『火垂るの墓』は「文芸」として作られた――岡田斗司夫が読む冒頭5秒と泣かない清太

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概要

『火垂るの墓』は、新聞やテレビなどの大手メディアでは今も「戦争の悲惨さを描いたアニメーション映画」と紹介される。岡田斗司夫は、この映画は「戦争はいけない」「節子や清太がかわいそう」というだけの作品ではないと考えている。高畑勲はこの作品を観客に考えさせる「文芸」として作った。しかし観客の多くは泣くことに忙しく、その意図を受け取れていない、というのが岡田の立場である。この動画は2018年4月15日配信の岡田斗司夫ゼミを編集した無料公開部分で、画面のカットを示しながら前半4パートを解説している。最後に、エンタメと文芸の違いについて、動画公開時点の補足が付いている。

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観客の半分はラストシーンを覚えていない

岡田はまず、一般的な理解を確認する。日本テレビの公式サイトにあるあらすじはこうだ。昭和20年9月21日の夜、神戸・三宮駅の構内で清太が息を引き取る。所持品はドロップの缶だけで、駅員がそれを放り投げると小さな遺骨がこぼれ、季節外れのホタルが舞い上がる。3か月前の空襲で母を失った清太は、妹の節子と西宮の親戚の家に移る。しかしおばの態度に耐えられなくなり、兄妹は池のほとりの横穴で暮らし始める。その後、節子は栄養失調で死ぬ。清太は一人で節子を火葬し、自身も駅で死んでいく。

岡田は「金曜ロードショー」の放送時にハッシュタグ付きのツイートを追っていた。そこで驚いたのは、ラストシーンを覚えていない人がかなり多いことだったという。映画の最後では、幽霊の清太と節子がベンチに座り、節子は眠っている。清太だけが現代の神戸のビル街を見下ろしている。岡田はこれを「基本中の基本」のシーンと考えている。ところが、このシーンを覚えていない人がほぼ半数いた。残りの人も「二人は今も霊になって神戸を見下ろしている」という程度の受け取り方をしている、と岡田は観察した。そのうえで、今回の解説はこのレベルではなく、もっと細かく読んでいくと宣言する。

冒頭5秒に映る「現在の灰皿」

冒頭の流れは次のとおりだ。暗闇の中に、カメラ目線で正面を向いた幽霊の清太が現れる。清太が関西弁で「昭和20年9月21日夜、僕は死んだ」と言い、その視線の先で、死にかけの自分が浅い息をしながら崩れていく。駅員が死を確かめ、ポケットから出てきた缶を放ると骨がこぼれ、ホタルが現れる。ホタルの中から幽霊の節子が立ち上がり、兄の死体に駆け寄ろうとするが、後ろから元気な頃の清太に止められる。二人は手をつないで草むらを右から左へ歩いて消え、同じ位置にタイトルが出る。

岡田が注目するのは、幽霊の清太が右下へ視線を移し、死にかけた自分がフェードインしてくる直前のカットだ。柱の手前に何かが映り、すっと消える。岡田がそのコマを引き伸ばすと、それは灰皿だった。しかも昭和20年のものではなく、現代のデザインの灰皿である。

岡田は念のためBlu-rayの特典に収録された神戸のロケハン写真も確認した。ロケハンは1987年に行われ、写真では別の柱の横に同じデザインの灰皿がある。岡田は、柱の形が違うことから、この灰皿を画面の柱の横へ移して描いたのだと見る。つまり制作側は、1987年当時の灰皿を意図的に冒頭へ入れていたことになる。

清太は43年間、三宮に囚われている

ここから岡田は映画の構造を読み直す。多くの人は、この物語は過去の話で、ラストシーンで初めて現在に戻ると思っている。岡田によれば違う。映画は冒頭から「現在」で始まっている。1988年の公開時点でも清太の霊は三宮のあの場所にとどまっている。何かを思い出すと周囲が昔に戻り、人生最後の3か月を「何億回も」繰り返して苦しんでいる。岡田はそう読む。

