最重度知的障害の息子を育てるシングルマザー同士が、岡山で家族になるまで

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概要

岡山で暮らすヤマト社長さんとかおりさんは、どちらも最重度の知的障害と発達障害のある息子を育ててきたシングルマザーで、現在は同性カップルとして一緒に暮らしている。息子は中学1年生と中学3年生で、どちらも意味のある言葉を話さず、おむつもまだ外れていない。インタビューでは、ヤマト社長さんが自分のセクシュアリティに気づいてから親に受け入れられるまでの経緯、子どもを望んで男性と結婚し離婚したこと、息子の障害が分かった経緯、将来の施設入所への不安、そしてかおりさんが福島から岡山へ移住してきた理由が語られた。

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二人の関係と出会い

ヤマト社長さんは体も心も女性で、女性として女性が好きなレズビアンだと自分を説明する。そのなかでも男役にあたる「タチ」だという。パートナーのかおりさんはバイセクシャルで、これまでの恋愛も結婚もずっと男性とだった。女性と付き合ったのはヤマト社長さんが初めてである。年齢はヤマト社長さんが41歳で、かおりさんは少し年上だ。

出会いのきっかけはSNSだった。ヤマト社長さんは最初、自分と同じような子どもを持つママ友が欲しかった。Instagramでかおりさんが子どものことを投稿しているのを見つけ、自分の息子とよく似ていると感じて、いろいろ相談できればと連絡した。一方で、かおりさんが顔を出していたので「可愛い子だな」とも思っていたという。子どもの年齢や日々の大変さを話すうちに、自分がレズビアンだと打ち明けた。かおりさんに拒否するような反応はなかった。シングルマザーになった今なら振り向いてくれるかもしれないと考え、そこから少しずつアピールしていったとヤマト社長さんは話す。かおりさんは当時、結婚していた男性と別れた直後だった。

ヤマト社長さんは岡山、かおりさんは福島に住んでいて、最初は電話だけの関係だった。どうしても付き合ってほしかったヤマト社長さんが福島まで会いに行き、その後2年間、年に数回会う遠距離の関係を続けた。最終的にかおりさんが子どもを連れて岡山へ移住した。息子が小学6年生まで福島で過ごし、中学入学に合わせて引っ越している。障害のある子にとって環境の変化は大きな負担になるので、どうせ変えるなら小学校から中学校へ上がるタイミングにしようと判断したという。

聞き手に性的な関係について問われると、二人は「もちろん」と答えた。かおりさんは女性同士でどうするのか知らず、最初はヤマト社長さんに聞いて任せたと笑う。どこで終わるのかという問いには「疲れたら終わり」と答え、たいてい先に疲れて「もう大丈夫」と止めるのはかおりさんのほうだという。

二人になって子育てはどう変わったか

二人で暮らすようになって子育ては楽になったかと聞かれ、かおりさんは「楽にはなった」と答えている。相手の男性にもよるとしたうえで、結婚していた頃に比べると女性同士で分かり合える部分があり、気持ちの面で楽になったという。かおりさんの結婚期間は約10年だった。

ヤマト社長さんは、自分はもともと「子どもは元気ならそれでいい」というおおらかな性格だったと言う。障害児の子育てには観察と支援が欠かせないが、自分はかなり大雑把だった。子育てに力を入れてきたかおりさんから接し方を教わって変えたところ、荒れていた息子が落ち着いたので、一緒になって本当に良かったと話している。

セクシュアリティへの気づきと、言えなかった親

ヤマト社長さんは岡山市の、中心部から少し外れた地域で生まれ育った。振り返ると、幼稚園の頃から女の子に興味があったと思うという。友達同士で「〇〇ちゃんが好き」と言い合うとき、周りの子の「好き」は友達としてのものだったが、自分には恋愛の「好き」も混じっていた。ただ、当時は自覚していなかった。

はっきりしたのは高校生の頃だ。最初は男性とも女性とも付き合うバイセクシャルだった。当時はレズビアンやホモという言葉は知っていたが、「バイセクシャル」という言葉を知らなかった。女の子も好きになる自分はおかしいのではないかと悩み、女だから男を好きにならなければいけないと思おうとしたが、やはり女の子のほうが好きだという葛藤があった。高校1年の頃にバイセクシャルという言葉を知り、両方を好きになる人がいる、自分だけではないと分かった。そのことはすぐ周りの友達に話したが、親には言えなかった。

