ほんこんが語る「ごっつええ感じ」の5年間 大阪の芸人が見た松本人志の現場と、その後の違和感

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概要

130Rのほんこんが、YouTubeチャンネル「街録ch」のインタビューで、自身の芸人人生を振り返った。取材はかつてフジテレビがあった東京・河田町の跡地を歩きながら行われた。話の中心は、1990年代に出演したフジテレビのコント番組「ダウンタウンのごっつええ感じ」の現場である。加えて、大阪での少年時代、NSC入学、今田耕司や板尾創路とのコンビ遍歴、番組終了後の生活、コメンテーターとしての活動、現在のお笑いとコンプライアンスへの考えまで語った。ほんこんは「ごっつ」を最高の現場と評価しながら、「あの時代に戻りたいかと言われたら嫌だ」とも言う。記事では、この二つの感情がどこから来るのかを中心に発言をたどる。

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大阪の仕事を止めて「ごっつ」へ

ほんこんによれば、「ごっつええ感じ」のパイロット版に130Rは出演していない。パイロットには今田耕司、東野幸治、吉田ヒロらが出ていたという。レギュラー化が決まった段階で、パイロットのメンバーの1人が入らないことになり、代わりに130Rが呼ばれた。その理由について、ほんこんは浜田雅功が「協調性がない」と言ったと聞いたが、本当かどうかは分からないと断っている。

声がかかったのは28〜29歳のころだった。当時の130Rは大阪でレギュラーこそ多くなかったが、単発の番組や劇場の出番に出ていた。フジテレビの深夜番組にもレギュラーで出ていたので、東京に来ることはあったという。それでも「ごっつ」が決まると、有無を言わさず「ごっつ」最優先になった。京都でやっていたラジオも収録日と重なったため終わった。

呼ばれた場面も本人にとっては突然だった。フジテレビの喫茶店に番組のディレクター2人(ほんこんは山口氏と星野氏と記憶している)から呼び出され、「頼むわね」と言われたという。パイロット版は見ていて、東野たちが東京で頑張っていくのだろうと思いながら、自分は大阪でやっていくつもりだった。ほんこんは東京に来ること自体が「すっごい嫌やった」と話す。本当は漫才だけをやって劇場に立てればいいと考えていたからだ。実際に東京で暮らし始めてからは、仕事だけの生活になり、「ごっつ」のメンバーが家族のような存在になった。フジテレビと他局を行き来する目まぐるしい日々で、ほかのことを考える余裕はなかったという。

3日押さえの収録と、スタジオに組まれた4つのセット

当時の収録スケジュールについて、ほんこんは次のように説明した。実際に稼働するのは2日間で、1日目がコント、2日目が「チームファイト」やロケものの企画だった。このほかに予備として水曜日も押さえられていたが、ほんこんは当時それを知らなかった。水曜は仕事がないと思っていたら、実は押さえられていたのだという。

セットの規模には驚いたそうだ。初めて現場に行ったとき、1つのスタジオにセットが4つほど組まれていて、ドラマのように次々と撮影できるようになっていた。大阪とはまったく違うと感じたという。台本はセリフがある程度書かれているだけで、あとは松本人志を中心にした「口移し」で作っていく。アドリブも許され、その場の空気を大事にしていた。台本にないことを言われたように見えるリアクションについて聞かれると、ほんこんは実際に「また何を言うてんねん」と思っていたと笑った。

言葉にされないルールと「ベタ」の扱い

昔のダウンタウンは怖かったという話について、ほんこんはNGがあったと認める。駄洒落は絶対に駄目で、寒いことは言わない。ただしこれは明文化された規則ではなく、暗黙のうちに共有されていた。ダウンタウンのネタや楽屋での空気に触れているうちに、「これは寒い」「これは言ったらあかん」と分かってくるのだという。

