ジュニアアイドル、パパ活、芸人への「上納」――元子役のライター渡辺ありさが語る取材の現場と自身の歩み

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概要

渡辺ありさは12歳で初めて役のついた舞台に立ち、10代でジュニアアイドルとしてDVDを出した。現在は32歳で、パパ活や海外出稼ぎ、芸人の周辺にいる女性たちを取材するライター、漫画原作者として活動している。本人によれば、グラビアやタレントとしての仕事はほとんどしておらず、仕事の中心は執筆と漫画原作だという。インタビューでは、取材で見聞きした業界の実態に加えて、教育熱心な母親のもとで育った子ども時代、ジュニアアイドルとして過ごした日々、そして「書く仕事」にたどり着くまでの経緯が語られた。

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締め切り前日の3時間で書いたプロットが連載に

渡辺は現在、Vコミで『カキタレ、女を上納する。~芸人たちの笑えない話~』の原作を連載している。題材は、知人の女性がいわゆる「カキタレ」をしていたころに起きた出来事だ。特定されないようにフェイクをかなり入れているが、下敷きになっているのは実話だという。

この話はいつか記事などの形で世に出したいと考えていた。そんなとき、Vコミのエッセイ漫画賞のような公募を見つけた。プロットだけでも応募でき、締め切りは翌日だったため、約3時間でプロットを書いて送った。それが入賞し、連載につながった。本人も「まさかこれが題材で本当に原作を書くとは思っていなかった」と振り返る。

漫画は完結していないため、詳しい展開は明かされなかった。中心となるのは、カキタレをしていた女性が、自分の好きな芸人のために親友の女の子を「上納」してしまうエピソードで、そこに至るまでの過程を描いていくという。

取材した女性は、もともと劇場に通い詰めるほどの純粋なお笑いファンだった。ある日、芸人の飲み会に誘われ、好きな芸人とつながれることに喜びを覚えた。そこから少しずつ良くない方向へ流れていったという。自分が好きな相手なのだから本来は自分だけが一緒にいたいはずなのに、その感覚が麻痺していく。可愛い子を連れていけば、相手も別の芸人を紹介してくれる。渡辺はこうしたやり取りを「人身交換のようなこと」と表現し、話を聞いて「すごい世界だ」と感じたと語る。

渡辺はこれ以前にも、パパ活女子がさまざまな相手とパパ活をする漫画の原作を担当していた。本人は「端的に言えばエロ漫画」と説明している。

100人規模の取材から見えたパパ活の相場

渡辺は普段からパパ活に関する記事を多く書いており、これまでにパパ活をする女性と男性を合わせて100人ほどに会ってきたという。男性側も顔を出さない前提なら取材に協力してくれる。謝礼は払えないため、代わりに食事をご馳走して話を聞く。すると男性たちはかなり饒舌になり、「タレントもやっている」「こんな有名人もやっている」といった話までするそうだ。

出会い方は、交際クラブへの登録、アプリ、ラウンジやキャバクラなどさまざまだ。男女ともに複数の相手と同時並行で関係を持ち、より条件のいい相手を探しているという。ギャラ飲みのように、複数の男性と複数の女性が一度に集まる場もある。

芸能関係者については、著名さの線引きは難しいとしたうえで、若いアイドルのような人の名前は時々聞くという。テレビで見たことがあるような子でも、事務所に多くを取られていたり、美容にお金がかかったりするため、パパ活をしてみる子がいるらしい。

相場について、渡辺はコロナ禍を経て全体的に値崩れが起きていると話す。以前は、とても可愛い子であれば食事をするだけで高額を受け取れていた。しかしコロナ禍でそうした機会が減り、体の関係も持つようになった。その結果、もともと体の関係を前提にしていた人たちが値段を下げ、相場が下がっていったという。キャバクラやラウンジが営業できなくなり、そこで働いていた層がパパ活に流れてきたことも、価格の低下につながったと渡辺は見ている。

かつては有名タレントが食事だけで10万円を受け取ったり、大勢の男女とタレントが集まる場に1時間ほどいて40万円をもらって帰ったりといった「バブリー」な話も聞いた。しかし最近は不景気で財布の紐が固くなっており、一般の女性とタレントの差もあまりなくなっているのではないか、と渡辺は感じている。

