死刑囚の息子二人が互いの事件現場を巡る――和歌山カレー事件と広島連続保険金殺人事件のその後

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概要

和歌山毒物カレー事件で死刑判決を受けた林眞須美の長男・林さんと、広島連続保険金殺人事件で死刑が確定した父を持つ大山寛人さん。二人は街録chの三谷三四郎ディレクターの引き合わせで出会い、講演やキャンプを共にしてきた。今回は二人が互いの地元を回る旅である。1日目は和歌山で林家の自宅跡地や10代を過ごした商店街を歩き、大阪拘置所を訪ねる。2日目は広島で、大山さんの母が亡くなった港、墓、広島拘置所、ホームレス時代に寝泊まりした公園を巡った。車中やホテルの酒席では、二人が加害者家族としての差別、貧困、家族を持つことへの迷いを語っている。とくに大山さんは、自分が被害者遺族でもあるという事情について率直に話した。

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大山さんが語る事件と、途切れた子ども時代

旅は名古屋に住む大山さんを車で拾うところから始まる。大山さんの説明によれば、事件は大山さんが小学6年生のときに起きた。当時は母が海で事故に遭ったのだと思っていた。数年後に父が逮捕され、実際には自宅の浴槽で母を溺死させたあと、事故に見せかけて港に遺体を遺棄していたことが分かった。大山さん自身は父と夜釣りに行っただけのつもりだったが、そのアリバイ工作に利用されていたという。

事件前の暮らしについて、大山さんは「割と裕福な方だった」と振り返る。家は経営者の家系で、父のように不動産会社を経営したいと思っていた。そろばんと習字を習い、試験に通らないと入れない塾の選抜クラスに在籍していた。大学に行っていれば世間でいう青春やキャンパスライフがあったかもしれない、と今でも考えることがあるという。

実際には、高校を3日でやめている。父が捕まったばかりで事件が報道されており、勉強に励める状況ではなかった。「言い訳みたいな話にはなりますけど」と前置きしたうえで、大山さんはそう説明した。中学3年までは親戚のおばの家に住んでいた。児童養護施設に入るには高校入学が条件だったため入学と同時に施設へ移ったが、3日で退学したので施設にも戻れず、ホームレスになった。

北海道の講演会で言われたこと、入れ墨を入れた理由

移動中、二人は北海道で一緒に登壇した講演会の話をした。お寺の関係者と死刑制度について考える入場無料のシンポジウムだった。終了後に二人が来場者へ頭を下げていると、一人の高齢男性が歩み寄ってきた。男性は「加害者の家族は動物と同じ。動物が何を言っても何も伝わらない」という趣旨のことを言ったという。二人の見立てでは、男性は質疑応答があると思って意見を言うつもりで来ていたようだ。帰りの電車で札幌ビールを飲みながら、「いろんな意見があるから真摯に受け止めよう」と話し合ったそうだ。いちいち腹を立てることは「全くない」と大山さんは言う。ただ、2時間も嫌いな人の講演を聞き、交通費と時間をかけて文句を言いに来るエネルギーには驚いたと笑った。

大山さんの体にある入れ墨も話題になった。大山さんは、入れ墨が理由で銭湯に入れないのは差別だと訴える意見を「理解できない」と言う。偏見を持たれることを分かったうえで入れているはずだ、というのがその理由である。そして自分については、偏見があるからこそ入れたと説明した。家族を持たないと決めたとき、絶対に後戻りできない状態にしたかった。入れ墨があれば結婚の挨拶で相手の親に良い印象は持たれないし、子どもを海やプールに連れて行くのにも支障がある。社会的に偏見を持たれることも含めて、後戻りできなくなると考えたという。

夜遅く、一行は和歌山で家賃2万円のルームシェアをしている林さんの家に泊まった。大山さんはなかなか寝つけず、途中で帰ってしまった。ホームレスのころは公園のトイレでも平気で寝られた。しかし自分で家を借りられるようになってからは、あまり綺麗でない場所で寝ることが苦手になったと話している。後に広島のホテルでも、自分は潔癖なのかもしれないと言った。昔汚い場所で寝ていた反動なのか、戻りたくないという思いが強いのか、自分でも分からないという。

