米陸軍少佐ジェレミーが語るアフガニスタンの最前線と帰還後の苦しみ

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概要

YouTubeで「米兵ジェレミー」として発信するジェレミーさんは、38歳の現役アメリカ陸軍軍人である。香川県で育ち、14歳で単身渡米した。大学を経て幹部として入隊し、2012年にはアフガニスタンの最前線で小隊長を務めた。現在は少佐として大隊の副大隊長の職にある。インタビューでは、戦場の実態、仲間の死、帰還後の心の問題、アフガニスタン戦争の結末への思いが語られた。中でも本人が「一番苦しかった」と振り返るのは、自分が命じた攻撃で幼い女の子が負傷した場面だった。

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情報科の仕事と、ウクライナ侵攻の予測

ジェレミーさんの現在の専門は情報科である。本人の説明では、敵の情報を集めて分析し、相手がどんな作戦をとっているか、どんな戦い方をするか、次にどう動くかを割り出して、作戦に役立つ形にする仕事だという。

ロシアのウクライナ侵攻についても、その分析に携わったことがあると話す。侵攻は2022年2月だったが、その約6か月前には「これはやるな」とわかっていたという。情報の集め方には秘密の部分があるとしながら、手法の一つとして宇宙からの撮影や戦車の動きの把握を挙げた。

香川で育った少年時代と、14歳での渡米

ジェレミーさんはカリフォルニア州で生まれた。母親が日本人だったため、4歳ごろに香川県へ引っ越した。父親はイギリス系の白人アメリカ人で、日本では子ども向けに英会話を教えていた。両親が出会ったのは、本人の聞いたところでは大阪あたりだという。母親は介護系の仕事をしながら牛乳配達もこなし、休みなく働いていた。三食に困ることはなかったが、毎年海外旅行に行くような家庭ではなかったと振り返る。きょうだいは妹2人と弟1人で、ジェレミーさんが長男である。

保育園から中学2年まで香川で過ごし、家では父親とも日本語で話した。父親の日本語はそれほど上手ではなかったが、本人が英語を知らなかったためだ。周囲からは「ハーフや」「外人や」とよく言われ、名前も日本風ではなかった。それでもいじめではなく、明るい性格で友達も多かったという。

転機は2001年、中学2年のときに訪れた。アメリカの祖父から、こっちに来て英語を学び、学校に通わないかと誘われた。本人の言葉では「軽いノリ」で行くと決めた。日本の学校はルールや拘束が多く、自分には合わなかった。机にじっと座っていられず、成績もかなり悪かった。一方でサッカー部に入り、体育は大好きだった。

渡米したのは本人だけで、父親の姉にあたる叔母の家で世話になった。両親は反対しなかったが、ジェレミーさんは母親の思いをこう推し量る。日本に残っても良い学校や良い仕事には届かないが、アメリカなら多くのチャンスがある。母親はそれをわかっていたのだろう。若い息子を手放すのは悲しかったはずだ、とも話した。

ミシガンの田舎町で迎えた9.11

移り住んだのはミシガン州のアッパー半島で、カナダとの国境に近いかなりの田舎だった。住民の99%が白人の土地で、英語は話すことも読むこともできなかった。叔母は教育を何より重んじる「スパルタ」な人で、「あなたがアメリカに来たのは英語を学ぶためだ」と言い、厳しく育てた。家には叔父と2人のいとこもいた。

その数か月後に同時多発テロが起きた。中学に入ったばかりのジェレミーさんは、理科の授業中だった。校内放送でテレビをつけるよう指示があり、ビルから煙が上がる映像を見た。「映画を見てるような感じ」で、当時は何が起きたのかよく理解できなかった。叔母が事情をきちんと説明してくれたという。

テロの後、アメリカ陸軍はすぐアフガニスタンに入った。ジェレミーさんによれば、社会の空気は「アメリカのためにもっと頑張ろう」という方向に変わった。約3000人の犠牲を出して、生かしておける相手はいない。それが政府の考えで、国民のほぼ全員が同じ意見だったという。もちろん戦争に絶対反対のアメリカ人もいたが、それより「絶対に許さない」という態度のほうが大きかったと本人は語る。

