「分かったつもりだった」 ルポライター鈴木大介が語る、最貧困女子の苦しさと脳の問題

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概要

ルポライターの鈴木大介は、2000年代から家出少女、売春で生計を立てる女性、不良少年などを取材し、『最貧困女子』を書いた。その後、41歳で脳梗塞を起こし、高次脳機能障害の当事者になった。その経験を『脳が壊れた』『貧困と脳』などの著作にしている。街録chのインタビューで鈴木が繰り返し語ったのは、取材対象の苦しさを自分は分かったつもりでいただけだった、という反省である。

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聞き手はこう問いかける。取材してきた女性たちの脳の状態を、自分の身体で体験したのはどういうことだったのか。鈴木の答えは「100%体験できたとは思っていない」というものだった。そのうえで、以前の自分が分かったふりをしていたことを反省していると述べる。本稿では、鈴木がなぜそう考えるようになったのか、何を書き直そうとしているのか、まだ答えが出ていないのは何なのかを、話の流れに沿って整理する。

「最」をつけた理由 貧困支援から数えられていなかった女性たち

鈴木は「学者が嫌いだった」と切り出す。すぐに「1つ正しい側面ではあった」と言い添えてはいる。反発の対象になったのは、90年代の援助交際ブームを社会学的に読み解こうとした一派である。鈴木が取材で出会ったのは、ムーブメントに乗って性的な逸脱をする少女ではなかった。生きるために切迫した状況で体を売らざるを得ない子たちだった。社会学が現象として語るとき、そうした子は「いないこと」にされてしまった、と鈴木は感じていた。

『最貧困女子』は、当初「貧困女子」というテーマで持ち込まれた企画だった。「最」をつけたかったのは、売春で生きる女性たちが貧困支援の枠組みからそもそもカウントされていなかったからだという。彼女たちは自助努力で生きているうえに、支援する側からすると扱いづらいメンタリティを持っている。そのため、存在に気づかれてはいても研究の対象からは外れていた。鈴木によれば、日本の貧困支援は路上生活者の男性への炊き出しなどから可視化されてきた。それが歴史的な経緯だったとしても、体を売って自力でしのいでいる時点で女性の貧困は勘定の外になるのか。鈴木は「ふざけんなやって思って」と語り、これが執筆の動機だったと振り返る。

同書では「3つの無縁」と「3つの障害」をキーワードにした。鈴木は研究のつもりでやっていたわけではない。インタビューを重ねるうちに「なんでこうなっちゃうんだろう」と考え、ただ貧しいだけでなく自力で抜け出せない状態になるには条件が重なっている、と感じた結果だという。当事者に接していれば腑に落ちるはずのことだ、とも話している。

20年前の錦糸町 組織売春の現場

インタビューが行われた場所は、鈴木がかつて取材した土地だった。2006年ごろ、近くにあった昭和風の喫茶店が、未成年を含む売春グループの待機場所になっていた。そこに少女たちが集まり、出会い系サイトで客を取る「打ち子」の男性スタッフがいて、客が付くと「行ってこい」と送り出す。そういう業者があった。

鈴木が覚えている場面がある。金は欲しいが何もできない新しい子に対して、業者は「とりあえず客とトイレで1番軽くやっといで」と指示していた。障害者用トイレで口で済ませてこい、という意味である。ホテルに行けない、本番ができない、密室が怖いという子に、そういう扱いがされていた。

症状としては見ていたが、苦しさは分かっていなかった

「分かっている気になっていた」とはどういうことか、と聞き手が尋ねる。鈴木は取材した少女たちの様子を挙げた。子どもの頃に虐待を受け、家から逃げてきて、自力で生きるために売春を選んだ子が多かった。取材中にパニックになる子、過呼吸の発作を起こす子がいた。夜中に混乱状態になって、何度も電話やメールをしてくる子もいた。

