『ファースト・マン』は月着陸の映画ではない:岡田斗司夫が読む「死の象徴としての月」とニール・アームストロング

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概要

アポロ11号の船長として人類で初めて月に降り立ったニール・アームストロングは、月着陸後はNASAに命じられて最低限のインタビューを受けただけで、2012年8月に亡くなるまで自分が何を感じたかをほとんど語らなかった。岡田斗司夫は、デイミアン・チャゼル監督の映画『ファースト・マン』を、その「語らない男」がなぜそうなったのかを描いた作品として読む。岡田によれば、この映画はアポロ計画や月着陸を描いた映画ではない。1961年に2歳の娘カレンを亡くしてから、1969年に月に着陸するまでの8年間を切り取った、一人の男の物語である。

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この回は2019年2月17日配信の岡田斗司夫ゼミ第269回を再編集したもので、中秋の名月に合わせて公開された。元の放送時点で『ファースト・マン』の興行成績は公開第1週で8位と振るわず、IMAXで観られる劇場も減っていた。岡田は、あと10日ほどで上映が終わってしまうだろうと見て、見どころをストーリーごと話してしまうと宣言している。昔の関西の映画評論家・浜村淳が映画の筋をほとんど全部しゃべっていたのと同じやり方だという。映画とは別の角度から、実際のアポロ計画の史実を交えて事件を語る「番外編」という位置づけである。

なお岡田は当初、「ファーストマン」のアームストロングと「セカンドマン」のバズ・オルドリンの両方を話すつもりだった。しかしレジュメを作っているうちにオルドリンまでたどり着かないと分かり、この回はアームストロングだけに絞ったという。岡田は、調べれば調べるほどニールは正直それほど面白い人物ではなく、オルドリンのほうが面白すぎると話す。そのうえで、ニールがなぜ面白みのない、自分を語らない人物になったのかを描いている点に、この映画の面白さがあると見ている。

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月は死の象徴、穴は墓:映画を読むための鍵

岡田は『ファースト・マン』を、文学性が強く、考えながら観ないと分かりにくい映画だと評する。最初のほうで起きる娘の死と月着陸がつながっていることは、全部観て初めて分かるという。そのつながりを読み解くヒントとして岡田が挙げるのが、映画に何度も登場する月である。

岡田によれば、太陽が生命の象徴であるのに対し、月は死の象徴である。これは西洋文学に限らず、東洋でもスタンダードな見立てだという。例として岡田は『エヴァンゲリオン』で綾波レイが月を背にして現れる場面を挙げ、『機動戦士ガンダム』のマ・クベ(字幕では「マル田」)も同様だと言う。月を背負って出てくるキャラクターは死ぬのだと、オープニングの時点で分かるというのである。

『ファースト・マン』でも月は死の象徴として出てくる、と岡田は読む。冒頭、ニールは2歳の娘と二人で月を見上げる。娘が死んだあとも、月だけがニールを照らし続ける。ニールが死にかけるたびに月が見え、月を見上げる場面が挟まれる。岡田はこれを、月が「早くこっちへ来い」と呼んでいるように撮られていると解釈する。死から逃れたと思って見上げると、月が恨めしそうにじっとこちらを見ている。そういう構造だという。そして最後、ニールはその死の象徴である月へ自分から向かっていき、着陸してその上を歩くことになる。岡田はこの映画を、そんな男の不思議な話としてまとめている。

もう一つのメタファーが「穴」である。カレンの葬儀の場面で、映画は棺が墓穴の底へ下ろされていくのを見つめるニールだけを映す。岡田によれば、これ以降、映画の中では穴が常に死のメタファーになる。穴があるとニールはそこを見てしまい、その穴は人を埋める穴として描かれる。

