面接で「えーっと」が多い人は落ちても仕方ないのか フィラー・吃音・面接の偏りをめぐる議論

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概要

「えっと」「あの」といったフィラーを面接で多用する人が不採用になるのは仕方がないのか。ゆる言語学ラジオの水野太貴と堀元見が、X(旧Twitter)で話題になった投稿をきっかけにこの問いを論じた回である。水野は言語学の立場から、フィラーを出す人を評価しない風潮に「抗いたい」と表明している。一方の堀元は、自分の話し方からフィラーを意識して消した経験があり、元の投稿に共感する側から議論に加わる。対話は吃音、フィラーの機能、面接という評価手法の限界、合理的配慮と企業規模の関係にまで広がった。

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発端となった投稿と、二人の出発点

1月15日、キャリア支援の仕事をしている中田潤一氏が次のような趣旨を投稿した。面接で落ちる理由として意外に多いのが「フィラーが多い」ことであり、フィラーを非常に多く使う求職者がいるため、できるだけ使わないよう指導している、という内容である。その2日後、水野は「えーとやあのといったフィラーを出す人間を評価しない流れには、言語学徒として全力で抗っていかなければならない」と投稿し、元の投稿とともに広く拡散された。

堀元は基本的に元の投稿に同意する立場から話を始める。かつて塾講師をしていた頃、授業を上達させようと自分の授業を録画したところ、フィラーの多さに驚き、一時期それを意識して消したという。そのため「フィラーがない方が優秀そうに見える」という感覚は理解できると述べた。水野も、これは多くの人が素朴に共有する実感だろうと認める。実際、水野の投稿には「えーととか言いまくってる人は優秀じゃないでしょ」という反応も届いたという。この回は、水野がなぜ抗いたいのかを説明し、堀元の意見がどう動くかを見る構成になっている。

論点1:吃音のある人にとってのフィラー

水野が最初に挙げたのは、吃音のある人への影響である。前回までの回で扱った内容の振り返りとして、吃音のある人の多くは文の最初の音、あるいはその次の音を出すときに困難が生じると水野は説明する。そこで「え」や「あの」を頭に挿入すると、本来の最初の音が文の途中の音に変わり、言いやすくなる。フィラーは吃音のある人が使う発話の技術でもあるということだ。

水野によれば、「面接中はフィラーを言わないようにしましょう」という教えは、一般論としては的外れではないかもしれない。しかしこの教えが広まれば、吃音のある人は困るのではないか、というのが最初の主張である。堀元は、それは吃音のある人にとってかなりの暴力になると応じた。水野は、フィラーを出さないようにと様々な場面で言われることで、吃音のある人が話し出すたびに強い緊張や不安を抱えるようになっていると付け加えた。

論点2:フィラーは無意味な言葉ではない

二つ目の論点は、フィラーそのものに機能があるという点である。水野は共著『言語沼』や単著『会話の0.2秒を言語学する』でも書いた内容として、「あの」と「えっと」の違いを説明した。「あの」は典型的には、伝える内容は決まっているが、適切な伝え方を検討しているときに出る。上司に退職を切り出すときの「あの、ちょっとよろしいでしょうか」がその例で、「辞めたい」という内容は決まっていても、どう言えば適切かを探っている状態だという。

一方の「えっと」はより汎用的で、伝える内容そのものを考えているときにも出る。水野が「√125は?」と問うと、堀元は「えっと、125ってことは……」と計算を始めた(途中で答えを間違え、例題の出し方をめぐる脱線が挟まる)。水野は、このような計算の場面では「あの、5√5」という言い方は不自然で、「えっと」が出ると指摘する。つまり両者は同じものではなく、使われる場面が違う。また聞き手にとっても、「あの、席を譲ってもらえませんか」と「席を譲ってもらえませんか」では印象が異なり、前者の方が丁寧に響く。

