奥菜恵が語る、「自分」を消して働いた10代と、それを取り戻すまでの道のり

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概要

俳優の奥菜恵が、YouTubeチャンネル「街録ch」のインタビューに応じた。聞き手は、彼女が生まれてから現在までどう生きてきたかを順に尋ねていく。10代で広く知られる俳優になった一方、本人は当時を「自分が何を好きなのかも分からなくなった時期」として振り返る。清純派というイメージへの抵抗、事務所を離れてのニューヨーク行き、シングルマザー時代の苦しさ、子育てで気づいたこと、そして現在取り組むフードバンクと居場所づくりの活動まで、話は多岐にわたった。

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広島での幼少期と、0歳からのモデル経験

奥菜は広島市の出身である。父親は不動産関係の会社員で、単身赴任で先に東京へ移り、家族は後を追うように上京した。奥菜が小学1年生のときだ。仲の良い友達はいたが、離れるのが嫌だという気持ちよりも、東京へ行くワクワク感のほうが強かったという。好奇心が強く活発で、運動は全般に得意な子どもだったと本人は話す。

芸能との関わりは意外に早い。0歳のころから、新聞に挟まるチラシなどの広告モデルをしていた。ただし当時は撮影だけで、芝居を始めたのは上京してからである。撮影現場に小さいころから出入りしていたためか、将来の夢はヘアメイクや美容師だった。「目立ちたいタイプではない、今もそうだ」と本人は言う。家族構成は3姉妹の長女で、妹は1歳下と4歳下である。

父の知人を通じたスカウトと、「自分で決めなさい」という言葉

スカウトは街中で声をかけられたのではなく、父親の知人から「一度会ってほしい」と場を設けられたのがきっかけだった。父親は家族写真を常に持ち歩くような人だったが、どういう経緯でそうなったのかは本人も分からないという。面談では、女優としてやっていくかどうかという話になった。小学6年生のころである。

女優になることなど考えていなかったので、悩み、戸惑い、本当に自分にできるのかという不安もあった。それでも、せっかく声をかけてもらったチャンスなので、どこまでできるか分からないがやってみようと決めた。このとき父親からは「やるんだったらやりなさい。でもやりたくないならやらなくていいから、自分で決めなさい」と言われた。奥菜はこの言葉を受けて、中途半端な進め方は絶対にしてはいけない、やるならとことんやろうと決めたと振り返る。

所属後はオーディションを受けながら、週2回の芝居のレッスンと週1回のボイストレーニングに通った。最初は何をしていいか分からず、デビュー作で台詞をもらったときは何十テイクも重ねた。台詞の言い方だけでなく、その場にどう存在していればいいのかも分からなかったという。デビューはシャンプーのCMで、これもオーディションで決まった。

役名がそのまま芸名に——『パ★テ★オ』と『打ち上げ花火』

初めてのドラマはフジテレビの『パ★テ★オ』で、出演者の娘役として新人デビューした。このときの役名が「奥菜恵」で、以後その名前で活動することになる。名前を決めたのは当時の事務所の社長で、本人も「まあいいかな」と受け入れた。現場では周囲に教わりながら、実践で学んでいった。

続いて出演したのが、岩井俊二監督の『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』である。これもオーディションで、一次・二次と進むなかで監督やスタッフから質問を受けたが、恥ずかしさで顔が真っ赤になり、ほとんど答えられなかった。奥菜は「それが面白いと思ってもらえたのか」と推測するが、結果として採用された。

撮影現場については、何テイクも重ねるような雰囲気ではなく、共演者の仲間と遊びながら、ナチュラルな空気がそのまま映像になっていたと語る。監督は物静かな人で、ああしろこうしろと指示された記憶はあまりない。作品はタモリが出演する番組『if もしも』の一編として放送され、大きな反響を受けて映画館でも上映された。インターネットのない時代で、放送翌日に学校へ行くとみんなが見ていて声をかけてくれたり、街で「あの子だ」と言われることが増えたりして、少しずつ反響を実感していった。