一方で、あえてベタを演じるコントもあった。ほんこんは未来の老いたダウンタウンを演じた「2014」のコントを例に挙げ、ベタの場面ではベタを演じなければならないと話す。ただ、それは単純なベタではなく、「こういうことを言ったらあかんねんで」と見せる意味を持っていたという。聞き手が実際の2014年のダウンタウンはあのコントのような老人にはならなかったと言うと、ほんこんは、自分はDVDをほとんど見返していないと答えた。見るのが「怖い」からだという。東野も同じことを言っていて、芸人を引退してから見ようかと話していたそうだ。

戻りたくない理由と、ツッコミが要らない現場

ほんこんは、甲子園の強豪校出身の選手が高校時代には戻りたくないと語るインタビューとの比較を受け入れた。あの時代がなければ今の自分はないので否定はしないが、戻りたいかと言われれば嫌だという。収録中は楽しかった。しかし常に笑いのことを考え続ける毎日だった。もう一度その時代をやり直すなら、違うやり方をしたいとも話す。

もう一つの理由は、ツッコミとしての居場所がなかったことだ。130Rのネタではほんこんがツッコミを担うが、「ごっつ」には浜田がいるのでツッコミは要らない。ほんこんは「しんどかった」と振り返る。番組終了後、ほかのコントや劇場に出ているときのほうが生き生きしていると言われたこともあったという。

そこでほんこんは、ここは違う世界だと受け止めた。松本や板尾の笑いに今田が合わせていくように、それぞれが自分のポジションを持っていた。自分はチームファイトなどの体を張る企画で頑張ろうと決め、人間ミサイルのように飛ばされて紙風船を割ったこともある。もともと体を張るキャラクターではなかったが、やってみると面白かった。浜田に小声で「次お前やからな」と言われ、「え、俺かいな」と返しつつ、「お前しかおらんやろ」と言われる。ほんこんは、それが自分のポジションだと思うようになったという。

浜田雅功の「飴と鞭」と、いじりの加減

プライベートでは浜田に誘われることが多かった。ゴルフにも連れて行ってもらい、松本とも食事に行ったが、基本的には浜田とよく一緒にいたという。頬骨を当てるような企画では、浜田は指の入れ方からして違ったとほんこんは言う。

ほんこんの説明では、浜田と自分は同い年で、一方の今田と東野は同期でも年下にあたる。浜田が同い年の自分をいじると、その格差を面白がって今田と東野が笑う。浜田はその構図が「好物」だったのだろうという。

嫌な気持ちになったことはないかと聞かれると、ほんこんは「ない」と答えた。浜田のいじりには飴と鞭があるからだ。ロケに行けば土産を買ってくれ、怪我をすれば家まで送ってくれた。家に泊まったときには、CMに出ていたインスタントラーメンを作ってくれたこともあるという。さらに浜田は、人がいちばん痛がって面白く見えるポイントを分かっている。こちらが「これ以上は駄目」という空気を出すと受け取って抑えてくれる。ただ、時々ぐっと本気で来ることもあり、それを見た周囲が「マジや」と驚いて笑いになるのだと話した。

「いらんことをしない」という感覚の共有

今振り返ると天才ばかりの現場だったのではないかという問いに、ほんこんの答えは少し違った。今田や東野とは大阪でずっと一緒にやってきたので、特別すごいとは思わない。ただ、大阪を背負っていたとは思うという。今田については、うまいこと言って大阪に戻ってメインの仕事をしている「詐欺師」だと冗談を交えて評した。

ほんこんが強調したのは、ダウンタウンに任せておけば、暴れたり余計なことをしたりしない限り、全部きちんと「料理」してくれるという点だ。コントでも企画でも自分は「いらんこと」をしなかった。だから長く続いたのだと思う、とほんこんは言う。そういうことをする人はそもそも呼ばれない。メンバーには「これはいらんことをした」と察知するセンサーがあり、全員が同じ方向で笑いを作っているときに違う方向で目立ってはいけない、という感覚を共有していた。今考えるとすごい連中だったとほんこんは話し、女性陣も同じだったと付け加えた。

4年連続のクリスマスと番組の日常

人気番組の出演者なら女性ファンも多かったのではないかと聞かれ、ほんこんは自分と東野は少なかったと答えた。証拠として持ち出したのが、東野と2人きりで4年連続でクリスマスを過ごしたという話だ。本当に同じ居酒屋に行ったという。

