知的障害のないASD当事者が特別支援学級で過ごした5年間:YouTuberあぺおが語る「ひまわり学級」と取り戻そうとした青春

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概要

あぺおは2000年生まれの25歳で、宮城県仙台市の出身である。小学5年生から中学3年生までの5年間を、特別支援学級である「ひまわり学級」で過ごした。知的障害もダウン症もないが、本人の言葉では「言葉を選ばないと、入れられちゃった」。現在は同じ学級で出会った友人「たっくん」と、当時の出来事をYouTubeのショート動画で発信している。インタビューでは、支援学級に入るまでの家庭環境、学級内で目撃した教師の体罰、中卒で営業職に就いてからの経緯、そして動画の内容は誇張ではないのかという疑問について、あぺお自身が語った。

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「俺たちが義務教育全部ひまわり学級で過ごしたの、なぜなぜ」

あぺおのショート動画は、「俺たちが義務教育全部ひまわり学級で過ごしたの、なぜなぜ」というフレーズで始まる。続けて、学級で起きた出来事が短く語られる。国語の授業で友達が教科書をうまく音読できなかったとき、先生が「まともに言葉も喋れねえのか」と言って殴ったという話。遅刻した友達を先生が「家畜以下」と罵り、怯えた友達が泣き叫びながら廊下で大量に便を漏らしたという話。こうした内容である。

あぺおによると、同じ話を再投稿したものも含めて約200種類の動画を公開しており、発信を始めて約2年になる。ただ、このチャンネルの収入だけでは生計は立たない。チャンネル運営を通じてSNSの扱い方を覚えたので、友人にやり方を教えて報酬を受け取るなど、いくつかの収入を合わせて暮らしているという。

聞き手は、自分の学校にも月に1回ほどひまわり学級の子どもと給食を食べる機会があったが、動画のような場面には出会わなかったと話す。これに対してあぺおは、教師は支援学級の生徒だけがいるときと、通常学級の生徒が何かの理由で支援学級に来ているときとで、態度がまったく違ったと説明した。知的障害やダウン症の子どもの中には、口で言っても伝わらない子が多い。そのため悪いことをしたら「トラウマを植えつける」ような形で体罰的なことをするのを、教師が毎日やっているのを見ていたという。

ASDの特性と、たっくんの特性

あぺおが支援学級に入った理由は、結論から言えばASD(自閉スペクトラム症)である。本人は自分の特性をあまり把握していないとしつつ、こだわりは「死ぬほど強い」気がすると話す。一方で、人とのコミュニケーションに不自由している感覚はあまりなく、聞き手も話していて困っている印象は受けないと応じた。

あぺおの説明では、ASDの人は一つのことに興味を持つととことんのめり込むとよく言われる。自分の場合は、そのこだわりがたまたま人とのコミュニケーションに向かい、自分なりに勉強した。その結果、「アスペにしては喋れる」ようになっただけで、そこに興味を持たなかったらまったく喋れていなかったと思う、という。

相方のたっくんはADHDで、境界知能でもある。あぺおは、境界知能は障害ではなく、知的障害にぎりぎり届かない程度の知能指数だと補足した。

障害のある家族と、母親の暴力

あぺおによると、父親は本人から「自分もたぶんASDで、LD(学習障害)もたぶん持っている」と聞かされている。母親は専業主婦で、診断名は教えてもらっていないが、ずっと精神科に通っていた。あぺおはこの家を「健常者が家にいない家」と表現する。6〜7歳下の妹がいるが、あまりコミュニケーションを取っておらず、よくわからないという。

家庭は「破綻している」という感覚をずっと持っているとあぺおは語る。幼稚園の頃から、読み書きや運動がほかの子よりも明らかにできなかった。それに対して母親がヒステリックに怒鳴り、殴った。頭を殴られ、胸ぐらをつかんで振り回され、壁にぶつけられたこともある。父親は仕事で家に帰ってこず、誰にも助けを求められなかった。

父親に打ち明けたのは、ずっと後の16〜17歳頃で、2回ほどだという。「うちはこういう状態だけど大丈夫なのか」と話したが、父親はいまだにあまり信じていないと思う、とあぺおは言う。母親については、調子の悪くない日は普通にいいお母さんでもあった。ただ機嫌を見分けることはできなかったので、見ないようにしていた。「殴られたら結果論、ご飯がなかったら結果論、風呂がなかったら結果論」と考え、小学生の頃は引きこもっていた。

