宮大工・金田優が文化財の「利権」から離れ、無名の古い社寺を若手と直す理由

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概要

大阪府の太子町で宮大工の養成塾を営む金田優氏は40歳である。国宝や重要文化財ではなく、指定を受けていない築100年、200年の神社仏閣を、塾生とともに低い費用で直すことに力を注いでいる。取材では、塾生の暮らしと宮大工の技術、新築より修復を選ぶ理由、修行時代の経歴、文化財の世界に対する告発めいた批判、そして45歳での引退と引きこもりの若者を育てる構想までが語られた。以下は金田氏の説明と見解に沿ってまとめたものである。

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一畳で暮らす塾生と、聖徳太子を祀る道場

道場の一室では、塾生1人に畳1枚が割り当てられている。金田氏は「立って半畳、寝て一畳」という言葉を引いた。私物は衣装ケース一つに収まる分だけで、大工道具は階下の工場の棚に置く。大阪の道場の塾生は現在2人で、岡山の校舎からも塾生が来て4人で作業しているという。修業期間は3年である。

部屋には菅原道真が祀られている。宮大工を「学問する」ことを塾のテーマにしているからだと金田氏は話す。一方、宮大工の神様として仏道の形で祀っているのは聖徳太子だ。近くの叡福寺に聖徳太子の墓があり、町名の「太子町」もそこから来ている。金田氏によれば、聖徳太子が大陸から仏教を持ち込んだことで組物などの木造技術も入ってきた。そのため宮大工に限らず、建築や土木の会社には聖徳太子を信仰するところが多い。この町に学校を置いたのもそれが理由だという。

宮大工と一般の大工の違い

一般の大工は住宅を建て、宮大工は寺や神社を建てる。金田氏は両者の違いを、使う道具と規模にあると説明する。住宅は30坪ほどだが、寺では50坪、100坪も珍しくない。そのぶん木材も大きい。ただし基本は同じだという。宮大工ならではの道具として、首の長い鑿(のみ)を見せた。穴の中を掘るためのもので、住宅ではまず使わない。

宮大工の人数について、専業はおよそ300人、住宅と兼業する人を含めると1000人ほどとよく言われるという。金田氏自身は「住宅ができない」ので専業だ。これに対して神社仏閣は全国に数十万ある。田舎ではそもそも宮大工がおらず、かつては住宅の大工が見よう見まねで直すこともあった。しかし最近はそれも少なく、断られるのではないかと金田氏は見ている。今の住宅はプレカットが中心で、鑿や鉋(かんな)を使えない大工が多い。すると古い建物を修理できないので、取り壊してプレカットで住宅のような寺を建てる、という流れになるという。

鉋の実演と「道具のスペシャリスト」

鑿と鉋で一応の仕事ができるようになるには3年かかると金田氏は言う。材木を刻めと言われて、その仕事をこなせる水準のことだ。電動の鋸や丸鋸もあるが、手道具が下手な人は電動工具を使っても下手だという。宮大工は道具を使うスペシャリストであり、根本的な使い方ができていなければ何を使っても同じ、というのが金田氏の考えである。

実演では、がたついた材の表面を鉋で平らに削ってみせた。金田氏が難しいと強調したのは、鉋をかける前の台の調整、つまり道具のセッティングである。刃の出具合は目で確かめるが、目に見えないほど薄く削ることもある。そのときは触った感覚や、刃がわずかに見えるかどうかで判断する。仕上げた面はつるつるで、水を弾く。柱や梁は仕上げ方ひとつで寿命が大きく変わるという。

卒業後の進路と宮大工の収入

卒業生の進路は、宮大工の会社に就職する、神奈川校や兵庫校といったフランチャイズ校舎を運営する会社で働く、寺社関連の業者に入る、金田氏の会社で働く、などである。一人前にはすぐなれるが、独立して自分で受注できるようになるまでは10年ほどかかる。受注できるかどうかは信用次第だからだ。

収入については、宮大工の多くは仕事そのものに価値を感じていて、お金は食べていければいいと考えていると金田氏は話す。腕のある人の中には年収数千万円の人も普通にいるが、金田氏自身は1000万円ほど稼げればそれ以上はいらないと考えている。

