「学校では正しいことを教えるべき」は本当か:方便としての単純化をめぐる水野と堀元の対話

YouTubeで開く ↗
概要

ゆる言語学ラジオの水野太貴と堀元見が、「教えるときにどこまで正確な知識を教えるべきか」を話し合った回である。きっかけはSNSで見かけた英文法の教え方への批判だった。二人は最初から同じ立場をとる。学校や予備校で単純化した説明をすること自体に問題はない、という立場である。そのうえで、単純化を批判する人の動機、教える側が持つべき理解、理科教育の組み立て方、コンピュータや言語のように説明しにくい対象の扱い方へと話が広がっていった。

20分で読めます

発端:他動詞・自動詞の教え方への批判

水野によると、最近Xのタイムラインである論争が流れてきた。ある予備校講師が、他動詞を「意味を聞いたら『何を?』と聞ける動詞」、自動詞を「『あっそう』となる動詞」と教えていた。これに対して「この教え方はおかしい」という投稿がたくさん見られたという。

批判の中身はこうである。「何を?」と聞けるかどうかで判断すると、resemble(〜に似ている)は他動詞ではないことになってしまう。「似ている、何を?」とは聞けないからだ。しかし実際にはresembleは他動詞で、「resemble 人」の形で「誰々に似ている」と言える。だからこの教え方は例外に当てはまらず問題だ、という主張である。

水野はここで立場をはっきりさせ、その教え方に問題はないと述べた。堀元も、ラジオとしては反対した方が聞きやすいと認めつつ、自分も問題ないと思うと答えた。二人の意見が一致しすぎていて、「二人でやっている意味があまりない」と笑い合う場面もあった。

there構文の回がモデルケースになる理由

水野がこのテーマを取り上げたのは、直前に配信した英文法のthere構文の回が分かりやすいモデルケースになると考えたからである。その回の要旨は次のとおりだ。学校では、there構文の意味上の主語には定冠詞のついた名詞が来ない、つまりthere isの後にはtheではなくaが来ると教える。ところが実際には「there the〜」という文はいくらでも見つかる。水野の説明では、there構文と「theがつかないもの」は似た傾向を持っているが、完全には一致していない。本質的な問題は定冠詞の有無ではなく、その名詞が新情報かどうかにある。

これを根拠に「学校英文法や文法書は間違っている」と言う議論があるが、水野はそれは良くないと考える。理由は単純で、「〜という傾向がある」と覚えるのは面倒だからだ。「絶対こうだ」というルールにしてもらった方が覚えやすい。「there構文の意味上の主語にはtheが来ない」と教えれば、ほとんどのケースでは合っている。しかも正確に教えたところで得はそれほど大きくない、と水野は言う。堀元もこれに同意した。正しい説明をされると「結局何?」となって何も分からなくなるし、「新情報」と言われても結局何なのかと思うので、a/theで覚えた方が分かりやすい、というのが堀元の感覚である。

理解は素朴な段階から精緻になっていく

水野は、「〜という傾向がある」を「〜である」と読み替えて覚えてよいと考えている。堀元はこれを喫煙と健康の話にたとえた。喫煙している人が必ず不健康とは限らないが、そういう傾向はある。だから「喫煙は不健康だ」と言ってしまってよいのであって、「うちの祖父は喫煙していたが100歳まで生きた」という例外を持ち出すな、という話だという。

水野は、傾向と「必ずそうなる」を混同すると素朴な人に見えるが、勉強する人は最初はそこから始まり、少しずつ精緻になっていくものだと述べた。堀元も、素朴な理解がないと複雑な理解はできないと言う。いったん「そういう話ね」と分かったつもりになり、その後で「でもそうとは限らない」と誤解を正していく。人間の理解はそういう形でしか進まないのではないか、というのが二人の見方である。AならB、BならCと正確に積み上げたい人もいるが、それは相当頭がよく、認知的な負荷に耐えられる例外的な人だと二人は考えている。

