中卒からビッグモーターのトップ営業、そしてBUDDICA創業へ 中野優作が語る「欲しかったもの」と中古車業界への挑戦

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概要

街録chの企画「ほしかったものリスト」に、中古車販売会社BUDDICA(バディカ)の中野優作が出演した。出演者が子どもの頃に手に入らなかったものを語り、ギャラの代わりに児童養護施設の欲しいものリストから品物を贈る企画である。聞き手のディレクター・三谷三四郎がオファーしたのは、中野がXに「仕事と家族なら家族を取れ」という趣旨の投稿をしていたのを見たからだという。

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中野は香川の小さな町で居場所のない子ども時代を過ごし、15歳で社会に出た。20代でビッグモーターに入ってトップ営業になり、35歳で退社してBUDDICAを創業する。話は幼少期から始まり、ビッグモーター時代に感じていた違和感、創業の経緯、中古車業界の収益構造への問題意識、そして「初めてお金が欲しいと思った」という最近の出来事まで続いた。

関東で予約が止まらない店舗

収録はBUDDICAの関東の店舗で行われた。中野によれば、関東にはまだ店が少ないため東京などからも客が集まり、平日でも予約が途切れない「一番荒れてる」店だという。この店の敷地は600坪しかないが、2000坪の店舗と同じくらい売り上げており、通常店舗のおよそ2倍にあたると中野は説明した。

自分の部屋がなかった子ども時代

中野が育ったのは香川県さぬき市津田町である。周囲には自営業者、医者、漁師、社長の子どもが多く、家に船があったり家が大きかったりした。自分の家にないものを友達が持っていることは多く、羨ましかったという。

そのなかで一番欲しかったものは「自分の部屋」だった。親の寝室に中野と姉の机が置かれているような間取りで、父親は工場で夜勤をしていたため昼間は寝ている。家に帰ること自体は禁じられていなかったが、静かにしていなければならない。中野は自分をADHDの傾向が強い子どもだったと言い、家でじっとしていられず、テレビもつけられないので外にいるしかなかった。母親はスーパーや保険会社などで働き詰めだった。

居場所のない中野は、犬と遊んだり、堤防に座って海の向こうを眺めたりして過ごした。ドラマ『東京ラブストーリー』で見る都会と、ビルもスーツ姿の人もない自分の町との落差が嫌で、「あっちの方に行きたい」とずっと考えていたという。『家なき子』を見て「この子悲しいけど俺も悲しいかも」と感じていたとも話した。

小学校では気を引こうとして周囲に迷惑をかけ、道路で裸で寝転んだこともあったらしいと本人は振り返る。週末に友達の家を訪ねると、家族で出かける準備をしているところに出くわすことがあり、気まずくて隠れたのをよく覚えているという。一人でシュノーケルを持って海に潜り、魚を獲って帰ると母親に褒めてもらえたので、それをひたすら続けていた。

父が小遣いを削って買った赤いミニカ

近所の家はハイエースなどの大きな車に乗っていたが、中野の家には車がなかった。両親とも職場まで自転車で5分ほどだったので必要がなかったのだろうと中野は推測する。病院に行くときは、母親の自転車の後ろに乗せられていた。

6〜7歳の頃、中野は「うちはなんで車がないんや」と父親にだだをこねたらしい。本人に記憶はなく、3〜4年前に父親に聞いて初めて知った話だという。父親の月の小遣いは500円で、あらゆるものを我慢して2年ほどお金を貯め、真っ赤な三菱ミニカ(3ドアの軽自動車)を現金で買った。車が家に来たのは中野が7〜8歳の頃である。

大人になってこの経緯を知った中野は、親が自分の欲しいものより子どものために優先することがあるのだと感じた。そして「それがもしかしたら俺の中古車の原点なのかもな」と思うようになったと語っている。

