奥菜恵が語る、「自分」を消して働いた10代と、それを取り戻すまでの道のり
街録ch〜あなたの人生、教えて下さい〜俳優の奥菜恵が、YouTubeチャンネル「街録ch」のインタビューに応じた。聞き手は、彼女が生まれてから現在までどう生きてきたかを順に尋ねていく。10代で広く知られる俳優になった一方、本人は当時を「自分が何を好きなのかも分からなくなった時期」として振り返る。清純派というイメージへの抵抗、事務所を離れてのニューヨーク行き、シングルマザー時代の苦しさ、子育てで気づいたこと、そして現在取り組むフードバンクと居場所づくりの活動まで、話は多岐にわたった。
広島での幼少期と、0歳からのモデル経験
奥菜は広島市の出身である。父親は不動産関係の会社員で、単身赴任で先に東京へ移り、家族は後を追うように上京した。奥菜が小学1年生のときだ。仲の良い友達はいたが、離れるのが嫌だという気持ちよりも、東京へ行くワクワク感のほうが強かったという。好奇心が強く活発で、運動は全般に得意な子どもだったと本人は話す。
芸能との関わりは意外に早い。0歳のころから、新聞に挟まるチラシなどの広告モデルをしていた。ただし当時は撮影だけで、芝居を始めたのは上京してからである。撮影現場に小さいころから出入りしていたためか、将来の夢はヘアメイクや美容師だった。「目立ちたいタイプではない、今もそうだ」と本人は言う。家族構成は3姉妹の長女で、妹は1歳下と4歳下である。
父の知人を通じたスカウトと、「自分で決めなさい」という言葉
スカウトは街中で声をかけられたのではなく、父親の知人から「一度会ってほしい」と場を設けられたのがきっかけだった。父親は家族写真を常に持ち歩くような人だったが、どういう経緯でそうなったのかは本人も分からないという。面談では、女優としてやっていくかどうかという話になった。小学6年生のころである。
女優になることなど考えていなかったので、悩み、戸惑い、本当に自分にできるのかという不安もあった。それでも、せっかく声をかけてもらったチャンスなので、どこまでできるか分からないがやってみようと決めた。このとき父親からは「やるんだったらやりなさい。でもやりたくないならやらなくていいから、自分で決めなさい」と言われた。奥菜はこの言葉を受けて、中途半端な進め方は絶対にしてはいけない、やるならとことんやろうと決めたと振り返る。
所属後はオーディションを受けながら、週2回の芝居のレッスンと週1回のボイストレーニングに通った。最初は何をしていいか分からず、デビュー作で台詞をもらったときは何十テイクも重ねた。台詞の言い方だけでなく、その場にどう存在していればいいのかも分からなかったという。デビューはシャンプーのCMで、これもオーディションで決まった。
役名がそのまま芸名に——『パ★テ★オ』と『打ち上げ花火』
初めてのドラマはフジテレビの『パ★テ★オ』で、出演者の娘役として新人デビューした。このときの役名が「奥菜恵」で、以後その名前で活動することになる。名前を決めたのは当時の事務所の社長で、本人も「まあいいかな」と受け入れた。現場では周囲に教わりながら、実践で学んでいった。
続いて出演したのが、岩井俊二監督の『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』である。これもオーディションで、一次・二次と進むなかで監督やスタッフから質問を受けたが、恥ずかしさで顔が真っ赤になり、ほとんど答えられなかった。奥菜は「それが面白いと思ってもらえたのか」と推測するが、結果として採用された。
撮影現場については、何テイクも重ねるような雰囲気ではなく、共演者の仲間と遊びながら、ナチュラルな空気がそのまま映像になっていたと語る。監督は物静かな人で、ああしろこうしろと指示された記憶はあまりない。作品はタモリが出演する番組『if もしも』の一編として放送され、大きな反響を受けて映画館でも上映された。インターネットのない時代で、放送翌日に学校へ行くとみんなが見ていて声をかけてくれたり、街で「あの子だ」と言われることが増えたりして、少しずつ反響を実感していった。
中学は芸能活動に特別な配慮がある学校ではなく、公立の学校だった。中学卒業までは学業を優先する方針で、学校の了解を得ながら活動した。部活はバスケ部に入ったが、仕事で通えなくなり、最終的に茶道部へ移った。ただ茶道部にもほとんど行けず、お菓子を食べに行くような感覚で、お茶を点てられるほどにはならなかったという。作品が話題になっても、すぐに仕事が殺到したわけではなくオーディションは続いた。もっとも、オファーは事務所が受けていたので自分には分からない、とも付け加えている。
高校時代の過密スケジュールと「記憶がない」時期
高校は芸能活動が認められる日出女子学園に進んだ。目黒の権之助坂にあった学校で、同学年には仲間由紀恵がいた。KinKi Kidsと共演したドラマ『若葉のころ』に出演したのはこの時期である。10代で妊娠し、主人公2人の両方に惹かれるという難しい役だったが、奥菜によれば、出演はほぼオファーで決まっており、それを受けるかどうか自分で判断する権限はなかった。事務所から「次はこれだよ」と渡されるもので、そこに自分の意思はなかったという。
台本を読んだときの感想を聞かれると、奥菜は「その頃の記憶がばっさりない」と答えた。当時は労働時間の規制も今ほどではなく、明け方まで撮影し、いったん家に帰って仮眠とシャワーを済ませて学校へ行き、早退して撮影現場へ向かい、また学校へ戻るか、戻れなければそのまま撮影を続ける日々だった。睡眠は2〜3時間で、ひどいときはまったく眠れないまま次の日につながった。宿題や台本の暗記もこなさなければならなかった。
一方で、評価されることや声をかけられることは本当に嬉しかったとも話す。当時は食べることが好きで太った時期があり、ダイエットしてはリバウンドを繰り返したため、事務所から「痩せなさい」と言われることがしょっちゅうあった。スカウト当初は「やれるならやってみよう」という軽い気持ちだったが、次第に負けず嫌いに火がつき、やるならとことんやるという気持ちになっていった。
その負けず嫌いは昔からだという。月1500円ほどの小遣いで本屋へ行って問題集を買い、自分で勉強するのが好きだった。図書館にも毎日のように通い、家には家族が読んだ本を書き込む表があって、父親と冊数を競うのも楽しかった。成績が特別よかったわけではないが、芸能の仕事をしているから普通の暮らしや勉強ができないと思われるのは嫌で、仕事を理由に勉強をおろそかにはしなかった。
体は丈夫で、倒れたことはない。聞き手に「倒れてくれればいいのにと思ったこともあるか」と問われると、そういう時期もあったと認めた。とにかく睡眠時間を確保したかったという。それでも現場に行くと楽しく、仕事は好きだった。ただ、家に帰ると緊張の糸が切れたように涙が止まらなくなる日々だった。親には心配をかけたくないので相談できず、唯一気持ちを打ち明けられたのは当時のマネージャーだった。
奥菜の目標は、売れたいということではなかった。女優の道を選んだ自分に負けたくない、作品を通して人に影響を与えられる存在になりたい、女優としてきちんと認知される存在になりたい——それが当時の思いだったと話す。
「アイドル女優」への違和感と、心が壊れていた部分
全国的に知られるようになったころ、奥菜はアイドル的な活動も並行していた。女優をやりながらアイドルもやる「アイドル女優」で、地に足がついていないような感覚があり、違和感を覚えていたという。『ヤングジャンプ』や『ヤングマガジン』で水着のグラビアを撮るため、月に何度も海外へ行く時代だった。ビキニを着たこともないのに水着姿を撮られることには、葛藤も戸惑いも、恥ずかしさも緊張もあったが、断れる雰囲気ではなかった。
ハワイやグアム、オーストラリアなどへ行っても、観光ではなく仕事なので、着いて準備して撮影して帰ってくるだけのルーティンになっていた。今振り返ると当時は心が壊れていたと思うか、という問いに、奥菜は「壊れていた部分もあると思う」と答えている。
舞台で知った「より深い場所」
アイドル女優からの脱却を意識するきっかけになったのが舞台だった。ドラマや映画は、その場でのスタートの合図に応える瞬発力が求められる。それに対して舞台は、1か月ほど同じシーンを繰り返し稽古してから本番を迎えるので、作品全体や役を深く掘り下げられる。表層だけで演じていたつもりはないが、さらに深い場所があることを知り、見え方が変わったと奥菜は話す。舞台をもっと経験したいと思うようになった。
