闇市の名残から外国人客の店へ アメ横を朝から深夜まで歩いて聞いた商売の現在

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概要

上野のアメ横は、終戦直後の闇市から始まった商店街である。取材者は開店前の朝から日付が変わる直前までこの通りを歩き、79歳の衣料品店主、180年以上続く乾物屋、57年間レコード店を営む89歳の店主、スカジャン店の店長、叩き売りのチョコレート店、路上マジシャン、飲み客、ガールズバーの店員に話を聞いた。語られたのは、インバウンド客に合わせて変わる店の現状、闇市時代の記憶、コロナ禍以降に広がった路上飲食とその取り締まり、そして夜の上野で働く人々の事情である。

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朝10時前に開ける店:売上の9割が外国人客

最初に話を聞いたのは、周囲の店がまだシャッターを下ろしている時間に開店準備をしていた衣料品店「アウトレットワン」の店主である。79歳で、この店を16年続けている。アメ横の店は通常10時半ごろに開くが、この店は早く開ける。店主によれば、インバウンドの客は朝早く動く。他の店が開いていない時間に開けていれば買ってもらえる、という考えだ。時給で働く人とは違い、自分の店だから時間を自由に決められるとも言う。

店主は「売上は9割が外国ですよ」と話す。日本人はお金を使えない、物価がこれだけ上がって生活が厳しいのだから、というのが店主の見方だ。コロナ後も日本人向けに商売している店は苦しんでおり、インバウンド対応をしている店はそこそこ頑張っている、と周囲を評した。

売れ筋は着物関係だ。リサイクル品を1000円から売っている。一番売れるのは、店主が自分で名付けた「着物ガウン」で、月に160枚ほど売れるという。3000円未満ならよく売れ、ここに来るインバウンド客の予算はだいたい5000円までだと店主は見ている。取材時はワールドカップの時期で、日本代表を含む各国代表のユニフォームがよく売れていた。3番目に売れるのは女の子用の甚平で、着物の生地で縫える人を探して作らせている。高くない価格帯の中で、客が欲しいものをいかに見せるかが重要だと店主は言う。

家賃の話も具体的だった。店主によると、アメ横の坪単価は20万円で、4坪なら家賃は70万円になる。だから下手なやり方をすると店の入れ替わりが早い。利益率を確保しつつ商品を回転させないと続かない。人件費も上がっており、「何でも売れる」と考えて入ってくる店はうまくいかない。外国人向けにしなければ生き残れず、日本人は「買わない。買えない」と店主は繰り返した。日本人客は通りの向こう側の飲み屋で昼の3時ごろからちびちび飲んでおり、そちら側はほとんど食べ物の店になった、とも話している。

水面下で決まる区画と、パタヤとの二拠点生活

店主は起業して60年になる。隣の二木(ニキ)とは創業当時からの知り合いだ。以前は大きなカフェなども経営していたが、人を使うのが面倒になった。大きな会社を経営していた友人が15年前に倒産したこともあり、これからは小売りがいいと考えたという。この区画が空いていることは知っていたので、トップに頼んで入れてもらった。知り合いだから相場の半額ほどで借りているそうだ。店主によれば、知り合いでなければここには入れない。空きが出ても話は水面下で決まり、飛び込みで来る人が入る余地はない。

店主はタイのパタヤに家を買ってあり、年に6回ほど通っている。来月も13日から8日間ほど行く予定だという。円安が進んだので、現地でバーツを稼ぐ仕事を始めており、ゴルフツアーのウェブサイトを作っているところだと話した。自分で事業を続ける理由は年金が非常に少なかったからだ。60歳で調べて日本では食べていけないと分かった。もっとも、22歳で上京したときから最後は海外で過ごすと決めていたという。大学を出て3年目にアメリカへ行き、帰国後に会社を興した。

現在の店舗はこの1店だけだが、それで十分食べていけると言う。世界を飛び回ってきた人脈があり、どこからでも商品を仕入れられることが16年続いた理由の一つだと本人も認めた。アメ横の良さを尋ねられると、「人を呼ばなくても来るっていうところ」と答えた。そこで誰に何を売り、利益率をどれだけ取るか。円安の今は下がったが利益率は60%あり、円が高かったころは73%あったという。安く仕入れ、人の流れを見て売る。やりたいことは90%以上やってきたので、最後にたどり着いたこの店で静かにやるのが一番いい、と店主は締めくくった。

文久2年創業の乾物屋・伊勢音が語るガード下の成り立ち

次に訪ねたのは、鰹節、だし、干し椎茸、昆布などを扱う伊勢音である。日本橋の鰹節屋として江戸末期の文久2年に創業し、180年以上続いている。4代目にあたるという。アメ横には先代が昭和22年、戦後2年目に入った。

