42歳で四肢を失った元工務店経営者が、44歳でパラ陸上を始め日本記録を出すまで 久多良木隆幸さんの8年
街録ch〜あなたの人生、教えて下さい〜大分県で工務店を経営していた久多良木隆幸さんは、42歳のとき、致死率の高い「電撃性紫斑病」を発症し、両足の膝下と両手の指の多くを切断した。2年間の入院の後、44歳でパラ陸上を始め、投てき種目で日本記録を更新した。現在は50歳で、スポンサー契約の収入で競技生活を送っている。インタビューでは、発症から現在までの経緯、障害を負った後の日常の具体的な壁、そして本人が「障害者になってからの8年間は、それまでの42年間より濃い」と語る理由が話された。
義足で6年、運動経験ゼロからのアスリートデビュー
取材の日、久多良木さんは義足を隠さないスタイルで現れた。両足は膝下から義足で、両手の指もほとんどない。義足で歩き始めて約6年、病気になってからは8年になる。
最初は走ることから始めたが、本格的に競技を始めてからは、やり投げ、砲丸投げ、円盤投げといった投てき種目に移った。もともとスポーツの経験はまったくなく、本人は自分を「無いものねだりの極み」と表現する。アスリートとしてのデビューは44歳だった。発症が42歳だったので、そこから2年後になる。本人も「まさかこんな人生になるとは想像していなかった」と話す。
臨床検査技師から工務店経営者へ
久多良木さんは生まれてからずっと大分で暮らしている。中学では美術部、高校では生物部でニンジンのDNAを研究していたという内向的な学生だった。医療系の専門学校に進み、病院で血液などの検査を行う臨床検査技師として2年間働いた。しかし室内の仕事は向いていなかったらしく、いっぱいいっぱいになって病院を辞めた。
その後コンビニなどでアルバイトをしていたが、高校卒業後に大工をしていた弟の縁で、同じ工務店でアルバイトを始めた。社長自身が大工で、家の外壁にパネルを張るサイディング工事も請け負う会社だった。建築の基礎を一から教わり、外での仕事は性に合った。病院では常にアップアップだったのが、建築では伸び伸びと働けたという。
28〜29歳ごろ、社長が引退することになり、「お前は大工じゃないし経理もできるから、やってみるか」と声をかけられた。会社の基盤を引き継いで名前だけを変え、取引先もそのまま受け継いで経営者になった。業績は大きく儲かることも大きな赤字もない「普通」で、職人も最も多いときで3〜4人程度の安定した会社だった。ただ本人は現場に出ないと気が済まない性格で、経営者でありながら常に現場で社員と一緒に働いていた。家族がいて仕事も安定した、不自由のない生活を42歳まで続けていた。
電撃性紫斑病とはどんな病気か
久多良木さんは、元臨床検査技師として持っていた知識をもとに、病気の仕組みをこう説明する。電撃性紫斑病にはまず元になる感染症があり、それは肺炎球菌でも普通の風邪でもインフルエンザでもよい。その感染症で体が非常に弱ったとき、よく言われるのは「宝くじに当たるくらい」の確率で電撃性紫斑病に移行する。免疫の弱い子どもや高齢者に多く、働き盛りの人がかかることはほとんどないという。
ところが当時の久多良木さんは、自営業で仕事が途切れず、職人は休ませても自分は現場に出ていたため、約半年間休みを取っていなかった。ほぼ過労の状態で、時期は夏場だった。元になったのは肺炎球菌の感染症で、風邪のような症状から、弱り切った体が電撃性紫斑病に移行した。この病気は劇症型で進行が非常に速く、手足の先から血流が悪くなって壊死が進む。さらに多臓器不全を起こし、本人の話ではほとんどの臓器が壊れたという。
発症の日:朝は普通に仕事に出ていた
発症当日の朝は普段通りだった。朝食をとり、子どもを送り出し、職人を迎えに行って別府の現場で働いていた。午前10時ごろ、急に熱が40度近くまで上がった。近くの小さな内科に行くと、真夏なのに非常に寒く、熱は40度を超えていた。そこでは対処できないと言われ、救急車で救急病院に運ばれた。点滴で熱が1度下がったため、様子を見ることになりいったん帰宅した。
しかしその夜、激しい腹痛が起き、手足も痛み始め、熱は再び40度を超えた。腹痛は下痢の痛みとはまったくレベルが違い、お腹の中を強くねじられるような痛みで、脂汗が出て声も出なかったという。大分市内の救命救急の病院に救急車で運ばれる途中で意識を失い、そこから意識不明になった。
内臓が同時に損傷していき、体は浮腫で膨れ上がった。当時体重は約70kgだったが、100kg近くまで膨らんだという。体中に紫色の斑点も出た。久多良木さんによれば、成人が発症すると助かるのは30%ほどだという。回復後にSNSで同じ病歴の人を探したが、日本ではまだ数人にしか会えていない。生き残っても手足を失い、ひどい場合は血流が途絶えて鼻が壊死することもあるという。
助かったのは「運が良かった」から
久多良木さんが繰り返し口にするのが「運が良かった」という言葉だ。電撃性紫斑病は非常に珍しく、知らない医師もいる。治療経験のない救命医だと、症状が同時進行で悪化していくため対応に追われてしまうという。ところが偶然運ばれた病院の担当医は、それまでに2回ほど電撃性紫斑病を診たことがあった。症状を見てすぐに電撃性紫斑病と判断し、専用の治療を始めてくれた。血液を常に入れ替える24時間の透析を行いながら、他の治療もすべて同時に進めたという。本人は、知識がなければこの治療はしないだろうと話す。
それまで骨折すらしたことがなかったため、家族も動揺した。意識不明は14日間続いた。10日目か11日目ごろに体が覚醒しそうな兆候があったが、医師は今起きると体がもたない可能性があると判断し、残りの3〜4日は薬で意図的に眠らせた。14日目に薬を止め、そこで目が覚めた。
ICUで目覚めて:すでに切断は始まっていた
目が覚めたとき、痛みを抑えるための強い薬が入っていて、意識はぼんやりしていた。記憶は救急車で運ばれるところまでしかない。気づけば小さなICUの部屋にいて、体は動かない。口と気管切開した部分から管が入り、体中から管が出ていて、部屋の半分ほどが機械で埋まっていた。
意識のない間に、医師は妻の許可を得て、両足首と指の半分以上をすでに切断していた。壊死が進む病気なので、悪いところはできるだけ早く予防的に切断し、良いところを少しでも多く残すという判断だった。ただ目覚めた直後は感覚がほとんどなく、手があるかどうかも考えなかった。2〜3日はそんな状態が続き、そばで家族が泣いているのを見て「何かあったんだろう」とは分かった。状況を正確に理解したのは、目覚めて4〜5日後に管が抜け、言葉が出るようになってからだった。声が十分に出ないため、文字盤を指さして意思疎通したという。
その後も病状はゆっくり進んでいた。倒れて1か月ほどたったころ、主治医から膝下で切断してはどうかと相談された。医療の知識があった久多良木さんは、中途半端に残して悪化するよりはと、すぐに切断を決めた。その後も2〜3回の切断手術を受けている。
「これは死ねない」:家族と心の浮き沈み
当時は42歳で、小学生の娘が2人いた。家を建ててまだ2〜3年、会社には借金もあった。夏休みに入った娘たちは毎日病院に来た。通常ICUには入れないが、看護師が気を利かせてベッドサイドまで連れて来てくれた。娘たちはベッドの横で宿題をしていた。手足はなく体も動かなかったが、久多良木さんは「これは死ねない」と思った。そう思えたから助かったのかもしれない、と振り返る。
一方で精神的な落ち込みも大きかった。仕事ができなくなること、借金があること、これから子どもにお金がかかることはすべて分かっていた。夜中に突然目が覚め、何をしているわけでもないのに涙が流れる時期もあった。それでも日中に娘たちを見ていると、このまま寝たきりになってはいけない、何かしなければいけないという思いが強く、2年間の寝たきり生活の間ずっとどうするかを考えていた。
娘たちにとっても衝撃は大きかった。意識不明の14日間、一晩もつか分からない状態だったため、主治医は「お父さんに会える最後かもしれない」と妻と娘を呼んだ。体がパンパンに膨れ、外見からは本人と分からないほどだった。あまりの変わりように長女は腰を抜かして車椅子で退出し、次女は固まって下を向いたままだった。駆けつけた久多良木さんの母は、妻の後ろに隠れて見ていたという。妻は医師の説明を聞いて状況を飲み込むのがやっとだった。その経験があったからこそ、寝たきりとはいえ父親が戻ってきたことが嬉しかったのだろう、と久多良木さんは語る。娘たちはしばらく彼のそばを離れなかった。障害のある父と7〜8年暮らしてきたことで、障害者とも他の子より自然に接することができるようになっているという。今でも娘たちとは仲が良く、一緒に美容室や買い物、ドライブに行く。
壊れた臓器、入院中の生活費
2年という長い入院になったのは、壊れた内臓の状態がある程度落ち着かないと退院できなかったためだ。肝臓や腎臓などさまざまな臓器に、がんではない水のようなものが突然でき、病状が落ち着くと縮んで消えたが、その跡は空洞になった。その時点で各臓器の機能はほとんど失われていたという。一度壊れた臓器は元に戻らず、今も食事制限がある。腎臓が壊れているため1日に摂れるたんぱく質の量が限られ、肝臓の影響で糖の処理もうまくいかず、血糖値が高くなるなどの問題がある。
入院中は無収入だった。保険で医療費はある程度出たが、ずっと出るわけではない。会社は清算して借金の返済に充て、残りは従業員だった弟に退院まで立て替えてもらった。家計は共働きで会社員として働いていた妻に頼り、「おんぶに抱っこ」だったと振り返る。
