『火垂るの墓』は「文芸」として作られた――岡田斗司夫が読む冒頭5秒と泣かない清太
岡田斗司夫『火垂るの墓』は、新聞やテレビなどの大手メディアでは今も「戦争の悲惨さを描いたアニメーション映画」と紹介される。岡田斗司夫は、この映画は「戦争はいけない」「節子や清太がかわいそう」というだけの作品ではないと考えている。高畑勲はこの作品を観客に考えさせる「文芸」として作った。しかし観客の多くは泣くことに忙しく、その意図を受け取れていない、というのが岡田の立場である。この動画は2018年4月15日配信の岡田斗司夫ゼミを編集した無料公開部分で、画面のカットを示しながら前半4パートを解説している。最後に、エンタメと文芸の違いについて、動画公開時点の補足が付いている。
観客の半分はラストシーンを覚えていない
岡田はまず、一般的な理解を確認する。日本テレビの公式サイトにあるあらすじはこうだ。昭和20年9月21日の夜、神戸・三宮駅の構内で清太が息を引き取る。所持品はドロップの缶だけで、駅員がそれを放り投げると小さな遺骨がこぼれ、季節外れのホタルが舞い上がる。3か月前の空襲で母を失った清太は、妹の節子と西宮の親戚の家に移る。しかしおばの態度に耐えられなくなり、兄妹は池のほとりの横穴で暮らし始める。その後、節子は栄養失調で死ぬ。清太は一人で節子を火葬し、自身も駅で死んでいく。
岡田は「金曜ロードショー」の放送時にハッシュタグ付きのツイートを追っていた。そこで驚いたのは、ラストシーンを覚えていない人がかなり多いことだったという。映画の最後では、幽霊の清太と節子がベンチに座り、節子は眠っている。清太だけが現代の神戸のビル街を見下ろしている。岡田はこれを「基本中の基本」のシーンと考えている。ところが、このシーンを覚えていない人がほぼ半数いた。残りの人も「二人は今も霊になって神戸を見下ろしている」という程度の受け取り方をしている、と岡田は観察した。そのうえで、今回の解説はこのレベルではなく、もっと細かく読んでいくと宣言する。
冒頭5秒に映る「現在の灰皿」
冒頭の流れは次のとおりだ。暗闇の中に、カメラ目線で正面を向いた幽霊の清太が現れる。清太が関西弁で「昭和20年9月21日夜、僕は死んだ」と言い、その視線の先で、死にかけの自分が浅い息をしながら崩れていく。駅員が死を確かめ、ポケットから出てきた缶を放ると骨がこぼれ、ホタルが現れる。ホタルの中から幽霊の節子が立ち上がり、兄の死体に駆け寄ろうとするが、後ろから元気な頃の清太に止められる。二人は手をつないで草むらを右から左へ歩いて消え、同じ位置にタイトルが出る。
岡田が注目するのは、幽霊の清太が右下へ視線を移し、死にかけた自分がフェードインしてくる直前のカットだ。柱の手前に何かが映り、すっと消える。岡田がそのコマを引き伸ばすと、それは灰皿だった。しかも昭和20年のものではなく、現代のデザインの灰皿である。
岡田は念のためBlu-rayの特典に収録された神戸のロケハン写真も確認した。ロケハンは1987年に行われ、写真では別の柱の横に同じデザインの灰皿がある。岡田は、柱の形が違うことから、この灰皿を画面の柱の横へ移して描いたのだと見る。つまり制作側は、1987年当時の灰皿を意図的に冒頭へ入れていたことになる。
清太は43年間、三宮に囚われている
ここから岡田は映画の構造を読み直す。多くの人は、この物語は過去の話で、ラストシーンで初めて現在に戻ると思っている。岡田によれば違う。映画は冒頭から「現在」で始まっている。1988年の公開時点でも清太の霊は三宮のあの場所にとどまっている。何かを思い出すと周囲が昔に戻り、人生最後の3か月を「何億回も」繰り返して苦しんでいる。岡田はそう読む。
岡田は、コメント欄で視聴者が「地縛霊」と書いたことにも触れる。そして、なぜ清太が死後43年もその場所に縛られ、いちばん辛かった時期を見返さなければならないのか、その理由を説明するのがこの映画だと述べる。この構造が分かっていれば、映画は「かわいそうな話」ではなく、清太がなぜ呪われているのかを問うミステリーとして見えてくる。
岡田は、高畑からすれば「ちゃんと冒頭に灰皿を映している」ということになるだろうと言う。岡田自身は、ラストに現在を映すなら冒頭にも何か仕込んでいるのではないかという「嫌な予感」があって見つけた。しかしツイートを見る限り、この点に言及した人はゼロだった。こんなものに気づけるはずがない、というのが岡田の評価である。
空の土鍋とスイカ――清太は節子の死後に食べていた
岡田によれば、観客が重要なカットを見逃すのは「かわいそうな話」「清太が素直じゃない」「おばさんが意地悪だ」という予断を持って観るからだ。その例として挙げるのが、終盤の雑炊の場面である。
清太は最後の貯金を下ろして米や卵、鶏肉を買い、節子のために雑炊を作る。しかし節子はそれができあがるのを待たずに死ぬ。画面には土鍋、茶碗、箸、そして貝で作ったらしい手作りの匙が映る。この匙は、兄妹がおばの家で食事するときにも使っていたものだと岡田は説明する。
翌朝、清太が節子の遺体を焼いている間、カメラは横穴の中を映す。岡田はこのカットを強調表示して示した。寝床の手前にある土鍋には、箸と匙が突っ込まれている。清太は雑炊を食べていたのである。直前に食べられずに残った雑炊を見ているので、普通の観客は清太が食べたとは思わない。わざわざ空になった食器をアニメーターに描かせるところに、岡田は高畑の「意地悪」を見る。
節子が一口しか食べられなかったスイカも同じだ。火葬の場面で映るスイカも食べられている。「アリが食べたのではないか」という反論を受けたこともあったと岡田は話す。そこで調べ直すと、清太はナイフで一切れだけ切って節子に与え、残りは二つに割って置いていた。アリが食べてもあの形にはならない、と岡田は結論づける。
さらに岡田は、左端の一切れだけに実が残っている点にも触れる。これは清太が切り分けた、スイカのてっぺんのいちばん甘い部分で、節子が口に入れて「おいしい」と言ったものだ。節子にあげた分だけは、清太も食べられなかった。岡田はそこに人情を見る。一方で、節子の死後に意識がはっきりして食欲が戻った清太の生きる欲も隠さず描く。岡田はこれを高畑のリアリズムと呼んでいる。
泣かない清太とクレショフ効果
清太は節子のけなげな言葉には号泣する。しかし節子が死んでからは一度も泣かない。遺体に一晩添い寝するときも、火葬のときも、無表情に描かれている。火葬の場面では、炎の照り返しの赤い光だけがちらついている。
岡田はこれをクレショフ効果で説明する。演者が無表情でも、観客は前後の映像からその表情に感情を読み取ってしまう。ロシアの映像作家が見つけた効果である。有名な例では、無表情な男の顔を子どもの死体と交互に見せると悲しんでいるように見え、湯気の立つスープと交互に見せると食欲、誘惑する女性と交互に見せると欲望を抱いているように見える。岡田はこれを、編集によって心理効果を生むモンタージュの一種として紹介する。
岡田によれば、宮崎駿はこの手法が大嫌いだという。宮崎が好むのは、『天空の城ラピュタ』のドーラのような芝居だ。パズーに「甘ったれるんじゃないよ」と言ったあと、「その方が娘が言うことを聞くかもしれないね」と独り言を言う。キャラクターに芝居をさせ、どんな人物かを分かりやすく見せる。高畑はキャラクターに内心を語らせるのを嫌い、クレショフ効果を使って無表情な清太を見せた、と岡田は対比する。
人間性を失っていく清太と、野坂昭如の「ほっとした」
岡田は、あの無表情は悲しみをこらえているのではないと言う。このときの清太は人間性を失っている、と岡田は読む。妹が死んでも腹は減るし、雑炊もスイカも食べる。もう世話をしなくていいとほっとしたから、安心して腹が減る。
この「ほっとした」という感情には原作側の裏付けがある、と岡田は話す。原作者の野坂昭如は映画化前の高畑との対談で、自分はそんな綺麗な人間ではない、妹が死んだときほっとしたのだと訴えた。そして、そのことを映画の中で必ず使ってくれと高畑に約束させたという。
岡田はほかの場面も挙げる。清太は妹を焼くための炭を淡々と買いに行く。炭屋の主人に、裸にして豆殻と一緒に焼けばよく燃えると言われても心は動かない。連合艦隊が沈んだと聞いたときは相手に殴りかかるほど興奮した清太が、である。岡田によれば、観客は人間性が壊れた清太を見て、代わりに自分の人間性を取り戻し、感情が動いて泣く。そういう「アクロバティック」な構造の映画だという。
同時に岡田は、高畑は証拠となる空の食器は見せても、清太がガツガツ食べる姿そのものは描かない点を「上品な演出」と評価する。人間性を失っていく過程は描くが、強調はしない。そのために、普通に観ていると気づけない。
