東国原英夫が語る、「愛人の子」の幼少期から芸人・知事、そして宮崎再挑戦まで

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概要

街録chの取材で、東国原英夫は故郷・宮崎県都城市の公園を歩きながら、生まれてから現在までを振り返った。子どもの頃から抱いていた「お笑い」と「政治」という二つの夢は、どこから生まれ、どう交差したのか。取材の軸はこの問いにある。東国原は、芸人としての成功も、1998年の騒動による謹慎も、宮崎県知事を1期で退いたことも、この二つの夢の間の出来事として語った。

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なお、東国原によれば、宮崎に住所を置いたのはここ5年ほどで、前回の県知事選の1年ほど前からだという。それまでの10年余りは、東京に住所を置いたまま宮崎と東京を行き来する生活だった。

神柱公園の土俵とサーカス――笑いの原点

取材の舞台は都城の神柱公園である。東国原はこの公園の池の向こう側で生まれた。幼少期のことは小説『ゆっくり歩け、空を見ろ』に書いている。当時の公園はまだ整備されておらず、自然が多く、舗装された道もなかった。そこに土俵があり、相撲の巡業やサーカスが来ていたという。

実父の西村は、隣町で材木業と不動産業を営んでいた。不動産といっても扱うのは山で、東国原は「いわゆる山師」だと説明する。昭和30〜40年代には、山はそうした取引の対象だったという。相撲の巡業については、父が本業の興行師だったわけではなく、頼まれて引き受けたのではないかと東国原は推測している。

子どもの東国原を強く惹きつけたのは、土俵で披露される「初っ切り」(ユーモラスな演出の相撲)や、サーカスのピエロだった。観客が沸き、笑顔になり、気持ちよくなっていく。その様子を見て、みんなを笑顔にして幸せにできる仕事は素敵だと感じた。これがお笑いを目指した原点だという。テレビで見た芸人ではなく、生で見た力士やサーカス団員の芸に心を動かされた、というのが本人の説明である。同じ頃、各家庭にテレビが入り始め、東国原は国内のコメディ番組や、海外ではチャップリンを見ていた。

サーカスは1カ月ほど滞在し、幹部クラスの団員10人ほどが東国原の家に泊まった。父は週末しか来ず、屋敷に住むのは母と幼い姉弟の3人だけだったので、部屋はほとんど空いていた。東国原によれば、2階に団員が10〜15人ほど泊まっていたという。

「愛人の子」として生まれて

東国原の母は、西村の内縁の妻、つまり愛人だった。東国原と姉の二人は、西村と山内姓の母との間に生まれた。

東国原は、父はかなりの金持ちだったと見ている。車やサイドカー付きのバイク、米軍払い下げのような車両に乗っていて、とにかく目立った。山の売買をしていたので、家の中には現金が飛び交っていた。当時は興行やプロレスの世界でも現金が大量に動いていた、と東国原は力道山のドキュメンタリーを例に挙げる。一方で、借金で逃げたり、トラブルで姿を消したりする大人も周りには大勢いた。子どもの頃から大人の世界を見ていたという。都城は旧薩摩藩の土地で、子どもの頃から焼酎を飲まされたという話も笑いながら付け加えた。

家庭の事情は、小さな町の誰もが知っていた。ただ東国原は、当時は政治家や実業家が「2号さん、3号さん」を持つのは珍しくなかったと話す。「酒も女も2号まで」という言葉が、実業界や政界の不文律のようになっていたという。今では考えられない価値観だ、とも添えた。事情に気づいたのは小学校に上がる前である。父は西村、自分たちは母方の山内で、名字が違う。聞かなくても、大人たちの言動や空気でなんとなく分かったという。

東国原は、母は父に愛されていたと思っている。料理がうまく、接客もこなし、見た目も美しかった。西村の家には市議会議員や市長など地元の政治家がよく出入りし、庭で今でいうバーベキューのような宴会を開いていた。

公園の池にはかつてボートが浮かんでいて、それをひっくり返して最初に池に落ちたのが自分だ、という思い出も語られた。運動神経は「田舎のまあまあレベル」で、市や県の大会ではいい成績だったという。

刺された父、四人の女性、そして異母きょうだい

父は地元のちょっとした有名人で、敵も多かったと東国原は見ている。小説には、父が突然刺される場面がある。原因は分からないが、山や不動産をめぐるトラブルだろうと推測する。当時はそうしたもめ事がよくあったという。東国原が5〜6歳の頃の出来事で、鮮明な記憶ではないものの、衝撃的な事件は忘れないと話す。

