14歳で妊娠し、15歳で母になった山口こひなさんが語る9年間

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概要

山口こひなさんは、この収録の日にちょうど24歳になった。14歳で妊娠し、15歳で出産した息子は9歳の小学3年生である。現在は大阪府枚方市で、衛生管理の会社にパートとして勤め、マット交換などのルート営業をしながら息子を一人で育てている。インタビューでは、妊娠に気づくまでの経緯、中絶か出産かの選択、中学生・高校生として子育てをした日々、そして今抱えている迷いが順を追って語られた。

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ごく普通の中学生だった

山口さんは、専業主婦の母と運送会社に勤める父のもとで、3人きょうだいの長女として育った。中学ではバレーボール部に打ち込み、勉強はあまりしなかったものの、「全然真面目な子やった」と振り返る。いわゆるヤンキー志向だったわけではなく、周囲から「結婚するのは一番早そう」と言われていた程度だという。

当時の夢は助産師だった。子どもが好きだったというより、綾野剛さん主演のドラマ『コウノドリ』を見て、かっこいいと思ったのがきっかけだった。

息子の父親となる相手は、同い年の地元の男性である。中学時代の春ごろに付き合い始め、交際期間は1年弱。本人の感覚では「ちゃんと付き合った」と言える2人目の相手だった。

避妊をした上での一度きりの行為

山口さんによれば、避妊の知識はあり、相手もきちんと避妊具をつけていた。しかも行為は一度きりだった。だからこそ、自分が妊娠する体になっているとは思っておらず、発見が遅れたと山口さんは説明する。妊娠がわかる前に、2人は「若気の至り」の、おそらくくだらない喧嘩で別れていた。

気づくまでにおよそ半年かかった。初潮からまだ1年も経っておらず、生理不順がよくあったためだ。生理不順で病院に行こうかと母と話していたとき、母が娘のお腹が大きくなっていることに気づき、「そういうことしてないやんな」と確認した。山口さんはとっさに「してない」と答えたが、実際にはしていた。

妊娠検査薬は、抵抗があったので友達に付き添ってもらって買った。尿をかけて検査することは知っていたので、友達とスターバックスでドリンクをがぶ飲みし、コンビニのトイレで検査した。そのときもまだ妊娠しているとは思っておらず、「お守り」として検査しておこうという気持ちだったという。箱には「1分間待ってください」と書かれていたが、体感では10秒ほどで真っ赤な線がくっきり出て、妊娠を確信した。

検査したのは最寄り駅から自転車で行った隣町のコンビニだった。力が抜けて自転車もこげなくなった山口さんに代わり、友達が2台の自転車を押しながら1駅分を一緒に歩いてくれた。帰宅後、仕事中の母に電話した。山口さんは泣きすぎて何を言っているかわからないほどだったが、母は「思ってたよりむちゃくちゃ冷静」で、「今から帰るから直接話そう」と言った。怒ることもなく、ただ相手は誰かを尋ねた。母とは普段から恋愛の話をする友達のような関係だったので、名前を言うとすぐにわかってくれたという。

17週での受診と「6者面談」

まず地域の病院を受診すると、産むにしても中絶するにしてもリスクがあるため大きな病院へ行くよう言われた。大きな病院で、すでに妊娠17週、5か月に入った中期だと説明を受け、そこで初めて学校と相手側に連絡した。

父は激怒した。ただし、山口さんに声を荒げたことは一度もなく、怒りは相手の男性に向いていたという。その後、山口さんの両親、相手の両親、元交際相手本人の6人で話し合う場が持たれた。

そのときの山口さん自身は、産みたいとも中絶したいとも言えないパニック状態だった。元交際相手は当初、中絶してほしいという意見だった。相手の両親は「こひなちゃんの意思に従います」という立場で、中絶するなら費用を、産むなら養育費を支払うと申し出た。山口さんは相手の家族が「本当に真摯に向き合ってくれた」と話す。母からは事前に、中絶してほしいと言われてもそれは受け止めなければならないと言い含められていた。それでも自分に選択肢を与えてくれたことを、今思うと本当にありがたかったと振り返る。