1回あたりの金額は、上限として100万円という話を聞くこともあるが、本人は「都市伝説のような話」だと考えている。安くて1.5万円、高くて7万円ほどで、最も多いのは3万〜5万円だという。月契約は、愛人バンクや交際クラブが主流だった時代には一般的だったが、今はかなり減った。それでも新卒の初任給ほど、つまり25万〜30万円程度が目安になる。会い放題の「サブスク型」もあれば、週1〜2回と決める形もある。マンションを借りてもらい、鍵を共有していつでも出入りできる状態にしている例もあるという。

顔が知られて難しくなった潜入取材

顔を出して活動するようになり、取材はしにくくなっていないか。そう問われた渡辺は、最もしづらくなったのは海外出稼ぎの取材だと答えた。以前、丸山ゴンザレスのYouTubeで海外出稼ぎの事情について話したことがある。その取材では、自分が出稼ぎに行きたい女性のふりをしてエージェントの面接を受け、話を聞き出すという、ほぼ潜入に近いことをしていた。

女性側には取材であることを伝え、媒体に載る可能性についても許可を得ているため、あまり問題はない。一方、男性側やスカウト、エージェント側への取材はかなり難しくなった。今は変装したり、電話だけにしたりと、手段を変えながら続けているという。

教育熱心な母と中学受験の挫折

渡辺は神奈川県川崎市の駅前エリアで生まれた。父は京浜工業地帯で危険物取り扱い関係の工場を経営していた。父はすでに亡くなり、工場も今はない。家庭について本人は、地域の中では経営者側だったが「本当に中流家庭ぐらいだった」と話す。

18歳上の姉と16歳上の兄がいる。渡辺が生まれたとき、母は41歳だった。そのころ家業はかなり傾きかけていた。会社が順調だった時代に育った姉と兄は、いずれ会社を継げばいいという考えから、それほど厳しく育てられなかったという。しかし渡辺の代になると業績は右肩下がりで、両親も高齢だった。「一人で生きていく力を身につけさせなければ」「娘が大人になるまで見届けられないかもしれない」という不安が、母にはあったのだろうと渡辺は推し量る。

両親はどちらも若いころに芸能関係の仕事をしていた。そのため不安定な職業を避け、硬い大企業に勤めるか、医師のような国家資格の仕事に就いてほしいと母は考えていたようだ。渡辺の子ども時代は、塾と家での予習復習ばかりだった。ただ本人は、自分は要領が悪く、成績はあまり良くなかったと繰り返す。

幼稚園でお受験をして私立の小学校に入ったが、小学4年生で公立校に転校した。私立小学校はエスカレーター式の進学を前提としており、外部の中学を受験する子は先生から冷遇されることもある。それなら学費を優秀な塾に回したほうがいい、という判断だったと記憶しているという。公立校に通いながら中学受験塾のサピックスに通った。しかし成績上位のアルファクラスには一度も届かず、中位から中の下のクラスを行き来した。毎月のマンスリーテストのたびに母に怒られるのが怖く、テスト前には頭が真っ白になったという。

公立小学校にはなじめなかった。周囲が大人ばかりの環境で育ったため、子どもだけの空間は昔から苦手だった。私立の女子校では価値観の近い子が多く、それほど嫌な思いはしなかった。しかし公立校では先生と折り合いが悪く、手を挙げても自分だけは当てられず、「お前の話はできすぎているから嘘だ」と決めつけられたこともあったという。6年生で不登校になったが、塾の友達との時間は楽しく、塾には通い続けた。

受験では、御三家クラスの第1志望は最初から記念受験のつもりだった。模試で射程圏内だった第2志望にも落ち、受かったのは滑り止めの、あまり偏差値の高くない私立中学だけだった。母には泣かれ、「あなたはどうして何もできないの」と言われた。当時の渡辺は、学校にもなじめず、勉強もできず、特技もない自分について、小学5、6年生のころには「本当に死ぬしかないと思っていた」という。不登校が今ほど受け入れられていなかった時代でもあり、レールから外れてしまったという自責の念を抱えていた。先生側の問題も今ならわかるが、当時は自分が悪いのだと思っていた。

不登校をきっかけに芸能の世界へ

芸能事務所に入ったのは、不登校がきっかけだった。ずっと家にいるのも良くないからと、親が養成所に書類を送ってくれた。渡辺は昔からミュージカルが好きで、出演したいと言っていた。母にも芸能経験があったためか、習い事としてなら認められたという。最初はエキストラのような仕事ばかりだったが、12歳で初めて役のついたミュージカルに出演した。大した役ではなかったが、とても嬉しかったという。

