東国原英夫が語る、「愛人の子」の幼少期から芸人・知事、そして宮崎再挑戦まで
街録ch〜あなたの人生、教えて下さい〜街録chの取材で、東国原英夫は故郷・宮崎県都城市の公園を歩きながら、生まれてから現在までを振り返った。子どもの頃から抱いていた「お笑い」と「政治」という二つの夢は、どこから生まれ、どう交差したのか。取材の軸はこの問いにある。東国原は、芸人としての成功も、1998年の騒動による謹慎も、宮崎県知事を1期で退いたことも、この二つの夢の間の出来事として語った。
なお、東国原によれば、宮崎に住所を置いたのはここ5年ほどで、前回の県知事選の1年ほど前からだという。それまでの10年余りは、東京に住所を置いたまま宮崎と東京を行き来する生活だった。
神柱公園の土俵とサーカス――笑いの原点
取材の舞台は都城の神柱公園である。東国原はこの公園の池の向こう側で生まれた。幼少期のことは小説『ゆっくり歩け、空を見ろ』に書いている。当時の公園はまだ整備されておらず、自然が多く、舗装された道もなかった。そこに土俵があり、相撲の巡業やサーカスが来ていたという。
実父の西村は、隣町で材木業と不動産業を営んでいた。不動産といっても扱うのは山で、東国原は「いわゆる山師」だと説明する。昭和30〜40年代には、山はそうした取引の対象だったという。相撲の巡業については、父が本業の興行師だったわけではなく、頼まれて引き受けたのではないかと東国原は推測している。
子どもの東国原を強く惹きつけたのは、土俵で披露される「初っ切り」(ユーモラスな演出の相撲)や、サーカスのピエロだった。観客が沸き、笑顔になり、気持ちよくなっていく。その様子を見て、みんなを笑顔にして幸せにできる仕事は素敵だと感じた。これがお笑いを目指した原点だという。テレビで見た芸人ではなく、生で見た力士やサーカス団員の芸に心を動かされた、というのが本人の説明である。同じ頃、各家庭にテレビが入り始め、東国原は国内のコメディ番組や、海外ではチャップリンを見ていた。
サーカスは1カ月ほど滞在し、幹部クラスの団員10人ほどが東国原の家に泊まった。父は週末しか来ず、屋敷に住むのは母と幼い姉弟の3人だけだったので、部屋はほとんど空いていた。東国原によれば、2階に団員が10〜15人ほど泊まっていたという。
「愛人の子」として生まれて
東国原の母は、西村の内縁の妻、つまり愛人だった。東国原と姉の二人は、西村と山内姓の母との間に生まれた。
東国原は、父はかなりの金持ちだったと見ている。車やサイドカー付きのバイク、米軍払い下げのような車両に乗っていて、とにかく目立った。山の売買をしていたので、家の中には現金が飛び交っていた。当時は興行やプロレスの世界でも現金が大量に動いていた、と東国原は力道山のドキュメンタリーを例に挙げる。一方で、借金で逃げたり、トラブルで姿を消したりする大人も周りには大勢いた。子どもの頃から大人の世界を見ていたという。都城は旧薩摩藩の土地で、子どもの頃から焼酎を飲まされたという話も笑いながら付け加えた。
家庭の事情は、小さな町の誰もが知っていた。ただ東国原は、当時は政治家や実業家が「2号さん、3号さん」を持つのは珍しくなかったと話す。「酒も女も2号まで」という言葉が、実業界や政界の不文律のようになっていたという。今では考えられない価値観だ、とも添えた。事情に気づいたのは小学校に上がる前である。父は西村、自分たちは母方の山内で、名字が違う。聞かなくても、大人たちの言動や空気でなんとなく分かったという。
東国原は、母は父に愛されていたと思っている。料理がうまく、接客もこなし、見た目も美しかった。西村の家には市議会議員や市長など地元の政治家がよく出入りし、庭で今でいうバーベキューのような宴会を開いていた。
公園の池にはかつてボートが浮かんでいて、それをひっくり返して最初に池に落ちたのが自分だ、という思い出も語られた。運動神経は「田舎のまあまあレベル」で、市や県の大会ではいい成績だったという。
刺された父、四人の女性、そして異母きょうだい
父は地元のちょっとした有名人で、敵も多かったと東国原は見ている。小説には、父が突然刺される場面がある。原因は分からないが、山や不動産をめぐるトラブルだろうと推測する。当時はそうしたもめ事がよくあったという。東国原が5〜6歳の頃の出来事で、鮮明な記憶ではないものの、衝撃的な事件は忘れないと話す。
トラウマにならなかったのかと聞かれると、東国原は、そういう環境で育ったからメンタルは強かったのではないかと答えた。「妾の子」と後ろ指をさされ、騒ぎ立てられることもあったはずだが、それを乗り越えていたのだろう、と振り返る。姉も気が強く、今もそうだという。父は女の子である姉を目に入れても痛くないほどかわいがり、姉も父が大好きだったと東国原は見ている。
子どもの頃、父のもう一つの家族には一度も会わなかった。本妻の家は隣町にあったが、家族構成も知らなかった。30代か40代になってから知るようになり、大人になって一度その本宅を見に行ったこともある。東国原によれば、父には本妻と自分の母のほかにも女性がいて、全部で4人ぐらいだったと思う、という。父が刺されて入院したとき、女性が2人ほど見舞いや看護に来ていた記憶もある。本妻の子である異母の姉と兄は今も健在で、78〜80歳ほどになる。現在は交流があるという。
サーカスの団員たちも、大人の世界を隠さなかった。まだ小学校に上がる前、2階での大騒ぎが気になって階段を上ると、女性の団員が帯で足を縛られ、柱に逆さに吊るされていて、周りが喜んでいた。東国原は「意味がわからん」と笑って振り返る。
豪邸からの転落を「面白がった」子ども
大王小学校に入学した頃も両親の関係は続いていた。しかし小学2年生ぐらいから二人の仲が悪くなり、毎日のように喧嘩をするようになった。やがて父は帰ってこなくなり、おそらく同時に生活費も入れなくなった、と東国原は推測する。母は近くのセメントブロック工場に働きに出た。そのとき東国原は、これで別れるのだ、もう援助はないのだと子どもながらに悟った。母からも「これから贅沢はできんからね、我慢してね」と言われた。
生活は一変した。大きな屋敷から、いわば「あばら家」への転落である。それでも東国原は、この生活をどこか面白がっていたという。昭和30年代は戦後でみんな貧しかった。その中で自分の家は西村の援助があり、テレビや洗濯機などの家電を早く導入できていた。それがなくなると、洗濯は母がたらいで手洗いし、水道だった水は共同の井戸に、トイレも共同になった。東国原はこの変化を、良い意味でのカルチャーショックとして受け止め、楽しんでいたと語る。
義父・東国原との出会い
母は男性ばかりのセメント工場で、力仕事から事務まで男性と同じ仕事をこなした。そこで出会ったのが東国原俊である。二人は、東国原が小学4年生ぐらいのときに結婚した。「山内」から「東国原」へ名字が変わったことには違和感があり、嫌だったという。
それでも受け入れた理由を、東国原は「母が幸せそうだったから」と説明する。西村とは晩年毎日喧嘩ばかりだった母が、新しい相手と結婚して生き生きとしていた。母が選んだ人生なのだからこれでいい、と思ったという。義父は母より8歳ほど年下で、連れ子二人と年上の妻を一生懸命働いて養った。東国原はこの義父を尊敬し、感謝していると話す。
名字が変わると同時に、住む場所も学校も変わった。これは、同じ学校で名字が変われば周りからいじめられたり白い目で見られたりするかもしれない、という親の気遣いだったのではないか、と東国原は推測する。山内英夫を知る子が少ない学校で、新しい生活を始めようとしたのだろうという。
宴会の話が町を変えていく――政治への目覚め
お笑いと政治、どちらの夢が大きかったのかと問われると、東国原は「同じぐらい」と答えた。政治に関心を持った背景には、戦後の町の姿がある。一帯には飛行場があり、米軍の空襲を受けて瓦礫の町になっていた。そこから高度経済成長期にかけて町が立ち直っていく過程に、東国原は政治の力を感じていた。
きっかけは、西村の家で開かれていた政治家たちの宴会である。そこでは「あそこに橋を作らないかん」「ここをアスファルトにしなきゃいけない」「瓦礫を片付けないかん」といった話が交わされていた。そして、その話が実際に形になっていくのを目の当たりにした。木造の校舎が鉄筋に変わっていくのも政治だった。熱心に聞き耳を立てていたわけではなく、遊びながら、あるいは父に呼ばれて膝に乗せられながら、自然と耳に入っていたという。東国原は、その是非には議論があるだろうと断ったうえで、町が豊かになっていくダイナミズムを政治に感じたと語った。
100万円を使い込んだ上京
高校は都城市の進学校、泉ヶ丘高校。大学は専修大学、明治大学、早稲田大学を受験し、東国原によればすべて合格していた。それでも専修に進んだのには理由がある。
