ニート3年を経て芸人になった春とヒコーキ土岡が語る、黙っていた高校時代と「芸人では売れてない」という葛藤

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概要

お笑いコンビ・春とヒコーキの土岡は、相方ぐんぴぃの「バキバキ童貞」という街頭インタビューでの一言をきっかけに注目され、YouTubeチャンネルは登録者200万人規模になった。一方で本人は「芸人としては売れていない」と繰り返す。インタビューでは、青山学院大学の落語研究会で頭角を現しながら就職活動に失敗してニートになった経緯、3年間のニート生活から芸人になった理由、そしてYouTubeの成功と芸人としての自己評価のずれについて、土岡が自分の言葉で振り返った。

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いまの働き方と、ニートで慣れた体

現在の土岡は、YouTubeの撮影が週1〜2日、ライブが週2〜3本あり、そこに少しずつテレビの仕事や雑誌のインタビューが加わる。休みは月に数日あるかどうかだという。ニート時代と比べればかなり働いているが、「完全にニートで体が慣れちゃってる」ため、他の人より休みたい欲求が強いかもしれないと話す。仕事はこなしているものの、一つひとつを「なんとかやれた」くらいの感覚で過ぎてしまっていると感じる時もあるという。

ネタはまず土岡が全部書き、ぐんぴぃと台本を読んで話し合いながら仕上げる。ボケとツッコミは半々くらいで、やっているうちにどちらかが「やばく」なる。先輩からは、コンビのうち土岡の方が非常識だと言われたこともあるそうだ。

青学の入学初日に感じた「ここには馴染めない」

ぐんぴぃとは青山学院大学の落語研究会で出会った。土岡が1年生、ぐんぴぃが1学年上だった。

土岡は冴えない高校生だったが、青学に受かったことで自分も「イケてる」側になれると期待していた。立命館大学にも受かっていたが、せっかくなら東京に行きたいという思いと、「青学生イコールかっこいい」というイメージから青学を選んだ。ところが入学式の初日、構内をスケートボードで移動している学生を見て落ち込み、「ここには馴染めない」と思ったという。

おしゃれになろうと服を買いに行っても、今思えば全部間違っていたと土岡は振り返る。インナーとTシャツの違いが分からず、ヒートテックのようなインナーの上にジャケットを着て登校していた。教えてくれる人にも出会えなかった。クラスでは浮いてしまい、授業も一人で受け、行き場がなくて落研に行くと、同じような人たちが集まっていた。

落研では、最初はかっこよかった先輩が丸眼鏡をかけ、アルバイトにも下駄で行くようになっていった。土岡はそれを「人が劣化していく場所」と笑いながら表現するが、同時にそこが心地よかったという。部室では、授業でイケている学生の悪口が語られていた。出席カードを預けて帰ったイケている学生の分を、くしゃくしゃにして提出しなかったという先輩の話を聞き、「ここだけが正しい場所だ」とレジスタンスのような気持ちで部室に逃げ込んでいたと語る。

「紙袋おじさん」としてのぐんぴぃとの出会い

入学前、土岡は2ちゃんねるの青学の板を見ていて、「キャンパスに紙袋のおじさんがいる」「紙袋の中に人を入れてさらうらしい」という書き込みを目にしていた。入学後、落研の新入生歓迎の落語会に行くと、ぐんぴぃが話しかけてきて「紙袋おじさんって知ってる?」と聞き、「それ、俺」と明かした。周りの学生がブランド物のバッグに教科書を入れて通学するなか、一人だけ逆張りで紙袋を使っていたら、都市伝説にされていたのだという。土岡は、助からない人の目線で怖い話を聞かされたようだったと笑う。

学生落語で総長・全国2位になった理由

土岡は大学3〜4年の頃、学生が運営する関東の落研の連合で総長を務めた。落研同士の交流や合同の落語会を取りまとめる役で、落語がうまいことで選ばれたという。大会では決勝に1度進み、最高で2位だった。

一方的に15分間しゃべれる場所はなかなかない。大学に入る直前の高校3年間、友達ができずにずっと黙っていたので、その発散のような感覚だったと土岡は言う。一人でピンネタをやっているときに、成立はしているが「人間と喋ってきた人の喋りじゃない」と言われることもある。聞き手はそれを、一人で壁打ちをしてきた人間が外に出たからだと受け止め、その「壁打ちの歴史」を尋ねていく。