堀元は印象的なエピソードとして、ラジオに何度も招いてくれたTBSのアナウンサーの話を紹介した。アナウンサーとしてフィラーを消してきたその人が、被災地の人に電話でインタビューする際、なぜか「あの」と言ってしまう。むしろ「あの」を言わないと不自然に感じる。これは何なのかと尋ねられたことがあるという。水野は、「あの」を抜くと相手に向き合っている感じがなくなり、聞きづらいことを聞いているという態度が削ぎ落とされてしまうからだろうと説明した。

堀元自身、いまはラジオで意識的にフィラーを足しているという。一度意識的に消した結果、無意識では自然なフィラーが出せなくなったため、「これは伝え方が難しいのだ」と示すために意識して挿入している。その分認知負荷がかかっており、最初から消さなければよかったと振り返る。水野は、フィラーを消しすぎるとこういう人が生まれると笑い、堀元も、元の投稿の言説が一人歩きすると自分のような人が生まれるので良くない面もあるだろうと認めた。

フィラーは聞き手の理解を助ける

水野はさらに、フィラーが聞き手の理解を促進するという研究があると紹介した。これを聞いた堀元は、以前、落合陽一氏の番組「ウィークリーオチアイ」の内容を書き起こしたときの経験を思い出す。発言内容が難しくて理解しにくいことを示すために書き起こしたところ、「書き起こしだと理解できないが、本人が『あの』などを挟みながら話しているときの方が不思議と理解できる」というコメントがついたという。

水野の説明はこうだ。話し手は自分が理解している内容を話し、聞き手はそれを知らない状態で聞くのが典型的な会話である。聞き手は話を聞きながら頭の中でモデルを構築しており、そこには認知負荷がかかる。だから話し手が適切に淀んでくれると、聞き手が理解するための間ができる。「えー」や「あの」を削っていくと、聴衆が理解に使える時間もなくなる。

ここから話はゆる言語学ラジオ自身の編集に及んだ。最近の配信はテンポが良すぎて理解しにくいという声があり、実際には行っていないのに「編集段階で1.1倍速にしているのではないか」という説がコメント欄で繰り返し書かれるという。また二人が「オールナイトニッポンPODCAST」の代わりのパーソナリティを務めた際には、話し終えた後に一瞬の沈黙を挟むのが気になるという反応もあった。二人は普段、編集しやすいように0.6秒ほど黙って区切る癖がついており、いつもの編集担当者はそこを切るが、別番組では切られなかったためだと振り返る。

水野は、自分のフィラーは堀元よりは多いものの平均よりはかなり少ないと述べ、この回での立場の難しさを認めた。堀元によれば、番組の初期には水野も「えっと」をもっと言っていたが、編集の都合を意識するうちに減っていったという。水野は、日常会話ではもう少しフィラーを出すし、番組はあくまでエンターテインメントとして見せるための話し方なので、日常でこういう会話をしないでほしいと視聴者に呼びかけた。

「フィラーでなくてもよいのでは」という反論

これに対して堀元は反論する。伝え方に悩んでいることを示したいなら、「これはどう伝えればいいか難しいのですが」と言葉で言えばよく、フィラーを多用する必要はないのではないか。水野は、フィラーは言おうと思って出すものではなく無意識に出る点が違うと答えた。堀元は、それで脳の容量を使わずに済むのなら、むしろフィラーの方が効率よく思考できているのかもしれないと引き取った。二人はこれをAIのコンテキストウィンドウにたとえる冗談を交わしている。

中田氏とのやりとりで見えた「妥協点」

水野は、一方で「フィラーの多い人を落とすのはけしからん、差別につながる」とまで言いたいわけではないと述べる。問題が分岐しているからだという。まず吃音とは別の問題として、多すぎるフィラーをどう考えるかを整理したいとした。

投稿の後、水野は中田氏と直接やりとりしたという。水野の批判的な引用によって、中田氏のもとには「最低だ」「差別主義者だ」といった反応が大量に届いていた。それにもかかわらず中田氏は、水野の投稿を見て「この観点はなかった」と自ら投稿したという。水野は、自分の投稿は中田氏個人を批判したものではなく、フィラーを出す人を評価しないという世間の流れに抗いたいと言っただけだと説明する。中田氏の投稿も、よく読めばフィラーはない方がいいという思想を述べたものではない。面接で落ちる理由として意外にフィラーが多いという現象がまずあり、それで落ちるのはもったいないからフィラーを減らすことを意識してはどうかと助言しただけだ、と水野は読む。