IQテストと飲み込んだ進学

東京への憧れにはもう一つきっかけがあった。小学3、4年生の頃に受けたIQテストの結果が非常に高く、ちょっとした騒ぎになった。先生の間で、県内に一つだけある付属校に移るべきではないかという話も出たという。中野はこの話を人前でするのは初めてかもしれないと前置きした。

ただ、進学すれば交通費などで親の負担が増える。中野はそれを察し、行けなくはないのだろうが「行きたいけど行っちゃダメなんだろうな」と飲み込んだ。母親に行きたいかと聞かれ、嫌だと答えたという。三谷が「挫折体験ですね」と言うと、中野は「挫折というより我慢ですよね」と言い直した。能力が及ばなかったのではなく、自分で抑えたということだ。

当時の中野は同級生が「バカに見えていた」と正直に話す。自分の力を抑えていたので、東京に行けば分かり合える友達ができるのではないかと考えていた。学校ではリーダーのように振る舞いながら、家の実態は違う。その落差について、中野は自分を「ハリボテ」だったと表現した。

同じ理由で服も欲しかった。親があまり関心を持たない家では子どもにその辺の服を着せる。一方で周りの子は5000円ほどするミキハウスなどのトレーナーを着ていた。中野はお年玉でブランドの服を買い、それを1年間着ることを毎年繰り返したという。今でこそロゴの大きい服を着る大人を批判する側にいるが、当時はロゴが大きいほど良いと思っていたと笑う。この頃にはすでに、金持ちになって家庭を持ったら子どもに好きなものを買ってやれるようになる、と決めていた。

15歳で社会へ 土木と「割のいいバイト」

早く家を出て自分の部屋を持ちたかった中野は、15歳で学校をやめ、知人の父親が社長を務める土木会社に入った。日当は7000円ほどで、1日中一輪車やスコップを扱う。月にすると最大でも21万円ほどで、これでは金持ちにはなれないと気づいた。土木の仕事は15歳から20歳までと、20歳から25歳までの二つの時期に続けている。

最初の5年間は足りない分を「副業」で補った。周囲の先輩から回ってくる割のいい仕事で、中野は犯罪に触れるものではなかったと断っている。たとえば夜の店を営む先輩に頼まれて店に行き、場を盛り上げる。1日で3万円もらえたうえ、ボトルが開けばキックバックもあった。本人はこれを「ホストじゃないけどホスト的な動き」と表現し、16歳の頃から夜の街に出入りしていた。

18歳前後には携帯電話も売った。当時は端末が0円で、ソフトバンクなどでは契約すると2万円もらえる時代だった。先輩から「1台売ったら1万円やる」と持ちかけられ、知り合いの多かった中野は、高校生たちに携帯を持たせる形で50人ほどに売り、50万円ほどを手にした。店で売れ残ったCDを5枚1000円でまとめて売ったり、古着を安く仕入れて高く売ったりもしていた。

金で集まった仲間と、20歳の「リセット」

お金を持つとブランド品も買えるようになった。子どもの頃は釣り竿やゲームソフトを持っていないせいで仲間に入れてもらえないことがあり、中野は、同じものや人よりいいものを持てば人が集まると考えていた。実際、同級生が学生のうちに稼いでいた中野がおごると人は集まった。しかし集まってきたのは本当に欲しかった仲間ではなく、「俺からお金取ろうとしてるだけじゃん」という人たちだったという。

20歳になれば付き合いで酒や運転を強いられる場面が増えると分かっていた中野は、人間関係をすべて断ち、土木の仕事もやめて数か月大阪へ逃げた。しかし大阪でもクラブで遊び、手持ちのお金は減っていった。

どうしようかと考えていた大晦日、2〜3年ぶりに、自分の部屋のない実家に帰った。久しぶりの帰省なのにおせち料理が用意されていて、中野はほっとした。そして、自分が欲しかったのは夜に派手に遊んだり女性と遊んだりすることではなく、帰る場所だったのかもしれないと気づいたという。

