「文」とは何か:語との境界、長すぎる文、言いさしから考える

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概要

「文って何ですか」。ゆる言語学ラジオで水野太貴がこう投げかけると、堀元見はまず「私は堀元です」のようなひとつながりが文だと答えた。では「犬」の一言はどうか。「この問題わかんないんですけど」のように言い終わっていない発話はどうか。問いを出した水野自身も、すぐには答えられなかった。

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この回のゲストは韓国語を専門とする言語学者の黒島規史である。黒島は、誰もが当たり前に使っている「文」という単位が、実は言語学者にとっても定義の難しいものだと示していく。小さい単位である「語」から見ても、大きい単位である長い文から見ても、文の境界ははっきりしない。さらに話し言葉を見ると、「〜けど」「〜たら」で終わる「言いさし」が大量に現れる。この回はこうした論点を順にたどり、最後まで明確な定義を出さずに終わる。

第1回で残された問い

この話題には伏線がある。ゆる言語学ラジオの第1回で、水野は「みんなが思う基本的な言語の単位は文だろう」という趣旨の説明をしたが、文そのものの定義は語らなかった。今回、黒島はその「文とは何か」を正面から取り上げた。

水野がまず挙げたのは意味からの見方である。主語と述語、つまり「何かがこういう動作をする」「こういう状態である」というまとまりを文と捉えることはできそうだ、という考え方だ。これに対し堀元は「文っぽかったら文でよくないか」と言い、そんな研究に予算を使うなら半導体開発に回したほうがいい、と茶々を入れた。黒島は、最近は自然言語処理でも文の単位をうまく区切れたほうがよさそうな場面があり、注目されているテーマではあると応じつつ、定義は曖昧で難しいと話を進める。

ハスペルマートの定義「文とは最大の節である」

黒島が最初に紹介したのは、言語学者マーティン・ハスペルマートによる簡潔な定義である。ハスペルマートは「文とは最大の節である」とする。

では節とは何か。黒島によれば、これも定義は難しいが、英語で言えば主語と述語がそろったまとまりを節と考えてよい。名詞節や関係節のように、節は入れ子にできる。例として挙がったのは「太郎は、次郎が花子のことを好きだということを知っていた」という文だ。「次郎が花子のことを好きだ」という節が、より大きな節の中に埋め込まれている。ハスペルマートの定義では、いちばん外側の「〜を知っていた」までを含むまとまりが、最大の節つまり文になる。

黒島はこの定義を「すごくいい」と評価し、ハスペルマートが間違っていると言っているわけではないと断っている。そのうえで、いろいろなケースを考えていくと、これだけでは収まらない現象が出てくると述べる。ここから黒島は、文を「小さい単位」と「大きい単位」の両側から考えていく。

語なのに文のようなもの:エスキモー語の例

小さい側の単位は「語」である。文を細かく切っていくと語で構成されているように見えるが、黒島によれば、語と文の間には「文っぽい語」が存在する。

ここで紹介されたのが宮岡伯人の『「語」とはなにか:エスキモー語から日本語をみる』と、続編の『「語」とはなにか・再考:日本語文法と「文字の陥穽」』である。「語とは何か」だけで本が2冊あり、しかも再考のほうが厚いことに堀元は驚いていた。水野は、語をめぐっては類型論の立場から論じた本もあり、言語学者はさまざまな角度から語とは何かを考えてきたと補足している。

宮岡の本が扱うエスキモー語は、「複統合的」(ポリシンセティック)と呼ばれるタイプの言語である。黒島は宮岡の新書から例を引いた。ベースとなるのは舟を表す単語で、ここにさまざまなパーツを付けていくと、「俺はお前に大きい舟を作ってもらいたいのだけれど」に相当する内容を1語で表せる。

ポイントは、日本語訳では「俺は」「お前に」と分けて書けても、エスキモー語ではこれらを1つずつばらせないことだ。単独の単語として発音できるのは舟を表す部分だけで、そこに付いているのは単独では使えない小さなパーツである。水野は英語の三単現の -s のようなものだと言い換え、黒島も過去の -ed のように単独では使えないものが次々と付いているイメージだと応じた。単語未満の要素がくっついているだけなので、全体はあくまで1語ということになる。

意味の上では文に相当するのに、形の上では単語になっている。堀元は「確かにグラデーションだ」と納得した。水野が、エスキモー語では文のようなまとまりを作ることもあるのかと尋ねると、黒島は、語を組み合わせることはできるが、この程度のまとまりなら1語になってしまうと答えた。