いちばん大変だった企画には「たわしサッカー」を挙げた。素足でたわしを蹴るもので、チームに分かれて戦い、浜田が審判を務めた。親指で蹴っていたら浜田が気づき、「何親指で蹴ってんねん、小指で蹴れ」と言ったという。ほんこんは、浜田がそうした小さなエッセンスを加えて笑いを大きくしようとする点をすごいと評した。香港返還の7月1日には番組で香港に行かされ、滞在時間3時間で帰ってきたというエピソードもあった。

ゴレンジャイのような企画では毎回衣装が作られていた。収録後には、次に何をやるかをみんなで朝まで話し合った。松本の楽屋は狭く、全員は入りきらないので、ディレクターやADはドアを開けたまま外に座って参加していたという。収録は夕方5時ごろに始まり、夜12時ごろに終わる。そこから会議が朝方3時ごろまで続き、翌日は朝7時に相模湖集合のロケということもあった。

河田町の夜と27時間テレビ

跡地を歩きながら、ほんこんは当時の街の様子も語った。今は住宅街になっているが、当時はフジテレビを出た先の通りに寿司屋が多く、プロ野球ニュースの出演者として子どものころに見ていた往年の名選手が寿司を食べていた。「ごっつ」の出演者だと声をかけられることもあったという。飲みに行くのはほんこんと東野で、ディレクターやプロデューサーと一緒だった。松本、浜田、今田、板尾は酒を飲まなかったので帰っていたそうだ。

局の駐車場では27時間テレビの企画も行われていた。ほんこんの記憶では、河田町での最後の27時間テレビで、自分たちは外でバスケットボールのシュートを決め続ける企画をやっていた。そこへSMAPの木村拓哉が帰り際に来て、3ポイントシュートを決めて帰っていった。「かっこええな」と言い合ったという。

ライバル意識はあったか

上の世代を倒そうという空気はあったのかという質問に、ほんこんは「倒すというのはまた別問題」と答えた。ビッグ3とは違うことをやっているという感覚だったという。ただ、番組全体としてはとんねるずやウッチャンナンチャンを意識していたのではないかとも推測する。とはいえ「ごっつ」のコントは独特なので、どこかと比べるものではないというのがほんこんの見方だ。

苦情の知らせも出演者に届いていた。PTAが見てはいけない番組だと言っているという話を聞き、みんなで笑っていたという。今のようにSNSがあれば大変だっただろうとほんこんは言う。ただ、当時もタレントのテンションが下がるような話は途中で止められていたのではないか、とも推測した。たけし軍団とのライバル意識について聞かれると、後に話したときに、大阪から勢いよく来たのだから「なんやねん」と思われるのは当然だろうという話になったと振り返った。最初はお互い尖っていたが、仲は良かったのではないかという。

浜田の時間管理と「一発撮り」の緊張感

「ごっつ」でいちばん武闘派は誰かと聞かれ、ほんこんは浜田だと答えた。収録が押していて「押してんねん」と浜田が言うと、現場がピリッとしたという。松本はあまり言わないので、浜田が時間を調整していた。1時間番組なのに、ほぼ1時間で収録が終わったこともあると聞いた、とほんこんは話す。真偽は分からないと付け加えたうえで、生放送のような感覚だったと表現した。浜田は大阪で慣れているので、だらだらカメラを回さずに狙い撃ちで撮っていったという。

その代わり、打ち合わせは長かった。コントには台本があるが、直前まで議論し、カメラリハーサルは1回だけだった。本番ではそれを完璧に撮る。ほんこんはカメラマンの技術にも感心していた。裏まで押さえていて、撮り直しも音声の録り直しもなかった。技術スタッフにも相当な緊張感があったという。

いちばん面白かったのはオリンピックの特番だという。裏番組がオリンピックなので「トカゲのおっさん」をずっとやろうという話になり、1時間トカゲのおっさんだけを放送した回があった。ほんこんは、生放送でもトカゲのおっさんはできたと思うと振り返った。