鈴木はそれを「不安で脳が暴走している状況」「症状」として客観的に理解していた。落ち着かせなければとも思っていた。しかし、自分が障害を負ってみると、そうした症状は「地獄のように苦しい」ものだった。パニックや過呼吸の最中には、救急車を呼ばなければ死ぬのではないかという身体的な苦しさと死の恐怖がある。不安が頭から離れず、脳がそこからフォーカスを外してくれない。PTSDを持つ子の、獣に襲われて今何かしなければ死ぬという切迫した状態も、どれほど苦しいのかを自分は全く分かっていなかった、と鈴木は言う。

ただし、その理解も時間とともに薄れているという。発症から12年目に入り、症状は緩和してきた。発症直後にはリアルに分かっていた感覚が、今はまた失われつつある。41年間を健常な脳で生きてきた鈴木にとって、症状が強かった期間は全体のごく一部にすぎない。あれほど分かっていたことが分からなくなっていく。それほど、健常な脳の人間には想像しにくい苦しさなのだろう、と鈴木は考えている。

「セックスワーク」という言葉を肯定したい理由と、見落とした側面

聞き手が「セックスワーカー」という言葉を使ったことを受けて、鈴木はこの言葉についての自分の立場を説明した。性を「ワーク」と呼ぶことは売春を労働として認めてしまうのではないか、という論争がある。それでも鈴木がこの言葉を肯定したいのは、取材した少女たちが「爆発するような自由の中にいた」からだ。

少女たちは、虐待、貧困、施設暮らし、いじめなどで、それまで我慢に我慢を重ね、自由を奪われてきた。そこから、自分の体と自分の意思で現金を得るようになる。その金で何をしてもいい。ホストに行っても、タバコを買っても、酒を飲んでもいい。そういうプライドと自由の感覚が彼女たちにはあふれていた、と鈴木は言う。彼女たちの自助努力を肯定したいし、社会不適合者だとは言いたくない。その意味で「ワーク」だと肯定したい、というのが鈴木の考えである。

一方で、鈴木は自分が「フォーカスするところを間違った」とも述べる。過酷な環境を生き延び、自力でしのいでいる姿を尊重する。本来は救われるべきだった子がノーカウントになっていることに憤る。ここまでは変わらない。しかし自由の裏側で、彼女たちは強い不安と混乱を抱えていた。そのために訳の分からない行動を取ったり、差し伸べられた支援の手を払いのけたりする。『最貧困女子』では、こうした側面を、障害があるために売春以外の場で適応できず支援にもつながらない、という「孤立していく過程」の要素として書いた。被害を受けて生きてきたことで精神的な病や混乱を抱えている、その苦しさそのものにもっと目を向けるべきだった、というのが鈴木の反省である。

貧困は「二次障害」 虐待と脳の発達

鈴木は、脳の認知機能に障害があると貧困に落ちるのはある意味当然の現象であり、「症状の結果の二次障害としての貧困」という観点が必要だと話す。そのうえ、健常な人から見ると「これでは貧困になるのも孤立するのも仕方ない」と誤解されやすい。

取材した少女の中には先天的な問題を抱えた子もいた。知的障害の診断を受けている子や、境界知能よりずっと重い問題がありそうだと感じさせる子が少なくなかったことに、鈴木は驚いたという。発達特性をうかがわせる子も多かった。鈴木はここで、虐待が「第4の発達障害」だという言説があることに触れる。福井大学の友田明美氏らの研究では、暴力やストレスの強い経験の中で育つと発達特性に近い脳の特性になり、画像でもその所見が出ることがエビデンスに基づいて語られている、と紹介した。

鈴木が本当に残酷だと感じているのは、次の点である。ひどい目に遭ってきた子がそれによって不自由な脳になり、ひどい目に遭い続ける。ひどい目に遭う可能性のある世界でしか生きられなくなる。「じゃあこの子たちはずっと苦しむだけじゃん」という残酷さがある、と鈴木は語る。

「肌触りのいい」アンダーグラウンドの経済圏と、その中の格差

一方で鈴木は、過酷な経験をしてきた人たちには、その特性で生きていける経済圏があるとも指摘する。「歌舞伎町経済圏」と呼ばれるものや、不良の周辺、夜の仕事の周辺には、そうした経験をしてきた人たちの常識や脳の状態に合わせた経済圏ができているのではないか、と鈴木は見ている。