高畑勲は観客を泣かせようとしたことがない
パート2の問いは「なぜこんなトラウマアニメを作ったのか」である。岡田の答えは、高畑は観客を泣かせようとして映画を作ったことは一度もない、というものだ。
岡田は『母をたずねて三千里』の例を出す。日本中が泣いたと言われる作品だが、その企画書の冒頭で高畑は、我々はお涙頂戴を作るつもりは全くない、と書いていたという。それでも観た家族はたいてい泣いた。岡田は、高畑はこういうとき観客の理解を読み違える、と言う。そして「究極の負けず嫌い」なので、自分の理論上の誤りを認めない、とも付け加える。
高畑の著書『漫画映画の志』の記述も紹介される。岡田の要約では、高畑は次のように書いている。日本のアニメーションは観客の心をつかんでハラハラドキドキさせる方向に進化し、そういう作品は泣けるし感動できる。しかし自分が作りたいのはそういうものではない。『火垂るの墓』では観客を作品に完全に没入させず、少し引いた位置から我を忘れずに考えられる視点で作った。主人公を批判的にも見てほしい。
宮崎駿への批判と、絵の力を計算に入れない高畑
同じ本には宮崎への批判もある、と岡田は言う。高畑によれば、かつての宮崎は観客に引いた視点を持たせることができた。『ルパン三世 カリオストロの城』では、銭形警部が水の中を覗く場面で顔がぐにゃぐにゃに歪んだり、ルパンが無茶なジャンプをしたりすると観客が笑う。これは、観ているのが所詮は漫画であることを一瞬思い出すからだ。一方『千と千尋の神隠し』にも変な動きの場面はたくさんあるのに、映画館では誰も笑わない。宮崎は観客をハラハラさせ、作品に没入させる方法を選んでしまった。高畑はそう書いているという。
岡田は、高畑本人はあくまで「引いた視点」で観られる作品を作ったつもりでいると指摘する。『母をたずねて三千里』の企画書でも、マルコは素直でなく可愛げがなく、大人に逆らってばかりで、感情移入できる少年ではないと書いている。しかし岡田に言わせれば、高畑は「絵を舐めている」。あれだけ可愛く描かれれば、観客は可愛いと思うに決まっている。自分で絵を描かない高畑は、絵の力で可愛く見えてしまうことを計算に入れず、演出で全てが決まると思っている、と岡田は批判する。
『火垂るの墓』でも同じことが起きた、と岡田は言う。高畑の演出意図としては、節子の死後の清太の無表情は、戸惑い、驚き、取り返しのつかないことをしたという後悔としても受け取れるよう描かれていた。しかし観客はクレショフ効果によって、悲しすぎて泣けないのだと思い込み、泣いてしまう。岡田は自分を「サイコパス野郎」と呼び、妹のスイカと雑炊をきっちり食べていると思いながら観ているのは自分くらいだと笑う。
「ホタルは文芸なんです」――猫バスをめぐる逸話
では、世界一と言ってもいいほどの演出家である高畑の意図が、なぜこれほど伝わらないのか。岡田は理由の一つに、この作品が「文芸」だからという点を挙げる。
岡田は鈴木敏夫の著書『仕事道楽』の76ページにある逸話を紹介する。『となりのトトロ』の制作中、高畑の『火垂るの墓』の話を聞いた宮崎が鈴木のところへやってきて、「ホタルは文芸なんですって?」と尋ねた。鈴木が「まあそうですね」と答えると、宮崎は「俺も文芸をやる」と言い出した。猫バスなんか出していられない、出したら文芸作品ではない、コマに乗って空を飛ぶのもやめる、というのである。困った鈴木が高畑に相談すると、高畑は「猫バスをやめるんですか。もったいないですね」と言った。鈴木がその言葉をそのまま宮崎に伝えると、宮崎は急に機嫌を直し、猫バスを出すことになったという。
エンタメと文芸の違い:ドーラの「40秒で支度しな」
岡田はここで再びドーラの場面を持ち出す。ドーラが「二度とここへは帰れなくなるよ」と言い、パズーが「分かってる」と答える。「覚悟の上だね」とドーラが念を押し、パズーが「うん」と強く答えると、ドーラは「40秒で支度しな」と言う。このやり取りで、ドーラが実はとても良い人だと分かるようにセリフが組まれている。これがエンターテインメントだと岡田は言う。
岡田の整理では、エンターテインメントでは伝えることが大事で、どんなキャラクターかが大事になる。しかし文芸にはキャラクターという概念がない。何を考えているか分からない登場人物について、読者一人ひとりがこの人は何を考えているのかを考え、自分の答えを出す。それが文芸である。高畑は『火垂るの墓』を文芸アニメとして作ったので、観客一人ひとりが違う答えを出すように作られている、と岡田は述べる。
『かぐや姫の物語』と「観客に甘えすぎ」説
岡田は「高畑は観客に甘えすぎている」という自説を、遺作『かぐや姫の物語』で補強する。この映画のキャッチコピー「姫の犯した罪と罰」の意味を理解した人はいないだろう、と岡田は言う。
高畑は約50年前、東映動画で『ホルスの大冒険』の次回作として竹取物語の企画が出た際、自分のアイデアを出してボツになったという。映画の最初のチラシの裏に高畑自身がそう書いていた、と岡田は紹介する。そして『かぐや姫の物語』の当初の構想では、冒頭は月面で、月の王である父がかぐや姫に罪を告げ、罰として地球へ送ると宣言する場面から始まるはずだった。かぐや姫のほうは地球に行ける嬉しさで、ろくに聞いていない。
しかし高畑はこの場面を丸ごと削った。岡田によれば、その理由は、素晴らしいスタッフが揃ったのでこんなシーンは不要だと分かった、映画を見れば誰もが姫の罪と罰は分かるはずだ、というものだった。その結果「分からない映画」になった、と岡田は言う。
言い出したら聞かない高畑に対し、鈴木は策をひねり出した。見れば分かるはずのテーマを謎かけにして宣伝コピーにする。そうすれば観客は答え合わせをしに映画館へ来て、テーマを考えることになる。高畑の狙う効果を宣伝の側から生もうとしたわけだ。ところが公開後、観客はそこに引っかからず、絵や映像ばかりを褒めた。テーマも「命の素晴らしさ」のような方向にずれて伝わった、と岡田は見る。本当の「罪と罰」は『火垂るの墓』に負けないほどえぐい話だというが、その説明は別の機会に回された。
岡田によれば、高畑は泣かせるつもりも感動させるつもりもなく、観客に考え、悩んでほしかった。なぜ節子は死ななければならなかったのか、なぜおばさんは意地悪なのか、なぜ清太は死ぬのか。泣いて思考停止するのでも、つらくてチャンネルを変えるのでもなく、何年も考え続けてほしい。そのために苦労してアニメを作った。高畑にとって文芸とはそういう意味だ、と岡田は言う。ただし、自分の作品が何年も人を考えさせるだろうというのは「うぬぼれ」でもあると岡田は見ている。「ほら、考えたいだろう、なぜか知りたいだろう」と思わせる技術は押井守や庵野秀明のほうが何百倍もうまい。中身は高畑のほうが100倍ある。ただ、その技術がないので思ったように伝わらない。これが岡田の評価である。
タイトルの意味:光るものはすべて死にゆくもの
パート3はタイトルの意味を扱う。横穴で暮らし始めた夜、上空を飛ぶ飛行機のかすかな灯りを見て、清太は特攻機だと言い、節子は「ホタルみたいやね」と言う。岡田は、この作品のホタルは最初から、死ぬ直前に最後の光を放つ存在として描かれていると指摘する。
清太は節子のために100匹近いホタルを捕まえ、蚊帳の中に放つ。その後に引きの構図になる場面で、岡田は柱や梁が斜めに交差し、葬式の遺影の額縁のような形になっていると指摘する。ホタルが光る場面には必ず死を暗示する見せ方がある、と岡田は言う。この蚊帳の中で清太は、父が参加した連合艦隊の観艦式を思い出す。光に包まれた重巡洋艦「摩耶」は、物語の1年近く前にすでに沈んでいる。特攻機も、ホタルも、連合艦隊も、この作品で光るものはすべて死にゆくもので、だから美しく描かれる。岡田はそう読む。
翌朝、節子はホタルの墓を作っている。「お母ちゃんもお墓に入ってんねやろ」と言われて清太は号泣する。岡田は、このかわいそうな場面でなぜ大量のホタルの死骸を見せるのかと問う。ホタルから見れば、この兄妹もまた無慈悲で理不尽な存在だ。光り始めれば数日で死ぬ運命だとしても、人間の慰めのために蚊帳に閉じ込められていい理由にはならない。兄妹には、ホタルを逃がしてあげようという発想もない。
岡田はこれを冒頭ともつなげる。幽霊の清太と節子が、窓のフレーム越しに神戸大空襲を見る場面がある。「火が垂れる」と書いて火垂る。空から落ちてくる焼夷弾の火もまたホタルであり、二人はそれを命が燃えて綺麗だという視点で見ている。人間から見た戦争のホタルも、ホタルから見た兄妹も、等しく残酷で美しく描かれている。だから高畑は、この映画のテーマは戦争反対ではないと言い続けた、と岡田は述べる。