中学時代の生きがいは舞台だった。しかし舞台では、チケットを売れる子や知名度のある子が優先してキャスティングされる。小さな役を重ねるだけでは次の仕事につながりにくかった。テレビ、CM、ドラマの書類もたくさん出したが、本人いわく「他の子役に比べて顔が可愛くなかった」ため、ほぼ100%書類で落ちたという。

撮影会からジュニアアイドルDVDへ

中学3年生ごろ、渡辺はコスプレイヤーが集まるSNSコミュニティに自分の写真を載せていた。そこへ撮影会スタジオからDMが届いた。報酬ももらえ、ポージングの勉強にもなると考え、1、2回参加した。すると、水着のほうが枠がすぐ埋まり、客もつき、ギャラも高いと言われ、水着撮影会に出るようになった。始めたのは15歳、中学から高校に上がる春休みのことだ。その後、スタジオの人が立ち上げた事務所に所属し、16歳でDVDを出した。

撮影会の写真は大々的に公開されるものではなく、参加者が趣味として保管するものだった。そのため親には撮影会に出るとだけ伝え、水着であることは言っていなかった。水着の仕事だと打ち明けたのは、DVDを出すことになったときだ。

同じ16〜17歳でも、雑誌の表紙を飾るアイドルと違い、渡辺はジュニアアイドルとして売り出された。ランドセルやスクール水着など、あえて子どもらしさを強調する演出だったという。目的はあくまでミュージカルの集客と知名度の向上だった。DVDを出すとメディアの取材も来るため、それが役者の仕事につながればいいと考えていた。

実際には、役者の仕事にはほとんどつながらなかった。当時は、ジュニアアイドルでDVDを出していると学園ドラマの書類は通らないと言われていたという。一方、19歳からは大学卒業まで、ジュニアアイドルイベントのMCを務めた。最初は「生意気で使いにくい子」と思われていたはずだが、それがかえって良かったのかもしれないと本人は話す。舞台には並行して出演を続けており、ジュニアアイドルとしてファンが増えたことで、出られる舞台が増えた面は「正直ある」という。

渡辺によれば、当時はジュニアアイドルの最盛期で、子役でもジュニアアイドルとしてファンをつけ、舞台でヒロインを務める子が周囲に多かった。その後、DVDメーカーはすべて潰れ、ジュニアアイドル専門のDVDショップもなくなり、業界が壊滅した時期もあった。しかし撮影会の文化は、よりアンダーグラウンドな形で残っている。今も小学生や中学1、2年生の子がおり、お金を払えば誰でも参加できるという。

撮影現場で起きていたこと

初めてのDVD撮影では、事前の衣装合わせで「これは着られない」とはっきり伝え、衣装は自分が指定したものになった。ところが現場で、棒アイスを舐めるシーンを撮らされそうになった。女性のヘアメイクから「次はアイスを舐めるみたいだから、リップは薄めにしておくね」と遠回しに伝えられ、聞いていないと感じた渡辺は、監督に別の内容に変えてほしいと伝えて断った。

ただ、そう言える子はほとんどいないと渡辺は言う。大人に囲まれると多くの子は萎縮し、何がなんだかわからないまま言われた通りにしてしまう。ジュニアアイドルには渡辺より年下の小学生や中学生も多く、同じような撮影をさせられた小学生も実際にいたという。

さらに、MCをしていた時期にメーカーから聞いた話として、未成年の体が不適切に写ったカットをわざと見逃したかのように販売し、ユーザーに見つけさせたうえで自主回収して話題を作るメーカーがあったことも明かした。そうしたDVDにはプレミア価格がつくこともあったという。今でも当時のジュニアアイドルの名前を検索すると、そうした画像が残っている。渡辺はそれを「デジタルタトゥー」と表現し、見るたびに辛い気持ちになると話す。大人になってから、自分がそんな世界にいたのかと驚いたという。

「夢のため」と思い込まされていた

振り返って渡辺は、子どものころは自分を大人と対等な存在だと思っていたと語る。言いたいことも言えているし、すべて自分で選んでこの仕事をしていると思っていた。しかし子どもはそこまで賢くなく、先を見通すこともできない。選んだというより選ばされていた部分や、これしか選択肢がないと思わされていた部分もきっとあった。大人になった今は、そう考えている。当時は「夢のためだ」と信じ、従順に働いていた。