和歌山の自宅跡地――500人の報道陣と「ゲームのバグ」のような通帳

和歌山では、まず林家が出かけるたびに寄っていたという夜景の見える場所に立ち寄った。林さんは冗談めかして「100万ドルじゃなくて5000円の夜景」と呼ぶ。家族でここの景色を見てから家に帰るのが習慣だったそうだ。

自宅跡地は普通の住宅街の一角にある。林さんによれば、事件当時はそこに500人ほどの記者が椅子を並べ、人が通れないほどだった。報道陣が3か月ほど行き来したため、周辺のタクシーやホテルが満席になり、「経済効果」まであったという。塀には、書かれた落書きを黄色く塗りつぶした跡が今も残っている。かつては白壁に囲まれた豪邸で、三谷さんは東京なら家4軒分の広さだと驚いた。跡地は現在、市の管理地になっているようだと林さんは言う。一時は公園のようになっていたが、手入れする人がおらず、今も何も建っていない。隣の2軒分ほどが当時は空き地で、そこが夏祭りの会場だった。小学3〜4年生のころ、林さんはそこに穴を掘って地下に秘密基地を作ろうとしていたという。

林さんが語る当時の暮らしは、一般の家庭とはかけ離れている。百貨店の外商が毎週家に来てカタログを見せ、林さんは流行のハイパーヨーヨーを「全部」と頼んだ。両親は宝石や時計を選んでいた。ポケモンは赤・緑・青、それにピカチュウ版までそろっていた。押収された品は今も証拠品として保管されている。再審請求の際、思い出の品を返してほしいと裁判所に申し出たところ、かなりの物が戻ってきた。そのなかにはヴィンテージのロレックスのような時計もあった。祖母の通帳には何千万、何億という「ゲームのバグかっていうぐらいの数字」が並んでいた。父が注文して代金を払ったまま受け取っていない車も何台かあり、すべて没収されたという。

近所付き合いは最初はあったが、だんだん希薄になり、地域ではかなり浮いていたと林さんは話す。引っ越してきたあとも転校せず、前の小学校に通い続けたので、地元に友達はほとんどいなかった。前の学校の友達が家に来て、ゲームをして遊んでいたという。

施設での暮らしとぶらくり丁

逮捕の日、林さんは警察に「2週間分くらい」の荷物をかばん1つにまとめるよう言われた。釣り竿やゲームを持っていこうとすると、「釣りなんかもう一生できない」と言われた。まだ小学生だったので、2週間で元に戻るのだと思っていた。「そしたらこの様です」と林さんは言う。姉たちは報道の内容をある程度把握しており、事の重大さを認識していたと思う、と林さんは振り返った。

林さんが入った児童養護施設は和歌山市中心部にあり、現在は道路の立ち退きでなくなっている。林さんは中学・高校時代、外出許可を取って近くのぶらくり丁商店街で遊んだ。当時は裏原系ファッションが流行っており、ぶらくり丁にはそうした服を扱う店が多かった。月5000円ほどの小遣いを何か月も貯めて服を買ったという。今はシャッター街になりつつあるが、若い世代がもう一度盛り上げようとしているそうだ。商店街では美川憲一の「和歌山ブルース」が流れていた。

施設の生活は裕福だった小学校時代とまるで違った。8人で1部屋の「タコ部屋」で、先に入った者と年上が偉い。先輩に取られるので、お金やお菓子は隠しておかなければならなかった。先輩たちは年下同士に喧嘩をさせ、小遣いを賭けた。林さんは小学生のときに中学生に勝ち、「スーパー小学生」と呼ばれて倍率が上がったという。本人の説明では、無我夢中でやり返していただけだった。以前の対談でも語っていたとおり、人の体に拳を当てることがその後苦手になった。高校ではむしろパシリだったという。女子の間でも殴り合いが多かった。実の父親から性的虐待を受けて入所した女の子は、とにかく男嫌いで男子に暴力を振るっていたと林さんは話している。