社長によれば、それ以前この一帯は商店街ではなく、ほとんど何もない場所だった。住宅はあったが疎開させられていた。昭和20年8月16日、終戦の翌日から人々が自由に商売を始め、闇市が生まれた。ルールなどなく、商売をしたい人は空いている場所にゴザを敷いて物を売った。闇市が生まれたのは、魚屋や外国人経営の店が並ぶ通りの中ほどから向こう側で、三角ビルの脇の路地がその中心になったという。

伊勢音のあるガード下は、最初の闇市とは別の場所だと社長は説明する。ここは国鉄が買収した土地で、倉庫などとして使われていた。国鉄がここを開発しようとして、外部から力のある商売人を呼んだ。伊勢音もその一つである。伊勢音は戦前、満州鉄道などに荷物を納めていたが、敗戦で満鉄がなくなり、その債権が消えてしまった。満鉄の上層部にいた人が引き揚げてきて国鉄に就職し、伊勢音に迷惑をかけたからと、この場所を貸してくれることになった。そうして商売の権利を得たのだという。社長によれば、ガード下で最初に商売を始めたのはこうした旧国鉄の関係者だが、今も続いているのは数軒しかない。

「奉仕が先」という江戸の商売と、現地仕入れへのこだわり

多くの店が潰れる中で180年続いた理由を問われ、社長は「ちゃんとしてる商売人だから」と答えた。違いは、奉仕が先にあることだという。江戸の商売は奉仕の精神が先で、お客様を大切にする。店には初代が考えた「丸さん」という言葉が掲げられている。1つ目は社会に奉仕すること、2つ目はお客様に奉仕すること、3つ目は仕入れ先や従業員に報いること。それができれば丸く商売ができる、という意味だ。社長は、今の時代は権利の主張が先になり、起業家が少なくなってサラリーマンばかりになったため、まず先にもらうことを考えると話す。だから最初に良い場所を押さえても長続きしない、というのが社長の見方である。

商売のやり方は時代に合わせて変えている。これまでは削り節が中心だったが、2秒でだしが出るティーバッグ式の商品や、商品を粉砕して粉にしたふりかけを出した。一方で仕入れは変えていない。築地や豊洲の業者とは付き合いがなく、昆布も鰹節もすべて現地から自分たちで仕入れている。社長は、東京で一番昆布を持ってきているのはうちだと言う。かつてこの通りには鰹節屋が10数軒あったが、すべてなくなった。他の店は客に合わせて値段を下げるため、中国などから原料を入れて加工だけを日本でするようになった。その結果おいしくなくなった、と社長は話す。

社長はアメ横を「最高の場所」と評した。伊勢音はもともと日本橋に本店があったが、河岸が築地に移ってから日本橋は衰え、三越周辺や三井不動産の再開発も失敗して街がなくなってしまったと社長は語る。それに対してアメ横は、戦後ほかの地域が落ち込む中でもこれだけ人が歩いている。シャッター商店街や再開発の失敗が多い中でアメ横が残った理由について、社長は、ここで商売をする人たちがほかの地域より一生懸命やってきたからだと答え、己の懐に先にお金を入れてはいけないということを自分の店では徹底している、と付け加えた。

取材者の調べ:アメ横が「最後の闇市」として残った経緯

社長の話を受けて、取材者は闇市の成り立ちについて調べた内容を説明している。上野から御徒町にかけては戦前、住宅が密集していた。近くに国鉄の変電所があったため、空襲の被害を防ぐ目的で国が強制疎開を行い、民家が取り壊されて一帯が空き地になった。終戦と同時に、商売にちょうどいい空き地として各地から人が集まり、あらゆる物が売られるようになった。

終戦後に日本に残った朝鮮、中国、台湾の人々、当時「第三国人」と呼ばれた人々もこの辺りで商売を始めた。国の統制で自由に売買できなかった米や野菜に加え、飴や饅頭などの甘味が売られ、飴が多く闇で売られたことから「飴屋横丁」と呼ばれたのが名前の由来の一つだという。昭和23年ごろになると、駐留していた米軍のチョコレート、チューインガム、タバコなどが持ち込まれ、「アメリカ横丁」という意味でもアメ横と呼ばれるようになった。