したがって二人の対立は、フィラー廃止論者と擁護論者の対立ではない。中田氏は多すぎるフィラーは面接で落ちる理由になりうると言い、水野はそういう教えが一人歩きするとまずいと言っている。その中間にあるのは、「フィラーはどこからが多すぎるのか」という線引きの問題だと水野は整理した。

どんなときのフィラーが不信感を生むのか

水野は、すべての質問にフィラーを出すのも違うと考える。名前を聞かれて「えっと、えっと、水野大貴です」と答えれば、嘘をついているのかと疑われかねない(もちろん吃音の可能性は排除してはいけないと水野は留保する)。志望動機を聞かれて何度も「えっと」と言えば、舐めていると受け取られるだろう。営業に来た人に自社製品の強みを尋ねて「えっと、えっと……安いです」と返されたら、堀元は「全然だめだ」と応じた。

逆に、面接で堀元の考え方を一通り聞いた後に、「あなたの主張は当社の理念と矛盾するように思えるが、どう考えるか」と不意を突かれたらどうか。水野は、普通はこういう質問には「えっと、そうですね」と時間を稼いでから答えるはずだと言う。堀元は、フィラーを消した今の自分なら「非常に示唆に富んだご指摘ではございますが」とすらすら答えてしまいそうだと自嘲しつつ、改造する前の自分なら「えっと」と言っていたはずだと認めた。

両者の違いについて堀元は、製品の特徴はもともと分かっていなければならないことだが、不意を突かれた質問にはその場で答えを生成しなければならないと説明する。水野も同じ理解で、人はおおむね「それくらいは準備しておいてほしい」という範囲でフィラーを出されると不信感を抱くのだと言う。面接でこれが問題になるのは、面接官が準備してきてほしいと考えるラインと、志願者が実際に準備してくるラインにずれがあるからだ、というのが水野の仮説である。面接官は本気の人材を採りたいので高めのラインを期待しやすい。一方で志願者は多くの会社を受けているため、すべてに十分な準備はできない。このずれが「面接中にフィラーを言うべきではない」という説を生んでいるのではないかと水野は考える。

水野はまた、今回の論争が混乱した原因の一つとして、面接官側の意見と志願者側の意見は前提がまったく異なるのに、それを区別せずに話す人が多かった点を挙げた。

企業によって求める「流暢さ」は違う

水野は自身の就職活動の実感から、企業は大きく2種類に分かれると話す。大量の新入社員を一括で採用する大企業は、自己PR、学生時代に力を入れたこと、志望動機、長所、「あなたを何かにたとえると」といった定番の質問をよく聞く印象がある。一方、水野が働くマスコミは逆で、準備された回答をいかに剥がすかに重点を置き、意表を突く質問をしてくる傾向があるという。

水野は私見と断ったうえで、大量採用の企業が定型の質問をすることには一定の合理性があると考える。聞かれることが事前に分かっているとき、きちんと準備して本番でやり遂げる人かどうかを見たいのだとすれば、定型質問は理にかなう。堀元は、大手メーカーの面接で定型の質問ばかりで面白くなかったため突拍子もないことを言い、会場を沸かせて手応えを感じたのに落ちた経験を語り、そういう人材は求められていなかったのだろうと理解している。

出版社については、水野は想定問答がほとんど意味をなさなかったと言う。最近読んで面白かった自社の本くらいは準備できても、そこからの展開は面接ごとにすべて違った。水野はその場で例として、「3文字熟語のタイトルで10万部売れる本を作るとしたら、どんな本にするか」という質問を即興で作ってみせた。こうした面接では、むしろすらすら答える方が変だという。