水野はこの話を、かねて嫌っている「ビジネス書を読む人を馬鹿にする風潮」と同じ構造だと言う。ビジネス書は読み慣れていない人でも読みやすく作られていて、そこから文芸書や学術書へ進む人もいるはずだ。自分にもその時期があったのに、手前の段階にいる人を「お前は読書家ではない」と言うのはおかしい。中学の教科書も同じで、これから複雑な理解に進む人に方便として分かりやすいことを教えているのに、「正しくない」と言うのは自分より手前にいる人を嘲笑う構図だ、と水野は述べた。

「最適性のレイヤー」と学術の安全地帯

水野は、教える内容の最適性は同心円状に何層も重なったレイヤーになっていると整理した。いちばん内側の小さな円は入門レベルで、there構文は存在を表す、「there+動詞+名詞」という形になる、といったごく簡単なことを教える。高校生レベルになると、be動詞だけでなくexistやliveも来る、意味上の主語の位置にtheのついた名詞は来ない、と教える。これは中学で教えた内容をある程度手放し、より精緻に描いたものである。そのさらに外側に、より複雑な学術のレイヤーがある。

水野が強調したのは、学術のレイヤーの正しさは外から「間違っている」と言われにくいという点だ。いわば安全バッファーが非常に大きい。その安全地帯から高校や中学のレイヤーの誤りを指摘するのは、とても簡単で安直である。一方で、学校の現場にいる人がどんな状況に置かれているかを踏まえて批判できている人は多くない、と水野は見ている。

教室には英語嫌いの中学生もいる。その中で教えられる範囲を一生懸命教えようとすれば、どうしても複雑なものを単純化することになる。そこへ「学校では間違ったことを教えている」と言う人が現れれば、それを聞いた素朴な中高生は先生の授業を馬鹿にし始めるだろう。批判する人が知りたいことにとっての最適性と、クラス全体に教えることの最適性はずれている。そのずれを意識しないまま話していることが問題だ、と水野は述べた。堀元はこの発言を強く褒め、「メディアで言うべきことはそれだ」と応じた。

ソ連崩壊の説明とラフスケッチ

堀元は、小学校の授業は今考えるとかなり間違っていたと話す。例に挙げたのは社会の授業で習ったソビエト連邦崩壊の説明だ。社会主義国では頑張っても頑張らなくても同じ給料しかもらえないので、みんながやる気をなくして崩壊した、と習ったという。

堀元は当時これに納得したが、落ち着いて考えると、それではソ連を作った人たちがあまりに愚かだということになる。堀元の推測では、当時は資本主義が暴走し、1日18時間労働のような非人間的な環境があった、という文脈があったのだろう。社会主義はそうではないものを目指す運動であり、ソ連もインセンティブを設ける工夫をおそらくしていた。そうした事情をすべて捨てて「みんな平等にしたから衰退した」と言うのは乱暴で、全然正しくない。

それでも堀元は、この単純な説明があったからこそ、大人になって調べたときにピンと来たのだと言う。最初に「資本主義に対する課題意識が」などと言われていたら、学びは何も始まらなかった。素朴な理解が先にあるから、らせん状に学びが登っていく。堀元はこれを絵のラフスケッチにたとえる。まず大雑把に形と構図を決め、その後で修正すればよい。その段階で「形が正しく取れていない」と言われたら、「その過程は後でやる」と言いたくなる、という。

例外:命や差別に関わる領域

水野はここで補足を入れた。人の命や差別に関わる問題は別だ、という点である。粗い形で誤解を招く理解をさせると問題になりうる領域があることは承知している。堀元も医療の話は分けて考えるべきだと同意した。そのうえで水野は、there構文や他動詞・自動詞の区別を間違えて人が死ぬことはない、と述べる。そんな事態が起こりうるなら、英文法のシリーズなど作らず医師に監修を頼む、と冗談めかして付け加えた。社会科や英文法のような分野には、そうしたリスクはないという整理である。