岡田は、コメント欄で視聴者が「地縛霊」と書いたことにも触れる。そして、なぜ清太が死後43年もその場所に縛られ、いちばん辛かった時期を見返さなければならないのか、その理由を説明するのがこの映画だと述べる。この構造が分かっていれば、映画は「かわいそうな話」ではなく、清太がなぜ呪われているのかを問うミステリーとして見えてくる。

岡田は、高畑からすれば「ちゃんと冒頭に灰皿を映している」ということになるだろうと言う。岡田自身は、ラストに現在を映すなら冒頭にも何か仕込んでいるのではないかという「嫌な予感」があって見つけた。しかしツイートを見る限り、この点に言及した人はゼロだった。こんなものに気づけるはずがない、というのが岡田の評価である。

空の土鍋とスイカ――清太は節子の死後に食べていた

岡田によれば、観客が重要なカットを見逃すのは「かわいそうな話」「清太が素直じゃない」「おばさんが意地悪だ」という予断を持って観るからだ。その例として挙げるのが、終盤の雑炊の場面である。

清太は最後の貯金を下ろして米や卵、鶏肉を買い、節子のために雑炊を作る。しかし節子はそれができあがるのを待たずに死ぬ。画面には土鍋、茶碗、箸、そして貝で作ったらしい手作りの匙が映る。この匙は、兄妹がおばの家で食事するときにも使っていたものだと岡田は説明する。

翌朝、清太が節子の遺体を焼いている間、カメラは横穴の中を映す。岡田はこのカットを強調表示して示した。寝床の手前にある土鍋には、箸と匙が突っ込まれている。清太は雑炊を食べていたのである。直前に食べられずに残った雑炊を見ているので、普通の観客は清太が食べたとは思わない。わざわざ空になった食器をアニメーターに描かせるところに、岡田は高畑の「意地悪」を見る。

節子が一口しか食べられなかったスイカも同じだ。火葬の場面で映るスイカも食べられている。「アリが食べたのではないか」という反論を受けたこともあったと岡田は話す。そこで調べ直すと、清太はナイフで一切れだけ切って節子に与え、残りは二つに割って置いていた。アリが食べてもあの形にはならない、と岡田は結論づける。

さらに岡田は、左端の一切れだけに実が残っている点にも触れる。これは清太が切り分けた、スイカのてっぺんのいちばん甘い部分で、節子が口に入れて「おいしい」と言ったものだ。節子にあげた分だけは、清太も食べられなかった。岡田はそこに人情を見る。一方で、節子の死後に意識がはっきりして食欲が戻った清太の生きる欲も隠さず描く。岡田はこれを高畑のリアリズムと呼んでいる。

泣かない清太とクレショフ効果

清太は節子のけなげな言葉には号泣する。しかし節子が死んでからは一度も泣かない。遺体に一晩添い寝するときも、火葬のときも、無表情に描かれている。火葬の場面では、炎の照り返しの赤い光だけがちらついている。

岡田はこれをクレショフ効果で説明する。演者が無表情でも、観客は前後の映像からその表情に感情を読み取ってしまう。ロシアの映像作家が見つけた効果である。有名な例では、無表情な男の顔を子どもの死体と交互に見せると悲しんでいるように見え、湯気の立つスープと交互に見せると食欲、誘惑する女性と交互に見せると欲望を抱いているように見える。岡田はこれを、編集によって心理効果を生むモンタージュの一種として紹介する。

岡田によれば、宮崎駿はこの手法が大嫌いだという。宮崎が好むのは、『天空の城ラピュタ』のドーラのような芝居だ。パズーに「甘ったれるんじゃないよ」と言ったあと、「その方が娘が言うことを聞くかもしれないね」と独り言を言う。キャラクターに芝居をさせ、どんな人物かを分かりやすく見せる。高畑はキャラクターに内心を語らせるのを嫌い、クレショフ効果を使って無表情な清太を見せた、と岡田は対比する。