英語を身につけるには、高校2〜3年までかかった。辞書を引きながら猛勉強したという。学校では友達にも恵まれた。白人でも黒人でもラテン系でもない「和風な顔」が珍しがられ、「面白いやつ」として受け入れられたそうだ。

兵士ではなく幹部を目指して大学へ

軍への憧れは高校時代から持っていた。BBガンや戦車が格好いいと思っていたし、映画『ブラックホーク・ダウン』を見てデルタフォースやレンジャーにも惹かれた。当初は高校卒業後すぐに下士官兵として入隊し、基礎訓練に進むつもりだった。

進路を変えたのは、ある先生の助言だった。成績が良く、運動神経もあるのだから、幹部を目指すクラスがあると教えられた。奨学金も出るので応募してみろと勧められた。軍は下士官兵と幹部で階級が分かれていて、幹部になるには4年制大学の学位が欠かせない。学費のなかったジェレミーさんは奨学金を得て、ミシガン工科大学に進んだ。専攻は数学で、物理も学んだ。高校時代、数学だけは成績がトップだったという。そして大学を卒業したその日に、幹部として任官した。

歩兵将校としての訓練と日常

最初の配属は歩兵だった。銃を持って歩き回り、敵と戦う、一般的な軍人のイメージに近い仕事である。ジョージア州で数か月の基礎訓練を受け、空挺降下と歩兵戦術を学んだ。その後、エリートが集まるレンジャースクールを修了した。2010年のことで、アフガニスタンで戦争が続いていたため、高い確率で派遣されると大学時代からわかっていた。

一日は朝5時半か6時の体力訓練から始まる。シャワー、着替え、朝食の後に再集合し、その週の訓練に入る。射撃訓練の週は射撃場で寝泊まりし、帰宅しない。訓練の中心は戦術の勉強で、朝から晩まで歩兵の戦い方を学んだという。

幹部と下士官兵の差も大きい。幹部は1年目から自分でアパートを借りられるが、下士官兵は兵舎暮らしで、外出禁止や門限、旅行の禁止、服装の規則がある。給料も1年目から大きく違う。ジェレミーさんは、下士官兵の給与の低さが今も大きな問題になっていると話した。

22歳の小隊長として

初めての実戦は入隊2年目だった。最初に配属されたコロラド州の部隊で、翌年2月にアフガニスタンへ行くと告げられた。2012年2月、ジェレミーさんは25〜30人の部下を率いる小隊長として現地に向かった。まだ22歳だった。

部下には何度も実戦を経験したベテランもいたが、階級では小隊長が上になる。階級は絶対で、部下は逆らえない。当然、疎まれることもある。ただしそれは組織の仕組みで、皆が承知しているという。ジェレミーさんが強調したのは小隊長の姿勢だった。「俺の言うことを全部聞け」という態度の人は、絶対に失敗する。自分は小隊長だが、あなたたちの実戦経験から教えてほしい。そのくらいの姿勢でなければ、うまくいかないという。

右腕となる副小隊長は、軍歴15年ほどの下士官だった。厳しい人だったが、非常に頼りになった。ジェレミーさんは、良い副小隊長の仕事は新米の小隊長を絶対に失敗させないことだと説明する。

派遣を告げられたのはレンジャースクール修了から数週間後で、本人は「ついに俺の時間が来た」とやる気に満ちていたと振り返る。戦争に行く前の恐怖は誰にでもある。それでも自分には果たすべき責任がある。部下を全員無事に帰すことが、何よりの気持ちだったという。

クナル州の最前線

派遣先はパキスタンとの国境に近いクナル州で、期間は約10〜11か月だった。タリバンが多く、戦っても相手はパキスタン側に逃げ込む。国境を越えられると米軍は何もできず、翌日には相手がまた戻ってくる。任務はタリバンと戦うことと並行して、村人と話し合うことだった。こうしてほしい、テロリストの言うことを聞いてはいけない、と伝えて回る。その繰り返しで、銃撃戦は「ほぼ毎日」あったという。