母親を嫌いかと聞かれると、あぺおは嫌いではないと答えた。病気の部分は母親のパーソナリティではないと考えており、パーソナリティに触れられる日も当然あったからだ。ただし、怖いとは思っていると付け加えた。

小学2年生からの不登校と、9歳からの服薬

小学2年生の途中か終わり頃、あぺおは不登校になった。友達はいたし、差別されたわけでもない。理由は、いちばん近い存在である母親が暴力を振るうのなら、外の人間はもっとひどいことをしてくるのではないか、と思ってしまったことだとあぺおは説明する。家にいれば母親と過ごす時間は長くなるが、それが普通だったので、余計なことをされないなら家の方がいいと考えた。実際には「なぜ学校に行かないのか」が怒られる理由に加わり、怒られる回数は増えたという。

小学3年生、9歳のとき、風邪で小児科に行くと、発達障害かもしれないので大学病院に行くよう紹介された。小児科で何をどう言われたかは鮮明には覚えていないという。大学病院の精神科でASDの診断を受け、あわせて「うつ状態もあるから薬をたくさん飲むように」と言われて、抗うつ薬を服用するようになった。本人は診断名を知らされず、薬についても「頭痛が治る薬」と説明されていた。診断を知っていたのは両親だけだった。

抗うつ薬は、飲んだり飲まなかったりすると離脱症状が出る。服薬が不規則だったため、頭がふわふわしたり、胸が痛くなったりする状態が続いたとあぺおは話す。引きこもっている間は、本当に寝ている時間と、母親が怖いので寝たふりをしている時間とで一日を回していた。動かなければ怒られないからだ。薬を飲んでいると気分が落ち着く一方、何にも興味が湧かなくなり、暇だという感覚すらなかったという。テレビはNHKの教育テレビ以外禁止されていたので、アニメを見たいという欲求もなかった。ただし勉強をさせられたことはなく、勉強したいと言ってもさせてもらえなかった、とあぺおは付け加えた。

始業式の日に告げられた「ひまわり学級」

小学4年生の終わりに東日本大震災が起き、学校は1〜2か月休みになった。その後の5年生の始業式に、父親から「これだけは絶対に行け」と言われた。珍しくはっきり言われたので出席すると、式の後に先生に呼ばれ、「今日からあぺお君はひまわり学級に入ります」と告げられた。両親と学校の間で決められたとみられるが、なぜ入ることになったのか、本人は今もきちんとは知らないという。

当時のあぺおも、特別支援学級は知的障害があって授業についていけない子が入る場所だと認識していた。学校に行かなかった自分が悪いにしても、まさか入れられるとは想定していなかったと話す。

小学校のひまわり学級には、あぺおのほかに4人ほどがいた。中度の知的障害の子、ダウン症の女の子、言葉を話せない重度知的障害の子などである。全員での授業は、いちばん重い知的障害の子でも取り組める内容に合わせるので、テレビを見るだけの時間もあった。個別の授業では同学年の算数を教わることはなく、ローマ字を「死ぬほど」教わっただけだった。あとはテレビを見たり工作をしたりして過ごした。

このときの心境を、あぺおは「人生終わったなって本気で思ってた」と語る。5年生で5年生の勉強をしなければ、6年生になっても中1になっても学年相応の勉強はしない。自分は一生学校の勉強がわからないまま年だけ取るのだと怖くなった。母親には逆らえず、「これでいいのか」と一度訴えたが流されて終わった。

幼稚園から一緒だった通常学級の友達には、なぜひまわり学級に入ったのかと聞かれた。しかし本人はASDの診断を知らないので説明できない。「わからないけど、絶対通常学級に戻るからね」と頑張って話したが、それが不気味だったようで、すぐに友達ではなくなったという。

中学校の下駄箱で知った「あと3年」

中学に上がれば通常学級に戻れる可能性があればいいと思っていたが、実際にはないとわかっていた、とあぺおは言う。それでも、中学でも支援学級だと知ったのは入学当日だった。先輩に案内されて自分の下駄箱を探したが見つからず、よく調べると端の支援学級の場所に名前があった。「もう3年か」と思ったという。

中学のひまわり学級は全学年合わせて7人だった。あぺお、1学年上のたっくん、知的障害の男子2人、小学校から一緒だったダウン症の女子、小人症の生徒、そして巨人症かどうかはわからないが、体感で2メートルはありそうな大柄な生徒である。小人症の生徒は中学の数学をやっていたようで、背が低いという理由だけで入ったのではないかとあぺおはみている。自分の学校は特に珍しかったのだろうと前置きしたうえで、振り分けは「超アバウト」で、障害のある生徒をとりあえず全員この学級に入れていた印象だと語った。

