習志野スペクター元総会長・羽月カズヒロが語る、暴走族、稲川会、覚醒剤、そして53歳の現在

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概要

千葉県船橋市で生まれ、習志野スペクターという暴走族で総会長を務め、20歳から稲川会系の地元組織に所属した羽月カズヒロは、53歳になった今、無職で知人の家に身を寄せている。インタビューは、少年時代から暴走族の抗争、ヤクザとプロキックボクサーの二重生活、破門と指詰め、15年にわたる覚醒剤との関わり、そして「元反社」として生きる現在までを順に聞いていく。羽月は過去について「後悔はない」と繰り返す。一方で、仕事も貯金もなく、体調も悪く、先の目標が見えないとも語っている。

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現在:店を閉め、日雇いでしのぐ

最後に出所してから、収録時点で約3年8か月が経つ。出所後は女装とメイクをした状態で接客するバーを営んでいたが、今年1月に閉店した。昨年9月に関係者が亡くなり、立ち退きを余儀なくされたためだという。その結果、今は無職である。先月は駅のホームの屋根の掃除などの日雇いアルバイトで食いつないだといい、「なんか仕事あったら紹介してもらいたい」と冗談めかして語った。家族は母親と弟がいるが、現在は知人のところに住まわせてもらっている。

船橋の労働者家庭と「落ち着きのない子供」

羽月は昭和48年生まれ。船橋の旧七村にあたる地域の出身で、収録場所のすぐ近くだという。父は昭和19年生まれで、運送会社の長距離トラックの運転手だった。母は昭和21年生まれで、昼はクリーニング店、夜はスナックで働いていた。3歳下の妹と弟を含む5人家族の長男である。父は約26年前に亡くなった。裕福ではなかったが、それが当時の普通だと思っていたので、不幸だと思ったことはないという。

当時の船橋について、羽月は歩いて行ける範囲にヤクザが多くいたと振り返る。ただ「日本に治安の悪いところは一つもないと思う」とも言い、船橋は「日本の上海」と呼ばれるほど賑やかな町だったと表現した。

自身の子供時代は「ただ落ち着きのない子供」だったという。今なら発達障害と言われるかもしれないが、当時はそうした言葉もなく、授業中に突然教室を出て行くこともあった。本人の感覚では、グレていたというより「元気な昭和の子供」だった。それでも小学校高学年になると、ゲームセンターで土管ズボンをはいた中学生の頭を後ろから叩く、相手にバケツをかぶせてデッキブラシで殴る、といった行為をしていた。金を取るのが目的ではなく、人がハッとするようなことをするのが快感になっていたという。本人も「変態かもしれない」と笑う。中学1年の頃は常に物をポケットに入れて持ち歩き、同級生の頭を叩いていたと話した。

表番と裏番、高校に進まなかった理由

昭和48年生まれは第二次ベビーブームの世代で、不良が多かったと羽月は言う。1学年に不良と呼ばれる生徒が20人ほど、女子を入れればさらにいたので、自分が浮いた存在ではなかった。

学校には番長制度が残っていた。羽月が「表番」を務め、実際の番長である「裏番」は別にいた。裏番は頭が良く、柔道部のキャプテンで体も大きく、高校・大学への進学を予定していた。進学に響くので表には出られない。そのため、喧嘩のときだけ裏番が前に出て、警察沙汰になれば羽月が代わりに対応する仕組みだった。羽月によれば、勉強もスポーツもできる生徒が本当の番長というパターンは、当時かなり多かったという。

高校には最初から行くつもりがなかった。当時の船橋は受験競争が激しく倍率も高かったため、中学時代に突っ張っていた生徒はそもそも受験させてもらえず、振り落とされたと羽月は説明する。不良でなくても勉強ができないだけで高校に行けなかった同世代は多く、中卒で今も静かに暮らしている人はたくさんいるという。両親は何も言わなかった。羽月自身は、学費が無駄になるだけだと考え、親に負担をかけたくなかったと語っている。