「振り込め詐欺」と文の包摂

次に黒島が取り上げたのが、ゆる言語学ラジオでも何度か出てきた「文の包摂」である。典型例は「振り込め詐欺」だ。「振り込め」は命令形で、それだけで言い切っているので文とみなせる。ところが「振り込め詐欺」になると、全体で1つの単語になってしまう。

水野の補足によれば、日本語では名詞の前に修飾要素を置けるが、ふつう命令形は置けず、連体形などにする必要がある。堀元はこれを「文を形容詞みたいに使っちゃってる」とまとめ、黒島もいい例えだと認めた。

この現象を研究している泉大輔の発表タイトルとして、黒島は「ボックスティッシュ向けられたら特に必要じゃなくてもとりあえず1枚取っちゃう説」を紹介した。「〜説」の前に長い文をそのまま置いた例である。黒島はここで『水曜日のダウンタウン』の「おならとゲップ同時に出すのは至難説」も文の包摂ではないかと投げかけたが、この例は意外に判断が難しかった。「出すのは至難」までで一文らしく見える一方、「至難」で終わっているため、名詞と名詞をくっつけた形にも見えるからだ。

水野は判断の手がかりを挙げている。名詞を修飾する位置には、ふつう「ね」「よ」のようなモダリティを表す終助詞を入れられないとされるが、文の包摂なら入れられる。「おならとゲップ同時に出すのは至難だよ説」のように言える。伝統的な日本語文法では非文法的だが、文の包摂による逸脱的な造語としては許される。だから番組のタイトルに「ね」や「よ」があれば判断しやすかった、というのが水野の見方である。

長いと文らしく、短いと語らしい

では振り込め詐欺の「振り込め」は文なのか。堀元は、「振り込め詐欺」だけなら単語っぽいが、極端に長い説明を前に付ければ文っぽく感じると述べ、黒島も同意した。先の「ボックスティッシュ〜説」のように前の部分が長いと、その部分は文らしく感じられる。

逆に、なじみすぎて文の包摂だと気づかれない語もある。黒島が挙げたのは「置いてけ堀」だ。釣った魚を「置いてけ」と言われる怪談に由来し、「置いてけ」は命令形である。もう1つは「したり顔」で、「する」に「たり」が付いた形、つまり「やったった顔」という意味になる。どちらも文の包摂だが、「置いてけ」や「したり」の部分を文だと思う人はほとんどいないだろう、と黒島は言う。水野は、短いほうが語らしさが出るとまとめた。

黒島の専門の韓国語は、日本語とよく似ている言語だが、この文の包摂はあまりできないという。水ダウのタイトルを韓国語にするなら、最後の「説」を「仮説」などに変え、「〜という仮説」のように修飾関係をはっきりさせる必要がある。日本語のように文をいきなり放り込むことはできない。堀元はこれを受けて「水ダウの面白さは韓国に輸出すると減っちゃう説」と言い、黒島も「翻訳できない説」はあると応じた。

長すぎる文:伊勢物語と節連鎖

大きい側から見た問題は「どこまでを一文と言っていいのか」である。黒島はこれを節連鎖という現象として紹介した。節がどんどんつながっていくことを指す。

水野は古典の授業で『源氏物語』を読み、一文がなかなか終わらないと感じた記憶があるという。黒島が持ってきたのは『伊勢物語』の「行く先多く、夜も更けにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる倉に、女をば奥に押し入れて、男、弓・胡籙を負ひて戸口に居り」という一節である。堀元はここで切れる箇所が4つぐらいあると言い、「下手くそな文」と笑った。

黒島の数え方では、読点までを1つの節とするとこの一文には7つの節が入っている。ここで黒島は受験生向けのコツも紹介した。古文では「ば」のところで主語が変わることが多く、9割以上がそうだという。「て」でつながっていれば主語は同じだが、「ば」のところでは主語が変わっている、と見当をつけながら読めばよい。

黒島は学部時代に古典ギリシャ語を学んでいたが、ギリシャ語にもやたらと長い文が出てきて大変だったという。昔の人は同じ発想だったのかという堀元の問いに、黒島は、一文一文が簡潔なのはむしろ今の発想で、昔は話し言葉がベースにあったから文が長くなりがちだったのではないか、と推測を述べた。