宮崎の高校生の進学先は、県内や九州の大学、あるいは関西が中心で、関東に行く人は少なかった。しかし東国原にとって、お笑いと政治の夢を実現する場所は東京しかなかった。大島紬の織り職人だった義父は、受験のために100万円を持たせてくれた。3校を受験するには1カ月ほど東京に滞在する必要がある。宿泊は親戚の家を頼ったが、往復の旅費と1カ月分の生活費、さらに1校30〜40万円だった入学金2学部分を、この100万円でまかなう計算だった。
ところが18歳の東国原は、華やかな東京でこの金を使い込んでしまう。輪島功一の世界戦をどうしても見たくて、ダフ屋から7〜8万円のチケットを買った。吉田拓郎が好きで、その曲に出てくる原宿のバー「ペニーレイン」に行ってみたら、ぼったくられた。萩原健一に憧れてスーツも買った。これも10万円ほどしたという。
気づけば、手元には1学部分の入学金しか残っていなかった。最初に発表があった専修大学に入学金を納め、明治と早稲田も受けて合格はしたが、お金がなく、浪人も許されない。東国原は専修大学のレベルを低く言うつもりはないと断ったうえで、「大学は正直どこでも良かった、東京が大学だと思った」と語る。
芸人から政治家へ――18歳の計画
東国原は18歳の時点で、芸人として名を上げてから政治家になるという道筋を描いていた。当時、お笑い出身の政治家はほとんどいなかった。先例として挙げたのは横山ノック、青島幸男、コロムビア・トップ、西川きよしで、中でも古いのは横山ノックだという。知名度を上げ、芸能活動をしながら政治を勉強していく計画だった。
ところが、たけし軍団に入り、軍団が売れたことで、なかなか抜けられなくなった。1986年のフライデー事件のときは、これで芸能界は終わりか、それなら政治を目指そうと思った。しかし謹慎を経て復帰し、女優のかとうかず子と結婚すると、さらに売れた。90年代はずっと年収1億円のプレイヤーだったという。バラエティは売れていると面白く、人とも会える。こうして、やめられなくなっていった。
たけし軍団から初の「ピン」へ
もともと東国原は、大森うたえもんと漫才コンビ「ツーツーレロレロ」を組んでいた。1980年代前半、ビートたけしから、ドリフターズのような集団芸をやるから漫才はやめろと言われ、コンビは3年で終わった。軍団は知名度も人気も上がり、仕事も増えた。
フライデー事件から復帰した1988〜89年ごろ、東国原はこのままでいいのかと考え始める。軍団の芸は「痛い、熱い、苦しい」のリアクション芸、いわば汚れ芸だった。このまま芸人人生を終えるのではなく、ピンでMCやドラマなど様々な分野に行きたい。そう考えて書いたのが小説『ビートたけし殺人事件』である。これがドラマ化され、東国原は原作・脚本・主演を務めた。かとうかず子と知り合ったのもこのドラマだった。
たけしには、軍団を「バラ売り」しない方針があった。バラ売りすれば、上と下の格差が大きくなるからだ。東国原によれば、たけしは「東が独立したら億円プレイヤーになるだろう」と見ていたという。それでも東国原が直談判すると、たけしは「分かった、やってみろ」と許した。こうして東国原は、軍団から初めてピンで活動する芸人になった。
ピンになった途端、『笑っていいとも!』から声がかかった。当時、たけしとタモリはライバル関係で、共演はほとんどなかった。東国原によれば、二人は互いを認め合っていたが、芸風も違い、ライバル視し合っていた。唯一の共演は、明石家さんまが間に入ったBIG3のゴルフだけだったという。軍団から『いいとも』に出ることはタブーだった。東国原がビクビクしながら許可を求めに行くと、たけしの返事は「好きにしろ」の一言だった。
たけしに追いつき追い越そうという野心はなかった、と東国原は言う。「恐れ多い」「天才」だからこそ、師匠の近くにいると自分が沈んで消えてしまう、という危機感があった。ただ、テレビドラマの原作と脚本を書いて主演したのは、たけしが『その男、凶暴につき』で映画を撮るより自分のほうが早かったのでは、とも話した。
1998年の騒動と、「やっと来た」という感覚
仕事は順調で、かとうかず子と二人の子どもがいて、世田谷の家賃100万〜150万円のマンションに住んでいた。政治の勉強は並行して続けていたが、踏み出すきっかけがなかった。そこに起きたのが1998年の騒動である。軍団の後輩に「渋谷に面白いイメクラができた」と誘われて行った店だった。東国原は、自覚が足りず、気の緩みがあったと認める。自分の立場の人間が行くような店ではなかった、という指摘にもうなずいた。
先輩芸人たちからは、謹慎する必要はない、悪いのは店だ、と言われたという。カタログには二十歳と書いてあり、それを信じてサービスを受けたのだから、店に騙されたのだ、と。それでも「淫行」と書かれ、メディアスクラムを受ければイメージは落ちる。師匠にも、軍団にも、スタッフにもファンにも迷惑をかけたと東国原は受け止めた。
一方で、東国原はこのとき「やっと来た」という感覚もあったと明かす。淫行というレッテルを貼られたら芸能界はもう無理だ、これは政治しかない、小さい頃からの夢だった政治家を目指そう、と考えた。語弊があるかもしれないと断ったうえで、「潜在意識の中でそれを狙っていた」と自己分析した。もちろん落ち込みもした。レギュラー8〜10本がゼロになり、年収1億円が消えた。それでも「ピンチはチャンス」だと思う自分がいたという。
早稲田で学び直した2年間の無収入
謹慎後、東国原は一から勉強し直すことにした。早稲田は政治家を育てる大学だという思いから、ずっと行きたかったという。予備校に2〜3カ所通い、2000年に早稲田大学の第二文学部に入学、その後政治経済学部に入った。1998年から2000年までの約2年間は無収入で、それまでの貯金を食いつぶした。かとうかず子には感謝しかない、と東国原は言う。入学後は少しずつ仕事が戻り、最低限の生活をしながら仕事と学業を両立した。
「今しかない」と判断した知事選
転機は、当時の宮崎県知事・安藤忠恕が官製談合と収賄で逮捕され、辞職したことだった。東国原は大学2年から3年に上がる時期だったが、大学を辞めて出馬した。
なぜ今だったのか。東国原によれば、首長は2期目が一番強い。この選挙を見送れば誰かが当選する。自分が大学院まで進んで4年後に出れば、相手は2期目を狙う現職で、最も強い。さらにその次は3期目になり、ますます勝ち目がない。東国原は宮崎市長か宮崎県知事という首長を目指していたので、現職のいない新人同士の戦いになるこのタイミングしかないと考えた。
トップセールスと三本柱
知事時代、東国原はテレビに出続けた。本人の説明では、これは県産品と観光地のPRという公約を実行したものだった。宮崎にはマンゴー、地鶏、肉巻きおにぎり、チキン南蛮、宮崎牛など優れた産品があるのに、PRが下手だった。それが行政課題だったので、知事自らがトップセールスをすると公約に掲げていた。「タレントに戻ったのか」という批判もあったが、「お構いなし」だったという。メディアでの宣伝効果は2000億円とも言われた。
選挙時の公約は三本柱だった。第一に、談合で失われた信頼を回復するための入札・契約制度の改革。第二にトップセールス。第三に行財政改革である。人口問題について聞かれると、東国原は、少子化や人口減少は10〜20年前から予想されていて先手を打つべきだったとしつつ、実際に宮崎の人口減少が始まったのは2008年だと説明した。大きな目標は、宮崎の知名度を上げ、県産品を売って外貨を稼ぎ、裕福な自治体にすることだった。評価はしてもらえた、と東国原は振り返る。
口蹄疫と種牛、そして2期目不出馬の理由
東国原は、2期目に出馬しなかった理由を詳しく語った。発端は2010年の口蹄疫である。
宮崎の畜産を支えているのは、県が長年育ててきた種牛だ。優秀な種牛の精子を雌牛に受精させて、いい牛をつくる仕組みである。種牛がいなくなれば、宮崎の畜産は壊滅的な打撃を受ける。その種牛を抱える県の家畜改良事業団(高鍋町)の周囲で感染が広がり、移動制限がかかった。感染すれば全頭処分になる。
予備軍を含めて約200頭いた種牛のうち、特に優秀な6頭だけを残し、他はすべて殺処分になった。東国原は県の対策本部長として、県の財産である種牛を守るために、6頭を山奥へ移すと政治判断した。「法律ちょっとギリギリだった」と本人も認める。ただ、ただ動かしたのではなく、抗体検査で陰性であることを条件にしたという。ところが移動の3〜4日後、最も優秀な「忠富士」に感染が見つかり、処分した。残る5頭については、感染したらそのとき考えると判断し、結果的に感染しなかった。
騒動が収束した10月ごろ、ある団体が東国原のもとに来た。種牛を逃したのは違法行為で、本来なら殺処分すべきだった、2期目に出れば確実に行政訴訟を起こす、という内容だった。当時、東国原が動けば全国の注目の的になり、記事になった。東国原は、団体はそれを狙っていたのだと見ている。裁判になれば、警察や裁判所も動く。東国原自身、合法性はギリギリで、下手をすれば負けると思っていた。2期目に出なければ訴訟はしないのかと尋ねると、しないとの答えだった。自分がいなくなった宮崎を訴えても話題にならないと考えたのだろう、と東国原は推測する。おかしな話だと思いながらも、「断腸の思い」で出馬を見送った。本当は2期やりたかったという。