習志野スペクターとは何だったのか

羽月は中学2年からスペクターのミーティングに、中学3年から集会に参加するようになった。スペクターは町田で始まり、2代目は浅草、3代目以降は新宿が総本部になった。千葉、神奈川、静岡、仙台、名古屋などにも、のれん分けのような形で支部があったという。歴史は1960年代後半にさかのぼると羽月は見ている。チームとしては日本最大だが、昭和53年12月の道路交通法改正より後の世代である羽月たちの頃には、全スペクターがそろって走ることはなかった。そうした合同の走行は昭和50年代前半くらいまでだったのではないか、というのが羽月の認識である。

千葉県内では、市川、習志野、船橋のスペクターがもともと仲が良く、「千葉県のスペクター三羽ガラス」と呼ばれていた。羽月の代ではたまたま市川と一緒に走っていなかったが、対立していたわけではないという。船橋周辺には津田沼など各地域のチームがあったが、どこも仲が良く、毎週一緒に走っていた。

入り口は強制ではなかった。先輩たちがバイクで学校の周りを流しに来る「学校流し」の際に挨拶をするなどして、自分から顔を覚えてもらおうとしていた。「とにかく暴走族をやりたくて、スペクターをやりたくて」と羽月は語る。

中学卒業後は現場仕事をしていたが、真面目には通っていなかったという。バイクはアルバイトでためた金でCBXを自分で買った。周りのほとんどは盗んだバイクに乗っていたが、羽月は泥棒が好きではなかったと話している。

人数は時期によって大きく違った。羽月一人しかいない時期もあれば、17歳のときの一斉検挙で警察が新聞に発表した人数が213人だったこともある。ただ、その全員が常にいたわけではないと本人は補足する。

ブラックエンペラーとの3週連続の抗争

最もよく衝突した相手は、千葉県各地に支部を持っていた大規模チームのブラックエンペラーだった。羽月の説明によれば、抗争は殴り合いというより車の「合戦」に近い。車で相手に突っ込み、バックしてまた突っ込むことを繰り返す。後ろからは火炎瓶が飛んでくる。双方合わせて200人は超えていたと羽月は見ている。

特に激しかったのが、土曜の夜に3週連続でぶつかった時期である。場所は東京湾岸道路のららぽーと前、千葉西署の前、習志野方面などだったという。羽月はこれを、千葉県で最も激しい、総連合とブラックエンペラーの「最後の大きな戦い」だったと位置づけている。

戦い方の要点として、羽月は「背中を向けないこと」を挙げた。先頭の者が逃げると後ろの者もつられて一斉に逃げるので、弱さを見せてはいけない。「背中向けんなや」と互いに励まし合っていたという。主な武器は車と火炎瓶で、ガソリンを入れたビンを何百本も積んでいたこともあった。羽月自身は火炎瓶を使わず、金属バットを持って相手に向かっていったと話す。

3週目は事件化せず、勝敗もつかなかった。パトカーや消防車が大量に来たため散り散りに逃げるしかなく、逃げ遅れた羽月は千葉西署前の団地に隠れた。上から燃える車を眺め、明け方に歩いて船橋まで帰ったという。

抗争で亡くなった人についても質問が出た。羽月は双方に亡くなった人がいると述べる一方で、自分たちの頃に殺人事件になったことは一度もないとも答えている。

16歳で総会長に、少年院と1人での再建

羽月は鑑別所に3回入り、3回目で少年院に送られた。在院は1年半ほどで、容疑は凶器準備集合と傷害などだった。

総会長になったのは16歳で、17歳で少年院に入った。そのときのメンバーは十数人で、2学年上の先輩もまだいた。それでも羽月が総会長になったのは、先輩たちが捕まりたくなかったからだという。事件になればトップが捕まる。18歳になって運転免許を取れば、集会参加で免許が取り消されるおそれもある。そこで先輩が後輩に総会長を任せる例は「結構ある」と羽月は言う。ただ羽月自身は総会長になりたかった。先頭に立つ先輩たちがかっこよく見えていたからだ。少年院に行きたくない気持ちはもちろんあり、警察署から脱走したこともあったと語っている。