支援する側は、この経済圏を「ちゃんとしていない」と見て、普通の仕事や普通の常識の世界に戻そうとしがちだ。しかし戻された先では働きづらく、生きづらい。『最貧困女子』で鈴木は、家を出て携帯も住む場所もない状態でも、名義を貸してくれる人や生活のツールをレンタルしてくれる人がいて、スカウトを通じて夜の仕事やセックスワークに回収されていく仕組みを「セーフティーネット」と呼び、「肌触りがいい」と表現した。聞き手の確認に対して鈴木は、通信手段、仕事と収入を得る手段、屋根の3つが、丸裸で出てきた状態でも受けられるという意味だと説明している。ただし、未成年にとってはそれもハードルが高いと付け加えた。

この経済圏は、単にサービスが充実しているだけではない。脳の状況にとっても居心地がいいのではないか、と鈴木は推測する。とはいえ、そこは努力の世界で、自己責任の感覚が非常に強い。一時的に入れても、結果を出さなければ長くはいられない。組織売春の中でも、頭のいい子はどんどん勝ち上がっていく。打ち子の男性や客と恋人関係になって安定した場所を得る子がいる。容姿に恵まれた子もいる。自分が客付けする側になって独立する子もいる。鈴木が知るある子は、15歳で組織売春のスタッフの下で働き、16歳の誕生日ごろには独立して、女の子を派遣する側に回ったという。能力、ルッキズム、コミュニケーション力による「すごい格差社会」だと鈴木は表現する。

安心すると爆発する 傷口が開くという感覚

抜け出す道について、鈴木は「批判を浴びるところだが」と前置きして語った。最も分かりやすく抜け出すのは、安定したパートナーシップを築き、結婚・出産に至るケースである。長く連絡を取り続けられる、つまり「飛ばない」子の条件もそこにあったという。

しかし安定は綱渡りだ。鈴木は、共著もある友人の表現を借りて「嵐のような危険の中を生き抜いてきた人たちが安全圏に入ると、問題行動が爆発する」と話す。恋人ができ、屋根ができ、安定した生活が始まっても、そこからメンタルが爆発して関係を続けられなくなるケースが多かった。問題行動を起こさずにいられるか、相手がそれを容認できるかに、関係の継続がかかっている。

聞き手が「安定していることがストレスなのか」と尋ねると、鈴木は否定した。安心すると傷口が開いてしまう、というイメージだという。必死に押さえていた傷口が緩むと全部出てしまう。嵐の中ではフォーカスが向かなかった自分のつらい経験を、余裕ができた途端にもう一度見てしまう。「あ、私めっちゃ大怪我負ってんじゃん」という状態である。友人はそれを、体が2つに引き裂かれて血が噴き出るような寂しさ、と表現しているそうだ。

鈴木自身にはそこまでの症状はなかった。ただ、何もしていないのに不安が暴発する、ネガティブなことに注意が向くとカメラがそこからフォーカスを外してくれない、といった症状はあった。だから少しは分かった気がする。それでも、暴力やトラウマ経験のある人のフラッシュバックの話を聞くと「ちょっと桁違いだ」と感じるという。

PTSDのある読者からの共感と、新しい取材

この「桁違い」の感覚が、鈴木の現在の取材につながっている。鈴木は、自分の症状と、さまざまな脳の疾患や障害がある人たちの症状が似ているという本を何冊も書いてきた。発達特性のある人や認知症の人からの共感は予想していた。想定外だったのは、虐待や暴力の経験があり、PTSDや複雑性PTSDの診断を受けている読者から「この症状は自分にもある」という声が多く寄せられたことだった。

なぜPTSDのある人がそれほど共感するのか。もしかすると彼らは、鈴木が思う以上にしんどく劇的な症状を抱えている。鈴木が軽く経験した部分を言語化したものが、それにぴったり重なったのではないか。鈴木はそう考え、改めて取材しようとしている。

鈴木が以前から引っかかっていた取材がある。売春で得た金で子どもを育てるシングルマザーを集中的に取材したとき、21〜22人のうち大多数が精神科に通っていた。売春以外の仕事は何をやっても続かず、その結果として売春を選んでいた。ほとんどがDVを原因とする離婚だった。

