なべやかんが語る、たけし軍団の27年と筋肉の世界、そして昭和の芸能界と政治

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概要

なべやかんは、明治大学替え玉受験事件で「日本一有名な素人大学生」になり、そこから芸能界に入った。「後編」となるこの回では、ビートたけしに引き取られた経緯、たけし軍団での27年間、パワーリフティングで日本一になるまでの道のり、50歳目前で始めたプロレスについて語っている。後半では、父・なべおさみを通じて見た昭和の芸能界と政治家、興行とヤクザの関係にも話が及ぶ。なべやかんは一貫して、自分から望んだ道はほとんどなく、そのつど「導かれて」進んできたと話している。

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替え玉受験事件と、ビートたけしの擁護記事

事件が発覚したのは大学1年の4月末、ゴールデンウィークの頃だったという。テレビも週刊誌も一斉に叩き、好きで見ていたワイドショーでも、好きだったタレントに散々に言われる状態だった。なべやかんは、当時SNSがあったら死ぬまで追い込まれていただろうと振り返り、それがなかったのは幸いだったと話す。

そんな中で買った『週刊ポスト』に、ビートたけしが事件について書いていた。裏口入学などどこにでもある世界で、今さら驚くことではない、という趣旨で、なべ家を擁護する内容だった。なべやかんがその記事を父に見せると、父はたけしに礼状を書いた。するとたけしの側からファックスが届き、会わないかという誘いがあった。父が撮影所へ会いに行き、話をするうちに「うちで預かりますよ」という流れになり、なべやかんはたけしのもとに入ることになった。

なべやかんは子どもの頃からたけしが大好きで、漫才ブームの頃もツービートが一番心地よかったという。ただ、たけし軍団は嫌いだった。落ちこぼれや少年院上がりのような雰囲気があって、嫌だったと話す。東京地検で取り調べを受けたとき、検事に「この子はどうするんだ」と聞かれ、喜劇やコメディをやりたいと答えた。すると「たけし軍団にでも入るのか」と言われ、「あそこに入るくらいなら刑務所に入りたい」と返したという。そのたけし軍団に、本当に入ることになった。

たけし軍団の序列と「際物」としてのデビュー

当時のたけし軍団は、上に9人いたとなべやかんは説明する。ダンカン、つまみ枝豆、ガダルカナル・タカ、井手らっきょ、松尾伴内らがいて、そのまんま東はすでに独り立ちしており、大森うたえもんは抜けていた。その下に浅草キッド(玉袋筋太郎、水道橋博士)がいて、さらにその下に、テレビにはあまり出ていない「3軍」がいた。全体で20人を超える大所帯で、なべやかんはその3軍の一番下に入った。

最初の仕事はたけしの付き人だった。たけしの付き人は本来ある程度選別されて付けられるものだが、なべやかんは直接たけしに付く形になったという。しばらくすると自分の仕事も入るようになり、付き人と並行してこなしていった。

芸能界での受け入れられ方について、なべやかんは「際物中の際物」だったと言う。いわゆる2世タレントなら、トーク番組で父や母の話を聞かれる。しかしなべやかんの場合は、ほとんど犯罪者のような立場で入ってきた。それでも実刑判決を受けたわけではなく不起訴だったので、周囲はいじることができた。芸人である以上、どういじられても受け身は取れ、取れないなら出てくるな、という空気だったという。ラジオでは、最初からニッポン放送のレギュラーを持っていた。

『あしたのジョー』のような軍団の空気

なべやかんは当時のたけし軍団を、『あしたのジョー』の少年院の世界にたとえる。初めてたけしに会いに行ったのは、当時あった渋谷ビデオスタジオだった。『北野ファンクラブ』の収録中で、軍団員が全員集まっていた。マネージャーに楽屋で待つよう言われて廊下を通ると、見たことのない軍団員たちが「あれがおさみさんの息子だぞ」とひそひそ話している。ジョーがトラックで少年院に運ばれてきて、先輩の受刑者たちが「新入りが来たぜ」と笑う場面にそっくりだったという。