この理由は、当時周囲に一切話さなかった。そのため「1期で宮崎を捨てた」「宮崎を踏み台にした」と言われた。それでも1期で辞めたのは事実なので、批判は当然だと東国原は受け止めている。
もし2期、3期続けていたら
東国原は、続けていれば今の宮崎は違ったと考えている。まず都市計画とインフラ整備が違っていたはずだという。2011年の東日本大震災で、地方自治体は災害対策や津波対策に大きく舵を切った。それでも、南海トラフへの備えと並行して、鉄道、高速道路、空港といったインフラ整備で宮崎を活性化できたはずだと東国原は語る。2期目をやっていれば間違いなく新幹線の話をしていたとし、福岡から宮崎への新幹線は、まだ開通していなくても少なくとも整備計画には上がり、ぼちぼち動き出していただろうと見る。
再挑戦と「感情投票」の壁
知事退任後、東国原は東京都知事選や日本維新の会などに関わった。2011年からの10年余り、宮崎の衰退が止まらないのを見て、故郷をもう一度活性化したいと考え、4年前の知事選に手を挙げた。そのとき一番の壁が、1期で辞めたことへの批判だった。今でも根強いという。
東国原はこれを「感情投票」と呼ぶ。生理的に嫌い、一度裏切られたからもう戻らない、という投票行動だ。それも仕方がないと認めつつ、合理的に考えてほしい、宮崎をもう一度活性化するチャンスをもらえないか、と県民に訴えているという。
当選したら何期務めるのかと問われると、「10年ください」と言っているので、年齢も考えて3期だろうと答えた。変えたいのは三つの「風景」だという。一つは空き家問題や都市のエネルギーなどを含む街並みの風景。二つ目は、経済を底上げして変える経済の風景。三つ目は県民の心の風景で、2007年のように宮崎が日本一輝き、全国から「宮崎、盛り上がってるよね」と言われる状態にしたいという。1回目ほどのブームは起こせないのではと問われると、東国原は「絶対とは言い切れない」と返した。1回目も、芸人に何ができる、行政経験もない、たけし軍団程度だ、と言われ、誰も宮崎があれほど注目されるとは信じていなかったのだから、と。
68歳のバイタリティと、総理への関心
東国原は現在68歳で、3期務めれば78歳になる。そのバイタリティはどちらの父譲りかと聞かれると、「西村ですよ」と即答した。人間的にどうかという面はあるが、4人の女性とその子どもたちの生活を支えるバイタリティの塊だったという。年齢については、麻生太郎や、80歳ぐらいまで知事を務めた石原慎太郎、トランプらを挙げ、形式上の年齢ではなく実年齢で測ってほしいと話した。
1期目の2009年には、自民党本部から国政への出馬を打診された。民主党政権が誕生する直前で、自民党は次の選挙で負けると見られていた。東国原は、それまで宮崎の自民党に「いじめられてきた」と語る。自民党候補を破って知事になったため、議会でも職員からも激しく攻撃されたという。その状況を「石丸伸二君と同じような感じ」とたとえた。それでも実績を上げると、今度は取り込もうとしてくる。東国原は、日本維新の会の松井一郎の言葉を引き、だから自民党は70年も80年も続いているのだ、それが政治なのだと語った。
打診に対して東国原は、自分が1期生でも総裁選に出られる環境を整えるなど、解党的な出直しをしなければ民主党に負ける、と返した。本心ではあったが、同時に断る理由でもあった。党が飲むはずのない高いハードルを投げたのだという。総理を目指したことはあまりなく、頭にあったのは地方としての宮崎の活性化だった、と東国原は言う。
宮崎経済の弱点――製造業
最後に、気候も景色もいい宮崎がなぜ九州で下位を争っているのかと問われ、東国原は経済力の差を挙げた。宮崎は農林水産業とサービス業に比べて製造業が弱い。東国原によれば、県内総生産は宮崎が年間3.7兆円なのに対し、鹿児島は6兆円、熊本は6.5兆円と大きな開きがある。基幹産業である農林水産業や観光はきちんと守り強化しつつ、製造業で稼ぐ力を上げなければならない。東国原がそう語ったところで時間切れとなり、取材は終わった。
あ、初めまして。街録チャンネルの三谷と申します。はい。街録チャンネル。あ、街録チャンネル。はい。どうもすいません。よろしくお願いします。あ、それでもいいですね。ありがとう。今日はお時間いただきました。
街録チャンネル、見習いディレクター募集中です。面白い映像を作りたいという若者、ご応募お待ちしております。今、東国原さん、今、宮崎に。
宮崎です。住んで、今宮崎に住所あるのはもう5年ぐらいですよ。前回の県知事選の時ぐらい。え、その前、その1年ぐらい前から。はい。だから宮崎と東京と行ったり来たりの生活だったんですよ。ずっとこの10何年。でも住所は一応東京にあって。ああ、そうなんです。
このYouTubeは、生まれてきたところから今に至るまでを巡りながら聞いていくっていうチャンネルなんですけど、この都城市が地元ってことですか。そうです。
このね、これ、えっと上柱公園ね。つまり柱って言うんですけども、地元の言葉で。上柱公園のこの池の向こう側で生まれた。位置的にはちょっと向こう側に。
幼少期の書かれたあの小説とか読ませていただいたら、『ゆっくりやるけ空を見ろ』。はい。すごい本ですね。なんていうか、壮絶ですよ。
そう。どういう家庭に。え、だからえっと、実は実の、え、ま、本当のお父さんですね。実の親父と母は、親父と母はこれ内縁の妻だ。内縁の妻。つまり愛人関係ですわ。愛人関係に子供を産ませた、この西村エジ、西村エジっていう男性が。ほんで山内っていう僕の母の間に生まれた子供が僕と姉です。姉と2人兄弟。
ああ、すごい。で、じゃ、この場所って東国原さんの芸人になる原点みたいな場所って。
そうですね。えっと、この公園がまだこんなにね、あの発展してなくて、まだ自然豊かなとこで、この道もなんにもないです。道もこれ舗装されてないですわ。で、そこにですね、ちょうどここに、あの、あれです。サーカスが来たり、これのね、あの土俵があること。あ、そうなんですよ。で、この地方に、あの大相撲も誘致していたのが福島の、だから、ま、興行師みたいなですね。
地元の名士っていうことなんですか?
いや、名士っていうか、ま、こっからちょっと隣町の田町というところで、え、材木業やってました。材木業。材木業とか不動産とかやってたんですよ。不動産って言っても山ですね。山の売買ですか?いわゆる山師ですわ。もう山師って知ってるでしょ。あ、もう詐欺師イコール山師って、あいつは山師だよねっていう、あの山師です。当時30年代とか40年代っていうのは、山っていうのはそういうなんか物件だったんですよ。
で、え、まあ、そういう商売はしながら、おそらくね、興行師とか言うんじゃなくて、頼まれたから片フれ焼きになったんじゃないかなと思うんですね。で、ここもっといい土俵だったんです。で、この周りに観客があって、が来るじゃないですか。親父はここでやるんですよ。で、そこに初っ切りっていうので、初っ切りご存じですか?ユーモラスな相撲の取り方。
ああ、じゃ、ちょっとプロレスじゃないけど、みたいな感じの。
ま、プロレスはしないんですが、やらせ系のあの、相撲があるんですよ。これ初っ切りっていうんですか。本当になんか面白い。で、それとかここにサーカスが、サーカスが。で、これが1ヶ月ぐらいここにいるわけですよ。その、え、幹部連中が、幹部連中が10人ぐらいうちに泊まるんです。
え、だからこの場所っていうのはそういうなんか面白いものが見れる場所だったんですか?公演が見れるんですよ。はい。で、それで僕はそれに感動して、例えばその初っ切りで皆さん沸かすじゃないですか。で、サーカスのピエロがものすごい面白いんですよ。で、お客さんが沸くじゃないですか。笑顔になるじゃないですか。みんな気持ちよくなるわけですよ。感動するわけですよ。で、それを見て、なんて素敵な仕事なんだろうと思った。僕もこうやってみんなを、ま、笑顔にして幸せにできたらいいななんて思ったのが、お笑いを目指した。
そうですね。なんかテレビに出た芸人さんとかってよりも、この生で見たお相撲さんとかピエロ、サーカス団員さんのエンタメに感動した。そういうことですよ。
でその頃、同時にテレビがえ、各家庭に1台ずつ導入される時代だったんですね。それでテレビに映ったのが、ま、ドラマであったりニュースであったり、ま、東京オリンピックだったりね。で、笑いだったり。え、というので僕はもうそのコメディにね、夜勤郎さんとかね、大橋さんとか、ああいうところ、前田、え、前田一郎さんとか、え、たちのコメディをずっと見てた。海外だったらチャップリンでしたね。
お父さんはそう、サーカス団員さんをお家に泊める。
そうです。だからうち広かったので、2階空いてたんですよ。だって親父はもう週末しか来ないので、母と僕と姉と、小さいですね、僕と姉の小さい子供2人。でもとにかく大きな屋敷だったんですよ。もうで部屋ほとんど空いてるんですよ。で、そこに団員の方が10人とか15人泊まってらっしゃいました。
お母さんが愛人なわけじゃないですか?