鈴木にとって不可解だったのは、そのタイミングである。暴力が終わり、夫から逃れて、ようやく自由になったはずだった。どんな仕事をしてもいいし、男性への恐怖がなければ新しい恋愛もできるかもしれない。社会の多くの人は「やっと自由になったんだから、これからがあなたの人生だ」と思うだろう。ところが、まさにそのタイミングで彼女たちは倒れ、壊れて、働けなくなる。そして一般の仕事ができない中で、なぜか自分を加害した男性と同じ属性の男性に体を売る仕事で子どもを育てている。被害が終わった後に、被害経験が継続している。これをちゃんと言語化し可視化しないと「また俺は間違ったことを言っていることになる」と鈴木は考えた。そこで、『貧困と脳』を出して2年が経った今、PTSDや複雑性PTSDの診断があり、鈴木の本に共感し、働けないでいる人たちを取材しようとしている。

シングルマザーは「ボーリングの球」 亡くなった少女たちのこと

シングルマザーの女性たちに出会ったのは、2000年代に少女たちを取材していた頃だという。同じ出会い系サイトを使い、同じように客を取っている女性の中に、なぜかシングルマザーが多かった。取材した少女の中には、母親も売春をしているという子も少なくなかった。2世代、3世代にわたる売春もあったと鈴木は言う。

鈴木は両者の違いを比喩で説明した。10代の少女たちは、不安を抱えながらも自由が爆発しているようで、スーパーボールのような精神の弾力があった。地面に投げつけても手に戻ってくるように、ひどいピンチにあっても翌日には笑いながら食べている。一方でシングルマザーたちは、落とすと「どすん」と沈むボーリングの球のようだった。年齢は10も20も変わらず、同じツールで同じように客を取っているのに、まるで属性が違った。

このとき鈴木は、少女たちの元気さ、たくましさ、力強さばかりを可視化し、その奥の恐怖や不安、パニックには目を向けてこなかったことに少し気づいた。メンタルの弾力性を完全に失ったシングルマザーたちが、少女たちとは別の人種ではなく、同じ人の「行き先」のように見えたという。実際に同一人物だったわけではない、とも鈴木は断っている。

聞き手が、10代のころ弾力のあった子がそうなったケースもあるのだろうと言うと、鈴木は「もうそれは話したくない。泣いちゃう」と答えた。取材した少女の中には、その後そうなって亡くなった子が何人かいたという。「それがもう俺のトラウマですね。なんで分かってやんなかったんだろう」。何も分かっていなかった自分を強く責め、「何を上から目線で取材していたんだろう」と語った。

それでも書き続けているのはなぜか。鈴木は「自分のことを訂正できないやつは作家として失格だ」と答える。書いたことが間違っていた、解像度の低い状態で書いていた、勘違いして書いていたと分かったなら、表現できる限りそれを正さなければならない。適当なことを書き散らかした以上、自分のケツは自分で拭く。それが書き続ける意味だという。どうしていれば違う結果になったのかと聞かれると、鈴木は「わかんない。それは次の取材で分かるかもしれない」と答えた。

取材の「撮れ高」を問題の大きさで測った後悔

鈴木は、ほかにも取材姿勢の後悔を語った。売春をしている少女たちを取材するとき、鈴木は自腹で謝礼を払っていた。少女にとっては、客を取る代わりに休憩しながら話すだけで金がもらえる。そのため、グループの子から「取材して」とせがまれることが多かった。

その中で、鈴木は抱えている問題の大きさを「撮れ高」とみなしていた時期があった。高校に通いながら夏休みだけ家出してグループにいる子は、高校に行けている時点で大した問題はないだろうと考え、取材から外そうかと思ったことがあるという。少女たちの中にも「高校に行けてるやつが来るな」と言う子がいたし、不良少年の取材でも、中学にもまともに行けなかった子が漫画『クローズ』を「高校に行けてるやつが不良って分からない」と嫌っていた。