『あしたのジョー』では、少年院の先輩たちは最初は優しく、それが後の展開への前振りになっている。実際の軍団も同じだった。顔も名前もわからない先輩に「緊張して疲れてるだろう、座りなよ」と勧められ、座ると肩を揉まれ、そのうち「ところでお金を貸してくれないかな」と言われた。なべやかんは、当時のたけし軍団は本当に治安が悪かったと話す。

たけしとの最初の対面は、トイレから響く怒鳴り声から始まった。「誰だこれは」と、映画『アウトレイジ』のような剣幕だったが、出てきたたけしが言ったのは「うんこを流してないやつは誰だ」だった。なべやかんは、トイレも流せない人たちをこれから「さん」付けで呼び、先輩として扱わなければならないのかと思い、とんでもないところに来たと感じたという。

怪我を隠すのが「マナー」だった

体を張る企画について、なべやかんは、骨折したり血が出たりしたら自然とパネルの後ろに隠れるのがマナーだったと説明する。バラエティで血を映すことはできないからだ。『スーパージョッキー』などで頭が割れたり鼻血が出たりすると、セットの板の後ろに隠れてしばらく出てこなかった。

収録後に病院へ行く人もいれば、行かない人もいた。行かなかった理由について、なべやかんはこう説明する。病院に行けば「これは危険だからもうやれない」となり、スタッフが軍団を目立たせるために作ってくれた面白い企画ができなくなってしまう。だから言わずに隠した、という。

具体例として、空手の拳を鍛えるために鉄の棒(バーベル)を殴る企画が挙がった。先輩が思い切り殴ったあと、次にやれと言われたその先輩は「すいません、手がこんなになっちゃいました」と言った。拳はドラえもんの手のように腫れ上がっていて、たけしは笑い転げて「後ろに行ってろ」と言ったという。なべやかんも、あれほど腫れた手は見たことがないと話し、それを面白いと受け取る雰囲気だったと振り返る。

なべやかん本人は、怪我は怖かったと言う。「ジャッキー・チェン映画に挑戦」という企画では、ジャッキーのアクションに軍団が挑んだ。幼い頃から全寮制の学校で鍛えられた人だからこそ、ああいうアクションができるのであって、だらしなく生きている自分たちにできるはずがない。そこへ香港で活躍するアクション監督の谷さんが来て手本を見せたところ、その谷さんが怪我をした。それを見たたけしは「これをやってもらいます」と言ったという。

水槽での脱臼から始まったトレーニング

なべやかんがスポーツジムに通い始めたきっかけも、軍団の企画だった。巨大な水槽に重りをつけて沈み、水中でジェスチャーをする企画がよくあった。苦しくなったら自力で急いで浮上しなければならないが、なべやかんはその浮上の途中で肩を脱臼した。運動をしておらず筋肉がなかったので、それ以前にも脱臼していたという。溺れ死ぬと思い、ある程度は身体能力を高めておかないとまずいと考えてジムに行った。これが、後のパワーリフティング日本一につながっていく。

ジムに通っていたある日、ベンチプレスの関東大会に出たという人が来た。それまでジムで見た誰よりも重い重量を挙げていたので話を聞くと、パワーリフティングという競技があり、ベンチプレスだけの大会もあると教えられた。パワーリフティングはベンチプレス、スクワット、デッドリフトの3種目で競うが、そういう競技があること自体、それまで知らなかったという。その人が関東大会で優勝したと聞き、なべやかんは関東大会がトップだと思い込んで、記念に出場した。そして、いきなり優勝した。

「ランキング9位」で湧いた悔しさ

この優勝を日刊スポーツの記者が記事にしてくれ、そこに52kg級の日本ランキング9位と書かれていた。なべやかんはこのとき「殺意が湧いた」と表現する。身長が低く体重も軽い自分が9位なら、上に8人いる。自分より強い8人がいると思うと悔しくてたまらず、そいつらを倒してやろうと思ったという。