番組終了は「死活問題」だった

番組が終わった経緯について、ほんこんは、阪神が優勝するかどうかの時期の野球中継で「ごっつ」の放送が飛び、それをきっかけに終わったと説明している。ほんこんにとってそれは「死活問題」で、労働組合があったら立ち上がっていたと冗談も交えた。何とかならないかという声はあったが、本人たちが駄目だと言うのなら仕方がないと受け入れたという。松本のコントの才能が番組の中心だった以上、自分たちだけで続けることは到底無理だと考えていた。

終わってよかったという気持ちはなかった。ほんこんは「これからやなと思っていた」と言う。あと5年、10年続いて、自分たちでも「もうあかん」と思う地点が来るのか、そこを見たかったという。これは他のメンバーではなく自分の関心だと断ったうえで、松本人志という才能が、テレビのコント番組の中でどこまで行くのかに興味があったと語った。ちょうどメンバーの個性が出てきて、スタッフからも「最近みんな味が出てきて面白くなってきた」と言われていた時期だったので、とても残念だったという。今振り返ってタイミングが良かったと言えるかについては、それを言うのはどうかと思うが、そういう流れだったなら仕方ないという立場だ。そして、今見ても面白いと付け加えた。

大阪の荒れた中学と、人前が苦手だった少年時代

話は「ごっつ」以前にさかのぼる。ほんこんは大阪出身で、昭和38年生まれ。中学校は荒れていて、自分たちの学年はいちばん真面目だったらしいが、先輩や後輩はむちゃくちゃだったという。暴走族が流行していた時代で、小銭の音を鳴らさないように気をつけて歩き、後ろをよく確認していた。カツアゲにも遭い、走って逃げたり、「跳べ」と言われて跳んだりしたという。

ほんこん自身は強いほうではなかったので、面白さでごまかしていた。面白いやつは喧嘩の強い人間とも友達になれる。当時は、賢いやつ、足の速いやつ、面白いやつがモテた時代だったとほんこんは振り返る。

父は職人、母は専業主婦で、ほんこんは姉と兄がいる3人きょうだいの末っ子だった。父は放任主義だったという。大阪には寄席番組や漫才番組が多く、吉本新喜劇もあったが、芸人になりたい気持ちはまったくなかった。人前に出るのがすごく嫌なタイプで、4〜5人で喋って盛り上がっているのが好きだった。クラスの中心ではないが、いつの間にか中心になっていることもあったという。

サラリーマン生活とNSC入学

お笑いに惹かれたのは高校時代の漫才ブームの影響だった。ほんこんは阪神・巨人や太平サブロー・シローらを挙げ、漫才師をかっこいいと思ったという。それでも高校卒業後はすぐに芸人にはならず、就職して2年8か月サラリーマンをした。仕事は工場で車の部品を作る作業員で、浜田は「ネジを作ってた」と言うが、それだと格好悪く聞こえると笑った。

高校時代のアルバイト先のお好み焼き屋にはスタジオミュージシャンらが出入りしていて、「お前おもろいな」と言われていた。横山やすしと知り合いなので紹介しようかと言われたこともあったが、弟子は大変だと思って断った。弟子入りしていたら今の自分はいなかったと思う、とほんこんは言う。

会社勤めをしながらNSCの願書を取りに行き、1年経っても気持ちが強ければ会社を辞めて入ろうと決めた。1年後も思いは強かったので、4期生として入学した。ジャズダンスや舞台の専門用語の授業があり、ほんこんは真面目に出席するタイプだったという。月謝も最後まできちんと払っていて、今田はたぶん払っていないと冗談を言った。当時は後払いでゆるく、今は前払いになったと後輩から聞いたそうだ。

今田耕司、そして板尾創路とのコンビ

最初にコンビを組んだのは今田耕司で、コンビ名は「ダブルホルモンズ」。ほんこんは一般の女性にはモテないが、お笑いの世界では声をかけられることが多く、歴代の相方は全員向こうから誘ってきたという。理由を聞かれると、少し絡んだだけで「この人はお笑いが分かっている、人としてもちゃんとしている」と思われたからではないか、と自分で答えて笑いを誘った。