家族は仲が良く、今でもよく会話する明るい家庭だという。父親は長く勤めて役職にも就いている会社員、母親は専業主婦の時期もあればパートに出ていた時期もある。ただ、とにかく安定を重んじる心配性の親で、人と違うことを嫌った。言っても分かってもらえないだろうとずっと思っていたため、打ち明けるのはかなり遅くなった。

男性との交際、女性との交際、そして「タチ」だという自覚

男性と付き合っていた頃について、ヤマト社長さんは「心から好き」という気持ちはあまりなかったと話す。好きな人とのデートなら朝からワクワクするはずなのに、その感覚がない。会えばそれなりに楽しいが、これは本当に好きなのかと思っていた。それでも周りに彼氏ができ始めると、自分も同じようにしないと話が合わない、仲間外れにされるのではという気持ちがあり、好きだと言ってくれる人と付き合ってみた。初体験も、周りから遅れたくないという思いで高校時代に男性と経験した。親の「世の中からあまり外れないように生きる」という価値観のもとで、同年代と同じ経験をしておくべきだと考えていたという。興味はあったし、不快でもなく、体も普通に反応して「こんなもんか」と感じた。

その男性と別れたあと、同じく高校時代に初めて女性と付き合った。最初の相手は体は女性だが男性として生きている人で、ヤマト社長さんは受け身側だった。その相手のことは本当に好きで、行為も気持ちよかったが、次第に「何か違う」と感じるようになった。次に女性らしい「ネコ」の女性と付き合ったとき、自分がタチ側に回ってしっくり来て、自分はこちらだったのだと気づいたという。当時はスカートの制服を着て、髪もボブくらいの長さがあった。

子どもを持つ夢と、繰り返された別れ

子どもが好きだったヤマト社長さんは、保育士を目指して保育系の学校に進んだ。自分の子どもも欲しかった。しかし女性と付き合い続けるうちに、女性と一緒になれば自分の子どもを持つことはかなわないと気づいた。

3年半付き合った彼女がいて、その人と一緒になれるなら子どもの夢は諦めてもいいと思えるようになった。けれども、結局別れることになった。理由は、相手が「結婚して子どもが欲しいという夢を諦めきれない」と言ったことだった。ヤマト社長さんは、LGBTQの世界では「あるある」だと思うと前置きしている。自分には子どもを作ってあげられないので、相手の夢をかなえるには身を引くしかなかった。相手の親に孫の顔を見せたいという思いもあった。同じ理由での別れはその後も2〜3回続き、その時期が一番つらかったという。

タチとして、相手を絶対に幸せにしたいという気持ちが強かった。一般の男性よりも男らしくいなければ、尽くさなければという思いがあった。一緒にいる間は相手も楽しく幸せだったと思うが、最後に子どものことを言われると何もしてあげられず、「分かった」と別れるしかなかった。

恋愛に全力を注ぐタイプで、3年半付き合った彼女の生活に合わせて会う時間を作るため、保育士を辞めて(辞めた理由は他にもあるという)アルバイトを4つ掛け持ちしていた。早朝のバイト、学童保育の先生を経て夕方に彼女と会い、夜はラーメン店で働く。そんな生活を2年ほど続けたという。

子どもを望んだ結婚と、8か月での離婚

20代後半になり、親からは女性と付き合っているのを薄々察しつつも、結婚して子どもを産み家庭を築くのが幸せだという価値観で「結婚もせんの」とたびたび言われていた。これだけ尽くしても一緒になれないのなら、もう一つの夢である自分の子どもを持つことをかなえようと考えた。

そのとき知り合ったのが、大好きというわけではないが、この人とならうまく家庭を築けそうだと思える男性だった。ギャンブルも酒もたばこもやらず、一人暮らしが長くて家事もこなせる堅実な人で、共働きのなか家事も分担していた。今思えば本当にいい人だったとヤマト社長さんは言う。

しかし子どもができたあと、心がしんどくなった。もともと女性が好きなので、男性と暮らすこと自体が苦しくなり、特に夜の生活を求められることが苦痛だった。子どもが欲しかったから頑張ったが、生まれてからはどうしてもできなかった。子育てにも家事にも協力的で、仕事も真面目な、非の打ちどころのない夫だったが、そこだけは応えられなかった。こういう気持ちで子育てを続けても子どものためにならないと考え、別れを切り出した。

