「東京は富裕層の植民地」と語る81歳の建築家・山本理顕 マンション、再開発、地域社会圏をめぐる対話

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概要

建築家の山本理顕は、日本外国人特派員協会(外国人記者クラブ)での講演などで「東京は富裕層の植民地になっている」と発言し、注目を集めた。森ビルを中心とする大手デベロッパーによる超高層開発が都市のコミュニティを壊している、というのが山本の主張である。本稿は、横浜の事務所でのインタビューをもとに、この発言の真意、マンションという住まい方への批判、著名建築家への実名批判、自身の生い立ちと経歴、熊本の県営団地をめぐる騒動、そして81歳の現在の取り組みまでを整理したものである。

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生まれ育った街に置かれた事務所

山本理顕設計工場は、山本が子どもの頃に遊んでいた横浜の場所にある。すぐ上には青木小学校があり、事務所の前は通学路になっている。取材中も小学生が窓から中をのぞき込んでいた。近くには子どもの頃にラムネを飲んだ駄菓子屋があり、周囲はみな知り合いだという。ただ、その知り合いもみな年を取り、昔からの店は減ってコンビニに変わっていった。

山本はこの界隈の変化について、目の前の道路をたとえに説明する。もともとは幅5メートルほどの狭い道だったが、横浜駅西口へ通すために拡幅され、元からあった商店街が壊れてしまった。当時の区画整理のやり方によって、日本中で地域社会のための商店街が広い通りに変えられていった、と山本は見ている。

事務所は3フロア構成で、所員は12人ほど。1階では模型を作っており、取材時はベネズエラの仕事を進めていた。コロンビアから来たインターンもいる。2階に山本の部屋と所長室・秘書室があるが、山本自身はここで図面を描くことは少なく、主に原稿を書いているという。図面は打ち合わせをしながら、あちこちで描く。上階の設計室ではモニターを見ながら全員で設計し、キッチンで食事も作る。冷蔵庫とワインセラーも置かれている。

屋上には芝が張られ、バーベキューをしてビールを飲む場所になっている。屋根に降った雨は管を通って集められ、非常用の水として貯められる。事務所から歩いて1分ほどのところには「ガゼボ」と呼ぶ建物があり、山本の自宅であると同時に、一般社団法人地域社会圏研究所の活動拠点になっている。1階にはカフェがあり、夜はバーとして深夜2時まで営業している。近所の高齢者から若い人までが集まる場になっている、と山本は話す。

「富裕層の植民地」発言の真意

「東京は富裕層の植民地」という認識自体はずっと以前から持っていた、と山本は言う。話題になったきっかけは外国人記者クラブで東京の都市計画・再開発について話を求められたことだった。そこで山本は、再開発がひどい状態にあること、特に森ビルを中心とした大手デベロッパーが建てる高層マンションがいかに都市を壊しているかを語った。

山本によれば、麻布や六本木はもともとコミュニティがしっかりした、住みやすい街だった。原宿なども含め、住宅に住む人同士が助け合い、仲良く暮らしていた。そうしたコミュニティの豊かな場所が狙われ、非常に大きなボリュームの超高層が建てられる。すると、それまでそこに住んでいた人たちとはライフスタイルがまったく違う人たちが一気に入ってくる。今でこそ富裕層の街というイメージがあるが、もともと麻布や六本木に住んでいたのは普通の住宅地の住民だった、と山本は言う。変化の起点として山本が挙げるのは1964年の東京オリンピックで、首都として東京の中が一気に変わり、あのあたりにマンションのようなものができ始めた。

「マンション」という名前と、閉じた住まい方

山本がこだわるのは「マンション」という呼び名である。最初は普通の集合住宅として建てられていたものが、突然「マンション」と呼ばれるようになった。マンションは本来「豪邸」を意味する言葉であり、「ワンルームマンション」はワンルームの豪邸という意味になる。山本はその矛盾を指摘する。