高校卒業時には進学も含めて悩んだが、大学には行かず、芸能の世界一本に集中することを選んだ。特定のロールモデルはいなかったが、樹木希林のように生き方も含めてかっこいい人には強い憧れがあったという。ホラー映画『呪怨』に出演したのは22歳ごろである。
10代後半、壊れてから意思を伝えるようになった
殺人的なスケジュールのなかでも、奥菜は少しずつ自分なりにバランスを取る術を身につけていった。10代の終わりごろ、それまで事務所から与えられた仕事をそのままこなす形だったのを、自分の意思を聞いてもらう形に変えていったという。
本人の説明によれば、心の状態をコントロールできないほど不安定になった原因は、自分の意思を持ってはいけないような状況にあった。意見を言ってはいけないと言われたわけではないかもしれないが、「言われたらそれをするのが当たり前」という世界で育ったため、「私はこう思う」「これはしたくない」と言えないまま来てしまった。その結果、心をコントロールできないことが増え、一度壊れてから、自分の意思をきちんと伝えるようになった。仕事を選ぶところまではいかないが、意向を聞いてもらえるようになり、気持ちは楽になったという。聞き手が「10代後半でそれができるのはだいぶ大人だ」と言うと、奥菜は「そうじゃないと保っていられなかった。限界だったんでしょうね」と答えた。
好きな色も分からなくなり、事務所を離れてニューヨークへ
それでも20代に入り、奥菜は事務所を辞める。このままでは自分の人生を生きられなくなると思い、一度リセットしたかったのだという。意向を聞いてもらえるようになってはいたが、それまでの蓄積があった。自分を取り戻す以前に、自分が何を好きで何が嫌いか、何をしたくて何をしたくないのかが分からなくなっていた。
気づいたきっかけは、好きな色や好きな食べ物といった、ごく簡単な問いに答えられなかったことだった。そう気づくまでにも時間がかかったと本人は振り返る。誰かに指摘されたのではなく、自分の好きなものが分からなくなっている自分に恐怖を抱いた。自分を消すのが当たり前になっていたのだという。このまま仕事を続けたら、自分自身のないまま生きていくことになると思い、事務所を離れてニューヨークへ渡った。
ニューヨークでは語学学校に通ったが、遊びに行くほどの友達もおらず、毎日スーパーで納豆などを買ってきて、目玉焼きと一緒に食べる生活だった。日本食が恋しかったという。一方で出会いもあった。ブロードウェイの『STOMP』に唯一の日本人キャストとして出演していた宮本さんと親しくなり、タップダンスを教わりながら、ミュージカルやストレートプレイを見に行った。この期間で自分を取り戻せたわけでも、リセットできたわけでもないと思うが、初めてまとまった充電期間が持てたと奥菜は話す。
しばらくニューヨークで暮らすつもりで家まで借りたが、劇団「阿佐ヶ谷スパイダース」から舞台出演の連絡が来た。一瞬迷ったものの、ワクワクする気持ちが勝って帰国し、そのままニューヨークには戻らなかった。時間を置いたことで、違う気持ちで舞台に臨めたという。
なお、事務所を離れていた期間は契約上活動できず、休むしかなかった。事務所を辞めたことで仕事がしづらくなることがあったかと問われると、「どこまで話していいか分からない」と前置きしつつ、そういう時代もあったし、実際に人からそう言われることもあったと認めた。それでも一度飛び出したかったのだという。芝居が好きだという気持ちは、どれだけ時間がたっても変わらなかった。
清純派イメージへの反発と、暗い絵や詩
清純派と呼ばれることについて、奥菜は自分を清純派だと思ったことはないと言う。そういう部分もあるのかもしれないが、それだけが一人歩きし、そこだけを言われ続けるのはとても嫌だった。人には多面的な部分があり、清純だけでできているわけではない。自分の中の別の部分を出したかった時期で、その気持ちが反動のように一気に出てしまったと振り返る。当時の刊行物について聞き手が「タイトルも印象的だ」と触れると、奥菜は、当時は心の中に何かが渦巻いていたと認めた。
その渦巻くものは、絵や詩を書くことにぶつけて発散していた。真っ暗な部屋で膝を抱えて泣いている自分の絵や、血を連想させるような暗い絵が多かったという。
一方、記事などで「魔性の女」と書かれたことについては、心地よいとは感じず、「なんでこんなに極端なんだろう」と思ったそうだ。当時はさまざまに言われることに強い拒否反応を抱いていたが、今はいろいろ言われることが嬉しく、それは自分がいるということだと感じるという。当時は人間不信の面もあったが、人が好きで、人と話すのも楽しいという気持ちも同時にあった。誰に対しても不信を抱いていたわけではなく、中にはそういう人もいる、という程度だったと説明している。
母になって生活が180度変わった
30代で出産すると、生活は180度変わった。それまでは料理をしたこともなく、食事は外食か買ってくるものだったが、子ども優先の生活になり、外出も減った。離乳食も出汁から取って作った。市販のものを嫌がって食べてくれなかったこともあり、振り返れば10数年を子どもに捧げたと話す。
仕事もセーブした。聞き手が、広く知られた人がメディアに出なくなることへの恐怖はなかったかと尋ねると、奥菜は正直そういう恐怖はなく、忘れられたらそれもそれかなと思っていたと答えた。しがみつくより、子どもたちとの時間を優先したかったのだという。子どもは現在、高校2年生と中学3年生で、手は少しずつ離れつつあるが、まだまだ手がかかるという。
娘との毎日の喧嘩で気づいたこと
上の娘は小学校高学年で反抗期を迎え、毎日のように喧嘩した。何もかもが初めてで、どうしていいか分からなかった。帰宅すれば靴を揃えなさい、先に手洗いとうがいをしなさい、制服は投げ出さずに掛けなさいと、一挙手一投足を指摘していたという。
ある日、大喧嘩の末に奥菜のほうが限界になり、泣きながら家を飛び出した。行き先は近くの公園で、気持ちを落ち着かせていたとき、「これは違う」と気づいた。自分も「しなければいけない」「やらなければいけない」と強制されながら育ち、それがいつか爆発した過去がある。大人にされてきたのと同じことを、今娘にしている——そう思ってぞっとしたという。
それ以来、細かいことを言うのをやめると、喧嘩はほぼなくなり、関係は良好になった。今は娘がいろいろなことをオープンに話してくれ、頼ってもくれる。奥菜自身のストレスもなくなったという。親が子に「あれしなさい、これしなさい」と押しつけるのではなく、本人の意思を尊重し受け入れることが大切だと、子育てを通して学んだと話している。
シングルマザーの2年間と、乗れなかったバス
奥菜にはシングルマザーだった期間が2年ほどあり、それが一番大変な時期だったと振り返る。仕事があるときは託児所に預け、終われば迎えに行く。何をしていても、公園に行っても、目に入るのは楽しそうな家族の姿で、胸が痛んだ。
印象に残っている出来事がある。1人をおんぶし、もう1人をベビーカーに乗せてバスを待っていたが、来たバスは満員で、ベビーカーを畳んで乗る余裕もなかった。目の前でドアが閉まり、バスが走り去ったとき、涙がぼろぼろこぼれた。インタビュー中も、思い出して涙ぐんでいた。
次のバスには、あらかじめベビーカーを畳んで乗った。すると車内のベビーカー置き場のそばにいた女性が「ここいいですよ」と声をかけてくれた。自分の力の足りなさに胸を痛める一方で、街に出れば人の優しさもあふれていて、ありがたい気持ちにもなったという。子どもは当時1〜3歳ほどだった。
この時期は人に会うこともなかった。子育てで手一杯で、誰かと話す時間があるなら睡眠を取りたい、という状態だったという。
再婚と、「パパって呼んでいい?」
その後再婚し、心はだいぶ落ち着いた。奥菜は、自分は何でも完璧にやろうとしすぎたと振り返る。父親がいない分、母親と父親の両方の役割を完璧にこなそうとしてパンクした時期もあった。親の姿を子どもは見ているのだから、まず自分が自分の機嫌を取り、楽しまなければならないと気づいたという。
子どもを連れての再婚をためらう人についてどう思うかと聞かれると、奥菜は、子どもは出産した時点で人生の宝物であり一番の存在なので、最初は戸惑いもあり、すぐに再婚という考えにはならなかったと語った。最初は相談相手として友人関係から始まり、会う機会が増えるうちに、子どもたちのほうから「パパって呼んでいい?」と言い出した。そのことで自分の気持ちも少しずつほぐれていった。子どもたちが背中を押してくれたことが大きかったという。