19歳で出てくると、主要メンバーが少年院に入ってバラバラになり、習志野スペクターは消えていた。羽月は1人で活動を再開する。昼間にバイクで流し、悪そうな少年を見つけると止めて鍵を取り上げ、「スペクターやるなら返す、やらないなら捨てる」と迫った。こうして少しずつ人を増やし、15人ほどまで再生させたという。羽月は20歳でヤクザになったあとも、ケツ持ちとして何十年も習志野スペクターに関わり続けた。スペクターがなくなったのは2年ほど前のことだという。

稲川会系の地元組織へ

20歳で入ったのは、稲川会系の地元の一家だった。17歳ごろから出入りしていた組織で、習志野スペクターのケツ持ちでもあったため、そのままスライドする形で入った。習志野スペクターや地域の他のチームのメンバーも、多くが同じ一家に流れたという。暴走族時代に金を納めることはなく、当番や事務所の雑用をする程度だった。建前としては組織に守られていたが、基本的には暴走族の中で問題を解決していたと羽月は話す。

組での主なシノギは闇金だった。建築現場への人の派遣なども手がけたが、中心は金貸しだったという。当時はまだ締め付けが厳しくなく、みかじめ料でも食えた時代で、20代の頃は月200万円ほど稼いでいたと羽月は振り返る。所属は三次団体で、構成員は平均30人ほど。羽月に役職はなかった。

当初は上を目指していた。羽月は、組を持つにはまず舎弟を多く抱えることが必要で、金は後からついてくると考えていた。舎弟の多くは、ケツ持ちをしている暴走族から上がってくる少年たちである。同じように舎弟を増やしたい組員がいる中でどう人を集めたのかと問われると、「結構強引」だったと答えた。「今週から事務所に入れ」と強制的に連れてくるような形だったという。ただ、ヤクザとしての約15年間で役職に就くことはなく、組も持たなかった。

2度の服役:府中と網走

逮捕は何度もあったが、刑務所に入ったのは2回だと羽月は言う。本人は「大きな事件は起こしたことがない」と話す。1回目は府中刑務所で、傷害などによるものだった。詳しくは忘れたという。

2回目は恐喝である。同級生の彼女が性被害に遭い、加害者を呼び出して「お仕置き」をした。刃物で耳を切りつけたが、切り落としてはおらず、「ぷらんとなるぐらい」だったと羽月は説明する。その場で誰かが金を出せと言ったため、恐喝として立件されたという。刑期は2年で、網走刑務所に服役した。網走は凶悪犯ばかりが行く場所というイメージとは違い、刑務官も優しく「人気のある刑務所」だった、むしろ横浜刑務所などの方が行きたくないと皆が言う、と羽月は語っている。

ヤクザとプロキックボクサーの二重生活

27歳で服役を終えて地元に戻ると、習志野の自衛隊駐屯地の近くにキックボクシングジムができていた。塾長の大成先生はK-1のレフリーなども務めた人物で、羽月の師匠になった。27歳で入門したが、すぐにまた服役する。網走から出てきた30歳でプロテストを受け、合格した。ただ入れ墨があったため、国内での試合を禁止するという条件付きでライセンスが発行されたという。

羽月によれば、当時は入れ墨のある格闘家はほとんどいなかった。ボクシングでは、皮膚移植で入れ墨を消した川崎という先輩や茨城の選手の例があったが、羽月は入れ墨を消さなかった。50歳を過ぎた去年、シニア部門の王者になったとも話しているが、字幕からは詳細が聞き取りにくい。