ベッドの上で見つけた義足ランナーの動画
入院期間2年のうち1年半は、救急で運ばれた病院で内臓の治療を受けた。良くも悪くもならない状態まで回復したところでリハビリ病院に移り、義足を作って歩行訓練を始めた。42歳で倒れ、家に帰れたのは44歳だった。
両足義足は片足に比べて歩けるまでに時間がかかるが、早い人なら半年ほどで普通に歩けるようになるかもしれないという。久多良木さんは最終的に約10か月リハビリを行い、退院時には健常者と同じくらい歩ける状態になっていた。
当初のリハビリは、日常生活ができるレベルを目標にした通常メニューだった。転機は、指がだいぶ動くようになってスマートフォンを操作できるようになったことだ。じっとしていられない性格の久多良木さんは、スマホで調べまくった。そこでSNSで見つけたのが、大阪の50歳ぐらいの、本当に普通のおじさんが片足義足でマラソンを走る姿だった。走る姿がとてもかっこよく、一気に引き込まれた。義足で走れるのだと知ったのが始まりで、自分も走れるのではないかと考えた。一晩中その人の動画を見続け、翌朝には担当の理学療法士を呼んで「俺は走るから、リハビリのメニューを変えてくれ」と伝えた。
担当の若い男性理学療法士は話をよく聞いてくれ、走りたいという気持ちを汲んで一緒に調べ、担当医と相談してリハビリのメニューをすべて組み替えてくれた。そこから筋トレも始まった。
たんぱく質制限の中での体づくり
ただし当時の体は、筋肉がほとんど落ち、体重は50kg台前半まで減っていた。寝返りも自分で打てなかった。栄養摂取にも制限があるため、栄養士も加わり、どうやって運動できる体に持っていくかを検討した。まずは寝たままできる体幹トレーニングから始め、それは死ぬほどきつかったという。
筋肉をつけるにはたんぱく質が必要だが、久多良木さんはプロテインを飲めない。そこで年単位の計画で、まず脂肪をつけて体重を増やし、無理のない範囲で筋トレをしてそれを筋肉に変えていく方法をとった。44歳で退院してから6年間で体重は30kg近く増え、今は80kg近い。ただしたんぱく質が十分に摂れないため、すべてを筋肉に変えることはできず、筋肉と脂肪が半分ずつだという。指がないのでダンベルもうまく持てない。砂の入ったリストバンドを手足に巻いて負荷をかけ、自重トレーニングで筋トレや体幹トレーニングを続けている。
病気になる前は、子どもが大きくなったら引退して田舎で野菜を作りたいという、ごく普通の将来を思い描いていた。スポーツは学校の体育以外にやったことがない。それでも厳しいリハビリを乗り越えられたのは、20年ほど建築業で現場に出て、暑い中で重いものを長時間運んできたことで、体力と根性がある程度あったからだろうと本人は考えている。
退院後に立ちはだかった段差、風呂、トイレ
入院中の環境は整っていた。洗面台は車椅子で使える高さで、料理の練習をする調理台も低く、トイレには必ず手すりがある。そこでリハビリをしていると何とかなると思えたが、家に帰るとできないことだらけだった。
外を歩くと、それまで考えたこともなかった歩道の段差に気づいた。数百メートル歩く間にも歩道は途切れて段差があり、その一つ一つがきつい。外の生活に慣れるまで退院後2か月ほどかかった。
家の中では浴槽に入れない。足がないだけなら腕で体を押し上げる「リフトアップ」で浴槽に出入りできるが、久多良木さんは指がなく、残った指も拘縮して曲がっているため、体を持ち上げると指が痛む。そのためこの6年間はシャワーしか浴びていない。トイレも和式は無理なので必ず洋式を探す。障害者用トイレなら広くて立ち座りが楽だが、どこにでもあるわけではない。狭いコンビニのトイレを借りて座ったものの、手すりがなく立ち上がれず、壁を押しながら何とか立ち上がることもある。
手動装置で車の運転を取り戻す
地方では車を運転できないと生活が成り立たない。特に久多良木さんは子どもの送り迎えをしたかった。そこでリハビリ入院中に、身の回りの訓練を担当する作業療法士に「何とかして運転したい」と相談した。今は車を改造しなくても後付けできる手動の運転装置が販売されている。それをネットで購入し、病院の車に取り付けて、まず病院で練習した。
その後は病院が自動車学校と交渉してくれ、週1回ほど病院スタッフが自動車学校に連れて行ってくれて練習した。運転免許試験場で手続きをし、この状況なら運転できると認められて免許を更新した。今は自分で運転し、九州内の大会なら自分の車で行くという。
遠征費1回10万円
陸上選手として全国の大会を転戦するようになると、宿泊が新たな問題になった。一般的なビジネスホテルのユニットバスは、浴槽の中でシャワーを浴びる形式なので使えない。泊まれるのは、風呂とトイレが独立した部屋か、車椅子でも自分で入浴できる障害者向けの部屋があるホテルに限られる。安くても1泊1万円ちょっとで、3泊4日の遠征になるとホテル代だけで4〜5万円かかる。
九州内なら車で行けるが、関東や東北には飛行機で行くため往復の運賃がかかる。現地の移動はタクシー、良くてJRだが、条件によっては乗れない交通機関もある。そのため1回の遠征で10万円ほどかかり、東京など宿泊費の高い都市ではさらに高くなるという。
病院の院長から始まったスポンサー、そして日本記録
退院して陸上を始めた当初は、貯金を切り崩して活動していた。最初のスポンサーは、リハビリに通っていた病院の院長だった。「陸上を本気でやりたいなら、うちが支えてあげる」と言ってくれたという。退院直後で収入がなかったため、久多良木さんはその病院で障害者雇用の病棟クラークとして働きながら練習し、同時にスポンサーとしての支援も受けた。これが1年ほど続いた。
両足義足で両手もない選手は目立つため、地元の新聞社やテレビ局が取材するようになり、名前が広まっていった。国体のパラスポーツ版にあたる全国障害者スポーツ大会に、大分県代表として2年連続で選ばれた。2年目にはスポンサーが4社ほどに増えた。もっと本気でやりたいと妻に相談し、パラ陸上の選手登録をして全国の公式大会を転戦するようになった。
この頃には、走るよりも投げる方が自分に合っていると分かり、やり投げ、円盤投げ、砲丸投げに切り替えていた。そして3年目には日本記録を更新した。日本記録保持者になるとスポンサーはさらに増え、今は7社と年間契約を結び、その収入で生活している。メインスポンサーは2社で、障害者になった時から支えてくれている病院と、去年から加わったフランスの義肢装具メーカー、プロテオールだ。取材当日もプロテオールの服を着ており、競技用義足はすべて同社が提供している。
日本記録保持者でもパラリンピックには出られない
久多良木さんは、自分は「多分パラリンピックに出られない」と言う。50歳という年齢に加え、パラリンピックには両足義足のクラスがないからだ。投てきは踏ん張りが効かないと遠くに飛ばないため、どうしても片足義足の選手が有利になる。国際大会に出てくるのは片足義足の選手ばかりだという。
本人の説明では、やり投げの日本記録は自身の約22mで、両足義足の世界記録は35m、あと10mほど伸ばせば届く。一方でパラリンピックに出るための片足義足のレベルは50mほど飛ぶため、あと30mほど伸ばす必要がある。砲丸投げは道具が重いぶん差は小さいが、それでも3〜4mの差があるという。
企業にとっては、どれだけ頑張ってもパラリンピックに出られない自分は宣伝効果の面で条件の悪い選手だと思う、と久多良木さんは話す。それでも、大分でパラスポーツの普及活動をしているなら協力したい、とスポンサーになってくれる企業があり、本当にありがたいという。
80歳、90歳まで:「生きてるようにしか死ねない」
いつまで競技を続けたいかという問いに、最初は特に考えていなかったと答える。しかしマスターズ陸上では80歳、90歳で100mの世界記録を出す選手がいる。大分にも80歳ぐらいのそうした選手がいて、同じ競技場で練習している。負けていられないので、体が動く限り、80歳、90歳まで、あと30〜40年は続けたいという。
もう一つ、義足について調べていた時期に出会った言葉がある。「生きてるようにしか死ねない」。どこで見たかも覚えていないが、強く刺さった。人は生きてきたようにしか最期を迎えられない、という意味だと自分なりに解釈し、それ以来、何をする時も笑うようにしている。死ぬ時に笑っていたいからだ。どんなにきつくても笑うので、どこへ行っても笑っているという。病気の前はおそらく笑えていなかった、と本人は振り返る。
失って初めて分かったこと
久多良木さんは、死にかけないと分からないことがあると話す。空気を吸い、食べたいものを食べ、行きたい場所へ歩いて行き、ものを手で取り、きれいなものを見て、音楽を聴く。普段は当たり前にできていることが、事故や病気で一つ歯車が狂うと突然できなくなる。その時にようやくありがたみが分かる。だから講演ではいつも、「皆さんは今、実はすごく幸せなんです。元気なうちに、ありがたいと思って、やれることをやり尽くしてください」と話しているという。
「なぜ走るのか」とよく聞かれるが、それは無いものねだりに近いという。足がなくなるまで走ったことはなかったのに、足がなくなって走り出した。物を投げることもほとんどなかったのに、両手がなくなって投げている。