駄菓子屋の記憶から始まった、フードバンクと居場所づくり
奥菜は現在、フードバンクと居場所づくりの2つを軸とするプロジェクトに取り組んでいる。企業から提供された品を人々に配る活動をしているという。昔から人を驚かせたり喜ばせたりすることが好きで、俳優の仕事も作品を通して誰かに元気や感動を届けたいという思いで続けてきた。このプロジェクトもそこにつながると考えている。すべてを助けることはできないが、自分にできる範囲で誰かが笑顔になってくれればという思いで活動している。10年ほど前から温めていた構想が、去年ようやく形になったのだという。
きっかけは幼少期の記憶だ。小学生のころ、携帯電話もない時代、学校から帰ると友達が自然と駄菓子屋に集まった。限られた小遣いで駄菓子を買い、もんじゃ焼きを焼いてもらい、いろいろな話をした。そこが自分の居場所だった。今は駄菓子屋をあまり見かけなくなり、子どもたちの居場所はどこにあるのだろうと考えたという。
10年前には、子どもたちを連れて別のボランティア団体のスタッフとして、障害者スポーツの選手とのイベントに参加していた。現在も不定期で関わっている。みんなが楽しそうに笑顔になる様子を見て、いつか自分もこういうことをやりたいと思ったのが10年前だった。
最近は大学との社会連携プロジェクトも始まり、活動は広がりつつある。将来の夢として奥菜が挙げるのは、こうした「家」を全国に作ることだ。夜眠れない母親や、子どもが泣き止まずに困った親が駆け込める場所でもいいし、お年寄りがお茶を飲みながら話す場所でも、子どもたちが学習する場所でもいい。駆け込み寺のような場所を作れないかと考えているという。
尋常性白斑の公表と、決めていない「引き際」
芸能の仕事とこの活動のどちらに重きを置くかと聞かれると、奥菜は特に決めておらず、流れるままだと答えた。芝居を何歳まで続けるかも考えていない。
背景には病気がある。奥菜はコロナ禍の時期に、尋常性白斑であることを公表した。肌の色素が抜けていく進行性の病気で、治療法はあるが完治はしない。薬を塗って治った箇所もあるが、また出てきたり、別の場所に広がったりするため、付き合っていくしかないという。そのため、いつまで表に出て芝居ができるか分からないと感じており、そういうときが来たらやめるのだろうと話す。症状を抱えていると、あまり表に出たくない気持ちにもなるという。
公表は予定していたものではなく、思いつきでInstagramに書いたところ記事になった。誰にも話していなかったため、マネージャーも驚いたという。反響では「公表してくれてありがとう」という声が多かった。この病気で差別やいじめを受けている人が多いことに奥菜は驚いた。芸能人が公表することで病気の認知が広がり、偏見の目で見る人が減るのではという感謝の声もあった。一方で、人目にさらされるのが怖くて静かに暮らしているのに、なぜ公表したのかという意見もあった。いろいろな意見があるので一概によかったとは思っていないが、隠しているのが嫌だったのだと奥菜は話す。隠し通すこともできたが、突発的に公表しようと思って書いたのだという。
自分を失った経験を振り返って
最後に聞き手は、自分を失った時期を経験してよかったと思うかと尋ねた。奥菜は「思います」と答えた。その経験があったからこそ今があり、その中で気づけたことは必ずしも悪いことではない。当時は苦しく辛かったが、自分には必要な経験だったと語った。
では今、自分が何を好きで、どんな人間かを完全に取り戻したのか。この問いに奥菜は「どうなんだろう」と言葉を濁し、はっきりとは答えなかった。
よろしくお願いします。ああ、すいません。ちょっと……を渡します。あ、すいません。じゃ、すいません。よろしくお願いします。すいません。ありがとうございます。こんななんかよくわかんないチャンネルに来てもらっちゃって。ありがとう。いや、いや。
グッズ、スポンサー券、BASEにて販売中です。応援よろしくお願いいたします。
ありがとうございます。すいません。まさか出てもらえるなんて思ってた。いやいやいや、あのね、本当にそんな面白い話もできないと思うんですけど。奥菜さんがYouTube再開されるってことで、チームの方からご紹介いただいたみたいな感じの流れだったんですけど。あ、はい。そうなんですよ。
皆さんがタクシー……みたいなYouTubeは見たことある。普通に。ありがとうございます。そう、そう、そう。それからちょっとお休みなさってて、またちょっと始められるんですか?そうなんですよ。もう何年も放置しちゃって、そのチャンネル自体をもう閉じちゃおうかなって思ってた時に、一緒にやってくれるメンバーからちょっと声をかけてもらって。
ああ、そういうことなんですね。あの、何でしたっけ?ボランティアとかの活動とも関係があるんですか?YouTube始めるのは。あの、なんか丸ノマプロテクター。あ、ありがとうございます。そうなんですよ。フードバンクとその居場所作りを、2つの軸をテーマにやってます。ああ。はい。
あと、お子さんって何歳と何歳なんですか?えっと、今高校2年生と中学3年生です。どうなんですか?それぐらいだともう子育て離れたなって感じですか?まだまだ、まだまだ手はかかりますよね。そうですか。余裕ができて、そういうことが始められるようになったって感じでもない。まあでも、少しずつ手は離れつつあるので。あと、もう何年かかかるとは思うんですけど。
大体このチャンネルが、今に至るまでどんな風に生きてきたかをひたすら質問しながら聞くっていうチャンネルなんですけど、出身は広島なんですよね。はい。広島です。広島の町の中ですか?それとも。広島市ですね。はい。
そこでご両親はどういうお仕事されてた方ですか?えっと、どういう仕事をしてたのか。サラリーマンなのか。あ、そうですね。サラリーマンで不動産関係。へえ。はい。父は本当に単身赴任で東京に途中から先に出てきちゃってたので、その後を追いかけるように私たちも広島から東京に出てきたっていう。
広島時代は特に芸能界とかに興味ある感じなんですか?えっとね、でも実を言うと、私0歳から広告モデルみたいなこともやらせてもらったりとかしてて。0歳か。それ地元ってことですか?あ、そうです。そうです。よく新聞に挟まってるチラシのモデルとか。
ほほほ、どういうこと。芸歴イコール年齢みたいなことなんですか?怖い怖い怖い。いやいや、そんなでもあの、はい。ああ、そうなんですか。じゃあお芝居とかもしてる感じなんですか?あ、全然。その当時は本当に広告の撮影だけだったので、お芝居はこちらに出てきてから。はあ。
上京するのとかは嫌じゃなかったんですか?地元の友達とかと離れるじゃないですか。あ、でもね、まだ小学校1年生だったんで、もちろん仲のいいお友達もいましたけど、離れることが嫌っていうよりかは、東京へ行くワクワク感みたいな方が強かったかもしれない。
子供の時はそういう好奇心強いタイプなんですか?そうですね。割とそうですね。好奇心も強いし、活発な運動はもう全般得意でした。
子供の頃、芸能に入る前までは将来何になると思ってたんですか?自分は。うん。あんまり目立ちたいタイプではないから、今もなんですけど、どちらかというと、ちっちゃい頃からそういう撮影の現場には行ってたからだと思うんですけど、ヘアメイクさんとか美容師さんになりたかった。
はあ。あ、そうか。ヘアメイクさんっていう仕事をもうその時はなんとなく知ってるから、そこに憧れがあったんですね。うん。そうです。はあ。兄弟はいらっしゃるんですか?妹が2人います。あ、3姉妹の長女なんですね。何個ずつ離れてるんですか?えっと、1個下、4つ下。ああ。はい。
スカウトってどんな形でされるんですか?その当時は、父親の知り合い伝てに声をかけられて、ちょっと1回会ってほしいっていうので場を設けられて、っていう感じだったんです。へえ。街で歩いてスカウトされたとかではなくって。はい。
それはお父さんが「うちの娘可愛いんだよね」って自慢してたとかじゃないですか。まあでも、よく家族写真とかは常に持ち歩いてるような父ではあるので、わかんないですけどね。どういうきっかけでそうなったとかはわかんないんですけど。ああ。で、奥菜さんからすれば、いきなりお父さんの知り合いに呼ばれて面接が始まったんじゃないですか?そうです。はい。
それで何聞かれるんですか?当時。この芸能活動を、女優としてやっていくかいかないかみたいな話をその時にしてた。小学校6年生ぐらいだったと思うんですけど。ええ。うん。それ聞いてどうだったんですか?嬉しかった?