おしゃべりだった子ども時代

土岡は宇都宮の出身で、父親は外科医だ。土岡が中学に上がる頃までは非常に忙しかったという。本人は作新学院に幼少期から中学校まで通っていた。姉も通っていた、栃木では私立で少し上品なイメージの学校で、小学校でトイレの大便をからかわれるようなことは一切なかったと話す。

子どもの頃はとてもおしゃべりだった。歯医者で泣き叫ぶことはないが、ずっとしゃべり続けるので先生が治療できず、「今、歯を見なきゃいけないからおしゃべりやめようね」と言われたこともある。知らない人にも話しかけ、中学までは友達も多く、「薄く顔は広く」楽しく過ごしていた。

高校で誰とも話さなくなるまで

高校は外部の県立男子校に進んだ。栃木県で最も偏差値の高い学校だった。それまでは、小学校から一緒の友達が間に入ってくれることで、新しい友達とも間接的に仲良くなれていた。それがなくなり、新しい友達の作り方が全く分からなかった。

土岡は入学前、この高校にはガリ勉ばかりが来るので、人並みに漫画を読みテレビも見ている自分はイケている方になるだろうと思い込んでいた。クラスを引っ張り、流行りのものを教える側になるつもりだった。ところが実際の同級生は、勉強で各学校のトップだったうえに、はしゃいで下ネタを言い、友達とカラオケに行ける人たちだった。そのギャップに驚いて話せなくなったという。

自信の根には、自分は不良でもオタクでもなく、勉強もそこそこでき、マラソン大会で下位になるわけでもない「ど真ん中」だという認識があった。さらに、真面目であることが正しいと信じていた。小学1年生の頃、同級生を全員「さん付け」で呼び、「それ先生に怒られちゃうよ」と注意していた。それを通知表で丁寧な子として褒められたことで、真面目さは正義だと確信したという。

高校ではお行儀よくしようと思い、当たり障りのないことだけを言い、人をいじることもしなかった。その結果、入学初日のような距離感のまま1学期が終わり、夏休み明けの2学期には誰とも話さなくなった。話しかけようとしても、「こいつ急にしゃべったな」と思われるのではないかと考えてしまう。周囲が嫌なことを言ってきたわけではなく、自分で閉じこもっていたと土岡は認める。人と少しでも話せたら「今日は人と喋った日」として数え、1日に3回話せたら「俺よくやった」と自分を誇って帰っていた。

学校がつまらないので、家では漫画やネットで取り返そうとし、一日を延長するように夜更かしした。そのため寝坊してホームルーム中に遅刻して教室に入るのだが、仲の良い相手がいないので誰にもいじられず、先生が出席簿にチェックをつけるだけだった。中学から一緒に進学した友達は挨拶をしてくれたが、会話はそれ以上にならず、「土岡どうしちゃったんだろう」という雰囲気はあったと思うという。

文化祭や合唱コンクールでは暇なので放課後の作業に参加し、「ガムテープまだこっち余ってるよ」といった事務的な会話は生まれた。一時的な連帯感もあった。しかし行事が終わるとそれは消え、みんなは仲の良い同士で帰っていく。1年生の行事が一通り終わったとき、関係は行事のためにリセットされるもので、このまま3年生まで人と話さずに過ごすのだと思った。

ネットに逃げたわけでもなかった。ニコニコ動画も見ず、2ちゃんねるへの書き込みやブログもしない。やっていたのは、漫画の公式サイトを見て、アニメ化の情報が更新されていないかを毎日確かめることくらいだった。学校で息苦しかった分、家に帰ってやっと呼吸ができる感覚だったという。

部活を断るための「7万円カツアゲ」妄想

中学の友達にラグビー部に誘われ、見学と最初の練習に参加したが、へとへとになって無理だと思った。ただ、練習がきつくて体力がないから入らない、という理由は情けなく、誘ってくれた友達にも罪悪感があった。