中学は芸能活動に特別な配慮がある学校ではなく、公立の学校だった。中学卒業までは学業を優先する方針で、学校の了解を得ながら活動した。部活はバスケ部に入ったが、仕事で通えなくなり、最終的に茶道部へ移った。ただ茶道部にもほとんど行けず、お菓子を食べに行くような感覚で、お茶を点てられるほどにはならなかったという。作品が話題になっても、すぐに仕事が殺到したわけではなくオーディションは続いた。もっとも、オファーは事務所が受けていたので自分には分からない、とも付け加えている。

高校時代の過密スケジュールと「記憶がない」時期

高校は芸能活動が認められる日出女子学園に進んだ。目黒の権之助坂にあった学校で、同学年には仲間由紀恵がいた。KinKi Kidsと共演したドラマ『若葉のころ』に出演したのはこの時期である。10代で妊娠し、主人公2人の両方に惹かれるという難しい役だったが、奥菜によれば、出演はほぼオファーで決まっており、それを受けるかどうか自分で判断する権限はなかった。事務所から「次はこれだよ」と渡されるもので、そこに自分の意思はなかったという。

台本を読んだときの感想を聞かれると、奥菜は「その頃の記憶がばっさりない」と答えた。当時は労働時間の規制も今ほどではなく、明け方まで撮影し、いったん家に帰って仮眠とシャワーを済ませて学校へ行き、早退して撮影現場へ向かい、また学校へ戻るか、戻れなければそのまま撮影を続ける日々だった。睡眠は2〜3時間で、ひどいときはまったく眠れないまま次の日につながった。宿題や台本の暗記もこなさなければならなかった。

一方で、評価されることや声をかけられることは本当に嬉しかったとも話す。当時は食べることが好きで太った時期があり、ダイエットしてはリバウンドを繰り返したため、事務所から「痩せなさい」と言われることがしょっちゅうあった。スカウト当初は「やれるならやってみよう」という軽い気持ちだったが、次第に負けず嫌いに火がつき、やるならとことんやるという気持ちになっていった。

その負けず嫌いは昔からだという。月1500円ほどの小遣いで本屋へ行って問題集を買い、自分で勉強するのが好きだった。図書館にも毎日のように通い、家には家族が読んだ本を書き込む表があって、父親と冊数を競うのも楽しかった。成績が特別よかったわけではないが、芸能の仕事をしているから普通の暮らしや勉強ができないと思われるのは嫌で、仕事を理由に勉強をおろそかにはしなかった。

体は丈夫で、倒れたことはない。聞き手に「倒れてくれればいいのにと思ったこともあるか」と問われると、そういう時期もあったと認めた。とにかく睡眠時間を確保したかったという。それでも現場に行くと楽しく、仕事は好きだった。ただ、家に帰ると緊張の糸が切れたように涙が止まらなくなる日々だった。親には心配をかけたくないので相談できず、唯一気持ちを打ち明けられたのは当時のマネージャーだった。

奥菜の目標は、売れたいということではなかった。女優の道を選んだ自分に負けたくない、作品を通して人に影響を与えられる存在になりたい、女優としてきちんと認知される存在になりたい——それが当時の思いだったと話す。

「アイドル女優」への違和感と、心が壊れていた部分

全国的に知られるようになったころ、奥菜はアイドル的な活動も並行していた。女優をやりながらアイドルもやる「アイドル女優」で、地に足がついていないような感覚があり、違和感を覚えていたという。『ヤングジャンプ』や『ヤングマガジン』で水着のグラビアを撮るため、月に何度も海外へ行く時代だった。ビキニを着たこともないのに水着姿を撮られることには、葛藤も戸惑いも、恥ずかしさも緊張もあったが、断れる雰囲気ではなかった。

ハワイやグアム、オーストラリアなどへ行っても、観光ではなく仕事なので、着いて準備して撮影して帰ってくるだけのルーティンになっていた。今振り返ると当時は心が壊れていたと思うか、という問いに、奥菜は「壊れていた部分もあると思う」と答えている。

舞台で知った「より深い場所」

アイドル女優からの脱却を意識するきっかけになったのが舞台だった。ドラマや映画は、その場でのスタートの合図に応える瞬発力が求められる。それに対して舞台は、1か月ほど同じシーンを繰り返し稽古してから本番を迎えるので、作品全体や役を深く掘り下げられる。表層だけで演じていたつもりはないが、さらに深い場所があることを知り、見え方が変わったと奥菜は話す。舞台をもっと経験したいと思うようになった。

