特別養子縁組、虐待、少年院、二度の妊娠――26歳のシングルマザー・せなさんが語る「許してしまう」生き方

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概要

せなさんは26歳で、6歳の息子を育てるシングルマザーである。2歳半で特別養子縁組によって養親に迎えられ、家庭で「しつけ」として激しい暴力を受けた。15歳で同級生への集団暴行事件を起こして少年院に入り、16歳で32歳の男性との子を中絶し、19歳で再び妊娠して一人で産む道を選んだ。現在は若年者を支援する活動「YORISOI」を始めようとしている。インタビューでは、自分がなぜ人を傷つけることに抵抗を持たなくなったのか、何がそれを変えたのか、そして今も「人を許しすぎる」ことが恋愛の破綻につながっているのではないかという問いが語られた。

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未受診妊婦の母から生まれ、2歳半で特別養子縁組へ

せなさんによると、養子縁組には普通養子縁組と特別養子縁組の2種類があり、自身が入ったのは特別養子縁組である。この制度では血のつながった親族とは戸籍上他人になり、迎え入れた養親と戸籍上も正式な家族になる。養子縁組後に行政との定期的な関わりがあるのではないかという質問に対し、せなさんは「私の認識上は多分何もなかった」と答えている。

生まれは横浜市である。実母は17歳で、妊婦健診を受けていない、いわゆる「未受診妊婦」だった。陣痛が来てから救急車を呼んだが、検査を受けていないため感染症やリスクがわからず、受け入れ先がなかなか決まらなかった。救急車であちこちの病院を回り、ようやく受け入れてくれた病院で生まれたという。

実母はせなさんを実家に置き去りにし、実家側も面倒を見きれないとして、生後半年になるかならないかのころに乳児院へ預けられた。せなさんは、祖母も交際相手が頻繁に変わる人で、孫の面倒を自分が見なければという意識が薄い家庭だったと説明する。実父については、会ったことも、連絡先も、写真もないという。

養父の10年に及ぶダブル不倫

養親は40代で、子どもに恵まれず特別養子縁組を選んだ。子どもができなかった理由は養父の体の側にあったとせなさんは聞いている。養父は歯科技工士として自営業を営み、せなさんが小学校に上がるころからは整体も始めた。親族の中には特別養子縁組に反対する声もあったという。

せなさんが最近養母から聞いた話では、養父は縁組の時点ですでに10年近く同じ相手と不倫をしていた。相手は保険の営業に来た女性で、その女性にも夫と子どもがいるダブル不倫だった。その不倫相手が、養父が養子を迎えることに反対していたという。それでも、候補の中から「この子がいい」とせなさんを選んだのは養父だった。せなさんはこの点を「すごい矛盾している」と振り返る。

不倫を最初に知ったのは、小学3年生のせなさんだった。養父が以前使っていた古い携帯電話をおもちゃ代わりにいじっていたところ、母親ではない女性とハートの絵文字付きで「会いたい」とやりとりするメールを見つけ、さらに行為中の動画まで見てしまった。当時は意味がよくわからなかったが、言ってはいけないことだと感じて2年ほど黙っていた。小学5年生のとき、養父に怒られて腹が立ったのか、養母に「パパが浮気している」と伝えた。養母は最初「そんなはずないじゃん」と取り合わなかったが、メールの話をすると顔が青ざめたという。

そこから家は「修羅場」になった。両親は毎晩深夜2時、3時まで怒鳴り合い、殴り合った。養父からは「お前が不倫をばらしたから家庭が壊れた」と責められ、静かにしてほしいと言えば「うるせえ」と怒鳴られた。養父が心臓が止まってAEDで蘇生し、ICUに入院したときには、子どものせなさんですら入れなかったICUに、不倫相手が病院に「妹」と偽って入っていたことも後にわかった。両親が離婚しなかった理由について、せなさんは、特別養子縁組をしてしまっていたこと、親族の反対を押し切って縁組した手前もあったのではないかと推測している。