水野は以前のゲスト回で出た、源氏物語は女房たちが口で語ったものがそのまま文になった、という話を思い出した。実際に語られたものを文字に起こすと、人はそれほど文ごとに区切って話していない。伊勢物語もその特徴を残していて、そのために現代の読者には一文が長くだらだらしているように感じられるのかもしれない、というのが水野の考えだ。黒島もその可能性を認め、実際に普通の会話を文字に起こすと「なんとかして、なんとかなんだけど」とずっと続くことがあると述べた。堀元は、水野がだらだら話し続けるせいで編集点が見つからずにいらいらした時期があったと明かしている。子どもの会話や作文も「〜して〜して」と長くなりがちだ。

書き言葉のレンズで話し言葉を見ると

ここから水野は一つの整理を出した。書き言葉から文を定義しようとすると短く典型的な文が見えてくるが、そのレンズで話し言葉を見るとうまくいかない。

黒島も、書き言葉なら句点で終わっていれば一文とカウントしてよいかもしれないが、それは書き言葉の基準で文法を見ていることになる、と同意した。冒頭の「〜んですけど」で終わる発話も、書き言葉ではまず見かけず、話し言葉だから成り立っている。研究ではどうしても書かれた言葉を基準にしがちだが、実際の会話をきちんと見れば「けど」や「ね」で終わる文はたくさん出てくる。水野は、「文とは何か」という問いには、話し言葉と書き言葉のどちらを対象にするのかというところから始めるべきだったのかもしれないと述べた。

3時のヒロインのコントと「言いさし」

黒島が次に紹介したのは、お笑いトリオ3時のヒロインのコントである。修理屋を訪れた福田が「これちょっと修理したいんですけど」と言うと、相方が「あなたのターンですよ」と返す。「修理したいんですけど、何ですか」というわけだ。黒島は、これは完全に日本語の「言いさし」のコントになっていると評した。

日本語の「けど」「のに」などは接続助詞と呼ばれる。名前の通り、本来は「〜したのに〜だった」のように後ろに接続するものだ。それが後ろに接続せずに終わっているものを言いさしと呼ぶ。

言いさしは日常にあふれている。黒島が挙げたのは、人に何かを勧めるときの「ちょっと休んだら」である。この「たら」は「〜したら〜」とつなげるときの接続助詞だが、ほとんどの人は気づかない。黒島自身も修士1年のころまで意識していなかった。韓国語専門とはいえ日本語で研究していたのに気づかなかったので、かなり衝撃だったという。堀元は、「ちょっと休んだら」に「あなたのターンですよ」と返されることはないと言い、言いさしのたびにそう返せば、どれだけ日常に言いさしがあふれているかを周囲に意識させられる、と冗談を続けた。黒島の答えは「友達がいなくなりますね」だった。

英語論文で知った insubordination

黒島がこの現象を初めて知ったのは、人に教えてもらった英語の論文を通じてだった。英語ではこれを insubordination と呼ぶ。subordinate は何かの下にある、従属しているという意味で、in が付くことで「従属していない」ことを表す。本来は従属節の形なのに主節に従属していないもの、日本語でいえば言いさしのようなものを指す。

英語の例として挙がったのは "If you could give me a call, please" である。if で始まる従属節の後に本来は主節が来るはずだが、if 節だけで完結しており、「電話をくれたら嬉しいんですけどね」といった意味で言っている。ただし英語では、こういう言い方はあまり頻繁には使われないという。

ドイツ語の例が多い理由

その論文ではドイツ語の例が多く引用されていた。黒島はその理由をドイツ語の語順に求める。

ドイツ語の普通の文では、動詞は2番目に来る。堀元が冗談で水野に言った "Ich liebe dich" でいえば、主語の ich の次に動詞 liebe が来る。ところが weil や wenn のような従属接続詞で始まる従属節では、動詞がいちばん最後に来る。つまり従属節だけ見ると日本語のような語順になる。

大学でドイツ語を第2外国語として学んだ堀元は、この説明で当時習ったことを思い出していた。水野がまとめたように、明らかに動詞が最後に来る語順になっていれば、それは主文ではなく従属節だけで発話されている、つまり言いさしだと形から分かる。そのため、ドイツ語は例として扱いやすいのだという。