ヤクザの仕事を終えてからトレーニングに通う生活は5年ほど続いた。組長は応援してくれたが、前例がないため、若頭などからはやめるよう言われた。それでも羽月は、どうしてもキックボクサーとして生きていきたかったので押し通したという。キックボクシングを始めてから、組の中で偉くなりたいという気持ちは「ゼロ」になったと語っている。

覚醒剤との出会いと、組の中での扱い

覚醒剤を覚えたのは30〜32歳ごろ。当時付き合っていた彼女に勧められたのがきっかけだった。自分で使うだけで、売ることはしなかった。人を食い物にするようなことをしたくなかった、と羽月は説明する。羽月の所属した一家は、稲川会の中でも覚醒剤を売ることも使うことも禁じていたという。

周囲には当然気づかれていたが、言われたことをきちんとこなしていれば、厳しく罰せられることはなかった。組長は羽月が使っていると感じたとき、わざとキノコや餅のような食べ物を出したという。覚醒剤を使うと唾液が出なくなり、口の中が乾いて飲み込めない。「口の中カラカラやろ」と見抜かれていた、と羽月は笑いながら振り返った。試合前には抜くこともあり、毎日使っていたわけではない。本当に中毒になったのは、むしろヤクザを辞めてからかもしれないと本人は話している。

破門の経緯と、別件の指詰め

羽月がヤクザを辞めたのは、事務所での金銭トラブルがきっかけだった。当番の組員の財布から少しずつ金がなくなる事件が続き、羽月が疑われた。本人は取っていないと否定する。疑われた理由については、覚醒剤の使用者同士のつながりがあったからではないか、と推測している。潔白を示すため、事務所に対して抗議的な行動を取った。詳細は「あんまり言うとあれなので」と避けたが、暴力に訴えたことは認めている。その結果、破門となった。その後は船橋を離れ、浦安で10〜12年ほど暮らしたという。

小指の欠損は、これとは別の件である。小岩で、羽月が面倒を見ていた暴走族の後輩たちと地元の暴走族が衝突した。買い物中に居合わせた羽月は、後輩を追いかけてきた相手を制した。ところが後になって、組の看板を出して喧嘩したと上から問題にされた。羽月は看板は出していないと否定したが、指を詰めることになった。一般の暴走族相手に組の名前を使うことは、相手がヤクザである場合とは違い「安くない」と見なされる行為だった、と羽月は説明している。

羽月は、晩年の自分を「乞食ヤクザ」と表現した。2回目の服役中に、山口組系の闇金事件が大きく報じられ、それを機に闇金への規制法ができたと羽月は理解している。その後にオレオレ詐欺が広がったが、羽月は服役中で関わっていない。そのあたりからヤクザで食えなくなっていった、というのが羽月の見方である。

ケニアでのキックボクシング指導

組を辞めた後、羽月はアフリカのケニアに渡った。「とにかくめちゃめちゃ遠いところに行って決めたい」と考え、1人で向かったという。現地では、日本人が運営する小学校、孤児院、小さな病院、教会がある敷地で生活させてもらった。公園でストリートボーイたちにキックボクシングを教えていたところ、それを見ていた刑務官から頼まれ、刑務所の中でも刑務官の家族らに指導するようになった。

選手としてチャンピオンを目指す気持ちはあったが、入れ墨のため歓迎されておらず、上まで行ける自信はなかった。むしろ「悪役」として、負けるところを期待されていた面もあったかもしれない、と羽月は語っている。

注射器100本と、引き延ばした裁判

覚醒剤はやめた時期もあったが、再び使った時期もあった。覚醒剤で初めて捕まったのは40代で、ヤクザを辞めた後のことだった。前の服役から約10年空いていたため初犯扱いとなり、執行猶予がついた。しかしその後も約2年間使い続け、再び逮捕された。