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デイミアン・チャゼルという監督

岡田はチャゼル監督を、宮崎駿のエンターテインメント性と高畑勲の文学性を両方持つ珍しい作家だと位置づける。クリストファー・ノーランはチャゼルを強く意識していて、最も評価すると同時にライバル視している若手の筆頭だろう、というのが岡田の見方である。1970年代にスティーブン・スピルバーグやジョージ・ルーカスが出てきたときのような存在だと捉えてよい、とも言う。

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X-15の背景:戦後の軍縮と陸海空軍の縄張り争い

映画の冒頭には実験機X-15が登場する。岡田はこの機体の事故そのものは前回話したとして詳しくは触れず、その背景にあった軍の事情を説明する。

岡田によれば、第二次大戦が終わると、アメリカ軍は予算がかかるという理由で縮小されかけた。海軍は巨大な空母や戦艦を何十隻もキャンセルされた。陸軍航空隊は爆撃機の発注を失い、航空機メーカーはジュラルミン製の家庭用流し台やプレハブ住宅を売って生き延びようとしたが、倒産が相次いだ。陸軍航空隊は戦後アメリカ空軍として独立し、海軍に次ぐ大きな組織になる。

ところがソ連との冷戦が始まり核ミサイルが生まれると、空軍はどんどん巨大化した。地下のサイロの蓋が開いて飛び出す戦略核ミサイルは空軍の管轄である。岡田の説明では、陸軍は陸上の兵器として、飛来する敵機や爆撃機を迎え撃つ地対空ミサイルまでしか持てず、相手国まで届く爆撃機やミサイルは空軍の担当という仕分けになっていた。

海軍はこれに対抗して、弾道ミサイルを縦にぎっしり積んだ原子力潜水艦を考え出した。岡田は例としてアンドリュー・ジャクソンの名を挙げている。本土から撃つ大陸間弾道ミサイルは開発が難しく、基地の場所も知られているため真っ先に狙われる。原子力なら半年ほど潜りっぱなしでソ連に近づけるので、射程の短いポラリスミサイルでもモスクワに届くのではないか、という発想だったと岡田は説明する。

打つ手がなかった陸軍が考えたのが、原爆を撃てる大砲「アトミック・キャノン」だった。岡田はニューメキシコのホワイトサンズで実物を見てきたという。ドイツと日本を降伏させたのは敵と戦って占領した陸軍の力であり、陸軍はドイツ占領時に確保したヴェルナー・フォン・ブラウンのチームにアラバマ州ハンツビルでミサイル研究までさせていた。しかし、ソ連まで届く巨大ミサイルの開発は陸軍には許されなかった。岡田によれば、1957年にソ連がスプートニクを打ち上げるまで、この不毛な争いのせいでフォン・ブラウンのチームの開発は進まなかった。その間に空軍が宇宙へ縄張りを伸ばそうとして作ったのがX-15だ、というのが岡田の整理である。

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X-15事故とエドワーズの干上がった湖

ニールはX-15のテスト飛行中、自動操縦装置の故障で機首が上がったまま大気圏に入ってしまう。本来は水平かそれ以下の姿勢で入らなければならない場面だった。岡田は、ニール以外のパイロットならおそらく死んでいたと言われている、と紹介する。ニールはぎりぎりでX-15をエドワーズの干上がった湖の底に着陸させた。太古には塩湖だった場所が乾き、平坦な地面が地平線まで続いている。

岡田は、このエドワーズの凸凹した地面が、ラストシーンの月面と映像的に韻を踏んでいると指摘する。死を逃れたと思ったら、乾いた湖の底という死の世界が広がっている。映画はこのように、常に死と隣り合わせのニールの8年間を扱っているという。

14:51

娘カレンの発病と、テストパイロットの日常

映画では順番が入れ替えられているが、岡田によればX-15事故の10か月前、1961年6月に、2歳のカレンは公園で転んだ。偶然の転倒だったが大きなこぶができ、その日から目が見えなくなった。