そうです。
だ、お父さん、その愛人と、ま、愛人との間の子供の家にも豪華にできるぐらいの財力があったとこです。
そうです。結構お金持ちだったと僕は思います。というのが、車とか、サイドカーのバイクだとかあるじゃないですか。このGO、昔の米軍払い下げみたいなのあるじゃないですか。あ、ああいうの乗ってましたもん。
じゃ、もう結構目立つか。
そうです。目立つんですよ。で、山師、山師ってほら山を売り買いするので、まあ、現生が飛び交ってましたね。現生が。家の中でもですよ。もうあの頃だって興行師だとか、プロレスもそうですけども、すごいですよ。力道山さんたちのあのドキュメントを見ると、あのドラム缶の中に現金も入ってますからね。聖徳太子がもうそんなダンボールの中に入れたみたいな。もう間近で見てるわけですよ。なんじゃこりゃみたいな。でもあの借金で逃げたり、なんかトラブルで亡くなったりっていう大人たちもいっぱいいましたよ。僕らの周りには。
だから結構そのなんていうか、大人の世界をもう子供の頃から。だから子供の頃に一緒にあのね、宮崎とか、これ、ここはもう焼酎の発祥地で薩摩藩なんです。はい。で、薩摩藩の人間はもう子供の頃から焼酎を飲まされるんですよ。
法律的にオッケーかどうか別として。
全然ダメ。ま、当時はでも昭和20年代とか30年代って、法はあってないようなもんですわ。
ああ。30度近い酒を子供たちに。そう。それ目立っちゃってるから。この小さな街で、なんていうか、そのそういう複雑な事情も周りに知られちゃってるんですか?
もちろん。みんな知ってる。ただね、当時、英雄色を好むじゃないけども、政治家とか実業家って2号、3号いらっしゃいましたよ。で、その頃だから有名な言葉に、あの「酒も女も2号まで」っていう言葉。酒も女も2号まで。2号さんまで許すよっていうのが、え、この実業界とか政治の世界では、なんか不文律みたいになってたのがありますね。ま、今じゃ考えられないんですよ。価値観がですね。
え、その状況って何歳ぐらいで把握するんですか?
えっと、もうだから小学校上がる前ですね。上がる前に、親父と名前が違うんですもん。だって、え、親父は西村エジ、僕らは母方の名前なので山内、山内英夫ですから。あ、俺、親父と名前が違うんだよ。ただもう聞かなくても、なんとなく空気感で分かるんですよね。言動で、大人たちので。
政治を目指したのは、そのうちに結構地元の政治家、市議会議員とか市長さんとかが、なんかよく来てたんです。それで宴会とかしてたんですよ。あ、家で、家で。家の庭に。ま、今で言うバーベキューですな。というのをやってたんです。
あ、本妻の家よりその愛人であるお母さんの家の方がそういうのがやりやすかったんですかね。
いや、僕は愛されてたと思いますよ。母はね。料理もうまかったし、接待もしてたし、まあまあ美しかったし。そのあれ、ちょっと見栄えも良かったし。
ここがね、前はね、ここにボートが浮かんでたんです。へえ。で、そのボートで初めてひっくり返ってこの池に落ちたのが僕ですわ。あ、そうなんですか。転覆。転覆させてたんですよ。遊んで。そしてよく怒られましたわ。
はあ。運動神経、昔は良かったですか?
まあまあですよね。まあまあ田舎のまあまあレベルですから。ま、全国大会レベルじゃないですけども、あの、市の大会レベルとか県の大会レベルではまあまあいい成績だったんじゃないですかね。
え、じゃ、お父さんもその地元のちょっとした有名人とかスターみたいな感じなんですか?
あ、なんですよ。だったと思います。だったと思います。敵も多かったと思いますよ。
だってあの小説にはなんか急に刺されたみたいな。そうそうそうそうそう。小説で書きましたけど。あれって何なんですか?
わからないですよ。いや、結構だ。その詳細には書かれてないから。え、これ何が起きたんだろうけど。やっぱ山とかそういう不動産関係のトラブルでしょうね。結構あったんです、昔はですね。そういうトラブルが。揉めるんですよ。そういうなんか、あの借用書書いたかいとか。
そういうのを何歳ぐらいで見てると、その刺されちゃうみたいな。
え、だから小学校上がる前ですね。5、6歳ぐらいですよ。だから鮮明には覚えてないんですけど、そういうなんですか、アクシデントだとか、あの衝撃的な事件っていうのはやっぱ忘れませんよね。
今芸人さんとかを経てるから、こんななんか明るく喋ってるけど、え、当時はさ、ちょっとトラウマめいたもんじゃないですか?
いや、だからなんかメンタルは強かったんじゃないですか。その環境で育ってるから。だ、だからいじめみたいなのもあったと思うんですよ。愛人の、いわゆる妾の子って言われるんですよね。って言われて、後ろ指さされて、わあわあなんですか、騒ぎ立てられる。そういうのはあったと思うんですが、そういうのをだから、え、そういうのをこう超えてたんでしょうね。
はあ。え、それとお姉さんも同じくそういうなんていうか、あの強い姿勢なんですか?
姉貴もそうですね。気は強いですよね。今でもね。で、彼女はなんかあの父親を、西村エジをものすごく好きだったと僕は思います。また西村も、書きましたけども、女の子なので、ま、愛人の子と言っても女の子なので、目に入れても痛くないほどなんか溺愛してましたわ。
そう、そう。向こうのもう1つの家族の兄弟、会ったことあるんですか?
一切。何歳かも知らない。全く知らない。ちょっと大人になってから、あの、それを見に行ったことがあるんですけども、あの、その本妻の住所を見に行ったことありますけども、小さい頃は一切行ったことはないです。
だから三田町というとこにあったんですけど、えっと、ま、本妻さんがいらっしゃって、どういう家族構成なのかとか、そういうのは全く知りませんです。で、大人になって30過ぎて、40過ぎてからかな、知るようになって、今では僕の義理のお兄さんですね。つまり親父が本妻がいる、民がいる。もう2人いたんですけど、女性がね。本妻がいて民がいる、母がいる。子供で本妻の子供は異母兄弟じゃないですか?異母兄弟のお姉さんとお兄さんは今現存してます。交流があります。
あ、交流あるんですか?
もう78歳、80歳ぐらいです。
へえ。お父さんはお母さんと合わせて4人の女性がいたんですか?
そうですよ。4人ぐらいいたと思います。あの、正確には分からないですけど、こう刺されてる時に女性が2人ぐらいこうなんかお見舞い、あ、看護、そういうするわけです。そう。この人何やってるんですか?これ、再ささも面白いかと思います。
え、それってなんかすごいものをもう子供の頃から見てて、他の同級生とか幼稚に見えたりしますか?なんていうか、見てるものが。
大人の世界見てるわけですよ。まして、あの、サーカスの幹部の方たち、ま、劇団員ですよね。の方達ってもう開けっぴろげなんですよ。大人の世界が。僕なんか1階に寝てるんですが、2階に団員の方たちが10何人じゃないですか。だ、乱交パーティーとかされてるんですよ。言っていいんですかね。
そう、そう、そう。あ、もう昔ですもんね。
昔もうむちゃくちゃですよ。2階で、え、団員の方たちがドンちゃん騒ぎしてるわけですよ。で、そこを階段こう登って、なんでこんな大きな声出てんのかなとこう見たら、柱に帯で、帯で、女性の団員の人を足をくくって逆さにして吊り下げて。もう意味がわからん。それでみんなでガーとか喜んでるわけですよ。めちゃくちゃですよ。まだまだ小学校入ってないけど。
そのうちに、はい。小学校1年になりました。大王小学校。小学校1年に入りました。で、山内です。はい。それでもあの内縁の妻の関係は続いてたんですが、小学校2年ぐらいから、その父と母の仲が悪くなって、ほんで揉めて毎日喧嘩するわけですよ。そのうちに親父があの帰ってこなくなった。で、帰ってこなくなったと同時に、おそらくですよ、おそらくお金を入れなくなった。生活。で、母が働きに出る。その時に僕、ああ、これもう別れるんだな。援助もしてもらえないんだなって思いました。子供ながらに。
で母が働きに出たのが、近くの、え、ひセメントっていうブロック工場ですよ。歩いてるとこだった。え、ああ、そうか。母ちゃんあの働きに出たから、西村からは援助がなくなったんだなと思った。それで母も言うてですよ。あの、これから贅沢はできんからね。だから我慢してねみたいなことを言ってたので。そう、一気に生活レベルが変わるんです。あの、だって言ったらもう広すぎる屋敷ぐらいの豪邸から、あばら家ですよ。
はあ。東国原さんとかだってお金持ち暮らしだったわけじゃないですか。貧乏暮らしみたいな、それ受け入れられた?