芸能界は外からは中が見えない。そのため運営や事務所の人に「どのタレントもこのステップを踏んで有名になった」と言われると、親子そろって言いくるめられてしまうことが多かったという。渡辺の親は最後まで強く反対したが、「売れる」と言われていた本人は、反抗期もあって押し切った。

モデルケースとしてよく名前が挙がったのは、過去にグラビアをしていた綾瀬はるかなどだった。しかし渡辺によれば、そうした人たちはスカウトキャラバンやミスコン出身で、最初からたどってきたコースが違う。ジュニアアイドル出身で今も活躍している人の中には、名前を変えて過去を完全に消している人もいる。その過去がキャリアを後押ししたわけではない、と渡辺は指摘する。

当時はAKBが勢いを増していた時期で、「打倒AKB」のような空気があったという。AKBのメンバーも若くして雑誌で水着になっていたため、グラビアアイドルの枠が削られていた。そのため、ロリ系で売る子たちの間には、より過激な路線に向かう空気もあったかもしれないと本人は振り返る。

編集アイドルとの出会い

10代半ばにはつんく♂がプロデュースするアイドルカフェのユニットに在籍し、その後、現在のキャリアにつながる「編集アイドル」の活動に加わった。女の子3人で本気でアイドル雑誌を作るユニットで、台割を考え、ラフを描き、デザインを練り、事務所にアポを取ってアイドルを取材し、文字起こしまでしたという。徹夜は当たり前で、レッドブルを飲みながら「台割が足りないから新しいアイドルにアポを入れないと」とやっていた。

ほとんどのメンバーはコンセプトについていけず、「編集はやりたくない」と辞めていった。しかし渡辺は、ユニットを辞めてもいいから編集だけは続けたいと思うほど楽しかった。これが今の執筆活動のルーツだという。

大学卒業が近づき20代に入ると、芸能はもう無理だろうと感じ始めた。それでも「最後にやれることは全部やろう」と、アイドル活動などあらゆることに手を出した。20代前半から半ばにかけてを、渡辺は「がむしゃらに最後のあがきをしていた時代」と表現する。子役時代から、同じ事務所の子が売れていくのを見てきたため、10代前半には「自分はスターダムを駆け上がる側の人間ではない」と気づいていた。だからこそ、脱ぐ仕事も選んだのだろうと本人は語る。

薬学部から社会福祉学部へ

大学受験の際、母は芸能活動を続けるなら条件があると言った。医学部、歯学部、薬学部のいずれかに入り、国家試験に合格することだ。親戚に医師や歯科医が多い家系で、母にとってはそれが最も安定した仕事だった。渡辺はあまり偏差値の高くない私立大学の薬学部に入学した。

しかし実習は休めば留年が決まり、しかも6年制だ。卒業するころには25歳になる。当時の芸能界では若さが何より重視されていたため、それまで活動できないのは厳しいと考えた。渡辺は親に土下座して、大学を変えさせてほしいと頼んだ。母には「なんで何もかも続かないの」と言われたが、代わりに文系の国家資格を取ると約束し、県立大学の社会福祉学部に進んだ。卒業は周りより2年遅れた。社会福祉士の国家試験の勉強と編集アイドルの時期が重なり、ずっと机に向かっていたことは、今思えば良かったという。

恋愛を禁じた家庭と交際クラブへの誘い

恋愛経験は「全然なかった」という。母は敬虔なクリスチャンで、結婚する相手以外とは手もつなぐなと教える家庭だった。恋愛や性的なものへの拒否感が強い母の考えを受け継ぎ、友達ともあまり遊べなかった。だからこそ、いろいろな人を第三者の視点でフラットに見てきた。それが今の取材や執筆につながっていると渡辺は考えている。

10代で枕営業を目の当たりにしたかと問われると、声優養成所に通っていた友人が枕営業を強要されたと話した。最近聞いた話では、「音響監督と飲んでいるからおいで」と呼ばれて行った女性が、その場で服を脱がされたという。その女性はずっと告発したいと言っているそうだ。