そのマンションが住まい方のモデルになった。マンションの特徴は、プライバシーとセキュリティが非常にしっかりしていることで、住む人が安心して住めることが売りにされた。山本によれば、それ以前の集合的な住まいは、一緒に住むことで近所の人とも住人同士も仲良くなるように作られていた。マンションはその真逆で、家族がそれぞれ自分たちの中に閉じこもるように作られている。山本の言葉を借りれば、「仲良くしちゃいけませんよ」とでもいうように作られ、外の人はみな敵であるかのような住宅になった。許された人しか入れない、それがマンションだと山本は言う。

同じ時期に戸建て群も一気にできあがり、新しい住み手が街に登場した。もとからの住民とは住み方がまったく違うので摩擦が起き、それがさらにプライバシーやセキュリティの重視につながっていった、と山本は説明する。例としてワンルームマンションを挙げ、一人暮らしだと周りのことを気にせず、夜中に大きな音を立てて帰ってきたり、真夜中に洗濯機を回したり、学生や若者が友達を連れてきて夜に騒いだりする、と話した。自分や自分の家族のことしか考えない人がたくさん住み始めたきっかけがマンションだった、というのが山本の見方である。

金融商品化した住宅

では、そこからどのように「富裕層の植民地」になっていったのか。山本がはっきりしていると言うのは、六本木ヒルズのような巨大計画である。広い地域を買い上げ、地上げし、そこに巨大な建築を建てる。すると大勢の人が入ってくるが、その中には日本人以外の富裕層もいる。彼らは最もいい場所だからそこに住みたいのではなく、「商品になる」と考えて買う。来年にはこれだけ値上がりする、という形でマンションが売られるようになった。山本はこれを「金融商品化」と呼び、住むためではなく投資のための商品だと言う。

マンションという形式ができたときから、人々は値上がりのことばかり気にするようになった、と山本は述べる。家族が安心して住めるか、周囲の人と環境を共有しながら豊かに暮らせるかよりも、来年、再来年にどれだけ値上がりするか、売るときにいくらになるかが購入の中心になった。売る側も同じである。こうした傾向が顕著になった時期について、聞き手が2000年頃かと尋ねると、山本は1900年代の終わり頃から顕著になったと答えた。結果として価格が猛烈に上がり、富裕層しか買えない場所になった。

「等価交換」は住民をだましている

もともとその地域に住んでいた人たちはどうなったのか。山本は「等価交換」の仕組みを問題にする。再開発では、元の土地・建物と同じ価値の床を新しい建物の中に与えられる。しかし山本によれば、金融商品化した建物では同じ一坪の値段が何倍にも膨れ上がっている。値上がりした後の価値で交換するなら理屈は通るが、実際には、ほとんど価値のない状態として評価された元の土地・建物を、新しい建物の中に「価値のないまま」持ち込む形になる。だから受け取れる面積はとても小さくなる。

住民は、土地を手放しても自分たちも住み続けられるのでいいと思っているが、本来はもっと広い面積で住めるはずだ、と山本は言う。住民はほとんどだまされるような形で地上げされ、その土地を何倍にも膨らませた建物が作られていく。仮にその床を売ったとしても、わずかなお金しか入ってこない。

山本が「植民地化」と呼んだのは、こうして金持ちだけが住む商品が作られ、周囲に住む人とライフスタイルがまったく違う人たちが入り込むことを指している。そこに住む人には「高いところに住んでいる」というエリート意識が強いが、実際にはエリートでも何でもなく、値段の高い場所に住んでいるだけでエリートだと勘違いする人が大勢出てきた、と山本は述べる。それが「ヒルズ族」と呼ばれ、高くてもいいからと憧れて買う人が増えていった。

高層マンションは建築として良いものとされているのか、という問いに対して、山本は、建築の良し悪しは建築単体では判断できず、その地域の環境にきちんと合ったものかどうかで判断されると答えた。田舎の建築と都市の建築は違う。環境とまったく無関係に途方もないものを作れば、良いも悪いもなく「邪魔なだけ」だという。

安藤忠雄と隈研吾への実名批判

山本は一連の発言の中で、著名な建築家の名前もあえて挙げて批判している。対象は安藤忠雄と隈研吾である。二人とも世界的に有名で、とくに安藤は国内で最も有名な建築家だろうと山本は認める。