「戦争反対」ではないテーマと、おにぎりをくれた人
パート4はテーマの話である。岡田によれば、高畑は三鷹市の平和集会の講演でも、この映画を見て戦争反対と感じる人もいるが、そんな効果は全くないと語っている。どれほどつらいものを見せても、「だから戦争はしない」にはならない。日本人は、いやあらゆる民族は、こんなつらい思いをしないためにこそ軍事力が必要だ、目の前の脅威に対して「普通の国」になろうと言い出す。高畑はそう何度も言っていたという。
岡田は、作品の公式見解とされる高畑の文章も読み上げる。この作品が描こうとしたのは、困難に立ち向かい、たくましく生き抜く少年少女ではない。決して切り開くことのできない戦争という状況の中で死ななければならない、心優しい現代の若者の姿である。現代はデジタル機器が発達し、煩わしい社会生活から離れて自分の世界にこもることもできる。だからこそ清太の心情は分かりやすいのではないか。兄妹だけで小さな家族を作ろうとする清太には、社会的なつながりを煩わしく感じる現代の若者と似たところがある。しかし戦時中には、そのつながりを排して兄妹だけで生きることはできなかった。そこに悲劇がある――という内容だ。
これに関連して岡田が指摘するのが、冒頭で駅で死にかけている清太におにぎりを置いていく人がいることだ。清太の主観にどっぷり浸かると、周囲は鬼のような人ばかりで誰も助けてくれないように見える。しかし実際には、食べ物のない時代でも、見返りなしにおにぎりをくれる人がいた。頭を下げて頼めば助けてもらえたかもしれない。高畑はそれを最初に見せ、清太がこうなったのは戦争のせいでも時代のせいでもないと、言い訳できない形で示してから物語を始めている、と岡田は読む。
なぜ母親の霊は出てこないのか――煉獄という読み
岡田がテーマに関して気になっているのは、なぜ母親の霊が出てこないのかという点だ。節子はあれほど母に会いたがり、清太は父に会いたがっていた。作中には家族4人が桜の下で写真を撮る場面もある。死ぬことしかなかった兄妹の話なら、死後に両親が現れて4人が揃ってもいいはずだ。なのに幽霊は兄妹の2人だけである。岡田はこれを作品のテーマの一つと考えている。
岡田は視聴者のコメントも拾う。「親だけ成仏した」「死んでもぼっち」「清太が節子を縛っていた」などだ。そのうえで、自分の答えを「妄想と言ってもいい」と断ったうえで示す。清太は母のいる天国には行けず、かといって地獄に落ちるほどのこともしていない。ダンテの『神曲』でいう煉獄である。カトリックでは煉獄は、天国に行けず地獄にも落ちなかった人が苦しみによって罪を清められ、その後に天国へ行く場所とされる、と岡田は説明する(宗派による、とも付け加えている)。清太は煉獄に閉じ込められているから、1988年の今も自分の過ちと死んでいく妹を見せつけられている。高畑はそれを分かったうえで、気の毒だが彼は繰り返すしかない、という冷たい書き方をしている、と岡田は述べる。だから映画は冒頭から、三宮の駅の「現在」で始まるのだという。
観客を見つめる2つのカットと、後半への予告
岡田によれば、清太がまっすぐ観客を見つめるカットは作中に2か所しかない。一つは冒頭の「昭和20年9月21日夜、僕は死んだ」。もう一つはラストだ。清太が「もう遅いからおやすみ」と言い、節子が「うん」と答えて清太の膝の上で眠る。すると清太は一度こちらを見てから、神戸の街へ目を移す。どちらも幽霊の清太である。
なぜ節子が起きているときには観客を見ないのか。節子が起きているときに清太が観客を見られない理由がある、と岡田は言う。それが後半の最大の謎解きで、この映画でいちばん怖いところだという。節子を死なせたのは時代なのか、清太のわがままなのか、おばさんなのか。そして、なぜ清太は死ななければならなかったのか。後半ではこれを、押井守の指摘や「死は美しく、生きることは醜い」という論点とともに語ると予告して、無料部分は終わる。
補足:噛みごたえのある作品を観ること
動画の最後に、岡田は2026年時点の補足を加えている。エンタメは作り手が用意したテーマやメッセージを観客に伝えることを最優先する。文芸は観客一人ひとりが自分なりの答えを出すこと、つまり観客が考えることを優先して作られる。
ただ、一つの作品に長い時間をかけて自分なりの答えを見つける楽しみ方は、いまや贅沢で、一部の人の楽しみになっていると岡田は言う。今期のアニメだけでも『攻殻機動隊』や『無職転生』など作品は溢れ、限られた夜の時間では最新のコンテンツを考えずに受け止めるだけで精一杯になる。景気の良かった頃と比べ、今の日本人は自分の生活や将来を追い詰められながら考えている。だから映画やアニメを見るときくらい何も考えずに楽しみたいのは当然だ、と岡田は認める。
それでも、それを突き詰めた先にあるのは、中国製の縦型ショートドラマのような噛みごたえのない、「飲むカレー」ならぬ「飲むドラマ」だと岡田は言う。全てがそうなる未来はつらいので、お盆前のこの時期くらいは噛みごたえのある映画を観ようと、『火垂るの墓』と『この世界の片隅に』を勧めている。心に引っかかりが残り、何年か後にまた考えてしまうような映画になればいい、というのが岡田の締めくくりである。
今週もですね、金曜ロードショーはですね、毎年恒例の夏の3連続ジブリ祭りやってるんですけど、残念ながらですね、今年はあの映画入ってないんですよね。夏のジブリと言ったらですね、絶対に忘れてはいけないあの映画ですね。火垂るの墓ですよ。ということでですね、今日は火垂るの墓の解説動画を出します。
おはようございます。岡田斗司夫です。火垂るの墓はですね、スタジオジブリの2枚看板だった高畑監督の代表作です。一般的にはですね、戦争の悲惨さを描いたとされるアニメーション映画で、未だにですね、新聞とかですね、テレビもそうなんですけど、大手メジャーのメディアではもうずっとそういう風に紹介されてるんですね。ただ僕に言わせるとですね、この映画は戦争はいけないとかですね、節子や清太がかわいそう、戦争の犠牲者だというだけの映画ではないんですけども。
で、火垂るの墓はどんな映画だったか、どんな物語だったかっていうのを、今回の動画ではですね、戦争描写の端というか、戦争にあったかわいそうな、うーん、なんだろうな、銃後の人たちという風に言うんでしょうかね。そういうですね、描写の中の証拠の映像ですね、映像というかですね、印刷されてる映像を見せながらですね、火垂るの墓の秘密に迫っていきます。
この動画はですね、2018年4月15日に配信した岡田斗司夫ゼミ第226回をですね、編集したもんです。動画終わった後もですね、追加のアップグレード入るので楽しみにしてください。それではここから無料動画スタートです。
一応ですね、前半後半2つに分かれてます。前半は、最大のミステリーですね、冒頭5秒の謎。2番、なぜこんなトラウマアニメを高畑監督は作っちゃったのか。3番、火垂るの墓というそもそもタイトルの意味は何か?4番、火垂るの墓のテーマっていうのは何なのかというのをちょっと探ってみる。で、後半は高畑勲の矛盾と宮崎の嫉妬。6番、押井守の指摘ね。なかなかいいとこついてるんですよ。7番、死は美しくて生きることは醜い。8番、前半の100倍怖い火垂るの墓って、こういう構成でお送りしようと思います。
じゃあですね、冒頭5秒の謎っていうパート1から行きましょう。みんなね、なんかその火垂るの墓というのをそもそもどういう話と思ってるのかっていうところから始めますね。一応日テレの公式サイトでですね、火垂るの墓のストーリーの簡単なまとめがあります。
昭和20年9月21日夜、神戸三宮駅構内で清太が息を引き取る。所持品はドロップの缶だけ。遺体を片付けていた駅員がその缶を放り投げると、中から小さな遺骨がこぼれ落ち、草むらに季節外れのホタルが舞い上がる。3ヶ月前の6月9日、神戸は大空襲に見舞われ、清太は心臓の弱い母を先に避難させ、幼い妹節子を連れて後から避難所の学校に着いた清太だったが、そこには変わり果てた母の姿が。母はそのまま息を引き取り、清太は節子と共に西宮にある親戚の家へ移るが、おばは次第に清太たちに厳しい言葉を投げつけるようになる。毎日小言を言われ、ご飯も満足に食べさせてもらえない生活に耐えきれなくなった清太は家出を決意、節子と2人で池のほとりの横穴で暮らすことになるが、というストーリーという風に書いてあります。