間違いを見つける喜びと飲茶の本

堀元は別の角度から論点を加えた。最初から正しい説明をしろと言う人は、学ぶ人から「間違いを発見する喜び」を奪っている、というものだ。

堀元が例に挙げたのは、二人が好きな書き手である飲茶の『史上最強の哲学入門』などの一般書だ。堀元は、飲茶の本は大筋は合っているが「99%言いすぎている」と笑いながら評する。たとえば最初の哲学者タレスについて、当時の人はすべてを神話で説明していたが、タレスは初めて自分の目で観察し、川の周りに多くの生き物がいることから、万物は水からできているのではないかと考えた、と説明される。しかし堀元は、当時の人が本当に全員神話で片づけていたのか、観察した人は他にもいたのではないか、文献からそこまで読み取れるのか、と疑問を向ける。

水野は、タレスが港湾の近くに住んでいたから気づけたという説も飲茶が紹介していたと補った。港の近くでは水をよく見るし、違う地域の人に出会い、違う神話で説明する人々に触れる。もちろん原因はそれだけではないが、この説明は分かりやすく面白い、と水野は言う。堀元も、「万物の根源は水」と言ったタレスを馬鹿だと思っていたのが腑に落ちたと振り返る。後でしっかりした哲学書を読むと「言いすぎている」と感じるが、あの第一歩がなければそもそも本を手に取っていなかった。

堀元にとって楽しいのは、かつて通ってきた入門書を後から意地悪な視点で見ることだという。誤字を見つけると少し嬉しくなるのと同じで、「あの説明はここが間違っていた」と分かると自分が賢くなった感じがする。堀元はこれを健全な学びのステップだと考え、きっかけをくれた間違った説明に「感謝しながら馬鹿にしている」と言う。ただしネットには書かず、内心で思っているだけだと強調した。水野が「飲茶はわかったうえで書いているのでは」と突っ込むと、堀元はそれを認めつつ、それでも本の説明の理解は上回ったと思っている、と返して笑いを誘った。

堀元によれば、最初から正しい説明を押し付ける人は、自分は優越感の中にいながら、後から来る人が見下す優越感を奪っている。二重の意味で最悪だという。ただし、学者が「正しく理解してほしい」という願いから指摘するのはまったく問題なく、嫌なのは優越感のためにやる人だ、と堀元はすぐに補足した。

学校教育を下げる予備校講師への違和感

水野は、予備校講師などが学校教育を否定するのは優越感のためだろうと見ている。塾講師としての経験もある水野は、こうした手法を以前から好まないと話してきた。理由は、自分の語る話のネタを学校教育という公的な場から持ってきているのに、その学校教育を下げている点が不公平だと思うからだ。学校教育を下地にして「実はこんな面白い話なんだ」と言うなら、学校教育を悪く言うべきではない。

水野はこれを、実家が裕福だという理由で友達に食事をおごる人にたとえた。本人が偉いわけではないのに、親の金というリソースで友達を満足させている。せめて「うちの親はいい人なんだ」と言ってほしい、と高校時代に思っていたという。学校教育を否定してカリスマ性を演出する講師は、カリスマの源泉を誤認させている、と水野は言う。堀元も同意し、学校の先生は素晴らしい仕事をしていると言っていこうと応じた。そのうえで堀元は、自分の中学には嫌な先生が多かったとも付け加え、公立の進学校を志望すると伝えたら「私立に行く準備は万端なんだね」と言われたエピソードを、いまだに許していない例として挙げた。

教える側は「方便だ」と知っているべきか

話の後半で水野は、切り分けて考えるべき問題がもう一つあると言う。教える側が「傾向がある」と「必ずそうである」を区別したうえで、方便として教えているかどうかである。学校の先生が「there構文の後にtheは絶対に来ない」と本当に信じているなら、それはどうなのか、という批判はありうる。