練習中、先輩に肩をトントンと叩かれ、「名前」と言われた。ジャージにまだ名前を書いていなかったので、呼び方が分からないから書いておけ、という意味だった。土岡はこれを「7万円」と聞き間違えたことにしようと決めた。先輩にカツアゲされそうになって怖くて入部しなかった、そして自分は本当は「名前」と言われたことにまだ気づいていない、と自分に言い聞かせたのである。先輩に迷惑がかかるので人に言いふらしたりはせず、友達には「ラグビー部には事情があって入れない」とだけ伝えた。部活に入らなかったことも、閉じこもりを深めたと土岡は振り返る。

お笑い好きだったのに輪に入れなかった理由

お笑いは小学生の頃から好きで、友達のいない高校時代も、M-1の予選結果をサイトで追い、吉本の配信を見ていた。一度だけ、思いつきのような調子で母親に「よし決めた、芸人になろう」と言ったことがある。翌日、母親が冗談として父親に伝えると、父親は「だめだよそんなの」と返したという。

家は父方も母方も医者の家系で、自分の代で途絶えたと土岡は言う。高校で文系を選んだとき、父親は悲しそうで、本当は理系に進んでほしかったのだろうと感じた。

高校にもお笑い好きの同級生はいたが、その輪には入れなかった。昨日のM-1が面白かったという会話を、下を向いて聞きながら「俺だってそれ見てるし」と思っていた。何が好きかを表に出すことすら恥ずかしかった。全部、他人の目を気にしていたとし、聞き手の「自意識に苦しめられていた」という言葉に土岡は同意する。中学までお笑い好きの友達と遊べていたのは、イケている・イケていないという属性が分かれる前から同じメンバーだったからだという。

大学でも繰り返した「最初に失敗したら数年単位で捨てる」

大学では高校のようにはならないと思っていた。しかし文学部のクラスは30人中男子が5人ほどで、最初の1週間は本格的な授業がないとカリキュラムにあったためサボった。2週目に行くと、自分以外の男子4人が2人ずつ固まって座っており、輪に入れなかった。

グループワークで声をかけてもらっても、最低限しか話さず、食事の流れになるとすぐ帰る。それを繰り返した結果、2年生の頃に「単刀直入に聞くけど、あんまり俺らと関わりたくない?」と聞かれた。土岡は「本当にそんなことはなくて、人とどうしていいのか分からないんだ」と答えたという。相手は、落研では土岡が暴れていると聞いていたため、自分たちがつまらないからはしゃがないのだと思っていたようだった。向こうは手を差し伸べてくれていたのだろうと、土岡は今は考えている。

聞き手が指摘したのは、最初に失敗すると年単位で捨ててしまうという土岡の傾向だ。高校はスタートで失敗したから、3年間は「捨て人生」にする。大学の学部も、4年経てば出る環境だから挽回はしない。人の輪に関してはそうだったと本人も認める。

では、なぜ落研には居続けられたのか。土岡は、お笑い好きという共通点は、野球好き同士のような共通の趣味の範疇を超えていると考えている。これくらい砕けた話し方でいい、建前を取り払っていい、一緒にはしゃげれば中身のない話でいい。お笑い好き同士には、そういう人間関係の結び方の了解があるように感じ、そこに安心感があった。だからここだけは手放さないよう、あまりしゃべれなくても顔を出し続けたという。

1〜2年生の頃のキャンパスは相模原の淵野辺で、落研の部室もそこにあった。メインの落語会は渋谷で行うが、普段は1学年上の先輩たちとだけ過ごす「子どもの秘密基地」のような感覚だった。

落語で「1年生のエース」になる

1年生の6月末に新入生のデビューの落語会がある。その1か月ほど前、覚えた落語を先輩に見せると、「めっちゃうまくない?」と言われた。本番でも初めて人前でやったお笑いのネタが受け、「1年生のエース」という空気になった。土岡にとって、部活で初めてスタメンになれたようなもので、とても嬉しかったという。お笑い好きの鬱憤がたまっていた分、最初からやりやすかったとも話す。

土岡は、授業や恋愛やバイトの人間関係はクソ食らえで、座布団に座ってしゃべっている「この15分間が本物の時間だ」と思い込んでいる人は、落語がうまくいく気がすると語る。聞き手がそのモチベーションで学生落語をやる人は少なそうだと言うと、「みんなもっと楽しくやれてたのかな」と笑った。