そう。僕はちょっと面白がってた面があって。へえ。え、こんな生活があるんだ。結構ね、昭和30年代なんてね、やっぱ貧困なんです。みんなまだ戦後の。戦後でみんななんかこう、そうですね、貧しい生活だったと思います。でもうちは、ま、運がよく西村エジからの援助なんかもあって、テレビの導入だとか電化製品の導入とか、そういったもの早かったんですね。早かったんだけども、それがゼロになるわけですよ。
ほんでたらいで母が洗う。それまではできたばっかりの、出たばっかりの洗濯機で、洗濯機でこう回しながらやるんですけども、それがもう自分でやるわけですよ。それがなんか面白いとか興味深くて。
カルチャーショックをいい意味で受けてるっていうか。
あ、で、あの水道だったんですが、前のうちは。いきなり井戸になるんですよ。お、それも共同の井戸なんですよ。で、トイレも共同のトイレなんですよ。それでその生活がなんか、なんか僕は楽しんでた。面白かった。
その東国原はいつなんですか?
母と西村が仲が悪くなった。それで働きに出た。セメント工場。男性ばっかりのところで、えっと、男性と同じような仕事をするんですよ。力仕事から事務からなんから。いわゆる総合職ですよ。で、そこのセメント工場で東国原俊と知り合う。知り合って東国原とあの結婚するんです。それが小学校4年ぐらい。
小学校4年の時の事件で、山内から東国原。だいぶインパクトな名前。そうそう。
結構、よくご承知で、嫌でしたよ。違和感ありましたよ、確かに。東みたいな。でもま、受け入れなきゃしょうがないので、生活があるので。ま、母もま、新しい、ま、ステップファーザーですね、東国原俊のことをなんか好きだったみたいで。で、仲のいい夫婦でしたわ。で、見て、ま、年下だったんですけどね。母より8歳ぐらい年下の俊を僕は尊敬してますよ。このね、僕と姉、2人を、連れ子をですね、8歳年上の母ちゃんをですよ、母をですね。あれ家族の面倒見るわけですよ。一生懸命働いて。ね。だから感謝してますわ。
え、でもそれってあの、最初から受け入れられるもんなんですか?
受け入れざるを得なかったので。嫌々なくみたいなところがあったので。それよりも母が幸せそうだったので、そっちの方が優先でしたね。楽しそうだったんですよ。あの、その西村とは毎日喧嘩ばっかりですね、後半で。それが新しい男性と知り合って、ほんで東国原俊と、ま、結ばれて結婚した時に、なんか生き生きとしてたんですよ、母が。それを見て、あ、母が選んだ人生なんだからこれでいいなと。
で、俺らはもうまあ違和感はあったけど、嫌だったけど、ま、別に、あの名前が変わったぐらいなので、学校生活も変わらないし。それで、ま、転校するんですけども、多分転校したのは、僕らが名前変わった、同じ大王小学校で名前が変わると、なんか周りの子たちからいじめられたり、え、変な目で見られたり、白い目で見られたりするんじゃないかなという気遣いがあったんじゃないかなと僕は思います。だから住んでる校区を変えて小学校を変わったんだと。小学校変わったら山内英夫を知っている子は新しい学校にはあまりいないので。新しい生活がそっから始まった、始めようとしたんじゃないかなと思います。
はあ。で、それでその生活の中で、夢って芸人と政治家はどっちの方が大きくなってくる感じなんですか?
いや、両方同じぐらいです。
両方同じぐらいあるんですか?
はい。だから政治っていうのが、その頃、ま、あの高度経済成長期だったので、この町もだんだん発展していくんですよ。戦後の、戦後の空襲、ここ空襲受けてるので、もう瓦礫なんですよ、この町が。この自衛隊があったので、航空自衛隊の23年隊があって、飛行場もあったんですよ。だから米軍のあの爆撃を受けてるんですよ。だから壊滅なんですよ、ここら辺は。そっからこう立ち直っていく過程が、やっぱり政治の力があったとこは思うんですね。
政治の力を小学生ながら感じてるとか。
つまり先ほど言ったように、自分ちのうちに政治家さんたちが来て、これ宴会やってるじゃないですか。その宴会の中で、あそこに橋を作らないかんとか、ここをアスファルトにしなきゃいけないなとか、あの瓦礫を片付けないかんとか、そういう話をされてるわけですよ。そのようになっていくわけですよ。そうか、それがそのあん時喋ったことが実現されてくってのを目の当たりですよ。見て、それが政治だと思ったんですね。
でもだから、大人の話にめちゃくちゃ興味がある子供なんです。
なんです。ま、でも聞くとなく聞いてるんですよ。これ一生懸命こうやって聞いてないですよ。こっちで遊びながらそんな話を。ほんで親父が「英夫、ちょっとこっちこんか」みたいな感じで、膝乗せられて、ほんで、とか言われて。でそうすると、もう嫌々ながらもその話が耳に入ってるわけですよ。んで学校が新しくなるから、あと何年でとか。木造だったのが鉄筋になっていくわけですよ。それも政治じゃないですか。えっと、それは是非がありますよ。その頃ね。是非があるけども、それで良かったのかっていう議論あるんでしょうけども、僕はやっぱ街が豊かになる、そのダイナミズムを政治に感じました。
はい。すごい、なんていうか、やっぱ昔から頭良かった。だって東国原さんって早稲田とか、その大人になってから2回合格するじゃないですか。
あ、あのね、高校はね、泉ヶ丘高等学校って、一応都城市では進学校ですわ。で、大学は専修大学だったんですけど、早稲田と明治と専修大学受けたんですが、ま、全部受かってたんですよ。でも、ま、ちょっと事情があって、専修大学に最初に授業料納めたので、そっちに行ったって話。
あ、え、それってその早稲田受かってる人が専修って、それお金的な事情ってどういうこと?
えっと、高校卒業する時に受験しますよね。で、僕はもう東京しかなかったので。つまりお笑い、政治家、東京。この宮崎の方って、ま、宮崎県内の大学だとか、九州圏内の鹿児島大学、熊本大学、あるいは九州大学、あるいは大阪、関西がメインなんです。関東ってなかなかいかないんですよ。で、僕はもう東京しかないと。自分の夢を実現するためにですね。え、上京しかないということで、えっと、行ったんですが、親父がその東国原俊が、え、彼はあの、織をやってたんですね。大島紬っていうあの伝統の機織の、織をやってました。はい。で、これは結構難しい作業で、あるだけの技術を持ってなきゃいけないわけですよ。染めたり織ったりしですね。
えっと、で、僕が進学する時に、あの、100万円だけ持たせてくれたんですよ。宮崎から東京行きます。受験します。1ヶ月ぐらい、3個受けると1ヶ月ぐらい滞在しなきゃいけない。で、滞在は、えっと、親戚がいたので、知り合いがいたので、親父の。で、そこに泊まらせてもらって、宿泊費はいらないと。でも1ヶ月間やっぱ小遣いだなんだ。1番大きいのが授業料なんですよ。受かったところに授業料を、当時30万から40万だったん。100万っていうことは2学部分、2学部分を持たせてくれた。往復の旅費と生活費ですね。宿泊いらないんだが、ご飯食べなきゃいけない。移動しなきゃいけない。生活費と1ヶ月分の、ほんで往復の旅費、それと大学2学部分の授業料。
あ、入学金かな。
が100万だと。で、それを持って、現金持ってんですよ。18歳が東京。で、専修大学を受けます、まず。で、その次に明治があって、早稲田が1番最後なんですけど、専修大学を受けて、東京が珍しくて、華やかな東京が。色々遊んだんです。その100万円を使って。使い込んで。
使い込んでっていうか、輪島さん、輪島功一さん、僕、はい、柳済斗っていう韓国の選手と世界戦やったんですよ。日大講堂で。これどうしても見たくて。ほんでその時にあの、ダフ屋で買ったんですね。7万とか8万とかするんですよ。
それってめちゃくちゃ高くないですか?