水野は、分かりやすい説明には内部構造のまったく違う2種類があると考えている。一つは、複雑なものを複雑なまま理解したうえで単純にした説明。もう一つは、単純な形でしか理解していない人が出力する単純な説明である。見た目はどちらも単純なので区別がつかないが、価値はまったく違う。

水野は自分の言語学の説明について、基本的には後者、つまり単純な形でしか理解していないまま話しているタイプだと認める。そのため台本を事前に監修者に見てもらい、複雑なまま理解している研究者に問題がないか確認してもらっている。研究者が作る単純な説明は、本人からすると気になる箇所が多く、単純化には大きな認知的負荷がかかる。一方、単純にしか理解していない人の説明は、それがすべてだと思って話すので流暢で歯切れがよい。人はこちらに引きつけられる。堀元はここで「ゆる言語学ラジオが人気になった理由です」と茶化した。

水野は、流暢で断言する話し手が好まれるのは人間の素朴な感覚として仕方ないと認める。そのうえで、研究者が複雑な理解を単純化してくれた説明には、その難しさに見合った価値があると言っていくべきだと考えている。堀元はアインシュタインのエピソードを挙げた。特殊相対性理論を分かりやすく説明してほしいと言われ、美女と話す時間は一瞬に感じ、熱いストーブの上では一瞬でも長く感じる、そういう感じで時間は伸び縮みする、と答えたという話である。堀元は、認知の話と物理の話はまったく別で、光速に近い移動も関係ないのに、「そういう方向の話だ」とだけ分かってもらえればよいと割り切ったところがすごいと評した。水野も、専門レベルでの最適性を捨てて一般向けの最適性まで持っていった例だと整理した。

水野自身の結論はこうである。学校や予備校で他動詞を「何を?と聞ける動詞」、自動詞を「あっそうとなる動詞」と教えることに問題はない。ただ、先生はそれが常に成り立つわけではないと知っておくべきで、理想を言えば、できる生徒が質問に来たときに答えられる状態にしておけばよい。堀元は、それも理想だが先生たちは忙しいので求めるのは酷だとも言った。水野は、番組を聴いている英語の先生が「説明をそのまま授業で使っている」と言ってくれることもあると紹介した。英文法シリーズで参考文献を明示しているのは、先生たちにそれを読んでもらえたらという思いもあるからだという。

間違った理科の先生から学んだこと

水野の意見は正しすぎて腹が立つので、もっと極端なことを言う、と前置きして堀元が持ち出したのは、単純な理解しかしていない人が単純な説明をしても最悪かまわない、という主張だった。

根拠は小学校の理科の思い出である。担任の先生が「物は重くても軽くても同じ速さで落ちる。鉄球でも羽でも同じだ」と教えた。生徒が「羽の方が遅いに決まっている」と反発すると、先生は実験をさせた。重さの違う鉛筆と消しゴムを同時に離すと、重い消しゴムが先に落ちる。そう指摘すると、先生は「離すタイミングがずれているだけだ」と答えた。堀元によれば、これは真空でしか成り立たない話で、空気のある教室では羽の方が遅く落ちる。実験設計も理解も根本的に間違っていた。

堀元はこれを、ガリレオ以前の人さえ下回る珍しい事例だと言う。アリストテレスのように「重い物の方が先に落ちる」と考える世界観は、真空でない条件ではおおむね正しい。ところがその先生はガリレオの知識を中途半端に取り入れて現実に当てはめ、人間の直感を下回ってしまった。

それでも堀元は、その先生はいい先生だったと言う。堀元が「タイミングを揃えても重い方が速い」と反論すると、先生は「本当かな、なんでだろう」と本気で悩んだ。堀元はその疑問を家に持ち帰り、親から真空の条件でないと成り立たないのではと言われ、子ども向けのガリレオの伝記を読んだ。そして、ガリレオは空気抵抗の条件を揃えるため、同じサイズで重さだけが違う鉄球で実験したらしいと知った。先生の理解は単純だったが、結果として堀元は複雑な理解にたどり着いた。理想ではないにしても、そういう先生が悪いとは言いたくない、というのが堀元の主張である。