象徴的な体験として挙げたのが「風」だ。足があった頃、走っていて風が当たっても、風を切って走っていると意識したことはなかった。足を失った後、最初は小走りのような走り方だったが、支援者に競技用義足を買ってもらい、初めてそれをつけて走った時、風が当たるのを感じた。「足がなくなったけど走れている」という、それまで味わったことのない感動だったという。何より大事なのは「今」で、今ならやりたいことは何でもできる。その「今」をどれだけ楽しめるかが一番大事だと、障害者になってから思うようになった。もっと早く気づきたかった、とも話す。
42年より濃い8年、要介護5から要支援1へ
久多良木さんは、障害者として過ごした8年間の方が、それまでの42年間より「めちゃくちゃ濃い」と言う。学生時代も楽しく、妻と出会って結婚し、子どもが生まれ、家も建てた。楽しいことはたくさんあったが、経営者として無理をしていたところも多かった。障害者になってからは足かせが外れたようで、家族への感謝に加えて、自分にとって大切なものを大切にして生きるようになった。生活の質は障害を負ってからむしろ上がっている、と本人は言い切る。
介護認定の変化も話題に上がった。寝たきりの頃は最も重い要介護5だったが、毎年の更新のたびに状態が良くなり、要介護から外れて要支援になった。その中でも最も軽い要支援1が残っているのは、指の拘縮が進むため週1回のリハビリが必要だからだろうと本人は考えている。これもいずれ外されるのではないかと笑う。寝返りも打てなかった人が、今は月1回ほど全国に出張して陸上の大会に出ている。
講演は子ども向けのものが多いが、60〜70代の高齢者向けの講演も少なくない。漫画家になりたかった、バンドで音楽をやりたかったなど、夢を諦めてきた人は多い。話を聞いた人から、70歳でまた絵を描き始めた、おじいちゃんたちでバンドを組もうという話が出ている、と聞くと嬉しいという。「あなたの話で考え方が変わった」と言われると、自分も相手も嬉しい。そうした活動をずっと続けている。
なぜ前を向けたのか:出会いと運
誰もがこのように明るくなれるわけではないのでは、という問いに、久多良木さんは一番大きかったのは「生きてるようにしか死ねない」という言葉と、大阪の50歳代の義足ランナーとの出会いだと答えた。その男性とは今も地域のイベントなどで会い、話をさせてもらっている。尊敬している人だという。気づくきっかけがなく、落ち込んで寝たきりのまま引きこもってしまう人もいるはずで、きっかけが大事だと考えている。
そして結局は「運がいい」のだと繰り返す。倒れた時に電撃性紫斑病を知る医師が診てくれたから生き残った。一生懸命働いてくれる妻だったから生活を支えてもらえた。指がスマホを触れるまで回復したから、あの男性の動画に出会えた。競技を続けるためのお金も、企業が支えてくれている。家族がいなかったら負けていた可能性もあったかと問われ、それはあっただろうと認めた。
本気で陸上を始めてからの出会いも大きかった。大分にはレジェンド級のパラアスリートがいる。片足義足で知られる女性選手と話す機会があり、パラアスリートがこれほど実直に競技に取り組んでいるのかと感じた。パラリンピックに何度も出場し世界的な記録を持つ大分の車椅子のプロアスリートのラジオ番組にも呼ばれた。その人たちが「めちゃくちゃかっこいい」と思ったことが、自分もかっこいいと思われるように、笑顔を振りまいてみんなを笑顔にすれば何か返ってくるのではないか、という思いにつながった。
1日10分、自分のための時間
40代から何か始めてもいいのかという問いに、久多良木さんは「年なんて関係ない」と答えた。スポーツに限らず、小さい頃にやってみたかったこと、忙しくて諦めていたことを、1日10分でいいから始めればよいという。ギターを弾きたかった時期があるなら、ギターを買うという形から入り、10分でも触る時間を作る。移動中の10分でもよく、10分ならどんなに忙しくてもひねり出せる。それだけで生活が変わると話す。
趣味がなく、仕事が趣味のようなものだというインタビュアーに、久多良木さんは自分も同じだったと応じた。そして、自分のために最初に取った10分は陸上ではなかったと明かした。子どもの頃に大好きだったガンダムだ。年を取るとプラモデルを作る年でもない、ガンダムを見る時間もないと思っていたが、障害者になって自分のための10分を作ろうと考えた時、まずガンダムに戻った。うまくできないながら、1日10分黙々とプラモデルを作る。すると昔やりたかったことが頭の中で次々によみがえってきた。ギターを持っていた時期があった、英語を話してみたいと思ったこともあった。そうしたことに片っ端から1日10分ずつ取り組むうちに、気持ちが前向きになり、楽しい時間を作ると体も動いてくる感覚があったという。
最後に付け加えたのが、どんなに腹が立っても笑っていることだった。腹を立てて怒ると、結局は自分の心にマイナスが溜まり、嫌な思いもする。できるだけ流す方向に持っていけば自分へのストレスが和らぐ。だから笑っていた方がいい、というのが久多良木さんの結論だった。
最初から。あ、でもこれで大丈夫です。大丈夫ですか?よろしくお願いします。はい、よろしくお願いします。
普段からこういう義足スタイルで?
もう義足スタイルで、隠すことなく堂々と歩いてます。
これってだから、えっと、膝下から切断されてるって感じなんですかね。
そう。はい。両足膝下、両手がない感じです。
義足で歩き始めてからどれぐらい経つんですか?
今ちょうど6年。義足になってから6年です。
病気になってからは8年。
あ、そうです。はい。
で、義足、義足でも、そのなり方が病気ってことなんですか?
そうですね。珍しい病気ですね。
義足を両足でつけても走ったりとかします?
そうですね。最初走るところから始めて、本格的に競技始めてからは今、投てきって言って、槍投げとか砲丸投げとか円盤投げとか、投てきの方の競技にシフトしてるんですけど、最初は走ってましたね。
別に元々そういうスポーツやってたわけじゃないんですもんね。
全くですね。もうインドアの極みみたいな。
え、だからもう、そのアスリートデビューで言うと何歳なんですか?
アスリートデビューは44ですね。病気になったのが42の時だったので。
44歳から人はアスリートになれるってことなんで。
いや、そうなんですよね。
すごいですね。自分も想像してなかったんで、まさかこんな人生になるとは。久多良木さんが、そうなる前の話、病気になる前の話を聞きたいんですけど。
あ、前ですね。いいですよ。
え、まず久多良木さん、大分出身?
もうずっと大分です。生まれてからこの方、もう今年で50ですけど。
病気になるまではどんな生活を送ってたんですか?当時。
え、どんな…もう普通の。ま、自分で会社は経営してたので。えっと、工務店を経営してたんですよ。で、もうずっとその工務店を経営しながら、家族と普通、もう本当普通に生活してて。何の特徴もなく大分で生まれて。
はい。で、その会社を何歳で作った?
えっとね、僕ね…。で、中学高校、ま、当然ずっと小学校から高校まで大分。で、医療系の専門学校に進んで、それも大分で、ずっと大分で学生時代を終えて。
まず1番最初に僕、医療系の専門学校に行って、その後、臨床検査技師って言って、病院でその血液検査とかする、あと聴力の検査とかですね、検査をする職業についたんです。
で、2年間病院で働いて、でも室内で働くのがどうも向いてなかったみたいで、いっぱいいっぱいになっちゃって。それで、もうそこで辞めちゃったんですよ、病院をまず。
病院まず辞めて、コンビニとか、いろんなとこでバイトをしてて、で、弟が元々高校出て大工をしてたので、そこの工務店で、じゃあアルバイトさせてくださいって言ってアルバイトに行ったのが初めで。
ああ。
それで、やっぱ建築系ってやっぱ外の仕事が多かったので、やっぱ向いてたんでしょうね。
へえ。
もう全然違ってですね。病院の時はもうアップアップしながらいっぱいいっぱいになってたんですけど、えらいのびのびと。
建築系は、大工とか?
そうです。大工さんの会社です。
へえ。
僕がそのアルバイトで行った、ま、最終的には就職するんですけど、アルバイトに行ったところは、社長が大工で、大工もメインでやってる大工さんで、で、それプラス、家の外壁工事、サイディング分かります?家の外壁に貼ってるパネルを貼る工事とかを受けて、そういう仕事もしてる会社だったので。
へえ。
だから、そこで建築のイロハを1から全部教えてもらってですね。で、もうやっぱ水が合ったんでしょうね。続いて、29の時にその働いてる先の社長がもう引退するっていう話になって、で、お前元々大工じゃないし経理とかもできるから、あれだったらやるかって話で、その会社の基盤をいただいて、そのまま名前だけ変更して経営者になって、会社をいただいて、あと取引先もいただいて。
へえ。
だから28の時に独立ですね。結局42まで続けたんですけどね。
その会社の業績というか調子自体は?
もう普通です。大きく儲かることもなければ大きく赤字を打つこともないし、で、職人も数えて1番多い時で3人か4人ぐらいしかいなかったので。
めちゃくちゃ安定してる。
ああ、です。ただ僕の気持ち的には、自分が現場に出なきゃ気が済まない人間だったので、基本自分経営者ですけど、常に現場に出て仕事をしながら、社員と一緒に回してくような形だったので。
その、家族もちゃんといて、ま、仕事も安定してて。
はい。
ま、何不自由ない生活っていう状況。ま、そうですよね。
はい。
で、それで…
あ、そうです。紫斑病ですね。
これ、電撃性紫斑病。
うん。はい。
その電撃性紫斑病っていうのは、本当に前触れもなく突然やってくるんですか?