新築より高くつくこともある「修復」を選ぶ理由

金田氏の見方では、今の宮大工の会社の多くは古い建物を壊して新しく建てている。修復は新築の8割ほどの費用がかかり、下手をすれば新築より高くつくことも多い。そのため住職や宮司も新築のほうがいいと考えがちだという。ただ、最終的にはプロジェクトを立案する会社の持っていき方次第だとも述べた。

修復は経営上リスクが大きい。建物は一つひとつ傷み方が違い、開けてみるまで中の状態がわからない。追加費用を寺が保証してくれないこともある。会社が抱える職人の数で年間にこなせる仕事量が決まるので、修復を選ぶと工期が読みにくい。新築なら図面どおりに建てればよい。修復も経験である程度は読めるが、細部までは見通せない。

金田氏が挙げた最悪の例はこうだ。大きな木材は交換不要と判断していたのに、めくってみると見えないところから白蟻が入って中が空洞になっていた。それを直すには上の建物をすべて解体しなければならない。費用は契約で取り決めるが、今の寺社は予算のないところが多い。そのため金田氏が「鉛筆をなめて」見積もりを調整したり、修業中で人件費のかからない塾生の作業で吸収したりしているという。

それでも修復にこだわる理由は二つある。一つは、昔の人の仕事が見られて勉強になり、面白いこと。もう一つは、若手が挑戦しやすいことだ。新築は工業製品のように寸分違わず作る必要があり、小さなミスが取り返しのつかないものになる。だから怖くて若手に任せられない。修復なら、材を長めにとっておいて、失敗したら短くしてやり直すといった調整の幅がある。金田氏が自分で手を入れることもあれば、「もう一度やってみて」とやり直させることもある。修復はそもそもリカバリーの仕事なので、若手の失敗も取り戻せるというわけだ。

会社員から、法隆寺の系譜での住み込み修業へ

金田氏は大阪府柏原市の出身である。父親が建築業を営んでいて、小学校の先生から「あなたのお父さんに家を建ててもらった」と言われたことがある。家には端材がたくさんあり、子どもの頃から鋸や鑿、金槌で箱を作って遊んでいた。工業高校の就職活動のとき、担任に「木造をやりたいと言っていたな、寺や神社をやっている会社がある」と勧められた。大学進学も考えたが、学問だけで本当に身につくのかという疑問があった。実践で覚えるほうが早いと考えたうえ、自作パソコンのグラフィックボードを買うお金も欲しかったという。

新卒で入った会社では、会社員として管理業務をしながら、現場で職人の「手元」、つまり使い走りをさせられた。穴掘りなど、さまざまな職種の仕事に触れるのが当時の社風だった。CADや製図のコンクールで賞を取ったこともあり、会社は金田氏を管理職にしたかったのではないかと本人は振り返る。やがて「納まり」の図面を任され、立場も上がった。しかし、このままでは面白くないと感じるようになる。そんなとき、文化財の仕事で関わった先生から「こんな仕事をしていてはいけない、もっとがっつりできるところへ行け」と言われた。

こうして22歳ごろ、「法隆寺には鬼がいる」と言われた西岡家の棟梁の弟子、小川三夫氏の会社で修業することになった。ここからは図面を一切描かず、大工仕事だけに専念した。兄弟子が住む寮に入り、飯炊きと手元からのスタートだった。4年の社会人経験を経てゼロからやり直すのはきつい時もあった。芸人の世界と同じで一日でも早く入った者が偉く、腕が関係してくるのはある程度上に行ってからだという。なお、今では小川氏の会社からも新卒で入った会社からも「そんな人はいなかった」と言われていると、金田氏は笑いながら明かした。「利権をぶっつぶしまくっている」からだという。

金田氏の説明では、法隆寺は国宝が多く国が管理しており、行政側が宮大工を抱えている。小川氏はそこから自分で販路を切り開き、民間の寺社の仕事をしてきた人だという。

日給4000円からの3年間

修業中の給料は、最初は日給4000円、1か月ほどで6000円になり、3年目の終わりでも6500円ほどだった。30日休まず働いても20万円に届くかどうかだ。住み込みなので出費は食費くらいで、あとはほとんど道具代に消えた。エア工具や動力機械は会社の所有だが、手道具や100Vの電動工具はすべて自腹だった。

3年でほぼ何でもできるようになったと金田氏は言う。取材場所から見える規模の寺なら、当時でも建てられたという。ただしそれは自分が設計できたからで、普通は3年では構造の知識も設計力も身につかないと補足した。修業中の3年間には、業界の利権には気づかなかった。気づいたのは独立した頃からである。

