『この世界の片隅に』はなぜ言葉にならないのか 岡田斗司夫が語る「すずを実在させる」三つの方法と、泣かずに観る勧め

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概要

この動画は、原爆の日である8月6日に合わせて、岡田斗司夫が2016年11月20日配信の「岡田斗司夫ゼミ」第153回を再編集したものだ。取り上げる作品は、こうの史代の漫画を原作に片渕須直が監督した劇場アニメ『この世界の片隅に』(2016年公開)である。岡田は結論として「ものすごい作品なので絶対に見てほしい」と勧める。そのうえで、この映画がなぜ観客を言葉にできない状態にするのかを、監督が掲げた三つのポイントに沿って説明する。無料公開部分ではできる限りネタバレを避けており、最後に「泣かずに見てほしい」という観方の助言を付けている。

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観終わって全員が呆然とした劇場

岡田はこの作品に強く心を動かされ、原作漫画も絵コンテ集も買ったと話す。できればビデオではなく劇場で観てほしいという。理由の一つは音響の良さで、もう一つは絵の広がりが大きな画面に向いていることだ。ただ、岡田がいちばん重く見ているのは、映画館にいる観客全員が呆然とする感覚である。これは実際にその場にいないと分からないという。

劇場によっては泣く人がいたり、終映後に拍手が起きたりして、感情のやり場があることもある。しかし岡田が観たテアトル新宿の回では、終わったあと観客全員が呆然とし、これをどう受け止めればいいのか分からないという空気になった。岡田の考えでは、泣く・笑うは感情としてまとまっているので扱いやすい。いちばん強い感動は、言葉にならず呆然とする種類のものだという。

世間の反応はまだ薄い、とも岡田は感じている。前日に出演した関西のテレビ番組で、東野さんに面白いアニメはないかと聞かれ、この作品を絶対に観るべきだと勧めた。返ってきたのは「あ、見ときますわ」という薄い反応だった。岡田によれば、観ていない人の多くは宣伝の絵柄から「みんな褒めているけれど、こんなものだろう」と想像している。けれども、その想像の範囲に収まる作品なら自分はここまで言わない、と岡田は言う。

ネタバレの線引きと、ばらばらな感想

完全にネタバレを避けるのは無理なので、岡田は「ここまでは安全」という前提を示す。作品は戦前から戦後、おそらく昭和10年ごろから昭和20〜21年ごろまでを描いている。主人公は広島に住む女の子なので、クライマックスで原爆が落ちる。これは前提として知っておいてよい、という。

観た人の感想は支離滅裂だと岡田は言う。冒頭1分から泣けて仕方がないという人がいる。とにかく観ろと繰り返すだけの人もいる。「みんなが想像するようなかわいそうな戦争アニメや、戦争の中でけなげに生きる少女の話ではないから、頼むから観てくれ」と頼み込むような感想もある。

観られていない理由は上映館の少なさにある、と岡田は見ている。収録時点で全国60館余り(コメントを受けて63館と訂正している)、東京でも4〜5館しかない。一方、映画.comのレビュー平均は4.6前後で、そんな作品はほかにない、と岡田は評価の高さを強調している。

「感動を与える」のではなく「圧倒させる」映画

岡田は、あまりに感動すると言葉にしにくくなると打ち明ける。以前、ロサンゼルスとラスベガスの間にあるキャリコという西部のゴーストタウンを訪れ、胸が潰れそうになった話をしたことがある。今回の体験はそれに近いという。

岡田によれば、映画を作る人は皆、本当はこの言葉にならない領域を目指している。映画監督が「どんな話かと聞かれて言葉で説明できるような映画は作っていない」とよく言うのは、そういう意味だという。分かりやすい感動を与えたいのではなく、観客を圧倒させたいのだ。とりわけ高畑勲はそういう映画を作ろうとしてきた人なので、この作品には「死ぬほど悔しい」思いをしているだろう、と岡田は推測している。

面白いかと聞かれれば面白いが、それだけではない。泣けるかと聞かれれば泣いている人は大勢いるが、岡田は泣いてはいけない映画だと考えている(理由は最後に語られる)。すごいかと聞かれれば、アニメに限らず映画全体でおそらく本年度ナンバーワンだ、と岡田は評価する。

片渕須直という監督

岡田は片渕監督の経歴にも触れる。片渕は『魔女の宅急便』の監督を途中で降ろされた人だという。岡田の説明では、宮崎駿本人が降ろしたわけではない。片渕の監督で企画が進んでいたところ、スポンサーが宮崎でなければ駄目だと言い、引きずり下ろされた。そのとき鈴木敏夫が「あんたは最後までいなきゃだめだ」と言い、片渕は演出補として参加してフォローしたという。

