42歳で四肢を失った元工務店経営者が、44歳でパラ陸上を始め日本記録を出すまで 久多良木隆幸さんの8年

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概要

大分県で工務店を経営していた久多良木隆幸さんは、42歳のとき、致死率の高い「電撃性紫斑病」を発症し、両足の膝下と両手の指の多くを切断した。2年間の入院の後、44歳でパラ陸上を始め、投てき種目で日本記録を更新した。現在は50歳で、スポンサー契約の収入で競技生活を送っている。インタビューでは、発症から現在までの経緯、障害を負った後の日常の具体的な壁、そして本人が「障害者になってからの8年間は、それまでの42年間より濃い」と語る理由が話された。

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義足で6年、運動経験ゼロからのアスリートデビュー

取材の日、久多良木さんは義足を隠さないスタイルで現れた。両足は膝下から義足で、両手の指もほとんどない。義足で歩き始めて約6年、病気になってからは8年になる。

最初は走ることから始めたが、本格的に競技を始めてからは、やり投げ、砲丸投げ、円盤投げといった投てき種目に移った。もともとスポーツの経験はまったくなく、本人は自分を「無いものねだりの極み」と表現する。アスリートとしてのデビューは44歳だった。発症が42歳だったので、そこから2年後になる。本人も「まさかこんな人生になるとは想像していなかった」と話す。

臨床検査技師から工務店経営者へ

久多良木さんは生まれてからずっと大分で暮らしている。中学では美術部、高校では生物部でニンジンのDNAを研究していたという内向的な学生だった。医療系の専門学校に進み、病院で血液などの検査を行う臨床検査技師として2年間働いた。しかし室内の仕事は向いていなかったらしく、いっぱいいっぱいになって病院を辞めた。

その後コンビニなどでアルバイトをしていたが、高校卒業後に大工をしていた弟の縁で、同じ工務店でアルバイトを始めた。社長自身が大工で、家の外壁にパネルを張るサイディング工事も請け負う会社だった。建築の基礎を一から教わり、外での仕事は性に合った。病院では常にアップアップだったのが、建築では伸び伸びと働けたという。

28〜29歳ごろ、社長が引退することになり、「お前は大工じゃないし経理もできるから、やってみるか」と声をかけられた。会社の基盤を引き継いで名前だけを変え、取引先もそのまま受け継いで経営者になった。業績は大きく儲かることも大きな赤字もない「普通」で、職人も最も多いときで3〜4人程度の安定した会社だった。ただ本人は現場に出ないと気が済まない性格で、経営者でありながら常に現場で社員と一緒に働いていた。家族がいて仕事も安定した、不自由のない生活を42歳まで続けていた。

電撃性紫斑病とはどんな病気か

久多良木さんは、元臨床検査技師として持っていた知識をもとに、病気の仕組みをこう説明する。電撃性紫斑病にはまず元になる感染症があり、それは肺炎球菌でも普通の風邪でもインフルエンザでもよい。その感染症で体が非常に弱ったとき、よく言われるのは「宝くじに当たるくらい」の確率で電撃性紫斑病に移行する。免疫の弱い子どもや高齢者に多く、働き盛りの人がかかることはほとんどないという。

ところが当時の久多良木さんは、自営業で仕事が途切れず、職人は休ませても自分は現場に出ていたため、約半年間休みを取っていなかった。ほぼ過労の状態で、時期は夏場だった。元になったのは肺炎球菌の感染症で、風邪のような症状から、弱り切った体が電撃性紫斑病に移行した。この病気は劇症型で進行が非常に速く、手足の先から血流が悪くなって壊死が進む。さらに多臓器不全を起こし、本人の話ではほとんどの臓器が壊れたという。

発症の日:朝は普通に仕事に出ていた

発症当日の朝は普段通りだった。朝食をとり、子どもを送り出し、職人を迎えに行って別府の現場で働いていた。午前10時ごろ、急に熱が40度近くまで上がった。近くの小さな内科に行くと、真夏なのに非常に寒く、熱は40度を超えていた。そこでは対処できないと言われ、救急車で救急病院に運ばれた。点滴で熱が1度下がったため、様子を見ることになりいったん帰宅した。