子どもたちは見た目をからかい、林さんのニキビは「ヒ素ニキビ」と呼ばれた。「カエルの子はカエル」とも言われた。全身アトピーの友達と一緒によくいじめられたという。高校時代にはインターネットが普及し始め、地域の掲示板に「あの組のあいつが事件の子供だ」と書き込まれた。殺害予告が届いたこともあった。

一方の大山さんが施設にいたのは1週間ほどだった。すでに16歳で施設ではほぼ最年長だったため、標的にされることはなかったという。林さんは高校時代、不良の先輩に盗難バイクの登録番号をやすりで削らされた。夜中に田舎のダムへ部品を捨てに行ったこともあった。部活で遅くなると言えば夜10時ごろまで出歩けたそうだ。

貧困への転落、白アリ駆除の営業

林さんは、嫌なことが続いて施設を脱走した時期に、公園のオブジェの中や障害者用トイレで寝て補導されたことがあるという。社会に出てからも、身元が知られると相手の態度が目に見えて変わった。20年ほど前は加害者家族への理解がまったくなかった。携帯ショップの店員に「失礼ですが、どういったご家庭の方ですか」と聞かれたこともある。だから林さんは、いつでもその時代に戻れるよう心の準備をしているという。最近は野宿や車中泊をしてみているそうだ。家が火事になったり被災したりしても、普段からそうしていれば避難所の窮屈さに耐えられるのではないか、と林さんは考えている。

独り立ちしてからは、ピザの配達と白アリ駆除の営業を掛け持ちした。営業は歩合制で収入が不安定だった。ハローワークで最初に紹介されたのが白アリ駆除の仕事で、面接に受かってしまったという。林さんはヒ素との「因果」を口にした。営業先で「昔、白アリの薬品を使った事件があった」と言われ、「そんなのあったんですね」と返しながら仕事を続けたそうだ。

数年後には、ご飯お代わり自由の定食屋で白ご飯をかばんに詰める自分がいたと林さんは言う。タッパーもラップもなく、トートバッグに直接入れた。それをおばちゃんに見つかったが、優しく見逃してもらったという。そのトートバッグはビームスのものだった。三谷さんに突っ込まれると、欲しい服のために食費を極限まで切り詰めていたのだと林さんは説明した。

大阪拘置所と再審、執行をめぐる不安

林さんは大阪拘置所に、仕事の休みが取れれば月1回ほど面会に通っている。1回の面会は10〜15分だという。初めて来たのは20年以上前で、当時の旧舎は廃墟のような不気味さがあったが、今は病院やマンションのように見える綺麗な建物になった。会話は普通の家族の会話が多いが、再審請求中なので、その情報や裁判の経過も話す。大山さんも広島に住んでいた時期は父のもとに頻繁に通っていた。そのころは「元気にやっとるか」「仕事はどうだ」と、父から質問攻めにされていたという。

車中では再審法改正の話題も出た。林さんによれば、再審開始決定に対して検察が即時抗告し、手続きが長引く問題があった。それを全面禁止にするよう求めた結果、原則禁止になったという。袴田事件でも再審が決まるとすぐ抗告され、身分は死刑囚のままだった。無罪が確定するまで長い時間がかかったと二人は話す。林さんは、間違いがあった時は間違えたと認めて改めるほうがまだましな方向に進むのではないか、と語った。

林さんの話では、大阪拘置所の女性死刑囚は母だけになった。中で自殺があったため、今は監視カメラで常に見られている状態だという。執行の順番がどう決まるのかは開示されない。事件の発生順でもないので、外にいる家族はこれまでの執行のタイミングから予測するしかない。執行もせずに放置し、風化していくのを待っているような印象を受ける、とも林さんは言う。

大山さんの父についても話が及んだ。父はもともと、自分の命をもってしても罪は償えないとして死刑を受け入れていた。しかし大山さんが生きて罪を償ってほしいと願い、控訴した。結果的に死刑が確定し、それから10年以上がたつ。その間に拘禁症状がひどくなってきたと聞いているという。大山さんは、父はもともと死刑を望んでいたのだから、今度は自分が父の気持ちを汲むべきなのかもしれないと考えている。話を聞く限り、精神的にも限界ではないかと語った。