えっとですね、ストーリーはこの通りなんですけどもですね、この後、この日テレの公式ストーリーの後はですね、空襲がまだ続いて人の心もだんだん荒んでいって、清太は節子を食わせることもできなくなってしまうと。で、次第に節子は衰弱し、ついに栄養失調で死んでしまうと。で、清太は1人きり、節子の遺体を1人で荼毘に付すって言うんですけど、火葬にして、自分も神戸の駅で息絶えるっていうのが、この全体のお話です。
で、実はですね、今言ったこの大まかなストーリーだと思ってる人が全体の半分ぐらいいるんですよね。僕、金曜ロードショーでですね、ツイートのハッシュタグでですね、火垂るの墓っていうのについてのをずっと見てて、後でまとめも見たんですけども、ラストシーンを覚えてない人がびっくりするぐらい多いんですよ。ラストシーン、神戸の町をですね、えっとですね、これなんですけども、あ、ちょっと後ろへ下げるのね、ごめん。清太と節子がですね、ベンチに座ってて、節子は寝てるんですけども、清太だけが、神戸の町を、繁栄している神戸のビル街を見下ろしてるシーンっていうのがあってですね、これ火垂るの墓の基本中の基本だと思うんですけども、割とこれをですね、覚えてないっていうかですね、どういう意味だか受け取ってない人が多いんですね。
んで、最後に清太が死んだ後、最後に死んだ節子が迎えに来て成仏するかと思ったら、ラストで今の神戸と、まだ成仏してないのか、それとも私たちを見つめてるみたいなメッセージだという風に、まあまあ残り半分の人は解釈してるんですよ。つまりあの2人は今も霊となって神戸の町を見下ろしてるんだよっていうぐらいのことを考えてる人がいて、残りの人はそこまで考えてないで、過半数の人がそもそもこのシーンを覚えてないっていうのがですね、ちょっと今回そのツイート見てて最大の驚きだったんですけどね。かなりそういう風な意味では、オカルトではないですけど、ちょっと怖い映画だと。で、このシーンで終わるところがやっぱこの映画のすごいところだと思った僕は、ツイート読んでると、それを割と見てない人が多かったのがかなり驚きました。で、しかし今回解説するのは、こういうレベルではなくて、もうちょっと細かくやっていきます。
冒頭のですね、流れを説明します。1番最初のカットをですね、これも全部ではないんですけども、じっくり説明していきますね。まず真っ暗闇の中にカメラ目線で真正面を向いた幽霊の清太が現れます。「昭和20年9月21日夜、僕は死んだ」っていう風に関西弁で言って現れて、その清太が見ていると、もう死にかけている自分ですね。幽霊の清太が見ていると、その死にかけている自分が映って、その死にかけてる自分は一応まだ息をしてるんですね。はあはあっていう細かい息をすると。でもやがて崩れてしまうんですね。そうすると駅員がやってきてですね、なんかこう死んだことを確認。「ああ、こいつももう死んでしもた」ということで遺品を探ってたらですね、ポケットの中からなんかカンカンが出てきたと。何のカンカンかわかんないんで、ポイっと捨てるとですね、この捨てられたカンカンからですね、骨が出てきて、で、そこに季節外れのホタルがボワンと出てくると。
これですね。そのホタルの中から1人の女の子、これも幽霊ですね、の節子、妹が現れて立ち上がって、で、節子はお兄ちゃんの死体を見ていると。そのお兄ちゃんのところに駆け寄ろうとすると、後ろからですね、止められると。振り返るとそこには優しい生きてた頃のお兄ちゃんがいてですね。で、2人で手をつないでホタルがいるこの草原を右から左へ歩いてフェードアウトすると、この同じ位置に火垂るの墓というタイトルが出てくると。あ、もう泣いてますか?はいはいはい。すごいな。やっぱりみんな泣くんだな。はい。というですね、こういう大きい流れでできています。
えっとですね、これ、ちょっと簡単に説明したんですけども、よくよく見るとですね、隠されてる部分というかですね、この部分ですね、まだ生きている自分を死んでる自分が見つめるシーンですね、すごい秘密が隠されてるんですね。で、それ何かって言うと、実際はさらに細かくワンカットずつ検証していくとこうなります。まずこれですね、「昭和20年9月21日夜、僕は死んだ」って言ってから右下を見つめます。視線が右の下に流れると。そうするとですね、柱が映って、何か手前に映ってるんですね。分かりますか?もうちょっとよく、これぐらいの方がいいかな。柱があって、ここの手前に何か物が映ってて、このものがすっと消えたと思ったら、次に死にかけてる自分がフェードインというかですね、入り込んで、このシーンに流れるんですね。
で、これ何かですね。これ実はですね、この3番目のシーンだけをですね、よく見えるように引き延ばしたのがこれです。実はここにですね、柱の手前ですね、まだここに自分の死体が映る前、死にかけの自分が映る前にこういうものが現れてると。なんか前の曲線じゃないですね。これ灰皿なんですよ。で、この灰皿っていうのは何かと言うと、デザイン、これ現在の灰皿なんですね。で、僕は、これ見た時に、あ、そうか、やっぱりと思ったんですけども、つまりこれ、清太ですね、死んだ、なんか死後の世界というかですね、現在もまだ生きてるんですね。1988年の映画なんですけども、1988年の現在も今あの場所にいて、で、思い出すとそこが昔に戻ってっていうですね、未だにですね、その1988年の世界でですね、まだここにいて、未だに思い出して苦しんでるってことなんですね。
で、本当にそうなのかなと思って、念のためですね、Blu-rayのディスク見たらですね、ちゃんとですね、神戸まで行ったロケハン写真っていうのがあるんですね。で、ロケハン写真を見るとこの柱の横にですね、やっぱ同じデザインの灰皿があるんですよ。で、これ別の柱なんですけども、この柱の横に今の灰皿を移動させたわけですね。これちょっと柱の形が違うのでですね。という風な形でですね、ロケハン写真を見ても分かる通り、ロケハンが行われたのは1987年なのでですね、現在の写真の灰皿を使うという風なことやってるんですね。
で、つまり火垂るの墓っていうのは決して過去の話ではなくて、現在から始まってると。ラストシーンで現実、現在に戻るってみんな思ってるんですけど、違うんですよ。そうじゃなくて冒頭1番最初からですね、現在なんですね。で、現在から始まって、清太の霊はあの場に未だにとどまっていて、自分の人生最後の3ヶ月間を何億回も何億回も何億回もリプレイして苦しんでるっていうお話だと。じゃあなんでそんなはめになったのかと。現在の三宮に囚われてる。皆さんこう書いてる通り地縛霊みたいなもんなんですね。地縛霊ってのはその場所にとどまるけど、あれ電車に乗って移動するんですけども。じゃあ彼の囚われてる過去ですね。なぜ彼は死後、映画公開時点で43年間もそこに囚われてるのか、これに囚われてるのかという理由説明がこの映画なんですね。なぜ彼は未だに、だから43年も経つのに、自分が1番辛かった時のことを未だに見返さなきゃいけないのかっていう理由を説明してくれるという構造になってると。この全体構造が分かってると映画の見方ってだいぶ違うんですよ。これってかわいそうな話だとかそうではなくて、なぜ彼がこんなに43年間も自分の苦しいことをずっと見続けなきゃいけないのか、呪われてるのかっていう、そのミステリーになってるんですね。
で、高畑勲としてはですね、もちろんこれちゃんと見せてるでしょと。ちゃんと冒頭に灰皿映してるじゃんと。いや、確かにそうなんですよ。僕も、なんかね、やな予感したから、見た時にやっぱりって思ったんですけども、最後にも現在映してるから最初にもやってるんじゃねえかなと思ったら、やっぱりやってたんですけどもですね。もうこれ分かるはずだという風に高畑勲は思っちゃうんですけども、こんなの気がつくはずがなくてですね、金曜ロードショーのツイートでもですね、それ言ってる人ゼロだったんですね。分かるはずがないんですよ。
で、もう1つですね、火垂るの墓ってぼんやりしてると、こういうですね、重要なカットを僕ら見逃しちゃうんですね。なんでかって言うと、事前にこんな話だっていう予断で見ちゃうからなんですね。きっとかわいそうな話だから、こいつが素直じゃないから、こいつが意地悪だからっていう予断で見てるから、結構色々見飛ばしちゃうんですけども、かなり大事なシーンを見てみましょう。