人間性を失っていく清太と、野坂昭如の「ほっとした」

岡田は、あの無表情は悲しみをこらえているのではないと言う。このときの清太は人間性を失っている、と岡田は読む。妹が死んでも腹は減るし、雑炊もスイカも食べる。もう世話をしなくていいとほっとしたから、安心して腹が減る。

この「ほっとした」という感情には原作側の裏付けがある、と岡田は話す。原作者の野坂昭如は映画化前の高畑との対談で、自分はそんな綺麗な人間ではない、妹が死んだときほっとしたのだと訴えた。そして、そのことを映画の中で必ず使ってくれと高畑に約束させたという。

岡田はほかの場面も挙げる。清太は妹を焼くための炭を淡々と買いに行く。炭屋の主人に、裸にして豆殻と一緒に焼けばよく燃えると言われても心は動かない。連合艦隊が沈んだと聞いたときは相手に殴りかかるほど興奮した清太が、である。岡田によれば、観客は人間性が壊れた清太を見て、代わりに自分の人間性を取り戻し、感情が動いて泣く。そういう「アクロバティック」な構造の映画だという。

同時に岡田は、高畑は証拠となる空の食器は見せても、清太がガツガツ食べる姿そのものは描かない点を「上品な演出」と評価する。人間性を失っていく過程は描くが、強調はしない。そのために、普通に観ていると気づけない。

高畑勲は観客を泣かせようとしたことがない

パート2の問いは「なぜこんなトラウマアニメを作ったのか」である。岡田の答えは、高畑は観客を泣かせようとして映画を作ったことは一度もない、というものだ。

岡田は『母をたずねて三千里』の例を出す。日本中が泣いたと言われる作品だが、その企画書の冒頭で高畑は、我々はお涙頂戴を作るつもりは全くない、と書いていたという。それでも観た家族はたいてい泣いた。岡田は、高畑はこういうとき観客の理解を読み違える、と言う。そして「究極の負けず嫌い」なので、自分の理論上の誤りを認めない、とも付け加える。

高畑の著書『漫画映画の志』の記述も紹介される。岡田の要約では、高畑は次のように書いている。日本のアニメーションは観客の心をつかんでハラハラドキドキさせる方向に進化し、そういう作品は泣けるし感動できる。しかし自分が作りたいのはそういうものではない。『火垂るの墓』では観客を作品に完全に没入させず、少し引いた位置から我を忘れずに考えられる視点で作った。主人公を批判的にも見てほしい。

宮崎駿への批判と、絵の力を計算に入れない高畑

同じ本には宮崎への批判もある、と岡田は言う。高畑によれば、かつての宮崎は観客に引いた視点を持たせることができた。『ルパン三世 カリオストロの城』では、銭形警部が水の中を覗く場面で顔がぐにゃぐにゃに歪んだり、ルパンが無茶なジャンプをしたりすると観客が笑う。これは、観ているのが所詮は漫画であることを一瞬思い出すからだ。一方『千と千尋の神隠し』にも変な動きの場面はたくさんあるのに、映画館では誰も笑わない。宮崎は観客をハラハラさせ、作品に没入させる方法を選んでしまった。高畑はそう書いているという。

岡田は、高畑本人はあくまで「引いた視点」で観られる作品を作ったつもりでいると指摘する。『母をたずねて三千里』の企画書でも、マルコは素直でなく可愛げがなく、大人に逆らってばかりで、感情移入できる少年ではないと書いている。しかし岡田に言わせれば、高畑は「絵を舐めている」。あれだけ可愛く描かれれば、観客は可愛いと思うに決まっている。自分で絵を描かない高畑は、絵の力で可愛く見えてしまうことを計算に入れず、演出で全てが決まると思っている、と岡田は批判する。

『火垂るの墓』でも同じことが起きた、と岡田は言う。高畑の演出意図としては、節子の死後の清太の無表情は、戸惑い、驚き、取り返しのつかないことをしたという後悔としても受け取れるよう描かれていた。しかし観客はクレショフ効果によって、悲しすぎて泣けないのだと思い込み、泣いてしまう。岡田は自分を「サイコパス野郎」と呼び、妹のスイカと雑炊をきっちり食べていると思いながら観ているのは自分くらいだと笑う。