今田と組んでいたころはボケだったが、相方を変えていくうちにツッコミのほうが自分に合うと思うようになった。少しイラチなところがあり、言葉の選び方も含めてツッコミのほうが面白いと感じたという。今田とのコンビが終わった理由は遅刻だった。ほんこんは印刷屋で働いて5時に仕事が終わり、今田は夜の店で働いていたので5時過ぎに起きる。その間にネタ合わせをするはずが、今田は「あと5分」と言って起きなかった。解散というより「1回休憩しよう」という別れ方だったという。

板尾とはNSC時代に出会った。変わったやつだと思い、コンビを組むことはないだろうと考えていたが、話してみると同い年で、センスが面白い。自分がツッコミなら生きるのではないかと思ったという。その間に「香港マカオ」というコンビを組んだが、相方がいなくなった。その後、板尾と組んだ。「受けたら続けよう、滑ったらやめよう」と始めたところ受けた。最初は香港マカオ時代のネタを板尾向けにアレンジしたコントだった。以後は板尾が本筋を話し、ほんこんがメモを取りながら、遊べる部分に「おかず」を足し、ツッコミで笑いを取る形で作っていったという。板尾はそれに何も言わず、うまくいっていたとほんこんは話す。

130Rは心斎橋筋2丁目劇場で結果を出し、テレビの漫才番組では巨人から「めちゃめちゃおもろい」と言われた。ほんこんによれば、それまでも現場では受けていたが、テレビでのその評価は影響が大きく、局のディレクターたちに「あいつらおもろいぞ」と知られるようになった。ダウンタウンとは香港マカオ時代に「2丁目探検隊」で出会っている。「4時ですよーだ」では今田のコーナーでネタをやり、面白いという投書が100通来たらレギュラーという条件で、それを超えてレギュラーになったという。

当時すでに売れていた今田に嫉妬はなかったのかという問いに、ほんこんは、あったが「頑張れ、仲間やと思っていた」と答えた。悔しさは「負けていられない」という良い意味のもので、うちはコンビだから違う形でやっていく、と常に考えていたという。ちなみに今田と板尾は一緒に住んでいた時期がある。今田が「4時ですよーだ」でバイトを辞める際、ほんこんが代わりに入ったところ、今田より仕事が早いと褒められたという。

番組終了後のギャラと、ほかの番組への違和感

「ごっつ」が終わったころ、ほんこんは結婚して長男が生まれていた。大変だったが乗り切らなければと思ったという。ギャラについては「ええことなかった」と言う。最初はとても安く、2回上がり、2回目に上がってから2か月ほどで番組が終わった。東野と「残念でしたね」と言い合ったことを覚えているそうだ。もともと高いギャラで生活していなかったのが今となっては笑い話だ、とほんこんは話す。

番組が終わってからの物足りなさについて聞かれると、ほんこんは、ほかの番組が「ゆるすぎる」と感じてしまうのが弊害だったと語った。「もうちょいちゃんとやれや」「そんなことで笑うな」「MCおもんないのに」と思うこともあったという。誰とは言わないと断ったうえで、そういう場面でも番組が第一なので、自分を殺して「おもろいな」と言っていた。ふてくされても仕方がないからだ。

一方で、たけし、さんま、タモリの番組にも出させてもらったが、それぞれの笑いには違う面白さがあったという。タモリは変わったところを面白がり、それを見ていること自体が面白い。さんまや紳助は喋りでドッカンドッカン受ける。たけしは周りの人を生かしていく。かっこいいと思ったという。

漫才への未練と「THE SECOND」

30代以降のコンビ活動は二の次になっていた。ほんこんは「ごっつ」で押さえられることが多く、イベントがあってもほとんど出られなかったという。単独ライブもほとんどやっていないのではないか、と自分でも曖昧に振り返る。板尾はやがて芝居に力を入れるようになり、ルミネでネタや新喜劇をやっていたものの、次第に出なくなった。ほんこんはそれはそれでいいと思ったという。