いやあ、そんな風に将来女優としてとかっていうことを考えてたわけじゃなかったから、すごい悩みはしましたし、戸惑いもあったし、本当に自分にできるのかなみたいな不安もあったんですけど、でもせっかく声かけてもらってチャンスをもらってるってことだから、どこまでできるかわかんないけど、やってみようかなっていうことで始動したっていう。
所属って決まってから何し始めたか。別にいきなり次の日から仕事があるわけじゃないじゃないですか。そうですよね。だから色々オーディションを受けに行ったりとか、お芝居のレッスンとかボイストレーニングとか、そういうことも所属してから始まりましたね。
それは毎日する感じなんですか?毎日ではなかったんですけど、でも週2回お芝居のレッスン、週1回ボイストレーニングみたいな感じで。へえ。お芝居はやってみて楽しめた感じなんですか?最初の始動から。いやいやいや、もう本当に初めは何をしていいのかもね。デビュー作でセリフを頂いた時も、もう何十テイクもNGしましたし。どうそのセリフを発していいのかもそうだけど、どうそこに存在してたらいいのかもわかんなくって。
オーディションは結構すぐに受かるもんなんですか?いやいやいや、オーディションも、始まりはシャンプーのコマーシャルですね。シャンプーのコマーシャルでデビューして、それもオーディションだった。ドラマ1発目がえっと、パ・テ・オ。はい。
それはどれぐらいの尺のドラマで、どういう役ですか?えっとね、フジテレビのドラマなんですけどね、宝明さんの娘役っていう設定で、はい。新人でデビューをしました。そう。それでも何十テイクもするような。こつは現場で学んでいくっていう感じなんですか?そうですね。もう現場で学んでいくみたいな感じだったと思いますね。周りに教えてもらいながら。
だってその後の岩井俊二さんの『打ち上げ花火』。はい。あれとか僕見たことあるんですけど、でもあの時はもう結構演技で評価されて選ばれてるって感じなんじゃないですか?今見ると。どうですかね。もう本当恥ずかしくて見れないですけど。
その時もオーディションだったんですよね。オーディション。でもね、不思議というか面白いのが、岩井監督ももちろんオーディションの会場にはいて、1次、2次って確かあって、オーディションの中で監督とか周りのスタッフの人が私に色々質問をするじゃないですか。だけどもう顔が真っ赤っかになっちゃって、全然答えられないみたいな。恥ずかしすぎて。はい。まあ、それが面白いと思ってもらえたのか。ああ、採用。結局。はい。
その時にもう奥菜恵っていう芸名をもらってる?はい。そうですね。デビューのその『パ・テ・オ』の役名が奥菜恵っていう名前だったんですよ。役の名前が。そこからデビューをして、その名前でずっと活動して。
すごいキャッチーな名前ですよね。聞いたら忘れないっていうか。そうですか。はい。被らないし、できすぎないっていう。自分で奥菜恵がいいねって大人と相談しながら決まる感じですか?あ、もうその当時の事務所の方針というか、社長がもうこの名前でって言って。自分的にもまあいいかなっていう。まあそうですね。はい。
岩井さんの現場ってどんな感じでしたか?当時中学生とかですか?はい。で、役は小学生の役ですね。そうですね。はい。駆け落ちっていうと大げさだけど、好きな子とどっか行っちゃうみたいな、電車乗ってみたいな役どころ。自分のこと好きな男の子と行く役。はい。それこそ何テイクもやらされる感じなんですか?
いやいやいや、そんな感じじゃない。もう本当に仲間と遊びながら、空気がすごく良かったですよね。ナチュラルな雰囲気の中、そのまんまがその映像になってるみたいなところもあったと思いますし。で、監督もすごく物静かな方なので、色々ああしてこうしてっていう記憶はあんまりないです。
あれとかって最初ドラマで、それをちょっと編集変えて映画になったみたいな感じでしたっけ?あ、そうです。初めはその『if もしも』っていうタモリさんの番組の中で放送されて、すごい反響があって、映画館でも上映されたっていう流れだったと思う。
今とは違ってインターネットがない時代じゃないですか。オンエアの次の日とか、オンエア直後からの反響ってどういう感じでした?ああ、そうですよね。だから大体次に学校行くと、みんな見てたと思うし、みんな見たよって声かけてくれたりとか、街歩くと「あ、あの子」みたいな感じで声かけられたり言われることが増えてきたことで、徐々に実感していくっていうか。
学校とかでも騒がれるんですか?もうその時はすでに芸能オッケーな学校とかに行ってるんですか?いえいえ、その時はまだ中学で、本当に中学卒業するまでは学業優先でっていうことで、学校にも許可をもらいながらやっていたんですよね。全然普通の公立の学校だし、別に特別な芸能オッケーなっていうことではなく。はい。
その時はもう放課後はもうずっと芸能活動のスケジュールですか?いや、部活も入ってました。部活もバスケ部に入って、でもやっぱりだんだん仕事で行けなくなってきちゃって、最終的には茶道部。茶道部。同好会の茶道部に入って。茶道部はほぼ行けてなかったと思うけど、お菓子食べに行くみたいな感じだったですけど。お茶は点てられたんですか?当時。まだ点てられるほど行ってはないんですよ。多分。
あれが話題になったら、もうオーディションに行かずともオファーがガンガン来る感じなんですか?もう奥菜さんでやってほしいみたいな。いや、でも引き続きオーディションも行きながらっていう形だった。あ、そこはそんなに。作品はすごい大ブレイクというか、長きにわたって愛されてるっていう感じだけども、直後で別にいきなり仕事が殺到するとかっていうことではなかったんですか?
ちょっとわかんないですよね。私に直接オファーが来るわけじゃなくて、事務所がやってるから。その兼ね合いでね。ああ。それで茶道部も行けたし。うん。そうですね。
この後有名な作品で、KinKi Kidsさんと共演する『若葉のころ』とか。あ、はい。あれはもう高校生だ。はい。高校生ですね、あれは。高校の時もあれですか?芸能の学校ですか?まあ一応芸能活動OKの学校。当時は日出女子学園っていう、目黒のこの坂にある、今名前変わっちゃいましたけど。はい。
当時じゃあ、奥菜さんのように女の子で芸能活動してる子がいっぱい行ってたんですか?あ、そうですね。同学年に仲間由紀恵がいて。あ、ほう、ほう、ほう。すごい。仲間さんと奥菜さんが同じ教室にいるんですね。そうですね。はい。当時は。
『若葉のころ』とかはオーディションですか?それとももう直オファーですか?いや、オーディションだったと思います。はい。そうでした。
ちょっとなんていうか、壮絶な役じゃないですか。その、10代で身ごもっちゃうみたいなとか、主人公の2人両方とも好きになっちゃう、みたいな。この役やってみたいなって感じですか?それともちょっと不安でしたか?できるかどうかとか。
いや、もうそういうジャッジが自分にできないですよ。もうやるものとして、はい。やるものとして事務所から「次これだよ」っていう感じなので、自分がやりたくないとか、そういう権限もなかったので。そっか。そこにその自分の意思は存在しないんですね。うん。
はあ、そっか。じゃあ台本見た時とかどんな感想なんですか?うん。いやあ、なんかね、たぶんだと思うんですけど、その頃の記憶がばっさりないんです。私。抜けてるの、ほぼほぼ。それもあんまりもう寝れてもないですからかも。高校時代。
寝れてもないし。今はもうだいぶ守られてるじゃないですか、皆さん。労働時間とか、そういうものひっくるめてだけど、あの時代はもう全然朝方までみんなで撮影して、で、私はその足で1回家には帰るけど、仮眠取ってシャワー浴びてまた学校に行って、で、学校で早退して撮影現場に行って、で、撮影してまた撮影現場に行くみたいな。学校と撮影と学校みたいな。
学校の中に1回撮影タイムが入る。撮影入ってまた戻ることもありましたし、もう戻れなかったらそのまま撮影してみたいな日々だったので、もうわけがわかんないっていうか。ええ。はい。目まぐるしかったですね。
睡眠時間にしてどれぐらいなんですか?本当に2、3時間で、ひどい時は本当にもう眠れないでそのまま繋がっていくこともありましたし、宿題とか台本覚えたりとかもしなきゃいけないし、やることも多かったので。
ブレイクしていくのは本人からしたら嬉しいのか、ちょっと戸惑いがあるのか、どんな気持ちになるんですか?いや、それはでも本当に嬉しかったです。その当時太っちゃった時期があって、食べることが好きなので、ダイエットもするんだけどリバウンドしてみたいな、結構体重も増えた時期もあって。でもそうなると、事務所の人からもうちょっと痩せなさい、痩せなきゃいけないっていう喝を入れられるタイミングがしょっちゅうあって。
元々はスカウトされて、自分にどこまでできるかな、とりあえずでもチャンスだし、やれるならやってみようっていう軽い気持ちだったのが、だんだん自分の負けず嫌いに火がついて、やるんだったらとことんやるっていう気持ちに徐々になって。なので、そうやって評価してもらったりとか、声かけてもらったりとかってことは、すごく自分にとってはもう本当に嬉しかった。
その負けず嫌いな感じっていうのは昔からなんですか?いや、昔からなんじゃないかな。昔からだと思う。この性格は。はい。どういう感じで負けず嫌いだったんですか?