入学から3日ほど経った頃、知的障害の友達が前触れなく便を漏らし始めた。これが最初に「とんでもないことが起きた」と感じた出来事だった。片付けは主にあぺおとたっくんがバケツを持って雑巾がけをさせられた。言葉を話せない同級生とも、同じ空間にいると表情から喜んでいるか、嫌がっているかがわかるようになる。普通の友達関係とは違うが、友達だと自分では思っているという。

あぺおは、教科によっては通常学級の成績の低い生徒よりもできたはずだと感じ、親や教師に散々不満を訴えた。しかし支援学級で障害のある生徒が便を漏らすといった話は現実離れして聞こえるため、親には基本的に嘘だと思われた。教師はどこにも話してほしくないので、主張しても一切取り合わなかったという。

入学初日からの体罰

教師の体罰は入学初日からあったとあぺおは言う。自己紹介の時間に、上級生の知的障害の生徒がはっきり言葉で自己紹介できなかった。すると教師が「ふざけんな」と怒り、学校の硬い椅子でその生徒の背中を叩いた。頭ではなく背中だったという。

ひまわり学級の教師は3人いた。最も体罰がひどかったのは、学級の主のような立場の45歳くらいの女性教師で、いちばん立場が上だった。その下に20代後半くらいの女性教師と、50歳くらいの太った男性教師がいた。部下の教師たちは体罰を止めず、気に入らないことがあれば同じように知的障害の生徒を殴る、蹴る、引っぱたくということが当たり前に起きていた。3人がかりで一人をいじめるという形ではなかったとあぺおは補足している。

プールの時間でもないのに、泣いている知的障害の生徒を抱えて連れて行き、頭からプールに何度も沈めることも「結構あった」という。プールは教室の近くではなかった。あぺおは最後まで見届けたわけではないが、窓から連れて行かれる様子や、戻ってこないので外を見るとひどい目に遭わされている様子を見たと話す。

あぺおは、被害を受けた本人たちが言葉で訴えられないことが「肝」だったと指摘する。本人の口から明るみに出ることがないということだ。

通常学級の生徒との距離

学級の中で普通に会話ができたのはたっくんだけだった。ほかの生徒とは顔を見ながら片言で懸命にやりとりし、「遊ぼう」といった言葉は交わせた。たっくんは1学年上で、あぺおが入ってきたときは話の通じる相手が来たと感じたという。

遠足などの行事では、通常学級の班に混ぜてもらうこともあった。そのときは「障害者が入ってきた」という空気があった。円陣を組む場面では、あぺおにだけ触れたくないという扱いを受けたこともある。傷つきはしたが、慣れの方が大きかったとあぺおは言う。

運動会でも徒競走などで枠をもらい、足が速かったので少し活躍した。観客は盛り上がったが、あぺおの見立てでは、違和感をあらわにすると差別的に見えるので、盛り上げる側に徹していたのだろうという。応援も「障害者に頑張れと言うのが面白い」という感覚で、自分が速くて面白いのではなく、「ひまわり学級のあいつが速くて面白い」という話だったと振り返った。

たっくんの卒業と、内申点目当ての接触

3年生になるとたっくんが卒業し、普通に会話できる相手はいなくなった。通常学級には「障害者いじり」をしてくれるヤンキーの生徒がいて、話しに行くことはあった。うれしくはあったが、あぺお個人への興味というより「ひまわり学級のこいつ」としての扱いだったので寂しさもあった。支援学級の生徒と仲良くしておくと、通知表に「ひまわり学級の生徒と仲良くできた」と書いてもらえるらしく、内申点目当てで近づいてくる生徒もいた。それがわかっていたので悔しかったという。

5年間、あぺおは通常学級でいいと言ってくれる大人に一人も出会わなかった。そう言ってくれたのは同級生のヤンキーだけだった。「なんでひまわり学級なの」と聞かれ、「俺もわからないけど、小5からずっとここにぶち込まれてる」と答えると、「お前がわからないなら俺もわからないけど、お前は通常学級でいい気がする」と返された。大人たちは誰一人として、「ここから出さねえぞ」ぐらいの勢いだったとあぺおは語る。

進路、通信制高校の退学、カラオケ店での初めての青春

あぺおの学校の支援学級では、中間テストや期末テストを受けさせてもらえなかった。そのため普通の高校に進む選択肢はなく、中3の夏から養護学校や支援学校を3校ほど見学することになった。あぺおは強く抵抗し、養護学校は親に取りやめてもらった。親が学費を払えば入れる通信制高校に入学した。

