米陸軍少佐ジェレミーが語るアフガニスタンの最前線と帰還後の苦しみ
街録ch〜あなたの人生、教えて下さい〜YouTubeで「米兵ジェレミー」として発信するジェレミーさんは、38歳の現役アメリカ陸軍軍人である。香川県で育ち、14歳で単身渡米した。大学を経て幹部として入隊し、2012年にはアフガニスタンの最前線で小隊長を務めた。現在は少佐として大隊の副大隊長の職にある。インタビューでは、戦場の実態、仲間の死、帰還後の心の問題、アフガニスタン戦争の結末への思いが語られた。中でも本人が「一番苦しかった」と振り返るのは、自分が命じた攻撃で幼い女の子が負傷した場面だった。
情報科の仕事と、ウクライナ侵攻の予測
ジェレミーさんの現在の専門は情報科である。本人の説明では、敵の情報を集めて分析し、相手がどんな作戦をとっているか、どんな戦い方をするか、次にどう動くかを割り出して、作戦に役立つ形にする仕事だという。
ロシアのウクライナ侵攻についても、その分析に携わったことがあると話す。侵攻は2022年2月だったが、その約6か月前には「これはやるな」とわかっていたという。情報の集め方には秘密の部分があるとしながら、手法の一つとして宇宙からの撮影や戦車の動きの把握を挙げた。
香川で育った少年時代と、14歳での渡米
ジェレミーさんはカリフォルニア州で生まれた。母親が日本人だったため、4歳ごろに香川県へ引っ越した。父親はイギリス系の白人アメリカ人で、日本では子ども向けに英会話を教えていた。両親が出会ったのは、本人の聞いたところでは大阪あたりだという。母親は介護系の仕事をしながら牛乳配達もこなし、休みなく働いていた。三食に困ることはなかったが、毎年海外旅行に行くような家庭ではなかったと振り返る。きょうだいは妹2人と弟1人で、ジェレミーさんが長男である。
保育園から中学2年まで香川で過ごし、家では父親とも日本語で話した。父親の日本語はそれほど上手ではなかったが、本人が英語を知らなかったためだ。周囲からは「ハーフや」「外人や」とよく言われ、名前も日本風ではなかった。それでもいじめではなく、明るい性格で友達も多かったという。
転機は2001年、中学2年のときに訪れた。アメリカの祖父から、こっちに来て英語を学び、学校に通わないかと誘われた。本人の言葉では「軽いノリ」で行くと決めた。日本の学校はルールや拘束が多く、自分には合わなかった。机にじっと座っていられず、成績もかなり悪かった。一方でサッカー部に入り、体育は大好きだった。
渡米したのは本人だけで、父親の姉にあたる叔母の家で世話になった。両親は反対しなかったが、ジェレミーさんは母親の思いをこう推し量る。日本に残っても良い学校や良い仕事には届かないが、アメリカなら多くのチャンスがある。母親はそれをわかっていたのだろう。若い息子を手放すのは悲しかったはずだ、とも話した。
ミシガンの田舎町で迎えた9.11
移り住んだのはミシガン州のアッパー半島で、カナダとの国境に近いかなりの田舎だった。住民の99%が白人の土地で、英語は話すことも読むこともできなかった。叔母は教育を何より重んじる「スパルタ」な人で、「あなたがアメリカに来たのは英語を学ぶためだ」と言い、厳しく育てた。家には叔父と2人のいとこもいた。
その数か月後に同時多発テロが起きた。中学に入ったばかりのジェレミーさんは、理科の授業中だった。校内放送でテレビをつけるよう指示があり、ビルから煙が上がる映像を見た。「映画を見てるような感じ」で、当時は何が起きたのかよく理解できなかった。叔母が事情をきちんと説明してくれたという。
テロの後、アメリカ陸軍はすぐアフガニスタンに入った。ジェレミーさんによれば、社会の空気は「アメリカのためにもっと頑張ろう」という方向に変わった。約3000人の犠牲を出して、生かしておける相手はいない。それが政府の考えで、国民のほぼ全員が同じ意見だったという。もちろん戦争に絶対反対のアメリカ人もいたが、それより「絶対に許さない」という態度のほうが大きかったと本人は語る。
英語を身につけるには、高校2〜3年までかかった。辞書を引きながら猛勉強したという。学校では友達にも恵まれた。白人でも黒人でもラテン系でもない「和風な顔」が珍しがられ、「面白いやつ」として受け入れられたそうだ。
兵士ではなく幹部を目指して大学へ
軍への憧れは高校時代から持っていた。BBガンや戦車が格好いいと思っていたし、映画『ブラックホーク・ダウン』を見てデルタフォースやレンジャーにも惹かれた。当初は高校卒業後すぐに下士官兵として入隊し、基礎訓練に進むつもりだった。