「ホタルは文芸なんです」――猫バスをめぐる逸話

では、世界一と言ってもいいほどの演出家である高畑の意図が、なぜこれほど伝わらないのか。岡田は理由の一つに、この作品が「文芸」だからという点を挙げる。

岡田は鈴木敏夫の著書『仕事道楽』の76ページにある逸話を紹介する。『となりのトトロ』の制作中、高畑の『火垂るの墓』の話を聞いた宮崎が鈴木のところへやってきて、「ホタルは文芸なんですって?」と尋ねた。鈴木が「まあそうですね」と答えると、宮崎は「俺も文芸をやる」と言い出した。猫バスなんか出していられない、出したら文芸作品ではない、コマに乗って空を飛ぶのもやめる、というのである。困った鈴木が高畑に相談すると、高畑は「猫バスをやめるんですか。もったいないですね」と言った。鈴木がその言葉をそのまま宮崎に伝えると、宮崎は急に機嫌を直し、猫バスを出すことになったという。

エンタメと文芸の違い:ドーラの「40秒で支度しな」

岡田はここで再びドーラの場面を持ち出す。ドーラが「二度とここへは帰れなくなるよ」と言い、パズーが「分かってる」と答える。「覚悟の上だね」とドーラが念を押し、パズーが「うん」と強く答えると、ドーラは「40秒で支度しな」と言う。このやり取りで、ドーラが実はとても良い人だと分かるようにセリフが組まれている。これがエンターテインメントだと岡田は言う。

岡田の整理では、エンターテインメントでは伝えることが大事で、どんなキャラクターかが大事になる。しかし文芸にはキャラクターという概念がない。何を考えているか分からない登場人物について、読者一人ひとりがこの人は何を考えているのかを考え、自分の答えを出す。それが文芸である。高畑は『火垂るの墓』を文芸アニメとして作ったので、観客一人ひとりが違う答えを出すように作られている、と岡田は述べる。

『かぐや姫の物語』と「観客に甘えすぎ」説

岡田は「高畑は観客に甘えすぎている」という自説を、遺作『かぐや姫の物語』で補強する。この映画のキャッチコピー「姫の犯した罪と罰」の意味を理解した人はいないだろう、と岡田は言う。

高畑は約50年前、東映動画で『ホルスの大冒険』の次回作として竹取物語の企画が出た際、自分のアイデアを出してボツになったという。映画の最初のチラシの裏に高畑自身がそう書いていた、と岡田は紹介する。そして『かぐや姫の物語』の当初の構想では、冒頭は月面で、月の王である父がかぐや姫に罪を告げ、罰として地球へ送ると宣言する場面から始まるはずだった。かぐや姫のほうは地球に行ける嬉しさで、ろくに聞いていない。

しかし高畑はこの場面を丸ごと削った。岡田によれば、その理由は、素晴らしいスタッフが揃ったのでこんなシーンは不要だと分かった、映画を見れば誰もが姫の罪と罰は分かるはずだ、というものだった。その結果「分からない映画」になった、と岡田は言う。

言い出したら聞かない高畑に対し、鈴木は策をひねり出した。見れば分かるはずのテーマを謎かけにして宣伝コピーにする。そうすれば観客は答え合わせをしに映画館へ来て、テーマを考えることになる。高畑の狙う効果を宣伝の側から生もうとしたわけだ。ところが公開後、観客はそこに引っかからず、絵や映像ばかりを褒めた。テーマも「命の素晴らしさ」のような方向にずれて伝わった、と岡田は見る。本当の「罪と罰」は『火垂るの墓』に負けないほどえぐい話だというが、その説明は別の機会に回された。