山本が問題にするのは、デベロッパーの要請に基づき、デベロッパーの望むものを作ってきた点である。建築であれば周辺に合った、周囲の人の迷惑にならないものを考えるのが当然なのに、発注者であるデベロッパーの利益が最大になるものを作ってきた。建築家の仕事は都市を豊かにし、快適な住空間を作ることであり、お金をたくさんもらったからといって周囲に迷惑をかけるものを作ってよいのかといえば、それは建築家としての矜持にかかわる問題だ、と山本は言う。「なぜあなたは建築家になったのか」と問われるはずだ、というのが山本の言い分である。

北京生まれ、戦後の横浜で知った助け合い

山本は81歳。1945年4月、終戦の4か月ほど前に北京で生まれた。母親は薬学の大学を出た後、漢方薬を学びたいと中国に渡った。当時の中国は日本がいわば植民地化しており、北京では日本人会、イギリス人会というように列強が街を切り分け、中国人を外に追い出して住んでいた、と山本は語る。電気技師だった父親も向こうに渡り、二人は現地で結婚した。

戦後は引き揚げて、最初は親戚を頼って東京に一時住み、その後母親の実家がある横浜に移った。父親は結核で亡くなり、母親と山本らの家族で薬局を営んだ。その場所が現在の事務所のある土地である。

幼少期の記憶として山本が語るのは、貧しさと助け合いである。みな貧しく、家族だけで暮らすのはとても無理で、家族同士が助け合って生きていた。東京に住んでいたときのトイレは、住民たちが自分たちで作った共同トイレだった。米軍の爆撃で東京の木造家屋はほとんど焼けてしまったからだ。食料は買い出し列車で田舎まで行って手に入れ、食いつないだ。まず闇市のような商店街ができ、うどん屋などが商売を始めた。戦後、みなが自分たちでなんとか生きていくための仕組みができ、日本はそれで切り抜けられた、と山本は振り返る。

実家の周りには八百屋、魚屋、肉屋などが並んでいたが、横浜駅に商品が豊富に並ぶようになると、客はそちらへ流れ、店は立ち行かなくなっていった。そのなかで薬局は必需品を扱っていたので、周囲に比べれば恵まれていたと思う、と山本は言う。

建築家を志した理由と、学生時代

母親は、エンジニアだった父親のように手に職を持った人間に山本を育てたかったのだろう、と山本は推測する。山本自身も子どもの頃から設計する人になりたいと思っていた。小学校(公立)の成績はまあまあで、絵は小さい頃から好きで、うまかったのではないかと言う。

建築を志したのは高校2年生頃。機械や電気より建築が面白そうに思えたのは、目に見えるからだった。電気は目に見えず描きにくいが、建築はわかりやすい。東京に出ると、そのすごさにも圧倒された。最初の動機は問題意識というよりビジュアルだった、と山本は認めている。

大学選びの背景には、当時の大学事情がある。東京オリンピックの頃に多くの私立大学に建築学科ができたが、それ以前は理科大や明治、法政などには建築学科がなく、土木学科の一部として建築があった。調べると早稲田と日大だけが建築学科の古い伝統を持っていたので、その二つを受け、日本大学に進んだ。当時は丹下健三がスーパースターで、代々木の体育館ができるなど、建築の人気がすさまじかったという。

大学では偶然「建築史研究会」という学生サークルに入った。もともと興福寺のような古い巨大建築が好きだったこともあり、その後も歴史の研究室で学び、卒業論文も建築史をテーマに書いた。大学院は東京藝術大学に進んだ。入試では2日間にわたって設計課題が出され、パースまで描いて提出するもので、その配点が最も高かったという。絵が得意な山本には向いていた。

「デザインがうまくない」の意味と、素材への問い

山本は別の場で、自身のデザインはあまりうまくないという趣旨の発言をしている。この点を尋ねられると、そういう意味ではなく、デザインを目的にするのではなく本質的に建築を考えなければならないということを言いたかったのだ、と説明した。