演技力についてはむしろ伸びなかったと土岡は言う。古典落語を芸能として上手に演じる学生もいるが、土岡は古典の中に自分で考えたボケを入れた。自分のボケなら「師匠のように演じるべき」という正解がないので、下手でも受ける。ただし現代風にアレンジはせず、江戸時代の雰囲気のまま、人のものの見方だけがオリジナルになるようにした。プロでは許されないかもしれないが、学生落語だからできることをやろうと夢中だった。当時は芸人になるつもりがなく、学生落語で燃え尽きようと思っていたから打ち込めた、とも話す。

手応えを感じるにつれて「尖って」いったという。最初は落研という居場所ができて素直に先輩と接していたが、次第に就活で離れていく先輩に対して「落研なんだから落語しなきゃだめでしょ」、ネタにも「個性出せよ」と言うようになった。

「婚前交渉しない」宣言の中身

土岡は大学入学の頃、落研の先輩に経験を聞かれて「彼女いたことないですけど、婚前交渉しないって決めてるんで」と答えていた。宗教的な理由ではない。高校時代、男子校でもイケている同級生には他校の彼女がいると聞き、屈折していった。大学でチャラチャラした青学生を見て、自分は真面目だから童貞なのであり、まだ見ぬ人に一途なのだと、自分を正当化するために先に宣言したのだという。

後輩が真似したのかと聞かれると、土岡は、落研は放っておいても童貞が多いと答える。同期の男子4人は全員卒業まで童貞で、後輩も6人ほどがそのまま卒業した。大学時代に一度彼女ができたが、関係は持たず自然に別れた。

それでも学生生活は楽しかった。土岡は、落語が個人でやるものだったことが大きかったと見ている。チームスポーツのように責任が生じたり、相手のことでピリピリしたりすることがない。同じ目標を持つ仲間だが、それぞれ自分のことを頑張っている、という距離感がやりやすかった。

ピン芸人ではなくコンビを選んだ理由

ピン芸人になりそうなタイプだという聞き手に、土岡は、一人では売れないと思ったと答える。ぐんぴぃは大学時代に最も笑わされた人で、自分と真逆だった。見た目のインパクトとパワーで人の目を引きつけ、誰もが話しかけやすく、フィジカルの面白さもある。ちゃんとしたお笑い芸人を考えると、こういう人がいないと無理だと思ったという。

目標にしているのは、憧れてきた芸人の形だ。まずネタで評価され、M-1やキングオブコントの決勝で活躍し、テレビの王道のバラエティでも活躍する。その憧れは捨てきれないと話す。

ただ、ストイックかと聞かれると、芸人になる前にニート期間を挟んだせいで「気持ちのスタミナ」が低くなっていると答える。体調は崩さずにやれるようになったが、やる気のスタミナが足りない。落語も4年で区切ったから持ったのだという。就活に失敗して留年を考えたときも、留年して落語を続ける先輩は多かったが、自分は留年したら部活には一切参加しないと決めていた。決めたらそうとしかならない。土岡はそれを「リセマラ的」と表現した。

就職活動の失敗

受けたのはテレビ局や映画会社など、人気業界の大手ばかりだった。婚前交渉もせず真面目に生きてきたのだから、会社は真面目な人間を欲しがるはずで、自分はエリート会社員になるものと疑わなかった。しかし実際には「自分を正当化してる童貞でしかなかった」と土岡は言う。会社はコミュニケーション能力の高い人を求める。周囲ではチャラチャラした学生の内定の話が聞こえてきた。

字は綺麗に書いていたので書類はほぼ通ったが、スーツを着るとしどろもどろになり、一次面接で落ちるのが大半だった。最も進んだ会社では、三次面接あたりで緊張してうまく話せず、「すいません」と笑ったところ、面接官に「その笑顔いいじゃない」「今のよく分からない話よりはにかんだ顔の方がよかったよ」と言われた。それで最終面接は準備せずに臨み、やりたいことを聞かれて「分かってないです」とへらへらした結果、落ちた。M-1の準決勝で受けたネタが決勝では空気が違って受けない、という話にたとえ、自分にもそれが起きたと振り返る。

