なべやかんが語る45年のコレクションと「明大替え玉事件」の内幕

YouTubeで開く ↗
概要

タレントのなべやかんは、特撮を中心とする膨大なコレクションを手放すかどうか悩んでいるという記事をきっかけに、街録chの取材を受けた。前半は自宅のコレクションルームの案内で、希少品の由来や、コレクターならではの悩みが語られる。後半は生い立ちから、1991年の明治大学替え玉受験事件に話が移る。この事件について、なべやかんは「自分個人の不正ではなく、大学の慣行と理事同士の利権争いがあり、さらに別の有力者の息子を守るために自分に報道が集中させられた」という見方を示している。以下、動画で語られた順に整理する。

16分で読めます

部屋を埋め尽くすソフビと「箱の中にも同じ量」

案内されたコレクションルームには、ゴジラやウルトラマン系の怪獣のソフトビニール人形が並ぶ。なべやかんによると、同じような部屋は家の上の階にも下の階にもあり、展示していない分も段ボールに入っている。その量は、出ている分とほぼ同じだという。

いちばん古いゴジラのソフビは1966年頃に発売されたもので、およそ60年前の品が良い状態で保存されている。現在は100万円ほどの値がつくものだとなべやかんは説明する。棚は東宝作品と円谷プロ作品で分かれていて、バルタン星人なども並ぶ。

同じ人形が3つ、4つ並んでいるように見える棚について、なべやかんは色が微妙に違うのだと説明した。コレクターにとっては色違いをそろえることが大事で、公害怪獣ヘドラの一角は「色違いの塊」になっている。オリジナルは黄色い体に赤い顔のもので、ほかにはインディーズメーカーが版権を取って作ったものもある。一方、無許可のパチモノもたまに出回るという。なべやかんが見せたある品は、本物の原型から中国で勝手に型を抜いて売られたもので、そのぶん出来が良く、見分けにくいのだと話した。

造形師の仕事としてのコレクション

なべやかんは一つひとつの品を、誰が作ったかという観点から説明していく。大きなゴジラの頭部は、映画『キングダム』や『デスノート』などの撮影用プロップを手がける特殊造型の藤原カクセイが、映画で使われたゴジラをスキャンして作ったもので、300体限定のシリアルナンバー入りのグッズである。昭和のゴジラについては、東宝美術の利光貞三を「神」と呼び、この人がいなければ今の着ぐるみ文化はどうなっていたかわからない、と評価した。

ほかにも、円谷プロ造型部のトップである品田冬樹が作った市販品のゴジラや、当時ウルトラマンのマスクを作った佐々木明が、着ぐるみ制作時の型を自ら再現したものがある。モスラ対ゴジラに登場するゴジラは通称「モスゴジ」と呼ばれ、目つきが独特だが「可愛い」のだという。大魔神や妖怪映画のマスクも並んでいる。

こうした品の入手方法は、ほとんどがコレクター同士の交換だとなべやかんは言う。金銭ではなく「物々交換」で、手元にある他の映画の小道具などを組み合わせて差し出す。

マイケル・ジャクソンの顔型とハリウッドの工房

変わった品として紹介されたのが、マイケル・ジャクソンの顔型である。なべやかんの説明では、アカデミー賞を7回受賞しているハリウッドの特殊メイクアーティスト、リック・ベイカーの工房がマイケルを担当していた。『スリラー』などで特殊メイクをするときはこの工房で行われていた。この顔型はリック・ベイカーのオリジナルの型から抜かれたもので、型を取り直した「孫」「ひ孫」のようなものが出回ることもあるが、これは直接の一発目なので毛穴やシワまで残っているという。100万円ほどのソフビと交換したそうだ。

アメコミ系では対照的な例が2つ挙げられた。一つはアイアンマンである。なべやかんは映画の特殊造形の工房を見学した際、市販品の原型を見てその格好良さに感激し、発売されたら必ず買うと決めて購入した。ところが中国で量産されて届いたものは、ボコボコでエッジ(モールド)も甘く、工房で見た原型とは「月とすっぽん」だった。もう一つのデアデビルは、実際に制作した人から工房で直接譲ってもらったもので、作りがまるで違うという。

ホラー映画のプロップと高騰する初代ゴジラ関連品

ホラー関係の品も多い。『ハロウィン』のブギーマンのマスクは、本来は市販のハロウィン用マスクだが、映画用マスクを担当したアカデミー賞受賞の造形家が自ら加工・塗装し直したものだという。ほかに『悪魔のいけにえ』のレザーフェイスのマスク、『必殺仕事人』で三田村邦彦が使った小道具(関係者から譲り受けたもの)、西村映造の造形物、ティム・バートン版『猿の惑星』のゴリラやチンパンジーのヘルメットが並ぶ。