岡田によれば、高畑は泣かせるつもりも感動させるつもりもなく、観客に考え、悩んでほしかった。なぜ節子は死ななければならなかったのか、なぜおばさんは意地悪なのか、なぜ清太は死ぬのか。泣いて思考停止するのでも、つらくてチャンネルを変えるのでもなく、何年も考え続けてほしい。そのために苦労してアニメを作った。高畑にとって文芸とはそういう意味だ、と岡田は言う。ただし、自分の作品が何年も人を考えさせるだろうというのは「うぬぼれ」でもあると岡田は見ている。「ほら、考えたいだろう、なぜか知りたいだろう」と思わせる技術は押井守や庵野秀明のほうが何百倍もうまい。中身は高畑のほうが100倍ある。ただ、その技術がないので思ったように伝わらない。これが岡田の評価である。

タイトルの意味:光るものはすべて死にゆくもの

パート3はタイトルの意味を扱う。横穴で暮らし始めた夜、上空を飛ぶ飛行機のかすかな灯りを見て、清太は特攻機だと言い、節子は「ホタルみたいやね」と言う。岡田は、この作品のホタルは最初から、死ぬ直前に最後の光を放つ存在として描かれていると指摘する。

清太は節子のために100匹近いホタルを捕まえ、蚊帳の中に放つ。その後に引きの構図になる場面で、岡田は柱や梁が斜めに交差し、葬式の遺影の額縁のような形になっていると指摘する。ホタルが光る場面には必ず死を暗示する見せ方がある、と岡田は言う。この蚊帳の中で清太は、父が参加した連合艦隊の観艦式を思い出す。光に包まれた重巡洋艦「摩耶」は、物語の1年近く前にすでに沈んでいる。特攻機も、ホタルも、連合艦隊も、この作品で光るものはすべて死にゆくもので、だから美しく描かれる。岡田はそう読む。

翌朝、節子はホタルの墓を作っている。「お母ちゃんもお墓に入ってんねやろ」と言われて清太は号泣する。岡田は、このかわいそうな場面でなぜ大量のホタルの死骸を見せるのかと問う。ホタルから見れば、この兄妹もまた無慈悲で理不尽な存在だ。光り始めれば数日で死ぬ運命だとしても、人間の慰めのために蚊帳に閉じ込められていい理由にはならない。兄妹には、ホタルを逃がしてあげようという発想もない。

岡田はこれを冒頭ともつなげる。幽霊の清太と節子が、窓のフレーム越しに神戸大空襲を見る場面がある。「火が垂れる」と書いて火垂る。空から落ちてくる焼夷弾の火もまたホタルであり、二人はそれを命が燃えて綺麗だという視点で見ている。人間から見た戦争のホタルも、ホタルから見た兄妹も、等しく残酷で美しく描かれている。だから高畑は、この映画のテーマは戦争反対ではないと言い続けた、と岡田は述べる。

「戦争反対」ではないテーマと、おにぎりをくれた人

パート4はテーマの話である。岡田によれば、高畑は三鷹市の平和集会の講演でも、この映画を見て戦争反対と感じる人もいるが、そんな効果は全くないと語っている。どれほどつらいものを見せても、「だから戦争はしない」にはならない。日本人は、いやあらゆる民族は、こんなつらい思いをしないためにこそ軍事力が必要だ、目の前の脅威に対して「普通の国」になろうと言い出す。高畑はそう何度も言っていたという。

岡田は、作品の公式見解とされる高畑の文章も読み上げる。この作品が描こうとしたのは、困難に立ち向かい、たくましく生き抜く少年少女ではない。決して切り開くことのできない戦争という状況の中で死ななければならない、心優しい現代の若者の姿である。現代はデジタル機器が発達し、煩わしい社会生活から離れて自分の世界にこもることもできる。だからこそ清太の心情は分かりやすいのではないか。兄妹だけで小さな家族を作ろうとする清太には、社会的なつながりを煩わしく感じる現代の若者と似たところがある。しかし戦時中には、そのつながりを排して兄妹だけで生きることはできなかった。そこに悲劇がある――という内容だ。