高校卒業時には進学も含めて悩んだが、大学には行かず、芸能の世界一本に集中することを選んだ。特定のロールモデルはいなかったが、樹木希林のように生き方も含めてかっこいい人には強い憧れがあったという。ホラー映画『呪怨』に出演したのは22歳ごろである。

10代後半、壊れてから意思を伝えるようになった

殺人的なスケジュールのなかでも、奥菜は少しずつ自分なりにバランスを取る術を身につけていった。10代の終わりごろ、それまで事務所から与えられた仕事をそのままこなす形だったのを、自分の意思を聞いてもらう形に変えていったという。

本人の説明によれば、心の状態をコントロールできないほど不安定になった原因は、自分の意思を持ってはいけないような状況にあった。意見を言ってはいけないと言われたわけではないかもしれないが、「言われたらそれをするのが当たり前」という世界で育ったため、「私はこう思う」「これはしたくない」と言えないまま来てしまった。その結果、心をコントロールできないことが増え、一度壊れてから、自分の意思をきちんと伝えるようになった。仕事を選ぶところまではいかないが、意向を聞いてもらえるようになり、気持ちは楽になったという。聞き手が「10代後半でそれができるのはだいぶ大人だ」と言うと、奥菜は「そうじゃないと保っていられなかった。限界だったんでしょうね」と答えた。

好きな色も分からなくなり、事務所を離れてニューヨークへ

それでも20代に入り、奥菜は事務所を辞める。このままでは自分の人生を生きられなくなると思い、一度リセットしたかったのだという。意向を聞いてもらえるようになってはいたが、それまでの蓄積があった。自分を取り戻す以前に、自分が何を好きで何が嫌いか、何をしたくて何をしたくないのかが分からなくなっていた。

気づいたきっかけは、好きな色や好きな食べ物といった、ごく簡単な問いに答えられなかったことだった。そう気づくまでにも時間がかかったと本人は振り返る。誰かに指摘されたのではなく、自分の好きなものが分からなくなっている自分に恐怖を抱いた。自分を消すのが当たり前になっていたのだという。このまま仕事を続けたら、自分自身のないまま生きていくことになると思い、事務所を離れてニューヨークへ渡った。

ニューヨークでは語学学校に通ったが、遊びに行くほどの友達もおらず、毎日スーパーで納豆などを買ってきて、目玉焼きと一緒に食べる生活だった。日本食が恋しかったという。一方で出会いもあった。ブロードウェイの『STOMP』に唯一の日本人キャストとして出演していた宮本さんと親しくなり、タップダンスを教わりながら、ミュージカルやストレートプレイを見に行った。この期間で自分を取り戻せたわけでも、リセットできたわけでもないと思うが、初めてまとまった充電期間が持てたと奥菜は話す。

しばらくニューヨークで暮らすつもりで家まで借りたが、劇団「阿佐ヶ谷スパイダース」から舞台出演の連絡が来た。一瞬迷ったものの、ワクワクする気持ちが勝って帰国し、そのままニューヨークには戻らなかった。時間を置いたことで、違う気持ちで舞台に臨めたという。

なお、事務所を離れていた期間は契約上活動できず、休むしかなかった。事務所を辞めたことで仕事がしづらくなることがあったかと問われると、「どこまで話していいか分からない」と前置きしつつ、そういう時代もあったし、実際に人からそう言われることもあったと認めた。それでも一度飛び出したかったのだという。芝居が好きだという気持ちは、どれだけ時間がたっても変わらなかった。

清純派イメージへの反発と、暗い絵や詩

清純派と呼ばれることについて、奥菜は自分を清純派だと思ったことはないと言う。そういう部分もあるのかもしれないが、それだけが一人歩きし、そこだけを言われ続けるのはとても嫌だった。人には多面的な部分があり、清純だけでできているわけではない。自分の中の別の部分を出したかった時期で、その気持ちが反動のように一気に出てしまったと振り返る。当時の刊行物について聞き手が「タイトルも印象的だ」と触れると、奥菜は、当時は心の中に何かが渦巻いていたと認めた。