節子がですね、もうかなり後半、最後に近いところです。栄養失調で死にかけてまして、で、清太がですね、最後の貯金を下ろしてですね、米や卵を買ってきます。で、節子のためにですね、卵と鶏肉の雑炊を作るシーンがあります。で、しかし節子はですね、雑炊を作ってる間に死んでしまうと。悲しいシーンですね。で、その雑炊です。はい。これが雑炊です。雑炊が土鍋に入っていて、お茶碗があると。で、お箸がここに置かれていて、まな板というかですね、お盆代わりの板ですね。で、ここにスプーンの代わり、匙の代わりのですね、手作りっぽいですね、なんか貝で作ったのが置いてあります。で、このスプーンは清太たちがですね、おばさんの家で食べる時も使ってたから、一応持ち込みのものですね。で、これがですね、節子が結局これができるのを待たずに死んでしまうってかわいそうなお話なんですけども、しかし節子が死んで翌朝ですね。ちょっと寒いので扇風機止めよう。節子が死んで翌日朝ですね、清太が火葬している間、清太が節子をそのもらってきた炭でですね、燃やしてる間ですね、清太の住んでいた洞窟をカメラはかなりですね、はっきりと残酷に映すんですね。で、それがこのシーンです。
えっと、こうですね。で、2人の寝床があって、で、このドアの向こうで、なんか光が漏れてると。で、手前のところにですね、ここに雑炊のさっきの土鍋が映ってるんですけども、分かりやすいようにですね、ちょっと強調してみました。ここにですね、さっきのお箸とスプーンが突っ込んであるんですね。つまり、食べてるんですね、清太は。こういうですね、なんだろうな、高畑監督は、ポイントで清太がどういう人間であって、今どういう風な気持ちなのかっていうのを分かるようにしてるんですね。これぼんやり見てると、その前にこの食べずに残ってある卵雑炊っていうのがあるから、普通の人は絶対にこれ食べてないと思うんですよね。でも清太はしっかり節子のお葬式の間に食べちゃったというのが分かります。で、わざわざね、この描かなくてもいい空になった食器をなんで高畑はアニメーターに指示して描かせるのか。この辺がもうこの人の意地悪のところなんですけども。
あとですね、その節子が食べられなかったスイカですね。1口しか食べられなかったスイカも、この節子を火葬させてる時に出てくるんですけども、これもやっぱ食べてるんですよね。で、これ、僕これ人に言った時にですね、いや、そんなことはない、それはアリが食べたんだっていう風にですね、言う人がいたんですけども、いや違うと思って調べたらですね、ちゃんと清太が節子に分けてあげる時に、自分が持ってるナイフで1切れだけ切って、あとは2つにパカンと割って、ここに置いとくなって言って置いてるから、こういう形にはなるはずがないんですね。アリがたかったからと言って。なので、清太がですね、実は節子が死んだ後は案外、なんだろう、意識がはっきりしてですね、食欲が湧いてご飯を食べてるのを、なんかちゃんと描いてるんですよ。
で、ちょっとね、その辺でもね、ああ、なんか人情だなと思ったのが、この左端の一切れだけ身がついてましたね。で、これ何かって言うと、清太がナイフで切り分けた一切れなんですけど、この山のてっぺんの1番甘いとこだけを節子にあげたんですね。そうすると節子が口の中にそれをなんとか入れて、美味しいって一言言うんですけど、それはもう清太も食べられなかったんですよ。これはもう節子にあげたものだから。ここら辺の人情も描いて、でも清太の生きるための欲っていうのかな、食欲みたいなものをはっきり描いちゃうっていうのが、その高畑勲のリアリズムだと思います。で、この辺はね、割と見逃されがちなんですけれども。無理って書かれてしまって。こういう話しんどいですか?
で、清太はですね、なんでこういう風に、なんだろう。清太しっかりしてるのかって言うと、割と節子が健気なことを言うと泣くんですよね。例えば「うち、おばちゃんに聞いてん。お母ちゃんもう死にはって、お墓の中にいてるねんて」っていう風に言われると、もう清太はワンワンワン号泣するんですけども、ところがですね、いざ死んじゃうとですね、節子が死んでからの清太はもう全然泣かないんですね。例えばその一晩死体と添い寝してあげる時もですね、目が無表情なままなんです。こういう風に無表情のままこう寝てると。で、なんだろうな。これ火葬するシーンなんですけど、遺体を火葬するシーンでもですね、わざとこう無表情に描いてるんですね。で、炎の照り返しで赤い光だけがチラチラしてるっていうですね。完全にその悲しみを描こうとするんではなくて、無表情を描いてると。
で、この無表情を描いてるのは一応それなりに理由があってですね、これ、なんだろう。演技者が無表情でも観客はその表情に勝手に悲しみとかを見てしまうっていうですね、このような映像効果をですね、クレショフ効果と呼びます。これ、ロシアのですね、ソ連になる前かなのですね、映像作家が見つけた効果なんですけども、これですね、クレショフ効果でよく出てくる画像がこれです。無表情な男と死体、子供の死体を交互に見せると、この男は悲しんでるように見える。無表情な男と湯気が立ってるスープを交互に見せると、この男は食欲に動かされてるように見えると。次に無表情な男と誘惑する女の写真を交互に見せると、この男は欲望を抱いてるように見えるっていうですね。一般的にモンタージュ理論とも言われるんですけども、モンタージュっていうのは映像を編集するという意味なので、こう映像を編集してこのような心理効果を出すことをクレショフ効果っていう風に呼びます。
で、宮崎はですね、このクレショフ効果が、今のうちに言っておきますけど、大嫌いなんですね。宮崎はこういうのが大嫌いで、宮崎が好きなのはですね、こういうやつなんすよ。これ、ラピュタのドーラ婆さんなんですけども、ドーラが独り言とか言いますね。「甘ったれるんじゃないよ。そういうことはね、自分の力でやるもんだ」っていう風にパズーに言った後、「うん。その方が娘が言うことを聞くかもしれないね」っていう風に独り言を言うシーンなんですけどもですね。これ演技つけてるわけですね。キャラクターに演技つけて、ドーラがどんなキャラクターかすごい分かりやすくしてるんですよ。でも高畑勲はこういう風にキャラクターに自分が思ってることを言わせて、それで見てる人間にこんな風に考えてるんだっていう風に分からせることが嫌なので、クレショフ効果を使って、その無表情な状態の清太を見せることによって、悲しみを表現しようとしてるわけですね。
で、何が言いたかったのかって言うとですね、清太が無表情な理由はこれ、僕らが勝手にこのシーン見てワンワン泣いちゃったりするのは、この顔が悲しみを湛えてる、悲しみを抑えて一生懸命普通にしてるような健気な状態に見えるから、このシーンを見てすごい感動しちゃうんですけれども、そうじゃなくてですね、おそらくこの時の清太は人間性を失ってるんですね。人間性を失ってるから妹が死んでも腹が減るし、雑炊食べるしスイカも食べちゃうと。で、ああもう世話をしなくていいんだとほっとしてるから、安心してお腹が減っちゃうと。この死んだからほっとしたっていうのは、原作者の野坂昭如が高畑とですね、映画を作る前のですね、対談で話して、この部分も必ず、俺そんな綺麗な人間じゃないんです、妹が死んだ時ほっとしたんですっていう風なことを一生懸命訴えて、映画の中で使ってくださいって言って高畑さんにこう約束させたっていう部分なんですけども。
だからその妹を焼く時に炭を買いに行くんですけど、そのシーンもですね、淡々と買いに行けるわけですね。で、連合艦隊が沈んだと聞いた時には殴りかかるぐらい興奮したその清太がですね、妹をですね、炭屋のおじさんに「裸にして大豆殻と焼いたらよう燃えるわ」っていう風に言われた時にですね、心が全く動かなくなってる。で、つまり人間でどんどんなくなっちゃうわけですね。人間性が壊れていくところが、僕ら観客っていうのは人間性が壊れた清太っていうのを見て、その代わりに人間性を取り戻して感情が動いて泣いてしまうっていう、こういうなんかすごい、アクロバチックっていうのかな、構造でできてる映画なんですけど、そういう過程をですね、ちゃんと高畑勲は清太が人間性を失っていく過程も描くし、で、同時にですね、そのお粥食べたりですね、食べたりっていう証拠は出すんですけども、わざわざそこはあからさまにガツガツガツガツ食ってるところは出さないと。そこら辺はすごく上品な演出なんですね。なのでその普通の見方をしてるとですね、本当にね、分からなくなっちゃう時があるんですよね。
じゃあなんで、なんだろうな、清太が人間性を失っていく過程っていうのをちゃんと描いてるんだけど強調しないのかってことですね。パート2ですね。パート1は冒頭5秒がなかなかすごいよっていうですね。パート2ですね。なんでこんなトラウマアニメを作ったのかっていう話に入ろうと思います。えっとですね、