しかし小5以降の学習が完全に抜けていた。ローマ字が書けて、掛け算ができる程度だったという。授業にはまったくついていけず、1年生を3回ほど留年して退学した。

母親との関係は、中学時代も毎月通っていた大学病院の医師が母親を強く説教してくれたらしく、ネグレクトや虐待は多少減った。それでも仲は良くないままだという。その病院は子どもの精神科だったので15歳を超えると診てもらえず、自分で病院を選ぶように言われた。しかし親が次の手配をしなかったため、16歳以降は精神科に通っていない。

高校に行かない日は、カラオケ店でアルバイトを始めた。仕事では非常によく怒られたが、昼間のシフトは「ちゃらんぽらんなフリーター」ばかりで、みんな同じくらいミスをしていた。そのため自分だけが目立って解雇されることがなく、最初の店で1年半ほど続いた。退学までのアルバイトはすべてカラオケ店だった。

17歳頃にはバイト先で初めて恋人ができ、2年ほど付き合った。支援学級にいた頃は、恋愛で好かれるかどうか以前に、同級生の女子から検討の対象にすら入らなかった。男子も話してくれない環境で15歳まで過ごしたので、ここからようやく、ひまわり学級に奪われた青春を少しずつ回収する作業が始まったとあぺおは表現する。たっくんとはほぼ毎日LINEをしていたが、17歳頃に親の転勤で福岡かどこかへ引っ越し、会えなくなった。

生活が充実しても、やりたいことや目標はなかなか出てこなかった。小学生なら「パイロットになりたい」と口にするものだが、何を言っても誰も聞いていない場所にずっといたので、欲を出したり望んだりする習慣がなくなっていた。漠然と、正社員のサラリーマンになれたら最高だと思っていたという。

保険営業で年収1000万円、そして退職

カラオケのバイトを約3年続け、高校も退学したあぺおは、きちんと働きたいと考えた。19歳前後、中卒の状態で小規模なベンチャーの保険代理店に入社し、2年半から3年ほど営業を務めた。上司にかわいがられて顧客を回してもらったこともあり、成績はよかった。額面で1度だけ年収1000万円に届いた年があったという。

一方で特性による働きづらさも大きかった。事務作業はケアレスミスが多すぎてこなせなかった。成約すると思っていた客が契約しなかったときには、会社に戻ってキーボードを壊したこともある。聞き手が癇癪もASDの特徴として挙げられると触れると、あぺおはそれを認めた。ミスが多く人間性にも問題があると見られていたが、数字を出していたので、会社には解雇する明確な理由がなかっただけだという。

その後、会社が親会社に吸収されてオーナーが変わり、社風が一変した。営業成績がよくてもパソコンを壊すような社員は置いておけないとして、退職を迫られた。あぺおは1年ほど粘ったが、便や障害者を扱うYouTubeの活動が会社に知られ、言えることはないと考えて退職を受け入れた。

24歳で知った9歳時点の確定診断

発達障害だろうとは薄々思っていたが、9歳で確定診断が出ていたことを知ったのは23〜24歳頃だった。障害年金という制度を知り、申請には障害者手帳が必要なのではないかと考えた。もし手帳をすでに持っていて親に隠されていた場合、持っていない前提で病院に行くとややこしくなる。そう考えて母親に尋ねると、母親ははぐらかし始めた。問い詰めると、実は持っていると明かしたという。

そんなに早くから診断が出ていたのか、というのが率直な感想だった。怒っても何も変わらないと思い、手帳を持っていることがわかった時点で目的は果たしたので、話をこじらせないように終わらせたとあぺおは語る。

セフレの女性の自殺と、「比べようのないコンテンツ」

YouTubeを始めたきっかけについて、あぺおは次のように語った。営業で稼いでいた当時は「青春を絶賛取り戻し中」で、お金もあり、女性関係も多く、楽しかった。ひまわり学級にいた自分ですらこうなれるのだから、みんな楽しい人生を送っているのだろうと思っていた。ところが、関係のあった女性が自殺した。

なぜだろうと考えたとき、SNSには自分と他人を比べるコンテンツが多いと気づいた。家の中で画面を見て自分と他人を比べ、給料も多くなければ病んでしまう。しかし、ひまわり学級の話なら誰も自分と比べようがない。見ても病まないコンテンツを自分なら作れるのではないか。そう考えて、たっくんを誘ったという。