言いさしにもグラデーションがある

日本語に戻ると、言いさしにもグラデーションがある。何かが省略されていそうなものから、明らかに「けど」で終わっているものまで幅がある。

黒島は白川博之『「言いさし文」の研究』から、漫画『めぞん一刻』の例を2つ紹介した。1つ目は五代がこずえに「もう君とは付き合えない」「僕には好きな人がいるんだ。君には本当に申し訳ないけれど……」と告げる場面である。これは「君には本当に申し訳ないけれど、僕には好きな人がいるんだ」と前後をひっくり返せば文として成立する。語順が入れ替わっているだけのタイプだ。

2つ目は、響子に「なんで学生服なんて持ってるんです」と聞かれた五代が、「予備校の入学式に着てけって、ばあちゃんが送ってきたんですよね。結局着なかったけど」と答える場面である。こちらは「結局着なかったけど、ばあちゃんが送ってきたんですよね」と倒置してもうまくいかない。水野は、この「結局着なかったけど」は「結局着なかった」程度の意味だろうと言い、黒島も「結局着なかったんですよ」と普通の文で終わらせてもよさそうなところを「けど」で終わらせており、独立した文のようなものだと説明した。

堀元は、こういう独立したものに「あなたのターンですよ」と返すと、言いさしっぽいが言いさしではない、と逆に突っ込まれるのではないかと言った。しかし黒島によれば、白川はこれも言いさしと認定している。水野は、言いさしは文ではないものだと思っていたが、そうとは限らないのだと整理し、難しさを口にした。

「それ取って」「もう分かったから」

黒島はさらに身近な例を出した。「ちょっと休めば」も「ば」で終わっているが、相手に勧めるときに「あなたのターンですよ」とはならない。「それ取って」はどうか。「取れ」なら命令形だが、「取って」は「取って食べました」のように使える接続助詞の「て」である。

堀元は、「休みな」「休め」と言われるとかなり強く感じるが「ちょっと休んだら」は柔らかい、と指摘した。「取れ」も厳しく聞こえるので、文の途中のような言い方にすることで和らげているのではないか、というのが堀元の仮説だ。黒島は、動機についてまでは分からないとしつつ、仮説は合っているような気がすると答えた。

韓国語で同じことができるかと水野が尋ねると、黒島は、言いさしのような言い方はあるものの、日本語の「休んだら」「取って」にあたる使い方はしないと答えた。普通の命令形を使うが、それがきつく聞こえるわけではなく、きつい命令形は別にあるという。堀元が「韓国の人はちょっと失礼ということか」と言うと、黒島はそうではなく言語表現がそうなっているだけで、英語も普通の命令形で問題ないと訂正した。

「もう分かったから」も、後ろに何かを想定しようと思えばできるが、完全に独立して使われている言いさしの例である。堀元が「もう分かったので」だと間の抜けた感じになると言うと、話は「から」と「ので」の違いに移った。「そろそろ時間ですので」と言って帰るのは自然だが、反抗期の息子が「もう分かったので」と言ったら妙である。黒島の説明では、「ので」は丁寧な表現と一緒に使われやすい。「お金ないから金貸してくれ」は自然でも、「お金ないので金貸してくれ」は少し変で、「貸してください」のほうが合う。水野も、上司に向けて「そちらについてはもう分かりましたので」と言うなら不自然ではないと同意した。

ターンテイキングとイントネーション

ここで黒島は、水野の著書『会話の0.2秒を言語学する』で重要な概念だったターンテイキングに言及した。自分の発話が終わって相手が話し始める、発話権の交代のことである。言いさしで終わっても相手が話し始めれば、そこでターンは移っている。そこで、ターンが相手に移った時点までを文と認定する立場もありうるのではないか、と黒島は提案した。

堀元は、自分や水野は人が話している途中に割り込むことがあるが、それも文と認定するのかと尋ねた。黒島は、それは邪魔しているだけだと笑いつつ、水野の本にも書かれている通り、人は相手の発話が終わりかけていることが分かると指摘した。終わりかけを察して入るのであれば、相手は終わらせようとしているのだから、そこが一区切りになるかもしれない。水野は、終わりかけが分かるということは、人は振る舞いとしては何となく文とは何かを知っており、本能的に「文はここまでだろう」と予測しているのではないかと述べた。

黒島は、今回は触れなかったイントネーションも重要だと付け加えた。「取って食べます」の「取って」はあまり下がらないが、依頼の「取って」はかなり下がる。こうした音声的な特徴によって、「あなたのターンですよ」と返されないようになっているという。