うん。そうですね。一般的にはとても珍しい病気で、元々僕病院で働いてたので、ある程度病気の知識があったのであれなんですけど、電撃性紫斑病って大元になる感染症がまずあるんですよ。それはもうどの感染症でも一緒です。肺炎球菌の感染症でも、普通の風邪でも、インフルエンザでもそうなんですけど、1つの感染症にかかった時にとても体が弱ると、確率的にはよく言われるのは宝くじに当たるぐらいの確率で、その電撃性紫斑病に移行しちゃうんですよ。だから大元の病気は何でもいいんですよ。
感染症、なんでもない風邪がそこに発展する可能性が、宝くじぐらいの可能性である。そうです。そうです。
ただ、どうしても免疫機構的に考えて、小さい子であるとかお年寄りになると免疫がやっぱ弱くなるので、だから病気としては小さい頃に発症したり、あとお年を召した方が発症することが多い病気なんですけど、やっぱこうバリバリ働いてる時は免疫がしっかりしてるので、なかなかそこまで移行することはないんです。ほとんどないですね。
でもたまに僕みたいに…僕当時その病気にかかった時に、半年ぐらい休みを取ってなかったんです。忙しくて。
ふーん。過労気味だった。
もうほぼほぼ過労気味ですね。もう自営業だからしょうがないんですけど、仕事があれば当然行くし、職人は休ませてあげなきゃいけないけど、僕現場出るから、半年ぐらいちょうど休み取ってなくて、体がもうくたくたの時期で、で、夏場だったので、ま、そこでもう、僕の大元は肺炎球菌の感染症だったんですけど、風邪のような症状が出て、そこから弱り切ったところに電撃性紫斑病に移行して。で、電撃性紫斑病っていうのに移行すると、もう劇症型って言って、すごい速度で病気が進んでいくんですよね。端から血流が悪くなってどんどん壊死が進んでいくんですよね。で、プラスあと多臓器不全って言って、僕の場合は心臓と脳以外の臓器が全て壊れちゃいました。
え、それって、今は後になって、こういうことかって説明から分かってるじゃないですか。何にも知らない状況としてはどう感じてるんですか?
えっとね、僕病気になった時、当然経営者で、朝普通に起きて普通にご飯食べて、子供を送り出して、それから職人を迎えに行って、当時別府の現場だったんですよね。現場に行って働いてたんですけど、なんか急に熱が上がって、朝の10時ぐらいだったかな。もういっぺんに40°近くまで熱が上がって、で、おかしいなってことで、すぐそばにあった内科の小さなクリニックに行ったんですけど、真夏なのにもうすごい寒くて。
で、熱測ったらもう40°超えてるしで、病院で対処できないからってことで、もうすぐ救急病院に行ってくれってことで。で、もうそこから救急車使って救急病院に行って、で、その時は点滴を打ってたら熱が1度下がったんですよ。
で、先生も一度ちょっと様子を見ようってことで一度帰ったんですね。で、帰ったんですけども、その日の夜にはまたものすごくお腹が痛くなって、足とか手も痛くなってきて、で、また熱も40°超えるぐらい上がっちゃって、これはもう無理だなってことで、大分市内の救急救命の病院にまた救急車で運ばれて、で、もう運ばれてる間に僕ちょっと意識がなくなっちゃって、で、もうそこからは意識不明です。
もう、自宅で高熱がまた、お腹が痛くなって…
はい。夜中ですね。
もうその痛み、どれぐらいの痛みなんですか?人生でないぐらいの?
もうね、よく腹痛になるじゃないですか。下痢でとかなるでしょ。もうなんかそういうのとレベルが違うんですよね。なんかね、お腹の中でもう超ねじってるような痛みなんですよ。
へえ。で、もう冷や汗だらだらで、もう声も出ないし、痛くて、もうとにかく救急車呼んでくれってことで救急車で運ばれて、もう運ばれてる時に意識がなくなって意識不明になって、すぐ救急救命の部署に運ばれて、先生もてんやわんやですよね。突然来て、で、内臓も同時に全部やられていくので、体はもう浮腫で、当時僕70kgぐらいだったんですけど、もう100kg近くまで体が膨れ上がっちゃって。
100kgまで膨れ上がる。
そうです。浮腫って言って、体の水分調整がうまくできないので、もう体中水ができて、こう膨れ上がっちゃって、もうパンパンだったらしいです。
え、それって、取り入れた飲み物とかが膨張してるってことなんですか?
どういうことなんですかね?電撃性紫斑病って、その血流の障害が出て斑点が出るんですね。で、体中に紫の斑点が僕の場合は出て、基本その成人の方が電撃性紫斑病を発症すると、大体もう30%ぐらいしか助からなくて。
もう大半亡くなっちゃうんですか?
亡くなっちゃいます。
だから僕運よく助かったんですけど、助かってからSNSで同じ病歴の方って探したけど、日本で数人しかまだ会ってなくて。
もっとかかった人いるけども、大体最期は亡くなっちゃうかな。
うん。そうですね。もう皆さん亡くなって、で、ま、生き残っても僕たちみたいに四肢欠損、手足がない状態でまず助かる。あとひどい人になると、やっぱ鼻がもげちゃったりとか。端からどうしても血流が悪くなって壊死しちゃうので、黒くなって。で、僕の場合はでもね、運が良かったんですよね。通常お医者さんでもその電撃性紫斑病って知らないお医者さんいるんですよ。とても珍しい病気なので。だから当然その治療したこともない先生たちばかりなんですけど、僕の場合はその偶然運ばれた救急救命の病院の担当してくださった救急救命の先生が、今まで2回ぐらい電撃性紫斑病を見たことある先生で。
へえ。
もう僕の症状を見てすぐ、あ、これ電撃性紫斑病だからってことで、それ専用の治療をしてくれたんですよ。
もうそれ2度経験してるから、それ全く経験してない人とは全然違いますよね。
通常知らない救急救命の先生だと、もう症状が同時進行で体悪くなっていって、そのまま亡くなるぐらいまで悪くなっちゃうので、もうテンパっちゃうみたいですね。でも僕の場合はもう本当運が良くて、その何度も見たことある先生が見てくれて、すぐ電撃性紫斑病だって分かったので、24時間の透析って言って、血液を常に新しいものに入れ替える治療をしながら、他の治療も全て同時進行で。
血を入れ替えながら治療をしなきゃいけないっていうのを、やったことある…
わかんないです。わかんないです。わかんないです。もう医者でも多分知識がないとしないと思います。
うん。僕の場合はそれまで病気っていう病気したことなかったので、家族もテンパっちゃって。骨折1つしたことなかったので。
で、意識失ったって言ったじゃないですか。回復するのはその何日後なんですか?
僕の場合はえっと、2週間なんで14日後に意識が戻りました。
14日間眠ってるってこともあるんですか?
そうです。そうです。意識が全く戻らなくて。僕の場合は倒れてから14日間のうち、最後の4日間ぐらいは、先生が体のことを考えてわざとお薬で眠らせてくれてたような感じ。10日目か11日目ぐらいに体が覚醒しそうだなっていう状況があったらしいんですけど、今起きても体が生命を維持できない可能性があるから、もうちょっとお薬を入れて安静にしたいってことで、残り3日間か4日間はその眠れる、昏睡する薬を入れてくれて。へえ。だから14日目にはもう、じゃあそろそろいいだろうと、お薬を入れていたのを止めて、そこから目が覚めた感じです、僕は。
え、目が覚めるまではもうやっぱ何の記憶もないですよね。
そうですね。でもなんか夢を見てたような覚えもあるんですけど、記憶っていう記憶はほとんどなくて。
起きた時、どんな感覚でしたか?
もうね、痛いとかいう感覚よりも、強い薬をずっと入れてるので、もう本当麻薬みたいなのを入れるんですよ。要は痛みを抑えるために。目は覚めてるんですけど、ちょっとぼーっとしたような感じ。で、覚えてるのは救急車で運ばれてるとこまでしか覚えてないので、意味わかんないですよね。知らない、なんかICUの小さな部屋で、で、体も動かない。もうこのままの状態なので、体の周りに機械がいっぱいあるのは見えるんですよ。で、管がもう口からも、気管切開してここからも管が入って、で、ルートも取ってるし、いろんな管が体から出て、管まみれ、機械まみれ。小さな部屋の半分ぐらいが機械に埋もれてたので。
で、その意識回復した時は、まだその足を切断してないんですか?