進路を変えたのは、ある先生の助言だった。成績が良く、運動神経もあるのだから、幹部を目指すクラスがあると教えられた。奨学金も出るので応募してみろと勧められた。軍は下士官兵と幹部で階級が分かれていて、幹部になるには4年制大学の学位が欠かせない。学費のなかったジェレミーさんは奨学金を得て、ミシガン工科大学に進んだ。専攻は数学で、物理も学んだ。高校時代、数学だけは成績がトップだったという。そして大学を卒業したその日に、幹部として任官した。
歩兵将校としての訓練と日常
最初の配属は歩兵だった。銃を持って歩き回り、敵と戦う、一般的な軍人のイメージに近い仕事である。ジョージア州で数か月の基礎訓練を受け、空挺降下と歩兵戦術を学んだ。その後、エリートが集まるレンジャースクールを修了した。2010年のことで、アフガニスタンで戦争が続いていたため、高い確率で派遣されると大学時代からわかっていた。
一日は朝5時半か6時の体力訓練から始まる。シャワー、着替え、朝食の後に再集合し、その週の訓練に入る。射撃訓練の週は射撃場で寝泊まりし、帰宅しない。訓練の中心は戦術の勉強で、朝から晩まで歩兵の戦い方を学んだという。
幹部と下士官兵の差も大きい。幹部は1年目から自分でアパートを借りられるが、下士官兵は兵舎暮らしで、外出禁止や門限、旅行の禁止、服装の規則がある。給料も1年目から大きく違う。ジェレミーさんは、下士官兵の給与の低さが今も大きな問題になっていると話した。
22歳の小隊長として
初めての実戦は入隊2年目だった。最初に配属されたコロラド州の部隊で、翌年2月にアフガニスタンへ行くと告げられた。2012年2月、ジェレミーさんは25〜30人の部下を率いる小隊長として現地に向かった。まだ22歳だった。
部下には何度も実戦を経験したベテランもいたが、階級では小隊長が上になる。階級は絶対で、部下は逆らえない。当然、疎まれることもある。ただしそれは組織の仕組みで、皆が承知しているという。ジェレミーさんが強調したのは小隊長の姿勢だった。「俺の言うことを全部聞け」という態度の人は、絶対に失敗する。自分は小隊長だが、あなたたちの実戦経験から教えてほしい。そのくらいの姿勢でなければ、うまくいかないという。
右腕となる副小隊長は、軍歴15年ほどの下士官だった。厳しい人だったが、非常に頼りになった。ジェレミーさんは、良い副小隊長の仕事は新米の小隊長を絶対に失敗させないことだと説明する。
派遣を告げられたのはレンジャースクール修了から数週間後で、本人は「ついに俺の時間が来た」とやる気に満ちていたと振り返る。戦争に行く前の恐怖は誰にでもある。それでも自分には果たすべき責任がある。部下を全員無事に帰すことが、何よりの気持ちだったという。
クナル州の最前線
派遣先はパキスタンとの国境に近いクナル州で、期間は約10〜11か月だった。タリバンが多く、戦っても相手はパキスタン側に逃げ込む。国境を越えられると米軍は何もできず、翌日には相手がまた戻ってくる。任務はタリバンと戦うことと並行して、村人と話し合うことだった。こうしてほしい、テロリストの言うことを聞いてはいけない、と伝えて回る。その繰り返しで、銃撃戦は「ほぼ毎日」あったという。
現地は山岳地帯のとても貧しい場所で、道路は土、水道はなく、家は泥の壁だった。基地は自分たちで作った。砂袋やボックスに砂を詰めて壁を築き、有刺鉄線を張り、クレイモアを設置した。24時間、必ず誰かが起きていた。最初の5か月はシャワーも風呂もなく、食事は野戦用のものを毎日食べた。自分がどれだけタフか試したい気持ちもあったが、続けるうちにメンタルは落ちていったと話す。
戦争全体で見ると、ジェレミーさんが入った時期は転換点だった。それまでパトロールや任務は100%米軍だけで行っていた。しかし、アフガニスタンの未来のために現地の兵士にも担ってもらおうと、2012年の終わりごろからアフガニスタン軍との共同作戦が始まった。当時はオバマ大統領の時代で、戦争はすでに11年目に入っていた。膨大な費用もかかり、切り上げたいという空気があったが、実際にはそこから何年も続いたと本人は語る。
見えない敵と交戦のルール
テロとの戦いが難しいのは、誰が敵かわからないからだとジェレミーさんは言う。タリバンは制服を着ず、市民に紛れて普通に暮らしている。そして見えないところで武器を取って攻撃してくる。第二次世界大戦ではナチスや日本軍のように敵がはっきりしていたが、テロではそれがわからない。だから戦術もまったく違ってくる。敵を倒せば勝ちという話ではなく、相手の思想を潰さなければ本当の勝利にはならない。それは非常に難しい。結果としてアメリカはアフガニスタンで負けた、というのが本人の見方である。
当時の交戦規定は、撃たれなければ撃ち返さないというものだった。相手がRPGなどの武器を持っていれば攻撃してよかったが、そうした武器を持ち歩くタリバンはあまりいない。ほとんどの場合、撃たれて初めて敵の位置がわかり、そちらへ動いた。撃った相手が市民だったことは「あまりなかった」と話す一方で、「もちろんあった」とも認めている。