『ジュラシック・パーク』でハモンドが持っていた杖は、オークションがまだそれほど盛んでない時代に出てきたものだという。同じものは何本か作られていて、そのうちの1本が最近のオークションで600万円ほどになったと話した。

部屋でいちばん高いものを聞かれて、なべやかんは初代ゴジラのパンフレットや、当時の漫画を示した。その漫画は、少し前まで2万円程度だったものが海外のオークションで1200万円になったという。なべやかんはこれを「バカでしょ、アメリカ人」と笑い、ゴジラ人気に加えて、海外の買い手が本来の価値を知らずに競り合っている、と見ている。さらに珍しいのが初代ゴジラの「絵物語」という小冊子で、なべやかんはこれ以外に1冊しか見たことがない。1200万円出すなら漫画よりこちらに出したほうがいい、というほどの希少品だとした。

『エクソシスト』のリンダ・ブレアが撮影時の特殊メイクのために取った歯型と舌の型もある。写真やネガとセットで50万円ほどで購入したもので、エクソシストのプロップはほとんど市場に出てこないため、今売れば相当な値になるだろうと述べた。リンダ・ブレア本人にサインをもらった際、「これは何?」と聞かれて「僕のコレクションです」と答えると、「あんたは頭がおかしいわよ」と言われたというエピソードも紹介された。

部屋全体の価値について問われると、なべやかんは、この部屋だけでは無理だが、他の部屋や保管中のものを合わせれば億に届くのではないかと見積もった。

「コレクターという病」と終活の悩み

コレクションは45年続いている。取材のきっかけになった記事では、自分の死後に妻に売ってもらうかどうかを考えていると語っていた。ただ、生きているうちに少しずつ売っても量が多すぎて間に合わないのではないか、という思いもあるという。

展示イベントへの貸し出し依頼もあるが、なべやかんは「帰ってこなきゃいいのに」と冗談めかして話す。棚から品を貸し出すとスペースが空く。それがたまらなく嫌で、別のものを買って埋めてしまう。すると貸したものが戻ってきたときに置き場所がない。これを本人は「コレクターという病」と表現した。

家族にはコレクションに興味を持つ人がおらず、価値もわからない。そこが悩みだという。例えばブギーマンのマスクは、見た目は市販品でも、映画の担当者が作り直したという経緯を説明できる人がいなければ価値が伝わらない。

手放すのはすぐではなく、今55歳なので、65歳くらいまではまだ楽しみたいという。個人で博物館を作る案については、「大体個人でやると破産する」と否定的だった。北原さんですら負け越している、閉じてはまた始めることの繰り返しだ、と話した。

部屋にはほかにアイドルの立て看板や江頭2:50のサインもある。江頭とはスポーツジムが一緒だった時期がある。『スーパージョッキー』の「ガンバルマン」では、格闘技やボクシングへの挑戦を本当にやらされたため、このままでは死んでしまうとジムに通い始めたのだという。入るときにたけしから「うちは刑務所よりひどいからな」と言われ、『あしたのジョー』の世界が本当にあるのだと思ったそうだ。

成城学園という環境と、スターではなかった父

後半はなべやかんの生い立ちに移る。父はコメディアンのなべおさみ。幼稚園は渋谷の幼稚園で、先生が麻生太郎の家族にあたる人だった縁で、運動会が麻生家の庭で行われた。かけっこや綱引き、大玉転がしができるほど広かったという。

小学校からは成城学園に通った。同級生や周囲の生徒にも芸能人の子どもが多く、特別扱いされる雰囲気はなかった。運動会や文化祭には芸能人の親が大勢来る。名前が挙がったのは司葉子、「うっかり八兵衛」の高橋元太郎、下の学年の親として武田鉄矢や田村正和などである。

子どもの頃の夢は動物園の飼育係だった。『キングコング』が好きで、ゴリラに餌をたくさんあげれば大きくなると信じていたという。中学生になるとヒーローものが好きでジャパンアクションクラブ(JAC)に入りたいと思った。

父は『ルックルック』などでほぼ毎日テレビに出ていたが、なべやかんにとっては当たり前のことだった。同じクラスには、東宝の俳優でゴジラ映画や『マタンゴ』などで主役を務めた久保明の息子がいた。なべやかんにとってスターとは怪獣映画の主役を張る俳優で、そうした作品に1本も出ていない父は「全然スターじゃない」存在だったという。

反抗期は「反抗している暇がなかった」。中学生ですでにコレクターとしてアンティークショップやイベントに出入りし、付き合う相手は大学生や大人ばかりだった。部活は『スクール・ウォーズ』の時代のラグビー部で、周りは怖い人ばかりだった。学校には三田佳子の息子もおり、世間を騒がせた件の際には、たけしが「たけし軍団に入れよう」「三田サイダーという芸名をつける」などと冗談で言っていた時期もあったと振り返った。