「日本一の技術」の会社を去った理由

小川氏の会社を辞めたのは、ここで学ぶことはもうないと思ったからだ。金田氏は、棟梁の設計を格好いいと思ったことは一度もないが、技術は日本一だと感じていたと話す。業界でもっとも単価の高い会社で、客もそれに見合う寺社に限られる。金田氏はこれを、ベンツのディーラーに軽トラックを買いに来る人はいない、とたとえた。自分は軽トラックや一般乗用車の窓口の側だという。

出張先や休日には、地域の神社を見て回るのが好きだった。ぼろぼろの社で宮司と話すと「残していくのが大変」と打ち明けられる。金田氏は「この建物はここが素晴らしい、残してほしい」と、本人の言葉では「無責任に」語り、どうすれば自分が直せるかを常に考えていた。「坊主丸儲け」と言われるが、実際には過疎化の中で寺をどう残すかを真剣に考えている人たちがいる。そうした現場を身近に見ていたので、発注を受ける立場の宮大工が何もしないのはどうなのかと疑問を持ち続けていた。

聞き手が、患者が金を持っていないから手術しない医者のようなものだと言うと、金田氏は同意した。そのうえで、商売である以上ただ働きはできないが、無駄に儲ける必要はないと述べた。棟梁たちが高級車に乗り贅沢をするのを見て、その余裕があれば地域の神社を直せばいいと感じていたという。高級車の中にも格好悪い車があるように、技術は素晴らしくても建物は格好よくない。その技術を「軽トラック」に移転できれば大きな意味がある。単価などの課題はあるが、それを解決すれば全国の古い神社を残せるのではないか、と考えていた。

自分はエリートではなく、棟梁の下にいれば自分の将来は棟梁の8掛け程度だと見えてしまう。宮大工として偉くなりたいのではなく、ただ目の前の神社を直したいのだと金田氏は語る。町医者のように地道にやっている宮大工については「僕ぐらいやってる人はいない、いたら教えてほしい、むしろ塾をやってほしい」と答えた。塾のフランチャイズを運営する人たちは、若手を育てたい、地域の建物を残したいという志に共感して加わっているという。

伊勢、京都、奈良、日光の建築をどう見るか

次に移ったのは、東海地方で知られた会社だった。かつては全国どこでも名前を聞くほどだったが、代替わりで職人も管理者も設計者もいない「もぬけの殻」になっていた。再建の時期に入社したことで、営業、設計、積算、管理まですべて任され、会社のお金で経験を積めた。客には伊勢神宮系列の神社もあった。

伊勢系の建物について、金田氏は「凝っていない、シンプル」だと言う。ただし目に見えないところが洗練されていて、シンプルにするほど手の抜きようがない。複雑なものはごまかせるが、シンプルなものは「逃げが効かない」。白いシャツにワンポイントのマークを付けると、位置のわずかなずれがすぐわかるのと同じだという。用材は樹齢300年以上の木曽檜が基本で、規則ではないものの、それをさらに目利きして選ぶ。木は一本ごとに違い、どの面を見せるか、見え方と構造のどちらを優先するかも決めなければならない。見る人は100人いれば100通りに読み取る。その中で皆が納得する使い方を考える必要がある。

地域差については、京都の建物は線が美しく女性的、奈良の建物は古代らしい力強さがある、と金田氏は評した。日光東照宮は豪華で技法は非常に多いが、「センスないなと思って見てます」と言う。家康が本当にあれを望んだのかは疑問だという。金田氏の解釈はこうだ。もともと家康を祀る社だったものが、寄進を重ねるごとに格を認められ、宮号宣下を受けて「宮」になった。最上級の家康を祀るには最上級でなければならないという人間の忖度が、あの派手さを生んだ。金田氏は「信仰なんてその程度」「生きてる人間が考えること」だと述べた。

式年遷宮への距離

伊勢神宮の式年遷宮は20年に一度、社殿を新築する。金田氏によれば、背景には「常若(とこわか)」という神社独特の思想がある。常に清らかな状態を保つことが神への最大の敬意であり、朽ちる建物を定期的に新しくしてきた。これは日光の忖度とは性質が異なるという。