例えば勉強とかも、月々のお小遣いを例えば1500円とかもらうじゃないですか。月額。そのお小遣いの中で本屋さんに行って問題集買って自分で勉強して、みたいなのが結構好きだった。あと図書館に行くのも好きだったので、毎日のように図書館に行って何冊も借りてきて、結構なペースで読んで。家の中にその図書、家族の何を読んだかみたいなのを書き込む表があったんですよ。で、そこで父親とかとも競うのも楽しかったし、なんかそういうところは昔から。
え、それじゃ成績とかも周りの子に負けたくないみたいな感じ?もうありました。そんな別にすごい良かったわけじゃないけど。こういう仕事をしてるからって言って特別扱いされたりできないんだって、普通の一般的な暮らしとか学業も含めてできないって思われるのも嫌だったし。活動やってるから勉強いいやってならなかったですね。うん。ならなかったです。
てなると余計寝れなさそうです。体調とか崩さないんですか?結構強かったです?あ、強い、強いんですよ。なんか強いの。平気。平気。強いって。崩さないです。倒れたくても倒れないみたいな。えっ、それで倒れてくれればいいのになとかちょっと思ってたりもするんですか?うん。っていう時期もありましたよね。そんなこと言ったらあれだけど。
でもブレイク中の人って、自分ではどうしようもできないぐらいスケジュールが詰め込まれちゃうぐらいオファーが来ちゃうじゃないですか。うん。だから確かにそんな気持ちにもなりそうですよね。なったことがないからわかんないけど。うん。とにかくもう睡眠時間が足りてなかったので、睡眠時間は確保したかったですね。当時は。
ギブアップってなるタイミングなかったですか?やっぱり仕事のそういう現場に行っちゃうと楽しいんですよね。楽しいし好きなんだと思うんです。だから現場に行くともういいんだけど、帰ってきた時にプスンってその緊張の糸が切れちゃうのか、わーって涙が止まらなくなったりとか。なんだかそういう日々でしたね。
それ10代?10代。へえ。じゃあ人知れず号泣してたんですね。うん。うん。そういうことに関しての相談とかは誰にするんですか?その気持ちを落ち着かせるためなのか、吐き出すみたいなと思って。
あまり相談できる人はいなかったけど、親にも心配かけたくないし。まあみんなは察してたとは思うんですけど。当時のマネージャーさんには自分の思いを唯一さらけ出して話は聞いてもらったりとかはしてましたけど。
大変で泣いちゃうほどになりつつも、さっき言った負けたくないみたいな気持ちあったって言ったじゃないですか。うん。それは誰にも負けないぐらい売れて仕事がいっぱいもらえるっていうことなのか、演技的なもので評価されたいなのか。
えっと、スカウトされたその時に父親から、やるんだったらやりなさいって。でもやりたくないんだったらやらなくていいから、もう自分で決めなさいって言われたんです。で、私はその時に中途半端な進め方は絶対にしちゃいけないなと思って、やるんだったらとにかくとことんやろうっていう、まあ6年生だったんですけど、そういう気持ちでやりますっていうことでこの道に進んだので、売れたいからとかっていうことでもなくて、ただそういう女優としての道を選んだ自分に負けたくないとか、女優として作品を通して人に影響を与えられるような存在になるとか、女優としてちゃんと認知される存在になりたいというところだったと思います。
その意味で言うと、もう『若葉のころ』くらいで言ったら、もう全国的に認知されてる状態にはなる。なんか女優ではないというか、今もそんな女優とは思ってないですけど、アイドル的な活動もしてたから、女優やってるけどアイドルもやってて、アイドル女優みたいな。地に足つけて活動してるみたいな感じはなかったので、自分の中でもそのアイドル女優っていう活動に関してはちょっと疑問なのか、違和感みたいなものもあったんだ。
いや、まあでも本当にそう考えたら、ヤンジャンとかヤンマガで水着になってグラビア撮影で、もう月に何回も海外に行って撮影する時代だったので、それはなんだろう、抵抗はありますよね。そういう経験全くないし、ビキニとか着たこともないのに、うん。ビキニになって写真を撮られるって。うん。それはすごい葛藤もあるし、戸惑いもあるし、恥ずかしさもあるし、緊張もあるしみたいな。とはいえ別に断れる感じでもないし。うん。
その海外とか行っても、そんなにときめいてないですか?その海外に行ってること自体に。そうなんですよ。もうルーティーンみたいになっちゃって。え、ハワイとかグアムとかオーストラリアみたいなことですか?うん。そうですね。やっぱ仕事で行ってるし、別に観光に行くわけじゃないから、着いて撮影のために準備してロケして、もう帰ってくるみたいな感じだったので。
今思うと当時自分は心が壊れてたかなとかって思いますか?そうですね。心がまあ、壊れてた部分もあると思います。
アイドル女優から脱却するぞってどっかで動き出すんですか?10代のうちとか。まあそのきっかけになったのが舞台。うん。舞台の経験が私をまたさらに奮い立たせたというか。うん。
舞台と、映画とかドラマの映像系の仕事って何が違うんですか?演技する上で。うーん。まあやってることは同じだと思うんですけど、結局ドラマとか映画の現場ってその瞬発力とか、その場で用意スタートでお芝居をする、撮り方というか、そういう作り方が違いますもんね。
舞台の場合はもう本当1ヶ月ぐらいみっちり同じシーンを何回も繰り返し稽古して舞台に立つので、作品全体とかその役をより深く掘り下げられる。そういう経験を通して、見え方が変わってきちゃったっていうか。見え方。うん。今までは別に表層でやってるつもりはなかったけど、さらに深い場所があるんだっていうのを知ったっていうか。ああ。うん。
それで言うと、もっと舞台何個もやっていきたいなっていう気持ちになって。うん。その時はい。舞台に出会って、舞台面白いって、もっと舞台経験したいなって思いました、その時。ああ。はい。
高校卒業するタイミングは、そこから別に大学なのか専門学校とか視野には入れずに、そのまま芸能界にいて。うん。その選択も色々悩んだんですけど、芸能を選びましたね。大学には行かないで。それ当時なんでそうしたんですか?はい。やっぱりもうちょっとこの芸能界っていう世界に重きを置いて、1本で集中して仕事したいって当時思ったんです。
こういうロールモデルみたいに、この人みたいな活動の仕方いいなみたいな、目指してるような、こんな風に働けたら女優として理想だよなとか。この人みたいになりたいみたいなのはなかったんですけど、特にはなくって。もう樹木希林さんとか、その生き方もひっくるめてかっこいいみたいな、そういう憧れはすごくありましたね。
『呪怨』の主演って何歳で行くんですか?え、何歳だったんだ?22歳とかだったと思いますけど。ああ、だって『呪怨』なんて日本のホラー映画の中でも代表作に挙げられるような作品じゃないですか。まあ『リング』か『呪怨』かみたいなぐらいの。はい。
その時はもうちょっと、10代のそのとてつもない暮らしから少し落ち着いてたりするんですか?あ、とてつもない生活だったとしても、少しずつ自分のバランスを取る術を自分なりに身につけて活動はしてたと思います。
あ、そのバランス取る術ってどんなことなんですか?ちなみに。その殺人的なスケジュールをこなすというか。確か10代の終わりぐらいに、今までは頂いた仕事、事務所からもらった仕事をそのまま受けるっていう形だったのを、自分の意思を聞いてもらうようになっていったっていうか。
へえ。それは何があったんですか?その時。まあ結局、自分自身もコントロールできないくらい心の状態が不安定になっちゃったのって、自分の意思がどこにもあっちゃいけないみたいな。意見を言ってもいけないってことはなかったと思うんですけど、でも私はその時点で、芸能界はもうこういうもの、そういう風に言われたらそれをするっていうのが当たり前の世界で育ってきちゃったから、それに対して、いや、でもこれ、私はこう思うとか、私はこれはしたくないっていうことを言えないで育ってきた。うん。
でもそれが原因でちょっと心の状態をコントロールできなくなっちゃう時が増えてったので、そこからですね。自分が1回壊れてから、自分の意見を、意思をちゃんと伝えるようにしていったっていう。
ああ、伝えたらちゃんと聞き入れてくれるようなことでもあったと思うんですね。うん。そうですね。そこは色々協議しながら。はい。10代後半でそういうことを、その交渉も含めてやらなきゃいけないって、だいぶ大人ですよ。そうですかね。大人なのか、もうじゃないと保ってられなかったから。もう限界だったんでしょうね。
でもそれができるようになってから、ちょっと気持ちは楽になりましたか?うん。楽になりました。その頃から、じゃあやる仕事やらない仕事って選ぶようになってくるんですか?えっとね、選ぶまではいかないけど、意見を、意向をちょっと聞いてもらうみたいな。ああ。
20代でいうと、一時期休んでる時期もありますもんね。20代前半とか。あ、そうですね。結局その事務所をやめた時ですね。ああ。はい。それなんでやめることになったんですか?うん。もうこのままだと自分が自分の人生を生きられなくなると思って、1回リセットしたくてやめたんですね。