当時の気持ちは複雑だったという。自分が母に言わなければこうはならなかったと思っていたが、今では「どう考えても不倫をしていた父が悪い」「最初から壊れていた」と受け止めている。

「しつけ」として受けた暴力

せなさんが覚えている最初の記憶の一つは、保育園のころの出来事だ。朝が弱く準備に手間取っていると、養母が給食用の金属製スプーンやフォークが入った巾着袋でせなさんの頭を叩いた。頭から出血し、泣きながら訴えると最初は「嘘だ」と言われ、本当に出血しているとわかると「冷やしておけば大丈夫」とアイスで冷やされ、そのまま保育園に送られた。

もう一つの記憶は、5歳ごろに行われた「真実告知」である。特別養子縁組では、子どもが自分のルーツを知る権利があるという考えから、幼いうちに「私たちは家族で、あなたを大切に思っているが、血のつながりはなく、産んでくれたお母さんは別にいる」と伝える。両親はそのとき泣いていたが、せなさんは「え、そうなんだ」という不思議な感覚だったという。

家庭での暴力は物心ついたときからあった。小柄だったせなさんに、体重60〜70キロはあったと思われる養母が馬乗りになって首を絞める、包丁が飛んでくる、熱いお茶をかけて「お前が片付けろ」と言う。「私が買った服を着るな」「私が作ったものを食べるな」と言われ、両親がおかずを食べる前で白米だけを食べたこともあった。自室を与えられても、散らかしていると「部屋はいらないよね」と言われ、布団もない廊下で寝かされた。

ただしせなさんは、両親に虐待という認識はなく「しつけ」だと考えていたと話す。人はされて嫌だったことは覚えていても、自分がしたことは忘れていくもので、両親も「そんなことしたっけ」という感覚だろうという。外面がよく普通の人に見えていたため問題は表に出ず、幼い自分も誰に助けを求めればいいかわからなかった。

一方で、家族旅行など楽しい時間もあり、両親は年齢が高く早く亡くなる可能性があるため、自分のことは自分でできるようにと厳しく育てた面もあったという。習い事は体操、水泳、合気道、家庭教師など週6日。愛情はきちんとあったと思うとせなさんは言う。ただ、習い事は自分がやりたいからではなく、「楽しかった」と言うと両親が喜ぶから続けていた。嫌なことをされる分、たまに優しくされると何倍も嬉しく、両親をいかに怒らせず、笑ってもらい、褒めてもらうかに必死だったと振り返る。

学校でもいじめられることが多く、楽しくはなかった。近所に住む年上の男の子とゲームや木登りをして遊ぶことが多かったが、その子からもいじめられていたという。

小学5年生のリストカットから非行へ

不倫騒動のさなか、小学5年生で初めてリストカットをした。せなさんは、ストレス発散というより「自分の心がどれだけボロボロで、どれだけ助けてほしいか」を、見える傷として出していたのだと思うと語る。

中学に上がると髪を染め、家に帰らなくなり、中学2年から本格的に非行に走った。夜遊べる子、家にいたくない子には事情があり、複雑な家庭の子が集まって何かをしても「いいことは起こらない」とせなさんは言う。

SNSで知り合った友人の家に、少年少女10人ほどが集まって暮らした。1軒目は母親が刑務所か留置所におり、父親は離婚でいない家で、捜索願が出ている子もいたため3日ほどで警察が来て全員帰された。しかし2〜3日後には、両親が離婚し父親が月に数回しか帰らない別の家に再び集まった。光熱費を払っていなかったため電気もガスも止まり、食べ物もない。スーパーやコンビニのかごに弁当を詰めてそのまま走って逃げる「かごダッシュ」ができた日はごちそうで、それ以外は小さなカップ麺を1日1個食べられればいい方だった。冷水でシャワーを浴び、夜は懐中電灯で過ごした。

メンバーは男子が多く女子は3人で、恋愛関係もあった。ハードオフで買った中古スマホをWi-Fiにつないで過ごし、夜はバイクで江の島まで走りに行く。14歳で働くこともできず、その日やりたいことをして生きていたが、「なんだかんだ楽しかった」という。