中期中絶という選択肢の重さ

中絶が可能な期限までは、約4週間しか残っていなかった。しかも手術はできず、陣痛促進剤で陣痛を起こし、出産する形になると説明された。

初めてエコーを見たとき、胎児はすでに顔がくっきりとでき、手も足もあり、「本当に人間の赤ちゃんがもう出来上がってた」。それだけで強い罪悪感が湧いたという。さらに中期中絶では骨が残るため、出生届と死亡届を同時に出し、火葬もしなければならないと教えられた。山口さんは、手術で済む段階だったらもしかしたら中絶していたかもしれないと、今でも思っている。

大学病院の医師からは、生まれた瞬間に産声をあげる赤ちゃんもいて、その場合は医師が口をふさぐやり方になることもあると聞かされた。山口さんは「これはもう殺すことやな」と感じ、辛いと思いながらも、その時点では中絶も選択肢として考え続けていた。

期限前日、エコーで決めた出産

最初は中絶することに決まっていた。父が電話をして手術日も決まり、山口さん自身も、産むのはわがままになると考えて中絶を受け入れていた。

しかし、妊娠がわかってから4週間が経ち、「明日になったら中絶できない」という最後の日に、病院で「最後にエコーしますか」と聞かれた。母からも「最後にちゃんと心臓の音聞いときなさい」と言われていた。心臓の音と、まだ生きているお腹の子を見たとき、「母性本能がもう爆発しちゃった」のだろうと山口さんは言う。やはり中絶はできないと思い、ぎりぎりで産むと決めた。周囲もその時点では、それならもう産むしかないという受け止め方だった。

隠れて過ごした妊娠期間

出産を決めた後、学校からは出産のことだけを考えればいいと言われ、登校はしなくなった。友達には絶対に知られないようにと言われていたため、表向きは腸の手術で入院していることにした。

中学生もスマートフォンを持っている時代で、部活の仲間からはLINEがたくさん届いた。当時流行していたMixChannelの動画で、部活のメンバーが「元気になってね」と伝える動画を顧問の先生が撮って送ってくれたこともあった。嘘をつき続けることに罪悪感でいっぱいだったと山口さんは話す。

途中で切迫早産がわかり、約3か月、絶対安静で入院した。退院後の約1か月は家にこもり、外出するなら夜中、日中にどうしても出かけるときはサングラスで変装した。近所のコンビニには行けず、「芸能人みたいな生活」だったという。大人になってから地元の友達に、実は噂は立っていたと聞いた。それでも友達は優しく、本人には何も言わなかった。

気がかりだったのは弟のことだった。妊娠がわかった当時、弟は小学6年生で、山口さんが中学3年に上がるときに同じ中学へ入学する。噂が弟に回ってからかわれたらどうしようと悩んでいたが、弟は「他人なんか関係ない」とはっきり言ってくれ、本当に助けられたという。

同級生たちは、山口さんが臨月のころに部活の引退試合を迎えた。本当は見に行きたかったが、行けるはずもなかった。顧問の先生が試合をビデオに撮って家に届けてくれ、担任の先生は毎日家を訪れてその日の出来事を話してくれた。

中学3年の夏休みに出産

息子は中学3年の夏休みに生まれた。切迫早産で入院した経緯があったものの、実際には予定日を過ぎ、3000グラムを超える健康な状態で生まれた。負担が大きかったのは山口さんの体のほうで、体が未熟だったため出産後に出血が止まらなくなった。入院が1日ほど延び、バルーンを使う処置を受けたが、大事には至らなかったという。

出産したのは高槻市の大学病院である。15歳での出産は症例が少ないため、朝7時ごろの出産の場には教授らが10〜15人ほど集まり、山口さんを囲んでいた。本人は「研究として」と笑いながら語った。