これに関連して岡田が指摘するのが、冒頭で駅で死にかけている清太におにぎりを置いていく人がいることだ。清太の主観にどっぷり浸かると、周囲は鬼のような人ばかりで誰も助けてくれないように見える。しかし実際には、食べ物のない時代でも、見返りなしにおにぎりをくれる人がいた。頭を下げて頼めば助けてもらえたかもしれない。高畑はそれを最初に見せ、清太がこうなったのは戦争のせいでも時代のせいでもないと、言い訳できない形で示してから物語を始めている、と岡田は読む。

なぜ母親の霊は出てこないのか――煉獄という読み

岡田がテーマに関して気になっているのは、なぜ母親の霊が出てこないのかという点だ。節子はあれほど母に会いたがり、清太は父に会いたがっていた。作中には家族4人が桜の下で写真を撮る場面もある。死ぬことしかなかった兄妹の話なら、死後に両親が現れて4人が揃ってもいいはずだ。なのに幽霊は兄妹の2人だけである。岡田はこれを作品のテーマの一つと考えている。

岡田は視聴者のコメントも拾う。「親だけ成仏した」「死んでもぼっち」「清太が節子を縛っていた」などだ。そのうえで、自分の答えを「妄想と言ってもいい」と断ったうえで示す。清太は母のいる天国には行けず、かといって地獄に落ちるほどのこともしていない。ダンテの『神曲』でいう煉獄である。カトリックでは煉獄は、天国に行けず地獄にも落ちなかった人が苦しみによって罪を清められ、その後に天国へ行く場所とされる、と岡田は説明する(宗派による、とも付け加えている)。清太は煉獄に閉じ込められているから、1988年の今も自分の過ちと死んでいく妹を見せつけられている。高畑はそれを分かったうえで、気の毒だが彼は繰り返すしかない、という冷たい書き方をしている、と岡田は述べる。だから映画は冒頭から、三宮の駅の「現在」で始まるのだという。

観客を見つめる2つのカットと、後半への予告

岡田によれば、清太がまっすぐ観客を見つめるカットは作中に2か所しかない。一つは冒頭の「昭和20年9月21日夜、僕は死んだ」。もう一つはラストだ。清太が「もう遅いからおやすみ」と言い、節子が「うん」と答えて清太の膝の上で眠る。すると清太は一度こちらを見てから、神戸の街へ目を移す。どちらも幽霊の清太である。

なぜ節子が起きているときには観客を見ないのか。節子が起きているときに清太が観客を見られない理由がある、と岡田は言う。それが後半の最大の謎解きで、この映画でいちばん怖いところだという。節子を死なせたのは時代なのか、清太のわがままなのか、おばさんなのか。そして、なぜ清太は死ななければならなかったのか。後半ではこれを、押井守の指摘や「死は美しく、生きることは醜い」という論点とともに語ると予告して、無料部分は終わる。

補足:噛みごたえのある作品を観ること

動画の最後に、岡田は2026年時点の補足を加えている。エンタメは作り手が用意したテーマやメッセージを観客に伝えることを最優先する。文芸は観客一人ひとりが自分なりの答えを出すこと、つまり観客が考えることを優先して作られる。

ただ、一つの作品に長い時間をかけて自分なりの答えを見つける楽しみ方は、いまや贅沢で、一部の人の楽しみになっていると岡田は言う。今期のアニメだけでも『攻殻機動隊』や『無職転生』など作品は溢れ、限られた夜の時間では最新のコンテンツを考えずに受け止めるだけで精一杯になる。景気の良かった頃と比べ、今の日本人は自分の生活や将来を追い詰められながら考えている。だから映画やアニメを見るときくらい何も考えずに楽しみたいのは当然だ、と岡田は認める。

それでも、それを突き詰めた先にあるのは、中国製の縦型ショートドラマのような噛みごたえのない、「飲むカレー」ならぬ「飲むドラマ」だと岡田は言う。全てがそうなる未来はつらいので、お盆前のこの時期くらいは噛みごたえのある映画を観ようと、『火垂るの墓』と『この世界の片隅に』を勧めている。心に引っかかりが残り、何年か後にまた考えてしまうような映画になればいい、というのが岡田の締めくくりである。