ちょうどその頃、テレビ朝日のスタッフがその記事を見て、笑福亭鶴瓶と草彅剛の番組で、真面目に何かに打ち込む人を追う企画をやりたいと声をかけてきた。撮影が入るため、新宿の区のジムではなく、本格的な設備のあるジム(当時のパワーハウス)に移った。スタッフは「1年は追いかけるので、なんとか世界大会まで行ってください」と言った。まだ日本大会に出たこともないのに、なべやかんは無責任なことを言う人だと思ったという。

世界大会に行けるのは、各階級の1位か2位のうち、体重比で計算するフォーミュラ計算で上位の1〜2人だけという狭き門だった。なべやかんは全日本大会の予選を突破したが、その時点で番組は3カ月もたずに終わってしまった。全日本大会には初出場で階級2位、フォーミュラ計算では全階級の中で上位だったため、世界大会への出場が決まった。「僕は約束を守ったけど、番組は守れなかった」と話している。

17連覇の選手を破り、世界へ

才能があったのかと聞かれると、なべやかんは、同じ階級にいた稲葉さんという選手の話をした。世界大会で17回優勝し、ギネスブックにも載っている選手で、日本では負けたことがなかった。その人を破った唯一の日本人が自分だ、という。勝った大会はワールドゲームズだったと記憶しているようだ。初出場の全日本大会では、52kg級のベンチプレス日本記録も出したという。

世界大会では、3種目総合の最高成績が5位。種目別ではベンチプレスとデッドリフトで表彰台に上がっており、ベンチプレスのアジア大会では優勝している。

なべやかんは、スポーツ選手が芸能人になる例は多いが、芸能人が本格的な競技で優勝やメダルという結果を出したのは自分が先駆者だと思う、と話す。その後の最高峰は、オリンピックに出た猫ひろしだという。

なべやかんが競技の世界で結果を求めた背景には、軍団の運動神経が「芸能界の中だけの話」として扱われてきたことがある。そのまんま東はハンドボールで国体に出ており、井手らっきょは非常に足が速かった。しかし芸能人の運動会では、井手が一番端のレーンを走らされ、ぶっちぎりで1位になっても、レポーターはアイドルのほうへ「おめでとうございます」と駆け寄った。井手はテレビ的にカットされていたのだという。そうしたことがあったから、たけしは「たけしのスポーツ大賞」を作り、井手らっきょの足の速さを日本中に知らせた。それでも結局は芸能界の中での評価にとどまる。自分は芸能界ではなく、スポーツそのものの中でトップになりたかった、となべやかんは語る。

バブル期のタイアップ撮影と、食べられないタレントたち

話は当時のテレビ業界に移る。なべやかんが本に書いたという、制作側と個人的な関係のある女性が番組に出ていた、という話について、インタビュアーが尋ねた。なべやかんによれば、メインの出演者ではなく、ワイプの中で「パフパフ」と盛り上げるような、タレントの卵のような人たちだったという。

バブル期は海外ロケが多く、ホテルや航空会社がタイアップしてくれた。そのためには「今回はこの航空会社がこんな良い席を用意してくれました」「このホテルのプールはこうです」といったイメージ映像を撮る必要がある。そういう映像を、タレント本人ではなくそうした女性たちで撮っていた。担当ディレクターやプロデューサーと関係のある女性であることが多かった、となべやかんは話す。

さらに、あるタレントから、風俗店に行ったら番組で一緒だったアシスタントの子が出てきた、という話を聞いたことがあるという。なべやかん自身も、渋谷で打ち上げ帰りにホテルの前を通ったとき、出てきた男女の女性が、その日一緒に仕事をした子だったことがあった。なべやかんは、タレントの仕事だけでは食べていけないからそうしていた、という理解を示したうえで、まれなケースだと付け加えている。

27年でオフィス北野を離れた理由

たけし軍団には結局27年いた。たけしがオフィス北野を抜けたとき、なべやかんはそれを「ボン・ジョヴィからボンが抜けるようなもの」とたとえ、事務所は崩壊したと話す。このタイミングで辞めたのは、なべやかんとビートきよしの2人だけだった。他の軍団員はその後TAPに移っている。