15歳で起こした集団暴行事件

その生活の中では暴力が当たり前で、せなさんは暴力を振るう側でも受ける側でもあった。地元は昔からヤンキーが多い地域で、先輩は男女合わせて30人近く、少年院に行くのも珍しくなかった。当時関わった先輩の多くは今、薬物で逮捕されたり、人を殺して刑務所に入ったりしているという。地元以外の人間が地元の先輩に喧嘩を売ると全員が集まり、相手を公園に連れてきて集団で暴行する。痙攣しかけた相手に慌てて水をかけて起こそうとした場面も見た。そうした環境に慣れすぎて、人を傷つけることにも傷つけられることにも抵抗がなくなっていたとせなさんは振り返る。

事件の被害者は、保育園から一緒だった幼なじみだった。同居していた友人の「Aちゃん」がある日部屋を開けると、Aちゃんの彼氏とその幼なじみが2人きりで、きわどい格好でいたことがあり、Aちゃんは怒っていた。せなさんも、仲直りしたと思っていた幼なじみにSNSで悪口を書かれ、不満を抱いていた。自分たちが呼んでも来ないだろうと考え、トラブルのない別の子に、自分たちがいることを伏せて呼び出してもらった。たまたま居合わせた2人を含む4人で河川敷に行き、暴行を加えた。

被害者は前歯が1本折れ、体に多数の根性焼きが残った。インタビュアーの「拷問」という言葉にせなさんは「そうです」と答え、4対1で叫ぶことも逃げることもできなかったのだろうと話す。被害者が被害届を出し、捜査を経て、朝6時ごろに警察が逮捕状を持って訪れた。「何したか分かってるよね」と問われ、「分かってます」と答えた。15歳だった。

相手の金品を奪った上での傷害であるため、本来は強盗致傷に当たるが、未成年だったことや、取り調べですべて話して謝罪の気持ちを伝えていたことなどから、傷害・窃盗・恐喝という罪名になったとせなさんは説明する。主犯はせなさんとAちゃんで、事件は全国ニュースになった。

留置所、鑑別所を経て少年審判が開かれた。立ち向かう大人がいれば家に戻れることもあるが、自分の場合は内容がひどく、どのみち少年院送致だったとせなさんは考えている。審判の場で両親は「もう手に負えません」と述べた。

少年院の1年と担当教官との出会い

少年院は「すごく厳しい学校」のような場所で、バッジで示される階級があり、生活態度を教官が評価して進級させる。問題なく進めば満期の10か月で出られるが、せなさんは1年いた。私語は厳禁で、目を合わせて笑うだけでも処罰の対象になる。刃物は渡されないため、支給されたシャープペンシルの芯を皮膚に何度も往復させて自傷を続け、そのたびに謹慎になった。教官の言うことに納得できず激怒して緊急ブザーを押され、連行されたこともあった。

最初は早く出たい一心だったが、罪の種類ごとのプログラム、たとえば暴力事件なら怒りをコントロールするためのプログラムなどを通じて、自分と向き合う時間が多かった。月1回ほどのミーティングでは、誰の行動が不快だったか、誰のどこがよかったかを話し合う。そこで、何が人を傷つけるのかに気づき、褒められることで自分の長所にも気づいた。人を傷つけることに抵抗がなかった自分がおかしいのだと、ここで気づいたという。

大きかったのは担当教官の存在だ。1人の教官が4〜5人を担当し、じっくり話をする。家庭では理不尽な理由でも怒られ、事実を述べても「言い訳だ」と否定されてきた。担当教官は、なぜそうしたかを説明すると「そういうことがあったんだね。でもやったことは間違っているし、そうするべきじゃなかった」と、怒鳴りも暴力もなく話してくれた。そうした大人はほとんど初めてだったとせなさんは言う。それまで普通の感覚の人との人間関係を築いてこなかったことも、少年院で気づいたことの一つだった。