職人は神宮が独自に公募する。約7年のプロジェクトで、最大20人ほどのグループが5つほどでき、延べ100人規模になると金田氏は説明した。毎週のように応募者が来て試験を受け、合格すればグループに入る。1〜2週間一緒に働くうちに、残る人と出ていく人が入れ替わる。人数に制限があるので、仕事のできない人を循環させる仕組みではないかと金田氏は推測している。

参加したいとは全く思わないという。金田氏にとってそれはステータスにすぎない。参加者は強い気持ちで奉仕しているが、伊勢にはお金も人もある。その気持ちがあるなら、お金がなく直せない建物をやるべきだというのが金田氏の立場である。出雲出身の聞き手が出雲大社の例を尋ねると、出雲や春日は全面的に建て替えるのではなく修復していく方式で、「式年造替」と呼ぶのではないかと答えた。伊勢はすべて新しくするので文化財的価値はない、とも述べている。

東海の会社を2年ほどで辞めたのは、社長が金に汚かったからだという。金田氏らが組んだ予算どおりに発注すればよいのに、業者を叩きに叩いて疲弊させる。職人たちも幸せそうではなかった。独立したのは27〜28歳ごろだったと記憶している。

文化財の世界に対する批判

独立後、金田氏は京都の出雲大神宮に関西支部という部署を作り、その役員を務めていた。金田氏自身が寺社の「ファン」なので、宮司や住職と親しくなるのが得意だという。すると仕事を任せたいと声がかかる。文化財の建物は制度上は誰が施工してもよいが、そこに「利権の人たち」が入ってきて仕事を持っていった。宮司からは、本当は金田氏に頼みたいのに、なぜその5〜6倍の単価の会社にやらせなければならないのかと嘆かれたという。

金田氏が問題にするのは「文化財技師」、いわゆる文化財の先生たちである。彼らは「金田さんは無名だから任せてはだめだ」「実績のある会社にさせるべきだ」と、新規参入の業者を排除するよう強く働きかけるという。寺社には地域の人が役員として入っていて、合議で決める。多数決になると結局「ちゃんとした」業者に落ち着く。仕事は同じなのに支払額は何倍にもなる。金田氏は、これは文化を守っているのか、天下り先の世話をしているのか、と疑問を投げかけた。

金田氏の説明では、大工は学術的な知識を持たない。一方、文化財技師は様式や年代、技法に通じ、修復方針や予算規模を決める権限を持つ。昔は大工がすべてできたが、分業化で大工はそうした人たちの世話をする側になったという。文化庁から委託を受ける独立行政法人があり(名前は言わないとした)、それが問題になると、今度は民間の「なんとか協会」ができて、文化庁や法人の職員が天下りしていく、と金田氏は語る。はじめは古い建物が好きでやる気のあった人も、学校の先生が教育委員会に染められるように、一度受け取れば同じになってしまうという。

具体的な体験として、金田氏は新卒で入った会社での出来事を挙げた。現場事務所に文化財の先生が来ると業者が並び、「今日はあんたいくら持ってきたん」と裏で金を渡していた。伸びそうな若手だった金田氏にも、業者が「ご飯でも」と3万円ほどを渡してきた。断っても机の中に入れられるので、従業員を通じて返したという。ただし金田氏は「立証しろと言われたらできないが、現場は見ている」と述べている。まともな人もいるとしつつ、自分が見てきた中にはいなかったとも付け加えた。

補助金の仕組みにも触れた。所有者と国が費用を分担し、国指定の重要文化財なら7割、あるいは半分だったかが補助される。都道府県指定なら2割ほどになるという(数字は金田氏も曖昧だと断っている)。補助を受けるには文化財技師を付け、資格を持った職人を使うといった条件がある。普通に工事すれば安くできるのに、文化財仕様の制約のなかで中抜きされ、先生たちの懐に入るというのが金田氏の見立てだ。金田氏は、そもそも文化財とは人間が認定し線引きしたものにすぎないと言う。独立して3か月ほどで文化財には関わらないと決め、指定されていない大切な社寺を直す方針に切り替えた。

嫌われながら続けた塾と、手取り27万円

業界から嫌われ始めたのは独立後、とくに塾を始めてからだという。当初は馬鹿にされていた。ところが、8000万円規模の仕事を塾生と2000万円ほどで仕上げた例などが出てくると、仕事を奪う存在と見なされるようになった。「塾費を集めて私腹を肥やしている」とも言われた。金田氏の手取りは27万円で、以前は24万円だった。従業員のほうが給料は高いという。子どもが増えて妻に頼まれ、少しずつ上げてきた。子どもは4人いて、前の結婚での子も1人いる。東京では無理だが、田舎なので生活できると話す。