ああ、そうか。その話し合いして、さっき言った意向を聞いてもらうようになった。なった。うん。なったはなったけど、でもやっぱり今までのその蓄積というか、そういうのもあって、1回自分を取り戻すっていうか、自分を取り戻す以前の問題ですね。自分って何みたいな。自分で何が好きで何が嫌いで、私はどうしたくて何をしたくないっていうのが、もう分からなかった。へえ。
そう。自分がないんですよね、その時。うん。そう。消して生きてきちゃってたので。へえ。自分を消すっていうのは、消し慣れていくっていう感じなんですか?だって最初入った時は自分も一応あるわけじゃないですか。小学生ですけど。うん。はい。そこから消し慣れてったなって感じ。消し慣れてたって変ですね、もちろん。でも消すのが当たり前に。消す、そうですね。もうそういうものだと思って、やってきた。だから、消し慣れてるって面白いけど。
自分がどんなことが好きで、どういう人間かわからなくなるって、どういう時に思ったんですか?いや、もう大した。例えば超簡単な、好きな色何色とか、そういうことでも。好きな食べ物何って。あれ、私何色が好きで、とか。そういうレベルですよ。へえ。うん。気づくのに時間かかったんでしょうね。
その時点で誰かが教えてくれたとかじゃなくって、自分の好きなものもわかんなくなってる自分に恐怖を抱いたっていうか。へえ。だからもうこれは、このままこの状態で仕事をしていくと、私は自分の人生というか、自分自身のないまま生きていくことになるなと思って、1回離れようと思って。芸能界というか、その事務所を抜けて、それでニューヨークに行くっていうことだったか。あれ?どうだった?もう時系列がバラバラですけど。
そうか。じゃ、ニューヨークで言うと、ちょっと自分探しみたいな側面があるんですか?あ、そうでしたね。はい。それどんな生活してたんですか?当時。遊びまくる?いや、遊びまくってはない。学校に通って、そんな遊びに行けるほど友達もいないので、毎日スーパーに行って、漬物とか納豆とか買ってきて目玉焼きで食べてるみたいな。ニューヨークで。ニューヨークで漬物です。はい。もう日本食恋しくって。
はあ。え、その生活で、自分ってどういう人間なのかって認識し直せたんですか?わかんないですよね。そう考えたらわかんないけど、でもその時に出会った人たちもやっぱり何人かいて。1人は、ニューヨークのブロードウェイで、あの『ストンプ』。うん。あ、なんかあの、はい。モップとか。で、唯一日本人キャストとしてその当時出ていた宮本やちゃんっていう彼女とすごく仲良くなって、彼女のタップ教室に通いながらタップダンス教えてもらいながらとか、ミュージカル見に行ったりとか、ストレートプレイも見に行きましたし。
その期間の中で、自分自身を取り戻せたわけでも全然ないし、リセットできたわけではないと思うけど、でも一旦やっと初めてそこで、まとまった充電期間というかができたんですよね。きっと。うん。
でもニューヨークにそのまま住もうと思って、家も借りたんですよ。借りて、もうよし、ちゃんともうここでしばらく生活しようと思ってた時に、舞台のオファーの連絡が来て。阿佐ヶ谷スパイダースって劇団の人から連絡が来て、ちょっと出てほしいっていうので。すごい一瞬どうしようかなと思ったけど、でもやっぱりすごいワクワクするなと思って、日本に戻って、そのままニューヨークには戻らずみたいな。
はい。その時はちょっとやる気に満ちちゃってるんですか?その舞台。そうですね。またちょっと時間が空けられたから、また違う気持ちで舞台には入りましたけど。
ああ。え、その清純派とかって言われるのとかは、自分でどう思ってたんですか?うん。別になんだろう。清純派とも思ったことないし、当時はそれだけが一人歩きしちゃって。そういう部分もあるのかもしれないし、ないのかもしれないけど、それだけを言われるのはすごく嫌だったなとは思います。
それを言われ続けると、そうでいなきゃいけないみたいな気持ちになって。そう、そう、そう、そう。写真集出されるじゃないですか。23歳か。あれの表紙とかって、だからそういうイメージを壊したいっていう気持ちが。そう、そう、そうなんですよ。だからちょっと自分の中の気持ちがわーって出ちゃった時期ですよね。
結構タイトルも『赤い扉』なんてなかなかっていうか。うん。ね、なんかね、そう、そう。なんかあったんでしょうね。渦巻いてるものが。渦巻き。やっぱ今思うと渦巻いてましたか?渦巻いてましたね。そうです。その渦巻きみたいなのはどう発散してたんですか?
絵を描いたりするのが好きだったので、もうその当時は本当に絵に全部ぶつけて、あと詩を書いたりして詩にぶつけて、書くことにぶつけて発散してた。どんなの描いてたか1例あげますか?えっとね、本当にもう真っ暗な部屋の中で自分が膝抱えて泣いてるみたいな絵とか、血とか、そういうの連想するようなものとかが多かったですよ。怖くて暗い。はあ。
それで舞台したり写真集出したりとかして、10代の頃とかで作ったイメージを払拭したいなって思ってる感じです?払拭したいっていう思いもあったし、やっぱり人って多面体っていうか、いろんな面があるじゃないですか。清純って言われて清純だけでできてるわけでもないし、自分の中の部分をやっぱり出していきたかった時期。
ああ。なんかすごい反動になって出ちゃったみたいな。うん。そうです。そうなりますよね。そればっかりだと、逆に行きたくなるってありそうっていうか、むしろ自然なことっていうか。うん。
だから本とかのあの帯文では魔性の女とも言われたみたいな。そっちの方は逆に心地よかったりするんですか?じゃあ。うん。心地よくもない。なんでこんな極端なんだろうって。あ、極端なんだろうと思いました。うん。清純とは逆じゃないですか。うん。だからそれは意外と気に入ってたりするのかなと思ったんですけど。そんなことないんですね。
当時はそうね。今はなんか嬉しいですけどね。そういう風に色々言われることは嬉しいなと思うし、自分がいるってことだなって思うから。当時はすごい拒否反応をやっぱり抱いてました。
ああ。ちょっとした人間不信でもあるんですか?当時って。うん。なんかそれが不思議なのが、人間不信なんだけど、すごい人が好きっていう。へえ。すごい人が好きで、人といると楽しいし、いろんな話したいしとかっていう気持ちもあるんだけど、人間不信というか、そういうところもあったりとかして、それが同居してるっていうか。なんて言ったらいいんだろう、みたいな。
じゃ、ワイワイといるけども、心の中では信用できてないなって思ってるって感じ?あ、あのなんだろう。全員に対してそういう風に思ってるわけじゃなくて、まあ中にはそういう人もいるよねっていうぐらいだと思います。うん。はあ。
その頃には、さっき言ってた女優のモチベーションは変化あるんですか?最初の頃の、自分でやるからには負けないでやり遂げるぞっていう気分から。うん。まあでも1回活動休止っていうか、本当実際は活動できなかったので。契約上。もう休んでるしかなかったんですけど。まあでもやっぱり引き続き何か作品に携わってお芝居をするっていうことは、どんなに月日を経ても好きっていう気持ちは変わらなかった。うん。色々モチベーションの変化はあったと思いますけど。
それで言うと、その1個目のブレイクした事務所をやめることの弊害みたいなのを感じてくるわけですか?大変な思いとか、仕事しづらくなったりもやっぱりあるんですか?うん。そうね。どこまで話していいかわかんないですけどね。まあそういう時代もあったと思うし、実際に人からもそういう風に言われたりすることもあったけど、それでもいいから1回もう飛び出したかったっていうところで、そういう道を私は選んだ。
そっから30代と、出産していく、出産していくって言うとあれですけど、出産していくみたいなことがあるんですね。お子さん生まれて何か変わりましたか?変わりましたね。何が変わった?外に行かなくなった。外に行かなくなりましたね。もう子供優先の生活になったから。もう生活が180°。
すごい、めっちゃ外出てたんですか?20代まで。ご飯とか。あのご飯とか、別に家で作るようなタイプでもないし、作れなかったし、料理なんかしたことないし、ご飯といえばもう外に食べに行く、買ってくるみたいな感じだったから。だけど子供生まれて、離乳食作りもちゃんとやるようになって、そこから修行っていうか、色々覚えていって。
離乳食とかご自身で作られたんですか?はい。そういうの結構、はまったら突き詰めるタイプなんですか?割と調べて。うん。そうですね。すごいやってましたね。出汁から取ってやってましたね。へえ。そうじゃないと食べてくれなかったっていうのもあるけど、市販のものをあげても嫌がって食べてくれなくて。なので本当に子供に捧げた、振り返っても10何年っていうか。へえ。うん。
そっか。仕事とかもなかなか受けたくても受けられなくなっちゃう。うん。そうですね。でもそれでもいいかなっていうか、やっぱりそれ以上に子供たちとの時間を大事にしたかったっていうのもあって。
それこそ奥菜さんぐらい、知名度で言ったら国民の90%以上知ってますみたいな。そうですかね。そんなこともない。多分。だって僕らの世代で知らない人なんていないと思いますし。っていう人が、表に全く出なくなることとかって、恐怖心みたいなものはなかったんですか?