元交際相手との距離

元交際相手は、スピード出産だったため立ち会いには間に合わなかったが、山口さんがまだ分娩台にいるうちに駆けつけ、母子の顔を見て帰った。

当時、山口さんには恋愛感情がまだ残っていて、「全然好きでした」と話す。話し合いの1か月の間に、最初は反対していた彼からも一緒に育てようかという話が出ていた。責任感のある人で、中学生なりに自分も育てなければという気持ちがあったようだと山口さんは見ている。しかし、働ける年齢でも結婚できる年齢でもなく、親の前で「働くから産ませてください」「一緒に育てます」とは言えなかった。2人の間では18歳になったら結婚しようと話していたが、実現しなかった。復縁したわけでもなく、毎日お互いに泣きながら今後を話し合うばかりで、楽しい時間はなかったという。

出産後、中学卒業までは、文化祭や卒業式などのイベントのときだけ登校し、子どもを預けている間に彼に会ったり、写真や動画を送ったりする程度だった。山口さんは相手ありきではなく、一人で育てる覚悟で産んだので、生まれた時点で彼のことはもうあまり考えていなかったと話す。

高校生になると、地元なので彼の噂が耳に入ってきた。彼女を作らず恋愛もしていないと聞き、自分のことを気にしているのではないかと考えた。1〜2か月に1回ほど、子どもを連れて食事に行くことはあり、誘うのはいつも彼のほうからだった。子どものためには父親の存在を消してはいけないと思う一方で、「事故やった」のだし、産むと決めたのは自分なのだから自分で頑張る、彼には次の人生を歩んでほしいという気持ちがあった。18歳ごろ、山口さんは「私のことは忘れてくれて構わない」とLINEで伝えた。

通信制高校、アルバイト、保育園

中学卒業後は、親に散々迷惑をかけたのですぐ働きたいと考え、高校に進学しない選択肢も考えた。しかし、シングルマザーになることは確定していて、ちゃんとした職場に勤めなければ子どもを育てられないと考え、進学を決めた。全日制は仕事と両立できないため通信制を選んだが、週2〜3回は登校して授業を受ける必要がある学校だった。飲食店のアルバイトで朝に働き、昼のアイドルタイムに学校へ行き、夜にまた働く。宿題は夜に仕上げて提出し、卒業した。

息子は生後6〜7か月、山口さんの高校入学のタイミングで保育園に預けた。ところが実家暮らしのままでは点数が足りず、保育園に入れなかった。市役所の担当者から、実家を出ればひとり親と認定され、ぎりぎり入れると教えられ、すぐ賃貸物件を探した。未成年で自分の名義では借りられなかったため、祖母の名義を借りた。母が実家のすぐ近くに住んでほしいと望み、一番近い物件が家賃7万円の部屋だったので、そこに決めた。

当時、両親は母が38歳ごろ、父が40歳前後で、下のきょうだいもまだ育てている最中だった。親に助けてもらえる実家を出ることはデメリットもあったが、これ以上負担をかけられないとも思っていたので、ちょうどよかったと山口さんは話す。高校の入学金や学校関係の費用は親が払ったが、家賃、光熱費、携帯代、食費、おむつなど子どもにかかるものは、自分の給料でまかなうようにしていた。収入は月20万円を超えていたかどうかという程度で、そこから保険料などを払い、ひとり親の手当は月4万円、2か月に1回の振り込みだった。「めっちゃきつかった」「毎月ギリギリ」だったという。

お金より時間を選んだ働き方

高校卒業後、不動産会社で一度正社員として働いた。給料はよかったが、土日も出勤し、帰宅は夜10時ごろ。子どもと話せるのは保育園の送り迎えの間だけで、寝かしつけは祖母に頼んでいた。その生活を続けるうちに時間の大切さに気づき、正社員を辞めてパートに戻った。今はお金よりも時間を優先している。