同じ年の成人式では、肩まである金髪で現れ、同級生から煙たがられた。大学や就職の話をする同級生を前に、中野は「かなり高いとこに行ったのに、下りのエスカレーターに俺乗ってた」と感じた。お金は稼げても人望を失っていたという三谷の言葉に、中野は「まさに」と同意している。そこで髪を黒く染めて切り、土木の仕事に真面目に取り組み直した。

3度振られた相手と、ビッグモーターへの転職

妻とは20歳の頃に出会い、一目惚れしてアプローチしたが断られた。その後も含めて3回ほど振られている。理由は中野が「チャラかった」からで、妻からは「根が全く張ってない」「どこにでも行く人に見える」と言われていたという。妻の周りの女性が中野に好意的でも、妻本人は「全然無理」という態度で、電話番号も教えてもらえなかった。

それでも諦めなかったのは、妻がお金や見た目で心を動かさず、周りが欲しがるものではなく自分が欲しいかどうかで判断する人だったからだと中野は言う。自分は子どもの頃から先輩の顔色をうかがい、人に合わせる性格だった。堂々として見えても実は繊細で、HSPの傾向もあるらしいと話した。

20代半ば、土木会社で現場監督として昇進はしたものの、田舎の会社ではそれ以上年収が上がらないと分かった。当時付き合い始めていた相手は、中野より年収が高かった。将来子どもに欲しいものを買ってやるにはお金が要る。そう考えた中野は、26歳で稼げる営業職としてビッグモーターに入った。入社から1年ほどで全国1位のトップセールスになり、店長になる直前に改めて告白した。そのときの返事は「やっと男らしくなったね」というもので、ここから交際が始まった。4年付き合って30歳で結婚している。妻は同い年だ。

「頑張っていい」場所だったビッグモーター

中野にとって車の営業は、10代の頃から持てなかった「本気を出す場所」だった。進学も諦め、何でも手を抜いてやり過ごしてきたが、車は売れば売るほど称賛された。土木では人の2倍の成果を出しても給料は変わらず、成績の悪い年長者のほうが給料が高いこともあった。インセンティブ制の車の営業では、人の2倍売れば給料も2倍になる。

のめり込んだ理由はもう一つある。当時の創業者は、世の中にはメーターを巻き戻したり事故車を隠して売ったりする悪い業者がいる、それをなくすために全国制覇するのだと語っていた。中野が入社した頃のビッグモーターは20〜30店舗ほどで、そこから9年ほどで200店舗を超え、売上は4000億円規模になった。中野はこの時期のビッグモーターを「イノベーター」「雰囲気はベンチャー」と表現し、当時は車に傷をつけるようなことは一発解雇になるクリーンな会社だったと振り返る。社内の労働環境は「クソブラック」だったが、お客さんをよくしようというモチベーションがあったという。

妻もキャリアのある仕事人で、不満は言わなかった。中卒の土木作業員がビジネスマンになっていくのを見るのは「育成ゲームみたい」で楽しいと、今でも話しているという。

社内政治との衝突

20代の中野は自分の会社を持ちたいとは考えていなかった。しがらみが嫌で、会社のナンバー2か3くらいが収まりがいいと思っていた。起業を決めたのは、35歳で退職する1年ほど前である。

足りなかったのは「政治力」だと中野は言う。最初は社内で強い力を持つ人物の下にうまく収まっていた。ところが社長が直接中野に電話してくるようになると嫉妬を買い、中野を追い出そうとする動きが起きた。そこで相手の下に降っていれば残れただろうが、中野は「こんなことやってないで、お客さんのための仕事をさせてくれ」と反発した。子会社の社長に就いたことも引き金になった。グループのイベントでは親会社の社長が最初に挨拶し、子会社の社長が締めを務めるので、ナンバー2のように見えてしまうのだという。

中野は、派閥の下に入ってその人の引退を待つのが一般的な会社の出世の仕方だと認めたうえで、自分はそれができなかったと話す。会社のやっていることが良くないと分かっていたので、政治力がないと悩むより「もうやめよう」という気持ちだった。