しかしその夜、激しい腹痛が起き、手足も痛み始め、熱は再び40度を超えた。腹痛は下痢の痛みとはまったくレベルが違い、お腹の中を強くねじられるような痛みで、脂汗が出て声も出なかったという。大分市内の救命救急の病院に救急車で運ばれる途中で意識を失い、そこから意識不明になった。

内臓が同時に損傷していき、体は浮腫で膨れ上がった。当時体重は約70kgだったが、100kg近くまで膨らんだという。体中に紫色の斑点も出た。久多良木さんによれば、成人が発症すると助かるのは30%ほどだという。回復後にSNSで同じ病歴の人を探したが、日本ではまだ数人にしか会えていない。生き残っても手足を失い、ひどい場合は血流が途絶えて鼻が壊死することもあるという。

助かったのは「運が良かった」から

久多良木さんが繰り返し口にするのが「運が良かった」という言葉だ。電撃性紫斑病は非常に珍しく、知らない医師もいる。治療経験のない救命医だと、症状が同時進行で悪化していくため対応に追われてしまうという。ところが偶然運ばれた病院の担当医は、それまでに2回ほど電撃性紫斑病を診たことがあった。症状を見てすぐに電撃性紫斑病と判断し、専用の治療を始めてくれた。血液を常に入れ替える24時間の透析を行いながら、他の治療もすべて同時に進めたという。本人は、知識がなければこの治療はしないだろうと話す。

それまで骨折すらしたことがなかったため、家族も動揺した。意識不明は14日間続いた。10日目か11日目ごろに体が覚醒しそうな兆候があったが、医師は今起きると体がもたない可能性があると判断し、残りの3〜4日は薬で意図的に眠らせた。14日目に薬を止め、そこで目が覚めた。

ICUで目覚めて:すでに切断は始まっていた

目が覚めたとき、痛みを抑えるための強い薬が入っていて、意識はぼんやりしていた。記憶は救急車で運ばれるところまでしかない。気づけば小さなICUの部屋にいて、体は動かない。口と気管切開した部分から管が入り、体中から管が出ていて、部屋の半分ほどが機械で埋まっていた。

意識のない間に、医師は妻の許可を得て、両足首と指の半分以上をすでに切断していた。壊死が進む病気なので、悪いところはできるだけ早く予防的に切断し、良いところを少しでも多く残すという判断だった。ただ目覚めた直後は感覚がほとんどなく、手があるかどうかも考えなかった。2〜3日はそんな状態が続き、そばで家族が泣いているのを見て「何かあったんだろう」とは分かった。状況を正確に理解したのは、目覚めて4〜5日後に管が抜け、言葉が出るようになってからだった。声が十分に出ないため、文字盤を指さして意思疎通したという。

その後も病状はゆっくり進んでいた。倒れて1か月ほどたったころ、主治医から膝下で切断してはどうかと相談された。医療の知識があった久多良木さんは、中途半端に残して悪化するよりはと、すぐに切断を決めた。その後も2〜3回の切断手術を受けている。

「これは死ねない」:家族と心の浮き沈み

当時は42歳で、小学生の娘が2人いた。家を建ててまだ2〜3年、会社には借金もあった。夏休みに入った娘たちは毎日病院に来た。通常ICUには入れないが、看護師が気を利かせてベッドサイドまで連れて来てくれた。娘たちはベッドの横で宿題をしていた。手足はなく体も動かなかったが、久多良木さんは「これは死ねない」と思った。そう思えたから助かったのかもしれない、と振り返る。

一方で精神的な落ち込みも大きかった。仕事ができなくなること、借金があること、これから子どもにお金がかかることはすべて分かっていた。夜中に突然目が覚め、何をしているわけでもないのに涙が流れる時期もあった。それでも日中に娘たちを見ていると、このまま寝たきりになってはいけない、何かしなければいけないという思いが強く、2年間の寝たきり生活の間ずっとどうするかを考えていた。