しかし鈴木は今、それは違うと考えている。高校に行けているか、親がちゃんとしているか、家庭が崩壊しているかとは別に、本人が抱える苦しさや病や闇はある。本人の苦しさではなく、背景の「高さ」に集中してしまった時期があったことを、鈴木は「すげえ後悔してる」と語る。何に苦しんでいるかは、目に見えることだけでは判断できない、というのが鈴木の結論だ。

生い立ち 他人への理不尽に耐えられない子ども

話は鈴木自身の生い立ちに移る。52歳、千葉県佐倉市の出身。父は会社員、母は自宅で英語塾をしていた。鈴木は「ちゃんとした家」だと言う。一方で自分自身については「箸にも棒にも引っかからない」「熱量は高いが不良品」と表現する。

鈴木は子どもの頃から、自分以外の誰かが理不尽な目に遭っていると強い怒りを感じた。テレビや漫画の中のいじめや意地悪にも耐えられなかった。自分が被害を受ける立場になっても、それほど苛立たなかったという。生まれつきだと本人は考えている。一方的に悪者を決める「正義の味方」ものも嫌いで、流行にも興味がなかった。とにかく自由を制限されることが苦手だった。

地頭は悪いと自分では言うが、家が塾だったので勉強の仕方を知っていて、テストはできた。私立中学を受験し、当時「千葉御三家」と言われた進学校に入る。それでも、同じ場所に毎日同じ時間に通うだけで奴隷のような気分になり、中学生のころには自分に何か障害があるのではないかと考えていた。興味のないことは覚えられない、とも話している。

学校への違和感も強かった。中学1年のとき、学校が配った名簿に親の職業が書かれていた。医者や社長の並ぶ中にブルーカラーの職業があれば、その子が傷つき、からかわれるかもしれない。それを無神経に載せる学校に腹が立った。進学・就職のルートは自分には無理だと考えた鈴木は、アルバイトができる年齢になるとすぐに働き始め、高校時代は「バイトバイトバイト」で、自分が食べていける仕事を探した。

難民支援の現場で聞いた話と、「書く側」に回る決意

鈴木を方向づけたのは1冊の本だった。犬養毅首相の孫である犬養道子の『人間の大地』である。先進国に生きているだけで、開発途上国の人々の犠牲の上に生活が成り立っている、という内容だったと鈴木は説明する。高校2年で読んで「俺ら加害者側じゃん」と強い憤りを覚えた。夏休み明けには、開発途上国支援や難民支援をするボランティアセンターにアポなしで乗り込んだ。

そこで鈴木は、内戦下のカンボジアの難民支援に初期から現地で関わってきた人物に出会う。支援を将来の仕事にしたいと言うと、「これが仕事と言われる時代になったんだ」と返された。現場は仕事どころではなかった、という意味である。その人物は鈴木にこう問いかけた。難民キャンプの最前線には、銃弾や地雷をくぐり抜けて負傷した人が逃げてくる。頭が割れた子と足を失った子の2人が来たら、どちらを助けるか。医療や場所のリソースが限られる中では、助かる見込みのある子を治療し、助からない子には何もできない。その残酷な取捨選択が現場のリアリティだ、と。

鈴木は「俺には無理だ」と思った。現地で支援ができないなら、現地で支援する人が帰国したときにその人の書くものを出版する手伝いをしよう。その人が書けないなら、自分が聞き取って書く側に回ろう。高校2〜3年でそう考え、物書きくらいしかできないと思い定めたという。大学進学をやめて日本ジャーナリスト専門学校に進み、編集とライティングを学んだ。

バイク雑誌、裏稼業、そしてフリーランスへ

卒業後、鈴木はバイク好きが高じて、バイク雑誌の編集部にアポなしで押しかけた。「何でもやらせてください」と応接ソファーに座り込んでいると、出入りしていたライターとカメラマンの事務所の先輩が拾ってくれ、編集プロダクションにつないでくれた。やがてフリーランスになるが、1年もしないうちに主な仕事先だった雑誌が潰れ、借金も抱えて食べる道がなくなった。