東野が話していた、ほんこんが「THE SECOND」出場を誘ったら板尾に断られたというエピソードは事実だと認めた。第1回大会を見て、自分もやりたいと思って誘ったのだという。ほんこんは、テレビに出させてもらえるのは嬉しいが、基本は漫才に出たかった人間だと言う。センターマイクに2人が出ていき、「もうええわ」と言って捌けていく姿がかっこいい。毎年12月のM-1を見るたびにそう思うという。板尾以外と組む気はない。板尾の感覚に「侵されてもうてる」のかもしれず、その切り返しを面白がってしまうからだ。ただし、最近のTHE SECONDはレベルが高く、2〜3年はいろいろな場所でネタをやってからでないと無理だとも述べた。

漫才はもう諦めたのかという問いには、ポテンシャルがなくなってきたのでもういいかと思う、と答えた。それでも、60歳を過ぎた今も劇場でネタやコント、新喜劇はやってみたいという。

「マルコポロリ!」と、いじられることへの考え

関西テレビの「マルコポロリ!」は20年目で、始まったのはほんこんが40〜42歳ごろだという。ほんこんは客観的に見ても今のバラエティのトップ3に入るのではないかと評価し、とくに編集のうまさを挙げた。1時間半ほど収録したものをCMを除いた45分程度にまとめていて、収録中にしんどい時間があってもうまく編集されているという。わさびを鼻に入れる企画も、司会者にやれと言われたらやるしかない、「この人やれへんねん」という扱いをされるのも嫌だ、と話した。

ほんこんは自分がいじられることも気にしていない。知らないところで名前を出されても構わないし、番組上で「怒られている」と言えるのは揉めていない証拠だという。後輩の遅刻についても、呼び出してではなく番組の中で言う。オズワルドの伊藤の件については、自分がそれを言ったのはオンエア以外の場面で、マルコポロリのスタッフが総集編のような形で流したところ炎上し、伊藤が別の番組で「ほんこんさんから逃げてます」と言っていた、という経緯を説明した。

ほんこんは、バラエティは多少話を盛るものなのに、今の社会ではそれが許されない空気になっている、それは「バラエティを殺している」ようで嫌だと語る。芸人が言うことなのだから大目に見ろ、という立場だ。「嫌いな芸人」を言わせる企画が炎上した件については、部分的な場面だけを見て育ったディレクターが番組を作っているのではないかと推測した。人間関係や接点があるうえで言うなら成立するが、絡みのない人から言われれば「なんでこんなこと言われなあかんねん」となる、という理屈である。本人たちがカットを頼んでいたのならピー音を入れればよかったとも述べたが、その番組自体は見ておらず記事を読んだだけだと断っている。

本気で謝りに行ったドッキリ

いちばん大変だったドッキリとして、ほんこんは阪神・巨人への仕掛けを挙げた。台本では、阪神・巨人に対して「最近漫才おもんないすね」とため口で言えという指示が出ていた。ほんこんは、巨人が怒るだろうと思っていたところ、怒ったのは阪神だった。実はほんこん自身がはめられていたのである。

「酒を飲んでパワーアップ」というコーナーの名目で酒を飲んで言ったところ、阪神が激怒した。巨人にも「君あかんで」と言われ、阪神・巨人は楽屋に帰ってしまった。ほんこんはガチだと思い、観客に事情を説明して謝ってから楽屋に向かった。「社会人として間違っていました」と謝り、胸ぐらをつかまれて殴られても仕方ない、吉本を辞めようとまで思っていた。そこで「ドッキリや」と明かされたという。泣いて、怒られて、それが自分へのドッキリだったという話である。

コメンテーターとしての発言と、その影響

後年ほんこんは情報番組のコメンテーターとしても活動するようになった。10年ほど前からだという。本人の感覚では、それも「ごっつ」やお笑いと同じで、調べてネタを作るのと変わらない。専門家から痛いところを突かれたと言われても、それは今までが緩かったからだと考えている。「日本のことを思ってやっているのか」と言われれば、「ごっつ」のときはお笑いのことを思ってやっていた、ただそれだけだと答える。