娘たちにとっても衝撃は大きかった。意識不明の14日間、一晩もつか分からない状態だったため、主治医は「お父さんに会える最後かもしれない」と妻と娘を呼んだ。体がパンパンに膨れ、外見からは本人と分からないほどだった。あまりの変わりように長女は腰を抜かして車椅子で退出し、次女は固まって下を向いたままだった。駆けつけた久多良木さんの母は、妻の後ろに隠れて見ていたという。妻は医師の説明を聞いて状況を飲み込むのがやっとだった。その経験があったからこそ、寝たきりとはいえ父親が戻ってきたことが嬉しかったのだろう、と久多良木さんは語る。娘たちはしばらく彼のそばを離れなかった。障害のある父と7〜8年暮らしてきたことで、障害者とも他の子より自然に接することができるようになっているという。今でも娘たちとは仲が良く、一緒に美容室や買い物、ドライブに行く。

壊れた臓器、入院中の生活費

2年という長い入院になったのは、壊れた内臓の状態がある程度落ち着かないと退院できなかったためだ。肝臓や腎臓などさまざまな臓器に、がんではない水のようなものが突然でき、病状が落ち着くと縮んで消えたが、その跡は空洞になった。その時点で各臓器の機能はほとんど失われていたという。一度壊れた臓器は元に戻らず、今も食事制限がある。腎臓が壊れているため1日に摂れるたんぱく質の量が限られ、肝臓の影響で糖の処理もうまくいかず、血糖値が高くなるなどの問題がある。

入院中は無収入だった。保険で医療費はある程度出たが、ずっと出るわけではない。会社は清算して借金の返済に充て、残りは従業員だった弟に退院まで立て替えてもらった。家計は共働きで会社員として働いていた妻に頼り、「おんぶに抱っこ」だったと振り返る。

ベッドの上で見つけた義足ランナーの動画

入院期間2年のうち1年半は、救急で運ばれた病院で内臓の治療を受けた。良くも悪くもならない状態まで回復したところでリハビリ病院に移り、義足を作って歩行訓練を始めた。42歳で倒れ、家に帰れたのは44歳だった。

両足義足は片足に比べて歩けるまでに時間がかかるが、早い人なら半年ほどで普通に歩けるようになるかもしれないという。久多良木さんは最終的に約10か月リハビリを行い、退院時には健常者と同じくらい歩ける状態になっていた。

当初のリハビリは、日常生活ができるレベルを目標にした通常メニューだった。転機は、指がだいぶ動くようになってスマートフォンを操作できるようになったことだ。じっとしていられない性格の久多良木さんは、スマホで調べまくった。そこでSNSで見つけたのが、大阪の50歳ぐらいの、本当に普通のおじさんが片足義足でマラソンを走る姿だった。走る姿がとてもかっこよく、一気に引き込まれた。義足で走れるのだと知ったのが始まりで、自分も走れるのではないかと考えた。一晩中その人の動画を見続け、翌朝には担当の理学療法士を呼んで「俺は走るから、リハビリのメニューを変えてくれ」と伝えた。

担当の若い男性理学療法士は話をよく聞いてくれ、走りたいという気持ちを汲んで一緒に調べ、担当医と相談してリハビリのメニューをすべて組み替えてくれた。そこから筋トレも始まった。

たんぱく質制限の中での体づくり

ただし当時の体は、筋肉がほとんど落ち、体重は50kg台前半まで減っていた。寝返りも自分で打てなかった。栄養摂取にも制限があるため、栄養士も加わり、どうやって運動できる体に持っていくかを検討した。まずは寝たままできる体幹トレーニングから始め、それは死ぬほどきつかったという。

筋肉をつけるにはたんぱく質が必要だが、久多良木さんはプロテインを飲めない。そこで年単位の計画で、まず脂肪をつけて体重を増やし、無理のない範囲で筋トレをしてそれを筋肉に変えていく方法をとった。44歳で退院してから6年間で体重は30kg近く増え、今は80kg近い。ただしたんぱく質が十分に摂れないため、すべてを筋肉に変えることはできず、筋肉と脂肪が半分ずつだという。指がないのでダンベルもうまく持てない。砂の入ったリストバンドを手足に巻いて負荷をかけ、自重トレーニングで筋トレや体幹トレーニングを続けている。