実戦と訓練の最大の違いは緊張感だという。アドレナリンが大量に出る。現場はとにかくうるさく、耳栓をする人はいないので耳鳴りが続き、皆が怒鳴り合う。無線を使いながら全速力で動く。ジェレミーさんは、自分の銃で相手を撃ち倒したことは一度もないと話した。敵を倒したのは、自分が無線で呼んだ迫撃砲や、アパッチ・ヘリコプターのヘルファイア・ミサイルによってだった。小隊長の仕事は部隊の統制である。ある分隊に集中射撃させ、その間に別の分隊を回り込ませる、といった指揮を担う。
仲間の死と、副小隊長との殴り合い
小隊は仲間を失った。路肩爆弾で亡くなった人も、撃たれて亡くなった人もいた。ジェレミーさんの友人は、アフガニスタン軍に紛れていた裏切り者に撃たれて死んだ。タリバンが金を払ったのか、その兵士の本心がタリバン側にあったのかはわからないという。
死の覚悟はできていた。ただ、「自分が死んだら終わりだ」という気持ちより、仲間を守る責任のほうが大きかった。仲間は誰かの夫であり、父であり、息子や娘でもある。遺族に合わせる顔がないという辛い思いを、何度もしたという。
ジェレミーさんと副小隊長は、2週間続けて部下を2人失った。そのとき2人は殴り合いの喧嘩になった。ストレスが溜まりすぎて、相手を責め、自分を責め、「お前がこうしたからだ」とぶつかった。ほかの部下が止めに入ったという。どれだけ訓練を積んだ優秀な兵士でも、死ぬときは死ぬ。それでも戦争は翌日も続くので、やるしかなかった。
部隊は10か月単位で交代する。約30人で乗り込んだ小隊は、28人で帰還した。「2人で良かったと言ったら言い方が悪い」と断りつつ、全滅にはならなかったと振り返る。10か月で変えられたのは小さな範囲だった。タリバンがいて住民が苦しんでいた村から彼らを追い出し、村人から感謝された。そうした小さな変化は出せたと話す。
帰還後に訪れた苦しみ
帰国は2012年12月、クリスマスの直前で、ジェレミーさんは23歳になっていた。家族や友人と再会した喜びは、人生で三本の指に入るほどだった。それでも複雑な気持ちが残った。アメリカの人々は平和に暮らしているが、同じ時間に悲惨な状況で戦っているアメリカ人がいることを知らない。自分のしたことが無意味だというのとは違うが、それまで感じたことのない感情だったという。
ジェレミーさんによれば、帰還後に心の中で戦い続け、うつ病になる人は多い。自殺者も多く、アメリカでは今も1日平均22〜30人の軍人が自殺しているという。本人は、戦争から戻った人は人格が変わり、二度と同じ人間としては戻れないと話す。それが本当の戦争で、あまり知られていない真実だという。
本人にもフラッシュバックがある。今も毎日戦争のことを思い出す。ひどく落ち込んだ時期には酒を大量に飲み、趣味も楽しめなくなり、人との関わりを避けた。当時の交際相手に怒鳴ることもあった。彼女のせいではなく、自分の心の整理がつかなかったからだという。その女性が今の妻で、彼女に大きく支えられた。だから本人は、一人で苦しまず、声に出して助けを求めることが大事だと強調する。カウンセリングや心療内科に通う人、薬を飲む人もいれば、酒や薬物に手を出す人もいる。対応の仕方には個人差が大きいと話した。
歩兵から情報科へ、軍に残った理由
アフガニスタンから帰国後、実戦には出ていない。2014年に歩兵から情報科へ転じた。「180度違う仕事」だという。理由は二つあった。歩兵のままでは階級が上がるほどストレスの大きい仕事ばかりになること。そして当時は軍に残るつもりがなかったことだ。情報科の経験があれば、CIAのような民間の情報機関に移りやすいと考えた。軍が嫌になった時期もあり、実際に転職を考えていた。
それでも軍に残ったのは、息子が生まれたからだという。公務員で生活が安定していたうえ、当時の仕事が好きで、仕えた司令官もとても良い人だった。家族ができてからは、絶対に死ねないという気持ちが強くなった。同時に、自分の帰りを待つ人がいることで子どもから力をもらっている。父として、夫としての自分のほうが大事だと本人は話す。
大統領と軍、アフガニスタン戦争の結末
大統領が民主党か共和党かで、軍の組織規模などは大きく変わる。ただし軍の中が右と左に分かれることはないとジェレミーさんは言う。軍は最高司令官である大統領に忠誠を誓っていて、誰が大統領でも命令は命令だ。頼まれているのではなく、命令されている。軍の役目は二つしかない。戦争に行って勝つこと、そして戦争のないときはそのための準備と訓練をすることだ。だから大統領が誰かはあまり関係ない、というのが本人の説明だった。
2021年に戦争が終わり、タリバンが戻ってきたことについて、ジェレミーさんは予想していたと話す。アフガニスタン軍だけでタリバンを追い出すのは無理で、多くの軍人も内心ではそうわかっていたはずだという。共同で任務にあたったアフガニスタン軍の印象は「弱すぎて何もできない」で、これでは絶対に負けると感じたと率直に語った。