すいません。さっき話した通りですね、観客、僕らが泣くのはですね、実はこのクレショフ効果というのが大きいと。つまり映像の並べ方によって勝手にキャラクターが悲しんでるという風に解釈しちゃって泣いちゃうという部分が大きいんですけども、悲しくなるのは当たり前なんですよ。しかし高畑勲って実は観客を泣かせようと思って映画作ったことって1回もないんですよね。母をたずねて三千里っていうアニメがあるんですけども、これ見たらみんながこう感動して日本が泣いたと言われる作品なんですけども、その企画書の中で、母をたずねて三千里の企画書の中でもう冒頭に高畑勲は「我々はお涙頂戴を作るつもりは全くない」という風に書いていて、で、でもそれを見てる家族ってのは大体泣いちゃうんですよ。で、高畑さんってこういう時大体、観客理解っていうのかなを間違えちゃうんですね。で、究極の負けず嫌いだから、絶対に自分の理論的な誤りをですね、認めないんですよ。えっとですね、なんかね、
漫画映画の志っていうですね、高畑さんが書いた本があります。で、この中でですね、高畑さんは、日本ではアニメーションは観客の心を掴んでハラハラドキドキさせる方向に進化したと。そういうアニメは泣けるし、感動できると。しかし私が作りたいのはそういうアニメではないっていう風に書いてるんですよ。で、火垂るの墓で私は観客を完全に作品に没入させるのではなく、少し引いたところから我を忘れずに考えることができる視点で作ったと。主人公を批判的にも見てもらいたいっていう風に書いてるんですよ。つまり火垂るの墓っていうのは高畑さんにしてみれば、なんだろうな、観客が清太の気持ちになって感情的になって、どっぷり浸かるような映画ではなくて、それとは逆にやや俯瞰の上から見下ろすような視点で見れるようにちゃんと作ってるっていう風にこの本の中で書いてるんですけども、で、同時にですね、その宮崎駿の、最近の宮崎に対する悪口も書いてあるんですよね。
かつての宮崎は、そういう上から俯瞰で同時に考えさせる、批判させる視点で作れたと。カリオストロの城を見てくれと。観客がみんな笑ったと。なんでかっていうと、カリオストロの城の中には、おいおい、それなんだよってシーンがいくつもあるぞ。例えば銭形の顔がこの水の中をこう覗くシーンで、銭形の顔がぐにゃぐにゃぐにゃっと歪むシーンとかですね。ルパンがちょっと無茶なジャンプするシーンとかで観客みんな笑うと。それはなんでかって言うと、見てるのが所詮アニメであって漫画であるってことを一瞬思い出すからだと。こういうなんかその俯瞰で見させるっていうことを、かつての宮崎はできたと。しかし千と千尋の神隠しを見てくれと。あれの中にはいっぱい同じように変なシーンが出てきて、キャラクターが変な動きするんだけど、もう映画館で誰も笑わないと。宮崎は観客をハラハラドキドキさせて主観的にさせる、いわゆる作品の中に没入する方法を選んでしまったと。でも僕はそうではなくてっていうのをですね、ガーっと書いてるんですけども、お分かりでしょうか?
高畑ってそのつもりなんですよ。観客が理解できてないんですね。この母をたずねて三千里を見てもちびっこやお母さんが泣かないと思い込んでるんですね。で、泣いたという意見を聞いても、なんかその多分そういうのは少数派だろうと思っちゃうと。企画書読んだらですね、マルコ少年は素直ではなく、可愛げがなくて、大人に逆らってばっかりで、とても感情移入できる少年ではないって書いてるんですけども、高畑は絵を舐めてるんですよ。あんな可愛く描いたら可愛いと思うに決まってるとこがね、自分で絵を描かない高畑は計算違いしちゃうんですね。絵の力で可愛く見えちゃうってことが全く想定外なんですよ。だから演出で全てが決まると思ってる。
で、火垂るの墓でもですね、その清太が人間性を失っていって、そのお粥とかスイカとかを妹が死んだ後ガツガツ食べて、無表情にこう、あれも悲しんでるように見えるんですけど、高畑勲のおそらく演出意図としては、死んじゃったので当惑してる、びっくりしてると、あ、取り返しのつかないことしちゃったなと思って後悔してるっていう風にも受け取られるようにちゃんと描いてるんですけれども、ところが僕らは勝手にですね、その演出効果でですね、すごい悲しみを抑えてるんだ、悲しすぎて泣けないんだ、悲しすぎてあんな表情になっちゃうんだっていう風に勝手に思い込んで、こうワンワンワン泣いちゃうんですよね。で、みんなも本当に、なんだろうな、ぶっちゃけ、あ、すいません。火垂るの墓に関しては泣くのに忙しくて引いた視点でなんか見てないんですよ。で、僕みたいなサイコパス野郎だけがですね、あ、こいつ妹のスイカ、雑炊きっちり食っとるわと思って見てるわけですね。
で、なんでこんなにこの高畑のですね、演出意図というのは伝わらないのかと。だってぶっちゃけ世界一と言ってもいいぐらいの演出家、監督なんですよ。なのになんでこんな伝わらないのかって言うと、特に今回のですね、火垂るの墓っていう作品がですね、文芸だからっていうのもあります。仕事道楽っていうですね、これは鈴木敏夫さんがジブリの面々のことを書いた本があるんですけどもですね、この76ページにですね、トトロを作ってる時にですね、高畑さんの火垂るの墓の話を聞いて、宮崎はどんどんと自分のところにやってきた。鈴木敏夫のところにやってきたと。で、「鈴木さん、火垂るは文芸なんですか」って聞くと、「あ、まあそうですね」と答えると、「俺も文芸をする」という風に宮崎が言い出した。「え、どうするんですか」と。「猫のバスなんて出してられないですよ。そんなもん出したら文芸作品じゃない」っていう風に言い出したと。で、もうびっくりしたんだったら、猫バスだけじゃなくって、コマに乗って飛ぶ部分ももうやらないと。「コマに乗って空を飛ぶなんていう、そんなバカなことやってられないですよ」という風に言い出したと。で、鈴木敏夫は困り果てて高畑のところに相談に行って、「宮崎さんがこんなこと言ってます」って言うと、「困りましたね。猫バスってやめるんですか?もったいないですね」っていう風に言ったと。だから鈴木敏夫はやったと思って、このもったいないですねっていう言葉を持ってパーっと宮崎のとこまで走っていって、「宮崎さん、高畑さんがもったいないって言ってますよ」つって、宮崎は急にご機嫌になって、「もったいないですか、じゃあ猫バス出します」って言ったっていう。これ実話なんですけども、すごいですよね。
結局そのさっきのですね、ドーラなんですよ。ドーラのシーン。あれ、まだ絵あるかな?もうしまっちゃったかな?あった。このドーラのシーンもですね、「2度とここへは帰れなくなるよ」っていう風にドーラが言うと、パズーが「分かってる」。ドーラが「覚悟の上だね」って言うと、パズーが「うん」って強く答えると、ドーラが「40秒で支度しな」っていう風に言うんですよ。つまり実はドーラはすごい良い人だっていうのが分かるように描いてる。これはエンタメであって文芸ではないんですね。ちゃんとドーラがいい人だという風に分かるようにセリフが組んである。これエンターテイメントなんですよ。で、なんでかと、エンターテイメントというのは伝えるのが大事だから、で、どんなキャラかっていうのが大事なんですね。しかし文芸の世界にはキャラという概念はないんですよ。何を考えてるのか分からない登場人物を、読者1人1人がこの人は何を考えてるんだろうかと考えて回答を出すのが文芸なんですね。だからそれが文芸なんですよ。だから高畑勲は火垂るの墓を文芸アニメとして作ってるからですね、1人1人が考えて違う答えを出すように作ってるわけですね。
なのでですね、言っちゃえば僕は高畑勲・観客に甘えすぎ説っていうのを唱えてるんですけども、これ高畑勲の遺作となったですね、かぐや姫の物語です。で、ここのですね、キャッチコピーですね、「姫の犯した罪と罰」って書いてるんですけども、これ分かった人ね、いないと思うんですよね。元々最初の高畑のアイデアではですね、映画の冒頭で月面なんですよ。で、かぐや姫のお父さんですね、月の王様がですね、かぐや姫に対してですね、お前はこういう罪を犯したよ、罰として地球に、なんだろう、流すっていう風に宣言するシーンから始まると。で、それをかぐや姫は地球に行けるという嬉しさでワクワクして、ろくに聞いてないというシーンから始まったそうです。