猶予期間が1年残っていたため、羽月は裁判を1年引き延ばして猶予を切らそうと考えた。弁護士には「絶対無理」と言われたが、羽月は尿から陽性反応が出たことは認めつつ、自分では使っておらず、一緒にいた女性の体液から出たのだと主張し続けた。1年間の引き延ばしには成功したが、自宅からは注射器が100本以上見つかっていた。ガサ入れの際に女性がとっさにトイレに流したため覚醒剤そのものは出なかったが、結局服役することになった。入所は46歳ごろ、出所は49歳ごろだったと話している(逮捕時の年齢は発言によって前後している)。

2度の結婚

正式な結婚は1回だけである。38歳ごろ、覚醒剤をやめていた時期に、横浜のレディース出身として知られた女性と結婚し、4〜5年一緒にいた。相手は覚醒剤を使っていなかった。しかし心の病を患い、横浜に住んでいた頃、「ちょっと森に行ってきます」と言って出て行ったまま帰ってこなかったという。子供はいない。2回目は獄中結婚で、面会の便宜を図るために籍を入れた地元の後輩だった。羽月はこれを「本当の結婚ではない」と言っている。

出所後と、覚醒剤をやめた理由

出所後は地元でカラオケバーを営み、タクシー運転手もしたが1週間ほどで辞めた。2年ほど前には、金を貸したのに返さない相手の家の窓ガラスにブロックを投げて逮捕され、20日ほどで出てきたという。それ以外に悪いことは何もしていない、と羽月は強調する。

覚醒剤は出所後も何度か使ったが、「もうお腹いっぱいだ」と思ってやめたという。やめた理由は体への害ではなく、気持ちの問題だった。羽月にとって覚醒剤は性的な快楽と結びついた「エロ薬」で、アダルト動画を見続ける自分が嫌になった。「こんなことやってる場合じゃねえだろ」と思ったという。切れた後のだるさ、ずるずる抜けられないこと、人が離れていき、薬つながりの人間ばかりが周りに残ることも挙げた。今は使いたいとも思わず、YouTubeに出ていること自体が使っていない証拠だと言う。代わりに日々のジョギングやジムで汗を流す方が楽しいと話す。脳が快楽と性欲をセットで記憶しているので、年を取って性欲が落ちたことで同じように欲求もなくなったのではないか、というのが羽月自身の分析である。前歯が欠けていることについて尋ねられると、「ご想像にお任せします」とだけ答えた。

「反社」の枠から出られない現在

生活は、周囲の人に助けてもらっている状態だという。女装をしながら営んでいた「セーラーズ」のような店をもう一度やりたいと羽月は話す。自分の居場所が欲しく、飲食店が自分に向いていると考えている。出資してくれそうな人もいるという。店を閉めてから人に会わなくなり、気持ちが塞いで「うつっぽくなる」のを感じているため、その意味でも店をやりたいと語った。

羽月を支えているのは、ほとんどが今も現役のヤクザである昔からの地元の仲間だ。先輩、同級生、幼なじみ、後輩の中には、それぞれの組織で偉くなった者もいる。金銭的に助けてくれる仲間もいる。そうした関係を断つことは考えたことがないと羽月は言い切る。船橋で生まれ育ち、この町で死んでいきたいからだ。一緒に悪いことをしたり、金儲けをしたりしているわけではない、とも付け加えた。

一方で、就職は難航している。タクシー会社を何件か受けたが、面接に通らない。50代での現場仕事はきつい。羽月は、20年前には「反社」という言葉すらなかったのに、今は堅気になっても何年経っても「反社」として見られ、昔より差別がひどくなっていると感じている。

過去について「後悔はない」と何度も繰り返したあと、「貯金もない」と笑った。体調も良くない。中性脂肪が500ほどあり、医師から急性膵炎にいつなってもおかしくないと叱られたという。1日2〜3時間のジョギングやウォーキングを続けているが、「体の調子が悪いと、どんなにきれいな景色を見ても楽しくない」と言う。まず健康を取り戻したいが、その先の目標はまだ見当たらない。インタビューはそこで終わる。