郷のコピーをこき下ろす

アンコロ餅さんは、札幌の区のコピーを二つ送ってきた。一つは豊平区の「夢ひらく 花ひらく とよひらく」、もう一つは隣の手稲区の「手稲っていいね」である。豊平区で19年間暮らした堀元は、地元のこのコピーを初めて知り、本籍を移したい、実家に帰りたくなくなったと嘆いた。水野も「ダサい」と一言で評した。

水野は、「北海道はでっかいどう」も駄洒落なのに、という比較を持ち出した。堀元によれば、「北海道はでっかいどう」は海の幸や観光地や天然記念物ではなく「でっかい」を選んだところが偉い。それに対し「とよひらく」は、豊平区ならではの良さがどこにあるのかが分からない。

では堀元なら何を盛り込むか。堀元が挙げたのは、鮭が遡上してくる豊平川だった。けっこうな市街地を流れているのに、鮭が戻ってくる川として有名なのだという。最初に出した案は「夢ひらく 鮭ひらく」で、水野に「なんで開きにしたんですか」と突っ込まれた。水野は、鮭が戻ってくるのだから、人口がそれなりに流出する中でも、堀元のような人でも最終的に戻りたくなる場所という方向で攻めるべきだと提案した。堀元がそれを受けて「いつか激流を遡って帰ってくるんだ、この町」と言うと、元のコピーより悪くなったと二人で驚いた。水野が新潮社の要素を混ぜて「いつか激流を遡って戻りたくなる町 困ったね」と締めると、堀元は意味が変わってしまってコピーとして成立していないと返した。

マンションポエムは「マンションを隠す」

締めくくりに水野は再び『マンションポエム東京論』に戻った。水野はこの本の帯に推薦コメントを寄せる機会に恵まれ、「今年のベストはこれになるかもしれない」という趣旨の文を書いた。それは偽りではなく、今年これを超える傑作があるかというくらい刺さった本だという。そのうえで、この本はマンションポエムを分析した本ではない、という点が重要だと水野は言う。

水野が読み上げた導入によると、大山がマンションポエムを収集し始めたのは2004年である。きっかけの一つは、お台場のツインタワーマンション「ザ・タワーズ台場」のコピー「PLANET ODAIBA その惑星に住める日が来る」だった。本文は「都心と絶妙な距離を保ちながら、惑星のような輝きを放つ特別なエリア」と続く。大山はこれに「惑星は輝かない。それは恒星だ」と突っ込んでいる。堀元は、金星は恒星より明るく見えるのだから合っている、大山のほうがクソリプだと混ぜ返した。

大山は当初、このような突拍子もない表現を面白がっていただけだった。しかし他の物件の広告を集め始めてすぐに、マンションポエムは東京や大阪といった大都市に対して我々が抱いているイメージを増幅させていると気づいた。そこで歌われているイメージはもっぱら土地のものであり、マンションポエムはマンションについて語っていない。本書を一貫する主張は「マンションポエムはマンションを隠す」だと水野は言う。したがってこの本は、マンションポエムをきっかけに、我々が都市、特に東京をどのように見ているかを考える「都市論的エッセイ」だと自らを位置づけている。水野の比喩では、マンションポエムに光を当てると都市のイメージが反射して返ってくる。大山はそれをまとめている。

とはいえ、大山は1600以上のマンションポエムを分析しており、ポエムそのものに着目したコラムもある。水野が例に挙げたのは「金沢は『へ』、富山は『が』」というコラムで、ある面について金沢の物件では「へ」が、富山の物件では「が」がやたら出てくるという対比を独自に分析している。見出しそのものも読ませる力が強いと水野は言う。「戸塚はどこへ行こうとしているのか」「東京は田んぼ」「東京の地下にはパリが広がっている」「東京の外は北海道」「武蔵小杉のタワーマンションに住む鴨長明」といった見出しが並ぶ。

大山顕の「世界の受け身の取り方」

水野は、個人的には普段都市論を読まないが、大山が20年ほど研究してきた成果がまとまったと聞いて急いで読み、その結果として都市論を面白いと思うようになったと語る。堀元は、ただ収集しただけならコレクションの展示で終わりそうだが、それを分析に役立てているのだと受けた。水野によれば、本書はマンションポエムの歴史的な変化を追い、我々が都市に対して抱くイメージの違いをみっちり描いている。結論は労力に敬意を表して自分からは言わない、と水野は述べた。

水野は大山の他の仕事にも触れた。工場の写真を撮りまくった写真集『工場萌え』はヒットし、大山は工場見学のムーブメントの旗振り役になった。高速道路が交差する立体交差だけを撮った『ジャンクション』もある。団地をひたすら撮り、左右対称性が微妙に崩れているところや階段の外への張り出し方など、団地ウォッチャーとして面白い箇所を書いた『団地の見究』を読むと、素通りしていた団地が面白かったと気づかされるという。『マンションポエム東京論』も同じで、素通りしていた東京という都市がどれだけ面白いかを思わせてくれる本であり、マンションポエムを変だと馬鹿にする本では決してない、というのが水野の評価だ。

水野はこれを「世界の受け身の取り方がうまい」と表現した。街にあるものに対して「こうしたら面白いかも」というレンズが鋭く、それを言語化する力と、興味のない人にも読ませる筆の力が図抜けている。その集大成を凝縮したのがこの新刊ではないか、と水野は述べた。堀元も、家の周りを散歩していると錆びた古い工場を見つけてテンションが上がることがあると話した。

尾身茂の「まだ読んでいません」

最後に水野は、帯の推薦コメントを業界人としてウォッチしている立場から、驚いた一例を紹介した。感染症の専門家による著書『感染症道場破り シーズン1』の帯に、コロナ禍で連日メディアに登場していた尾身茂が寄せたコメントである。その内容は「まだ読んでいません。尾身茂」だった。

堀元は当初、読んでから書くべきだし、そんな原稿が届いたら編集者はボツにする判断をするのではないかと疑問を呈した。水野は、これは渾身のボケではないかと言う。帯を見た人が「何これ」と思わず手に取ってしまう効果がある。推薦文に「まだ読んでいません」と書くのは前代未聞で、それをやるのが一番面白いのは尾身茂だ。堀元や芸人がやっても悪態かボケにしかならない。官僚のような堅い立場の人がやるほど効く大喜利の中で、尾身は最強クラスだと水野は評した。コロナ禍に寝る間も惜しんで科学コミュニケーションに走り回っていた人だから許されそうな感じもある、と堀元も同意した。

水野は、自分も本当は帯に「まだ読んでいません」と書けたら面白かったが、今のランクではまだやってはいけないと語った。二人は、眼光鋭い人物が腕を組んだ写真付きで「まだ読んでいません」と書いたら面白いと想像し、そのボケをするために偉くなろうと言い合って回を閉じた。