トラウマにならなかったのかと聞かれると、東国原は、そういう環境で育ったからメンタルは強かったのではないかと答えた。「妾の子」と後ろ指をさされ、騒ぎ立てられることもあったはずだが、それを乗り越えていたのだろう、と振り返る。姉も気が強く、今もそうだという。父は女の子である姉を目に入れても痛くないほどかわいがり、姉も父が大好きだったと東国原は見ている。

子どもの頃、父のもう一つの家族には一度も会わなかった。本妻の家は隣町にあったが、家族構成も知らなかった。30代か40代になってから知るようになり、大人になって一度その本宅を見に行ったこともある。東国原によれば、父には本妻と自分の母のほかにも女性がいて、全部で4人ぐらいだったと思う、という。父が刺されて入院したとき、女性が2人ほど見舞いや看護に来ていた記憶もある。本妻の子である異母の姉と兄は今も健在で、78〜80歳ほどになる。現在は交流があるという。

サーカスの団員たちも、大人の世界を隠さなかった。まだ小学校に上がる前、2階での大騒ぎが気になって階段を上ると、女性の団員が帯で足を縛られ、柱に逆さに吊るされていて、周りが喜んでいた。東国原は「意味がわからん」と笑って振り返る。

豪邸からの転落を「面白がった」子ども

大王小学校に入学した頃も両親の関係は続いていた。しかし小学2年生ぐらいから二人の仲が悪くなり、毎日のように喧嘩をするようになった。やがて父は帰ってこなくなり、おそらく同時に生活費も入れなくなった、と東国原は推測する。母は近くのセメントブロック工場に働きに出た。そのとき東国原は、これで別れるのだ、もう援助はないのだと子どもながらに悟った。母からも「これから贅沢はできんからね、我慢してね」と言われた。

生活は一変した。大きな屋敷から、いわば「あばら家」への転落である。それでも東国原は、この生活をどこか面白がっていたという。昭和30年代は戦後でみんな貧しかった。その中で自分の家は西村の援助があり、テレビや洗濯機などの家電を早く導入できていた。それがなくなると、洗濯は母がたらいで手洗いし、水道だった水は共同の井戸に、トイレも共同になった。東国原はこの変化を、良い意味でのカルチャーショックとして受け止め、楽しんでいたと語る。

義父・東国原との出会い

母は男性ばかりのセメント工場で、力仕事から事務まで男性と同じ仕事をこなした。そこで出会ったのが東国原俊である。二人は、東国原が小学4年生ぐらいのときに結婚した。「山内」から「東国原」へ名字が変わったことには違和感があり、嫌だったという。

それでも受け入れた理由を、東国原は「母が幸せそうだったから」と説明する。西村とは晩年毎日喧嘩ばかりだった母が、新しい相手と結婚して生き生きとしていた。母が選んだ人生なのだからこれでいい、と思ったという。義父は母より8歳ほど年下で、連れ子二人と年上の妻を一生懸命働いて養った。東国原はこの義父を尊敬し、感謝していると話す。

名字が変わると同時に、住む場所も学校も変わった。これは、同じ学校で名字が変われば周りからいじめられたり白い目で見られたりするかもしれない、という親の気遣いだったのではないか、と東国原は推測する。山内英夫を知る子が少ない学校で、新しい生活を始めようとしたのだろうという。

宴会の話が町を変えていく――政治への目覚め

お笑いと政治、どちらの夢が大きかったのかと問われると、東国原は「同じぐらい」と答えた。政治に関心を持った背景には、戦後の町の姿がある。一帯には飛行場があり、米軍の空襲を受けて瓦礫の町になっていた。そこから高度経済成長期にかけて町が立ち直っていく過程に、東国原は政治の力を感じていた。

きっかけは、西村の家で開かれていた政治家たちの宴会である。そこでは「あそこに橋を作らないかん」「ここをアスファルトにしなきゃいけない」「瓦礫を片付けないかん」といった話が交わされていた。そして、その話が実際に形になっていくのを目の当たりにした。木造の校舎が鉄筋に変わっていくのも政治だった。熱心に聞き耳を立てていたわけではなく、遊びながら、あるいは父に呼ばれて膝に乗せられながら、自然と耳に入っていたという。東国原は、その是非には議論があるだろうと断ったうえで、町が豊かになっていくダイナミズムを政治に感じたと語った。