水野は、自分で後から調べる生徒がいる場合には問題ないのだろうと応じた。そのうえで、この先生の良いところは、生徒に「おかしい」と言われたときに頭ごなしに否定しなかった点だと指摘した。「うるさい、そうなんだ」と返されていたら怖くなって嫌になっていただろう、と堀元も認める。最終的に二人は、「自分が正しい」という態度を取らないことがいちばん大事なのではないか、という点で一致した。

原子模型と科学史の追体験

堀元は理科が好きで、中学の理科教育は「よくできている」と話す。例は原子の教え方だ。中学では、中心に原子核があり、その周りを電子が回っている模型で説明される。しかし堀元によれば、これは厳密には正しくない。量子力学では電子は粒子としてではなく確率的な波として存在するので、正確に描くなら、原子核の周りにもやっとした雲のようなもの(電子雲)を描き、その濃淡として表すべきだという。水野が「水素なら電子は1個あるのでは」と尋ねると、堀元は、個数はあるが粒子として存在するのではなく雲の濃淡として描かれるべきだと答えた。そして、こう説明されても理解できないだろう、と付け加えた。

堀元がこの教え方を評価する理由は、理解の助けになるからだけではない。科学史の上では、ラザフォードが「物質は小さな原子でできていて、その構造はこうではないか」と模型を描いた。それが、原子核の周りを電子が回る素朴なモデルである。その後科学が発展し、電子は粒子として存在しているわけではないらしいとわかって、電子雲の図が出てきた。つまり、素朴な説明から正確な説明へと学んでいく過程が、人類の科学の歩みを追体験することになっている。水野も、古典物理学の後に量子力学、ニュートン力学の後に相対性理論を学ぶのも同じだと補った。

堀元はこれに気づいたとき、中学からこつこつ勉強してきてよかったと感動したという。最初から正確な理解をしろと言うのは、この発見の喜びも奪うことになる。さらに堀元は勢いに任せ、アリストテレスは間違いだらけだったからダメだと言いたいのか、パピルスに現代の論文と同じレベルのものを書けと言いたいのか、とまくし立て、水野に「誰もそんなこと言ってない」と突っ込まれた。

麻雀の教え方と「マウント」の構造

水野は趣味の麻雀の例を出した。初心者には「ポンやチーはするな、ゴール直前になったらリーチをしろ」と教え、ときには「ポンやチーは存在しない」とまで言う。ポンをするとリーチができなくなり、初心者でも簡単に上がれる方法が一つ減るからだ。この説明を咎める人はほとんどいないのに、英文法になると不正確さがやたらと指摘されるのはなぜか、と水野は問う。

堀元の答えは、ポンやチーを知っているというのは当たり前すぎてマウントにならないから、というものだ。麻雀でも、他人の打牌を見て「期待値的にこっちの方がいい」と言う打牌批判のように、マウントを取りたい人はたくさんいる。there構文でも、中学レベルには文句をつけないが、大学受験レベルになると「中学よりは理解している」というだけでマウントが取れるので、指摘が始まるのかもしれない、と二人は話した。堀元はさらに、ネットでマウントを取るコメントをつけている人は、現実の友人が減り、ネットでしか話を聞いてもらえなくなり、さらにマウントを取る、というループにはまっていると述べ、やめてほしいと訴えた。

正確に説明するほど分からなくなるコンピュータ

堀元は、姉妹番組のゆるコンピュータ科学ラジオで台本を書くたびに、この問題に苦しんでいると話す。現代のコンピュータは複雑になりすぎていて、正確に説明すると機械に詳しくない人には何を言っているのか分からなくなる。