結末を見て抱いたのは悲しさだった。自分のしたことは無意味だったのか、という思いがあった。人生で最も楽しいはずの20代前半を、アフガニスタンでの戦闘とそのための訓練に費やした。仲間も失った。軍人として戦争には勝たなければならない。その結果を出せなかったことを、一人の兵士として残念に思っていると話した。
副大隊長の仕事と、20年後の引退
現在の階級は少佐で、大隊の副大隊長(XO)を務める。小隊は約30人、中隊は約100人、大隊は約400人で、ジェレミーさんの大隊には中隊が4つある。副大隊長になったからといって大隊長になれるとは限らない。大隊長は優秀な人が選抜されてなる職で、全責任を負う。大隊が成功すれば皆のおかげ、失敗すれば大隊長のせいになる。
副大隊長は、ある意味で大隊長よりストレスの大きい仕事だという。大隊長が「こういう任務をしたい」「こういう訓練をしたい」と言えば、それを計画に落とし込み、兵站を含めて形にするのが副大隊長の役目である。消耗が激しいことは軍も承知していて、任期はおおむね2年と決まっている。ジェレミーさんは18か月目で、「もうちょっとしかエネルギーがない」と笑い、あと半年で別の職に移る予定だと話した。
軍は20年勤めれば退職でき、ジェレミーさんは5年後、43歳で引退するつもりだ。本人は軍を「若者がやる仕事」だと言う。30代後半から40代になって続ける人もいるが、それはごく一部で、多くは3〜6年で辞めるか、20年で退職するという。20年勤めれば最後の給料の50%が年金として生涯支払われる。本人はもう一階級上がって中佐になれる見込みだと話し、そうなれば生活に困ることはないという。さらに、長く勤めれば体に障害が残る。ジェレミーさんも耳がほとんど聞こえず、それに対する補償も上乗せされる。アメリカは軍人をとても大切にする国だと本人は語る。
引退後は、軍や政府、情報関係とはまったく違う仕事として牧場を経営したいという。馬が好きな妻のためでもある。軍が嫌いになったわけではない。もっとゆっくりしたペースで、家族や地域の人と一緒に暮らしたい、と話した。
日本語で発信する理由
YouTubeチャンネル「米兵ジェレミー」では、主に銃の紹介や実体験の話を面白く伝えている。日本語で始めたのは、同じ内容を英語で発信する人は銃大国アメリカに何百人もいるが、日本語ではほとんどいないからだ。自分は日本語を話せるので成功できるのではないかと考え、やがて動画作り自体が楽しくなったという。
アフガニスタンでの体験を語る動画は、ほかと少し毛色が違う。実戦を経験した人の動画はあまりないので、自分にしかできないと考えた。こういう人もいる、本当の戦争はこういうものだと伝えたかったという。
日本は豊かで平和な国で、それ自体は素晴らしいとジェレミーさんは言う。しかし戦争を知らずに育ち、「戦争はやらない」という考えだけで生きていると心配になるという。他国で起きる戦争が日本にどんな悪影響を及ぼすかを把握していないからだ。本人は中国と台湾の対立が2027年ごろに高い確率で起きると見ている。そのとき日本がどう対応し、国民にどんな影響が出るのかを把握しておかなければ危ない、と警告した。
忘れられない一件
それでも、戦争はやらないほうがいいとジェレミーさんは繰り返す。信じられないほど残酷で、勝った国でも負けた国でも最も被害を受けるのは無実の市民だ。「ある意味、勝者は出ない」と本人は言う。
その考えの根にあるのが、ある任務での出来事だった。部隊はある家から撃たれていた。タリバンがその家から撃っていたことは確実だった。しかしタリバンは、自分の家族を人間の盾のように使うことがある。子どもや妻を中に置いておけば、米軍は撃てないとわかっているからだ。ジェレミーさんは中に子どもがいることを知らないまま、ヘリコプターからヘルファイア・ミサイルを撃ち込むよう命じた。
戦闘後に家を確認しに行くと、タリバンの男は倒れていたが、家の中には家族がいた。4〜5歳の女の子が負傷して悲鳴を上げて泣いていた。命は助かった。そばには母親と兄がいて、混乱の中で叫んでいた。部隊の衛生兵が手当てをし、ブラックホークで病院へ運んだ。
ジェレミーさんが「一番苦しかった」と語るのは、そのときの兄の表情だった。小学4〜5年生くらいの少年から見れば、妹はアメリカ兵に傷つけられたことになる。パニックに陥っていた少年の顔が、アメリカへの憎しみに変わっていく。ジェレミーさんはその瞬間を目の前で見た。知らなかったとはいえ、ミサイルを撃ち込むよう命じたのは自分で、自分のせいだという。その罪悪感を一生抱えて生きていくしかない、とジェレミーさんは語った。