大手に落ちると、知らない会社には入りたくないと考え、留年してやり直そうと夏頃に就活をやめた。

ニートを受け入れるまでの2〜3か月

プライドの高い土岡にとって、ニートになることは大きな挫折だった。明日からニートという状態で大学を卒業し、同級生が社会人になった朝、自分だけ何も進んでいないと思うと起きていられなかった。脳が拒否して寝ろと言っているようで、1日15〜16時間寝る日々が始まった。

2〜3か月経つと麻痺してきた。起きた瞬間だけ「俺だけ働いてないんだ」と焦るが、それはパソコンが起動してから「ニートであることを何とも思わないセキュリティソフト」が立ち上がるまでのラグのようなもので、立ち上がれば寝るまで平気だった。アニメを見て、最新の映画も公開日に行ける。ただ、このまま年を取れば取り返しがつかなくなることは分かっていた。バイトを始めるのも怖く、社会に収まらない方が何かできそうだという気持ちと、このままでどうするんだという気持ちの間をぐるぐる回っていた。

芸人を選んだ理由について、土岡は、ニートが一般の会社に戻ろうとすれば一番下から入ることになるので、一般社会ではない場所に行こうと思ったのだろうと推測する。

親への「ハンガーストライキ」だった3年間

ニートになって2か月ほどのある日、吹っ切れた。今さら就職するのも芸人という大それた道も、自分にとってはどちらも同じくらい怖い。それならお笑いが好きで、落研も楽しかったのだから芸人になろうと思い、会社勤めを始めたばかりのぐんぴぃに電話した。ぐんぴぃはすぐにやろうと言ってくれた。会社をすぐにはやめられないにせよ、前向きだった。

その後母親に電話し、ニートよりはましだと許してくれると思っていたが、父親と相談した母親から、ちゃんと仕事に就いてほしいので芸人はだめだと言われた。親が反対するのは当然だが、土岡はそこで心が折れ、ぐんぴぃに「どうしていいか分からないので一旦全部宙ぶらりんで」と伝えた。そして親へのハンガーストライキのような気持ちで、家賃9万円の部屋に親の金で住み続け、3年間ニートを続けた。

最終的には親に言わずに活動を始めた。自分たちでお金を払ってエントリーするライブにぐんぴぃと出始め、ある事務所のオーディションに受かってライブに出られるようになり、所属ではないまま出入りしていた。

親に打ち明けたのは芸人を始めて2年ほど経ってからだ。別の大学の落研の友人がテレビマンになっており、若手芸人の奮闘記として密着したいと声をかけてきた。親に言っていないと知った友人に、親に言う場面を撮らせてほしいと言われ、このチャンスがなければ言わないと思って実家に帰った。母親は、そろそろ言ってくるのではないかと思っていたようで、自分で選んだのならやりなさいと言った。父親は、仕事になっていくのだから人の役に立つように、自分で選んだことを考えてやっていきなさい、という趣旨のことを言ったという。

カメラの前で母親は「彼の人生なので」と答えていた。親子であっても別の人間で、心配はあるが、やりたいことを止めるのは違う、自分も止められたくない、という内容だった。母親が自分を「彼」と三人称で呼ぶのを初めて聞いて驚いたが、そう思ってくれていたのかと知り、親に胸を張れるようにやろうと思ったと土岡は話す。密着がなければずるずる言わなかった可能性が高い、とも認めている。美談のように見えるが、「まんまとハンガーストライキが通った」だけだと笑う場面もあった。

タイタンを選んだ現実的な理由

事務所をタイタンにした理由として、ぐんぴぃが学生時代から爆笑問題を好きだったこと、社会派の面も含めてお笑いだけではない幅がある事務所への憧れを挙げるが、一番は現実だったと土岡は言う。お笑いを始めた時点で土岡は25歳、ぐんぴぃは27歳。2年間どこの事務所にも入れず、27歳と29歳になっていた。事務所ごとにオーディションの年齢制限は25歳までや30歳までとさまざまで、29歳で行っても「おじさん扱い」されかねない。そんな中、タイタンの養成所の年齢制限は65歳だった。実際に行くと29歳のぐんぴぃが若い方のグループに入り、自分たちのネタで勝負できたという。