そういう恐怖は正直ないっていうか、まあそうしたらそうしたかなみたいな。忘れられたらもうそれもそれかなみたいな。そこまでしてしがみついてよう、みたいな気持ちよりは、今母になって、子供たちとの時間を優先したいっていう思いで、ちょっと仕事もセーブしたりとかして。ああ。
反抗期って女子だと小学校で入るんですか?はい。うん。ありましたね。うち高学年でしたけど。どんな感じですか?小学校高学年の女子の反抗期。いや、もう毎日喧嘩してましたね。あの時は毎日のように。私もだから、上の子に関してはもう全部が初めてだから、もうどうしていいかもわかんないから、毎日大喧嘩みたいな。
でもその子育ての中で、親が子供にあれしなさい、これしなさいっていうことはやっぱやっちゃいけないんだなっていうことを、私も子育てを通して学んだなと思いますね。結局私もそういう風に育ってきた過去があるわけで、強制的にこれをしなきゃいけないとか、あれもやらなきゃいけないみたいな、しなきゃいけない、やらなきゃいけないみたいな中で育ってきて。でもいつかそれが爆発する時が来るわけじゃないですか。
やっぱりそこは、あれしろ、これしろじゃなくて、本人の意思をちゃんと尊重してあげるとか、受け入れてあげるっていうことをしないと、いつかそういう時が来るんだなって。で、実際私は、娘が小学生時代の時にそうしてきちゃってたから、自分が大人にされてきたことと同じようなことを今娘にしちゃってるなっていうのに気づいて。はあ。
まあそこから何も言わなくなったんですけど、言わなくなったら、もう喧嘩することもなくなったし、すごい関係が良好に。うん。
気づけて、もちろん喧嘩する時もありますけど、今はもう基本的にオープンにいろんなことを話してくれるし、頼ってくれるし、楽しい。だから毎日、私のストレスもないですし。
それ、よく気づけましたね。自分が大人にされてたようにしちゃってるなって思った瞬間があって、ゾッとしたんですよね。それ、どんな時ですか?
いや、だからもう本当、なんだろう。いちいち、じゃあ「ただいま」って帰ってきて、「靴をまず揃えなさい」から始まって、帰ってきたら「手洗いうがいをちゃんと先にしろ」とか、「制服や洋服をその辺に投げ出さないで、ちゃんとかけて」とか、もう本当うるさかったと思う。全部、一挙手一投足、全部指摘してたね。
でも、なんか大喧嘩して、やっぱ大喧嘩して、もう私も限界ってなって、家を飛び出しちゃったことがあったんです。
あ、大喧嘩。へえ。
もう無理ってなって、泣きながら。で、別にどこに行くわけでもないんですよ。公園に行って、ちょっと気持ちを落ち着かせるみたいな感じなんだけど。だけど、その時に「あれ、これ違うな」と。それで昔のことをちょっと思い出して。まあ、そんなことも日々いろいろあるんで。そうです。
すごいですね。大喧嘩するんですね、奥菜さんもね。
しますよ、しますよ。本当に。
シングルマザーだった期間ってどれぐらいあったんですか?
2年。2年ぐらい。
2年。やっぱりとてつもなく大変ですか?普通に2人いても大変だと思うんですよ。
大変でした。その時が多分一番大変だったんだなと思う。
それってどんな生活になるんですか?もう仕事も?
仕事もしてるけど、だから仕事がある時は託児所とかに預けに行って、終わって引き取りに行って、みたいなことですよね。だから何をしてても、ちょっとしんどかった時期ではありますね。
へえ。何してても。
何してても。公園に行っても結局、なんだろう、目に映る景色って、楽しそうな家族の姿。何をしてても胸が痛い、みたいな。
で、1回、バスを待ってたんですよ。ベビーカーに乗せて、で、もう1人はおんぶしてたのかな。1人はおんぶして、1人はベビーカーに乗せてバスを待ってたんだけど、その来たバスが結構パンパンで乗れなかったので。ベビーカーだし入る隙間もなくて、畳んで乗っちゃおうかなと思ったけど、ちょっとその余裕もなくて。で、バスが閉まってピーって行っちゃった時に、もうボロボロボロボロ泣けてきちゃって。思い出しただけでまた涙しちゃうけど。やめて。
それって、もううまくいかないなっていうことで、って感じ?
いや、なんか「あ、バスも乗れないのか」みたいな。
でもね、その次に来たバスは、もう乗ろうと思ってたから、あらかじめベビーカーを畳んで、乗る準備をして乗ったんですよ。そしたら、ベビーカーを置くエリアってバスの中にあるじゃないですか。女性の方が声をかけてきてくれて、「ここいいですよ」って言って。それにもまた胸が、忙しい。すごく温かい気持ちになって。
自分の力の足りなさにも胸を痛めるけど、そういう人の優しさも、やっぱり街に出れば溢れてるし。そこにもなんか、ありがたい気持ちになったりとかして、忙しい。
それ、お子さん何歳なんですか?
1歳とか3歳とか、そのくらいの。
その時に2年間シングルマザーって、ちょっと大変すぎますね。
そうですね。あの時が一番大変だったかな。
シングルマザーの先輩とか、近くにいましたか?
いや、というか、分からなかったですね。人に会うこともしなかったし。
会いたいって気持ちにもなれなかったって感じですか?
なれない。そんな余裕もないし、人に会いたくもなかったし。会える状態じゃなかったですよね。
それ、なんで会いたくないって気持ちだったんですか?
もう余裕がない。子育てで手一杯だし、誰かと話してる時間があるんだったら、もう睡眠を取りたいとか。そういう状態だった、その時は。
すごいです。そこから再婚されて、シングルじゃなくなって、だいぶ心は落ち着きましたか?
そうですね。私の場合は多分、何でも完璧にやろうとしすぎちゃったっていうか。父親がいない分、自分が母親と父親をやらなきゃいけないわけじゃないですか、役割的に。もう全部を完璧にやろうとしたから、ちょっとパンクしちゃったのかな。
パンクしちゃった時期もあったんで、本当に自分の機嫌を自分でやっぱり取るっていうのが。自分がいい状態でいないとね、子供たちもその親を見てるわけだから、自分がまず楽しまないといけないんだなと。
お子さんがいる状態で再婚することって、躊躇する人とかもいそうじゃないですか。しない方がいいのかなって勝手に思っちゃうような人とかもいそうな気がするんですけど、これはどう思いますか?