こうしたことを続けていれば、敵を倒しながら新たな敵をつくることになる。あの少年も憎しみを抱き、いずれ新たな敵になるかもしれない。その繰り返しで、本当の勝者はいない。ジェレミーさんはそう語り、インタビューを終えた。
よろしくお願いします。と申します。よろしくお願いします。です。
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応募をいただきまして、ジェレミーさんから。はい。現役米陸軍軍人なんですね。そうです。現役で働いてます。今も勤めてます。ちゃんと毎日。
現在はどういう仕事されてるんですか?今まで情報科って言って、簡単に言うと敵の情報を調べて情報分析して、役に立つものに。相手の作戦はこんなことをやってるとか、相手はこういった戦い方をするとか、次はこのような行動をするとかね、そういった相手の情報を調べるお仕事ですね。
ウクライナだとかでも戦争あるじゃないですか。はい。部隊の一人としてそれをやってるって感じなんですか?あ、それもやったことありますね。はっきり言って分かってたんですよ。はい。ロシアがウクライナに入るなっていうのは数か月前には。ほうほう。で、ロシアがウクライナに入ったのは2022年の2月だったんですね。はい。6ヶ月前ぐらいには多分これはやるなっていうことは分かってました。そういった、相手がどういった行動するのかを先にね、調べていくとか。
どんな情報を集めていくって感じなんですか?言える範囲でいいんですけど。はい。集め方とかテクニックはちょっと秘密な部分もあるんですけど、宇宙から写真を撮ったりとか、相手の戦車が来たりとか。1つのやり方ですけど、色々あるんですけどね。はい。これは絶対にやる、ロシアは入るなってことは分かってました。
過去にアフガニスタンで実戦に。そうですね、2012年の時はアフガニスタンで戦ってましたね。約10ヶ月、11ヶ月ぐらい、パキスタンとの国境のすぐそこのクルナ州っていう場所でずっと戦ってました。うん。激戦地域というか。そうですね。最前線というイメージ。そうですね。
クルナ州はそこにとりあえずタリバンがたくさんいて、はい。戦ってパキスタンに逃げていって、パキスタンに入ったら軍はもう何もできないから。へえ。ほんで、また次の日にアフガニスタンに戻ってきて、その連中と戦って。任務はもうただ単にタリバンと戦い、敵を倒してる。
それをやってると同時に、アフガニスタンって村が多いんですよね。村民と色々話し合って、もっとこうしてくださいとか、テロリストの言うこと聞いたらダメですよとか言ってね。それの繰り返しです、ほとんど。へえ。現地で銃撃戦とかは、もうほぼ毎日やってましたね。
やっぱりもう、その程度で敵兵を殺すってことはもう日常なんですか?日常ほどはないんですけど、確かに敵をやっつけてましたね。確実に。
軍人になる前から聞いていきたいんですけど。はい。ジェレミーさん、今何歳なんですか?今は38歳ですね。38歳。はい。出身はアメリカですか?アメリカ生まれですね。カリフォルニア州で生まれてですね。で、僕4歳ぐらいの時に、僕の母親が日本人っていうことで、日本の四国の香川県に、うん、引っ越ししてきましたね。
お父さんがアメリカ人で。母親が日本人です。日本人。はい。お父さんって何系?アメリカ人みたいのあるじゃないですか。ありますね。うちの親父は普通の白人、ド白人で、イギリスから来た。うん、うん。へえ。そうですね。
お母さんとはどこで出会ったんですか?出会ったのはどこだったかな?多分大阪あたりだったとは聞いてますね。へえ。はい。当時お父さんは仕事は何されてたんですか?英語教えてましたね。英会話を子供に。へえ。
お母さんはずっと働いてたんですか?働いてましたね。むちゃくちゃ働いてました。介護系ですよね。ものすごい貧乏というか貧しい日々だったらね、牛乳配達とかやってましたね。へえ。はい。3食の飯はちゃんと食ってたけど、海外旅行に毎年行くとかそんなのはなかったですね。
なるほど。兄弟いるんですか?兄弟、妹2人、弟1人。僕が1番上で。はい。育ったのはバリバリ日本。日本ですね。もう保育所、小学校、中学校2年生まで日本の香川県で過ごしました。
言語で言うと、子供の時とかって日本語で普通にご両親とかと話すんですか?はい。日本語です。お父さんも日本語で話してました。うちのお父さん日本語がそんなにうまくないんですけど、僕は英語を当時知らなかったんで、日本語でって時は。
その当時は自分だけ見た目違うなとかもやっぱり。あ、言われてましたよ。なんかみんなにハーフや、ハーフやとか、外人や、外人やってよく言われてましたね。名前も僕、日本の名前じゃないから、そういう面ではなんか結構言われてました。ああ。はい。別にいじめってわけじゃない。いじめとかなかったです。僕は友達がたくさんいて性格的に明るいんで、もう普通にみんなと遊んでましたよ。やんちゃで。はい。