吉本については、体育会系で年功序列がはっきりしていそうなこと、人前に出て「見てください」と主張するタイプではないことから、埋もれると思って選ばなかった。

土岡は、タイタンでなければもっと早く潰れていたと考えている。芸人がほとんどYouTubeをやっていない時期に、ぐんぴぃのバズからYouTubeを始めたが、事務所はそれを後押しし、事務所主導で始めたほどだった。爆笑問題の幅の広さに、タイタンという「家柄」として含めてもらえている気がして、YouTuberではなく芸人を名乗れている感覚があった。何をやっても最終的にはお笑いに持っていく事務所なのだから、自分たちも何をやってもいいと思えたという。

「バキバキ童貞」がネットミームになった日

ぐんぴぃは夜勤明けの朝方、街頭インタビューを受けた。グループLINEに「童貞ですかって聞かれて、童貞ですってカメラに言っちゃった、テレビで流されるのかな、恥ずかしい」と送ってきたが、土岡は既読だけつけて返さなかった。夕方のニュースで流れると、その部分が切り抜かれて当時のTwitterに投稿され、すぐにバズった。

当時は土岡も童貞で、テレビにも出たことのない相方が「童貞の人」としてネットに晒されているのを見て、最初は自分だったら耐えられないとぞっとした。しかしダウンジャケットなのに腕まくりをし、カメラ目線ではきはきと「バキバキ童貞です」と話す姿を見るうちに笑いが止まらなくなり、1分ほどのインタビューを見終えた後、30分ほど笑い続けたという。その時点では今後のネタになるとも思っておらず、その日一日だけでも面白い出来事だったと思っていた。

芸人として思い描いていたのは、ネタで出てネタの人になり、その後バラエティに呼ばれるという、最も多数派のルートだった。ネットミームで知られるのは全く想定外だった。ただ、2年間事務所に入れなかったことで、ライブでネタは受けていても売れるかで言えば「落ちこぼれ」だという自己認識になっていた。ライブで話して受けるなら、人に知ってもらえるなら、いいことではないか。晒されたのが自分ではなかったからそう思えた部分もあるが、ネタだけで素は見せたくないなどと言っていられない、売れる気配がないのだから、という心境だったと土岡は話す。

YouTubeを始めるときの「終わってしまおう」という気持ち

ミームになってから1年ほど空けてYouTubeを始めたが、そこにはまた別の抵抗があった。当時は芸人でYouTubeをやる人は少なく、やれば「そっちに行っちゃったんだ」と見られる時期だった。土岡自身もそう思っていたし、YouTubeでうまくいったら芸人に戻れなくなるのではないかという不安もあった。

それでも、事務所に入れたものの思うようにいかず、疲れて落ち込んでいたので、「もう何でもいい、終わるなら終わればいい」という気持ちが勝っていたという。YouTubeが動き出すなら、どうとでもなって終わってしまおうと思っていた。20代後半から始める人は遅く、若い方がいいので要らないという事務所が多いことは、芸人になるまで分からなかったと付け加えた。

登録者200万人と「売れてないのに満たされてしまった」葛藤

チャンネルは10万、20万、50万、100万と伸び、200万人に達した。土岡はそれを、面白いと思うことをそのままやれている感覚だと話す。YouTubeで跳ねるにはお笑いではないことをやらなければならないと思い込んでいたが、自分たちや出演してくれる芸人仲間、芸人以外の人たちと面白いことをやったら見てもらえた。今は楽しく、それで出会えた人も、できた面白い仕事もたくさんあるという。

しかし目標はネタだ。キングオブコントの優勝、あるいはタイトルに限らずネタが面白い人になることが一番の目標だと土岡は言う。そのうえで、「売れてないのに満たされてしまった」と語る。お金的には食べていけるし、見てくれる人もいる。芸人にとって心が満たされる部分はもらってしまった。だがYouTubeは看板もぐんぴぃが背負い、中身もぐんぴぃが引っ張っている。自分の芸人としての価値は何なのか。価値がないのに食えてしまい、知られ始めている。そこに追いつかなければならず、上の世代の先輩にも世間にも認められないと、自分で自分を認められない気がするという。