現地は山岳地帯のとても貧しい場所で、道路は土、水道はなく、家は泥の壁だった。基地は自分たちで作った。砂袋やボックスに砂を詰めて壁を築き、有刺鉄線を張り、クレイモアを設置した。24時間、必ず誰かが起きていた。最初の5か月はシャワーも風呂もなく、食事は野戦用のものを毎日食べた。自分がどれだけタフか試したい気持ちもあったが、続けるうちにメンタルは落ちていったと話す。

戦争全体で見ると、ジェレミーさんが入った時期は転換点だった。それまでパトロールや任務は100%米軍だけで行っていた。しかし、アフガニスタンの未来のために現地の兵士にも担ってもらおうと、2012年の終わりごろからアフガニスタン軍との共同作戦が始まった。当時はオバマ大統領の時代で、戦争はすでに11年目に入っていた。膨大な費用もかかり、切り上げたいという空気があったが、実際にはそこから何年も続いたと本人は語る。

見えない敵と交戦のルール

テロとの戦いが難しいのは、誰が敵かわからないからだとジェレミーさんは言う。タリバンは制服を着ず、市民に紛れて普通に暮らしている。そして見えないところで武器を取って攻撃してくる。第二次世界大戦ではナチスや日本軍のように敵がはっきりしていたが、テロではそれがわからない。だから戦術もまったく違ってくる。敵を倒せば勝ちという話ではなく、相手の思想を潰さなければ本当の勝利にはならない。それは非常に難しい。結果としてアメリカはアフガニスタンで負けた、というのが本人の見方である。

当時の交戦規定は、撃たれなければ撃ち返さないというものだった。相手がRPGなどの武器を持っていれば攻撃してよかったが、そうした武器を持ち歩くタリバンはあまりいない。ほとんどの場合、撃たれて初めて敵の位置がわかり、そちらへ動いた。撃った相手が市民だったことは「あまりなかった」と話す一方で、「もちろんあった」とも認めている。

実戦と訓練の最大の違いは緊張感だという。アドレナリンが大量に出る。現場はとにかくうるさく、耳栓をする人はいないので耳鳴りが続き、皆が怒鳴り合う。無線を使いながら全速力で動く。ジェレミーさんは、自分の銃で相手を撃ち倒したことは一度もないと話した。敵を倒したのは、自分が無線で呼んだ迫撃砲や、アパッチ・ヘリコプターのヘルファイア・ミサイルによってだった。小隊長の仕事は部隊の統制である。ある分隊に集中射撃させ、その間に別の分隊を回り込ませる、といった指揮を担う。

仲間の死と、副小隊長との殴り合い

小隊は仲間を失った。路肩爆弾で亡くなった人も、撃たれて亡くなった人もいた。ジェレミーさんの友人は、アフガニスタン軍に紛れていた裏切り者に撃たれて死んだ。タリバンが金を払ったのか、その兵士の本心がタリバン側にあったのかはわからないという。

死の覚悟はできていた。ただ、「自分が死んだら終わりだ」という気持ちより、仲間を守る責任のほうが大きかった。仲間は誰かの夫であり、父であり、息子や娘でもある。遺族に合わせる顔がないという辛い思いを、何度もしたという。

ジェレミーさんと副小隊長は、2週間続けて部下を2人失った。そのとき2人は殴り合いの喧嘩になった。ストレスが溜まりすぎて、相手を責め、自分を責め、「お前がこうしたからだ」とぶつかった。ほかの部下が止めに入ったという。どれだけ訓練を積んだ優秀な兵士でも、死ぬときは死ぬ。それでも戦争は翌日も続くので、やるしかなかった。

部隊は10か月単位で交代する。約30人で乗り込んだ小隊は、28人で帰還した。「2人で良かったと言ったら言い方が悪い」と断りつつ、全滅にはならなかったと振り返る。10か月で変えられたのは小さな範囲だった。タリバンがいて住民が苦しんでいた村から彼らを追い出し、村人から感謝された。そうした小さな変化は出せたと話す。