中学2年生の時ですね。これ2001年の話なんですけど、その時にアメリカに戻りましたね。それはお父さんの仕事で?いや、違うんですよ。僕の祖父、アメリカの白人のおじいちゃんが、アメリカに戻ってきてこっちで英語学んで学校行きたいかって聞かれたんですよ。
で、僕、当時14歳の子供やったんで、もう結構軽いノリで、あ、それいいねって、それやろうって感じで。で、僕、日本の教育の制度とあんまり性格が合わなかったとか、へえ。決して勉強ができたとかそういうのじゃなかったんで、じゃあ行こうかなって感じで軽いノリで行ったのが始まりですね。へえ。はい。
日本のちょっと、みんな一緒に席に座って、詰め込み型みたいなのが合わなかったという。合わなかったですね。やっぱり日本の学校ってルールとか拘束がものすごくたくさんあるじゃないですか。ちゃんと机に座ってなかったりで。うん。その辺で色々ね、先生方と揉めたとかじゃないんですけど、まず勉強とか成績がものすごく悪かったすね。ああ、そうなんですか。うん。でもスポーツとかはちゃんとやってたんですよ。
部活とかにもちゃんと入って。何部でした?サッカー部でした。あ、サッカー部。サッカー部大好きでしたね。運動神経はずっと良かったんですか?運動神経は良かった方ですね。はい。体育大好きでしたよ。へえ。
家族全員で帰国するんですか?いや、違う。僕だけなんですよ。あ、そうなんですか。14歳で僕たった1人でアメリカの方に戻って、親戚の僕のおばですね、僕のお父さんの姉になる方の家に引っ越しして、面倒見てもらいました。
それはご両親も、あ、いいんじゃないみたいな。行きたかったら行ったらいいんじゃない。そう、そんな感じです。はい。自由にさせてくれるような結構ご両親。うん。その面もあると思うんですけど、やっぱり僕の母親が多分分かってたと思うんですね。僕は日本に残ってたらいい成績とか、いい学校には行けないとか、いい仕事につけないから、もっとアメリカに行ったらいろんなチャンスがあるからって、多分母親が分かってたと思うんですよ。心で。母親的に若い年齢で手放すのはちょっと悲しい気持ちだと思うことは伝わります。ですよね。しかもそれを日本人のお母さんが言ってくれるですね。
2001年ですよね。アメリカのテロはどっちですか?同時多発テロ事件の数ヶ月前ですね。あ、前。前ですね。だからテロ事件を見たのはアメリカで見ましたね。9月に。もう中学校入学してすぐですね、ニュースになったのが。
まずアメリカに来た時点でかなりのカルチャーショックあるんじゃないですか?ありましたね。僕がアメリカに引っ越した州がミシガン州なんですね。アッパー半島って、上の北の、もうすぐカナダと一緒ぐらいのところにね、ものすごい田舎なんすよ。その時は英語が喋れなかったし、読めなかったし。うんうん。その面では結構辛い時もありましたよ。そっか。
はい。でも良かったのが、僕のおばがものすごくスパルタな人だったんですね。もうものすごく教育を大事にする人で。はい。僕に、あなたがアメリカに来た理由は英語を学んで勉強するためですって言ったから、ものすごく厳しい生活を送りました。へえ。それおばさんとあとおじさんも一緒に。おじさんもです。3人で。あといとこがいました。うん。いとこ2人。
そういうカルチャーショック受けながら、同時多発テロみたいなことじゃないですか。はい。で、それまでの日本って、そんなこと香川では。ない。まずないですね。はい。
どんな気持ちになるんですか?それって見て。まずね、よく言われるのが、みんなそのテロが最初ニュースにパッて出た時にいた場所を覚えてるって。僕ももちろんそうで、本当映画を見てるような感じで。僕は教室でね、理科の授業中だったんですね。ほんなら急にスピーカーからアナウンスが来て、皆さんテレビをつけてくださいみたいな感じで、パッてテレビ見たのが、もうそのビルから煙がバーって出てたのが最初に見たシーンですね。
当時あんまり理解できなかったんですよ。でもうちのおばがこういうことがあって、こういうことがあったんだよってちゃんと説明してくれました。ああ、要はそこまでのその世界の情勢というか。はい。
テロがあってから戦争が始まるんでしたっけ?そうですね。2001年すぐアフガニスタンに、アメリカ陸軍は乗り込みましたね。はい。国の中で戦争が始まった時って、市民としての空気感みたいなのも変わったなって感じるんですか?ちょっと変わりますね。やっぱりみんなもっとアメリカのためにもっと頑張ろうみたいな、そういった感じに空気が変わってましたね。うん。まあ場所によるんですけど。へえ。