収入は月20万円前後に手当の4万円という水準からあまり変わっておらず、物価も上がっているため、たまに赤字になることもある。中学、高校と進めばお金はさらにかかる。息子も3年生になったので、正社員に戻ることも考えているが、夜9時、10時までの仕事は避けたい。一時はキャバクラやラウンジなど夜の仕事も調べたが、一緒に寝てあげたいという気持ちがあった。母や祖母、父に頼る生活はしたくないので、保育園、学校、学童を利用できる時間内に収まる昼のパートか社員しかないと考え、夜の仕事は断念した。どうすればいいか毎日考えている、と山口さんは言う。

「お父さんが欲しい」という息子の言葉

出産後に恋愛をした時期もあったが、ここ2〜3年はしていない。息子が小学校に上がってサッカーを始め、練習時間が長く土日もつぶれるチームなので、会う時間もお金もない。遊びの恋愛をする余裕はなく、するなら結婚を見据えたいが、そうなると考えることが増え、付き合う決心もつかない。24歳で9歳の子どもがいる自分を「誰が選んでくれんのかな」と山口さんは笑い、今は「子どもが彼氏」という気持ちで暮らしていると話す。

ただ、今年に入って、それまで何も言わなかった息子が急にぼそっと「お父さんが欲しい」と言った。サッカーチームには夫婦そろって応援に来る保護者が多く、それを見てうらやましくなったのではないかと山口さんは考えている。自分なりに2人分の愛情を注いできたつもりだったので、ショックと申し訳なさでいっぱいになったという。

息子は父親に会ったことの記憶がなく、自分に父親という人がいることも知らない。「俺はママから生まれてきた」と思っていて、父親について質問してきたこともない。山口さんは、息子が気を遣っているのだろうと受け止めている。

これからのことと助産師の夢

30歳までの目標を聞かれると、山口さんは収入面をしっかりさせることを挙げた。先輩ママたちから、子育てにかかる費用はどんどん増えると聞いているからだ。また、息子が15歳になれば当時の自分と同じ年齢になるので、女の子を傷つけない子に育つよう、教えるべきことを教えていきたいという。自分は高校生活や友達と遊ぶことをできるだけ我慢してきたので、息子にはいろいろな経験をして楽しんでほしいとも話した。

助産師の夢については、息子を産んだ病院の助産師と今も連絡を取り合っており、助産師になる方法や年数を聞いたこともある。ただ、勉強する時間がなく、費用もかかるため余裕がなく、いったん置いている。今は息子との時間を保てる仕事を探しつつ、同じように悩んでいる若年妊娠の人がいれば、話を聞くくらいはしたいと常に思っているという。

相談者に伝えたい「15歳の無力さ」

TikTokに少し投稿したところ話題になり、それをきっかけにABEMAなどに取り上げられた。TikTokのDMには相談も届くが、大半は「妊娠しているかもしれない」という内容で、実際に妊娠していてどうすればいいかわからない人と最後まで話せたことは、今のところないという。

聞き手が、中学3年生から「彼氏に求められていて、怖いので断っているが、嫌われたくない」という相談が来たらどう答えるかと尋ねると、山口さんは、したくないのなら「とことん止めなあかん」と答えた。そして、15歳がどれだけ無力かを伝えたいと話した。自分でも驚くほど本当に何もできず、自殺も考えたからだという。

山口さんが無力さを感じたのは、小さな出来事の積み重ねだった。妊婦健診は月1回から2週間に1回、1週間に1回と増えていくが、子どもである自分は一人で病院にも行けず、親の同伴が当たり前だった。出産が近づけば子どもの服やおむつをそろえなければならないが、稼ぐこともできず、すべて親のお金で買ってもらうしかなかった。