山本が関心を持ったのは近代建築の成り立ちである。石の建築から鉄骨に移る段階では、錬鉄や鋳鉄など強度のあまりない鉄が使われていたが、スチールが発明されて鉄が主要な材料となり、19世紀にデザインが一気に変わった。それが近代化だ、と山本は言う。建築史研究会や大学での勉強を通じて、今の建築は素材によって決められているだけなのか、それとも新しい思想があってデザインが変わったのかを知りたいと考えた。自分が設計するときには、この場所に鉄骨がいいのか、コンクリートがいいのか、木がいいのかを考えなければならない。これまで当たり前に使われてきたコンクリートや鉄やガラスが、この場所で本当にいいのかを考えるようになる。それが「本質的」という言葉の意味だという。

大学紛争と、世界の集落調査

大学院を出る頃は1968年、全共闘運動の時代だった。日大や東大で学生が大学の自治や自由を求めて大学に反逆していた。山本は日大から藝大に移った頃で、そうした動きの中心にいた。そのため、大学院を出て就職しようにも、自分が望むような受け入れ先はほとんど見つからなかった。

そこで就職せず、建築家であり優れた論文を多く書いていた原広司のもとに行き、東京大学生産技術研究所で研究生として学んだ。そこで原とともに始めたのが、近代化される以前の世界中の人々の住み方を調べる集落調査である。地中海周辺、中南米、インド、ネパールなどを2年以上かけて回った。

印象に残る例として山本が挙げたのは、ペルーのチチカカ湖と思われる場所で、水の上に浮島を作って暮らす人々である(字幕では地名が不明瞭)。風が吹くと島が動いてしまうような浮島で、漁業を営んでいる。もともとペルーの先住民で、スペイン人が入ってきたときに逃れたということもあったかもしれない、と山本は推測する。標高4000メートルの土地で昔から暮らしてきた人々で、近代化された住まいとこれほど違う住み方があるのかと驚いたという。

東大は研究生として2年ほど在籍しただけで、その後すぐに事務所を開いた。最初から仕事が来たわけではなく、友人たちが仕事を作ってくれ、小さな住宅から少しずつつながっていった。地域コミュニティへの関心は最初からで、そうした住宅を作っていたことで注目された、と山本は言う。

熊本・保田窪第一団地の炎上騒動

山本が大きく注目されたのは、熊本で手がけた110世帯の県営住宅、保田窪第一団地である。もともとは戦後復興期の団地で、平屋の小さな住宅が並ぶ場所だった。それを県営住宅に建て替えた。

この団地の特徴は、中央に広場があり、外部から広場に行くには住戸を通らなければならない配置にある。住民だけが広場を使え、外の人は使えない。住民だけのコミュニティを非常に作りやすい配置計画で、こうしたものを日本で最初に作った、と山本は言う。

当初は住民に受け入れられなかった。普通のマンションのようなところに住みたい、コミュニティなどいらない、という声が多く、住民集会で強く批判された。マスコミも大勢取材に来て、みのもんたが司会をしていた番組でも揉めている団地として取り上げられた。山本は「犯罪者扱いだった」と振り返る。しかし住み始めると住民はとても納得し、中央の広場は子どもが遊ぶのにちょうどよく、外から人も入ってこない場所として受け入れられた、という。

なぜ反発から納得に変わったのか。山本は、今までと違うから、知らないから怖かったのだと答える。そのうえで、建築は人の意識を変えてしまうものだと強調した。閉じた家に住めばそういう人格になるし、六本木ヒルズに住めばそういう人格になる、と山本は言う。

行政の「住民はこう思っているはず」という思い込み

山本によれば、建築のクライアントは民間か行政のどちらかしかない。こうした団地を作るときは行政がクライアントで、行政は「住民はこう思っているはずだから、こういう建物を作ってください」と発注してくる。しかし山本は、その「住民はこう思っている」は嘘であり、住民はそんなことを思っていないと言う。調査に基づくものではなく、これまでそう作ってきたからというだけで、行政が勝手に決めつけているのだという。

建築家はこう住んでほしいと考えて設計するので、住む人はそういう住み方をせざるを得ない。住み方は建築に影響され、その方向に行ってしまう。今のマンションも同じで、プライバシーが重要だというマンションを作れば人々はそうなる、と山本は述べる。