その後、片渕は36歳で『名犬ラッシー』、41歳で『アリーテ姫』を手がけた。岡田は、片渕の若い頃の才能は宮崎駿とスタジオジブリに吸い取られてしまったと見ており、現在56歳の片渕を「不遇の人」だと考えている。『名犬ラッシー』は娘が小さい頃に一緒に観ていて、うまいと感じていたそうだ。

すずを実在させるための三つのポイント

片渕監督はインタビューで、主人公のすずを「すずさん」と呼ぶ。岡田はそれを、すずが監督の中で実在する人物として生きている証拠と受け取る。監督は、すずというキャラクターを観客に実在すると信じさせるために三つのポイントを立てた、と語っているという。岡田はこれを順に解説する。

一つ目:徹底した現地取材と背景描写

一つ目は、広島と呉の町の徹底した取材である。岡田は、地方都市を背景に丁寧に描いて「聖地」になったアニメはこれまでもあったが、それらが馬鹿みたいに見えるほどこの作品の描写はすごいと言う。その時代にタイムスリップしたとしか思えないという。

描かれた町は、もう存在しない。広島は原爆で消え、呉もB-29の焼夷弾爆撃でほとんど燃えてしまった。今の私たちが見ることのできない町を、あらゆる資料を調べ尽くして存在させた。その目的は、ここにすずさんがいた、すずがこの橋の欄干に触ったかもしれない、と観客に信じさせることにある、と岡田は説明する。

岡田はここでジブリの描写と比べる。ご飯の炊き方やかまどの火の起こし方は、ジブリ作品にも出てくる。しかし岡田によれば、ジブリの描き方は「昔はこうだったんだよ、手作りで素晴らしいでしょう」と子どもに教えるためのものだ。一方『この世界の片隅に』は、キャラクターの存在を信じさせるために描いている。だからレベルが全く違い、ジブリの自然主義がつまらなく見えてしまうほどだという。

岡田は『となりのトトロ』も例に挙げる。トトロや猫バスが空を走る場面がすごいのは、宮崎駿自身がトトロや猫バスの存在を信じているからだ。信じていることを伝えるときには宮崎のパワーは最大限に出る。しかし「昔の家庭はこうだった」と教える立場になると、アニメーションの熱量が下がる、というのが岡田の見方である。

二つ目:ショートレンジの仮現運動

二つ目は、心理学用語の「仮現運動」だ。二つの点を交互に点滅させると、人の目には点が動いているように見え、残像まで見えてしまう。実際には見えていないものを脳が補って動きとして知覚する現象で、岡田によればアニメーションの原理はこれでできている。

監督はインタビューで、これまでのアニメは「ロングレンジの仮現運動」でできていたと語っているという。その代表が「中抜き」だ。原画で大きな動きをつけるとき、本来は動画で埋める途中の絵をわざと抜く。そうするとスピーディーに動いて見える。

岡田がよく使う例は『もののけ姫』で、サンがエボシ御前と戦う場面である。ナイフを抜いて腕を振るところで、宮崎は修正を入れた。振り始めと腕を伸ばし切ったところはきちんと描く。その途中では腕を描かず、空中にナイフの刃先だけを描いた。すると観客には刃が一瞬光ったように見え、間の動きを脳が補う。岡田は、日本のアニメがぐねぐね動くフルアニメーションではなく、中抜きによるスピーディーでかっこいいアクションで評価されてきたのは、この大きな動きでの仮現運動によるものだと説明する。

これに対し、『この世界の片隅に』は「ショートレンジの仮現運動」に挑んだ、と岡田は言う。人間のごく細かく小さな動きで、あえて中割りの作画をたくさん入れ、目に残像現象を起こそうとする実験である。岡田は、冒頭ですずが大きな荷物を担ぐ場面を挙げる。とてもゆっくりした動きなのに非常にリアルに見え、しかも動きがかわいらしいという。岡田はこれを宮崎駿へのアンチとも、日本のアニメがやってこなかった領域への挑戦とも考えられると位置づける。

箸の持ち方に表れた思想

岡田は、この思想が作画の指示にも徹底していることを、監督が語った例で示す。スタッフにボールペンを借り、実演しながら説明した。日本のアニメでは、箸を取ると次の瞬間には正しく持っている。これが普通の表現だ。ところがこの作品では、箸を取ったあと、茶碗を持つはずの手で押さえて持ち替える動作を描いている。岡田によれば、これが人間の正しい箸の持ち方である。