病気になる前は、子どもが大きくなったら引退して田舎で野菜を作りたいという、ごく普通の将来を思い描いていた。スポーツは学校の体育以外にやったことがない。それでも厳しいリハビリを乗り越えられたのは、20年ほど建築業で現場に出て、暑い中で重いものを長時間運んできたことで、体力と根性がある程度あったからだろうと本人は考えている。

退院後に立ちはだかった段差、風呂、トイレ

入院中の環境は整っていた。洗面台は車椅子で使える高さで、料理の練習をする調理台も低く、トイレには必ず手すりがある。そこでリハビリをしていると何とかなると思えたが、家に帰るとできないことだらけだった。

外を歩くと、それまで考えたこともなかった歩道の段差に気づいた。数百メートル歩く間にも歩道は途切れて段差があり、その一つ一つがきつい。外の生活に慣れるまで退院後2か月ほどかかった。

家の中では浴槽に入れない。足がないだけなら腕で体を押し上げる「リフトアップ」で浴槽に出入りできるが、久多良木さんは指がなく、残った指も拘縮して曲がっているため、体を持ち上げると指が痛む。そのためこの6年間はシャワーしか浴びていない。トイレも和式は無理なので必ず洋式を探す。障害者用トイレなら広くて立ち座りが楽だが、どこにでもあるわけではない。狭いコンビニのトイレを借りて座ったものの、手すりがなく立ち上がれず、壁を押しながら何とか立ち上がることもある。

手動装置で車の運転を取り戻す

地方では車を運転できないと生活が成り立たない。特に久多良木さんは子どもの送り迎えをしたかった。そこでリハビリ入院中に、身の回りの訓練を担当する作業療法士に「何とかして運転したい」と相談した。今は車を改造しなくても後付けできる手動の運転装置が販売されている。それをネットで購入し、病院の車に取り付けて、まず病院で練習した。

その後は病院が自動車学校と交渉してくれ、週1回ほど病院スタッフが自動車学校に連れて行ってくれて練習した。運転免許試験場で手続きをし、この状況なら運転できると認められて免許を更新した。今は自分で運転し、九州内の大会なら自分の車で行くという。

遠征費1回10万円

陸上選手として全国の大会を転戦するようになると、宿泊が新たな問題になった。一般的なビジネスホテルのユニットバスは、浴槽の中でシャワーを浴びる形式なので使えない。泊まれるのは、風呂とトイレが独立した部屋か、車椅子でも自分で入浴できる障害者向けの部屋があるホテルに限られる。安くても1泊1万円ちょっとで、3泊4日の遠征になるとホテル代だけで4〜5万円かかる。

九州内なら車で行けるが、関東や東北には飛行機で行くため往復の運賃がかかる。現地の移動はタクシー、良くてJRだが、条件によっては乗れない交通機関もある。そのため1回の遠征で10万円ほどかかり、東京など宿泊費の高い都市ではさらに高くなるという。

病院の院長から始まったスポンサー、そして日本記録

退院して陸上を始めた当初は、貯金を切り崩して活動していた。最初のスポンサーは、リハビリに通っていた病院の院長だった。「陸上を本気でやりたいなら、うちが支えてあげる」と言ってくれたという。退院直後で収入がなかったため、久多良木さんはその病院で障害者雇用の病棟クラークとして働きながら練習し、同時にスポンサーとしての支援も受けた。これが1年ほど続いた。

両足義足で両手もない選手は目立つため、地元の新聞社やテレビ局が取材するようになり、名前が広まっていった。国体のパラスポーツ版にあたる全国障害者スポーツ大会に、大分県代表として2年連続で選ばれた。2年目にはスポンサーが4社ほどに増えた。もっと本気でやりたいと妻に相談し、パラ陸上の選手登録をして全国の公式大会を転戦するようになった。