夫にはレズビアンであることを伝えないまま結婚し、別れる理由も「一緒にいるのがしんどい」とだけ伝えた。最初は納得してもらえず、細かいこともいろいろあったという。息子が生後8か月のときに実家に戻ったが、真面目な親のもとでは息が詰まるため、何かあればすぐ行ける実家近くのアパートを借りて息子と二人で暮らし始めた。元夫とは別れてから一度も会っていない。会わせないつもりはないと伝えたが、生後8か月では父親としての自覚が芽生える前だっただろうし、障害があることもおそらく知らないまま別れたと思う、とヤマト社長さんは話す。養育費は今も毎月振り込まれているという。

息子の障害が分かるまで

保育士として発達障害の特性を学んでいたので、ヤマト社長さんは早くから「ちょっと怪しい」と感じていた。1歳半で受診したときは、発達は遅れているが男の子だしゆっくりなだけかもしれないとして、グレーゾーンと言われた。はっきり診断が出たのは3歳で、そのときは中度、知能は1歳未満程度とされた。3歳の発表会では泣いている子も踊らない子もいるので、自分の子だけが特別できないという印象はあまりなかった。ところが年齢が上がるにつれて差が開いていった。診断は2年ごとくらいに更新され、5〜6歳で重度、小学4〜5年生で最重度になった。

ショックはあったが、学んでいたこともあって「そうだろうな」と受け止め、性格的にも「どうにかなる」と思ったという。ただ、シングルマザーとして子どもに不自由させないよう正社員で働き続け、息子の世話は基本的に親に頼っていた。親にも自分にも障害についての知識がなく、障害があってもしつけは必要だったのに「元気ならいい」と自由にさせてしまった。祖父母は機嫌が悪くなるとお菓子を与えるなど甘やかし、息子は奇声を上げ、ガラスを割るほど荒れた。一番荒れていたのは小学3〜4年生の頃だったと振り返る。

男性として生きたいパートナーとの別れ

離婚後、かおりさんの前にもう一人、6年間付き合った相手がいた。LGBTQの人が出会うサイトで、障害のある子を持つシングルマザーだと書き込んだところ連絡をくれた人で、体は女性だが男性として生きていた。ヤマト社長さんは本来は女性らしい女性が好きだが、子どもには父親がいたほうがいいと考え、男性として生きている人のほうが家族として良いかもしれないと思って付き合った。子どもに障害があっても大丈夫かと聞くと、関係ない、子どもも含めて家族になりたいと言ってくれた。トラック運転手で働き者、息子もなついていて、面倒もよく見てくれたという。

最初の2年ほどは遠距離で、その人と一緒の時期に中古の家を買った。アパートでは息子が壁紙を剥がすことや、壁が薄いための近所トラブルが気になっていた。夜中も泣いたり騒いだりするため、何年もの間、毎晩夜9時頃から2時頃まで車でドライブして寝かしつけ、眠った息子を抱えて家に入れる生活をしていた。4時頃にまた泣いて起きると、再び車に乗せてドライブに出たという。

別れの理由は、相手がホルモン注射や胸の切除などの手術を受けて完全に男性になりたいと言い出したことだった。ヤマト社長さんは付き合い始めた時点で、自分は男性を好きになれないので性別を変えるつもりなら付き合えないと伝えていた。一方で、相手が長年体と自己認識の違いに苦しんできたことも分かっていた。相手は最後に「それなら女として生きる」と言ってくれたが、自分と子どものために相手が自分らしく生きられなくなるのは罪悪感があった。ヤマト社長さんによれば、岡山大学は性別適合手術で知られ、手術ができる場所は日本に3〜4か所しかない。広島方面出身の相手が岡山に住み、お金もあり、今ならできるタイミングだった。それを逃せば自分らしく生きるのは難しいだろうと考え、「あなたが男性になっていくのを心から喜んであげられない。一緒に喜んでくれるパートナーを見つけたほうがいい」と伝えて別れた。喧嘩や性格の不一致による別れではなかったという。

1歳ほどの知能の息子と、施設が空かない現実

ヤマト社長さんの息子は現在、知能が1歳程度だという。友達という概念はなく、一緒に遊ぶこともできない。支援学校に通い、ボタンを押すと音楽が流れる音絵本のような幼児向けのおもちゃで遊んだり、使えるようになったYouTubeで好きな音楽を聴いたりはできる。食事や入浴には介助が必要で、一人で風呂には入れない。体は大きくなり、身長はヤマト社長さんとほとんど変わらない。文字は書けないが、できることは増えてきた。食事を見て適切な皿を持ってくる、スプーンやフォークでこぼさずに食べる、といったことだ。一方で体を隅々まで洗うことや、声をかけてトイレに連れていかないとおむつに出してしまう点はまだ難しい。