普通のアニメがやらないことをわざわざやっているので、アニメーション表現がとんでもないレベルに達している、と岡田は笑いながら語る。アニメ好きにはぜひ観てほしいという。岡田はこれを、仮現運動の思想によってリアリティの追求が新しい領域に入った例としてまとめている。

三つ目:のんの演技

三つ目は、すずの声を担当したのん(能年玲奈)の演技である。誰が観てもこの演技を絶賛する理由を、岡田は次のように分析する。

すずは絵柄では幼く見えるが、岡田の説明では19歳で嫁入りし、20歳ごろまでが描かれる。義理の姉からのいじめにも愚痴を言わずに耐えるので、どうしても「いい子」に見えてしまう。しかし作品は、文句一つ言わないすずを、現実から逃避する弱い人間として表現している。義姉に逆らわないのは、この子が弱いからだ。岡田は、それを伝えているのは作画ではなく声優の演技力だと言う。物語が進むにつれてのんの演技はどんどん変わっていき、それがすずの内面があふれ出したように見える。

すべての技法が「すずの実在」に集中している

岡田は、作画もアニメーションを見せること自体を目的にしていないと指摘する。監督の狙いはすずがこの世にいると信じさせることであり、のんの演技もそのためにある。作画も、先の仮現運動を含めて、のんの演技を支える側に回っている。中盤を観ていると、のんに良い演技をさせるためにアニメーションが支えているように見えるほどだという。

作画中心でも声優中心でもない。すずを実在させるという一つの目的に、あらゆるテクニックと演出が集中している。綿密な取材、仮現運動を応用した新しいアニメーション、のんの演技という三つによって、観た人は世界を信じ、キャラクターの実在を信じてしまう。そのうえで物語が語られるので、観客は強く感動し、その感動が言葉にならない。岡田はそれを、実際にあった現実を何年分かまとめて心に叩き込まれたような感覚だと表現する。

さらに岡田は、この作品が高畑勲の『おもひでぽろぽろ』や宮崎駿の『魔女の宅急便』へのアンサーになっていると述べる。どういう意味でのアンサーなのかは、ネタバレを含む後半(メンバー限定部分)で語るとして、ここでは説明していない。

「泣くな」という助言

これから観る人への助言として、岡田は「泣くな」と繰り返す。泣ける映画かと聞かれれば泣けるだろうが、絶対に泣かないほうがいいという。

岡田の理由はこうだ。人は泣いた瞬間に感性が閉じ、理性が働かなくなる。泣いたことで「これは泣く映画だ」と思い込み、泣き所を探すようになる。この映画は理性と感性を全開にして観たほうがいい。泣かずに踏ん張っていれば、口で言えず泣くこともできないほどの感動が最後に押し寄せてくる、と岡田は語る。

番組の最後で点数を聞かれると、岡田は「100点に決まってる」と答えている。

10年後の追記:配信の時代に映画館で観る意味

再編集にあたって付けた追加情報で、岡田は、追加シーンを加えた完全版『この世界のさらにいくつもの片隅に』がAmazonプライム、U-NEXT、Netflixで観られ、YouTubeでも300円ほどでレンタルできると紹介している。

新作もすぐサブスクやレンタルに来る時代に、映画館で観る必要はあるのか。最近よく出るこの問いに、岡田はこの作品を例に答える。こういうとんでもない作品は観終わったあとしばらく呆然としてしまう。映画館なら、作品に加えて周りの観客と一緒にその呆然とした気分を味わえる。終わってもみんなしばらく立たず、ざわざわしながら、どう受け止めればいいのか分からなくて帰りにくい。その独特の雰囲気は、今のところ映画館でしか無理だろう、と岡田は言う。この作品を今劇場で観るにはリバイバル上映を探すしかないが、すごいと評判の映画はできるだけ映画館で観てほしい、と呼びかけている。

最後に岡田は「すぐに泣くな」という助言を補足する。泣くことは自分の感情の圧力を逃がすようなもので、泣くとすっきりし、観たものを美化してしまう。『この世界の片隅に』は確かに美しく良い映画だが、泣くと「泣いたからすごい映画だ」と思い込んでしまう。泣くのを少し抑えて受け止めるつもりで観れば、心に深いものがどんどん来る。岡田はそう述べて、泣いてはいけないと思いながら観ることを勧めている。