出院から11年、再犯はしていない。暴力で人を支配しても得るものはなく、相手にも自分にもマイナスでしかないと少年院で学んだこと、そして小さな積み重ねが理由だと話す。少年院で何かを得られた人は再犯しないだろうし、大人になって刑務所に入る人は、その経験をプラスに変えられなかったのではないかというのがせなさんの見方である。

出院の日、せなさんは出たくなくて泣いた。出院の1週間ほど前に単独寮へ移り、教官に呼ばれて荷物を台車で運んでいくと、周りの子たちは「あの子はもう帰るんだ」とわかり、寂しがって泣く子もいたという。

北星余市への進学と半年での退学

幼いころから本が好きだったせなさんは、少年院で『ヤンキー母校に帰る』を読み、「こんないい学校があるのか」と北星学園余市高校に行きたいと担当教官に伝えた。出院直後にそうした希望を出す子はほとんどおらず、教官は院長にもかけ合って応援してくれた。私立で費用がかかるため、両親に頭を下げて話し合い、進学を認めてもらった。16歳の2月に出院し、2か月後には北海道にいた。

学校にはなじめた。やんちゃをしてきた子もいれば、いじめで何年も引きこもっていた子もおり、せなさんは「異文化交流」と表現する。しかし半年で退学した。費用は月に15万円ほどかかっていたと思うが、仕送りでは足りず、早朝3時ごろから農家のアルバイトをし、学校の後は小樽の飲食店で働き、寮の門限に合わせて帰る生活で、当然朝起きられなくなった。単位がそんなにすぐなくなるとも思っていなかった。校則違反で謹慎になると携帯を没収され地元に強制的に帰されるが、せなさんも2回ほど謹慎を受けた。欠席を繰り返すうちに、退学するか1年休学するかを選ぶよう言われた。

16歳での妊娠と中期中絶

退学後、実家に戻るのを嫌ったせなさんは、「アンダー」と呼ばれる未成年を働かせるキャバクラで働いた。高校の連休中に地元で一時働いていた店で、そこで送迎や出勤調整をしていた32歳のスタッフと交際を始めた。

交際2か月で妊娠がわかった。相手は両親にも「結婚を前提に付き合っている」とあいさつしており、産む話になり、結婚指輪を買おうという話まで出ていた。ところが妊娠4〜5か月になるころ、急に「下ろしてくれ」と言われた。産むなら一人で産んで育ててくれ、金も払わないし認知もしない、別れてくれ、という内容だった。

中期中絶は入院して出産と同じ形で行うもので、費用は60万〜80万円ほどだったとせなさんは記憶している。未成年のため親の承諾も必要で、両親に事情を説明した。養父は激怒した。せなさんは相手をかばい、連絡も取れず居場所もわからないと両親に嘘をつき、実際には会い続けていた。手術の日も相手は病院に来ており、両親と鉢合わせしないよう医師に事情を話していた。費用は相手に請求しなかった。相手からは、中絶したらまた一緒に暮らそうと言われ、何度も「本当にこれでいいんだよね」と確認した。しかし手術から1か月後、相手の浮気が発覚した。そこから精神的におかしくなり、処方薬のオーバードーズや、記憶をなくすまでの飲酒を繰り返した。それでも交際は続けていたという。

実母との同居と、二度目の家庭崩壊

同じ時期、せなさんは実母と暮らし始めた。中学生のとき、母子手帳で生まれたときの姓名を知り、「特別な感じがする」とSNSのアカウント名をその名前にしていた。少年院を出ると、友人たちから「せなの実のお母さんからめっちゃ連絡が来てたよ」と聞かされた。その後、実母から直接メッセージが届き、北星余市にいる間も養親に黙ってやりとりを続けていた。実母には父親違いの弟妹が3人いて、皆せなさんの存在を知っており、快く受け入れてくれた。