で、これですね。どこだったかな?高畑さんのですね、この映画の最初のチラシの裏に書いてあった文章なんですけども、50年前ですね、ホルスの次回作で竹取物語っていうのが東映動画でアイデアが出てですね、で、その公募があったんですよ。どんな風にストーリー作るのか。で、それで高畑さんが出したアイデアがボツを食らったんですよね。で、ところがですね、高畑さんはですね、この今言った冒頭の、月の王様とかぐや姫の問答シーンです、お前にはこんな罪があると、だからこんな罰を受けろというシーンをまるまるカットしてしまうんですね。で、カットした理由、高畑さんはですね、「素晴らしいスタッフが揃ったのでこんなシーンはいらないと分かりました。映画を見れば誰もが姫の罪と罰は分かるはずです」と言ってカットしちゃって、おかげでわかんない映画になっちゃったんですよ。
で、またこんなことを言い出して、高畑さん本当に観客に甘えすぎなんですよね。で、仕方なく鈴木敏夫が編み出した手口がですね、これが面白くてですね。鈴木敏夫が出した手口は、高畑さんあんなこと言ってて、で、1回言い出したら聞かないと、もう観客分かるはずだと言い出したから、もう聞かないので、こうなったらですね、この見れば分かるはずのテーマを謎なぞにして宣伝コピーにすることにしたと。「姫の犯した罪と罰」ってここに書いたら、それは何だろうってみんな考えるだろうと。で、それの答え合わせをしに映画館に来るに違いない。そしたらかぐや姫の物語のテーマをみんなが考えることになると。高畑さんが思ってるエフェクト、効果が出るっていうですね。なんかすごいこうアクロバチックなことになったんですね。で、ところがところがですね、これを公開したらですね、誰もここのところに引っかからずですね、みんなかぐや姫の物語のですね、絵とか映像ばっかりもう超褒めるわけですね。で、そんなこんなで、このまたもやテーマがずれて伝わっちゃうと。命の素晴らしさとかそっちの方だと思い込んでる人が多いんですけども、実はかぐや姫の物語の姫の犯した罪と罰っていうのもですね、今回の火垂るの墓に負けず劣らずのえぐい話なんですけど、それは、そのうちかぐや姫の物語をやる時に語ることにしましょう。
以上で分かる通りですね、ちょっと45分になっちゃったんですけども、延長しました。こんなもん。こんなもん。まだ半分も話してない無料の部分。高畑さんはですね、別にトラウマアニメを作るつもりはないですし、それどころか泣かせたり感動させるつもりもないんですよ。考えたり悩んだりして欲しいんですよ。映画について考えたり悩んだりして欲しいんですよ。なんで節子は死ななければいけなかったのかとか、なんでおばさんは意地悪なのかとかですね。なんで清太は死んでしまうのかということを1人1人にもう本当に毎晩考えたり、1年考えたりしてほしいと。もう泣いて思考停止するんじゃなくて、かわいそうとか、ああいう風にしたいっていう風にして思考停止するんではなくて、辛くてチャンネル変えるでもなくてですね、もうそのことばっかり考えて欲しくて、あんな苦労してアニメ作ってるわけですね。文芸とはそういう意味なんですよ、高畑さんにとっては。だから高畑勲、やっぱ観客に甘えすぎ。自分がね、作ったものが何年も人を考えさせるだろうという風に自惚れすぎなところがあります。
で、この辺りのですね、実は俺の作品には考える価値があるんだ、ほら、これ考えたいだろう、なんでか知りたいだろうってテクは、押井守とか庵野秀明の方が本当に何百倍うまいんですよ。正直言って中身は高畑の方が100倍あります。あの辺って中学生が悩むのにちょうどぐらいの作品になってるから、本当にあるんですけど、高畑さんほどの馬鹿正直な中身はないんだけど、なんでだろうって考えさせるテクニックがこの2人はものすごくうまいのでですね、その思ったようにならないんですね。
ということでですね、次はパート3です。火垂るの墓の意味とはですね。火垂るの墓とはどういう風な意味なのか。で、そもそもですね、このホタルっていうのは、2人で暮らし出した時、洞窟で清太と節子が2人で暮らし出した時に、夜、上空をですね、飛行機がですね、ブーンと飛んでく時に、飛行機の明かりがこう本当に微かに点滅してると。で、それを見てですね、清太がですね、特攻、特攻機、これから相手にですね、特攻、自殺攻撃をかける飛行機だって言うと、節子がですね、「ホタルみたいやね」っていう風に言うんですね。で、このように最初からこの作品においてのホタルっていうのは、死ぬ直前に最後の光を放つ存在として描かれてると。で、清太はですね、節子のためにですね、何十匹というですね、100匹近いんでしょうね、ホタルをですね捕まえてきて蚊帳の中に放ちますね。このシーンです。で、このホタルを離した後ですね、構図がロングになるシーンがあるんですけど、これがもうすごい意地悪で、横穴の中に2人でなんかこういてホタルが飛んでるんですけど、ここの柱の梁がですね、ちょうど斜めになってですね、遺影になってるんですね。いわゆる葬式の時に映す写真になってるんですけども、こういうですね、必ずこのホタルの光を出す時とか、光を出してる時は死を暗示させるような映像効果というかな、見せ方してるんですよね。
で、このホタルの飛ぶですね、蚊帳の中で清太は、お父さんが出たですね、観艦式、日本海軍の連合艦隊がその船を見せつける観艦式っていうのを思い出すと。で、夜の光に包まれた連合艦隊の摩耶っていうのは、実はこのお話のもう1年近く前に沈んでるんですよ。つまりこの作品の中で光るものっていうのは、大体全て死んでるんですね。特攻機とかですね、ホタルとかですね、連合艦隊とか全て、そういう死にゆくものだから光って美しいというような描かれ方をしてると。で、これですね、
やっぱすごいのは翌朝描いちゃうとこなんですよ。翌朝、あ、ごめん。これ上下逆さまだった。翌朝ですね。清太が「何してんねん」って言うと、節子が「お墓作ってんねん。お母ちゃんもお墓に入ってんねやろ。うち、おばちゃんに聞いてん。お母ちゃんもう死にはって、お墓の中にいてるねんて」っていう風に節子に言われて、清太はですね、もう号泣してしまうと。このシーンですね、かわいそうさに泣ける人も多いんだけども、なんでそのかわいそうなシーンでですね、こういう映像を映すのかですね。この大量のホタルの死骸を何で見せるのかと言うと、このホタルにとっては実はこの2人もですね、その無慈悲で理不尽なものの存在なんですよ。もちろんホタルっていうのは光を放ち始めたら数日間で死ぬ運命なんですけども、だからと言って自分の慰めのために蚊帳の中に閉じ込められて自由を奪われていいという理由にはならないんですね。ホタルかわいそうやから逃がしてあげようっていう発想は別に節子にもないわけなんですよ。
で、この蚊帳の中でそのホタルが飛んでるシーンは冒頭ともリンクしてます。この冒頭ですね。幽霊となった清太と節子がですね、窓のフレームの向こうに神戸大空襲を見ているシーンですね。これがですね、その神戸大空襲ですね。これがホタルです。火が垂れ落ちてくるからホタルっていう風に書く。火が垂れると書いてホタルと書くんですけども、これもですね、この2人が見てる見え方っていうのは、辛いね、悲しいね、これもホタルなんですよね。だから命が燃えてて綺麗だねっていう視点で見てるんですね。ホタルを蚊帳に放ち、そのお墓を作る。美しくも残酷な遊びしてるんですけども、そういう人間から見た戦争、人間から見たこういう戦争のホタルの風景も、ホタルから見たその自分たちを理不尽に扱うこの兄妹も、等しく残酷で美しいっていう風に描いてるんですね。だから高畑勲は何回も何回も、このアニメを戦争反対がテーマではない、そんなことではないという風にずっと言い続けてると。
じゃあテーマは何なのかですね。テーマは何なのか、パート4で、やっとパート4でですね、無料部分終わりですんで、もうちょっと待ってください。
テーマね、探ろうと思うんですけども、高畑はですね、泣かせる映画が嫌なのと同じく、戦争反対の映画も作るつもりはないと。これ三鷹市のですね、平和集会の講演でも言ってるんですよ。私の『火垂るの墓』を見て感動した、戦争反対っていう人もいるけども、そんなことはないと、そんな効果は全くない。なんでかって言うと、どんなに辛いのを見せてもですね、こんな辛い思いは絶対に嫌だとなったら、だから戦争はしないぞにはならないと。
私は日本人っていうのをよく知ってると。日本人っていうのは、ていうか、あらゆる民族は、こんな辛い思いをしないためにも軍事力が必要だとか、こんな辛い思いをしないためにも、すぐそこにある脅威に対して、ま、普通の国になろうよって言い出す国だと。それが日本であり、それが日本人であるっていう風に、高畑勲ははっきりと何度も言ってると。