拘置所の前で、林さんはこの旅を「28年を思い出しながら振り返る1日だった」と表現した。大山さんは、すりガラスの向こうの母は息子がこんな近くにいるとは知らないだろう、と声をかけた。その後、一行は林さんの父・健治さん(二人は「KJ」と呼ぶ)を訪ねた。健治さんは大山さんに弁当を差し入れ、見送った。

38歳という年齢、地元で講演をしない理由

広島へ向かう車中で、大山さんは「明日の事件現場も拘置所も久々なので、メンタルが心配だ」と繰り返した。父が事件を起こしたのは38歳のとき、母が殺されたのも38歳だった。大山さんは今38歳である。事件当日の父と同じ年齢になり、同じように車を運転して事件現場へ向かうことに「変な感じ」がするという。母の年齢を超えたくなかった、とも話した。同じ年齢に並ぶと、この年で急に命を奪われたのだと実感する。怖かっただろう、苦しかっただろう、もっと生きたかっただろうと、以前から考えていたことを今まで以上に考えてしまうという。大山さんは「うまく言葉にできない」とも付け加えた。

二人には共通点もあった。林さんは和歌山での講演やトークイベントの依頼をすべて断っており、映画の上映も和歌山だけはしていない。和歌山の人が来ると自分の生活に響くからだという。大山さんも広島での講演は「飛ばしている」と答えた。それでも林さんが和歌山を離れないのは、父が体を悪くして今もそこにいるからだという。母がやっていないと言い続けている以上、ここにいて待っていようと思っている。離れれば、やっていないのに逃げているように見えるのではないか、という思いもあるようだ。

大山さんは墓参りのとき、線香と缶ビールを2本買う。1本を供えて乾杯し、一緒に飲む。母は節約家で、よく発泡酒の淡麗を飲んでいたという。花も供えたいが、誰かが来たと親戚が知ればいい思いはしないかもしれないので控えている。

「energy flow」と母の夢

広島のホテルで、大山さんは久しぶりに母の夢を見たと話した。前夜、林さんは寝るときにピアノ曲を流していた。そのなかに坂本龍一の「energy flow」があった。母の葬儀ではまず「G線上のアリア」が流れ、最後に皆で棺を囲んで見送るときに流れたのが「energy flow」だった。母が好きだった曲でもある。大山さんは神経質で、普段は真っ暗な無音の部屋でないと眠れない。許せるのは猫の寝息くらいだという。その曲を聞きながら2時間半ほど眠っただけで、何年ぶりか分からないほど久々に母の夢を見た。内容は覚えていないという。

大山さんがよく見るのは決まった夢だ。母は殺される直前に「ひろくん」と大山さんの名前を叫んだと聞いている。夢のなかで顔は出てこないが、その叫び声が聞こえて飛び起きることを繰り返してきた。事件以来、ぐっすり眠れたことはほとんどないという。港にはもともと街灯が一つもなく、真っ暗だった。そこがパトカーや救急車、レスキュー車の赤色灯で真っ赤に照らされた光景は、今も昨日のことのように鮮明に思い出せる。辛い瞬間はこれほど鮮明に焼きついているのに、母との楽しかった思い出や母の声はどんどん記憶から抜け落ちていく。それがとても辛いと大山さんは語った。

家族を持つことへの迷い、「フォーマル大山」

飲みながら、三谷さんは大山さんに家族を作ってもいいのではないかと勧めた。大山さんは家族が欲しいと正直に認めつつ、冷静に考えてしまうと言う。自分が受けてきた差別が家族に向くことを考えれば、活動は絶対にやめなければならない。しかし活動は続けたい。大山さんは、自分の事件は発信をやめれば風化する事件だと言う。自分にとっては決して小さな事件ではないが、広島で起きた一つの事件にすぎないからだ。顔と本名を出して活動しなければ、普通の日常を送ることもできたかもしれない、とも話した。