当時ニールは、シアトルのボーイング社の工場で、空軍がX-15の次に開発していたX-20ダイナソアに関わっていた。ミサイルの先に付け、宇宙まで行って折り紙のような機体で帰ってくる計画だったと岡田は説明する。岡田自身も昔訪れたというボーイングのエバレット工場は、ワンフロアとしては世界最大で、ジャンボジェットを6機同時に組み立てられ、工場の中にハンバーガーショップが14軒あったという。ニールは平日はこの工場に詰め、週末だけカリフォルニアの家族のもとに帰る生活をしていた。

カレンはカリフォルニアで検査を受けたあと、シアトルの専門病院を紹介された。そこで脳に空気を送り込んで膨らませ、X線写真を撮る検査を受けた。当時としては最新で、子どもにとっては非常につらい検査だったという。診断は脳幹腫瘍で、平均余命は1年半とされ、脳にX線を直接当てる治療がすぐに始まった。

その間もニールは、シアトルでX-20の開発に携わりながら、カリフォルニアに戻ってX-15やF-104のテスト飛行を続けていた。岡田は、当時のジェット機やロケット機のテストパイロットの死亡率は24%と言われていたと紹介する。1回のテスト飛行ごとに4分の1近い確率で死ぬという意味だと岡田は説明し、ニールはそういう飛行を毎週のように何年も続けていたと言う。死の寸前から戻るテスト飛行の合間に帰ってきて、あと1年ほどで死ぬかもしれない娘をあやし、抱く。その間にもカレンは歩けなくなり、話せなくなっていった。

4歳の長男リッキーは妹に何が起きたのか分からなかった。両親は急にふさぎ込み、妹は寝たきりになる。リッキーは苛立って家で暴れるようになり、映画でもこの点はきちんと描かれているという。夫は週末しか帰らず、娘は良くならず、息子は粗暴になっていく。こうしたストレスの中で、妻ジャネットは夫に不信感を抱き始める。ここまでが映画の冒頭5〜10分あたりだと岡田は言う。

ニールは、自分がテスト飛行で毎週のように死にかけていることを、一度もジャネットに話さなかった。何か月もつか分からない娘より先に夫が死ぬかもしれないと知れば、ジャネットは耐えられないだろうと考えたのだろう、と岡田は推測する。

19:40

カレンの死と「悲しんで見えない」父

カレンは一時的に持ち直したが、すぐに悪化した。ニールとジャネットはコバルト線治療を決断する。脳の最も奥にガンマ線を強く深く当てる方法で、命は延ばせるかもしれない代わりに、体の障害は永久に残り、増えていくという。そうして6月から年末まで命をつないだが、クリスマス前に医師たちは、これ以上の治療はせず家族と過ごすほうが本人にとって幸せだと告げた。

一家はカリフォルニアに建てた丸太小屋のような家でクリスマスを過ごした。カレンはもう歩くことも話すこともできなかったが、何度か笑うことができ、少しだけ良いクリスマスになったという。年が明けると病状は悪化し、1962年1月28日、公園で転んでからわずか6か月後にカレンは亡くなった。

葬儀の日について、友人のウォーカー家の妻グレース・ウォーカーが証言を残している。ジャネットはひどく取り乱して悲しんでいたが、ニールは少しも悲しんでいるように見えなかった。どこまでもクールで、客のカクテルが切れていないか、食事は足りているかと世話を焼き、暇があると外を眺めていた、という内容である。映画はこの「悲しんで見えないニール」を描きつつ、先に触れた墓穴の底を見つめる場面を置いている。

22:22

仕事への逃避と、死を運ぶことへの恐れ

カレンの死からわずか1週間後、ニールは仕事に復帰した。ジャネットは行かないでと頼んだが、後にジャネット自身が、ニールは逃げるように仕事に戻ったと語っている。復帰の翌日には上層部にテスト飛行をさせてほしいと申し出た。娘のことを気遣われても、飛びたいと言って、4分の1の確率で死ぬような飛行を繰り返す日々に戻った。その後は1か月の出張でシアトルに行き、X-20の開発にあたって、ジャネットとはずっと顔を合わせなかった。