水野自身の経験も紹介された。ある出版社で、出版業界について述べた意見に対し「他の業界にも同じことはあるのに、なぜ出版業界だけそう言うのか」と問われ、考えたことのない論点で困った。そこで「その件は考えたことがなく、いま考えが浮かばないので、面接の最後に改めて答えてもいいか」と申し出て了承され、最後に「正直まとまっていないが」と前置きして短く答えたという。その面接は通過した。堀元は、正直に思いつかないと言ったことが評価されたのかもしれないと述べた。

水野は、定型質問に流暢に答えられる人を求める企業があってもそれは致し方ないとする。堀元も、定型の説明をすらすら説得力を持ってこなすことが求められる営業職なら、そうした面接には合理性があると補足した。ただ実際には多くの企業はグラデーションの中にあり、準備してほしい質問にはすらすら答えてほしいが、その人らしさも見たいというバランスで面接をしているはずだと水野は言う。すべての質問に淀みなく答える志願者はそれはそれで怖い存在だ、とも述べた。中田氏自身も、フィラーを減らすよう指導する一方で、すべての質問にフィラーなしで答えるのは変だと述べているという。書籍編集者なら「えっと」をどれだけ言っても良い企画を出せる方がいいと堀元が言うように、職種によって面接が異なるのは当然だ、というのが二人の一致点である。

専門職と吃音、流暢すぎることへの不信

吃音に話を戻すと、事務職では吃音への理解を得にくいが、専門職ではほとんど気にされないこともあるようだと水野は言う。堀元は、アメリカで吃音のある弁護士が高く評価された話を聞いたことがあると紹介した。弁護士はすらすら話せて説得力があることがすべてだと思われていたが、その結果、詐欺師のように流暢に話す人ばかりになり、かえって吃音のある弁護士が誠実で信頼できると評価された、という話だという。

堀元はさらに、フィラーがまったくない歯科医に当たった経験を語った。「この親知らずは普通なら抜くのに1時間かかるが、僕は20分」と自信満々に話すので、かえって信頼できずに通うのをやめたという。水野によれば、Xでの議論でもフィラーがまったくない人は信用できないという声が少なくなかった。フィラーを足せばいいのかと冗談めかす堀元に、水野は量ではなく適切なタイミングの問題であり、意識して出せるものでもないので難しいと返した。

合理的配慮と「過重な負担」の曖昧さ

ここから吃音に関わる論点として、合理的配慮の話に移る。水野の説明では、合理的配慮とは、障害があることを事前に伝えても面接の結果などで不利にならないこと、あるいはバリアフリー化などの配慮を行うことである。学校ではもともと義務とされていたが、民間企業では努力義務だった。それが2024年4月の改正障害者差別解消法により、民間事業者にも法的に義務づけられた。したがって吃音のある人が面接前に申告すれば、企業は不利にならないよう何らかの配慮をしなければならない。

先ほどの「名前でつまるのは不自然だが、吃音の可能性もある」という話も、申告があれば面接官は吃音によるものだと分かる。ただし水野は、当事者が必ずしも申告できるわけではない点も指摘する。合理的配慮が義務であることを知らない事業者もいるだろうし、面倒がられることを懸念して名乗り出ないケースもある。それでも法律上は、当事者の自己申告を前提に制度が組まれているという。

水野が堀元と話したかったのは、上場企業が配慮をしないのは法的にも問題だとして、ごく小規模なベンチャー企業がどこまでできるのかという点だった。堀元は以前noteで、コーポレートガバナンスやハラスメント対応のルール、社会保険制度などは大企業を基準に作られていて、それを中小事業者に求めるのは理屈としては分かるが現実には難しい面もある、と書いていた。法律上の合理的配慮も具体的な内容までは定められておらず、「過重な負担がない範囲」とされる。吃音の程度や困りごとは人によって違うため、一律に定めれば制度からこぼれる人が出る、と水野は理由を説明する。どの規模の企業がどこまで公益性を持つべきかについて、水野は自分の中に答えがないと認めた。堀元は日本中の中小企業を代表して答えるのは無理だと断ったうえで、個人の経験として話を始めた。