えっとね、僕の場合はもうその意識がない間に、妻に許可を取って先生がもう両足首と、指の半分はもう切断してました。もう少しでも早く切断した方が…要は壊死が進んでいく病気なので、もう予防的に悪いところは全て切断して、いいところを残して、ちょっとでも多く残そうっていう形で。
はあ。そう進行しちゃうんですね。
そうですね。ま、でも目が覚めた時ってそこまでわかんないですよ。もう体中薬が効いてて感覚がほとんどないので、手があるとかないとかも考えもしなかったし、ただここ今どこで、僕今何してるんだろうって感じ。だから2、3日はそういう日が続いたかな。でも家族ずっと横にいてくれて、なんか話しかけてくれてはいるんですけど、目は覚めてるけど意識はちょっと朦朧な感じ。
ああ、じゃ何言ってるかもあんまり分かってないみたいな感じなんですか。
一応分かってることは分かってるんですよ。ただね、隣で家族が泣いてるんですよ。で、自分はわけわかんないでしょ。隣で家族が泣いてて、まあ、でもなんかあったんだろうなってのは分かったんですけど、実際正確に分かったのは、もう目が覚めてから4、5日後、管抜いて言葉が出るようになって、少しずつお話ができるようになって。ま、完璧には声が出ないので、もう指さして文字盤みたいなやつで意思疎通するような感じで。だからもうその時には多分もう切断してたと思います。
最初、足、足首だけです。1番最初意識がない時に両足首の切断、あと指の半分以上切断を受けたんですけど、結局その病状、ま、横ばいになるまでいろんな治療して、で、最終的にもう膝下で予防的に切断した方がいいだろうと。やっぱちょっとずつ進んできてた。もうこれは膝下でよければ切りませんかってことを主治医の先生から僕に直接相談があって、大体1ヶ月目ぐらいだったかな、倒れて。僕も元々その病院で働いてて、ある程度知識があったので、それはもう切ってくださいってことで。そこはもう中途半端に残して悪化するよりだったらってのは、すぐ判断できたんです。
もう、その当時はね、もうただ生きたいだけだったので。もうわけの分からない病気でしょ。で、もう体もガタガタだし、もう精神的にもね、やっぱね、色々こう追い詰められる。ま、当時僕42で、娘2人いるんですけど、小と小2だったかな。で、まだ働き盛りでしょう。家建ててまだ2、3年の頃だし。
あ、そうなんですか。
会社も借金あるし。こりゃ死ねないなと。子供たちがその夏休みに入ったからですね、毎日こう病院に来て、で、ICU普通入れないんですけど、看護師さんが気を利かしてくれてベッドサイドまで連れて来てくれてたので、毎日のように僕の横で宿題とかやってたので。
死ねなくないすか?確かに。
手足はないけど、体も当時全然動かないけど、これは死ねないなと思って。
は。
ま、だから、でも逆に言えばそれがあったから助かったのかなっていうのはありますけどね。
はい。え、そのメンタルの浮き沈み具合で言うとどうなんですか?
すごいすよ。今こうやって笑って話してますけど、当時は、両手足切断して、その後も2回3回切断手術を受けて、で、当然もう仕事はできなくなるのも分かってたし、当然借金もあるのも分かってたし、子供たちは今から大きくなるからお金がいるのも分かってたし、やっぱそうなった時に考えたくないですよね。で、メンタル的にはうわ、どうしようっていうのもあったんですけど、だから夜中とか急に目が覚めて、何かをしてるわけじゃないけど涙が流れたり。
やっぱそういう時期もあったんですけど、やっぱこう日中子供たちが来て、子供たち見てると、あ、このまま寝たきりになっちゃダメだなってやっぱ強くあって、何かしなきゃダメだっていうのが当時あったので、だからその時から、病院でこう僕2年間寝たきり生活を続けるんですけど、ずっとどうするか考えてました。
2年入院してるんですか?
もうどうしても内臓全部壊れちゃってるので、そちらの症状が一定程度治らないと退院できないんですよ。リハビリは…
何があるかわかんない。
そうです。そう。
内臓、何が壊れたんですか?
えっとね、僕の場合はいろんな内臓に突然腫瘍ができて、肝臓であるとか膵臓であるとか、あと腎臓であるとか、いろんなところに腫瘍ができたんですよ。
それってガン?
と違うんですよ。水みたいな腫瘍が突発的にできて、で、病気がだんだん治ってくると、それが縮んでなくなるけど、そこ空洞になっちゃって、その時に各臓器の機能がほとんど壊れちゃってるんですよね。だから僕今でも食事制限あるし、やっぱ壊れた臓器って1回壊れちゃうと治らないや。
ああ。だからその臓器がいくつか壊れたことで、今どんなことができなくなっちゃって?
えっと、まず腎臓が壊れてるので、タンパク質をいっぱい取れないんですよ。1日に取れるタンパク量っていうのが制限があるので。だから食べるものは当然気をつけなきゃいけないし、あと肝臓が壊れちゃってるので、糖質がうまくいかないから、そんなに僕糖分取らないんですけど血糖値が高かったりとか、やっぱいろんなマイナスはありますよね。
そうで、今で言うと、2年入院してるっていうことは、2年間無収入になっちゃったってこと?
そうですね。ま、でも保険があったので、保険でその医療費はある程度は出るんですけど、でもずっと出るわけではないので。で、会社してて、ま、当然借金もあったからですね。だから、とりあえず会社を清算して、それを借金返済に当てて、で、残りの借金は、僕弟が従業員でいたので、弟にちょっとお願いして、その間立て替えてもらって。僕が退院するまでですね。
その間の生活はどうなってたんですか?
えっとね、うちは共働きだったんですよ。で、妻も自分で仕事をしてるので、ま、サラリーマンですけれども。だから、もうその当時はもう妻におんぶに抱っこです。もうずっと妻が支えてくれてました。
大変じゃないですか。普通にシングルマザーぐらいの状況。
いや、です。僕はもうずっと寝たきりですしですね。
はい。両手指、両足切断とかってなってから、娘さんたちとかどんな反応だったんですか?
娘たちはね、僕が倒れて救急救命病院で寝たきりだった14日間、本当にすごかったみたいで。体はもう浮腫でパンパンに膨れ上がる。もう外見から僕って分からない状況だったんですよ。で、一晩持つかどうかわかんなかったので、主治医の先生が妻と娘を呼んでくれたらしいんですよ。
もうお父さんに会える最後の時かもしれないってことで。で、病室に入った時にもうあまりの風貌の変わりように、長女は腰を抜かし車椅子で退出していき、次女はもう固まっちゃってずっと下を見てるような状態。うちの母とか父も駆けつけてくれていたらしいんですけど、もうあまりの状況に、うちの妻の後ろにうちの母が隠れて見てるみたいな。
へえ。
で、妻ももう状況飲み込むのがやっとで、もうただただ先生の言うことを聞いてるような状態。お話を聞いて、あ、そういう状況なんですねっていう状況だったらしいんです。ま、でもそれを経験してるからこそ、僕が寝たきりとはいえ復活して、そこ寝てるだけなんですけど、子供はやっぱ嬉しかったんでしょうね。もうそれから今度ずっとしばらくぴったりくっついて離れなかったですけど。
へえ。
だから、うん。でもそれからもう今7年8年経って、家にやっぱずっと僕が障害があっているので、障害者に対するこう向き合い方っていうのは、子供たちはやっぱ他の子よりはフラットに付き合えるような感じですかね。
ああ。
はい。だから今でもめちゃめちゃ仲いいっすよ。娘たちとは。一緒に美容室行ったりもするし、買い物にも行くし、ドライブ行ったり。
あ、そっか。それで言うとさ、2年入院してるじゃないですか。その後半とかはもうリハビリとかもしてるんですか?
えっとですね、2年のうちの1年半が急性期病院って言って、その救急で運ばれた病院で内臓の治療をして、で、ま、完全に治らないにしても、悪い状態ですけど横ばい、良くもならなければ悪くもならないぐらいまで内臓が回復した時点でリハビリの病院に転院して、で、そこで半年ちょっとかな、義足を作ったり歩くリハビリをしたり。合計で2年入院して、42の時に倒れて、44で家にやっと帰れた感じですね。
え、その両足の義足での歩行って、どれぐらい練習してできるの?個人差あると思うけど。
ま、個人、ユーザーさんのその体力であるとか年齢であるとか病気の種類でまた違ってはくるんですけれども、多分ね、両足って時間がかかるんですよ。片足に比べるとどうしても。えっと、でもどうかな。多分半年ぐらいで早い人はもう普通に歩けるようになるかもしれないですね。
ああ、久多良木さんも半年で歩けて?
僕はだから半年ちょっと、最終的には10ヶ月ぐらいリハビリしたのかな。もうでも出る頃には健常の方と同じぐらい歩けるところまで回復して僕は出たので。
へえ。
ああ、そう。それはじゃ結構その驚異的なスピードで。
です。です。当初は通常のリハビリメニューで、その通常の生活ができるレベルまでリハビリをして退院させたいなっていう予定でリハビリにかかってたんですけど、僕じっとできない性格で、リハビリ転院した時に指がだいぶ動くようになったんですよね。で、スマホを触れるようになったので、めっちゃ調べたんです、スマホで。で、調べていくうちに、ま、これ僕が運動するきっかけになったことなんですけど、SNSで、えっとね、50歳ぐらいの大阪のおっちゃんがですね、本当に普通のおじちゃんなんですけど、片足義足でマラソンとか走ってんですよ。
ははは。
めちゃめちゃかっこいいんすよ。その走ってる格好が。その走ってる動画を僕見た時にもう一気に引き込まれて、え、義足って走れるんだ、から。まず始まり。これ僕も走れるんじゃないかなっていう風に思い出して。
へえ。
で、もう一晩のうちにその人の動画ずっと見てるうちに、あ、もう俺絶対走ると、いう風になって、もう翌朝には担当の理学療法士を部屋に呼んで、俺走るからと。だからリハビリのメニュー変えてくれ。
へえ。
で、ま、当初説明をいただいてたのが、ま、生活に支障がない程度に…。ま、当時のその理学療法士の男の子がとても僕の話をよく聞いてくれて、で、僕が走りたいっていう気持ちも汲んでくれて、で、一緒に色々調べてくれて、で、リハビリのメニューを全部その担当の先生と相談して全部組み換え直してくれて、もうそこから筋トレまで始めて。
筋トレとかしない限り、確かに走るって難しそうですもんね。
無理ですね。
だいぶ、その1年半の間で筋力低下…
はい。もう筋肉ほとんど削げ落ちて、僕当時体重が50kg前半ぐらいまで落ちて、もう本当骨と皮だけだったので、寝返りも自分で打てなかったので当時。栄養摂取制限あるので、体にまず肉をつけないと筋肉にならないのでってことで、栄養士さんも一緒に考えてくれて、どうやってじゃあ大きくしようか、運動できる体に持っていこうか、体幹をじゃまずはつけなきゃいけないってことで、寝た状態でもできる体幹トレーニングを始めてみたいな。
いや、それ…
死ぬほどきつかったけど、リハビリは。
しかも食事も、さっき言ったらタンパク質と糖質制限があるから、なんか…
だから筋肉つけるにはタンパク質取らなきゃいけないんですけど、僕だからプロテインとか飲めないので、スポーツするって決めた時点で年間単位で、まず最初に脂肪をつけて体重を増やすところから始めて、で、そこから無理のない範囲で筋トレをして、それをだんだん筋肉に変えてくってのを続けて。44で退院してスポーツ始めて、パラスポーツどっぷり入って、今50ですけど、6年間で今何kg増えたかな、もう30kg近く増えてます。
あ、
もう80近いですね。体重。
そうそう。筋力で?