100万円を使い込んだ上京

高校は都城市の進学校、泉ヶ丘高校。大学は専修大学、明治大学、早稲田大学を受験し、東国原によればすべて合格していた。それでも専修に進んだのには理由がある。

宮崎の高校生の進学先は、県内や九州の大学、あるいは関西が中心で、関東に行く人は少なかった。しかし東国原にとって、お笑いと政治の夢を実現する場所は東京しかなかった。大島紬の織り職人だった義父は、受験のために100万円を持たせてくれた。3校を受験するには1カ月ほど東京に滞在する必要がある。宿泊は親戚の家を頼ったが、往復の旅費と1カ月分の生活費、さらに1校30〜40万円だった入学金2学部分を、この100万円でまかなう計算だった。

ところが18歳の東国原は、華やかな東京でこの金を使い込んでしまう。輪島功一の世界戦をどうしても見たくて、ダフ屋から7〜8万円のチケットを買った。吉田拓郎が好きで、その曲に出てくる原宿のバー「ペニーレイン」に行ってみたら、ぼったくられた。萩原健一に憧れてスーツも買った。これも10万円ほどしたという。

気づけば、手元には1学部分の入学金しか残っていなかった。最初に発表があった専修大学に入学金を納め、明治と早稲田も受けて合格はしたが、お金がなく、浪人も許されない。東国原は専修大学のレベルを低く言うつもりはないと断ったうえで、「大学は正直どこでも良かった、東京が大学だと思った」と語る。

芸人から政治家へ――18歳の計画

東国原は18歳の時点で、芸人として名を上げてから政治家になるという道筋を描いていた。当時、お笑い出身の政治家はほとんどいなかった。先例として挙げたのは横山ノック、青島幸男、コロムビア・トップ、西川きよしで、中でも古いのは横山ノックだという。知名度を上げ、芸能活動をしながら政治を勉強していく計画だった。

ところが、たけし軍団に入り、軍団が売れたことで、なかなか抜けられなくなった。1986年のフライデー事件のときは、これで芸能界は終わりか、それなら政治を目指そうと思った。しかし謹慎を経て復帰し、女優のかとうかず子と結婚すると、さらに売れた。90年代はずっと年収1億円のプレイヤーだったという。バラエティは売れていると面白く、人とも会える。こうして、やめられなくなっていった。

たけし軍団から初の「ピン」へ

もともと東国原は、大森うたえもんと漫才コンビ「ツーツーレロレロ」を組んでいた。1980年代前半、ビートたけしから、ドリフターズのような集団芸をやるから漫才はやめろと言われ、コンビは3年で終わった。軍団は知名度も人気も上がり、仕事も増えた。

フライデー事件から復帰した1988〜89年ごろ、東国原はこのままでいいのかと考え始める。軍団の芸は「痛い、熱い、苦しい」のリアクション芸、いわば汚れ芸だった。このまま芸人人生を終えるのではなく、ピンでMCやドラマなど様々な分野に行きたい。そう考えて書いたのが小説『ビートたけし殺人事件』である。これがドラマ化され、東国原は原作・脚本・主演を務めた。かとうかず子と知り合ったのもこのドラマだった。

たけしには、軍団を「バラ売り」しない方針があった。バラ売りすれば、上と下の格差が大きくなるからだ。東国原によれば、たけしは「東が独立したら億円プレイヤーになるだろう」と見ていたという。それでも東国原が直談判すると、たけしは「分かった、やってみろ」と許した。こうして東国原は、軍団から初めてピンで活動する芸人になった。

ピンになった途端、『笑っていいとも!』から声がかかった。当時、たけしとタモリはライバル関係で、共演はほとんどなかった。東国原によれば、二人は互いを認め合っていたが、芸風も違い、ライバル視し合っていた。唯一の共演は、明石家さんまが間に入ったBIG3のゴルフだけだったという。軍団から『いいとも』に出ることはタブーだった。東国原がビクビクしながら許可を求めに行くと、たけしの返事は「好きにしろ」の一言だった。

たけしに追いつき追い越そうという野心はなかった、と東国原は言う。「恐れ多い」「天才」だからこそ、師匠の近くにいると自分が沈んで消えてしまう、という危機感があった。ただ、テレビドラマの原作と脚本を書いて主演したのは、たけしが『その男、凶暴につき』で映画を撮るより自分のほうが早かったのでは、とも話した。

1998年の騒動と、「やっと来た」という感覚

仕事は順調で、かとうかず子と二人の子どもがいて、世田谷の家賃100万〜150万円のマンションに住んでいた。政治の勉強は並行して続けていたが、踏み出すきっかけがなかった。そこに起きたのが1998年の騒動である。軍団の後輩に「渋谷に面白いイメクラができた」と誘われて行った店だった。東国原は、自覚が足りず、気の緩みがあったと認める。自分の立場の人間が行くような店ではなかった、という指摘にもうなずいた。