めちゃくちゃ高い。でもどうしても見たかったので、それ見ましたと。で、吉田拓郎さんが好きで、吉田拓郎さんが「ペニーレインでバーボン」っていう歌を歌って、原宿にペニーレインっていうのあったんですよ。で、そこに行ってみたくて、そこに行ったらぼったくられて、2、3万とか取られるわけですよ。で、萩原健一さんが好きで、ショーケンが好きで、ビギっていうあのファッションの、あのスーツが欲しくて、それを買ったりなんかしたね。それがまた10万とかするわけですよ。で、そんなことしてたら、そんなことしてたら、だんだん1校分、1学部分しかなくなってきて。
で専修大学、最初に発表だったんですが、ま、専修大学に申し訳ないですけども、あの、専修大学がレベルが低いとか全然言ってないですよ。ただ専修大学にもうここに決めた。だって明治、早稲田、受かる可能性は、そら自信はあったけども、ま、わかんない。わかんないから。で、受けることは受けたんですよ。でも専修大学にもうお金を納めて、入学金を納めたので、もうここへ行こうで。明治と早稲田は受けたんですけども、で、合格してたんです。でももう100万しか。でも浪人させないっていうことだったのでな。それで大学。でもだから僕は大学は正直どこでも良かったんですよ。東京が大学だと思ったんです。で、東京で色々な経験をしながら、お笑い、政治っていうのを目指しておこうと思った。
それとも普通に、あの今辿ってきたような、芸人やって有名になったから政治家っていうのを、もうその時点で思い描いてる。
そうです。
はあ。え、その時にはもうすでにそういうタレントから政治家っていたんですか?その18歳。
あのですね、いないっちゃいないです。最初がですね、横山ノックさん、青島幸男さんあたりですね。そう、本当はコロンビア・トップさんっていたんですけども、その後に西川きよしさんがいたらしいですね。それでやっぱり古いのは横山ノック先生ですね。お笑いから。コテコテのお笑いから。はい。行かれた。
いや、すごいです。その、そういうモデルケースない中、自分で考えて、そうやったら選挙受かるかなとかまで計算してるんですか。
そう、そうです。知名度上げる。もちろん宮崎の知名度も上げるですけど、自分の知名度上げる。それでやりながら勉強していこうと思ってたんです。そしたらたけし軍団に入って、入って、僕らが作って、たけし軍団売れたもんですから、なかなかこう抜けれなくなるじゃないですか。で、フライデー事件がありますよ。1986年に。あれ、あ、これでお笑いの世界は終わりかな。もうしたら政治の世界を目指そうと思ったら、1回謹慎になったんですけど、復帰するんですよ。で、復帰して、かとうかず子と結婚するんですね。そしたらもっと売れて、それで収入も億になって、ほれでなかなかやめれなくなったんですよ。ま、これも面白いし、お笑いの世界も売れてると面白いんですよ。バラエティとかそういうのでね、収入入ってくる。で、人と会えるし、ほで奥さんがかとうかず子だし。女優、あ、女優さんで。
1998年にご案内のように風俗事件で謹慎。ここが分岐点でした。はあ。やっと来たと思った。
あ、ちょっとやっと来たっていう気持ちにもなってるんですか?
うん。やっと。お笑いの世界もそれしかないですわ。もう風俗事件で淫行だとか言われて、未成年と淫行したみたいな、え、ことを言われてレッテル貼られたら、もう潮時だなと。これはもう政治しかない。小さい頃からの夢だった政治家、元芸人の政治家を目指そう。
じゃ、なんていうか、タイミングをずっともう、あの。
そのね、それはね、ちょっと語弊があるかもしれないけど、なんとなく潜在意識の中でそれを狙ってたと僕は思います。
へえ。で、なかったら1998年に謹慎になった時、そんなに嘆かなかったんですか。
いや、落ち込みますよ。落ち込みますよ。これどうしようかなと。だってレギュラー8本、10本やってたのが0になるわけですから。
もう1億プレイヤーとし。
そうです。1億円プレイヤーは90年代ずっと続けてて、それが0になるわけですから、それはどうしようかなと思ってたんですが、一方でチャンスやなという自分もいたんです。
だってあの事件って、その店で遊んでたら、遊んだ女性が勝手に未成年で働かされてたみたいな、なんか冤罪って言うとちょっとあれかもしれないですけど、もらい事故みたいなもんだ。
そうです。ですからもうあん時、芸人仲間の先輩、紳助さんとか、上岡さんだとか、大竹さんだとか言われました。謹慎する必要ないじゃん。お前全然悪くないじゃない。店が悪いんだよと。だってカタログにはもう二十歳って書いてあったんだから。で、それを信じて、えっとサービスを受けたんじゃないか。店に騙されたもんだと。だからお前は謹慎しなくていいよって言われたんですが、やっぱね、淫行ってね書かれると、メディアスクラムされると、もうやっぱねイメージがね。だからやっぱ師匠にも、え、軍団にもスタッフにもファンの皆さんにも迷惑かけたっていうことにね。そうしたらイメージダウンするわけ。
その原因として、そのなんて言うんですか?たけし軍団から独り立ちして、なんか自分1本でMCになりたいとか、そういう欲望はなかったんですか。MCとか、そのなんですか?とんねるずさんとかどうした?
よくよくご存知で。たけし、僕はそもそも漫才でしたからね。漫才組んでたんで。師匠が1980年代前半に、あの、これから集団をやるから、ドリフターズみたいな集団をやるから、お前ら漫才やめろっつって、大森うたえもん君と組んでたツーツーレロレロは3年でやめるんですよ。んで集団でやるんですね。で集団でずっとやってきて、ま、知名度が高まり、人気も高まって、レギュラー番組と仕事等もいっぱいもらえるようになりましたよ。で、それでフライデーじゃないですか。で、フライデー事件から復活するんですね。で、復活したあたりぐらいで、1988年とか89年、平成元年ぐらいの時に、このままでいいのかなと。集団で痛い、熱い、苦しいというリアクション芸ですわ。言うたら汚れ芸ですわ。で、これはちょっと、このままで芸人、え、終わるのもどうなのかなと思ってたんですが、その中で僕はやっぱりピンでMCだとか、え、なんですか、演芸、えっと、ドラマだとか、様々な分野に行きたいなと思ってたんです。
だから『ビートたけし殺人事件』を書いたんです。小説を。でそれがドラマ化されて、え、ま、原作・脚本・主演をやるわけじゃないですか。ま、そこでかとうかず子と知り合うんですけども。で、ドラマもやりたいな。もちろんあのバラエティのMCもやりたいなということで、で、たけしさんに直談判したことあるんですね。たけしさんはあの、軍団はバラ売りしないっていう主義だったんです。なぜかと言うと、バラ売りしたらトップと下の差がこんなに。もうだから師匠は、東が独立したら億、億円プレイヤーになるだろうな。で、じゃあ下はのこの格差がすごくなるだろうからっていうので、バラ売りをしてなかったんですね。で、僕は直談判にしたんです。師匠に。バラ売りをしてくださいと。言ってたら師匠が、あ、分かったと言ってくれて、じゃあやってみろって言われて、僕1人になってくれ。
へえ。そうじゃん、たけし軍団から1人第1号って。
はあ。それはだからフライデー事件がきっかけなんですよ。フライデー事件がきっかけで、そっから3、4年経って、ま、えっと重複しますけど、僕が小説を書いたのがドラマ化されて、でそれが高視聴率とって、そっから独り立ちをできるようになっていくんです。で、それで独り立ちをしていきなり『笑っていいとも!』行くんです、僕。当時たけしさんとタモリさんって犬猿の仲ですからね。
あ、え、犬猿の仲。
犬猿の仲っていうか、やっぱライバルでしょ。
ああ、そ、ビッグ3。だからダウンタウンととんねるずとか共演しないみたいな、みたいな感じだったんです。当時は。
お互いでも、最後は認め合ってるんですよ。たけしさんとタモリさんは認め合ってるんだが、やっぱ芸風も違うし、やっぱライバル視してるわけですよ。だって共演って全くないですから、なんか。1つだけ共演があった。やっぱさんまさんが間に入って。へえ。たけし、タモリ、さんまのビッグ3のゴルフです。あれだけですからね。あれはでも、さんまさんが中に入ったから成立してたんです。はい。で、そういうところだったので、あの、『笑っていいとも!』に軍団から行くっていう、これはもうタブーだったん。
だってタモリさんのグループに行くんですか?ちょっとドッキドキしてますね。
俺はもう師匠にバラ売りするって言った瞬間に、いいともさんから声かかったんですよ。ほで師匠のとこに、ビビりながら、すいません、『いいとも』行っていいですか?って言いに行きましたよ。
え、ちょ、どんな反応?
あ、好きにしろって。
へえ。あ、じゃそこはそんななんかネチネチって感じないですか?
全然です。だから、好きにしろよ。あ、すいません。ありがとうございますとか言って、『いいとも』行くんです。
え、だ、そん時の野望としては、ま、追いつけ追い越せじゃないけど、たけしさんぐらいの。
いや、もう師匠に追いつけ、もうあの、恐れ多いです。まあまあ全然です。天才ですから。だから逆に師匠のとこにいると、自分がなんか沈んでしまう、消えてしまうみたいな、あの、危機感はありました。すごすぎて。
え、でもだって、書いた小説で主演してヒット飛ばしてって、たけしさんと一緒というか、そうそう、それできたってすごくないですか?