なべやかんが移籍しなかった理由の一つは、このときマネージャーがごっそり辞め、スタッフがいなかったことだ。もう一つは、同じマネージャーやスタッフと続けていると仕事がマンネリになるので、違う場所で違う刺激が欲しかったことだという。当時の仕事は筋肉系、趣味のコレクション関連、旅番組、Vシネマや映画などで、最後の仕事はドラマだった。辞めたのは47歳頃だった。

入るときにたけしから「刑務所と同じだからな」と言われていたので、辞めるときに懲役27年がどのくらいの罪に当たるかを調べたという。麻薬100kgを密輸した暴力団幹部の刑と同じだった、と笑う。

後半は楽だったのではという質問には、ものすごくきついわけではないと認めつつ、「部活で3年生がずっと辞めない」ような状態だったと説明する。普通は1年ごとに先輩がいなくなり、自分が上がっていく。しかし軍団では先輩が辞めないので、それがずっと続く。先輩たちの面白さもわかり、慣れて居心地は良かった。それでも、このままでは「ぬるま湯」に浸かった状態になると思い、一度外に出たほうがいいと考えたという。

40代半ばでも「若手」だった

体を張る仕事は後半も続いた。熱湯風呂は後期には熱いおしるこに変わり、とろみがあるので熱が逃げず、より熱かったという。たけしが中に落とし物をしたから拾ってこいと言われ、おしるこに顔を突っ込んで目を開けても何も見えない。これを45歳頃にやっていた。先輩たちはすでに体が動かない年齢になっていて、「若手がやってくれよ」と言われる。「若手と言っても45だぞ」と思いながらやっていたと話す。

なべやかんは身体能力の高さを買われ、企画を成功させる役割も背負わされた。「中国雑技団に挑戦」のような企画では、全員が失敗する中で、なべやかんが成功させなければならなかった。子どもの頃から訓練した人ができる技を、40代で求められていた。先輩たちの中では年齢の感覚が止まっているので、40歳を過ぎても若手と呼ばれたという。

だからオフィス北野を辞めたときには、体を張る仕事はもうやめたいと思っていた。ラジオのスタジオで話したり、バラエティ番組のスタジオや旅番組に出たりしたい。スタジオで座って喋っているほうがいい、と強く思ったと語る。

50歳手前で始めたプロレス

ところが、辞めてすぐにプロレスラーになった。きっかけは、ボディコンテストの団体であるベストボディ・ジャパンで、日本大会や東京大会の司会をしていたことだ。なべやかんによれば、国内のこの種のコンテストで6割ほどを占める大きな団体だという。その代表がプロレス団体を作ると言い出し、参加してほしいと頼んできた。最初は無視していたが電話が来て、芸能人なので絶対に怪我はさせない、西口プロレスのような感じでいい、と言われ、仕方なく引き受けた。

ところが連れて行かれたのはDDTの稽古場で、DDTの選手から普通の新人レスラーと同じ練習をさせられた。話が全然違った、となべやかんは言う。当時のDDTの道場は浮間舟渡の倉庫街にあり、工場跡のような大きなプレハブで、エアコンがないので夏は暑く、冬は非常に寒かった。ゴキブリや蜘蛛も多い「虎の穴」のような場所で、50歳手前のなべやかんが、20代や30代の年下のレスラーと練習した。たけし軍団よりきついと話している。

プロレスは先日8周年を迎えた。体が硬くなり、柔軟性がなくなってきたので、みんなが怪我をする理由がわかると言い、引退も見えてきたと話す。本当は大好きなコレクションについて語ったり、ラジオのブースで喋ったり、執筆をしたりしているほうがずっと楽で、本当は嫌なのだという。替え玉受験の罰としては長すぎるのではと言われ、「今のところ終身刑ですね」と答えている。