子どものために貯金したいと、一人で郵便局に通帳を作りに行ったこともある。手続きは途中まで進んだが、窓口の職員が山口さんが15歳だと気づき、親の承諾が必要だと言われた。親として子どもの通帳を作りに来たのに、自分の親を連れてこなければ作ってあげられないのかと感じた。普段は親として子どもを小児科に連れて行っているのに、自分が熱を出して病院に行こうとしたら、自分も小児科の対象だった。知らない人から「面倒見のいいお姉ちゃんやね」と言われることもあった。相手に悪気がないことはわかっていても、悔しいことが本当に多かったと話す。

死を考えた2つの時期

山口さんが死を考えたのは、妊娠中と出産後にそれぞれ一度ずつあった。妊娠中は、産むか中絶するかを決められずにいた時期だった。母も毎日泣いていて、産みたいけれど親に迷惑をかける、でも中絶する勇気も出ない。どうしようと悩むうちに、死のうかと思った。

出産後は、仕事と学校と子育ての両立が苦しかった。ある日、仕事からそのまま学校に向かう途中で保育園から発熱の連絡があり、授業に一つも出られないまま引き返した。その日は欠席すれば単位を落とす日だった。本来ならまず子どもの体調を気にしなければならないのに、最初に単位のことを考え、次に夜の仕事のことを考えてしまった。母親失格だと思いながら泣いて帰り、母親としての自信を失って、子どもと一緒に、と考えたこともあったという。

「すごいんじゃなくて、中絶する覚悟ができなかっただけ」

それでも今は幸せで、だからこそ過去を思い出話として話せる、と山口さんは言う。当時はこんなふうに暮らせるとは思っておらず、恥ずかしいことだとも感じていた。今は息子が不自由なく育ってくれていて、息子を通じて知り合った保育園の先生やママ友、サッカーチームの仲間と楽しく過ごしている。あのとき中絶していたらと考えると、逆に怖いほどだという。体力的にはしんどくても、9歳の息子の姿を見られていると思えば全部吹き飛ぶと話した。

周囲の大人からは「産んで偉いね」「子育てして偉いね」と言われ続けてきた。しかし山口さん自身は、すごいのではなく、あのとき中絶する覚悟ができなかっただけだと考えている。しんどい日は夕食がチャーハンだけの日もあるし、洗濯物を畳めずソファに置いたままの日もある。むしろ世の中の夫婦のほうがすごいと思う、と山口さんは言う。ママ友から「夫が横で寝ていて、毎回私ばかり」という話を聞くと、一人のほうが楽だったのではないかとも感じる。一人なら自分がやるしかないので、「なんでやってくれへんの」というストレスはない。しんどくてもストレスはなかった、というのが山口さんの実感だ。

結婚、パートナー、35歳からの人生

子どもとの時間を確保しながら収入を上げるのは難しい、という点で、山口さんと聞き手の認識は一致していた。以前、市役所の窓口で年配の男性職員に「結婚したらいいんですよ」と言われ、山口さんはひどく腹が立った。子どもがいる状況での恋愛がどれほど大変かわかっているのか、と思ったからだ。いい人がいて一度食事に行きたいと思っても、まず子どもを誰に見てもらうかから考えなければならない。それでも、現実的には結婚が一番いいことも山口さんは認めている。

相手の年齢は40歳でも構わず、むしろ落ち着いていて頼りになる人が理想だという。一方で、母親の交際相手による虐待のニュースも目にするので、相手を見極める力がかなり必要だと感じている。

息子が20歳になったとき、山口さんはまだ35歳だ。聞き手が「まだ何でもできる」と言うと、山口さんは息子を育て上げてから第二の人生を歩むのもありだと思っていると答えた。その間にパートナーが見つかれば一番いい。息子が「お父さんが欲しい」と言ってくれているので、その点では気持ちが楽だとも話した。男の子だからか、客観的に見てくれていて、嫉妬のようなものはあまりないのかもしれない、というのが山口さんの見方である。