そのとき、面倒見はいいが「生きている業界があまりよくない」先輩が、さまざまな裏の仕事を手伝わせてくれた。鈴木は一例として偽造テレホンカードを挙げる。イラン人やトルコ人が10枚1000円で売っているものを、日本人から買いたい日本人に20枚2000円で売れば、1万円で仕入れたものが翌日には2万円になる。質流れのロレックスの買い手を探すような仕事もあった。こうして生活を立て直した時期があったという。

聞き手が「そっちの方が稼げたのでは」と聞くと、鈴木は稼げたと認めた。そのうえで、書く世界で生きたかったのに駄目で、そちらで食いつなぐしかないのは悔しかった、戻りたい気持ちがあったと話す。期間は数か月、長くても1年ほどだったという。その後、編集プロダクションに誘ってくれた先輩から声がかかって編集の仕事に戻り、デザインの仕事のつながりから記事も書くようになった。1999年、27歳ごろにフリーライターとして独立した。

プチ家出の取材で見つけた「ガチ家出」

売春する少女たちの取材は、2000〜2001年ごろに社会現象化した「プチ家出」から始まった。夏休みや春休みに家に帰らず、渋谷や新宿で路上生活のように過ごす少女たちの話題である。社会の裏側の1つとして取材を始めたところ、何か月、半年、1年と家に帰らず、体を売って生きている「ガチ家出」の子が混じっていた。

話を聞くと、みな虐待や貧困など、家にいたら危ないような被害の中で生きてきた子たちだった。緊急避難的に街に出て、生きる手段として売春をし、同じ場に同年代の子がいるからなんとなく混ざっている。鈴木は、これは社会現象やムーブメントではない、こういう子たちは昔からいたのかと衝撃を受けた。自分が食いつなぐために裏の仕事をしていたのとはスケールが違い、彼女たちは生きるためにそれをしていた。反省もし、驚きもし、なぜこの子たちは福祉につながっていないのか、なぜこうなる前に家庭環境を変えられなかったのか、という憤りから取材を続けたという。

2000年代前半は、未成年の逸脱行為がどんどん排除されていく時代だったと鈴木は振り返る。条例で深夜に出歩くだけで補導の対象になった。石原慎太郎都知事(当時)が主導した浄化作戦の流れで、店舗型風俗は新規の届け出が実質的にできなくなり、デリバリーヘルスが急増した。街で生きていた未成年は街にいられなくなる。一方、派遣型の風俗は外から見えにくく、届け出なしでも営業できてしまう。そうした状況の中で、2004〜2005年ごろには未成年を使い、本番行為もある、実質的な組織売春が増えたという。同時期に出会い系サイトも流行し、未成年を含む少女たちが個人で客を取るようになった。

しかし家出してきたばかりの未成年は、携帯も持っておらず、サイトの使い方も分からない。そこで、業界に近い男性たちが用心棒と客付けを担うという需要が、少女側にも男性側にもあった。鈴木はこれを「マッチング」と表現する。2005年末ごろから「援デリ」(援助交際デリヘル)と呼ばれる集団が一気に現れた。実態はデリバリーヘルスではなく、個人で売春する少女の客付けとセキュリティだった、と鈴木は説明する。2006年の初めに鈴木が接点を持った業者の拠点の1つが、冒頭の喫茶店だった。

怒りを燃料に成功する人たち 夜釣りの誘い

聞き手は自分の取材経験から、幼少期の暴力への怒りを燃料にとてつもない力を発揮する人がごく一部いる、と話した。聞き手が会った2人は売春とは無関係の一般的な職業で大成功しているが、失礼ながら幸せそうには見えない。2人とも「どこかでパタッと死にそうだとよく言われる」と語り、そのうち1人はハードワークを「自傷行為」だと言語化していたという。

鈴木は「それ分かるわ」と応じた。自傷的なハードワークをしている間は、自分の中の苦しさや不安、暴れる生存本能や生存の危機の感覚から目をそらせる、という理解である。そのうえで、自分が取材した不良少年の話をした。虐待の経歴があり、詐欺グループで番頭格にまでなった青年がいた。上を見ると金主しかいないような、全身に入れ墨の入ったリーダー格の子である。彼が夜中に電話をかけてきて「鈴木さん、イカ釣りに付き合ってもらえませんか」と誘ったという。道具は夜中でも開いている釣具屋で全部買うから、と。