一家が少し平和を取り戻したように見えたのは、カレンの死から2か月後の4月、オハイオ州のワパコネタ(岡田は現地のインディアンの言葉だと説明)の牧場で休暇を取ったときだった。岡田によれば、この休暇は映画冒頭のX-15事故の直後である。ニールは宇宙へ弾き飛ばされかけてなんとか帰還し、モハベ砂漠に機体をねじ伏せるように着陸させた。そのまま休暇に入り、死にかけたことは家族に言わなかった。

その牧場で、伝染病か何かで子羊が死んだ。一緒に休暇を過ごしていたニールの妹ジューンが異様に感じたのは、ニールが羊のいる小屋に決して近づかなかったことだった。それまでそんなことはなかったのに、家族が何度呼んでも、まるで自分が死を伝染させると思い込んでいるかのように近寄らなかったという。

岡田はここからニールの心理を読む。自分が死ぬことはまったく恐れず、4分の1の確率で死ぬ飛行を何度も繰り返す人なのに、誰かが死ぬことには極端に過敏になっていった。自分が死を逃れるたびに誰かが死ぬのではないか、あるいは誰かが身代わりに死んでくれたから自分は生き残っているのではないか。カレンの死後、X-15で生き延びたニールは次第にそう考えるようになった。これは妹ジューンたちの見方である。ジャネットにはそれが分からず、後になって辻褄が合ってきたのだという。映画もこれを断言せず、少しずつ匂わせる形で進んでいくと岡田は言う。

25:47

ガガーリン、キューバ、そしてジョンソンの「締め切りを延ばす」提案

話はさかのぼり、カレンが転ぶ2か月前の1961年4月に、アメリカの歴史を変える出来事が起きた。一つはガガーリンの地球周回である。第二次大戦で科学の力によってナチス・ドイツと日本を破り、世界一になったと油断するほど自信を持っていたアメリカにとって、科学でソ連に負けたことはプライドをへし折られる事件だった、と岡田は語る。さらにその3日後、岡田が「有名なキューバ危機」と呼ぶ事態が起きる。膝元のカリブ海の小島が、今後はアメリカではなくソ連と付き合うと言ってアメリカを見捨てたのである。

発足したばかりのケネディ政権はパニックに陥った。岡田によれば、ケネディは手当たり次第に人を呼び出し、アメリカが世界一に見える方法を考えろと命じた。そこで副大統領リンドン・ジョンソンが出したのが、「締め切りを延ばす」という意外な案だった。

ジョンソンの論理を岡田はこう再現する。ソ連との科学力の差はどうしようもなく、2〜3年で何とかしようとする短期目標は全部負ける。だから短期目標はやめる。長期目標なら、アメリカが本気で開発と研究を進めれば、5年後、10年後には圧倒的な経済力で勝てる。1961年も1962年も勝てないが、ケネディの1期目の終わる1964年には成果を出せる。再選されれば任期は1968年まであり、その頃にソ連に逆転勝利できる目標は月着陸しかない。

なお岡田は、当時言われた「ミサイル・ギャップ」は実際にはそれほど大きくなく、ジョンソンや軍部が自分たちの勢力を拡大するためにソ連の科学力を大きく見せたものだったと、1990年代から21世紀にかけて言われるようになった、とも補足している。ただ、当時はそんなことは分からなかった。

ケネディはこの提案に乗り、わずか2週間後の5月に議会で演説し、60年代末までに人間を月に送り、無事に帰還させると宣言した。ここでアポロ計画が始まった。岡田が強調するのは、マーキュリー計画が終わってジェミニ計画、アポロ計画と順に始まったのではなく、1961年の時点で三つが一つの大きな計画として同時にスタートしたという点である。その流れで岡田は、映画『ドリーム』の邦題に付いていた副題「私たちのアポロ計画」が「あれはマーキュリー計画だ」と一部のマニアに攻撃されて変更された件に触れる。ジョン・グレンが打ち上がった時点でアポロ計画はすでに始まっていたのだから、あれはアポロ計画の一環で構わない、というのが岡田の考えである。