いま世の中で問題になっているハラスメントについて、なべやかんは、暴力も侮辱もセクハラも、リングの上では全部ありだと話す。殴る、蹴る、唾をかけられる、投げられるのは当たり前で、今の時代に唯一「たけし軍団的なもの」が許されている世界だという見方に同意している。

プロレスのベルトは先日取られてしまったが、ベストボディでもタイトルを取っている。SNSでは趣味や筋トレ、プロレスのことまで「全部お父さんのおかげでしょう」と言われることがあるという。なべやかんは、父のおかげでベンチプレスが150kg挙がるならぜひお願いしたい、と返す。むしろ本当のお坊ちゃんなら、嫌だと言って辞めていたはずだと話す。

では、なぜ続けられたのか。なべやかんは根性ではないと言う。自分は本業のある「二足のわらじ」のレスラーにすぎないのに、DDTにいた大石真翔(現在はフリー)や遠藤哲哉(現在はノアにも参戦)が、親身になって教えてくれた。真剣に教えてくれる人には真剣に向き合わないと申し訳ない。だから続けた、という。

インタビュアーは、たけし軍団も替え玉受験も筋トレもプロレスも、どれも本人が望んで始めたわけではないのに結果を出している、と指摘した。なべやかんは「言われてみればそうですね」と応じている。

なりたかった芸人像と、30年以上続く主催ライブ

本当はどんな芸人になりたかったのかという質問に、なべやかんは「いい加減で、この人どうしようもないなと言われる」芸人を挙げ、例として高田純次の名前を出した。同世代では、吉本の芸人がうらやましいという。ダウンタウン、今田耕司、東野幸治、ナインティナイン、今ならかまいたちのように、お笑いという本道だけで確かな地位を築いている人たちだ。自分の場合は筋トレやプロレスといった「オプション」がついている、と対比している。

お笑いを目指していた時期ももちろんあり、自身が主催するお笑いライブは今年で32年目、300回を超えている。出演者たちがずっと付き合ってくれていることに感謝していると話す。猫ひろしも出ていたほか、のちにM-1で活躍する芸人が出ていたこともあったという。

自分で選んだものはうまくいかない

呼ばれて始めたことのほうがうまくいく、となべやかんは話す。自分からガツガツ行くと、なかなか達成できないという。例として挙げたのが映画だ。脚本が完成し、プロデューサーがつき、出資も決まり、撮影日まで決まっていた。しかし主演に考えていた人たちのスケジュールがどうしても合わず、企画は流れた。小説もずっと書いて出したいと思っているが、実現していない。

著書『クソ芸人からのチャンピオン』も、出すつもりのなかった本だという。当時所属していた事務所の代表に、書き上げた小説を出したいと2年間言い続けた。ようやく出版社の社長をホテルのラウンジで紹介されたが、どんな出版社かを尋ねると「小説以外を出す出版社です」と言われた。なべやかんはその場で「終わった」と思ったが、紅茶を頼んでしまったので、飲み終わるまでは大人として帰れない。仕方なく雑談の中で、以前から出したかった「スポーツジムのインストラクターの言う通りにすると怪我をする」という、喧嘩を売るような本の企画を話した。すると社長が面白いと言い、その場で出版が決まった。

タイトルは当初、出版社側が「クズ芸人からのチャンピオン」を提案した。しかし、ノンフィクションで「クズ芸人」と呼ばれた別の芸人のイメージがあるため断った。次に「カス芸人」を提案されて強く苛立ち、自分から「クソ芸人でお願いします」と言って決まったという。クソ芸人は冗談で使う言葉だが、カス芸人という言葉はない、というのがなべやかんの理屈である。

大物政治家からの電話と、安倍晋太郎との縁

終盤は、父・なべおさみと政治家の関係に話が移る。替え玉受験事件のとき、家の前はマスコミで埋まり、外に出られなかった。そこへ電話がかかってきた。相手は総理大臣になったことがあるような、トップクラスの政治家だった。電話を代わると、「某大学なら入れてあげるぞ」と言われたという。なべやかんは、これだけ話題になっている人間が2学期から教室に現れたら大変なことになる、と言って落ち着いてもらったと振り返る。