車検ランキングと父が受けた見積もり

中野の言う「良くないこと」とは何か。その後ニュースになったタイヤのパンクの件は退社から3年ほど後のことで、中野自身は事件を直接見ていない。ただ、前兆はあったという。当時、車検の平均単価を社内でランキングにして競わせ、下から厳しく詰めていた。車検は法律で内容が決まっているので、本来は誰がやっても差は出ない。それを競わせるのは、ワイパーやタイヤなど必要ないものを車検のついでに売れという意味になる、と中野は説明する。

この被害に、中野の父親が直接遭った。かつて自分が店長をしていた店で父親が車検を受けたところ、以前世話になっていた車屋なら12〜13万円で済むはずの車検に25万円の見積もりが出た。電話を受けた中野は店に抗議した。わずか数年で自分のいた店がこうなるのかと、責任と力不足を感じたという。

同じ頃、中野は大手企業からヘッドハンティングを受けていて、条件も良かった。しかし、そこへ行っても同じことになるのではないかと考えた。株主か社長でなければ、会社が方針を固めたときに止められない。社内で孤立していた中野は、外に出て自分で会社をつくるしかないと判断した。

妻の「決まってるんでしょ」

子どもが生まれたのは、この対立が一番厳しくなった後、中野が35歳のときである。当時の中野は、起業して10年後に残るのは1割ほどだと知っていて、本当に怖かったという。

妻には二つの選択肢を示した。会社に残れば収入はあるが、本意ではない仕事をしなければならない。辞めれば、自分がつくりたい世界のために仕事ができる。どちらがいいだろうと相談すると、妻は「決まってるんでしょ」と答えた。中野は、お金がなくても大切なものを追いかける背中を見せるほうが子どもにとっていいと考えた。「お客さん騙して金儲けてる会社の金で養いたくはなかった」とも話している。

最近になって、中野は勇気を出して妻に当時の気持ちを聞いた。妻は怖くなかったと言い、「やりきる人だって知ってたから」「お金がなくなっても幸せが減ることはないと分かっていたから」と答えたという。中野はそれまで乗っていたポルシェ・カイエンと現行型のベンツから30万円のプリウスに乗り換えたが、妻はまったく気にせず「いいね」と言っていた。

本当は車をやめたかった 仲間が集まった経緯

意外なことに、BUDDICAという社名を決めて創業メンバーが固まり始めた頃も、中野の本音は「車をやめたい」だった。上場企業でも営業利益率が2〜3%程度で、構造的に儲からないビジネスだからだ。自分の才能でマネタイズするなら、不動産など他の業界のほうが確実だと分かっていた。

それでも車を続けたのは、自分が「車業界は面白い」と誘って引き入れた後輩たちがいたからだ。彼らは結婚して子どももいて、「やめるんですか」「やり切りましょうよ」と言ってきた。後に全員がBUDDICAに入っている。

創業時のメンバーは中野一人だった。社員番号1番の渡辺は、かつて中野が別の店から引っ張ってきて面倒を見た後輩だ。仕事帰りに様子を見に来ては、黙って洗車を手伝い、好きなヒップホップをかけて差し入れを置いていった。渡辺にも子どもが生まれたばかりで、中野はずっと誘えずにいた。一人では回らなくなり、自棄気味に「来てくれ」と言うと、その夜に「オッケー出たんで来月から行っていいですか」と電話が来たという。次に来た長尾は、書類仕事が苦手な中野のミスを無給で指摘していた人物で、やがて「手伝っていいよ」と言われて入社した。

社員が50人になるまで、ハローワークに求人を出したことは一度もなく、すべて紹介だったと中野は言う。むしろ席が足りず待ってもらう人がいたほどで、九州出身の人がいるから九州に店を出す、といった形で拠点を広げた。