堀元が見送った「女性枠」

堀元が社長を務めるペダンティックは、ゆる言語学ラジオなどを制作している。最近、新パーソナリティ兼プロデューサーの募集を出した際、女性枠を設けるかどうか悩み、結局打ち出さなかったという。出演するパーソナリティが男性に偏っていることは問題だと考えており、女性パーソナリティが欲しいとも思っている。大学入試の女子枠についても基本的には賛成の立場だ。そのため、外野から「こうすべきだ」と言うだけで自社ではやらないのはどうなのか、という問いを自分に向けていた。

最終的に堀元は、送られてきた動画や企画書が最も面白かった人を通したいという結論を選んだ。2〜3人採るつもりで、その枠を素直に上位の人にしたかったという。一方で、この職種に男性の方が応募しやすい空気があり、実際に応募者も男性が多いなかで社会構造を変えようと思えば、女性枠を出すべきだということも分かっていた。そのうえで、会社を潰さず成長させるための最善を優先して「許してくれ」と開き直った結論であり、罪悪感はあって割り切れていないと語る。水野は、その論点で立ち止まって悩んだこと自体が誠実に感じられると応じた。会社が大きくなればどこかで公益性を意識し始めるのかと問われ、堀元はそう思うと答えつつ、それが「今」なのではないかという疑問もあり、こう言い続ける人間はいつまでも変わらないのではないかとも悩んでいたと述べた。

イオンシネマの件と「利益追求と公益の一致」

堀元が印象に残ったとして挙げたのが、イオンシネマをめぐる炎上である。堀元の説明では、車椅子の利用者は歓迎されており、車椅子席も用意されていた。ただしそこから離れた、階段を上った先に追加料金の要るプレミアムシートがあり、ある車椅子利用者はその料金を払ってチケットを取っていた。スタッフがその人を運んで座らせていたが、人手がかかるため、ある日見終わった後に「次回からは車椅子エリアでご覧いただけないか」と言われた。そのことを本人が投稿し、賛否が巻き起こった。堀元の印象では否定的な意見の方が多く、6割ほどだったという。車椅子エリアがあるのだからそこで見ればいいという意見と、料金を払ったプレミアムシートで見る権利を奪うのは良くないという意見に分かれた。

堀元はどちらの意見も分かるとしたうえで、こう結論づけた。個人経営の映画館なら、それを受け入れていると潰れてしまうので、断る権利はあると思う。しかしイオンのグループは社会の公器と言える規模で、利益も大きく、CMの言葉選び一つに何億円もかけているはずだ。そう考えれば、車椅子利用者が嫌な思いをして投稿するリスクを避けるために、毎回スタッフが案内するコストは見合う。つまり大企業にとっては、利益を追求するためにこそ社会的に良いことをした方がよく、資本主義的な利益追求と公益がある規模で一致するのではないか、と堀元は考える。利益追求は背徳的に響くが、突き詰めると道徳的なことをした方がいいという話になるのがきれいだ、とも述べた。水野は、理念だけでは人が動きにくく、経済合理性があるという方が人は動くと応じた。

この観点から堀元は自社も見直す。ペダンティックは何十万人もの目が届く、圧倒的に人に見られる仕事をしているので、利益規模の割には女性枠の導入を相当早めに検討すべき部類の会社ではないか。水野はこれを、資本金の規模とは別に業種や業界も勘案すべきで、YouTubeやクリエイターの事務所はその判断を早めるべき業界ではないか、という主張として整理した。堀元は、経済合理性だけから考えているわけではなく、出発点は道徳的にそうあるべきだという直感であり、それが経営の論理と一致している方が美しく続くと考えている、と補足した。水野は、社長の思想だけで決めるより従業員に説明しやすいという利点も挙げた。結論として堀元は、まだそのフェーズではないと判断したという。