30:45

ジョン・グレンの熱狂とニールの転身

ジョンソンの予想どおり、1961年のアメリカは負け続けた。5月にアラン・シェパードを乗せたマーキュリーカプセルを打ち上げたが、地球周回はできず弾道飛行で落ちてくるだけだった。7月のガス・グリソムも同じく弾道飛行である。周回軌道に乗せられるアトラスロケットは、実験のたびに爆発する不安の残るものだった。

年が明けて1962年2月20日、カレンの死から約1か月後に、ジョン・グレンがアメリカ人として初めて地球を3周した。岡田によれば、このときのアメリカの熱狂はすさまじく、史上最大と言われたリンドバーグのパレードを上回った。アポロ11号の帰還パレードも含め、その後ニューヨークで開かれたどのパレードもグレンほどではなかった、と岡田は語る。

娘を失い、自分だけがX-15の事故から生き残ったニールは、すぐにジェミニ計画の宇宙飛行士に志願する。娘の発病後も毎週シアトルに通って携わっていたX-20ダイナソアは、マーキュリー計画の成功で打ち切りが決まった。空軍はもう宇宙に行けないことがはっきりし、ジェットパイロットとしてはこれ以上のキャリアアップは望めない。時代は宇宙飛行士こそ真のパイロット、真のヒーローだと言い始めていて、グレンの地球周回がそれを証明してしまった、と岡田は説明する。ニールは4月に応募し、書類は少し遅れて届いたが、NASAは大目に見て受理した。

選考:隔離テストと数え歌

応募後、返事は来なかった。代わりにいきなり、ニューメキシコ州アルバカーキのラブレース・クリニックで検査を受けるよう指示された。極秘で誰にも言うなと言われ、ジェミニ計画と関係があるのかと聞いても答えはない。岡田も前年に偶然訪れたというこの病院で、ニールは非常に精密な身体検査を受けた。

その後モハベ砂漠に戻ってF-104のテスト飛行を何回かこなし、フランスでの会議に出張し、帰国するとまたX-15のテスト飛行が待っていた。今度はX-15の最大速度に近いマッハ7.5まで出せという指示で、そこまで加速したとき、コックピットに煙があふれ出した。どこかが燃えているのに、どこか分からない。ニールはなんとか着陸させ、また死にかけた。

その直後に受けたのが心理テストである。岡田によれば、特に全員がつらいと言っていたのが隔離テストだった。窓のない鉄の小部屋で、音も光もなく、感覚が一切遮断される。自分が立っているのか座っているのかも、何分、何時間経ったのかも分からなくなり、数分で強い不安に陥ると言われる。2時間経ったと思ったら自分で出てこいと指示されるのだが、ほとんどの人は30分や45分で出てきてしまい、丸一日いたと思ったのにと驚いたという。

ニールはきっちり2時間で出てきた。どうやったのかと聞かれ、「下宿のベッドに男が15人」を歌っていたと答えたという。岡田が調べたところ、アメリカには「ベッドにボーイスカウトが10人」という数え歌があり、「ロールオーバー、ロールオーバー」と詰めていくうちに一人ずつ落ちていく内容だという。当時の大学生の間で、それが「下宿のベッドに男が15人」という替え歌になっていたらしい。ニールは1回あたり数分で収まるこの歌を何十回と繰り返し、ほぼ2時間ぴったりで出てきた。

岡田はこのエピソードに、ニールの「自分を見失わない」性格を見る。他の候補者が冷静さや平気さをどうアピールするか考えている中で、ニールは「要するに2時間ぴったりで出ればいい」とだけ考えた。数を数えるとペースが狂うから、一番よく知っている歌を繰り返そうと判断した。こうした度胸と落ち着きが認められ、8月の最終選考に残る。何百人もいた応募者は32人に絞られていた。