「好き」より「信用」

中野自身は、会社員時代は嫌われ者だと思っていた。月1回、全国から100人ほどの店長が集まる会議の後、皆がキャバクラへ繰り出すなか、中野は一人でラーメンを食べて帰っていた。友達のいない寂しい男だと思っていたという。

ところが、当時大勢を引き連れて飲みに行っていた人たちが独立しても、元同僚たちはそちらではなく中野のもとに来た。理由を聞くと、仕事の仕方を教えてくれるから、自分たちを切ることはしないだろうから、という答えだった。三谷は、好かれているというより信用されているのではないか、社員の給料を10万円にして自分は100万円を取るようなことをしないと思われているのだろう、と応じている。

実際、中野の給料が会社員時代の水準に戻ったのは2年前のことだという。売上70億円規模だった5期目でも会社員時代のほうが収入は多く、2〜3期目までは社内で一番給料が少なかったのではないかと話す。創業メンバー5人ほどが「俺らの給料を下げてもっと取ってくれ」と言いに来たこともあった。

「流通革命」 見ずに車を買える信用

創業後数か月で、中野は「流通革命」を掲げ始めた。信用と信頼さえあれば、客が現地で車をチェックしなくても「中野さんなら騙さないでしょ」とネットで購入できるようになるのではないか、という構想だ。

この問題意識の背景には、外に出て初めて知ったことがあった。中古車屋として、ビッグモーターを嫌う同業者と付き合うようになると、自分のいた会社がひどく嫌われていたことを知った。途中までは良いことをしていたと思うが、自分は間違っていたのかもしれないと感じ、自分が変えなければという動機になったという。

現在、対面せずに契約する件数は月1000台ほどになっていて、そのうち800台ほどが買い取り、200台ほどが販売だと中野は報告した。月200人ほどが、ズームなどでやりとりはするものの、実質的に車を見ずに購入しているという。

2040年に売上1兆円という目標についても、中野は「1兆円なんてどっちでもいい」と言う。今会社を売れば一生使いきれないお金が入り、自分はそんなにお金を使わない。ただ、客が安心して車を「ポチれる」ほど信用され、体験に満足してもらえれば1位になれる。現在の1位の会社は6000億円規模で、その会社も成長すると考えれば、1位になるには1兆円が必要になる、という逆算だと説明した。44歳の中野は、2040年、58歳での達成を計画している。

2週間密着動画と身の危険

BUDDICAは車、コミュニティ、コーティングなどのYouTubeチャンネルを運営し、どれかが毎日更新されている。以前はビジネスのサブチャンネルで、女子大学生の質問に中野が答える形式の動画を出していた。登録者は15万人ほど、ピーク時の平均再生数は10万回ほどに達し、ビジネスチャンネルとしてはトップクラスだったという。

ところが、この形式を知り合いの経営者たちが次々に真似し、サムネイルまで同じものが量産された。逆に中野が真似していると言われ、AIの台本を読んでいるように見られることも嫌になった。そこで、年商200億円規模の社長の日常を丸ごと、1日だけでなく何週間も出せば価値があるのではないかと考え、2週間の密着動画を始めた。

もう一つの理由は安全である。業界に風穴を開けようとしている中野は、常に命の危険を感じているという。1日中カメラが回っていれば、何かの事件に巻き込まれても潔白を示せる。当時はボディガードも探していた。体の大きいスタッフの北さんが、カメラマン、編集、運転手を兼ね、アメフト経験を生かして中野に危害が及べばタックルする役目も担い、キックボクシングも習い始めているという。

「船の体育館」と100億円

物はすべて手に入った中野だが、つい最近「初めてお金が欲しい」と思ったという。きっかけは香川県の「船の体育館」(旧香川県立体育館)である。丹下健三が設計し、国宝になった代々木の体育館の兄弟建築とされる建物で、県が税金10億円をかけて解体しようとしている。