YouTuberであれば満たされているはずでは、という聞き手の問いには、周りにいる芸人たちがテレビに出たり、M-1の決勝に進んだり優勝したりする姿を見せてくれるからだと答える。登録者が多くても、芸人の間では誰も「お前ら上がったね」とは言わない。だからやれているのかもしれない、と土岡は話す。

キングオブコントは芸歴の制限がないが、土岡は実際にはそうではないと考えている。エントリーはできても、決勝に行けるか、行ったとしてその実績を持ち帰ってテレビなどの仕事につなげられるかといえば、ある程度若いうちしかできない。優勝とは別に「決勝」という切実な目標があり、それは数年のうちだという。一方で、年を取ってから売れる人もいるし、テレビに行かずライブに出続ける人も大勢いる。お笑い芸人という仕事自体はいつまでも続けられることが希望だとも語った。

目標は「もう一度ニートに戻ること」

いつか引退したいかと聞かれ、土岡は「またニートに戻りたい」のが一つの目標だと答えた。20代のニート3年間は本当にしんどかったが、今度はお笑いをやりきり、売れて、ネタもたくさん作り、多くの人とつながった状態で、将来の不安なくもう一度ニートになり、いつまでも寝てアニメを見ていたいという。

土岡は、就活の失敗の仕方から、親を困らせても罪悪感を持たなくなるまでの方法を書いた『内定0から始めるニート入門』という本を出しており、「ニートはめっちゃおすすめ」と笑う。ただ、ぐんぴぃからは「誰でもなれるわけじゃない」と言われるという。実家の太さがあり、お笑いが向いていて、運も良かったから、成功談のようにニート経験を語れるだけだ、というのがぐんぴぃの指摘だ。土岡自身も、今食べていけているのはぐんぴぃのスタミナと才能が引っ張ってくれたからだと認めている。

一方で、1か月でいいから人生で一度やってみたいという聞き手には、3年間も1か月の繰り返しなので何も変わらない、と答える。労働が生まれる前、人間は食べることと寝ること以外に力を使っていなかっただろうから、本来はこっちなのだと思いながら今は過ごしている、とも話した。会社が生まれる前に会社員はいなかったのだから、とも言う。

ニートを経たことで芸人になるハードルが下がった面もあったと土岡は振り返る。ニートになりたての頃、親からは「仕事を探して」と電話があったが、後半になると「お日様が出ている時間は外に出なさい」くらいにまで要求が下がった。そのくらいならできると思って芸人になったという。

いまニートの人と、その周りの人へ

現役のニートや、身近にニートがいる人に向けて、土岡は、結局は本人次第だと語る。周囲がいくら仕事を勧めても、それだけで人は進めない。もちろん働きかけがなければどんどん塞ぎ込むので必要ではあるが、社会復帰の手を差し伸べられたから復帰できるわけではない。本人がニートであることに飽きるしかない。土岡自身、3年間アニメや映画を見るだけの日々に飽き、「さすがに自分の人生に参加するか」と思ったタイミングを逃さず家を出ただけだったという。だから、自分が飽きたという感情を見逃さないでほしい、と話した。

YouTubeのコメント欄や手紙、直接会った人から、ニートだけれど明るい気持ちになれた、という言葉をもらうことがある。自分はニートであり続ける楽しさの話しかしていないのに、それを聞いて再就職したという連絡をもらうと、あの時の自分が救われた気持ちになり、ニート期間は無駄ではなかったと思えるという。

高校時代については、後日イベント先で働いていた同級生に声をかけられたり、中学の友達が高校の同級生をライブに連れてきたりすることがあった。自分が塞ぎ込んでいただけだったと思うし、思い出はなくても、今会えば同い年の人として普通に話せる。再会してもいいし、しなくてもいい。

土岡は最後に、実生活で触れる場所の9割がだめでも、1割でも、それがバーチャルでも、「ここは自分にとって本物の世界だ」と思える場所があればいいのではないかと語った。それが正解でずっと生きていけるとは限らないが、とりあえずそれでしのぐことを繰り返すのでもいい。自分はそういう逃げる生き方しかしてこなかったから、と。インタビューを終えた土岡は、自分でもこう思っていたのかという発見があったと話し、この後のライブへ向かった。