その渦巻くものは、絵や詩を書くことにぶつけて発散していた。真っ暗な部屋で膝を抱えて泣いている自分の絵や、血を連想させるような暗い絵が多かったという。

一方、記事などで「魔性の女」と書かれたことについては、心地よいとは感じず、「なんでこんなに極端なんだろう」と思ったそうだ。当時はさまざまに言われることに強い拒否反応を抱いていたが、今はいろいろ言われることが嬉しく、それは自分がいるということだと感じるという。当時は人間不信の面もあったが、人が好きで、人と話すのも楽しいという気持ちも同時にあった。誰に対しても不信を抱いていたわけではなく、中にはそういう人もいる、という程度だったと説明している。

母になって生活が180度変わった

30代で出産すると、生活は180度変わった。それまでは料理をしたこともなく、食事は外食か買ってくるものだったが、子ども優先の生活になり、外出も減った。離乳食も出汁から取って作った。市販のものを嫌がって食べてくれなかったこともあり、振り返れば10数年を子どもに捧げたと話す。

仕事もセーブした。聞き手が、広く知られた人がメディアに出なくなることへの恐怖はなかったかと尋ねると、奥菜は正直そういう恐怖はなく、忘れられたらそれもそれかなと思っていたと答えた。しがみつくより、子どもたちとの時間を優先したかったのだという。子どもは現在、高校2年生と中学3年生で、手は少しずつ離れつつあるが、まだまだ手がかかるという。

娘との毎日の喧嘩で気づいたこと

上の娘は小学校高学年で反抗期を迎え、毎日のように喧嘩した。何もかもが初めてで、どうしていいか分からなかった。帰宅すれば靴を揃えなさい、先に手洗いとうがいをしなさい、制服は投げ出さずに掛けなさいと、一挙手一投足を指摘していたという。

ある日、大喧嘩の末に奥菜のほうが限界になり、泣きながら家を飛び出した。行き先は近くの公園で、気持ちを落ち着かせていたとき、「これは違う」と気づいた。自分も「しなければいけない」「やらなければいけない」と強制されながら育ち、それがいつか爆発した過去がある。大人にされてきたのと同じことを、今娘にしている——そう思ってぞっとしたという。

それ以来、細かいことを言うのをやめると、喧嘩はほぼなくなり、関係は良好になった。今は娘がいろいろなことをオープンに話してくれ、頼ってもくれる。奥菜自身のストレスもなくなったという。親が子に「あれしなさい、これしなさい」と押しつけるのではなく、本人の意思を尊重し受け入れることが大切だと、子育てを通して学んだと話している。

シングルマザーの2年間と、乗れなかったバス

奥菜にはシングルマザーだった期間が2年ほどあり、それが一番大変な時期だったと振り返る。仕事があるときは託児所に預け、終われば迎えに行く。何をしていても、公園に行っても、目に入るのは楽しそうな家族の姿で、胸が痛んだ。

印象に残っている出来事がある。1人をおんぶし、もう1人をベビーカーに乗せてバスを待っていたが、来たバスは満員で、ベビーカーを畳んで乗る余裕もなかった。目の前でドアが閉まり、バスが走り去ったとき、涙がぼろぼろこぼれた。インタビュー中も、思い出して涙ぐんでいた。

次のバスには、あらかじめベビーカーを畳んで乗った。すると車内のベビーカー置き場のそばにいた女性が「ここいいですよ」と声をかけてくれた。自分の力の足りなさに胸を痛める一方で、街に出れば人の優しさもあふれていて、ありがたい気持ちにもなったという。子どもは当時1〜3歳ほどだった。

この時期は人に会うこともなかった。子育てで手一杯で、誰かと話す時間があるなら睡眠を取りたい、という状態だったという。

再婚と、「パパって呼んでいい?」

その後再婚し、心はだいぶ落ち着いた。奥菜は、自分は何でも完璧にやろうとしすぎたと振り返る。父親がいない分、母親と父親の両方の役割を完璧にこなそうとしてパンクした時期もあった。親の姿を子どもは見ているのだから、まず自分が自分の機嫌を取り、楽しまなければならないと気づいたという。