なので公式見解ではですね、高畑勲監督が本作品で描こうとしたのは、困難に立ち向かい、たくましく生き抜く素晴らしい少年像ではありません。決して切り開くことができない戦争という状況の中で死ななければならない、心優しい現代の若者の姿です。現代ではデジタル機器が発達し、煩わしい社会生活から離れ、ある程度自分の世界にこもることも可能になったと。そのような時代であればこそ、清太の心情が分かりやすいのではないか。兄妹だけで小さな家族を作ろうとしてる清太に、社会的な繋がりを煩わしく感じる現代の若者との類似性を見出しているということ。しかし戦時中では、その社会的な繋がりを排して兄妹だけで生きることは叶わなかった。そこに悲劇があるとも言えるのです。という風に、ま、高畑さんは言ってるわけですね。
で、これね、どういうことかって言うと、実は冒頭のシーンですね。清太がですね、そのまま野垂れ死にでですね、ちゃんと野垂れ死にかけている清太におにぎりをあげてる人がいるんですよ。
つまりなんか、こんな時代でも、これ清太の主観どっぷりで見てみたら、もうみんな鬼のような人たちで、誰1人助けてくれないという風に思うんですけども、ちゃんと頭を下げてお願いすれば、こんなご飯がない時代に何の見返りもなくおにぎりをあげる人がいるんだよっていうのを1番最初に見せてるんですね。だから、こいつがこうなったのは戦争のせいでもなければ、なんだろう、時代のせいでもないんだよっていう風に、はっきり高畑は冒頭に言い訳ができないようにドンと見せた上で始めてるわけですね。で、なんかこう、戦争が悪いとか、貧しさが人の心を荒ませたという話ではないと。
あと、そのテーマに関して僕気になるのは、なんで母親の霊は出てこないのかっていうことなんですよ。あれほど節子は母親に会いたがってたから、最後幽霊となって兄と会うんだったら、そこに母親も霊になって出てきていいはずなんですよ。であんなにお兄ちゃん、清太が会いたがってたお父さんも出てきていいはずです。もう死んでるんだから。だから最後は親子4人また揃った、だって親子4人で桜の下で写真撮ってるシーンがあるんですよ。だったらば、死んで、なんかこう、彼らには死ぬことしかなかったんですねっていう話なんだったら、そこに別に母親出しても父親出してもいいはずなんですよ。なんで節子と清太の幽霊は2人だけなんでしょうか? これが僕はこの作品のテーマの1つだと思うので、もう時間もないですけど、皆さんのコメントの自由回答をちょっと見ていこう。
「生きてるか?」いや、生きてない。生きてない。[笑い]「両親は生きていた」それもない。「なんで気づかなかったんだ?」そうですね。あんまりこれ気づかないですよね。つまり清太と節子の2人の話見てるから。「親だけ成仏した」ふんふんふん。「清太の贖罪」「えぐい話だ」「死んでもぼっちだから」「残エイリアだから」「両親も引きこもりたいだったから」[笑い]
[息をのむ音]「清太が節子を縛っていた」うん。なかなかいいとこに行きますね。
えっとですね、じゃあ、まあまあ僕の考えるですね、他の、妄想と言ってもいいんですけど、答えの方に行きます。母親のいるですね、ような天国に行けないと。だからと言って地獄に落ちるようなことがないと。こういうのをですね、ダンテの『神曲』ではですね、煉獄という風に言います。煉獄っていうのは囚われる獄っていうことなんですけども、煉獄っていうのは、天国に行けなかった人、行けなかったんだけど地獄にも落ちなかった人の行く中間的なところで、苦痛によって、苦しいことによってですね、罪を清められた後、天国に行く場所という風に、ま、カトリックではされています。で、これ、宗派によるんですけども。
で、清太は煉獄に閉じ込められたので、1988年の現在、映画公開当時の現在でも未だに自分の過去の過ちと、あと死んでいく妹を見せつけられると。だからこの無限の苦悩、高畑さん、これ分かってるんですよ。高畑さん分かっててですね、気の毒にも彼は繰り返すしかないっていう風に描いてるんですよね。かなり冷たい描き方なんですけども、清太は精一杯生きたんだけども、自分の、なんだろうな、最後の苦しみっていうのをずっと見せられていて、気の毒なんだけども、それはもう彼は繰り返すしかないんだっていう風に描いています。で、最初からですね、煉獄に閉じ込められた少年っていうのを冒頭からこう描いているんですね。だから冒頭、1番最初のですね、三宮の駅のですね、現在から始めたと。
で、このアニメの中でですね、清太がまっすぐ観客を見つめるシーンが2箇所だけあるんですけども、これ1番最初の冒頭ですね。「昭和20年9月21日夜、僕は死んだ」っていうとこで、はっきりと観客を見ています。で、もう1つですね、もう1番ラストのラストですね。「もう遅いからお休み」って言うと節子が「うん」って言って、もうこれ両方とも幽霊なんですけど、節子が清太の膝の上で寝ると、膝の上で寝ると清太1回観客の方まっすぐ見てからですね、神戸の町へ目を移すんですね。何を訴えてるのか。なんで節子が起きた時に見ないのか。節子が起きてる時には、実は清太は僕らを見れない理由があるんですね。
これが後半で語るですね、最大の謎解きです。実はこの理由が多分このアニメの中で1番怖いところだと思います。後半はですね、清太を、節子を殺したのは誰か。これはその時代のせいだ、清太のわがままのせいだとか、おばさんのせいだと色々言えることがあるんですけども、じゃあなんで清太は死ななきゃいけなかったのかっていうのが、僕はこのアニメの1番怖いところだと思いますんで、そっちを語ってみたいと思います。
はい、お疲れ様でした。今日の動画ここまでですけども、今回の動画で話したですね、その文芸作品、文芸映画とですね、エンタメ映画の違いなんですけども、エンタメっていうのはですね、作り手が用意したテーマやメッセージを観客に伝えることを最優先してるのに対して、文芸というのはですね、観客1人1人が自分なりの答えを出す、つまり観客は考える。これを優先して作られてる作品のことなんですね。
ただね、こうやって1つの作品について長い時間をかけて自分なりの考え、答えを見つけるという楽しみ方は、今やすごく贅沢なことになってしまったし、今や、なんだろうな、一部の人の楽しみになっちゃってるとこあるんですよね。で、例えば今年の2026年現在ですね、コンテンツはもう唯のように溢れていて、アニメ作品なんかもめちゃくちゃ多いわけですよ。例えば今期のアニメだけでも『攻殻機動隊』もそうですけど、『無職転生』とかですね、爆のジャードガルとか、さよならとかですね、これ書いてとかですね、主な作品だけでももうすごいいっぱいあるんですね。で、限られた夜の時間ではですね、ま、最新のコンテンツをただ消費するだけ、つまり見て、そうだそうだって考えずに受け止めるだけでもう精一杯なんですね。
で、そもそも景気の良かった頃と比べてですね、現代の日本人はですね、自分の生活とか、これから先の人生を毎日、ま、死ぬほど考えてるというか、追い詰められながら考えてるわけですね。だから映画やアニメ見る時ぐらい何も考えずに楽しみたいというのはもうもちろんなんですよ。でもね、ただそういう風にですね、映画やアニメでは何も考えずに楽しみたいを追求した先にあるのはですね、中国製の縦型ショートドラマみたいなですね、ま、噛み応え[笑い]のもう何もないですね、流し込むようなですね、もう本当に飲むカレーみたいなですね、飲むドラマになっちゃうのは分かりきった話ですね。
で、全部がその中国縦型ドラマになる未来っていうのは、僕はちょっとこら辛いなと思うので、お盆前のこの時期ぐらいはですね、ちょっと噛み応えある映画を見てみようよっていうことでですね、『火垂るの墓』と『この世界の片隅に』とかをお勧めしています。ゼミの皆さんもですね、心の中にちょっとでも引っかかりができて、何年後かにまた考えちゃうような映画になればいいなと思います。
さて、今日見てもらったですね、動画の続きですね、有料会員のみ見れるようになってるんですけど、どの話をしてるのかというと、引き続き『火垂るの墓』の話、こっからいよいよテーマの話に入るんですね。で、アニメ監督、押井守さんのですね、証言を引用しながら、『火垂るの墓』について押井さんがどんなこと言ったのかというのを引用しながら、この映画のですね、ま、隠された禁断のテーマについても話しています。最後はですね、主人公の清太が観客の方をじっと見つめる謎のシーンがあるんですけど、それが何かという種明かしもしています。次が見たい人はですね、YouTubeのメンバーシップ、ドワンゴのブロマガチャンネル、どちらかに入会してご覧になってください。それではまた次の動画でお会いしましょう。じゃあまた。バイバイ。
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