なべやかんによれば、父の後援会長は安倍晋三の父・安倍晋太郎だった。その縁で、安倍から選挙の応援を頼まれることもあったという。正月には家族で安倍家を訪ね、お年玉をもらっていた。しかし大臣になると一般人にお金を渡せなくなるらしく、お年玉の代わりにチョコレートをくれた。子どもだったなべやかんは、チョコレートなんかいらない、もう二度と来たくないと思ったという。

父が所属していた渡辺プロダクションについて、なべやかんは、日本のエンターテインメントの始まりのような存在だったと話す。戦後は東京・大阪・九州の興行主が日本を盛り上げ、その後にプロダクションが生まれてきた、という説明である。父はクレイジーキャッツのハナ肇の付き人で、なべやかんとたけしのような関係だった。ところが、応援している政治家は父のほうが強かった。それで居づらくなったことも、渡辺プロを辞めた理由の一つだったという。芸能界では先輩でも、背後の政治家はこちらが強い、というようなことが昭和にはあった、となべやかんは語る。

「同じ図式」だという大手事務所の件

スキャンダルがもみ消せた背景について、なべやかんは、いろいろ問題になった大手芸能事務所の例を挙げた。あの事務所も元総理がいろいろ頑張っていた、という。元総理と警察官僚のつながりは、明治大学の事件で責任をなべ家に押しつけたときと同じ人間、同じ図式だとなべやかんは主張する。この事件はなべ家のせいにしようと決めたのは背後にいた政治家であり、その人物があの事務所を守っていたのと同じだ、と話す。あれだけの問題がずっと表に出なかったのだから、その政治家はとても強い、というのがなべやかんの見方である。

元総理が亡くなったことで抑えが効かなくなったのかという質問には、そういうこともあるのではないかと答えている。なべやかんによれば、両方とも亡くなった後で暴露が出てきたことに対し、なぜ生きているうちにやらなかったのかという声があった。しかし、知り合いの記者たちが記事にしようとすると、編集長に止められていたという。編集長はその政治家の名前を挙げ、圧力があるから駄目だと言っていた、となべやかんは話す。

父はそうした話をもっとたくさん知っているのかと聞かれると、昭和の時代だから「いっぱいありますよ」と答えている。今はコンプライアンスもあり、あとはどう付き合うか次第だという。

興行とヤクザ、そして「本職の人」

芸能界とヤクザの関係について、なべやかんは、もともと興行はヤクザ絡みの人たちが自分たちで出資して日本を盛り上げてきたもので、昭和には切っても切り離せない関係だったと話す。今は暴力団対策法などで駄目になっている、とも付け加えた。

例として挙げたのが、昔のヤクザ映画の賭場の場面だ。札を張るあの手つきは普通の人にはできず、本職の人を使っている。昔の映画の台本を見ると、役とキャストの欄に「本職の人」と書かれている、となべやかんは話している。

裏側を知る立場として

インタビュアーが、亡くなったときに自動的に発売されるような形で全部残してほしいと言うと、なべやかんは、本人が面白いと思っていないことにも、人にとっては驚く話がたくさんあるかもしれないと応じた。アンテナを張っているわけではないが、友人が教えてくれたり、出会う人がそういう人だったりするという。最近はなぜか、公安の人や、裁判で「判事」の役割をしている人など、そうした職業の人とよく知り合い、食事をしては同じような人を紹介されているという。

なべやかんは、替え玉受験というマイナスからのスタートで、世の中の裏側がわかったと話す。最近よく呼ばれるYouTube番組『NO BORDER』のXファイルの企画でも、扱う話題の裏側について「こういうことね」とわかったり、自分の知っているエピソードが出てきたりするという。一方で、わかる範囲とわからない範囲はたくさんあるとも言う。同番組では裁判のことも国税のことも知らなかったことがわかり、面白かったと振り返った。思い出す話はまだまだある、というところで対談は終わっている。