政治的な発言が増えたのはここ7〜8年で、このままでは日本がやばいと思ったからだという。ロケに行った先で土地が買われていると感じたことも挙げた。政治家になるつもりはないが、出馬の声がかかったことはあった。今は発信するのが楽しく、反応があり、賛成する人も反対する人もいるという。ネトウヨだと言ってくる人もいるが、そういう人は世間にはネトウヨという言葉を使うなと言っている人たちだ、とほんこんは指摘する。仕事への影響はあり、「少し抑えてくれ」と言われることもある。それに対しては、表現の自由を言うならこちらの表現の自由も認めるべきだと反論する。芸能人がもっと言いたいことを言うべきで、そういう人が出てきたのは良いことだという立場だ。

コンプライアンスと中居正広の件について

今のお笑い界については、かつて「いいとも」や「ねるとん」でやっていたような企画の焼き直しが多いと感じているという。コンプライアンスに怯えている様子で、見ていてかわいそうだとほんこんは言う。

中居正広が表舞台に出られなくなった件について聞かれると、実際に何があったかは本人同士にしか分からず、難しいと答えた。そのうえで、会見をしたほうがいいという考えを示す。記者を入れるかどうかは別として、報道は一方通行だったので、1〜2時間でも自分の思いを自分で話せばいい、という意味だ。スキャンダル一般については、海外では大統領の女性問題でも辞任には至らない例があると述べ、奥さんが被害者なら奥さんに謝ればいいのではないかと話した。ただし、今回の件で何があったのかは自分もよく分からないと断っている。

コンプライアンスが緩む日が来るかについて、ほんこんは分からないとしたうえで、世の中が一度大きく崩れでもしない限り難しいのではないかという見方を示した。戦後のむちゃくちゃな状況の中から繁栄があったが、今は何も壊れていない、というのがその理由だ。むしろ、パソコンやネットに残したものをAIが拾うようになり、今後はもっと厳しくなると予想する。法律上は問題がなくても、それに倣っておけば楽だという人間が増え、怖い世の中になるのではないかと話した。

残りの人生でやりたいことと、自分たちの世代

残りの人生について、ほんこんは「あと20年」と言い、人に迷惑をかけなければいいと語った。そのうえで、子どもたちの教育を変えたいという。家族愛があり、人を敬い、人のために自分を犠牲にでき、ちゃんと働く。そういう国になるよう発信していきたいという。日本人が壊れていっているのではないかと感じていて、インバウンドや移民が増える中で、日本の教育を世界に広めたほうがいいとも話した。昔は隣の人に怒られたり可愛がられたりして、作った料理を分け合う地域があった。今それをしたら「パワハラ」と受け取られかねない、それは余裕がないからではないか、とほんこんは言う。笑いについても、コンプライアンスばかりでは、人間だから面白いという部分が失われると考えている。

自分たちの世代がいちばん美味しい時代だったのではないかと聞かれると、ほんこんは否定した。いちばん美味しかったのは、さんま、紳助、のりおら少し上の世代で、バブルを経験しているからだという。自分たちはバブルの終わりかけで、しかも東京ではなく大阪の出身だった。大阪は制作費が安く、ケータリングもなかった。昔の東京の番組が面白かったのは、日本が強かったからではないか、とほんこんは推測している。

松本人志を超える天才は現れるか

最後に、松本人志を超える天才は今後現れるかという質問があった。ほんこんは、現れると思うと答えた。藤山寛美もさんまも天才と言われ、その前には林家三平やエンタツ・アチャコがいた。ただ、形はどうなるか分からず、お笑いの形そのものが変わるかもしれないという。海外ではスタンダップコメディのように1人で笑わせるが、日本ではボケとツッコミの2人で笑わせる形が根づいているのではないか、とも話した。

聞き手が先のことは分からないと言うと、ほんこんも、自分だって目覚めて整形するかもしれないと冗談を返した。整形するか出馬するか、どちらの可能性もゼロではないという笑い話でインタビューは終わった。