そうですね。やっぱり自分の分身、子供って。だからもう出産した時点で、その子供たちが自分の人生の宝物だし、それが私の中では一番の、なんていうかな、優先順位をつけるわけじゃないけど、やっぱり一番の存在なので。初めは戸惑いもあるし、子供を連れて再婚するとかっていう飛躍した考えには、やっぱりすぐにはならないっていうか。
初めは相談相手として、友達関係から始まって、少しずつ会う機会が増えていったら、子供たちから「パパって呼んでいい?」みたいな話になって、私の中の気持ちも徐々にほぐれていった経緯もあるので。
そうか。子供たちから背中を押してくれるっていうことがあったんですね。
はい、そうですね。なので、それがあったっていうのはすごく大きかったと思います。
それで、その丸ノアプロジェクトみたいなものは、何でやりたいと思って始めたんですか?
はい。なんか結局、私は昔から人を驚かせたり喜ばせたりみたいなことが好きなんだなってすごく思ってて。例えば、こういう俳優って仕事について、作品を通して誰かの人生にちょっと元気を与えられたりとか、ちょっと感動して、その心に影響を与えられるような存在になりたいと思ってやってきてますけど、その丸ノのプロジェクトも結局はそこに繋がるのかなと思っていて。
全部を助けることってできないけど、自分のできる範囲内のことしかできてないですけど、でもそのしたことによって誰かが笑顔になってくれたり、喜んでくれる活動だと思ってやっていて。それは、もう10年ぐらい前からずっとやりたいなと思っていたことが、やっと10年越しに形にできた感じなので、去年。
きっかけとしても本当に幼少期というか、やっぱり人のぬくもりとか。私が小さい頃って、小学生時代の話ですけど、駄菓子屋が至るところにあって。携帯とかもないから、学校から帰ったらみんなそこの駄菓子屋さんに自然と集まるんですよ、友達も。そこが私の居場所だったし、そこで友達といろんな話をしたり、限られたお小遣いの中で駄菓子を買ったり、もんじゃ焼きを焼いてもらったりとか、そういう場所があったから。
今、駄菓子屋さんって、あるはあるんでしょうけど、あんまり見なくなって、子供たちの居場所ってどこにあるのかなと思って。そういう場所も作りたいし、フードバンクっていう形で、企業の方から提供してもらったものを皆さんにお配りするっていうことを今はしてるんですけど、そういう駄菓子屋がきっかけにはなってる。はい。
10年前から思ってるって言うと、下の子が3歳とか。その幼児2人が揃ってる時に、なんとなくそういうことが必要だなと思ったんですか?
その時に、別のボランティア団体のボランティアスタッフとして、子供たちも一緒に連れてよく参加してたんです。お手伝いで。
へえ。
その時は、障害者スポーツの選手とのイベントのボランティアスタッフとして。今もその活動には不定期で入ってるんですけど、そういう活動を通して、やっぱりいいなって。みんながこんなに楽しそうに笑顔になってて、私もこういうことをいつかやりたいなとかっていうのが10年前。
ああ、そうか。それに参加してみて、いいなと思ったんですね。
はい、そういう活動を通して。そうですね。
へえ。今で言うと、その活動もちょっと大きく広げていきたいなっていう感じですか?どんな展望とかあるんですか?
今後は、こないだ、やっと1年ぐらい経つんですけど、大学との社会連携のプロジェクトで、丸ノと大学で連携した活動があったりとか、どんどん広がってて。これを本当に将来的な夢ですけど、丸ノの家みたいなものを全国に作れないかな、作れたらいいなっていう大きな夢を抱いてます。
ああ、そうだ。本当に場所が全国各地にあるっていう状態。
いつでも、例えば夜に眠れないみたいなお母さんが駆け込んでもいいし、駆け込める場所であってもいいと思うし。子供が何しても泣きやまないとかあるじゃないですか。そういう時にちょっと外に散歩に出ると落ち着いたりとか、そういう駆け込み寺的な。お年寄りがお茶してお話する場所であってもいいし、子供たちが学習する場所であってもいいし、みたいな。そういう場所ができないかなと思ってます。
そういう活動と、お仕事の芸能活動ってあるじゃないですか。芸能的にどうなりたいみたいなものと、さっきの丸ノを大きくしたい、というか自分の思い描いてる形にしたいのと、どっちの方が気持ちが強いとかってありますか?
ない。なんか流れるままに、あまり決めてないかもしれないです。
お芝居の方も、別に何歳までやるかなとかって考えたりしないんですか?
それもないんですよ。ただ、コロナの時に尋常性白斑って病気を公表してて。白斑になったことで、結局進行性の病気なので、肌の色素が抜けていっちゃうからね。だからいつまで表に出てお芝居できるかもわからないなっていうのは、その時に思って。だから何歳でやめるかも考えてないし、そういう時が来たらやめるんだろうし。
尋常性白斑、それは進行を食い止めることしかできないんですか?治すことはできないんですか?
食い止められないんですよ、進行しちゃうから。治療法はあるけど、結局完治しない。お薬を塗って治ってる箇所もあるけど、また出てきちゃうとか、他のところに広がってきちゃったりするので。
そこに関しては、その病気と付き合っていくしかないんですね。
そうですね。
そっか。でも、さっき言ったそれが、お芝居の仕事に出るぐらい広がる可能性も、あるはあるってことなんですね。それで言うと、さっき言ったリミットは、自分で決めるっていうより、病気の進行具合によって強制的に決められちゃうみたいな。
思いますね。私、やっぱりそういうのを抱えてると、あまり表に出たくないっていう気持ちにもなってきちゃうんで。
公表するのとか、最初抵抗なかったですか?
あのね、公表する予定じゃなかったんですよ。だけど、なんか思いつきで公表しちゃったんだよね、確か。思いつきで。
それ、どんな方法で公表したんですか?
インスタに書いたんですよ。インスタに書いたら、結構記事になっちゃって、みたいな。
あ、そうそう。実際してみて、どんな反響がありましたか?
いや、だから「公表してくれてありがとう」っていう声がすごく多かったんです。というのも、この病気になったことで差別を受けてるとか、いじめを受けているとかっていう人がすごく多かったことに私はびっくりして。でも公表してくれたことでこの病気の認知が広がると思うし、芸能界で芸能人がそういう病気になってるっていうことで、変な目で見る人も少なくなるんじゃないかと思うから、っていう感謝の声もあったんです。
けど、一部「なんてことを公表してくれたんだ」っていうご意見ももちろんありました。自分は本当に白斑で悩んでて、人の目にさらされるのが怖くて静かに暮らしてるのに、この病気を公表されたことで、みたいな。だから「なんてことをしてくれたんだ」みたいな人ももちろんいて。
そういう気持ちになる人もいるってことね。
なので、いろんな意見もあるので、一概に良かったとは思ってないんですけど、でもそこを隠してるのが嫌だったんだなって、私の中で。もちろん隠し続けることも、隠し通すこともできたんだけど、公表しようって、突発的に思って書いちゃったみたいな。
だから結構、マネージャーさんからも「なんで公表したんですか」みたいな。びっくりして。誰にも言ってなかったから。
びっくりしちゃったんですね。
身内がびっくり、みたいになりましたけど。
それと、さっき言った自我を失ったみたいな期間があったけど、それは経験して良かったと思いますか?
思います。
どういうところがあります?
みんなそうだと思うんですけど、そういう経験があったからこそ今ここに立てているわけで、ああいう経験の中で気づけたことが、必ずしも悪いことじゃないっていうか。その当時は苦しいし辛いし、だけど、やっぱりそういう経験が私には必要だったとは思う。
今、完全に取り戻しましたか?どんなものが好きでとか、私ってどんな人間だっけ、みたいな。
どうなんだろう、そこは。どうなんでしょうね。
でも、好きなものがない人のファッションじゃなさそう。好きなものが詰まってそうな、先から爪先まで。
そうですね。
すいません、ありがとうございます。
はい、ありがとうございました。
はい、できたらお送りしますので。
はい、お願いしますね。
じゃ、YouTubeも始動ってことで頑張ってください。
はい、頑張ります。
では、ありがとうございました。
ありがとうございます。ありがとうございます。
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綺麗に見える光の粒は君と君と
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