一方で、ジュニアアイドルの事務所やメーカーの人々は、渡辺の経験では「すごく普通」で、優しい大人だったという。女性マネージャーがついたこともあり、話をよく聞いてくれた。ただ、19歳か20歳のころに所属した事務所のマネージャーは、渡辺を交際クラブに送り込もうとした。大学の勉強が忙しくてアルバイトもできず、お金がないとこぼしたところ、「いいバイトを紹介する」と言われた。社長と食事をするだけでお金がもらえる、先輩もやっている、という話だった。社長ではなくマネージャー個人が、会社の許可なく紹介料を得ていたのだろうと渡辺は推測している。このとき初めて交際クラブの存在を知り、そこから周囲の話を少しずつ集めていったことが、現在の仕事につながっているという。

聞き手が「実際に傷ついていたら、取材しようという気持ちにもならなかったのでは」と言うと、渡辺は、母の厳しい教えが生きていたのかもしれないと応じた。グラビアの撮影でも、性的に見られるポーズや表情はなるべく避け、爽やかに笑うようにしていた。監督側の狙いとは違っても、そうすることで自分を守っていた部分があったのかもしれないという。自分で角度やポーズを研究する熱心な子も多い中、セクシーに見られることを良いことだと思えなかった。その結果「全く売れなかった」が、それも仕事がないのは仕方ないと受け止めている。

それほど厳しい母に育てられながら、なぜ水着の仕事をしてまで芸能界に執着したのか。渡辺は、自分でもわからないとしながら、反抗心もあったかもしれないと話す。そして小学校時代の挫折に立ち返り、勉強もできず学校でもうまくやれなかった自分には、せめてこの夢を貫かなければ生きている価値がない、という思いがあったのだろうと語った。

会社員時代とADHDの診断

編集アイドルの経験から、芸能以外にもできる仕事があるかもしれないと気づいた渡辺は、大学卒業後にサイバーエージェントグループの会社に就職し、PRの仕事に就いた。在籍は2年半ほどで、コロナ禍の少し後に退職している。

それまでも「天然だね」「何を言っているかわからないときがある」と言われることはあったが、芸能の世界では個性として受け入れられていた。ところが会社ではケアレスミスが続き、クライアントにできないことを安請け合いして怒られることも多かった。心療内科で検査を受けてADHDと診断され、3種類ほどある薬のうち1つを服用した。しかし副作用もあり、仕事のパフォーマンスにはあまりつながらなかったという。

ちょうどコロナ禍のころ、編集プロダクションを経営する知人からライターの仕事を少しずつもらっていた。ライターの仕事は楽しく、編集アイドルの経験も生きて、自分に向いていると感じた。見通しは何もなかったが、勢いで会社を辞めて独立した。会社員時代は役者に戻りたいと思う瞬間もあったが、今は芝居への欲はまったくないという。もっとやりがいのある仕事を見つけたからだろう、と本人は話す。

当時は苦しく、なぜ自分ばかりと思っていた母の教育方針についても、今は人生の選択肢を広げるという意味で間違っていなかったと感じ、感謝しているという。

これから書きたいもの

今後表現したいことを問われ、渡辺は「生きづらさ」を挙げた。自分も子どものころから漠然とした生きづらさを抱えていた。時代が変わるにつれて、それが言語化され、病名がつくことも経験した。まだ可視化されていない生きづらさを抱える人は、世の中にたくさんいるはずだと考えている。そうした人たちに焦点を当て、社会全体の問題として伝えること。同じ苦しみを抱える人が「自分もそうかもしれない」と気づくきっかけをつくり、社会を少しでも動かすこと。それがメディアにできる仕事の一つだと渡辺は語る。

芸人に友人を上納してしまう女性の物語も、その延長にある。翌月ごろに公開予定の回には、女性が直面しがちなトラブルを描いたシーンがあるという。賛否を呼ぶ部分はあると認めつつ、思いもよらないところで思いもよらないことに巻き込まれるのは男女問わず起こりうることであり、読んだ人が「自分にもこういう経験があるかも」と思うきっかけになればいいと話した。

ライターとしての目標については、「AIに書かせればいい」と言われ、実際にAIに仕事を取られつつある現状に触れた。そのうえで、AIに代替されないライターになりたいと語る。人の言葉を人が伝えることに価値を持たせるための取材力、人間力、話題を見つける嗅覚を磨き、物書きの仕事で食べていきたい。それが今の渡辺の目標だという。