子どもを連れての再婚をためらう人についてどう思うかと聞かれると、奥菜は、子どもは出産した時点で人生の宝物であり一番の存在なので、最初は戸惑いもあり、すぐに再婚という考えにはならなかったと語った。最初は相談相手として友人関係から始まり、会う機会が増えるうちに、子どもたちのほうから「パパって呼んでいい?」と言い出した。そのことで自分の気持ちも少しずつほぐれていった。子どもたちが背中を押してくれたことが大きかったという。

駄菓子屋の記憶から始まった、フードバンクと居場所づくり

奥菜は現在、フードバンクと居場所づくりの2つを軸とするプロジェクトに取り組んでいる。企業から提供された品を人々に配る活動をしているという。昔から人を驚かせたり喜ばせたりすることが好きで、俳優の仕事も作品を通して誰かに元気や感動を届けたいという思いで続けてきた。このプロジェクトもそこにつながると考えている。すべてを助けることはできないが、自分にできる範囲で誰かが笑顔になってくれればという思いで活動している。10年ほど前から温めていた構想が、去年ようやく形になったのだという。

きっかけは幼少期の記憶だ。小学生のころ、携帯電話もない時代、学校から帰ると友達が自然と駄菓子屋に集まった。限られた小遣いで駄菓子を買い、もんじゃ焼きを焼いてもらい、いろいろな話をした。そこが自分の居場所だった。今は駄菓子屋をあまり見かけなくなり、子どもたちの居場所はどこにあるのだろうと考えたという。

10年前には、子どもたちを連れて別のボランティア団体のスタッフとして、障害者スポーツの選手とのイベントに参加していた。現在も不定期で関わっている。みんなが楽しそうに笑顔になる様子を見て、いつか自分もこういうことをやりたいと思ったのが10年前だった。

最近は大学との社会連携プロジェクトも始まり、活動は広がりつつある。将来の夢として奥菜が挙げるのは、こうした「家」を全国に作ることだ。夜眠れない母親や、子どもが泣き止まずに困った親が駆け込める場所でもいいし、お年寄りがお茶を飲みながら話す場所でも、子どもたちが学習する場所でもいい。駆け込み寺のような場所を作れないかと考えているという。

尋常性白斑の公表と、決めていない「引き際」

芸能の仕事とこの活動のどちらに重きを置くかと聞かれると、奥菜は特に決めておらず、流れるままだと答えた。芝居を何歳まで続けるかも考えていない。

背景には病気がある。奥菜はコロナ禍の時期に、尋常性白斑であることを公表した。肌の色素が抜けていく進行性の病気で、治療法はあるが完治はしない。薬を塗って治った箇所もあるが、また出てきたり、別の場所に広がったりするため、付き合っていくしかないという。そのため、いつまで表に出て芝居ができるか分からないと感じており、そういうときが来たらやめるのだろうと話す。症状を抱えていると、あまり表に出たくない気持ちにもなるという。

公表は予定していたものではなく、思いつきでInstagramに書いたところ記事になった。誰にも話していなかったため、マネージャーも驚いたという。反響では「公表してくれてありがとう」という声が多かった。この病気で差別やいじめを受けている人が多いことに奥菜は驚いた。芸能人が公表することで病気の認知が広がり、偏見の目で見る人が減るのではという感謝の声もあった。一方で、人目にさらされるのが怖くて静かに暮らしているのに、なぜ公表したのかという意見もあった。いろいろな意見があるので一概によかったとは思っていないが、隠しているのが嫌だったのだと奥菜は話す。隠し通すこともできたが、突発的に公表しようと思って書いたのだという。

自分を失った経験を振り返って

最後に聞き手は、自分を失った時期を経験してよかったと思うかと尋ねた。奥菜は「思います」と答えた。その経験があったからこそ今があり、その中で気づけたことは必ずしも悪いことではない。当時は苦しく辛かったが、自分には必要な経験だったと語った。

では今、自分が何を好きで、どんな人間かを完全に取り戻したのか。この問いに奥菜は「どうなんだろう」と言葉を濁し、はっきりとは答えなかった。