先輩芸人たちからは、謹慎する必要はない、悪いのは店だ、と言われたという。カタログには二十歳と書いてあり、それを信じてサービスを受けたのだから、店に騙されたのだ、と。それでも「淫行」と書かれ、メディアスクラムを受ければイメージは落ちる。師匠にも、軍団にも、スタッフにもファンにも迷惑をかけたと東国原は受け止めた。

一方で、東国原はこのとき「やっと来た」という感覚もあったと明かす。淫行というレッテルを貼られたら芸能界はもう無理だ、これは政治しかない、小さい頃からの夢だった政治家を目指そう、と考えた。語弊があるかもしれないと断ったうえで、「潜在意識の中でそれを狙っていた」と自己分析した。もちろん落ち込みもした。レギュラー8〜10本がゼロになり、年収1億円が消えた。それでも「ピンチはチャンス」だと思う自分がいたという。

早稲田で学び直した2年間の無収入

謹慎後、東国原は一から勉強し直すことにした。早稲田は政治家を育てる大学だという思いから、ずっと行きたかったという。予備校に2〜3カ所通い、2000年に早稲田大学の第二文学部に入学、その後政治経済学部に入った。1998年から2000年までの約2年間は無収入で、それまでの貯金を食いつぶした。かとうかず子には感謝しかない、と東国原は言う。入学後は少しずつ仕事が戻り、最低限の生活をしながら仕事と学業を両立した。

「今しかない」と判断した知事選

転機は、当時の宮崎県知事・安藤忠恕が官製談合と収賄で逮捕され、辞職したことだった。東国原は大学2年から3年に上がる時期だったが、大学を辞めて出馬した。

なぜ今だったのか。東国原によれば、首長は2期目が一番強い。この選挙を見送れば誰かが当選する。自分が大学院まで進んで4年後に出れば、相手は2期目を狙う現職で、最も強い。さらにその次は3期目になり、ますます勝ち目がない。東国原は宮崎市長か宮崎県知事という首長を目指していたので、現職のいない新人同士の戦いになるこのタイミングしかないと考えた。

トップセールスと三本柱

知事時代、東国原はテレビに出続けた。本人の説明では、これは県産品と観光地のPRという公約を実行したものだった。宮崎にはマンゴー、地鶏、肉巻きおにぎり、チキン南蛮、宮崎牛など優れた産品があるのに、PRが下手だった。それが行政課題だったので、知事自らがトップセールスをすると公約に掲げていた。「タレントに戻ったのか」という批判もあったが、「お構いなし」だったという。メディアでの宣伝効果は2000億円とも言われた。

選挙時の公約は三本柱だった。第一に、談合で失われた信頼を回復するための入札・契約制度の改革。第二にトップセールス。第三に行財政改革である。人口問題について聞かれると、東国原は、少子化や人口減少は10〜20年前から予想されていて先手を打つべきだったとしつつ、実際に宮崎の人口減少が始まったのは2008年だと説明した。大きな目標は、宮崎の知名度を上げ、県産品を売って外貨を稼ぎ、裕福な自治体にすることだった。評価はしてもらえた、と東国原は振り返る。

口蹄疫と種牛、そして2期目不出馬の理由

東国原は、2期目に出馬しなかった理由を詳しく語った。発端は2010年の口蹄疫である。

宮崎の畜産を支えているのは、県が長年育ててきた種牛だ。優秀な種牛の精子を雌牛に受精させて、いい牛をつくる仕組みである。種牛がいなくなれば、宮崎の畜産は壊滅的な打撃を受ける。その種牛を抱える県の家畜改良事業団(高鍋町)の周囲で感染が広がり、移動制限がかかった。感染すれば全頭処分になる。

予備軍を含めて約200頭いた種牛のうち、特に優秀な6頭だけを残し、他はすべて殺処分になった。東国原は県の対策本部長として、県の財産である種牛を守るために、6頭を山奥へ移すと政治判断した。「法律ちょっとギリギリだった」と本人も認める。ただ、ただ動かしたのではなく、抗体検査で陰性であることを条件にしたという。ところが移動の3〜4日後、最も優秀な「忠富士」に感染が見つかり、処分した。残る5頭については、感染したらそのとき考えると判断し、結果的に感染しなかった。