帰還後に訪れた苦しみ

帰国は2012年12月、クリスマスの直前で、ジェレミーさんは23歳になっていた。家族や友人と再会した喜びは、人生で三本の指に入るほどだった。それでも複雑な気持ちが残った。アメリカの人々は平和に暮らしているが、同じ時間に悲惨な状況で戦っているアメリカ人がいることを知らない。自分のしたことが無意味だというのとは違うが、それまで感じたことのない感情だったという。

ジェレミーさんによれば、帰還後に心の中で戦い続け、うつ病になる人は多い。自殺者も多く、アメリカでは今も1日平均22〜30人の軍人が自殺しているという。本人は、戦争から戻った人は人格が変わり、二度と同じ人間としては戻れないと話す。それが本当の戦争で、あまり知られていない真実だという。

本人にもフラッシュバックがある。今も毎日戦争のことを思い出す。ひどく落ち込んだ時期には酒を大量に飲み、趣味も楽しめなくなり、人との関わりを避けた。当時の交際相手に怒鳴ることもあった。彼女のせいではなく、自分の心の整理がつかなかったからだという。その女性が今の妻で、彼女に大きく支えられた。だから本人は、一人で苦しまず、声に出して助けを求めることが大事だと強調する。カウンセリングや心療内科に通う人、薬を飲む人もいれば、酒や薬物に手を出す人もいる。対応の仕方には個人差が大きいと話した。

歩兵から情報科へ、軍に残った理由

アフガニスタンから帰国後、実戦には出ていない。2014年に歩兵から情報科へ転じた。「180度違う仕事」だという。理由は二つあった。歩兵のままでは階級が上がるほどストレスの大きい仕事ばかりになること。そして当時は軍に残るつもりがなかったことだ。情報科の経験があれば、CIAのような民間の情報機関に移りやすいと考えた。軍が嫌になった時期もあり、実際に転職を考えていた。

それでも軍に残ったのは、息子が生まれたからだという。公務員で生活が安定していたうえ、当時の仕事が好きで、仕えた司令官もとても良い人だった。家族ができてからは、絶対に死ねないという気持ちが強くなった。同時に、自分の帰りを待つ人がいることで子どもから力をもらっている。父として、夫としての自分のほうが大事だと本人は話す。

大統領と軍、アフガニスタン戦争の結末

大統領が民主党か共和党かで、軍の組織規模などは大きく変わる。ただし軍の中が右と左に分かれることはないとジェレミーさんは言う。軍は最高司令官である大統領に忠誠を誓っていて、誰が大統領でも命令は命令だ。頼まれているのではなく、命令されている。軍の役目は二つしかない。戦争に行って勝つこと、そして戦争のないときはそのための準備と訓練をすることだ。だから大統領が誰かはあまり関係ない、というのが本人の説明だった。

2021年に戦争が終わり、タリバンが戻ってきたことについて、ジェレミーさんは予想していたと話す。アフガニスタン軍だけでタリバンを追い出すのは無理で、多くの軍人も内心ではそうわかっていたはずだという。共同で任務にあたったアフガニスタン軍の印象は「弱すぎて何もできない」で、これでは絶対に負けると感じたと率直に語った。

結末を見て抱いたのは悲しさだった。自分のしたことは無意味だったのか、という思いがあった。人生で最も楽しいはずの20代前半を、アフガニスタンでの戦闘とそのための訓練に費やした。仲間も失った。軍人として戦争には勝たなければならない。その結果を出せなかったことを、一人の兵士として残念に思っていると話した。

副大隊長の仕事と、20年後の引退

現在の階級は少佐で、大隊の副大隊長(XO)を務める。小隊は約30人、中隊は約100人、大隊は約400人で、ジェレミーさんの大隊には中隊が4つある。副大隊長になったからといって大隊長になれるとは限らない。大隊長は優秀な人が選抜されてなる職で、全責任を負う。大隊が成功すれば皆のおかげ、失敗すれば大隊長のせいになる。