番頭格は立場上、派手な夜遊びを控えるよう自分が指導している。だから女遊びではなく、得体の知れないルポライターを夜釣りに誘う。鈴木は、そうせざるを得ないほど、彼は不安で苦しい夜を過ごしていたのだろうと今は考えている。当時の自分はそれを全く分かっていなかった。

聞き手は、誘う側からすれば、苦しいんだねと言われながら釣りをするより、気にせず隣にいてくれる方が楽だったのではないか、それだけで役に立っていたのではないか、と返した。鈴木は「そうね」と受けつつも、「それを知ったうえで付き合ってやりたかった」と答えた。生きづらい人のサンプルをたくさん見てきたことで、自分をいろいろなものの理解者だと勝手に勘違いしていた、とも付け加えた。

巻き込まれ型取材と、次の書き手への期待

鈴木の取材スタイルは、取材対象が抱える問題やトラブルに思い切り巻き込まれ、その解消を手伝うことで関係を深めるものだった。売春をしている少女たちは、客に向けた偽りのセルフストーリーを用意していて、取材の最初は基本的に嘘をつく。100回会い、100時間話してようやく本音が出てくる。トラブルを抱えた子が「鈴木さん困っちゃった、どうしよう」と頼ってきたときに初めて本当のことが見え、巻き込まれる中で人間関係が育つ。1〜2時間の取材で分かったように書くのとは違う、と鈴木は言う。

ただ、52歳の今、現役で苦しむ若い子の問題にかつてのように全部巻き込まれる体力はない。だから、きっちり巻き込まれ系のルポライターが育ってほしい、できれば育てたい、と鈴木は話した。死ぬまでに人のことなど分かりきれないのかもしれない、とも述べている。

支援のあり方と、まだ答えの出ていない問い

では結局どうすればいいのか。聞き手の問いに、鈴木はまず、彼らの文化圏を「正しい」とされる側の文化圏に強制的に戻そうとしないでほしいと答えた。自助努力があるなら、いったんそれをリスペクトする。困っているのが健康問題や金銭問題なら、生活圏を一般市民側に戻してから支援するのではなく、今いる世界の中で支援してほしい。一般市民の価値観で見れば、そんな人を支援するのは面倒だ、面倒を見きれないと思う人の方が多いだろう、と鈴木も認める。だからこそ、そう思わせる症状や脳の状況があることを可視化しなければならない。そして、彼らにとってその経済圏や文化圏が生きやすいのであれば、その中での危険を減らす方がいい、というのが鈴木の考えである。

目指すべきは、何をしてでも飯を食っていける状況、たとえアンダーグラウンドの産業であっても継続的に不安なく生きていける状況だという。規制や犯罪化ではなくそこをゴールにすれば、アプローチは変わるはずだ。基本的人権や最低限の生活といった言葉はいろいろあるが、本人を否定せず、明日を不安なく生きられる状況をより広く確保することが理想だろう、と鈴木は語る。

一方で、鈴木自身がまだ答えを出せていない問いもある。なぜ暴力を受けると、暴力が終わった後も普通に楽に生きられなくなるのか。鈴木は「嵐の後を生きるのが、なんでそんなに嵐のままなのか」と表現した。

次の著作で鈴木が取り組もうとしているのは、「トラウマがあるから働けない」ことの可視化である。暴力被害を受けた人がなぜ働けなくなるのかは、しっかりした理解がなければ「働けない」とイコールで結びつかない。鈴木によれば、貧困とは基本的に働けないことだ。明らかに働けないと見て分かれば支援につながるが、働けそうに見えて働けない人は、制度にもつながりにくく、社会から排除され、自己責任と言われて孤立を深める。「暴力被害はもうなくなって、あなたは自由なのに、なぜ働けないのか」。この問いにイコールで答えられなければ貧困の解像度は上がらない、と鈴木は述べた。この取材を終えた後の次のテーマは、まだ考えていないという。