この頃には、走るよりも投げる方が自分に合っていると分かり、やり投げ、円盤投げ、砲丸投げに切り替えていた。そして3年目には日本記録を更新した。日本記録保持者になるとスポンサーはさらに増え、今は7社と年間契約を結び、その収入で生活している。メインスポンサーは2社で、障害者になった時から支えてくれている病院と、去年から加わったフランスの義肢装具メーカー、プロテオールだ。取材当日もプロテオールの服を着ており、競技用義足はすべて同社が提供している。

日本記録保持者でもパラリンピックには出られない

久多良木さんは、自分は「多分パラリンピックに出られない」と言う。50歳という年齢に加え、パラリンピックには両足義足のクラスがないからだ。投てきは踏ん張りが効かないと遠くに飛ばないため、どうしても片足義足の選手が有利になる。国際大会に出てくるのは片足義足の選手ばかりだという。

本人の説明では、やり投げの日本記録は自身の約22mで、両足義足の世界記録は35m、あと10mほど伸ばせば届く。一方でパラリンピックに出るための片足義足のレベルは50mほど飛ぶため、あと30mほど伸ばす必要がある。砲丸投げは道具が重いぶん差は小さいが、それでも3〜4mの差があるという。

企業にとっては、どれだけ頑張ってもパラリンピックに出られない自分は宣伝効果の面で条件の悪い選手だと思う、と久多良木さんは話す。それでも、大分でパラスポーツの普及活動をしているなら協力したい、とスポンサーになってくれる企業があり、本当にありがたいという。

80歳、90歳まで:「生きてるようにしか死ねない」

いつまで競技を続けたいかという問いに、最初は特に考えていなかったと答える。しかしマスターズ陸上では80歳、90歳で100mの世界記録を出す選手がいる。大分にも80歳ぐらいのそうした選手がいて、同じ競技場で練習している。負けていられないので、体が動く限り、80歳、90歳まで、あと30〜40年は続けたいという。

もう一つ、義足について調べていた時期に出会った言葉がある。「生きてるようにしか死ねない」。どこで見たかも覚えていないが、強く刺さった。人は生きてきたようにしか最期を迎えられない、という意味だと自分なりに解釈し、それ以来、何をする時も笑うようにしている。死ぬ時に笑っていたいからだ。どんなにきつくても笑うので、どこへ行っても笑っているという。病気の前はおそらく笑えていなかった、と本人は振り返る。

失って初めて分かったこと

久多良木さんは、死にかけないと分からないことがあると話す。空気を吸い、食べたいものを食べ、行きたい場所へ歩いて行き、ものを手で取り、きれいなものを見て、音楽を聴く。普段は当たり前にできていることが、事故や病気で一つ歯車が狂うと突然できなくなる。その時にようやくありがたみが分かる。だから講演ではいつも、「皆さんは今、実はすごく幸せなんです。元気なうちに、ありがたいと思って、やれることをやり尽くしてください」と話しているという。

「なぜ走るのか」とよく聞かれるが、それは無いものねだりに近いという。足がなくなるまで走ったことはなかったのに、足がなくなって走り出した。物を投げることもほとんどなかったのに、両手がなくなって投げている。

象徴的な体験として挙げたのが「風」だ。足があった頃、走っていて風が当たっても、風を切って走っていると意識したことはなかった。足を失った後、最初は小走りのような走り方だったが、支援者に競技用義足を買ってもらい、初めてそれをつけて走った時、風が当たるのを感じた。「足がなくなったけど走れている」という、それまで味わったことのない感動だったという。何より大事なのは「今」で、今ならやりたいことは何でもできる。その「今」をどれだけ楽しめるかが一番大事だと、障害者になってから思うようになった。もっと早く気づきたかった、とも話す。

42年より濃い8年、要介護5から要支援1へ

久多良木さんは、障害者として過ごした8年間の方が、それまでの42年間より「めちゃくちゃ濃い」と言う。学生時代も楽しく、妻と出会って結婚し、子どもが生まれ、家も建てた。楽しいことはたくさんあったが、経営者として無理をしていたところも多かった。障害者になってからは足かせが外れたようで、家族への感謝に加えて、自分にとって大切なものを大切にして生きるようになった。生活の質は障害を負ってからむしろ上がっている、と本人は言い切る。