孤独死と「セキュリティ」の逆効果

プライバシーが行き過ぎ、家の中で何をしているのかまったくわからないマンションが大量に作られた結果、中で事件が起きたり、孤独死が起きても周りが何も気づかなかったりする。それも2か月、3か月わからない、と山本は言う。聞き手が、孤独死がどれだけ放置されるかがコミュニティの存在を測る指標になるかもしれないと言うと、山本はそのとおりだと応じた。

人々はプライバシーとセキュリティがしっかりしたものが住みやすいと思い込んでいる、と山本は指摘する。マンションは指紋認証、顔認証、二重・三重のオートロックと、他人が絶対に入れないことを売りにする。しかしそれを見れば、このマンションはとても危険な場所に建っているのか、周りには危険な人ばかり住んでいるのか、というメッセージとして受け取られるだろう。実際にはそんなことはなく、鍵などかけなくても住める場所かもしれない。マンションが一棟建つと、こうしたことが全部起きてくる、と山本は言う。

日本はすでにスラム化している

山本のような考え方をする建築家はどれくらいいるのかと問われると、山本は笑いながら「1人ぐらいかもしれない」と答えた。ただし、自分の事務所で学んだ人たちの中にはそういう建物を作っている人も大勢いるという。

手遅れではないか、という問いには、実際は手遅れだと思うと認めつつ、建築家としては手遅れだと言っていられないと答えた。なんとかしなければ少子化は止まらなくなり、後に続く世代にしわ寄せが行き、ますます住みにくい環境になる。放っておけば日本全体がスラムのようになり、そうなれば本当に手遅れだ、と山本は言う。

では日本のスラムとはどんな光景なのか。山本は「もうすでになっている」と言い、晴海の選手村の跡地に作られた住宅を例に挙げた。行ってみればわかるが人が住んでいない、建物は新品なのに人が住んでいない、あの街には住めない、ああいうものをスラムと言うのだ、と山本は述べる。何世帯かは住んでいるが、おそらく怖いだろうとも言う。投資用に買われているだけで、値段が高すぎて住めないのだという。

先進国ではどうかという問いに対し、山本はヨーロッパではそうした住宅ができることはまずないと思うと答えた。ヨーロッパには旧市街地に昔からの豊かな住まい方の街が多く残っているからだ。一方、日本は戦争で米軍に焼き尽くされ、京都や高山などいくつかを除いて伝統的な住み方の残る街がほとんどない。戦前の日本には木造住宅の美しい街並みが各地にあり、そうした街がもう少し残っていればこうはならなかった、と山本は考えている。

また、かつては低所得者向けに県営住宅や市営住宅が数多く作られていたが、今はもう作られておらず、みな金融商品のマンションになってしまった、とも指摘する。住宅価格が高くなりすぎた今、行政が安い住宅を供給すべきだと山本は提案する。古くなった家でもいいので改修し、安く貸し、そこで商売もできるようにする。それをすぐにでも始めれば解消できると思うし、それをやるしかない、と山本は述べた。

田舎に帰ること、プライバシーの意味

コミュニティの良さを知らない世代はどうすればそれを知れるのか。山本の答えは、田舎に帰ればいいというものだった。都会に出てきている人の多くは田舎を持っている。親のいるところに戻り、一緒に住み、その街の中で生活することを考えればいい。いわゆるUターンで地元に帰る人も増えている。田舎にある自分の家は、本人は財産だと思っていないかもしれないが、実際には大きな財産だという。親が属していたコミュニティのメンバーに入れてもらい、そこで仕事をするほうが楽だ、と山本は言う。実家から通えばいいし、実家にスタジオを作って仕事をしてもいい。聞き手のような映像の仕事なら場所はどこでもいいはずだ、とも付け加えた。

プライバシーがないほうが幸せなのかという問いに対しては、何をもってプライバシーとするかが問題だと答えた。たった一人になることがプライバシーではない。プライベートだと思う時間にも、同じ空間に一緒にいる人がいる。たった一人になりたければトイレに行けば一人になれるが、それが快適なわけではない。一緒にいたいと思える人は、一生のうちに必ず誰かいる、と山本は言う。