たっくんには電話で、交通費を出すので一度仙台に来てほしいと頼んだ。最初は二人でゲーム実況をしながらひまわり学級の話をしていたが、拡散力がなく、これでは続けられないと判断した。そこで独学でSNSを研究し、他人の動画を見て、カットの回数を増やした方がいいのか、音を多くした方がいいのかと試行錯誤しながら、今の形を作った。

冒頭の「なぜなぜ」のフレーズは、特定の何かを参考にしたわけではない。保険営業で見知らぬ相手に突然電話をかける際、どうすれば話を聞いてもらえるかを考えてきた経験を反映させたという。聞き手は、言葉に無駄がなく、フックとして強いと評した。

想定外のバズと、手つかずの横長動画

開始から半年ほどで「なぜなぜ」の1本が約300万回再生され、数百〜1000人程度だった登録者が一気に3万人まで増えた。あぺおはこれほど見られるとは思っていなかった。本来は、ADHDや境界知能などの特性を持つ友人も交えて「演者全員が発達障害」のチャンネルにし、横長動画で大喜利企画などをやる構想だった。しかしショートが先に伸びたので、そのフォーマットを固めることに集中し、やろうとしていたことは実はまだやれていないという。

ネタは、あぺおの小学校2年間と中学3年間、それにたっくんが小学1年から6年まで在籍していた時期の話に限られる。限界はあると本人も認めており、そろそろ形を変えなければとは思っているが、具体策はまだない。ショートを入口にして横長動画を多く見てもらいたいと考え、その中身を検討している段階だと話した。

「演出では」という疑問への答え

聞き手は、ネタが枯渇して多少の脚色が入っているのではないかと率直に尋ねた。例として挙げたのは、ひまわり学級の友達が文化祭のミスコンに出場した話である。優勝を逃すと先生が「差別か、差別なのか」と騒ぎ、学級のみんなもブーイングに加わった。運営は結果を変更し、翌年からミスコンは廃止された、という内容だ。先生がそんなことを言い出すことがありうるのか、と聞き手は疑問を呈した。

あぺおの答えは、「事実です」だった。当時の写真を出すわけにはいかないので、言葉で表現するしかない。ありのままを話しても伝わらないため、想像しやすい言葉への変換はする。その過程で「これは脚色になっていないか」と自分たちで感じることはあるが、二人のどちらかがそう感じたものはボツにしている。事実が変わるレベルで言葉を変えることはしておらず、ゼロから作ることもしていないという。聞き手が、当時の関係者が見れば「少し言い過ぎだ」と思う程度の違いかと確認すると、あぺおはその程度だと答えた。

視聴者の反応と、同じ境遇の人々

最近始めたYouTubeライブでは、発達障害や知的障害のある子どもをひまわり学級に通わせている、あるいは通わせる予定だという親が意外に多く見ていることがわかった。そうした親から怒られたり悲しまれたりすることはあまりない。むしろ、全部がこうではないにしても実態としてこういう可能性がありうることを教えてくれてありがとう、という言葉をかけられることが多いという。一方で、養護学校の教員や特別支援学級の教員免許を持つ人が、ありえないと怒ってくることもある。

あぺおは、本来入らなくてもいいのに支援学級に入った人間は、自分とたっくんだけだと思っていた。しかし視聴者と話すと、少しADHDなだけで勉強はむしろ通常学級の生徒よりできるが支援学級だった、という人が「めちゃめちゃいっぱい」いたという。

こうした状況について、あぺおは次のように語った。青春はあった方がいい。小学校や中学校はやり直せず、お金を払っても義務教育をもう一度受けることはできない。支援学級に入って周囲から障害者として煙たがられ、学力と結びつかない勉強をさせられるのは、自分もそうだったが「かわいそう」だと思う。「かわいそう」という言い方は雑だけど、と断ったうえでの言葉である。

母親については、精神疾患があるのはおそらく間違いないとみている。病気に感情をコントロールされていたのだとすれば、母親もある種の病人だっただけだ、と処理している。嫌いだとか死ねといった感情は一切ないという。

これから

今後についてあぺおは、まずYouTubeをもっと頑張りたいと話す。はっきりした計画があるわけではない。ひまわり学級に入れられ、青春をドブに捨てるような学校生活を送った中でたっくんと出会った。その二人で、ひまわり学級だったけれど良かったと納得できる人生になっていれば、それがいちばんいいという。

もう一つの思いとして、あぺおは発達障害の扱われ方の曖昧さを挙げた。周りの大人から見た子どもの扱いも含めて、発達障害という言葉についたネガティブなイメージを少しでも払拭できたら、と語った。