以前の大山さんは、公園で遊ぶ家族連れを見るだけで嫌悪感を覚えていた。なぜ自分には周りに当たり前にあるものがないのかと、妬みや恨みに押しつぶされていたという。覚悟を決めて前を向くようになってからは、恨まなくなり、比べなくなった。家族を失った分、家族への憧れは強い。家族ができたら誰よりも愛し、大切にするだろうし、幸せだろうと思うという。それでも「ま、作らんけど」と大山さんは締めくくった。

酒席では、普段の大山さんと、講演などでの「フォーマル大山」の違いも話題になった。大山さんは裏表があるわけではないと言う。センシティブな話をするので、活動の場では言葉を選んでいるのだと説明した。

母へのプレゼントと、綱渡りの感情

「energy flow」を流しながら、大山さんは葬儀の光景を語り始めた。皆が泣きじゃくりながら棺に一輪ずつ花を添えていくなかで、父が棺の中の母に体を寄せ、「ひろみ」と名を呼んで泣き叫んでいたという。大山さんは親と酒を酌み交わした経験がない。それができるのは母の墓の前だけだ。

大山さんは、母に親孝行できたのは一度だけだと言う。小学生のころ、母の日のために10円玉や50円玉を貯めて約1000円にし、テディベア柄のハンカチを買おうとした。小銭だらけでは店で困ると思い、母に両替を頼んだ。サプライズのつもりで理由を言わなかったところ、「なんでそんなお金を持っているの」と怒られてしまった。大山さんは大泣きして家を飛び出した。公園でひとしきり泣いたあと、団地の商店街でハンカチを買って渡した。そこで母は両替の理由を理解し、泣きながら抱きしめてくれたという。話しながら大山さんは泣き出した。もっと長く生きていてくれたら、もっとできたことがあっただろうと語った。

三谷さんは、大山さんが母に思いを馳せるほど父のことも考えてしまい、父を思えば母への罪悪感が生まれる、と整理した。大山さんはそれを「綱渡りしとるみたい」と表現した。加害者家族であり、被害者遺族でもある。どちらに傾きすぎても落ちてしまう。事件は2000年で、もう26年がたつのに、思い出すとまだ泣けてくる。こういう場面は撮影で見せたくなかった、クールな自分でいたかった、と大山さんは漏らした。

林さんは、そんな大山さんの姿を見て「昔の自分を見てるみたい」と言った。一つひとつに傷つき、それを見られたくないからお笑いに変えたり、ピエロを演じたりしていたという。普通の人と同じように見せることに疲れ、一人でクラシックを聞いていた。音楽は状況と重なると急に胸に響く。冷静になると嫌なことを思い出すので、常に耳や目から情報を入れ、酒でごまかしているとも話した。死刑囚の母に死んでほしくないという感情は、新聞記事の活字になるとどうしても理解されない。映像でもすべては伝わらない。1日2日一緒に過ごせば、この人は悪気なく生きているのだと伝わる瞬間がある。それを感じてほしい、と林さんは語った。

母が沈められた港で

翌日、一行は事件現場の港を訪れた。大山さんが毎回線香を上げている場所で、赤いボックスが目印になっている。許可を得て中を開けると、浮き輪やライフジャケットが入っていた。おそらく当時のものだという。大山さんはあの夜、この浮き輪を持って「お母さん」と叫びながら岸壁を走り回った。ボックスの正面あたりが、母の遺体が遺棄されたとみられる場所だという。

大山さんの説明はこうだ。父に夜釣りに誘われて港に来た。車を止め、大山さんは離れた場所で、父は車の反対側で竿を出した。しばらくして父が大山さんの横に来て並んで釣り、釣れないので車に戻ると母がいなかった。父からは「何かが海に落ちる音はしなかったか」と聞かれた。状況から母は海に落ちたのだということになり、父は近くの公衆電話へ警察に連絡しに行った。その間、大山さんは一人で探し回った。港側には街灯がなく、深夜は3メートル先も見えないほど真っ暗だった。大山さんは、母は車の助手席を倒して眠っているだけだと思っていた。数時間前まで一緒に食卓を囲んでいた母が、亡くなった状態でそこにいるとは思いもしなかったという。