建築家のエゴと、政治への不信

こうしたことを言う建築家が山本しかいない現状について、山本は建築家のエゴが働いていると言う。お金を儲けて有名になりたいという意識が非常に強い。コンクリートといえば安藤、木造といえば隈というような作風についても、デベロッパーのエゴであり建築家のエゴでもあると述べる。自分の作品を作りたいと思うこと自体、誰も望んでいない。依頼者は「ここに建てて私たちが幸せになるものを」と頼んでいるのであって、「コンクリートで作ってください」と言ってくる人はまずいない。絵画や彫刻なら他人に迷惑をかけないが、建築は他人に迷惑をかける。だからエゴは「ばかげている」と山本は言う。

なぜ山本はエゴに流されずにいられたのか。山本は、身の回りを見ていれば、こう作ればこちらの人はいいと言うが隣の人は困るだろう、という意識が働くと答える。それは誰でも持っている意識であり、依頼者のことだけを考えれば隣人に迷惑がかかる。そういうときには、隣の人が迷惑するから高いものはやめましょう、と依頼者に言うのが建築家の役目だ。お金をくれる人の言うことなら何でも聞くというのは、それこそ金儲けのためにやっているだけだと言われてしまう。専門家なので、周りが困ることは聞かなくてもわかる。それを施主に伝えなければ、施主が恥ずかしい建築を建てることになってかわいそうだ、と山本は言う。

周囲のことを考えて作っているので、地域の人からの反発はほとんどないという。反発があるとすれば、それは地域の住民のふりをした別の人で、選挙に勝ちたい政治家が住民のふりをして批判していることもある、と山本は主張する。山本は政治家が劣化していると見ており、住民から選ばれたはずの人が、当選すると地域住民ではなく政党のために働くようになっていると批判する。住民が聞きたいのは暮らしをどうよくしてくれるのかであって、政党のことは知ったことではない、と。そして建築界もそこに追従し、完全に巻き込まれている、とする。

その背景には、お金と次の仕事が来なくなることへの恐れがある。山本の事務所には今、横浜市からの仕事が一切ないという。大きな仕事は来ない。山本はまだいいほうで、小さな事務所で頑張っている人たちには公共の仕事がまず来ない。聞き手が、そうでなければ食べていけないという悪循環だと言うと、山本も同意した。

中山で進む木造の計画と、81歳の現在

巨大デベロッパーは変わると思うか、という問いに、山本は、自分がやっていることの成功例を見れば変わると答えた。その例として挙げたのが、横浜線の中山駅近くで進めている計画である。柱を木造、床をコンクリートとした建物で、山本はその利点をいくつか挙げる。鉄骨だとヒートブリッジによって外の熱が鉄骨を伝って入り込み結露するが、木造ではそれがない。また木は軸力が強く、鉄骨に匹敵するほどなので鉄骨の代わりになるという。この建物では、購入した人が住みながら商売もでき、周りは森のようになる計画だ。たまたまそういうことを考えているクライアントと一緒に作ることになったので実現できた、と山本は説明し、できることからやっていくしかないと述べた。

81歳の今、一日どれくらい働いているのかと聞かれると、山本は「働いてない」「大体飲んでる」と笑う。それでも事務所には毎日来ている。最近は歩くのは問題ないが、敏捷性はすっかりなくなったという。建築家としての力が落ちているかどうかは、自分ではわからないと答えた。今もスタッフと一緒にモニターを見ながら設計しているが、それは昔から変わらないやり方だという。

事務所はもうスタッフが十分にやれるようになっている。一方で、スタッフもお金を儲けたいという思いはある。金儲けのことだけを考えるといい建築ができなくなるので、そのことについては一緒に話すことがある、と山本は言う。ただ、それはなかなか難しく、自分でもわからなくなってしまうことだ、とも認めた。事務所に毎日来るのは、そのことを確かめる意味もあるのか、という聞き手の問いかけで、インタビューは終わっている。