成績は中学の頃から綱渡りで、担任からは「君は落ちこぼれなんだから」とはっきり言われた。なべやかんの周囲の話では、親が多額の寄付金を出しても、成城学園では成績の扱いは左右されないという。

千代の富士との縁とベンチプレス日本一

高校時代、なべやかんはラグビーで左肩を脱臼し、それが癖になった。そんな時期に横綱・千代の富士と出会う。優勝祝賀会の場で、父を通じて初めて会ったという。三角巾をしていたなべやかんに、脱臼を克服して横綱になった千代の富士は「宿題」として腕立て伏せを課した。1日200回を毎日やって報告すると次は300回、それができると500回と増えていった。

その後、なべやかんは東京場所の時期になると午前中は学校に行かず、部屋へ稽古を見に通った。ちゃんこを食べてから学校へ行き、部活に出ていたという。なべやかんは、このときの鍛錬のおかげで後にベンチプレスが強くなったと考えている。パワーリフティングで日本記録を取ったときには千代の富士に報告し、「ある意味弟子みたいなもんですね」と言うと「そうだな」と返されたそうだ。

千代の富士への傾倒ぶりを示す話として、オウム真理教の勧誘の話も出た。下北沢で「今どのくらい幸福ですか」と聞かれ、「90%」と答えると、そんな人は初めてだと驚かれた。理由を聞かれて、千代の富士が勝っているからだと答えた。施設でビデオを見ようとしつこく誘われたが、相撲の取り組みを見る、録画もしている、と言って断ったという。当時の下北沢周辺にはリヤカーで回る豆腐売りやお弁当屋、ヨガ教室などオウム関係の商売があり、なべやかんはそれらが家庭の情報収集や勧誘の入り口になっていたと語った。

大学に進めず、芸の道に惹かれる

部活と千代の富士と趣味に明け暮れ、高校では単位が足りず、成城大学へは進めなかった。卒業はできたが、内部進学の条件を満たせなかった。もう一度3年生をやり直して成績次第で進学できる制度があったので挑戦したが、今度は2年生と3年生の成績を合算する必要があった。2年生の成績があまりに悪く、これまで取ったことのない点数を取っても追いつかなかった。なべやかんは、勉強すれば点が取れるのだと初めて知ったと振り返る。家族は皆落胆したという。

その頃、父が出演した新宿コマ劇場の舞台で座長の由利徹を見て、喜劇に強く惹かれた。浪人して渋谷ゼミナールに通ったものの勉強する気は起きず、教科書に隠して由利徹やたけしなど喜劇人の本を読んでいた。やがて由利徹のもとに押しかけて付き人をさせてもらうようになり、大学にはまったく行きたくなかったと話す。

しかし父は「大学ぐらい出ろ」という考えで、なべやかんは家での父を「独裁者」「プーチンみたいなもの」と表現する。逆らえなかったという。

試験を受けずに届いた合格通知

父が持ってきたのは、「スポーツ推薦枠がある」という話と書類だった。なべやかんはスポーツで実績も記録も残しておらず、何だろうと思いながら願書を書いて渡した。すると1月か2月に明治大学合格の通知が届いた。試験は一度も受けていない。

入学式の5日ほど前、大学から「写真が変だ」と電話があった。会議室のような部屋で、教授や大学関係者が並ぶ前に椅子が一つ置かれ、なべやかんはそこに座らされた。見せられた願書と受験票のうち、一方は自分の写真だったが、もう一方にはまったく知らない人の写真が貼られていた。その場で初めて、替え玉だったのだと知ったという。

なべやかんが語る明大の「伝統的な手口」

なべやかんが後から知ったという仕組みは次のようなものだ。明治大学では昔から、裏口入学の際に頭の良い学生をアルバイトで雇い、替え玉として試験を受けさせていた。使うのはスポーツ推薦の枠である。例えば野球部、サッカー部、柔道部にそれぞれ5人ずつの推薦枠があっても、優秀な選手が2人しかいなければ3枠が余る。その余りが裏口入学に回される。なべやかんの説明では、この枠はもともと一般受験者に回されるものではないため、自分が受かったことで誰かが落ちたわけではない。自分は相撲部の枠で合格したことになっていて、替え玉の人物が相撲経験者として筆記試験を受けていた。

わざわざ替え玉に受験させるのは、事情を知っているのが上層部だけで、一般の事務方などには気づかれないようにするためだという。なべやかんは、裏口入学の手口は大学ごとに異なるとも話した。大学名は伏せたうえで、試験の時に裏口入学者だけを集める教室がある大学や、白紙で答案を出させる大学があると語っている。