同時多発テロで亡くなった方、3000人ほどいるんですね。やっぱりアメリカ人を3000人も殺しといて生かしておくやつは絶対にない。それがアメリカの政府の考え方なんで、絶対退治してやろうっていうのがほぼ全員の国民の意見でしたね。それはもちろんね、戦争が絶対反対っていうアメリカ人もいますけど、それよりも絶対許さんぞっていう態度が大きかったですね。なるほど。じゃ、みんなでこう頑張ってアメリカを応援しようっていうムードが漂うっていうか。そうですね。
中学出て高校もアメリカの。そうですね。アメリカの高校行きました。どれぐらいで英語はマスターしたんですか?英語はね、大体高校生の2年か3年ぐらいですね。結構かかりましたよ。あ。昔はやっぱり辞書引いて勉強とかしてましたよ、ものすごく。
学校とかで友達とかってできるんですか?できますよ。友達は普通にいました。僕は性格が明るい感じだし。友達も、なんやこいつアジア人みたいな、日本人やって面白いみたいな感覚で遊んでくれました。ハーフなので、なんて言うの、白人とルックスが違うし、黒人でもないし、ラテン系でもない。ちょっとなんかこいつは和風な顔してるなっていう感じ。へえ。面白い感覚で。
ジェレミーさんがアメリカ行ったら和風ってなるんですね。和風ってなります。僕が住んでた場所がもう99%白人の場所だったんですね。だからもうちょっとでもルックスが違ったらすぐみんな分かるんですよ。
へえ。どのタイミングで軍隊に入りたいなって思うんですか?そうですね、高校生の時に。10代とかで憧れてたんですね、やっぱり。BB弾とかさ、銃系はただ単にあ、それかっこいいなとか、うん。戦車とかかっこいいなと思って憧れもあったし、高校生の時に『ブラックホーク・ダウン』って映画知ってますか?ヘリコプターが落ちた映画で、ものすごくあの人たちかっこいいな。デルタフォースとかさ、レンジャーズもすごくかっこいいなって憧れで、そのまま高校を卒業して大学行って、その大学卒業した後、軍に入りましたね。へえ。はい。
軍隊は大卒じゃないと入れないんですか?いや、違いますよ。軍って階級が違うんですね。士官と下士官で分かれるんですよ。幹部と下の階級に分かれるんですけど。で、僕は最初はね、高校卒業後、入隊しようと決めてたんですよ。そのまま普通に下士官になろうと。ベーシックトレーニング、基礎のトレーニングに行って、そのまま軍に入ろうと思ってたんですけど、高校生の時にある先生が、ジェレミー、お前ちょっと成績いいし、こういった分野のこと好きだし、運動神経もいいから、士官になるクラスとかがあるんだよって。奨学金とかも出るからそれにちょっと応募してみたらって言われて。へえ、じゃあ大学行けて、大学卒業した後、幹部に入れるんですね。日本の自衛隊でいう幹部ってやつですね。
それになれるっていうことが分かったんで。僕もすごいお金がなかったし、学費もなかったし。はい。その大学で奨学金が降りたっていうことで、その勢いで大学に入りました。士官候補生になるために大学に。そう、行きました。ですね。はい。
軍隊って、入りたいってなったら一応入れるんですか?入れますよ。健康診断があるんですよね。健康診断とかそういうのを全部パスしたら入れますね。でも士官になるには大学4年生の資格がないと士官には絶対なれないんですよ。
大学ではどんなことを学ぶんですか?僕の専攻は数学でした。数学。数学と物理ですよ。理系なんですね。理系ですよ。ミシガン工科大学に通いました。4年間。数学さえ分かったら物事は大体分かるかなっていう考えで、数学得意だったし、高校時代、数学だけだったら僕成績トップだったんです。うん。へえ。大学卒業したその日に、僕は士官になりました。
実際入隊して、まずどんな仕事するんですか?そうですね、僕が入隊した時は歩兵だったんですよ。日本の自衛隊でいう普通科ってやつ。銃を持って歩き回って敵と戦闘する、軍人って聞いたらパッてイメージするようなお仕事だったんですね。
入隊した時は、最初基礎のトレーニングみたいなのがあって、アメリカのジョージア州っていうところで、数ヶ月、そこで空挺のパラシュートの訓練受けて、歩兵としての戦術も学んで、その後レンジャースクールを卒業してます。アメリカのレンジャースクールってのは、軽く言うたらエリートが集まった部隊ですね。へえ。
そのレンジャースクールを出るじゃないですか。そっからが一応本格的な軍人としてのキャリアの始まり。そうですね。2010年ですね。2010年。はい。当時はまだ全然アフガニスタンで戦争してますもんね。全然戦争してましたよ。だからもう高確率でアフガニスタンに行くなって分かってました。あ、そうですか。もう大学に通ってる時代からそれはもう分かってました。
軍人の1日はどんな感じで進むんですか?朝早い。まず朝は筋トレなんですよ。PTって言うんですけど、フィジカルトレーニング。5時半集合とか6時、朝集合で筋トレして、その後はシャワー行ったり、制服に着替えたり、朝ご飯食べたりで、その後はまた集合時間に戻って、今週の訓練は射撃訓練をしますとか、射撃場に行って、そこでずっと。もう訓練に行ったら家に帰らないんですよ。その週はもうずっと野外っていうか、もうその射撃場でずっと暮らしてますね。主に戦術の勉強ですね。ああ。歩兵っていうのはこういった戦いをするんだよって朝から晩までずっと。はい。でも土日はちゃんと休みがあるんですよ。ああ、なるほど。はい。