騒動が収束した10月ごろ、ある団体が東国原のもとに来た。種牛を逃したのは違法行為で、本来なら殺処分すべきだった、2期目に出れば確実に行政訴訟を起こす、という内容だった。当時、東国原が動けば全国の注目の的になり、記事になった。東国原は、団体はそれを狙っていたのだと見ている。裁判になれば、警察や裁判所も動く。東国原自身、合法性はギリギリで、下手をすれば負けると思っていた。2期目に出なければ訴訟はしないのかと尋ねると、しないとの答えだった。自分がいなくなった宮崎を訴えても話題にならないと考えたのだろう、と東国原は推測する。おかしな話だと思いながらも、「断腸の思い」で出馬を見送った。本当は2期やりたかったという。

この理由は、当時周囲に一切話さなかった。そのため「1期で宮崎を捨てた」「宮崎を踏み台にした」と言われた。それでも1期で辞めたのは事実なので、批判は当然だと東国原は受け止めている。

もし2期、3期続けていたら

東国原は、続けていれば今の宮崎は違ったと考えている。まず都市計画とインフラ整備が違っていたはずだという。2011年の東日本大震災で、地方自治体は災害対策や津波対策に大きく舵を切った。それでも、南海トラフへの備えと並行して、鉄道、高速道路、空港といったインフラ整備で宮崎を活性化できたはずだと東国原は語る。2期目をやっていれば間違いなく新幹線の話をしていたとし、福岡から宮崎への新幹線は、まだ開通していなくても少なくとも整備計画には上がり、ぼちぼち動き出していただろうと見る。

再挑戦と「感情投票」の壁

知事退任後、東国原は東京都知事選や日本維新の会などに関わった。2011年からの10年余り、宮崎の衰退が止まらないのを見て、故郷をもう一度活性化したいと考え、4年前の知事選に手を挙げた。そのとき一番の壁が、1期で辞めたことへの批判だった。今でも根強いという。

東国原はこれを「感情投票」と呼ぶ。生理的に嫌い、一度裏切られたからもう戻らない、という投票行動だ。それも仕方がないと認めつつ、合理的に考えてほしい、宮崎をもう一度活性化するチャンスをもらえないか、と県民に訴えているという。

当選したら何期務めるのかと問われると、「10年ください」と言っているので、年齢も考えて3期だろうと答えた。変えたいのは三つの「風景」だという。一つは空き家問題や都市のエネルギーなどを含む街並みの風景。二つ目は、経済を底上げして変える経済の風景。三つ目は県民の心の風景で、2007年のように宮崎が日本一輝き、全国から「宮崎、盛り上がってるよね」と言われる状態にしたいという。1回目ほどのブームは起こせないのではと問われると、東国原は「絶対とは言い切れない」と返した。1回目も、芸人に何ができる、行政経験もない、たけし軍団程度だ、と言われ、誰も宮崎があれほど注目されるとは信じていなかったのだから、と。

68歳のバイタリティと、総理への関心

東国原は現在68歳で、3期務めれば78歳になる。そのバイタリティはどちらの父譲りかと聞かれると、「西村ですよ」と即答した。人間的にどうかという面はあるが、4人の女性とその子どもたちの生活を支えるバイタリティの塊だったという。年齢については、麻生太郎や、80歳ぐらいまで知事を務めた石原慎太郎、トランプらを挙げ、形式上の年齢ではなく実年齢で測ってほしいと話した。

1期目の2009年には、自民党本部から国政への出馬を打診された。民主党政権が誕生する直前で、自民党は次の選挙で負けると見られていた。東国原は、それまで宮崎の自民党に「いじめられてきた」と語る。自民党候補を破って知事になったため、議会でも職員からも激しく攻撃されたという。その状況を「石丸伸二君と同じような感じ」とたとえた。それでも実績を上げると、今度は取り込もうとしてくる。東国原は、日本維新の会の松井一郎の言葉を引き、だから自民党は70年も80年も続いているのだ、それが政治なのだと語った。

打診に対して東国原は、自分が1期生でも総裁選に出られる環境を整えるなど、解党的な出直しをしなければ民主党に負ける、と返した。本心ではあったが、同時に断る理由でもあった。党が飲むはずのない高いハードルを投げたのだという。総理を目指したことはあまりなく、頭にあったのは地方としての宮崎の活性化だった、と東国原は言う。

宮崎経済の弱点――製造業

最後に、気候も景色もいい宮崎がなぜ九州で下位を争っているのかと問われ、東国原は経済力の差を挙げた。宮崎は農林水産業とサービス業に比べて製造業が弱い。東国原によれば、県内総生産は宮崎が年間3.7兆円なのに対し、鹿児島は6兆円、熊本は6.5兆円と大きな開きがある。基幹産業である農林水産業や観光はきちんと守り強化しつつ、製造業で稼ぐ力を上げなければならない。東国原がそう語ったところで時間切れとなり、取材は終わった。