水野はこの話を面接の合理的配慮に戻す。「過重な負担でない範囲」という曖昧な基準を考える際、事業者の思想とは別に、評判の毀損による経済的損失を勘案すると見通しが良くなるのではないか、ということだ。この理屈なら、映画館での対応を告発する投稿もあった方がいいことになる。堀元はそれに同意し、自分が女性枠を考えているのも「フェミニズムの話をしているのに出演者に女性がいない」とネットで批判されているからで、その指摘はもっともだと述べた。叩かれるのは嫌だが、叩かれている方が健全な状態だと考えているという。

面接は能力をほとんど測れていない

最後の論点として水野は、そもそも面接は人の能力を正しく測れていないという話を持ち出した。堀元も、面接官が見抜いたつもりの評価とその後の実績が合致しないという研究をどこかで読んだと応じる。水野によれば、面接での候補者の評価とその後のパフォーマンスの相関係数は0.28にとどまる。2人の候補者のうち面接官が良いと判断した方が実際に優れている確率は、およそ58〜61%だという。

水野はその理由を二つ挙げる。一つは、面接官が第一印象を持ち、それを確かめる質問を重ねてしまうことだ。内向的で口下手な人には「チームでうまくやれましたか」としつこく聞き、陽気な候補者にはそうした質問を省くかもしれない。もう一つは、目の前の候補者について辻褄の合った人物像を作ろうとするバイアスである。水野は実験を紹介した。面接官にはイエス・ノーで答えられる質問だけをさせ、一部の候補者には中身と関係なくランダムに「はい」「いいえ」で答えるよう指示する。実験者は面接官が途中で怒り出すと予想したが、面接は何事もなく終わり、面接官は「候補者は誠実に答えていた」と評価したという。水野は、ランダムな星の配置に星座を見いだすのと同じで、ランダムな回答からも矛盾のない人物像が作られると説明した。これらの話はダニエル・カーネマンらの『NOISE』に詳しいとして、面接がそもそも公平な判定手法ではないという前提も知っておいてほしいと述べた。

堀元は経営者としての実感から同意する。人と会って話しても分からないので、タスクをやってもらう方がいい。動画編集者の募集なら、実際に編集してもらった動画が何よりもやる気と能力を物語るという。水野は、それは堀元の会社ならではで、一般企業はポテンシャルで採用していると指摘した。出版社で大学4年生に記事を書かせても書けないのが普通で、編集者はデスクに直される経験を積むことで書けるようになる。だから水野のいる出版社では、入社時点での原稿執筆能力は見ていないという。

そこに流暢性バイアス、つまり流暢に話す人の方が正しく見えてしまうバイアスが加わる。流暢に話す人を見て第一印象で優秀そうだと思い、それを確かめる質問を重ね、「やはり優秀だった」と採用する。そうすると流暢な人ばかりが採用される。水野は冗談めかして、自分はこの仕組みを利用して大手出版社に入ったとも言えると語った。

「なんか」が気になる堀元と、バイアスへの自覚

堀元は、面接は最低限の足切りには使えるのではないかと言う。寝癖のまま来るような、人に見られる意識のない人は落とせる。そして自分はどうしても「なんか」を多用する人が気になるという。子どもの頃からの癖のように連発されると、良い話し方を探す努力をしていないのではないかと感じ、話の中身が良くても寝癖と同じように見えてしまうという。

水野は、気にならないと言えば嘘になると認めたうえで、この回で言いたかったことを述べた。面接にはバイアスがあると理解したうえで面接しよう、ということだ。「なんか」が気になってしまう気持ちがあると知ったうえで、話の内容そのものはどうなのかを考えなければならない。これは「なんか」だけでなく、「えっと」や「あの」、あるいは面接中に吃音が出た人に対して「これほど詰まるなら仕事もできないのでは」と思ってしまう場合も同じで、それは流暢性バイアスだと一度飲み込む必要がある。水野は以前の回で、差別的な感情を持たないことは難しく、感情が起きた後にどうするかが重要だと話したことに触れ、話し方が苦手だと感じたときにそれを俯瞰し、面接には持ち込まないと抑制することが面接官に求められるのではないかと述べた。