芸能界に入ってから、なべやかんは「やかん君に会いたかったんだよ、俺も同じやり方で入ったんだよ」と言う人に何人も会ったという。その人たちの属性は「まちまち」だった。後輩で同じ経緯の人にはまだ会っていないが、たぶんいるだろうとしつつ、確定はできないと留保した。

発覚の背景は理事同士の利権争い、とする見方

なぜ発覚したのかについて、なべやかんは理事の利権争いが原因だと説明する。当時、明治大学は新校舎の建設業者を決め、一部の理事がキックバックを受ける形になった。そこから漏れた理事たちが反発し、学生を誘導して「プチ学生運動」のような状況が起きた。90年代初めの明治大学の周辺には、理事の汚職を非難する立て看板や張り紙があふれていたという。対立の中で、相手側の理事が推薦入学と裏口入学の利権を握っていることが突かれ、リークされた。大学全体としては隠したほうがよい話が、潰し合いのために表に出た、というのがなべやかんの見立てである。

「なべのせいにしろ」という指示

なべやかんがもっとも強調したのは、1991年の同じ年に、名前が出てはならない替え玉入学者がいたという話だ。なべやかんによれば、その人物を隠すために、ある財界の大物から政治家の大物へ、さらに警察官僚に強い政治家へとつながるルートで、「この件はなべのせいにしろ、なべに被せろ、そこに集中させろ」という指示が出た。関係者の中にはメディアに非常に強い人物もいて、報道はその流れになったという。

聞き手が自民党系の有力者の息子かと尋ねると、なべやかんは「まあね」と応じた。ただしすぐに「自民党系の息子じゃない」と訂正し、どういうつながりかはわからないとも述べている。当初は建設会社の社長の息子などが2〜3人、社名も出ない形でちらりと報じられたが、そこから一気に何も出なくなったという。なべやかん自身、同じ方法で入った受験者がどんな人で何人いたのかはわかっていない。

報道の過熱と取り調べ

最初にニュースを見たのはスーパーの休憩室のテレビだった。明治大学で替え玉受験が行われたと報じられ、翌日には「著名人の息子もいるようだ」と範囲が絞られていった。「なべの息子」と特定されるまでは3〜4日ほどだった。そのとき、なべやかんは友人と熱海に旅行中で、ヘヴィメタルに心酔していた小林君に「このニュース、俺だよ」と告げて驚かせたという。

当時は19〜20歳ほどの一般人だったため、顔は報道されなかった。ただ、父とテレビや雑誌に出たことがあるので、知り合いには誰のことかすぐにわかった。直前に世間を騒がせた失踪事件が一段落してマスコミのネタが途切れていた時期で、ワイドショーも週刊誌も「お祭り騒ぎ」になったと振り返る。

なべやかんは有印私文書偽造で訴えられ、警察の取り調べも受けた。個人の犯行と見られていたが、調べが進むうちに明治大学の組織の問題だとわかり、大学が慌てて訴えを取り下げたという。取り調べでは、書類にサインしただけであることや、成績が悪かった理由、相撲に明け暮れていたことなどを話し、それが調書に書かれた。

父への感情と閉ざされた先行き

聞き手は、望まない進学のせいでマスコミの標的にされたことについて父を恨まなかったかと尋ねた。なべやかんの答えは、怒りはまったくなく、申し訳なかったという気持ちが一番強かった、というものだった。自分が勉強して成城大学に進めていれば、こんなことにはならなかったからだ。

事件後、父のテレビの仕事は一度全滅したという。生放送で真相を話されては困るという理由で、特に生放送には出すなという箝口令が出たとなべやかんは聞いている。『ルックルック』などとんでもない、という状況だった。父の仕事を奪ったことへの申し訳なさに加え、由利徹に憧れて芸能界を目指していた自分も、華やかな世界に入る前に傷がついてしまい、先が真っ暗に感じられたという。

父とは事件について話さず、交わしたのは天気や食事の話くらいだった。なべやかんは今でも父には敬語で話す。父に命じられたわけではなく、怖かったからその癖が抜けないのだという。事件で父が弱くなったかと聞かれると、「人間そんなに変わらない」と答えた。父は反省の言葉も口にしていたが、自分が正しいと思って生きている人なので3日も経てば忘れる、とも話す。なべやかんは、自分のステータスや人脈でこういうことができると誇示したい気持ちがあったのだろう、それが父にとっての常識になっていたのだろう、と推し量った。聞き手の「別に明治大学に行かなくても、浪人させておけばよかったのでは」という言葉にも同意している。

動画はここで、事件の後にどのような経緯で芸人になったのかという問いに入るところで終わっている。芸人としての歩みは、この回では語られていない。