中学や高校になって初めて言葉が出た人もいるので、何か話してくれたらという期待はある。ただ正直、難しいと思っているという。最終的には施設に入ることになると考えており、自分がいつまでも見られるわけではないからこそ、人に迷惑をかけず、自分も他人も傷つけないよう、小さいうちに教えておかなければと思ってきた。

目標は高校卒業と同時の施設入所だが、最重度の場合は空きがない。体験や見学に行った施設はどこも30〜50人待ちだった。一度入ると出ていく人はほとんどおらず、他の施設への移動や、入所者が高齢になって亡くなるなどして空きが出たときに一人入れる仕組みだという。新しい施設ができるか、たまたま順番が来るかを待つしかない。その間は「生活介護」という、放課後等デイサービスの大人版のような場所に通う人が多い。ただ利用時間が短い。今は学校が3時頃に終わったあと6時頃まで預かってもらえるが、生活介護では朝から預けても4時頃には帰ってくるため、仕事を続けにくい。母親が仕事を辞めて家で見る家庭もあるという。

障害の原因について、ヤマト社長さんは言い方は悪いが「ガチャ」、運だと話す。遺伝的な要素もあるかもしれないが、家系にぱっと思いつく人はおらず、分からないという。

往復5時間の寄宿舎つき学校へ

かおりさんは、小さい頃からできることはすべてやってきた人だとヤマト社長さんは言う。勉強会に行き、良いと言われた先生がいれば診てもらい、家でもできることを全部やってきた。そのかおりさんから関わり方を教わり、ヤマト社長さんは息子の環境を大きく変えた。近くの支援学校から、寄宿舎のある県北の学校に転校させたのだ。月曜の朝に往復5時間かけて送り、金曜の放課後にまた往復5時間かけて迎えに行き、週末は家で過ごす。プロの先生がいること、そして将来施設に入るなら共同生活の経験が強みになることを理由に挙げ、送迎はしんどいが息子はかなり落ち着いたと話している。

かおりさんの息子と、異食・弄便との暮らし

かおりさんの息子も最重度だが、ヤマト社長さんの見立てでは知能的にはさらに重い。笑顔が多い子だが、口に入るものは何でも食べてしまう異食がある。葉っぱや砂、ボールペンまでかじって飲み込もうとする。便を壁や顔に塗ってしまう弄便もある。

ヤマト社長さんは話には聞いていたが、移住後に部屋がその状態になっているのを実際に見て、匂いも含めて「やっぱり大変だ」と感じたという。かおりさんはこれを一人で何十回、何百回、何千回と掃除してきた。今は二人で掃除し、「まだ匂いが残っとるぞ、どこや」と宝探しのように言い合いながら片付けているという。脱ぎにくい服を自分たちで加工して作るなど、対策も重ねている。

クローゼットの中で弄便があり、中の物をすべて捨てなければならなくなったこともあった。それ以来、物はできるだけ置かず必要最低限にした。すると掃除がしやすく、部屋もきれいで安全になり、かえって快適になったと二人は話す。

「一生成長しません」と言われたかおりさんの子育て

かおりさんの息子は、普通なら言葉が出始める時期にまったく言葉が出ず、そのあたりから様子がおかしいと言われ始めた。それでもそこまでの障害だとは思っていなかった。保育園の年少の頃、東京から来た医師に「この子は一生成長しません」と言われたのが一番ショックだったという。

受け入れるしかないと思ったものの、症状は重かった。危険も物の区別も分からず、何でも飲み込み、車道に飛び出し、排泄物を汚いと思わずに塗ってしまう。最も大変だったのは保育園から小学1年生の頃で、なかなか寝ず、寝たと思えば突然起きて大泣きしながら部屋中を走り回った。そこに弄便も重なり、昼も夜も大変だった。当時の夫は悪い人ではなかったが積極的に子育てに関わるタイプではなく、障害のこともよく分かっていなかったのではないかとかおりさんは言う。もともと手伝ってもらっていなかったので、全部自分でやったほうがいいと思っていた。仕事は、働く時期と、子どもが大変なときに退職する時期を繰り返した。

メンタルや体調は壊れなかったかと聞かれ、かおりさんは「壊れてたと思います」と答えた。ただ、子どもが可愛いという気持ちがあったので、完全に壊れて手放そうとは思わなかったという。