えっとね、僕の場合は筋肉半分、脂肪半分なんですよ。なかなかタンパク質が取れないので、全部が全部筋肉に変えられないんですよ。筋トレするにも指がないので、なかなかこうダンベルが持てないとか、いろんな制限もあって、だから砂が入ってるリストバンドのようなものを手に巻き足に巻き、加重を重くし、自重トレーニングっていう自分の体重を生かした方法で、筋トレなり体幹トレーニングなりやってますけどね。
はい。
なんか将来的にはこうしたかったなとか、なんかあった?
そうですね。当時はですね、僕本当内向的な性格で、もっと前の話をすると、僕中学校の頃美術部だったんです。高校は生物部。ニンジンのDNAの研究とか。
へえ。
ま、当時はだからこんなことなるとは思ってなかったので、もうこのまま建築会社を経営しながら、ま、子供が大きく育って、もういい年になったら引退して、なんか田舎で野菜作りたいなみたいな。もう普通の生活を思い描いてたんですけど、当時はね。
なるほど。
そうです。で、かつスポーツとは無縁だったんですか?
そう。無縁ですね。何ももうこれっていうスポーツをしたことがなくて、学校の体育の授業ぐらいです。
部活経験がなく、その運動での、きついみたいなリハビリを、よく乗り越えましたね。
ま、でも建築業してたので、例えば暑いところで長時間重たいものを持ってとか、体力はあったんですよ、当時。で、根性もある程度あったんだと思います。そこでもう、えっとだから都合20年ぐらいは会社、建築業経営して、自分でずっと現場出てたので。
生活に戻っていくじゃないですか。これができる、これが難しいって、どんな感じなんですか?
えっとね、入院してる時っていろんなものが環境整ってるんすよ。例えば洗面台は僕が車椅子で行けるぐらいの高さですし、料理の練習をする調理台とかいうのも低いですし、トイレとかも絶対こう手すりがありますよね。で、やっぱそういうところでリハビリしてると、あ、まあなんとかなるかなって思えるんですよ。ま、歩けるようにもなったしと思って退院はするんですけど、いざ退院して家に帰るとできないことだらけなんですよ。
ああ。
もう本当にもう外歩くと、歩道の段差とかってそれまで考えたこともなかったんですけど、え、歩道ってこんなに段差があるの?っていう世界。もう本当数百m歩く間に、やっぱりこう歩道って区切りされてて、こう段差があるじゃないですか。あれ1個1個がきついんすよ。
へえ。
退院して2ヶ月ぐらいは、やっぱ外の生活に慣れるのに…家の中でもやっぱ不便なところって多いし。
家の中だとどんな支障がある?
家の中だとまず僕お風呂入れないんですよね。足がないだけだったら指があるので、リフトアップって言って、こう体を腕で押し上げてある程度の動きが取れるので、浴槽にも入れたりするんですけど、僕の場合指がなくて、拘縮して指曲がっちゃってるので、だからこうリフトアップすると指が痛いんですよ。だからもう浴槽にまず入れない。
ああ。ま、だから諦めて、もうこの6年はシャワーしか浴びてません。
あ、そうなんすね。浴槽に入れないってことは出てくるんですね。
はい。出てきます。あとはトイレとかですかね。トイレももう和式はもう当然無理なので、洋式を絶対探してお手洗い行かなきゃいけないですしで、ま、できればね、障害者用のトイレがあればスペースが広いので、こう立ったり座ったりも楽なんですけど、全部が全部そういうわけじゃないので。だから、すごい狭いコンビニのおトイレをお借りして、座ったはいいけど狭くて立ち上がれないとか。
そういうことがある。
そうなんです。手すりがあればね、それを引っ張ってこう立つこともできるんですけど、全く手すりがない状態で狭いと、なんとか壁をこう押しながら立ち上がるしかなくて。
はあ。運転は特に支障なかった?
運転はね、いや、地方に行くと運転できないと生活できないので。特に僕の場合、子供の送り迎えをしたかったので、車の運転は、もうリハビリ入院してる時に、その作業療法士さんって言って、僕の身の回りのトレーニングしてくれてる方に相談をして、なんとかして運転はしたいと。だからもう入院してる病院で運転の練習をさせてもらって。
へえ。
で、今どんどん良くなってて、車改造しなくても後から付けられる、手で運転する運転装置っていうのが今販売されてて。
へえ。
もうだからネットでそれを購入して、で、病院の車にそれをつけてもらって、ここでまず練習させてもらって。で、その後は自動車学校さんに病院が掛け合ってくれて、ちょっとこういう方の運転免許の更新をしたいと。そこから週に1回ぐらいかな、その病院のスタッフさんが自動車学校さんに連れてってくれて、で、練習をさせてもらって。で、あと運転免許試験場の方に更新の手続きに行って、こういう状況であればしっかり運転できるんでいいですよってことで免許の更新をさせてもらって。
はあ。
だから今もう車はもう自分で全然。で、僕今陸上してるので全国各地の大会を転戦するんですけど、もう9時間以内ぐらいだったら自分で車で行っちゃいます。
それと、ま、ちょっとずつ車運転できるようになったりとか。
そうですね。やれることはもうやっぱり増えてます。
今で言うと、さっき言った、ま、大浴場みたいなお風呂に入ることとか、浴槽に浸かるのが難しいってこと。あと何がありますか?
えっとね、特に僕今陸上選手やって、大会の遠征する時にホテルを取らなきゃいけないんですけど、通常のビジネスホテルってユニットバスじゃないですか。浴槽に入ってシャワーを浴びないですか?で、中でカーテンを閉めて浴びるんだと思うんですけど、僕それができないので、お風呂に入れないですよ。普通のビジネスホテルに行くと。
ああ、それどうするんですか?
だから僕の場合は遠征でホテルを取る時は、お風呂とトイレが独立してるタイプのホテルしか泊まれないんですよ。もしくはその障害者用のお部屋、今ハートフルルームって言って、障害者、車椅子でも入って自分でお風呂に入れる部屋っていうのが完備されてるホテルがいくつかあって、そういうお部屋を予約して取る感じですか。
ああ、それって1回の遠征でどれぐらいの費用がかかるもの?試合とか。
めっちゃお金かかるんですよ。だからどうしても1泊安くて1万円ちょっとぐらいのお部屋になっちゃうので、で、大体3泊4日ぐらいのホテルになるので、だからもうホテル代だけでやっぱ4、5万、1回の遠征で4、5万で、それプラス、九州なら車で行くからいいんですけど、やっぱ関東とか東北とかあっちの方になると飛行機で行くので、飛行機の往復の運賃で、現地についてタクシーでの移動で、良くてJRでの移動になるんですけど、それもいろんな条件で僕が乗れないものがあるので、だからどうしてもこうお金が移動にかかっちゃうんですよね。
はあ。
だから大体1回の遠征で10万近く、高い時でね、かかっちゃいます。
うん。
行き先の都市でもね、また東京とかに行くと宿のお金が高いので。だからやっぱその辺でも値段はやっぱ上下しますけど。
ああ、それで言うと、今はえっとスポーツの…
そうですね。今はだから、僕44で退院して陸上を始めて、最初は自分の貯金があったので、貯金を切り崩しながら活動してたんですけど、公式大会に出るようになって、ある程度こう成績が残るようになると、スポンサーさんがついてくれるようになって。
でも言うても僕もう50じゃないですか。しかも両手足なくて、今まで運動の経験も全くない人間なので、通常であればスポンサーさんってなんかこうついてくれなさそうですけど、やっぱりね、世の中味方になってくれる方いっぱいいてですね。今もだから僕7社スポンサーさんいて、で、年間契約でスポンサードをいただいて、で、それで生活してます。
ああ、
今はですね。
そうか。じゃあもう本当パラスポーツ選手として、スポンサー契約の収入で。
そうです。そうです。
その遠征行ったりとか、ま、生活費にさせてもらったりとか。
そうですね。はい。
へえ。スポンサードされるぐらいまでに、どれぐらいでなれてるんですか?