中絶手術の当日に退院して帰宅すると、両親からかかった費用について責められ続けた。実母に「もう家にいたくない」と伝えると、タクシーでもいいから今すぐ来るよう言われた。しかし実母とのやりとりが養親に知られ、携帯、保険証、財布を取り上げられた。せなさんは、少年院のときも北星余市のときも味方になってくれた両親だからこそ、裏切られた思いが強かったのだろうと振り返る。何も持たないままタクシーで実母の家へ逃げ、半年から1年ほど暮らした。

家はリビングと寝室だけの古いアパートで、6人が布団を並べて雑魚寝した。生活費は毎月ぎりぎりで、実母は3人の子の世話を夫に任せきりにし、家事、育児、仕事をすべて夫が担っていた。せなさんは実母を下の名前で呼び、友人のような関係だった。一人っ子として育ったので弟妹は可愛くてしかたなく、実母の夫のことも好きだったという。

しかし実母は不倫を繰り返し、夫への言い訳に「せなと飲みに行っていた」とせなさんの名前を使った。最初は話を合わせていたが、献身的な夫に申し訳なくなり、泣きながら打ち明けた。夫は「知ってるよ、今に始まったことじゃない」と答えた。それが実母に伝わると、「私は幸せになっちゃいけないのか」「私の幸せを壊して何が楽しいの」と激しく責められた。その後も実母は不倫相手と同棲して家に帰らず、たまに帰ると夫が置いた生活費を持ち出した。せなさんの財布が実母のバッグから見つかったこともあった。子ども時代に続き、不倫を伝えたことで家庭から責められるのは2度目だった。実母の家を出たせなさんは、32歳の元交際相手のもとへ戻った。

19歳で一人で産むと決めた

その後も長く水商売を続け、キャバクラを転々とした。19歳のとき、別れた後も同居していた元交際相手が自分のバーを開き、そこで働いてほしいと頼まれた。その時期、2か月ほど交際した別の相手との間に子どもができ、妊娠に気づいたのは別れた後だった。

1度目の中絶を強く後悔していたこと、そして「ちゃんと家族と思える存在」がただ欲しかったことから、せなさんは産むと決めた。どうしようかと迷ったとき、少年院で読んだNPO法人BONDプロジェクトの橘ジュンさんの著書『漂流少女』を思い出し、「19歳です、妊娠しています、結婚もしておらず相手とは連絡が取れません、助けてほしい」とメールを送った。数日後に橘さん本人が会いに来て「どうしたいの」と聞かれ、「産みたいです」と答えた。そこから支援を受けるようになった。

メディアへの出演が多い橘さんを通じてフジテレビから密着の依頼があり、19歳の妊娠から20歳の出産までがノンフィクション番組で追われた。支援を受けつつも、妊娠7〜8か月まで元交際相手のバーで酒を飲まずに働いていた。その後、橘さんが運営に関わるシェルターに入り、出産した。

生活保護は住まいのある場所でしか申請できないため、都内のシェルターで受給した。しかしシェルターを出るには家を借りる必要があり、地元でもゆかりもない土地で生後数か月の息子と暮らす自信はなかった。生後3か月の息子を連れ、事情を説明して養親の家に戻らせてもらった。

養父は当初、また責任を取られずに逃げられたのかという複雑な思いがあったようで、抱っこを勧めても断っていた。養母は「可愛いね」「どうやって抱っこしたらいいの」と喜んだ。赤ちゃんを育てた経験のない両親だったが、今では養父が誰よりも息子を溺愛しているのではないかとせなさんは言う。

息子への言葉と、支援活動を始める理由

息子は生まれてからずっと実家で暮らしているが、せなさん自身は両親との衝突で家を離れた時期もある。交際相手のもとへ息子を連れて行き同居したが、その相手からは将来は考えられない、息子を自分の子として育てることはできないと言われた。ファミリーレストランで養父の気に障ることを言ってしまい、周囲が驚くほど怒鳴られて置き去りにされたこともある。「出ていけ」と言われ、北星余市時代に交際していた相手に電話すると、大学進学で愛知に住んでいたその人から「息子を連れて来れば」と言われ、養父の怒りが収まるまでの2〜3か月を息子と愛知で過ごした。その人とは何もなかったという。インタビュアーは、息子が大人の顔色をうかがう子になっていそうだと指摘し、せなさんも「そうですね」と応じている。