離婚は「突然思い立った」とかおりさんは笑う。ただ実際には、結婚して1年ほどで、どちらか一方ではなくお互いに男女としての気持ちはなくなっていた。夫が稼ぎ、自分が子育てをするという役割分担があり、子どもに障害もあるので別れられない、結婚していたほうがいいと考えてきたという。

福島を離れた理由と、移住の苦労

40年近く暮らした町を離れ、レズビアンカップルになる。これほど人生が変わると思っていたかと聞かれ、かおりさんは「激変させたい気持ちもあったかもしれない」と答えた。ヤマト社長さんのアプローチに戸惑いは少しあったが、人として面白そうだと思い、男性か女性かに関係なくこの人のところに行ってみたい、面白い人生になるのではと感じた。人生は1回しかないから、とかおりさんは話す。

周囲には障害児を連れて遠くに引っ越すなど考えられないと言われたが、やってみたら案外できたという。とはいえ、発達障害の子は環境の変化に左右されやすい。預け先も限られ、岡山で一から探すのは大変だった。ヤマト社長さんが地元にいたので、先回りして各所に問い合わせたり、学校の手続きを代行したりして、なんとかスタートを切ったという。県外からの移住なのでやり取りも大変だったと二人は振り返る。

ヤマト社長さんにとって、かおりさんはこれまでの年下の相手とは違い、年上だった。ふんわり優しく見えるが実はとても厳しい目を持っている、とヤマト社長さんは言う。自分は行動力はあるが、物事をあまり考えずかなり適当なところがある。かおりさんが考え、自分が動くという分担が今うまくいっていると話している。

親に認められるまでの15年

ヤマト社長さんが親に知られたのは大学生のときだった。母親に「あんた、もしかしたら女の人と付き合っとん」と聞かれ、「うん」と答えると、「おかしい」と号泣された。「おかしいとか言うなや」と言い返し、そのまま鞄を持って家を出たという。女性と付き合っていることを認めてもらえるまでには、そこから15年ほどかかった。ヤマト社長さんは悪いことをしているつもりはなかったので、その後もオープンに「今日は〇〇ちゃんと記念日で」と話した。すると「記念日とか変なこと言わんで」と返されることもあった。

母親は、ヤマト社長さんが5歳の頃から「親の幸せは子どもが幸せになることなんだよ」と言っていた。ヤマト社長さんはそれに「絶対幸せになるから大丈夫」と根拠のない自信で答えてきた。親は、娘が変な目で見られて苦労するのではと心配していたのだろうと今は考えている。それならば自分が毎日笑顔で幸せに生きることが親を安心させる方法だと思い、当時の彼女とも幸せに過ごした。かおりさんと暮らすことになったときには、自分の子どもにも障害があるのに、さらに障害のある子どもを持つ女性と暮らして大丈夫なのかと強く心配された。それでも「絶対幸せになるから」と言って一緒になり、今では「あんた幸せそうやもんな」と言ってもらえるようになった。

講演活動と、これから

ヤマト社長さんは岡山県内でたびたび講演会に呼ばれ、小さな子どもや、子を持つ母親の前でも話している。伝えているのは「幸せは親が決めるものではなく、自分が決めるもの」ということだ。親が思う幸せの形は結婚して子どもを持ち家庭を築くことだったが、自分の思う幸せの形は違う。それを伝え続けて、ようやく分かってもらえたと感じているという。

今の目標は全国で講演することだ。「ヤマト社長」の名前でライブ配信を続けて知名度を上げ、自分の県に来るなら話を聞きたいという人を増やしたいという。届けたい相手は、誰にも言えず苦しんでいる当事者や、障害の有無にかかわらず容姿にコンプレックスを抱える人だ。ヤマト社長さんは自分がかなり太っていると言いつつ、自分の体型も顔も大好きだという。派手な服を着ていると「太っていて可愛くもかっこよくもないのに恥ずかしくないのか」と言われることもある。それでも、着たいものを着て、食べたいものを食べ、行きたいところに行きたいし、誰かに迷惑をかけているとも思わない。恋愛も含めて、誰もが好きなものを好きと言える世の中になってほしいと話す。

40代で出会い、ここまで人生が変わるとは自分たちでも思っていなかったと二人は言う。「いい年して」「この年から始めても」と年配の人は言いがちだが、年齢は全然関係ない、というのがインタビューの最後に二人が語った実感だった。