えっとね、最初は一社だけだったんですよ。えっと、僕が走り始めてすぐスポンサーなってもいいよって言ってくれたのが、僕がちょうどリハビリに行っていた病院、イ病院さんってあるんですけど、そこの病院の院長先生が、陸上本気でやりたいんだったらいいよ、うちが支えてあげるよっていう形でスポンサーになっていただいて。で、当時僕その病院で病棟クラークとしてお仕事をさせてもらっていたので。
退院してすぐですね、全くの収入がない状態だったからですね、障害者雇用でクラークをさせていただきながら陸上の練習をして、で、同時にスポンサーとしてある程度お金を支給してくださって。で、それが1年ぐらい続いたんですかね。
で、1年ぐらい続くと、やっぱどうしても両足義足、両手がない状態でスポーツする選手って目立つんですよ。で、だんだんこうメディアさんとか、地方の、地元の新聞社さんであるとかテレビ局さんがその取材をしてくれて、で、こういう選手が大分で陸上してますよっていうのが広まっていって、で、そこから全国障害者スポーツ大会、要は国体のパラスポーツバージョンがあるんですけれども、そこに2年連続で大分県代表で選出させてもらって、出るようになって、で、だんだんこう企業さんにも名前がこう広まっていってですよね。そうこうしてて、だから2年目にはもうスポンサー4社ぐらい出てきて。
へえ。
そこからは本気で陸上をどんどんやりたいっていう気持ちが大きくなって、で、妻にもちょっと本気でやりたいからってことで相談をして、パラ陸上の公式大会、日本パラに登録をまずして、選手登録をして、全国の公式大会を転戦するようになりました。
はあ。
で、その頃はもう走るんじゃなくて、投げる方が僕には合ってたみたいで、投げる方の槍投げであるとか、円盤投げ、あと砲丸投げに切り替えていって。
はあ。
もう3年目には、日本記録を更新しちゃったんですよ。
うん。
で、日本記録保持者になってからはまたさらにスポンサーさんが増えて。
へえ。
今だから、僕メインスポンサーさん2社、障害者になった時から僕支えてくれてる病院さんと、あとは今フランスの企業さんでプロテオールさんっていう義肢装具を作ってるメーカーさんがあって、そこが去年からかな、メインスポンサーとしてまた入ってくださって。だから僕今日着てるのこれプロテオールさんの服になるんですけど、だからもう僕の競技用の義足は全てそのプロテオールさんが支給してくださるし、だからその面でもお金がかからなくなったというか。
へえ。
だいぶ助けられててですね。だからやっぱね、世の中いろんな企業さんがいてですね。だって変な話、僕ってパラリンピック多分出れないんですよ。
うん。うん。
50歳だし、クラスがない。両足のクラスがパラリンピックはないので。
そう。日本記録保持してようが出れないんですか?
出れないです。投げる種目っていうのは踏ん張りが効かないと遠くに飛ばないので、どうしても片足の方の方が有利なんですよね。
だから基本国際大会に出てくる選手っていうのは片足義足の選手ばかり。片足と両足では日本記録どれぐらいメートル違うもの?
もうすごい違います。槍投げだと僕が今日本記録22mぐらいなんですけど、何mだったか、50mとか飛ぶんすよ、片足義足だと。両足の世界記録が35mです。で、僕今日本記録で22、3mぐらい。もう10m伸ばせば両足義足の世界記録には届くんですけど、パラリンピックに出るための片足義足まではもう30mぐらい伸ばさないと出れない。
おお。
だから砲丸投げとかになると、ま、ものが重いので、ま、それでもやっぱ砲丸で3、4mとか。条件としては、例えばスポンサーにつく企業さんとしては、僕ってすごく条件の悪い選手だと思うんですよ。どんなに頑張ってもパラリンピックに出れないので。やっぱ企業さんもね、宣伝広告になってなんぼなんで。
うん。うん。
だから条件は悪いとは思うんですけど、大分で今パラスポーツの普及活動とかもしてるので、もうそういった活動をしてるんであればご協力させてくださいって形でスポンサーさんになってくださってる企業さん、やっぱあるんですよ。ありがたい企業さんがですね。本当にありがたいんですけど。
こんな笑顔でこう楽しく生活できるようになるって、その意識が戻った時は相当ないですもんね。
そうですよね。
で、ま、当時は自分でわけが分かってなかったのもあるし、理解しきれてなかった部分も確かにありましたけど、ま、だから苦しいところもあったんですよね。いつもいつも笑っていられるわけではないけど、やっぱそうですよね。本当ね、笑ってね、こんな好きなことさせてもらってね、本当家族には感謝しかないですけど。
すごいす。だからその50歳にしてアスリートだけで家族との暮らし、ま、奥さん働いてるとは…
ま、そのまま働いてくれてるからですね。
ちゃんとこう回っていってるって、確かに幸せなことですよ。
いや、すごく幸せなことですよ。
え、て言うと、何歳まで選手やりたいとかってあるんですか?
うんとね、僕最初特には考えてなかったんですけど、マスターズの陸上とか見てると、80歳、90歳で世界記録をバンバン出す選手いるんですよ。100m走で。で、それ大分の選手でもいるんですけど、80歳ぐらいだったかな。そういった方が同じ競技場で練習されてるんですよ。負けてらんないじゃないですか。もうだから僕の中ではもう80、90まで、体が動くまでは…僕今50歳、まだ30年40年できるなと。
へえ。
ま、体が動くところまではその競技を続けたいっていうのがあって。で、あとね、僕が病気でそのずっと義足のことをSNSで調べて、で、その運動したいって思ってる時に出会った言葉が1つあって、その「生きてるようにしか死ねない」っていう言葉があってですね。
何で見たのかさえ覚えてないんですけど、当時その言葉ってすごく僕に刺さって。人ってこう生きてる間にできたようにしか最後を迎えられないっていう意味の言葉だと僕は勝手に理解したんですけど、だからそれ以来僕ね、何する時も笑うようにしてるんですよ。
へえ。
死ぬ時笑ってたいです、僕。だからもうとにかく笑って生きてやろうと思って。
へえ。
どんなにきつくても。だから僕どこ行っても笑ってるんですけど。
え、その手前までは笑えてないなって思ってたんですか?別に。
いや、多分ね、笑えてなかったと思います。うん。やっぱでも死にかけないとわかんないってことあるんですよね。やっぱこう普通に生活してるといろんなことのありがたみってわかんないんですよ。やっぱ今思っても僕も昔はそうだったと思うし。
はあ。
例えば今普通に空気吸って、食べたいもの食べて、歩きたいとこに歩いて行けて、何かものがあれば手で取ってできるじゃないですか。
うん。
それこそ綺麗なもの見たかったら見れるし、綺麗な音楽聞きたかったら聞けるし。でもある日、事故であり病気であり、何か1つ歯車が狂うとできなくなるんですよ、それ。突然。自由にできてたものが急にできなくなって、その時やっとそのありがたみが分かるんですよ。だから僕いつも講演で言うのは、皆さん今すごく実は幸せなんですよと。もう今元気なうちにやれることを、もう本当何もかもありがたいと思ってやり尽くしてくださいって話をするんですけど。
はあ。
いや、本当そうなんですよ。こればっかりはもうなくなってからしかわかんないんですよ。だから僕、よくなんで走るんですかって言われるんですけど、ないものねだりに近いんですよね。足がなくなるまで僕走ったことなかったけど、足なくなって走り出し、それまで物を投げることなんてほとんどなかったけど、両手なくなって投げてるんすよ。
だから本当ね、やっぱ今こう普通に来てるこの普通がどんだけ素晴らしいことか、もう今気づいたら、やっぱ人生ってそれだけでガラッと変わると思うんじゃないですか。元気な人がそこに気づいて、いろんなものに感謝しながら今を楽しむと、やっぱそれまでの人生嘘みたいに思えると思いますよ。
へえ。そっか、今を楽しむ。
いや、ですよ。持った方がいいですね。
えっとね、無理に持とうとしなくても、そこに気づくだけでやっぱこう生活変わってくると思います。
へえ。
例えば走らないと風って感じられなくないですか?走ってる時の風って。でもそれも僕、義足つけて走ってやっと、あ、走った時ってこんな風が当たるんだって思って。当時はその足がある時って、走って風当たったからって言って、あ、今風切って走ってるなとか思わないじゃないですか。
確かに。
でも足がなくなって、ま、最初はもう本当小鹿のような走り方でしたけど、両足義足になって、で、ま、支援者から競技用の義足を買っていただいて、競技用の義足をつけて初めて走った時に、やっぱ風が当たるんですよ。走ると。あ、今風切って自分走ってるんだって感じたっていう、もうそこの感動。あ、俺足なくなったけど走れてる。今までこんな感動味わったことないっていうところ。
へえ。
いや、だからもう本当元気な方はもうどんどん楽しんでもらいたいです。1番大事なのは今なんですよ。今だったら何もかもできるんですよ。見たいものは見れる、行きたいとこには行ける、食べたいものは食べれる。だから今が1番大事。今をもうとにかくどんだけ楽しめるか。うん。
うん。
がやっぱ1番大事って思いになりました。障害者になってから。
へえ。
もっと早く気づきたかったと思って。
失ってからじゃないと気づけないことある。
あ、ですよ。だから僕、少しでも他の方に失う前にそこ気づいてもらいたくて。もうそれだけで人生絶対楽しくなるから。で、みんなにこう伝えて笑ってもらえると、やっぱ不思議と自分も笑えるんですよね。で、いや、あの時久多良木さんのお話を聞いてちょっと考え方変わりましたとかって言われると、僕も嬉しいし、その方も人生変わって嬉しいじゃないですか。
うん。うん。うん。
だから僕今そういう活動をずっとしてます。いろんなとこでしたり、パラスポーツ。やっぱスポーツすると生活の質は上がってくるので。
うんうんうん。で、そのなんていうか、この自分をこうなんかご機嫌な状態で楽しめるんですよ。
は。
その病気になる前よりうまくなってます?