例として挙げたのが、最近水野にポッドキャストの仕組みを説明したときの話だ。ポッドキャストにはRSSフィードがあり、最近更新された回のタイトルや音源のURLが一覧になっている。SpotifyやAppleなどの各プラットフォームはそれを見て音源のURLを取りに行き、再生している。だから番組側はRSSフィードを1か所更新するだけで、各プラットフォームで聴けるようになる。これを聞いた水野が「AppleやSpotifyは音源ファイルをもらっているのではなく、毎回URLを参照しているだけなのか」と言い、堀元は「その理解でいい」と答えた。

ただ、正確に言えばそうとは限らない。堀元によれば、プラットフォームが音源を素早く配信するためにキャッシュとして手元にダウンロードしている場合があり、その場合は別のURLを持っていることもある。さらに端末側が自動でダウンロードしていて、アプリはその端末内のデータを再生している場合もある。多段のキャッシュのせいで、データがどこにあるのか一概には言えない。こうした説明を始めると、不要な要素が8個くらい出てきて理解を妨げる。だから最も素朴なモデルを説明することになり、その結果「自分がコンピュータの仕組みとして説明しているのは1980年代のコンピュータだ」と感じることがよくある、と堀元は言う。2026年のコンピュータは絶対にその構造ではない、ということもある。

水野は、言語も同じだと応じた。言語は何千年も使われてきて、何度もアップデートされている。there構文も昔からあったわけではなく、指示詞のような用法から意味が薄れつつあった時期と、まだぎりぎり意味を保っていた時期があり、そうした歴史を経て今の形になったという。そのため「これは主語ですか」と聞かれると、主語の条件を3つ挙げたうち2つは当てはまるが1つは当てはまらない、という答えになりがちで、さらに主語の定義の由来まで説明し出すと話がつまらなくなる。前回の「主語ということでいいと思います」という言い方にはそういう背景があった、と水野は明かした。今回の目的のために面白く聞いてもらうにはここを捨てよう、という判断は大事なので、揚げ足を取るのは大目に見てほしい、とも述べた。

結論:レイヤーを踏まえた批判と、「正しさ」で殴ること

水野は、この回の話は全体として「最適性のレイヤー」という概念で説明できるとまとめた。場面に応じた最適な説明があり、それらは同心円をなしている。すべてを包む最も外側のレイヤーから「ここが間違っている」と言うのは簡単だ。批判するなら、内側のレイヤーでの最適性を考えたうえでなければ意味をなさない。「thereの後にtheが来るケースはある」という指摘自体は合っているので、ただ気持ちいいだけの批判も正しそうに見えてしまう。その批判に意味があるのかまで考えて読まなければ、割を食うのは英語が苦手な生徒に教えている学校の先生だ。それはもうやめないか、というのが水野の主張である。

堀元はこれを、自身の今年のテーマである「過度の正しさと戦う」につなげた。「正しい」は有利すぎる、と堀元は言う。「面白い」には「自分は面白いと思わない」という反論が成り立つが、「正しい」は反論されにくく、圧倒的な強者の権利として使えてしまう。面白さのためにやっている人を正しさで殴るのは本当にフェアなのか。芸人の冗談に「それで傷つく人もいる」と言うのは簡単すぎて、それで容易にマウントを取り、何者かになったつもりの人に反撃したい、と堀元は述べた。この考えは、ベンジャミン・クリッツァーの『モヤモヤする正義』を読んでから考え続けているテーマだという。

これに対して水野は、その話にはまだ完全には同意していないとし、別の機会に詳しく聞きたいと返した。今回の話から逸れすぎるので、改めて扱うことになった。最後に二人は、今回は自分たちの営みを正当化してきたと自嘲した。そのうえで堀元は、「自分を正当化するな」というコメントもまた過剰な正しさで人を殴るものだと述べ、冷笑の時代とうまく戦っていきたいと話して回を締めくくった。