闇市は新宿、渋谷、池袋など主要な街にもあったが、昭和26年ごろから徐々に解体された。統制が緩和されて商売が自由化されたことに加え、闇市の雰囲気を終わらせたいGHQの意向が働いたためだと取材者は説明する。ところがアメ横では、そのころには露店ではなく建物の中に店を構える人が増えていたため簡単には取り締まれず、集まっていた人々の権利の問題もあって取り締まりが難しかった。1950年代に配給制度が終わり、百貨店やメーカーの流通が整うと、闇のルートに頼る必要がなくなり、店は合法的な形に変わっていった。取材者のまとめによれば、アメ横は闇市を解体して新しい商店街を作ったのではなく、闇市の状態を残しながら合法的な商店街に変わっていった点で他と異なる。

叩き売り:1000円で袋が膨らむチョコレート

闇市由来の商売の手法として取材者が注目したのが叩き売りだ。アメ横名物のチョコレートの店・志村商店で話を聞いた。応対した志村さんは4代目で、店自体はそれより前からあるという。上に並んでいる商品がすべて入って1000円で、福袋のようなものだと説明する。客にとっては2000円出すより1000円のほうが買いやすい、というのが店側の考えだ。なぜこのスタイルになったのかは、父親が始めたことなので分からないという。

実際に1000円で買うと、「入れちゃい、入れちゃい」という掛け声とともに、おまけが次々と袋に追加された。取材者が中身を数えると11個入っていた。取材者の説明では、闇市の文化として安く仕入れて大量に売ることが重要で、パフォーマンスで客の興味を引き、大量に売って最終的に利益を出す仕組みだという。仕入れるのは賞味期限の近い商品、型落ち品、倒産した会社の在庫などで、それを安く大量に仕入れ、おまけを多くつけて客に得をしたと感じてもらう。食べてみると普通においしいチョコレートだった。

スカジャン店の店長が見た25年の変化

アメカジから和柄に特化した衣料品店では、雇われ店長の本野さんに話を聞いた。店自体は50年ほど続いており、本人はここで25年ほど働いている。一番売れているのはスカジャンで、真夏は少し落ちるものの、ほぼ一年中売れる。最近は海外の客が増え始めた。刺繍の服は海外にあまりないと外国人客が言い、とても日本っぽいと喜んで買っていく。店には虎の柄のほか、エヴァンゲリオンの柄もあった。

店長によれば、アメカジは戦後にアメリカの物を輸入して売ったところから始まったジャンルだろうという。スカジャンは特殊で、米兵が本国に帰る際に日本で刺繍をしてもらい、土産として持ち帰ったことが始まりだと説明した。

25年間の変化を尋ねると、店長は「だいぶ変わってますよ」と答えた。上野に来たころは通りに魚屋ばかりで、珍味屋や化粧品屋もあった。今は飲食店が増えた。上野や浅草には外飲みの文化があるという印象について、店長は、それはごく最近のものだと話す。コロナのころに店の前の道路を使ってよいということになってからで、それ以前は道路にテーブルを出して酒を飲ませることはなかったという。

路上営業の一斉摘発:レコード店主が語る4年間

路上飲食の問題をより強い言葉で語ったのが、レコード・CD店を営む89歳の店主である。昭和44年、32歳で開業し、57年になる。取材時は店を閉めて帰るところだった。店主によれば、この前まで道路での飲み食いが本当にひどかったという。

店主の説明では、コロナのころ台東区役所が、1年間に限り、店から1メートル以内にテーブルを出して酒とたばこを楽しむことを許可した。ところがその1メートルが5メートルになった。店の間口は小さいのにテーブルばかりが並び、誰でも座ってすぐに飲み始めるようになった。この店は通りに埋もれて見えなくなり、店の場所が分からないという客がすぐそばから携帯で電話してきたこともあった。困っている店はほかにも多かったという。

具体的な被害として店主が挙げたのは、たばこの煙が店の中に入ってくること、そして夏になると虫が湧くことだ。焼き鳥のたれなどをこぼしたまま帰り、掃除をしないため、虫が集まって店に入ってくる。商店街としてもひどすぎると声を上げ、店主自身も警察や区役所に訴えた。しかし4年間、誰も言うことを聞かなかった。警察が来るとその時だけテーブルを引っ込め、いなくなるとまた出す。警察が切符を切り始めて営業停止になりうる状況になって、ようやくみな引っ込めた、と店主は話す。取材時には通りは整然としていた。その間、客から店をやめたのかとずいぶん言われたという。それでも57年続けてきたおかげで、北海道から九州、沖縄まで客がいると店主は語った。

米兵、パンパン、警察:89歳店主の闇市の記憶

店主がこの場所で店を開いたのは、父親の縁による。父親は戦後、昭和通りのほうに自宅と店を持って商売をしていたが、上野の駅長と親しく、空いているからここで物を並べてはどうかと言われて始めたという。父親の時代はまだ闇市の時代だった。