全然うまくなってます。僕今年50でしょ?病気になって8年間、障害者として8年間生活してきたんですけど、それまでの42年間より濃いです。
へえ。
あとの8年間めちゃめちゃ濃いです。
はあ。多分その42年の間、ま、それは楽しいこといっぱいありましたよ。学生時代も楽しかったし、妻とも出会ってるし、結婚もしてるし、子供も生まれてるし、家も建ててるし、楽しいこといっぱいあったんですけど、やっぱね、どこか無理してるとこも、仕事をして経営者だったから無理してるとこも多かったと思うんですよ。でもやっぱ障害者になってからは足枷が外れたというか、ま、当然家族には感謝もしてるし、家族とも楽しく生活はしてるんですけど、プラスアルファでこう自分にとっての大切なものを本当に感謝しながら大切にして生きていくみたいな。
はあ。
やっぱそこに気づけてから、もう全然生活の質が違います。
QOLっていうんですか?生活のクオリティみたいな。それがだから障害を負ったことによって上がってるんですか?
上がってるんですよ。もう本当に上がってますね。もうだから変な話、当時寝たきりだった時、僕要介護度5だったんですよ。寝たきりなので要介護度判定の1番重い判定。今もう要介護って外されそうですからね。
へえ。
毎年こう更新があるんですけど、年々僕良くなってるので、状況的にできることはどんどん増えるし、だからもう要介護は外されて、その1個下の要支援っていうのになったんですけど、その要支援の中でも1っていう1番今軽いやつを辛うじて残してもらってるから。指がこう拘縮が進むので、どうしても僕週に1回リハビリが必要なんですよ。だからそこの部分で残してくださってるんだと思うんですけど、多分もうだんだんこれも外されちゃうんじゃないかなと思いながら。
へえ。
ですです。
自分でやってくださいじゃないけど。
はい。へえ。
いや、もうあなた大丈夫でしょっていうところまで来ちゃってるので。5からそこまでこう登り詰めたというか、ね、本当もう回復しきったというか。
うん。
でも本当寝返りも打てなかったので、自分で昔は。もうそれが気づいたら今もう陸上選手としてバリバリ全国転戦して、月1出張しながら
へえ。
陸上の大会出てるので、もう本当わかんないですよ。人生楽しんだ方がいいすよ。
面白いですね。
面白いですよ。講演とか行くじゃないですか。ま、子供たち相手に話をすることも多いんですけど、年配の方対象の講演会で話すことも結構僕あって。
本当ね、70とか60のおじいちゃんおばあちゃん、失礼かもしれないですけど、ご高齢者の方相手の対象の講演とかもするんですけど、うん、やっぱこう昔忘れてたことを、やりたかったこと、例えば漫画家になりたいとか、バンドして音楽をやりたいであるとか、やっぱいろんな夢を諦めてきてる方って多くて。
うん。
で、僕の話を聞いてまた始めましたと。
へえ。70にしてまた絵を描くことを始めましたとか。うん。最近あのおじいちゃんたちでバンド組んでやってみようかっていう話が出てますとか、やっぱ話を聞くと嬉しいっすよね。
へえ。
いやもうもっと楽しみましょうよっていう話になって。
久多良木さんみたいにこんな風に、なんていうか明るくなれる人と、そうじゃない人もいるんじゃないですかね。なんでそういう風になれたと思います?
うーん。だから僕1番大きいのは、さっき話したその「生きてるようにしか死ねない」って言葉に出会ったってことと、あとその50歳代の男性が1番大きいですね。僕が運動したいと思わせてくれた人だから。今でもだから僕SNSでして、今あの地域のイベントとかモデルで行くとその方に会うんですよ。だから今でもお話させてもらって、リスペクトですけど。
へえ。え、
もうだからやっぱそういう人との出会いがやっぱ1番大きかったんじゃないかな。言葉との出会いであるとか。そこに気づけてなくて、やっぱこうふさぎ込んじゃって、家で寝たきりのまんま過ごして引きこもってる方とかはやっぱいると思います。やっぱきっかけだと思います。
でもそのきっかけを、だからもうこの寝たきりでスマホ触るのがやっとみたいな状態で
はい。
こう頑張ってこう掴もうとしてただけですもんね。
うん。そうですね。
ああ。
だから僕はね、早い話が運がいいんすよ。いろんな面で運がいいんですよ。倒れた時にその電撃性紫斑病を知ってる先生が診てくれたから生き残ってるし、で、妻が一生懸命働いてくれる妻だったから、僕のその時の生活も支えてもらえたし、で、病床でスマホを触れるまで指が回復したから、スマホを触れたから、スマホでその50歳のおじちゃんを見て運動する気にもなれたし、そういう言葉にも出会えて生活も考え方もガラッと変わったし、で、出てからもそのスポーツをするのには当然僕の場合お金が必要なので、でも企業さんが僕のことを知ってこうやって支えてくれてるのも運がいいことだし。だから全てに感謝なんですよね。早い話が。もう本当運がいいんですよ、僕。
あの家族がいるといないだったら、ちょっと勝てた可能性もありますもんね。
ああ、それはあったでしょうね。
はあ。
だから本当に運が良かったんだと思います。
はあ。なるほどな。
うん。
すごいな。
本気でその陸上始めてからも、えっと、やっぱいろんな出会いがあってですね。大分ってなんかレジェンド級のパラアスリートさん結構いたりするんすよ。
へえ。
昔だったら中西麻耶さんとかおられてですね。片足義足の有名な女性の選手とかおられて、で、ちょうど知り合いがその方の知り合いで、僕1回お話をさせてもらったことあるんですけど、パラアスリートってこんなに実直にスポーツに取り組んでるんだっていう。で、そこで、あ、かっこいいなって思って。で、あと大分に車椅子の選手で、ひさんっていうプロ車椅子アスリートの選手の方いるんですけど、もうその方も世界的な記録を残されて、パラリンピックとかいっぱい出てる選手の方なんですけど、その方のラジオ番組に呼んでもらったことがあるんです。で、そこでお話を聞いて、やっぱかっこいいんすよ。めちゃめちゃかっこいいす。やっぱそういう巡り合いとかもあったから、僕も運動しよう。僕もじゃあみんなからかっこいいって思われて、笑顔を散々振りまいてみんなを笑顔にすれば、何か返ってくるんじゃないかみたいな。
へえ。
いや、やっぱそういう、やっぱね、こういろんな出会いがあったから。
はあ。
スポーツを本気で取り組んでいいんですね。別に、しかも40ぐらいでやってもいいんです。
関係ないです。年なんて関係ないすもん。
なんかやってみようかな。スポーツ。
やりましょうよ。あれ絶対面白いっすよ。ま、スポーツに限らずいいんすよ。なんかこうちっちゃい頃、あ、ちょっとやってみたいなって思ってたこととか、ちょっとギターやりたいなって思う時期とかあるじゃないですか。色々忙しいからって言って諦めてたものを、例えば1日10分でもいいんですよ。その時の気持ちを思い出して、ギター買うところから、もう形から入ってもいいんですよ。ギター買って、10分でもいいからギターを触る時間を、自分のための時間を作って、でやってくだけでも生活変わります。
へえ。変わります。
そう。10分でいいんですね。
全然10分でいいです。何かこう自分のために動く時間を10分。10分だったら絶対ひねり出せるので。どんなに忙しくても、もう移動中とかの10分でもいいんですよ。
趣味ないからさ。確かにそういう
僕もね、なかったんですよ。やっぱ。
そうですよね。
いや、仕事が趣味的なとこないですか?
あ、ちょ、それはあるんですけど、確かに。
はい、なんかそれだけでいいのかみたいな気持ちにもちょっと。そうなんで、僕が、え、1番最初に自分のために取った10分って何だと思います?陸上じゃないんすよ。
え、え、英会話?
えっとね、僕昔ガンダム大好きだったんですよ。小さい頃。でもまあ年取ると、もうなんかプラモデル作るような年でもないしとか、もうなんかガンダム見てる時間もないしみたいな。障害者になって自分のための10分間を作ろうって思った時に、まず大好きなガンダムに戻ったんですよ。
へえ。で、プラモデルを作ってみようと。1日10分だけプラモデルをちょっとこう、で、出来もしないけど
うん。
プラモデルをもう黙々と作る時間
ああ。
を作るところから始めて。で、ま、ずっとガンダムじゃなくて、そうするとなんかこう昔やりたかったことがどんどんどんどんリフレインしてくるんですよね。頭の中で。あ、そういえばちょっとギター触ってみたい時期もあった。なんかギター持ってる時期もあったなとか。それこそさっき言ってた英会話は、英語喋ってみたいって思う時間もあったなとか。リフレインしたことを片っ端から、1日10分必ず自分のやりたかったことを思い出しながら自分のための時間作るだけでも全然違ってきましたもん。
へえ。
もう気持ちがこう、なんて言うのかな?前向きに前向きに、自分が楽しい時間を作ってあげると、やっぱ体ってね、動いてくるんですよ。楽しいホルモンがどんどん出てくるっていうか。あとずっと笑ってること。それね、どんなにむかついても笑ってること。
そうですよね。それ1…確かに。
そうそう。
むかついたことは、それ別になかったことにならないから。そうそうそう。
そうなんです。むかついて怒ると、結構ね自分ってマイナスなんすよ。
うん。
自分の心には。うんうん。マイナスが溜まってくんですよね。で、嫌な思いにもなるし。でもこう極力流す方向で持っていくと、もうあの自分へのストレスがやっぱ緩和されるというか。
はあ。
やっぱ笑ってた方がいいす。ありがとうございます。いい、なんか前向きになりそうです。
前向きな回になりそうですか?いや、めちゃ。なんか久多良木さん、ありがとうございました。
ありがとうございました。
競技の方も頑張ってください。
はい、頑張ります。また是非機会があれば。
はい、よろしくお願いします。
はい、ありがとうございます。お疲れ様です。負けない。
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疲れたとか言われたとか、そういうようなことをしたりする暇なんて、中り できないから
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