中野によれば、税金を使わなくても買い取るという申し出は数多くある。解体に10億円かけ、さらに10億円かけて新しい建物を建てるなら、民間の資金で活用したほうが県にお金が落ち、税収にもなる。そうした提案が多方面からなされているのに、「利権で決まっている」と噂されている、と中野は言う。中野がこの問題に声を上げると、地元の人々から「じゃあお前が買ってみろ」「金もないくせに人のふんどしで相撲を取るな」と言われた。

このとき中野は、すぐに動かせる100億円があれば「じゃあ買います、これで文句ないだろう」と言えたのにと思い、悔しかったという。いくら発信力があっても力がなければ救えない、と語った。自分にできることは選挙で応援できる人を通すことくらいだという。県議会には「超大物」がいると言われており、ある政治家の名前が利権の主として噂されているとも話したが、それは自分が言っているのではないと断っている。香川県には国政政党の党首クラスが玉木雄一郎と小川淳也の2人いるが、この件については2人とも触れられないという。中野は玉木と対談したことがあり、玉木も全く話せなかったと述べた。

業界の収益構造を変える

では、今一番欲しいものは何か。中野は「仲間」だと答えた。中古車業界を良くしたい。そのために会社を大きくすることが正解だと考えていて、それ以外のモチベーションは今はないという。

中野が問題視するのは、良い車屋ほど割を食っている現状である。客の多くはカーセンサーやグーネットで安い車を探して見に行くため、業者にとっては安く表示することが極めて重要になる。しかし車には原価があり、ネットで安く出ている車の多くは原価を下回っている、と中野は言う。その場合、オプションを売りつけるか、傷の多い車を出すかしなければ商売は成立しない。

中野によれば、BUDDICAの粗利率は13〜14%ほどで、業界ではこれでも高い。店頭にある水色の80万円ほどの車でも、利益は5〜6万円程度だという。それでも同じ条件で調べると、BUDDICAより安い車が5台、10台と出てくる。中野は、1台あたりの利益が15%を切る商売は世の中でも最も利益率が低い部類で、野菜くらいではないかと話す。しかも車は壊れ、アフターサービスの電話対応などで人件費が出ていく。だから業者が必要な利益を正直に示し、値上げしていかなければ、サービスが悪くなり、騙される被害者が出る、と中野は主張する。実際、前年に売上100億円規模の車屋が倒産し、8億円ほどの債権が残り、代金を払ったのに車が届かないという被害が出たという。「そこそこでいい、やっていける商売にするのが僕の仕事」と中野は言う。

中野は業界の規模にも触れた。自動車産業に従事する人は500万人ほどで、日本最大の就業人口だという。今は新車より中古車の売買台数のほうが多い。多くの産業が人口減少で縮む一方、中古車は不景気で新車が買いにくくなり、車の性能も上がっているため伸びている業界だと中野は見ている。そこで今のポジションを取れた以上、「死ぬまでやりきらないと」と語った。

三谷は以前の取材をきっかけに初めて車を買い、子どもが後部座席で寝ると妻と話す時間になる、音声を集中して聞ける、と良さを語った。中野は、ドライブは人生最高のエンタメであり、今でも一番コスパのいいものだと応じた。

欲しいものリストと子どもたちへ

最後に中野は、ギャラ5万円の代わりに施設の欲しいものリストから洗濯機を選び、残りでコードレスの家電も選んだ。予算を少し超えた分は自分で出すという。選んだ理由は「時短できるものは重要」だからだ。稼いだら時間を買える、と中野は言う。

お金について、中野は、それだけではないが大事だと言う。お金がないと自分を必要以上に低く見積もってしまう。15歳で家を出た後、20万円の給料を使い切り、残り10日間を金なしで過ごしたことは何度もある。電気代が払えなかったときは「死にたくなりますよ」と言い、自己肯定感も大きく下がったと振り返った。

自分の子どもには、稼ぎ方というより「お金も影響力も力も、自分より弱い人を助けるためにしか存在しない。そのために稼ぐんだ」と繰り返し伝えているという。その話をすると、子どもは勉強をしたり、スクワットを始めたりするのだと中野は笑った。