でも師匠より先にやってますからね、僕。師匠はえっと、映画を作ったのは『その男、凶暴につき』。で、自分で脚本を書いてやったのはその後ですからね。で、そういった意味でテレビドラマの脚本書いて、あ、ま、原作書いて脚本書いて出したのは僕の方が早かったのか。
はあ。それできっとしたら、それこそなんていうか、その独自のポジションって、芸能界での欲の方がどんどん強くなってくるんですか。
です。で、ですからさっき言ったように、あの、なかなか政治の方にこう、頭の趣味あるんですよ。政治も勉強してましたし、同時並行でやってたんだけども、なかなかこう踏み出すチャンスが、きっかけがなかったわけですよ。はあ。だって仕事順調なんですもん。
だって億プレイヤーですもんね。
そうです。で、家族もいるし、かとうかず子いるし、で、子供2人もね、いますし。世田谷のなんか家賃100万だ、150万みたいなマンション住んでるわけですよ。そしたら、え、一生懸命お笑い、バラエティ、ドラマ等々で頑張れば、それはもう何不自由ない暮らしをできていった。そん時に1998年のあの風俗事件が起きるわけですね。大島王子と言いますけども、僕も油断があったんでしょうね。たけし軍団の後輩たちが、あの、兄さん、あれですよ、渋谷に面白いイメクラができたから行ってみませんかっていう声かけられて、じゃあ行こうかとか言って。ああ。そんで行ったのがあれですから。あ、そういうことですね。あ、でも自覚、やっぱ足りなかったですよ。やっぱ気の緩みがあったとは思います。
そうか。ただその当時の東国原さんぐらいのポジションの人が行くような店じゃないってのは。
いや、ないです。
はい。え、て言うとそこから大学行かれるじゃないですか。
いや、そっから謹慎して、それで方向性を変えようということで。あ、だからある意味チャンスだと、ピンチはチャンスだということで、政治を目指そうということで、そんだったら1から勉強しようと。で、早稲田に元々行きたかったので。元々早稲田っていうのは政治家を育てる、あの大学ですね。大学っていうのは商売人を育てる大学なので、早稲田に行きたかったんですよ。で、ずっとここん中にトゲがあったんです。早稲田に行きたいなと。で、それで、え、その謹慎になって、1年勉強して、あの、大学の第二文学部、そして政治経済学部に入った。
勉強する最中の夫婦関係とか家族関係ってどんな感じ?
だから、あの、かとうかず子にはもう感謝ですよ。だからつまり僕、仕事0じゃないですか。2年間ぐらい0でしたよ。1998年に謹慎になって、大学に入るのが2000年なんですよ。2年間予備校に行って、2、3箇所の予備校に行って勉強してるわけですよ。無収入です。ほんでそれまでの貯金を食いつぶしてたわけですよ。それで大学に入りました。2000年に。そしたら大学に行きながら、ちょこちょこと仕事が舞い込んでくるようになって、ま、最低限の生活ができるようになって、それと、え、仕事と学業を両立していくわけ。
それでそっから県知事選に出馬ってなるわけでした。その学歴を引っ提げというか、あれ出た時、このタイミングだったら勝てるなって思いました?
あの、このタイミングしかないなと思いました。前の知事さんが、安藤さんという知事さんが官製談合と受託収賄罪で逮捕されるんですよ。で辞職されるわけですよ。安藤さんいないですよね。そうすると新人同士の戦い。僕あれ、大学の2年から3年になる時だったんですけども、退学して。ま、早稲田は大学2つ行ってますからね。行ってますからね。
なぜチャンスかと思ったかと言うと、その安藤さんが失脚して出直し選挙ありますよね。で、そこに僕パスしたとしますよ。誰かが当選するじゃないですか。首長さんとか政治家って2期目が1番強いんですよ。2期目が、特に首長さんは2期目が。誰かが当選します。僕そのまま大学を続けて大学院まで行って、4年後に選挙に出るとしたら、この人2期目じゃないですか。1番強いです。だから2期目、誰かが当選したら、その人が2期目になるわけ。だから僕は首長をやろうと思ったので、都城市長とか宮崎県知事なんですよ。ていうことはもう頭にあったので、宮崎県の県知事さんが誰かが当選して、次、僕勉強して大学院出て、はい、やりました。2期目です。あれ、3期目です。これ敵わないです。
それの機を逃さなかったことで。だって芸人時代ももちろんすごかったと思うんですけど、あの知事時代の東国原さんの露出の仕方って半端なかったじゃないですか?
そうなんですよ。だからあれはもう公約で、県産品とか観光地をPRするってことを言ってたので、それ公約通りにした。で、あれ行政課題で、宮崎っていいもの作ってるのに、マンゴーだとかね、宮崎竜だとか、優秀なものがいっぱいあるのに、なかなかPRが下手だったんですよ。それは行政課題だったんですよ。で、それでじゃあ僕はトップセールスしますということで、公約で挙げたので、それはもう打って出るわけですよ。もうもうだから、ま、それ批判ありましたよ。もうお前タレントに戻ったのかと、いろんな番組に出たがってというような批判もあったんですけども、そんなのお構いなしですわ。完熟マンゴーだとか、え、肉巻きおにぎりだとか、チキン南蛮だとか、あるいは宮崎牛だとか、ま、そういったもの、県産品の優れたものを売っていくためには、PRしかないと。ああ、いうことで。
ちょっとなんかメディア宣伝効果で1000
何百億みたいに言われてるみたいな感じです。2000億とか言われた。その他にはなんて言うんですか?少子高齢化とか、県から人が出ていっちゃうみたいなのも課題あったんじゃないですか?
いや、もう人口問題って2008年かな。あ、そうなんですか。そうです。
僕が選挙出た時には3つの公約があって、1つはその談合で崩れた信頼を回復するので入札契約改革。これが1番。で、2番目がトップセールス。で3番目が行財政改革。行財政改革というのをやるのが、これが3つの公約。
で、2008年から実人口減少が始まる。もちろんそうですよ。その10年前、20年前からもう人口減少・少子化というのは予想されてたんで、それを先手を打って政策を打たなきゃいけないっていうのは、これはもうおっしゃる通りなんですが、実際人口減少が始まったのは2008年から。
もちろん疎んだっていうのもありましたから、宮崎の知名度を上げる、宮崎の県産品を売って外貨を稼ぐ、で、宮崎を裕福な自治体にするっていうのが大きな目標でしたから。で、その通りにして行動してたんですね。
それでその大成功だったわけじゃないですか?
そうですね。おかげ様で評価はしていただきましたね。
それでその2期目やらない理由としての口蹄疫。そうです。の種牛。そうです。
2010年ですね。2010年の口蹄疫で宮崎県がずっと手塩にかけて育てた種牛っていうのがいるんですね。これが畜産の……そうなんですよ。畜産を支えてるのはこの種牛の精子。優秀な種をメス牛に受精して、またいい牛を作っていくというシステムなので、この種牛が基礎なんです。基礎中の基礎なんですよ。だからこの種牛がいなくなったら宮崎の畜産は壊滅的な打撃なんだ。もうなくなると同じ。
で、その6頭を、6頭だったんですけど、その周囲が感染して、もうその6頭の種牛は移動しちゃだめですよ。これ移動制限がかかるっていうんですけども、移動制限がかかってた。移動しちゃだめ。それでもし感染したら全頭処分というお達しが来てた。国からですね。
それで移動制限がかかったぐらいの時に、これはこのままだと感染して殺処分をしなきゃいけないので動かそうということで政治判断。県対策本部長として県の財産である種牛を守るために、法律ちょっとギリギリだったんですけども、6頭を山奥に逃したんです。狙っていうとこですね。6頭いました。スーパー。
で、6頭を高鍋町というところに家畜改良事業団ですね。これは県の指定です。家畜改良事業団。でそこに感染するんですよ。感染して、種牛の予備、予備軍も含めて200頭いたんです。でもその中のスーパー、スーパー級が6頭です。で他は全部殺処分です。でもこの6頭だけは残した。
それでそれを高鍋町から東村の山奥に逃した。逃す時にこの6頭に条件つけたんです。僕はさすがにただ動かすんじゃなくて、抗体検査をしてもし感染してない、陰性だったら動かしますということで、陰性だったもんですから6頭を山奥に逃した。
そしたら逃した後、3日後4日後に忠富士っていうスーパー種牛のトップ、この牛に感染が見つかった。へえ。で、これ感染が見つかったら殺処分しなきゃいけない。それでも僕はしなかった。他の5頭は感染したらその時考えます。感染しなかった、この5頭が。で、それで助かったんですね。助けたんです。
でもそれを脱法行為だと、違法行為だということを、10月ぐらいかな、終息してからある団体が「東国原さん、あんたが逃したあの種牛は脱法行為ですよね、違法行為ですよね、普通だったら殺処分ですよね。であなたが2期目をやったら確実に行政訴訟しますからね」と来たんです。
これはあの頃僕がなんか行動を起こすと全国の注目の的になってたんですね。記事になってたんですよ。これを狙ってるんですよ。騒ぎたい。で、騒ぐと裁判所とか警察とかそういったものも動きますから。そんで種牛を逃したことは合法的だったのかっていう話になってくる。これ裁判になってきますよね。
で、僕はおそらくギリギリだと思ってました。これ下手すると負けると思ってました。で、負けたらこう刺しぶですか?で、僕が2期目出なかったら訴訟はしませんかって言ったら、しないと言ったから。
そうですよね。僕が県を去ったら、僕を訴えてバリューが上がるわけですから、話題になるわけですから。僕がいない宮崎を訴えたって何の話題にもならないと思ったんじゃないかなと思って。なんかおかしな話あるんだと思ったんですが、断腸の思いで2期目出なかった。本当に2期やりたかったです。
これ例えばですけど、タラレバですけど、2期3期ってやってたら今の宮崎じゃないって思いますか?思います。どうなってそうですか?