マックス・ペックとニュー・ナイン

ニールが応募したのは第2期の宇宙飛行士で、枠は9人、通称「ニュー・ナイン」である。32人の段階では誰が選ばれるか分からず、ニールは候補者を招いたパーティーに出たあと、またモハベ砂漠でのテスト飛行の日々に戻った。

9月、ついにヒューストンへ来いという電話が入る。9月15日までに極秘でヒューストンのライス・ホテルに来ること、チェックインではアームストロングと名乗らず「マックス・ペック」という偽名を使うこと、という指示だった。ライス・ホテルでは数日前から、体格のいい男が次々と「マックス・ペックです」とチェックインし、同じ名前の男がすでに8人泊まっていた。最後にニールが到着したとき、アルバイトの青年が支配人に、ソ連のスパイではないかと報告した。支配人はこのことは誰にも言うなと口止めし、以後マックス・ペックの対応は支配人が直接担当することになった。そのせいでかえって従業員全員に何かおかしいと知れ渡ってしまった、と岡田は笑いながら紹介する。

9月15日に9人がそろい、翌16日にヒューストン大学の講堂で記者会見が開かれて、第2期宇宙飛行士が公式にお披露目された。

39:38

エリオット・シーとエド・ホワイト、月を見上げるニール

ここでニールは、数少ない親友となる二人に出会う。一人はニールと同じ民間人出身のエリオット・シー、もう一人は、ヒューストンに引っ越してから道路を挟んだ向かいの家に住むことになったエド・ホワイトである。エリオットにはカレンと同じくらいの年頃の娘がいて、ニールはその子をかわいがり、両家とも家族ぐるみで付き合った。互いの家で晩ご飯を食べ、ビールを飲み、毎晩のように遊びに出かけた。親しい人間を作らないニールにしては非常に珍しいことだと岡田は言う。それでもこの二人は、ニールに娘がいたことも、その娘が病気で死んだことも最後まで知らなかった。

ニールはことあるごとに庭へ出て、月ばかり見ていた。エリオットはそれを不思議に思った。二人で散歩していたとき、ニールは月明かりに照らされたブランコの前で急に立ち止まった。それはカリフォルニアの丸太小屋の前にあった、カレンがよく遊んでいたブランコにそっくりだった。見上げれば、月が死の世界へ誘うように照らしている。ニールは一方的に散歩を切り上げて家に帰った。後にエリオットは、このときのニールを「何かに取り憑かれているみたいだった」と語っている。

岡田はここに、映画の構造を重ねる。ニールは月、つまり死の世界に取り憑かれ、死に近づいては辛うじて逃れる。そのたびに、ニールにとって大事な誰かが死ぬ。そして、その「大事な人」がもうすぐ自分のことになるとは、このときのエリオットはまだ気づいていなかった。岡田はそう語っている。

42:36

マーキュリーからジェミニへ、そしてガス・グリソム

訓練は1962年から63年までの2年間続き、その間にマーキュリー計画は終了した。1964年には無人カプセルの打ち上げでジェミニ計画が始まる。

岡田によれば、1人乗りのマーキュリーの目標は人間を宇宙に飛ばして生きて帰すことだけだった。宇宙飛行士は計器を見てもいいが触るなと言われ、操縦装置もついていなかった。回転させられ酸素不足にされながらスイッチ操作の訓練をしたのは何のためだったのかと抗議しても、NASA幹部は「見て報告しろ、計器の読み取りはテレメトリで本部に届いている、生きて帰ることが目的だ」と答えたという。後にジョン・グレンらがストライキまで起こし、窓や操縦装置を要求したことで、後半になってようやく窓などが付いた。これに対しジェミニ宇宙船はロケット噴射で自由に飛べ、大気圏突入もパイロットの判断で行える。