堀元はそれには同意すると言い、「なんか」をカウントされるようなコメント欄の反応を想像して、余計な負荷がかかると嘆く。水野は、自分がきれいごとを言っているのは重々承知しており、きれいごとを言ったうえで自分の汚い面をメタ的に理解して生きていくつもりだと語った。

そのうえで堀元は、気になる理由を補足した。自分にはマッチョイズムがあり、特に喋りの仕事やそれに隣接する仕事を志す人が「なんか」を連発していると、自分の話し方を聞き直して改善しようと努力したのかが気になるのだという。エンジニアの採用なら「なんか」をいくら言っても構わない。最近の採用で気になったことを言いたかっただけだと堀元が明かすと、水野も、ポッドキャストで「なんか」を多用する番組があれば抑制した方が聞きやすいと認めた。二人の立場は大きくはずれていなかったと確認して、議論はまとめに入る。

白杖としてのフィラー、そして「待てる会話」

水野は議論を次のように整理した。まず吃音のある人にとって、フィラーは視覚障害のある人の白杖のようなもので、話すときの安全を確保するための道具である。極言すれば、面接でフィラーを言うなというのは、白杖を取り上げるのに近くなる。この点については合理的配慮の観点が必要だ。次に吃音のない人については、準備をしてこなかった人がフィラーを多く出す可能性は高いだろうが、フィラーが多い人が準備していないとは限らず、あくまで傾向の話である。また、フィラーが多いからといって無能だとは限らない。流暢に話すことと能力は基本的に関係がないのに、人は流暢に話す人を優秀だと思ったり、正しいことを言っていると勘違いしたりするバイアスを持っている。

さらに水野は、吃音に関する3回分の文献を読んで、吃音をめぐる問題は吃音のない人の心持ち次第でどうにでもなると感じたという。当事者がうまく話せないことで恥をかいたり嫌な思いをしたりしてきたのは、流暢に話せる人がからかったり嫌そうにしたりしたからだ。水野は障害の個人モデルと社会モデルを紹介する。かつて障害は個人の属性や特性によるものとされていたが、社会モデルでは、その人を取り巻く社会が障害を生んでいると考える。水野自身、眼鏡のない時代なら視覚障害のある人とされていたはずだが、眼鏡というテクノロジーのある社会にいるので障害者とは扱われていない。同じように吃音も、からかったり「早く喋れ」と言ったりする人がいなければ、話し方の個性にすぎないのではないかと水野は言う。

ここで水野は自著の主題に触れた。人は平均0.2秒で話者交代をしているが、世界平均が0.2秒だったというだけで、その長さに必然性や合理的な理由があるわけではないと水野は考える。0.2秒以上かかって少し待つことで大きな損があるとも思えない。堀元も、大勢を待たせるならともかく、二人の会話で0.2秒でも0.5秒でもほとんど同じだと同意した。水野は、0.2秒程度で交代する社会ができあがっているから、遅い人が遅いとされているだけだと述べる。

吃音について調べる中で水野が知りたかったのは、当事者はどうされるとありがたいのかということだった。言葉に詰まっているときに「明日ってこと?」と助け舟を出されると助かるという当事者もいれば、今言おうとしたのに、あるいは間違っていれば訂正する手間が増える、と嫌がる当事者もいる。水野がたどり着いた答えは「待つ」ことだった。助けを出すのでも出さないのでもなく、ただ待てば、どちらのタイプの人も困らずに話せる。

だから会話を待てる社会を作りたい、と水野は言う。会話の交代が速すぎるせいで、吃音や非流暢な人が目立ち、優秀でないとされる社会になっている。流暢だからと下駄を履かされてきた人間として、こういう社会は変なのではないかと思う、というのが最後に伝えたかったことだという。水野によれば、『会話の0.2秒を言語学する』の帯には「言葉をうまく伝えられずに悩むあなたに贈る」とあるが、本当に読んでほしいのは、言葉をうまく伝えられて悩んでいない人、つまり「早く喋れ」という圧をかける側であり、企業で面接をしている人だという。少しでも会話を待てる人が増えてほしい、という水野の願いで議論は締めくくられた。