えっとまず都市計画がだいぶ違ってきてる。インフラの整備と都市計画が。ただ2011年に東日本大震災があって、あれ地方自治を変えたんですよ。東日本大震災ていうか、災害対策あるいは津波対策、災害対策に舵を切ってるんですね。でもそれでもインフラ整備あるいは南海トラフの災害対策をやりながら宮崎の活性化、流性化っていうのが図られたと思います。これインフラ整備ですね。鉄道、高速道路、ほんで空の便ですね。空港とか。
で、僕は間違いなく、4年前に新幹線の話しましたけども、僕2期目やったら間違いなく新幹線の話してました。福岡から宮崎県の新幹線が通ってる可能性がある?通って……まだ10年ですから、あの頃から動いて10数年なので、まだかもしれないですけど、整備計画では絶対上がってます。それでぼちぼち着工が始まったみたいな感じだと思います。なるほど。
やめるっていうことに関して周りから止められたりしてないですか?でもまさかその訴訟されるっていうことで言うとそっちの方がリスクと思って、しょうがないですねって周りの人たちって。招待してないです。あ、そうなん。一切言ってない。はあ。
だからみんな東国原は一期で宮崎を捨てたと、宮崎を踏み台にしたとか、宮崎を捨てたとか言われてるわけです。やっぱそれには理由があったんですね。ただでも結果は表向きそうですから。1期4年でやめたことは事実なので、2期目出なかったことは事実なので、もうそれはもう批判は当然だなと思ってます。
2期目に出なかった。で、それで東京都知事選だとか日本維新の会とか、そういうことに携わっていくんですけども、この10何年間、2011年から10何年間ずっと見てて宮崎の衰退が止まらないので、故郷をもう1回流星活性化しよう、元気にしようということで4年前に手を上げさせてもらった。でもその時に1番きつかったのはその一期でやめた批判でした。今でも根強くあります。
だからそのオセロをひっくり返すのなかなか大変なんですか?大変です。大変だけども合理的に考えてくれと。感情投票ってあるんですね。政治家はあの人嫌い、生理的に嫌いとか、東国原に1回振られた、裏切られたのでもう元には戻らんよと。1回あんたは宮崎を裏切ったんだからという感情投票があるんですよ。これも仕方がないことですけども。でも宮崎をもう1回活性化するチャンスをいただけませんかっていうことを県民の皆さんには訴えてるわけですわ。
で、もし仮に今度当選したら、それはもう何期やるつもりなのですか?僕10年僕にくださいって言ってるんで、10年計画だから3期でしょうね。年齢のこともあるし。3期で何ができます?
まずですね、風景変えられます。風景。どういう風景かというと、街並みの風景ですわ。例えば空き家の問題だとか、あるいは都市のエネルギー、これはもう政策になるのであんまり言いませんが、都市の風景を変えます。もう1つは経済、経済の底上げで経済の風景を変えます。で、もう1つは県民の皆さんの心象、心の風景変えます。つまり宮崎の知名度上げて、また2007年みたいに日本一輝くような、日本一活性化。ほんで全国の都道府県が宮崎いいよね、盛り上がってるよねって言われるような状態にできる。
うーん。でもそれってその1回目ほどのバブルは絶対来ないじゃないですか?いや、絶対とは言いきれないと思います。1回目のバブルも誰も信じなかったんですから。誰も東国原がこんなに宮崎をバズらせるとは思わなかったんです。芸人に何ができるんだと。行政経験もないのにとか。ほんで別にたけし軍団程度じゃないかとか、不じゃないかとか、そういうことを言われてましたから。はあ。はい。だから分からないです。これはもうXです。
これ68。このバイタリティはどっちの父譲りですか?いやいや、もう西村ですよ。そうだ。そのちょっとそのずるっていうか、ちょっと人間的な感はあるけど、なんていうかそこのすごさはやっぱ子供の頃から思ってもすごいですか?パワーですか?それそうですよ。4人女性を囲って、何人子供がいるかわかんないけど、それを支えていくわけじゃない、生活を。そりゃもうバイタリティの塊みたいな感じでした。子供から。へえ。
まあって今68、78までも想像するに絶対きつくて大変じゃないですか?それこそ自分知らねえよって言いたくなるような問題も。そうです。そうです。私の責任ですって。そうです。そうです。それやるんですよ。
でもそういう政治家っていますよ。例えば麻生さんだとか、石原慎太郎さんも80ぐらいまでやってましたからね。それから、言うたらね、トランプさんもね。前の年ですよ。だからバイタリティがある方っていうのは、エネルギーのある方たちっていうのはそれなりにいらっしゃる。だから実年齢ですよね。形式年齢じゃなくて実年齢で測っていただきたいと思いますね。
1期目の時は総理大臣になりたいとか思ってました?2009年ね。なりたいんじゃなくて、あれ2009年の時に、ちょっと調べてください、民主党政権の前なんですよ。自民党がもう下野するだろうと。次の選挙で負けるだろうと。民主党政権になって自民党さんが立て直さなきゃいけないってんで、あの人気者の東国原をスカウトしたんですよ。自民党さんから出てくれないかということだったんですけど、僕はもう自民党さんにずっといじめられてきてたので、それまで県でね。
政治の世界に入って、僕自民党の候補を破って入ったんで、議会とか職員だとか周りの人たちからガンガンやられるんですよ。石丸伸二君と同じような感じですよ、議会で。なんですか、宮崎を盛り上げたり輝かせたりなんかする実績を残したら、今度は東国原を引き込もうとするわけですよ。そういう政党なんです。すごい政党なんです。
えっと、松井一郎さん言ってました。のような政党だと。これいい意味でね。だから自民党は70年も80年も続いてるんだと。もうそれが政治なんだと。
だから僕はもうそんな県の自民党さんにいじめられてもうへしてるのに、その自民党の本部からスカウトが来るんですよ。国政に出てくれないかと。で、その時に言ったのが、僕も総裁に出られるような環境を整えてくれたら、そういう抜本的な出直しを自民党さんしないと絶対民主党さんに負けますよっつったんです。
このままだったら旧態依然としての自民党さんだったら、生まれ変わらなきゃだめですよ。そのためには僕が1期生でも総裁に出るとか、推薦人を20人を削減するだとか、そういう抜本的な出直しをしないとだめですよって言ったら、記者団が「ということはあなたを総裁にするっていうことですか?」。私も総裁に出るような環境を整えるような開かれた政党にしないと、おそらく民主党政権には負けますよって言ったんです。
生意気だったんですけども、それは本心でした。で、それと同時に断る理由でもあったんです。そんなことは絶対にハードルが高いから、絶対飲まないだろうなと。
じゃ、普通にその本当に視野に入れてたというよりは、断る理由として。そっちです。高額な給料を突きつけてるみたいなこと。みたいなもんです。ハードルの高いボールを投げてるようなもんですわ。
じゃ、別にこの政治家人生で総理やりたいと思ったこととか特にないんですか?あんまりないですね。僕もやっぱ地方だったんで、とにかく宮崎の活性化、宮崎の元気、宮崎のエネルギー、宮崎を居酒にっていうのがもう本当に頭にありました。そのためにいろんなことをやったんですよ。はあ。
こんないい場所じゃないですか?その海沿いの景色とか、この気候の良さとか。なんでずっと九州の中でを争ってるような状況なんですか?
いや、だからそれが経済力の差です。GDPって言うんですけども、これ農林水産関係とサービス業と、もう1つが製造業が弱いんですよ。宮崎の場合は。で製造業を上げないとなかなかGDP上がらないんですね。県内総生産と言います。GDPとかGRPって言うんですけども、それが宮崎は3.7兆円ですよ。年間。鹿児島って6兆ですからね。熊本6.5兆なんですよ。倍ぐらい違うんですわ。
だからそのためには製造業等々を強くしたい。もちろん農林水産業とか観光、基幹産業って言われてるものはやっぱりきちっと守らなきゃいけない、強化しなきゃいけない。プラス製造業で収入稼ぐということを上げなきゃいけない。はい。もう時間が。はい。オーバーです。すいません。すいません。ありがとうございました。ギリギリありがとうございます。すいません。じゃ、ありがとうございました。失礼します。
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自殺なんてないのさ。誰が君を殺した?
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