店主によると、闇市とは米兵からチョコレート、ガム、タバコ、石鹸などを買い、適当な値段で売る商売だった。アメリカの物を横流しすることから「アメ横」になったと店主は言う。米兵が日本円を欲しがった理由について、店主は、夜になると上野駅の前に、当時「パンパン」と呼ばれた女性たちがいたと話す。店主自身「あんまりいい言葉じゃない」と前置きしている。お金に困った女性たちが米兵相手に売春をしており、米兵はその代金として日本円を必要とした。そのため軍から支給されたチョコレートやタバコを自分で消費せず、ここに持ち込んでお金に換えた。それを商売人がまた売ったのだという。

警察はしょっちゅう来た。通りの入り口の店はすぐ見つかるのでそうした商売ができず、入り口から5軒ほど後ろから御徒町駅までがそういう店だった。誰かが「警察が来たぞ」と言えば店を閉めて隠せる。反対側も入り口から7軒目あたりからそうした店だったという。細かい路地もそうした中で自然にできていったと店主は見ている。今ではそういう店は一つもない。

「値段に合ったもの以外は仕入れない」

57年間の街の変化を、店主は「あんまりいい風には感じない」と言う。例に挙げたのは魚だ。かつてアメ横の魚屋は築地の1日遅れの魚を仕入れて売っていた。今は余ったら冷凍し、翌日溶かして出す。鮭が5枚500円、10枚1000円といった値段で売られていても、しょっぱくて食べられないし、凍らせたり溶かしたりを繰り返したものは腹を壊すと店主は話す。そうなった理由は、売れれば儲かるからだろうという。ただし今はそれも売れず、魚屋は減った。

店主自身は、食べ物屋ならおいしいものを安く出すのと同じように、値段に合ったもの以外は仕入れないという。2000円のCDなら2000円の価値がある歌声と曲が入っているものを選ぶ。並べている商品はすべて店で試聴でき、聴いてもらったうえで買ってもらう。以前は500種類ほど置いていたが、今は300種類ほどに減った。メーカーが作らないからで、店主によれば来年はレコード会社が全社CDを作らないという結論が出ているという。それでも自分なりのやり方があり、死ぬまでこの店を続けると決めている、と店主は話した。

買い物客たち:外国人観光客と、月1回の買い出しに来る48歳

昼の通りでは外国人観光客にも声をかけた。日本滞在最終日だという観光客はドラッグストアでお菓子やラーメンを買っており、どれも300円ほどだったと言って「Japan is cheap」と笑った。

たこ焼き店の前では、小原さんという48歳の男性に話を聞いた。月に1回ほど、自宅用の食材を買い出しに来るという。昔はもっと安かったが、値上がりしても500円のたこ焼きは安くておいしい、と話す。奄美大島出身で、新宿二丁目のゲイバーで20年ほど働いてきたが、現在は事情があって休職中で、戻れるか分からないため新しい仕事を探しているという。できればLGBTQ関連の仕事がいいと話し、男性のパートナーと2人で暮らしている。肩、腕、脚には稲妻やハワイの図柄、奄美大島にちなんだ図柄のタトゥーを入れており、続きを彫りたいがお金がないと冗談めかした。

アメ横に来る理由は「安いから」だ。二木の菓子でいつも買うのは、50個入り1100円のだしパックで、これがあれば1ヶ月ほど持つ。味噌汁にも味付けにも使える。ここ以外で売っているのを見たことがないという。小原さんは取材者にヌテラを渡して帰っていった。

夜の路上マジシャン:会社員を辞めて手品で食べる

夜になると店の多くは閉まり、通りは飲み屋街の様相になる。その一角で、つっちーと名乗る49歳の路上マジシャンがビールやフォーク、ボールを使った手品を見せていた。フォークは手を使わずに曲がっていき、最後はバラバラになった。ボールは増え、最後は帽子の中から出てきた。

マジック歴は約20年で、地方の祭りなどに呼ばれることもある。39歳のときに思い切って会社を辞めた。それまでは半導体の機械を扱う技術職で、土日だけ路上で手品をしていた。当時も1週間の食費くらいは稼げていたという。結婚していなかったので辞められた、結婚していたら絶対にできなかった、と本人は話す。

辞めてすぐに食べていけたわけではない。大きな会場では人を集める必要があり、それまで通行人相手の流れでしかやってこなかったため、うまくできずにひどく落ち込んだという。そこで話し方や雰囲気作りを徹底的に練習し、人を集められるようになった。技術があっても人が集まらなければ誰にも見てもらえない、喋りがうまければ多少下手でも見てもらえる、というのが本人の考えだ。5分間でどれだけ相手に近づいて仲良くなれるかが一番大事だと言う。