父の車はパジェロだった。車体の前方を海側に向けて止めてあり、助手席のドアを開けて降りれば海に転落する位置だった。大山さんによれば、誤って助手席から降りようとした母が海に落ちたように偽装していたのだという。

殺害の詳細は、前日の車中で父から聞いた話として語られていた。大山さんが寝た後、両親は晩酌をしていた。父は睡眠導入剤入りの酒か何かを飲ませ、眠ったところで殺そうとしていた。しかし朦朧とした母が一緒に風呂に入ろうと言い、二人で湯船に浸かった。母は「あったかいね」と言いながら父の胸にもたれて眠った。父は抱きしめたまま母を湯に沈めた。途中で目を覚ました母は「なんで」と言ったが、後に引けない父は力ずくで沈め続けた。母は最期に「ひろくん」と叫んだという。

葬式で泣き叫んでいた父の涙は何だったのか。事情を知ってから、大山さんには憎しみや怒り、言葉にできない感情が込み上げてきた。裁判では連続保険金殺人事件として死刑判決が出ており、世間的にはそれが真実なのだろうと大山さんは言う。ただ、自分は父が語る事件の真相を信じている。仕方なかったとも思えず、許すこともできないが、恨む気持ちはここで終わらせるとしか言いようがない。大山さんは「許すことは絶対できない」と重ねた。

港は父とよく釣りに来た場所でもあった。大山さんが釣ってきたキスを母が天ぷらにし、一緒にちくわの磯辺揚げも作ってくれた。その磯辺揚げが食べたくてキス釣りに行っていたほどだという。林さんも線香を上げた。林さんは、互いの現場に行くと何と言葉をかけていいか分からないと言う。大山さんは、今日は皆で来ている分、逆に自分を保てるかもしれないと答えた。

墓、広島拘置所、そして「リビング」だった公園

母の墓には、母の日が近かったので紫系のカーネーションを供えた。母が紫系の色を好きだったからだという。大山さんは、以前と違うことをすると「前はこう言っていた」と揚げ足を取る人がいて、それが嫌だとも話した。

広島拘置所を訪れるのは4年半〜5年ぶりだという。父の死刑は2011年6月7日に確定した。それから約10年後の2021〜22年ごろに手紙のやり取りが止まり、以来来ていない。もう一度面会しようという気持ちになることはないと大山さんは言う。会いたい気持ちを押し殺してきた時間が、すべて水の泡になってしまうからだ。

続いて、ホームレス時代に寝泊まりした公園に向かった。自然に囲まれた住みやすい住宅地で、母が子どもに良い環境として選んだのだろうと大山さんは言う。公園の一角を、大山さんは笑いながら「リビング」と呼んだ。友達にもらった大きめのバスタオルのようなブランケットを床に敷いて寝ていた。定期的に来る清掃のおじさんとは時間をずらした。坂を下った先の商業施設で試食のウインナーなどを食べてしのぎ、閉店するとまた戻ってきた。そんな生活が1年から1年半ほど続いた。途中から友達が買ってくれたボーダフォンのプリペイド携帯を持っていたが、こちらからは発信できなかったという。当時水を飲んでいた水道は新しくなっていた。大山さんはかつて寝ていた場所の鉄棒で懸垂をしてみせた。

平和記念公園で旅を終える

最後に立ち寄った平和記念公園で、大山さんは小学校の思い出を話した。広島の小学校ではクラス全員で千羽鶴を折り、原爆の日に持っていく。だから広島の人で鶴を折れない人はいないと思う、と大山さんは言う。二人はお守りを買い、大山さんは林さんと色違いで揃えた。

撮影の最後に、三谷さんは二人に新しい企画を持ちかけた。街録chで二人の曲を作り、二人に歌ってもらう。ギターが弾ける林さんには演奏も頼みたいという。制作費がかかるため、支援を募るプロジェクトにしたいと三谷さんは説明した。最終的には1本のVTRを流したあとに二人が歌うイベントを想定しているが、会場はまだ当たっておらず、来年の今ごろに向けて進めていくという。林さんと大山さんは引き受けた。