副大隊長は、ある意味で大隊長よりストレスの大きい仕事だという。大隊長が「こういう任務をしたい」「こういう訓練をしたい」と言えば、それを計画に落とし込み、兵站を含めて形にするのが副大隊長の役目である。消耗が激しいことは軍も承知していて、任期はおおむね2年と決まっている。ジェレミーさんは18か月目で、「もうちょっとしかエネルギーがない」と笑い、あと半年で別の職に移る予定だと話した。

軍は20年勤めれば退職でき、ジェレミーさんは5年後、43歳で引退するつもりだ。本人は軍を「若者がやる仕事」だと言う。30代後半から40代になって続ける人もいるが、それはごく一部で、多くは3〜6年で辞めるか、20年で退職するという。20年勤めれば最後の給料の50%が年金として生涯支払われる。本人はもう一階級上がって中佐になれる見込みだと話し、そうなれば生活に困ることはないという。さらに、長く勤めれば体に障害が残る。ジェレミーさんも耳がほとんど聞こえず、それに対する補償も上乗せされる。アメリカは軍人をとても大切にする国だと本人は語る。

引退後は、軍や政府、情報関係とはまったく違う仕事として牧場を経営したいという。馬が好きな妻のためでもある。軍が嫌いになったわけではない。もっとゆっくりしたペースで、家族や地域の人と一緒に暮らしたい、と話した。

日本語で発信する理由

YouTubeチャンネル「米兵ジェレミー」では、主に銃の紹介や実体験の話を面白く伝えている。日本語で始めたのは、同じ内容を英語で発信する人は銃大国アメリカに何百人もいるが、日本語ではほとんどいないからだ。自分は日本語を話せるので成功できるのではないかと考え、やがて動画作り自体が楽しくなったという。

アフガニスタンでの体験を語る動画は、ほかと少し毛色が違う。実戦を経験した人の動画はあまりないので、自分にしかできないと考えた。こういう人もいる、本当の戦争はこういうものだと伝えたかったという。

日本は豊かで平和な国で、それ自体は素晴らしいとジェレミーさんは言う。しかし戦争を知らずに育ち、「戦争はやらない」という考えだけで生きていると心配になるという。他国で起きる戦争が日本にどんな悪影響を及ぼすかを把握していないからだ。本人は中国と台湾の対立が2027年ごろに高い確率で起きると見ている。そのとき日本がどう対応し、国民にどんな影響が出るのかを把握しておかなければ危ない、と警告した。

忘れられない一件

それでも、戦争はやらないほうがいいとジェレミーさんは繰り返す。信じられないほど残酷で、勝った国でも負けた国でも最も被害を受けるのは無実の市民だ。「ある意味、勝者は出ない」と本人は言う。

その考えの根にあるのが、ある任務での出来事だった。部隊はある家から撃たれていた。タリバンがその家から撃っていたことは確実だった。しかしタリバンは、自分の家族を人間の盾のように使うことがある。子どもや妻を中に置いておけば、米軍は撃てないとわかっているからだ。ジェレミーさんは中に子どもがいることを知らないまま、ヘリコプターからヘルファイア・ミサイルを撃ち込むよう命じた。

戦闘後に家を確認しに行くと、タリバンの男は倒れていたが、家の中には家族がいた。4〜5歳の女の子が負傷して悲鳴を上げて泣いていた。命は助かった。そばには母親と兄がいて、混乱の中で叫んでいた。部隊の衛生兵が手当てをし、ブラックホークで病院へ運んだ。

ジェレミーさんが「一番苦しかった」と語るのは、そのときの兄の表情だった。小学4〜5年生くらいの少年から見れば、妹はアメリカ兵に傷つけられたことになる。パニックに陥っていた少年の顔が、アメリカへの憎しみに変わっていく。ジェレミーさんはその瞬間を目の前で見た。知らなかったとはいえ、ミサイルを撃ち込むよう命じたのは自分で、自分のせいだという。その罪悪感を一生抱えて生きていくしかない、とジェレミーさんは語った。

こうしたことを続けていれば、敵を倒しながら新たな敵をつくることになる。あの少年も憎しみを抱き、いずれ新たな敵になるかもしれない。その繰り返しで、本当の勝者はいない。ジェレミーさんはそう語り、インタビューを終えた。