塾はかつて費用をすべて徴収していたが、寮費と食費を無料にし、来年度からは大阪校舎で完全無償化する予定だという。原資は、社会人になった元塾生からの毎月の寄付や、メディア出演を見た支援者からの寄付である。受け取ったお金は自分の給料ではなく地域の社寺の再生に使っており、結果として自分たちに戻ってくる仕組みだと説明した。

嫌がらせは今も続いている。文化財を扱う職人向けの資格講習に行った際、トイレで「調子に乗るな」と言われたという。職人に資格など「いらない」と金田氏は考えている。YouTubeも早くから始めたが、当時は「汚れたことをするな」と言われた。今ではそう言っていた人たちが普通にInstagramに投稿している。ただ、そうした人たちがいたからこそ頑張れたとも述べた。

45歳での引退と、引きこもりの若者を育てる構想

金田氏は5年後、45歳で引退すると決めている。40歳を過ぎたら「老害」であり、上の世代がいることで若い人の可能性が阻害されているというのが理由だ。自分がいると塾生は甘える。自分がいなくなり、若い人が残したいものを自分たちの手でやらなければ、この先は残らないと考えている。

引退後に取り組みたいのは、引きこもりの若者の社会復帰である。塾には引きこもりの子がよく来て、職人になっていった。しかし塾生と同じ場で生活すると引っ張られてしまうことがある。そこで、林業や農業と組み合わせた社会復帰の場を作る構想だ。ある程度まで引き上げたうえで、塾に入るか、宮大工として働くかを選べるようにしたいという。すでに親たちとやり取りを続けている。家庭だけでは解決に限界があるし、国は責任を取れないからできない。自分にも子どもがいるので、自分の子がこうなったらと思うと胸が詰まる、と語った。1000人もいない宮大工の世界で10人でも育てられれば、大きなシェアになるとも話した。

山で暮らせばお金はさらにかからない。切った木はフランチャイズの運営者が買い、作物は自分たちで食べたり塾に売ったりできる。管理に困っている山の持ち主から、所有権を求めずに管理を引き受ければよいという。娯楽は建物を作ることで、スマホがなくても一日中過ごせる。大工道具は鍛冶屋がある程度まで作り、使えるように研いだりカスタマイズしたりして「育てる」のは職人の仕事だ。それが楽しいのだという。誰でもできるが今日明日できる仕事ではないので、甘やかすことは本人の将来を奪うことになると金田氏は言う。

教え方、逃げ出す塾生、そして後継

教えることについて、金田氏は「たぶん一番うまい」と自負している。最初は、なぜわからないのかを言語化できずに苦労したが、パソコンが使えたので動画で教えるなどして工夫した。「なんでわからへんねん」では人は育たず、わかっていないのは教える側だと言う。できない人を見るほど、どこでつまずいているのかがわかって面白いと話した。

かつては逃げ出す塾生もいた。引きこもりだった子が現実から逃げて実家に帰ろうとするのだ。親が「帰ってきても引きこもりになるだけ」と突き放せば残り、情に流されて甘やかすと残らない。警察に捜索願を出し、金田氏が4日間探し回ったこともある。見つけた後は親を呼んで会議を開き、塾に戻したという。

聞き手が戸塚ヨットスクールの宮大工版のようだと言うと、金田氏はメディアからもそう言われると認めた。戸塚宏校長の勉強会に行ったことがあり、尊敬していると話す。感情のスイッチが入ると敵を作るタイプだが、勉強会では理論的に教えてくれるという。聞き手が「人間が育つには不快感が必要」という考えに触れると、金田氏は学ぶ前から自分自身の経験でそう思っていたと応じた。塾生と友達になるつもりは一切なく、いかに嫌われ、いかに不快なことをして成長させるかを考えている。厳しく言われた塾生の心のケアは妻が担ってきた。今では卒業生も働きながら、自分の昔の経験を話してケア役を務めている。

金田氏の役割を引き継ぐ人が必要なので、45歳でやめると周囲に宣言している。後継になりうる人は何人かいるという。事業承継がきちんとできなくても、別のやり方でやる人が出てくるだろう、魅力のない業界ではないので誰かがやる、と金田氏は見ている。