この頃、アポロ計画では月軌道ランデブー方式が採用された。地球から運んだ重い宇宙船の大部分を月周回軌道に残し、軽い月着陸船だけで降りる。帰りは月から上昇して、月を高速で周回している司令船に近づき、ドッキングしなければならない。地球からの電波が届かない月の裏側で行う場合もある。この非常に難しい操作を練習し実験するのが、ジェミニ計画の最大の目的だった。岡田は、かつて自身がプロデュースした科学博物館シリーズのフィギュアを見せながら、細長いアジェナ標的衛星の後部に、後にニールが乗るジェミニ8号がドッキングする仕組みを説明している。

ランデブーの難しさを詳しく説明するのは、ランデブーとドッキングの専門家だったバズ・オルドリンを扱うときにしたいと岡田は言う。その予告として一つの逸話を紹介している。オルドリンが同僚の家を訪ね、奥さんが遠回しに帰ってほしいと伝えるつもりで「主人はまだ帰っていません」と言ったところ、オルドリンはそのまま居座り、4時間にわたってランデブーとドッキングの数学的講義を続けたという。岡田は、相手が聞いているかどうか関係ないのは宮崎駿と同じだと笑う。

有人のジェミニ3号がようやく打ち上がったのは1965年で、船長はガス・グリソムだった。オリジナル・セブンの一人であるグリソムは、ジェミニ宇宙船の開発・設計にほぼ一人で宇宙飛行士として関わり、「ガスモビル」と呼ばれるほどだった。アポロ宇宙船の設計にも参加していた。ニュー・ナインの面々はすぐに察した。NASAは、ジョン・グレンが引退した今の国民的英雄グリソムを月着陸の船長に決めたのだ、と。岡田によれば、それは事実で、NASA上層部は最古参で貢献度も最も高いグリソムこそ人類初の月着陸者にふさわしいと考えていた。ジェミニで飛ばし、ジェミニ後半でもう一度飛ばし、アポロ1号に指名し、アポロ8〜10号あたりの具体的な月着陸ミッションに乗せる構想だったという。ニールたち第2期の宇宙飛行士は、それを知って落胆した。

無料パートはここで終わる。映画の前半1時間ほどしか語れていないと岡田自身が認め、後半は巻いて最後まで話すと予告して締めくくっている。

49:31

放送後の補足:チャゼル監督のその後

再編集版の末尾で、岡田はチャゼル監督のその後を補足している。2016年にジャズドラマーの映画『セッション』で注目され、翌2017年に『ラ・ラ・ランド』でアカデミー監督賞を受賞し、2018年に『ファースト・マン』を撮った。3年連続で公開していることから、『セッション』の仕上げ段階ですでに次の撮影に入っていたはずだと岡田は見ている。『ファースト・マン』は日本での興行はいまひとつだったが、海外での評価は非常に高いという。

その後チャゼルの名前をあまり聞かなくなったのは、1920〜30年代のハリウッドを舞台にした『バビロン』が興行的に大失敗したからだと岡田は言う。同じハリウッドものでも『ラ・ラ・ランド』のようなロマンチックでほろ苦い要素がなく、猥雑でえぐい内容をコメディに振ったものの笑いにくかった。公開週にアメリカを大寒波が襲い、観客が映画館に行けなかったことも一因のようだという。ただし次回作は、1940年代のアメリカの刑務所を舞台にした心理ドラマとして準備が進み、撮影も終わっていると聞いているそうで、岡田は『ショーシャンクの空に』のようなものを期待していると語る。

岡田は、月を死の象徴として観るとこの映画は本当によくできていると改めて勧めている。続きの有料パートでは、月を死と見立てる読みでさらに映画を読み解きながら、月着陸までを語るという。この無料部分では、ニールがジェミニ8号に乗る前、グリソムが月着陸の本命と目されていた時点で話が止まっている。