息子を非行に向かわせないために心がけていることを問われ、せなさんは、シングルマザーとして稼ぎながら母親の役割も果たさなければならず、寝顔しか見られない日もあって寂しい思いをさせているのはわかっていると話した。だからこそ一緒にいる時間には「あなたが大好きだよ」「あなたが大切だよ」「あなたは私の宝物だよ」と言葉で伝え続けている。子どもだったころの自分が欲しかった言葉だからだという。一方で、仮に息子が自分と同じ道を歩んだとしても、それは親の責任として受け止める覚悟はしていると語った。

今回インタビューに応募したのは、「YORISOI」という名前で若年者支援を始めることになったからだ。正式な立ち上げはまだだが、活動自体はしている。BONDプロジェクトの橘さんや少年院の担当教官のような大人に支えられて前を向けた経験があり、自身も複雑な家庭環境の当事者だった。トー横やグリ下の問題が騒がれる中で、過去の自分を見ているようで放っておけなくなったという。助けてと言えば助けてくれる大人がいる、大人なんてと思っていた子が向き合ってくれる大人もいると知ってくれる子が増えればいい、と話した。30歳の目標として、活動が軌道に乗り、息子と過ごす時間も増えて、その両方が叶えばいいと語っている。

実父のこと、息子の父親との約束

実父には会ってみたいという。実母から名前だけは聞いた。実母はせなさんの前に同じ男性との子を中絶しており、せなさんを妊娠したときも中絶を求められたが、一人目を下ろしたこともあって産んだという。せなさんは、知らないうちに実母と似た人生を送っていたことを「不思議というか、怖い」と表現する。

息子の父親とは、出産後に連絡が取れるようになった時期があり、一つだけ約束してもらった。息子が思春期や大人になったとき、父親を知りたい、会いたいと言ったら会ってあげてほしい、というものだ。相手は了承しているという。6歳の息子から「なぜパパがいないの」と聞かれたことはまだない。聞いてはいけないと思っているのか、気にしていないのかはわからないが、いずれ必ず触れることになるので、傷つけない説明をするつもりだと話す。息子は来年小学1年生で、保育園では「モテモテ」らしい。

「許しすぎる」ことと、これからの恋愛

結婚願望については、家庭を持ちたいこと、自分が一人で寂しかったので息子にきょうだいを作ってあげたいことを挙げた。これまでの恋愛では暴力もあり、4年交際した相手とも暴力があったが、その人には感謝していることも多いという。その相手とは去年の11月に別れた。4年の間には別れていた期間や関係がよくない時期もあり、せなさん自身にも浮気がなかったわけではないと認めている。

暴力を振るわれない恋愛をするにはどうすればいいかという問いに、せなさんは「みんな最初はいい人」と答えた。恋人に怒ることがほとんどなく、何をされても自分が「ごめんね」となってしまう。最初の暴力の後、相手は皆「やってしまった」と謝るが、そこで自分が許すため、これをしても許される、離れないという認識になっていくのではないかと分析する。

その背景として、せなさんは人を憎めない性格を挙げる。両親のことも憎んではいない。虐待に近いことがあったという事実と、嫌いだ、許せないという感情は別だからだ。嫌なことをされても、それがその人のすべてではなく、誰もがいいところと悪いところを持っている。悪いところだけを見て嫌う、憎むということを誰に対してもしたくない。そのうえで「だから多分ダメなんでしょうね」と付け加えた。

インタビュアーは、許すのか話し合うのかの線引きを学んでいく必要があるのだろう、まだ26歳だから変えられる可能性があると応じた。せなさんは、次に恋愛をするなら、息子を必ず受け入れてくれる人で、刺激は「1ミリもいらない」、温厚で平和で優しく、暴力も浮気もしない人を探すと話して、インタビューを終えた。