介護認定の変化も話題に上がった。寝たきりの頃は最も重い要介護5だったが、毎年の更新のたびに状態が良くなり、要介護から外れて要支援になった。その中でも最も軽い要支援1が残っているのは、指の拘縮が進むため週1回のリハビリが必要だからだろうと本人は考えている。これもいずれ外されるのではないかと笑う。寝返りも打てなかった人が、今は月1回ほど全国に出張して陸上の大会に出ている。

講演は子ども向けのものが多いが、60〜70代の高齢者向けの講演も少なくない。漫画家になりたかった、バンドで音楽をやりたかったなど、夢を諦めてきた人は多い。話を聞いた人から、70歳でまた絵を描き始めた、おじいちゃんたちでバンドを組もうという話が出ている、と聞くと嬉しいという。「あなたの話で考え方が変わった」と言われると、自分も相手も嬉しい。そうした活動をずっと続けている。

なぜ前を向けたのか:出会いと運

誰もがこのように明るくなれるわけではないのでは、という問いに、久多良木さんは一番大きかったのは「生きてるようにしか死ねない」という言葉と、大阪の50歳代の義足ランナーとの出会いだと答えた。その男性とは今も地域のイベントなどで会い、話をさせてもらっている。尊敬している人だという。気づくきっかけがなく、落ち込んで寝たきりのまま引きこもってしまう人もいるはずで、きっかけが大事だと考えている。

そして結局は「運がいい」のだと繰り返す。倒れた時に電撃性紫斑病を知る医師が診てくれたから生き残った。一生懸命働いてくれる妻だったから生活を支えてもらえた。指がスマホを触れるまで回復したから、あの男性の動画に出会えた。競技を続けるためのお金も、企業が支えてくれている。家族がいなかったら負けていた可能性もあったかと問われ、それはあっただろうと認めた。

本気で陸上を始めてからの出会いも大きかった。大分にはレジェンド級のパラアスリートがいる。片足義足で知られる女性選手と話す機会があり、パラアスリートがこれほど実直に競技に取り組んでいるのかと感じた。パラリンピックに何度も出場し世界的な記録を持つ大分の車椅子のプロアスリートのラジオ番組にも呼ばれた。その人たちが「めちゃくちゃかっこいい」と思ったことが、自分もかっこいいと思われるように、笑顔を振りまいてみんなを笑顔にすれば何か返ってくるのではないか、という思いにつながった。

1日10分、自分のための時間

40代から何か始めてもいいのかという問いに、久多良木さんは「年なんて関係ない」と答えた。スポーツに限らず、小さい頃にやってみたかったこと、忙しくて諦めていたことを、1日10分でいいから始めればよいという。ギターを弾きたかった時期があるなら、ギターを買うという形から入り、10分でも触る時間を作る。移動中の10分でもよく、10分ならどんなに忙しくてもひねり出せる。それだけで生活が変わると話す。

趣味がなく、仕事が趣味のようなものだというインタビュアーに、久多良木さんは自分も同じだったと応じた。そして、自分のために最初に取った10分は陸上ではなかったと明かした。子どもの頃に大好きだったガンダムだ。年を取るとプラモデルを作る年でもない、ガンダムを見る時間もないと思っていたが、障害者になって自分のための10分を作ろうと考えた時、まずガンダムに戻った。うまくできないながら、1日10分黙々とプラモデルを作る。すると昔やりたかったことが頭の中で次々によみがえってきた。ギターを持っていた時期があった、英語を話してみたいと思ったこともあった。そうしたことに片っ端から1日10分ずつ取り組むうちに、気持ちが前向きになり、楽しい時間を作ると体も動いてくる感覚があったという。

最後に付け加えたのが、どんなに腹が立っても笑っていることだった。腹を立てて怒ると、結局は自分の心にマイナスが溜まり、嫌な思いもする。できるだけ流す方向に持っていけば自分へのストレスが和らぐ。だから笑っていた方がいい、というのが久多良木さんの結論だった。