渋谷などでも演じてきたが、アメ横でやるようになってからは、店の人たちから盛り上げてほしいと言われ、場所を使わせてもらっている。遅くまではやらず、挨拶を欠かさない。コンビニで買い物をするときには必ず袋をもらい、自分の出したゴミだけでなく周囲に落ちている缶なども拾って帰るという。場所を使わせてもらっているのだから汚れていたら迷惑になる、という理由だ。アメ横は昔からの文化を大切にしている街で、そうした姿を見て通りがかりの人がいい街だと言ってくれるから、やる価値はあると本人は話した。

飲み歩く若者たちと、終電前の酔客

20歳の男性3人組は、学生2人とホテルのレストランで働く1人で、古着好きのつながりだという。普段は渋谷で飲むが、この日は外の席で飲みたいという話になり、安く外で飲めるのは上野しかないと来た。7時ごろから居酒屋で2〜3時間飲み、パチンコにも行った。上野は渋谷よりかなり安く、飲むだけなら2000〜3000円で済むと話し、自分たちにとっては渋谷より近いのでまた来てもいいと答えた。

23時40分ごろには、テキーラを飲みすぎて座り込んでいる人がいた。アメ横は初めてで、一緒に来た人は帰ってしまったという。取材者が水を渡すと、もう少し休めば復活すると答えた。

上野のガールズバーで働く23歳:Sさんの事情

最後に話を聞いたのは、店の前で客引きをしていたSさん、23歳である。アメ横のガールズバーで働き始めてまだ間もない。きっかけは恋人との別れだった。交際は約3年、同棲は約2年。相手は11〜12歳年上で、Sさんにとっては初めての恋人だった。SNSで知り合い、当初は鹿児島と東京の遠距離だった。

最初は好印象だったが、次第に気になる点が出てきた。付き合って1年目ごろ、九州から会いに来たとき、ホテルのチェックアウトで相手にお金がないと言われ、5000円を出したことがある。初めての交際だったのでその場では疑問に思わなかったが、後で友人に相談して「やばい」と言われた。その後も金額が増え、お金を貸してと言われるようになった。相手は配達員をしていたが、稼ぎのいい仕事に就くと言って倉庫の製造系の仕事に移り、メンタルの不調で辞めた。Sさんは貯金を持って上京して同棲を始め、住まいは相手の親の名義で借りてもらい、昼間の仕事で生活費を支えていたという。

相手には何日も家に帰らない「逃亡癖」があった。何度目かに何も言わず帰ってきたとき、言いたいことがあるなら言ってほしいと伝えると、言っても解決しないし無駄だと返された。それで溜まっていたストレスが一気に出て、3年目の記念日の喧嘩で別れを告げ、家を飛び出した。今は同棲を解消し、相手は実家に戻り、Sさんは友人とルームシェアをしている。近くルームシェアも解消して一人暮らしを始める予定だ。周囲からは鹿児島に帰ればと何度も言われるが、恋人と別れて帰るのは格好悪くて言えず、意地を張っていると本人は話す。25歳くらいまでは東京にいるつもりだという。

夜の仕事を考えたとき、最初は六本木や銀座を回ったが、面接で「その顔じゃ無理だから整形しろ」と言われた。上野ではスカウトアプリ経由で声がかかり、普段はバニーガール姿で接客するガールズバーに入った。肌を見せることに抵抗はなく、上野にしては給料が高く、人間関係も良さそうだったのが決め手だった。稼ぎは六本木のほうが多いだろうと本人は見ており、「脱いだ意味あんまりない」と笑う。店にはランキングや競争がなく、派閥もギスギスした空気もなく、働く環境は「めっちゃいい」という。

この日は平日で、制服を着るイベント日だった。指名客は少しずつ来るが、制服は印象が薄いのか新規の客に声をかけてもらえない。バニーより制服のほうが恥ずかしく、早く脱ぎたいとSさんは話す。ガールズバーは若い子が多く、23歳は中間くらいだという。肌を見せる仕事なので、25歳を過ぎると自分としては抵抗が出てくると考えている。その後は地元ではなく、福岡や熊本など九州のどこかで働くつもりだが、やりたいことは特になく、資格もない。できれば昼の仕事に就きたいという。

話の途中で4人組の客がSさんの店に行くと言い、Sさんは「こっちです」と道路の向こう側へ案内していった。取材はそこで終わる。