堀元は自身の体験を語った。大学の部活でグライダーに乗るため、特殊な健康診断を受ける必要があった。先輩に「この病院に電話して、〇〇検診を受けたいんですけど、と言ってください」と教わり、「受けたいんですけど」の後に相手が黙ったらどうしようと不安になった。「受けたいんですが」と言い切るつもりだったのに、電話口では教わった通り「受けたいんですけど」と言ってしまった。マニアックな検診を受けることに引け目のようなものがあり、控えめな言い方になったのが不思議だったという。水野も、予約の電話で「予約お願いしたいんですけど」と言った後、相手がこちらの出方をうかがう気まずい時間があると共感した。この話は、無線の「オーバー」のように「ターンエンド」と付ければいいのではないか、という冗談で締めくくられた。

結論は「今後の課題」

ここまでの議論を水野が整理した。語という小さな単位から文を考えてもうまくいかず、節連鎖という大きな単位から考えてもうまくいかない。日本語では接続助詞で終わる言いさしがよく使われ、そこで相手がターンを取ることもある。そこから、文をターンテイキングの単位と捉える立場も、イントネーションのような音声的特徴で定義する立場もありうる。書き言葉だけで文を認定するのは一面的なので、話し言葉から文を認定する立場も必要だろう。そして「文とは何か」は今後の課題だ、という結論である。

堀元は「何も結論が出ない卒論みたいだ」と不満を述べた。黒島は最初に紹介したハスペルマートの「文とは最大の節である」を持ち出し、これで必要十分だと冗談めかして言ったが、堀元にはやはり分からないままだった。黒島は改めて、難しい問題ではあるが、文字に書かれた文ではなく会話をつぶさに観察することが重要だという示唆は得られたと述べた。文法というと書かれたものを思い浮かべがちだが、会話をきちんと観察するのが大事だという。

水野はさらに、手話言語ではどうなるのかが気になったと述べた。ターンテイキングやイントネーションの議論は結局音声中心の考え方なので、手話の方面からも考えなければならなさそうだという。水野は、普段は日本語や英語、ヨーロッパ系の言語ばかりを学ぶ機会が多いが、アフリカやアラスカ、中央アジアなどの言語を見ると常識が通用しないことが頻繁に起こると指摘する。英語中心で理論を組み立てるとこうした部分がこぼれてしまうという批判はよくあり、その意味でもいろいろな言語を自分が学ぶことを今後の課題としたい、と話した。黒島は、文の複雑さを見ることは言語の複雑さ、ひいては言語を操る人間の複雑さを知ることでもあり、いろいろな言語を見ながら文とは何かを考えているのが言語学者だと述べた。「文とは何か」という一見簡単そうな問いにも答えが出ていないこと自体が、この回での発見の一つだとまとめられた。

黒島の新刊と「ながら」「から」の謎

最後に黒島は自著を紹介した。『韓国語連結語尾のトリセツ』は、日本語の接続助詞にあたる韓国語の形式の使い方を、多くの会話例をもとに書いた本である。博士論文のテーマがこの韓国語の形式で、以前出演した際に書くと言っていたnoteの連載を書籍化したものだという。会話例の多くは韓国ドラマから引用されている。

本の特徴は、似た形式の使い分けや言いさし的な用法を一つの統一原理で説明している点だと黒島は言う。その一端として、日本語の例が出題された。「食べながら」と「食べるから」では、「食べる」の部分の意味は同じである。ところが「小さいながら」と「小さいから」になると、「小さいながら」は「小さいのに」という逆接の意味になり、「小さいから」は理由を表す。「から」の意味は変わらないのに「ながら」だけ振る舞いが変わる。しかも動詞では「食べ」という連用形に付くのに、形容詞では「小さい」という連体形のような形に付く。さらに「小さいながらも」とは言えるが「小さいからも」とは言えない。「もう分かったから」のように「から」は単独で文を終えられるが、「もう分かりながら」「食べながら」で終わることはない。

堀元と水野は理由を答えられず、「今後の課題」とかわした。黒島によれば、韓国語にも似た現象があり、本ではそれを一つの原理で説明しているという。黒島はもう一冊、初級者から取り組めるリスニング教材『究極の韓国語リスニング』も出しており、レベルの最上位はカップルの喧嘩の会話で、その会話は黒島自身が作ったものだと話した。

「文とは何か」という問いに、この回は答えを出していない。語と文の境界、どこまでを一文とみなすか、言いさしを文とみなすか、話し言葉と手話をどう扱うか。論点は整理されたが、定義そのものは言語学者にとってもまだ未解決の問題として残された。