寮みたいなとこに住んでるの?いや、僕は幹部、士官だったんで、もう適当にどっかアパートとか借りてきてみたいな感じの。へえ。そこが士官のいいとこですよね。そっか。うん。幹部はもう1年目から?1年目からもう、はい。どっかもう家借りてきてみたいな感じで。へえ。
でも下士官の寮生活はむちゃくちゃ厳しいんです。外出禁止とか門限とかありますよ。旅行なしとか、服装もちゃんとした服に着替えたり。でも幹部はそういうのあんまりないですよ。ああ。もう好きにやってみたいな。アメリカの階級生活っていうのはランクが絶対なんですよね。
1年目から給料も全然違うって感じ?全然違います。幹部の人は結構もらえるんですよ、もう1年目から。うん。下士官の人はもう全然もらってないです。給料不足っていうか、大きな問題になってます、今。あ、そうなんですか?そう。はい。
初めて実戦に行くのってどのタイミングなんですか?僕が実戦に行ったのがね、入って2年目ですね。2012年。1番最初に僕が配属された場所がコロラド州なんですよね。その時に入った部隊が、もう今年の2月にはアフガニスタン行くから準備してねって感じで、2012年の2月にアフガニスタンに僕は行きました。へえ。
それで、僕がやってたお仕事が小隊長だったんですね。だから僕の小隊は兵隊何人?25人から30人ぐらいの部下を率いる。へえ。もう当時若かった。22歳だったんです、まだ。それはもう年上もいれば。もちろんです。ベテランの人もいました。もう戦争で何回も戦って、実戦でもうバリバリの人もいました。それなのに僕の方が階級が上なので。階級は絶対なんですよ。へえ。逆らえないんですよ。へえ。
それって年上の人とかから、うん、やっぱり疎まれたりしないんですか?しますよ。もうそういうシステムなんで、仕方ないっていう認識っていうか了解はみんな分かってるんですよ。もうどうしようもないですね。そういった組織なんで。そういったルールなんで。
でも僕が小隊長だからって言って俺の言うこと全部聞けって、そういった態度の人は絶対失敗します。やっぱり部下から、戦争に行って実戦で戦った人から学ぶ。僕は小隊長だけど、あなたたちの実戦の経験を生かして教えてください。それぐらいの態度で行かないとうまくできません。
そういうのはもう2年目から理解してましたか?してました。僕が小隊長ですね。で、僕の右腕が副小隊長なんですよ。で、その副小隊長は下士官の人なんですけど、それこそその人もう軍に入って15年目とか、むちゃくちゃベテランの人だったんですよ。で、その人から教わったこと全部学ぶから、一緒にチームとして努力して働きましょうみたいな感じで、ものすごく。え、へえ。厳しかったけど。だから、いい副小隊長は新米の小隊長を絶対に失敗させないのがお仕事なんです。ああ、じゃあ最強の右腕というか。本当にものすごく頼りになった人でした。
いよいよ戦地に行くぞって言われた時はどんな気持ちになったんですか?もう、よしやってやろうって感じで。その時も本当、レンジャースクールを卒業して数週間後だったんで。もうやる気満々でしたね。もうやってやろうぜ、戦ってやろうって。ついに俺の時が来たなって感じでした。すごいやる気満々でした。
恐怖感みたいなのってなかったんですか?あんまりなかったですね。戦争に行く前には恐怖っていうのはもちろんあるんですよ、みんな絶対にね。でも僕にはやらないといけない仕事がある、僕にはちゃんとした責任がある、そういった気持ちの方が強いですよ。うん。みんな戦ってるから、僕だけ1人で怖がっても何の役にも立たないんで。うん。そういう心は打ち消して、部下がいますから、その部下全員が帰ってこれるように。それが第1の気持ちでした。
戦争全体の状況としてはどんな感じだったんですか?いや、もうどうでしょうね。激しい戦いはまだ全然ありましたよ。12年の終わり頃から、アフガニスタンの軍と一緒に協力し始めて、一緒にパトロールに行ったり、一緒に戦いに行ったりし始めた頃ですね。
それまではもう100%米軍がコントロールしてたんですよ。もう全てのパトロールとか任務とかも100%米軍オンリーで遂行してたんですよ。でもこれじゃダメだ、これはアフガニスタンの未来だから、アフガニスタンの兵隊さんにもっと任務してもらわないと未来が困るって言って、それのちょうどつなぎ目の時に行きましたね。へえ。
僕が入った時はオバマ大統領だったんですね。で、やっぱりオバマさんはもう戦争をとりあえずやめたい。大体みんなそうなんですよ。戦争やめたい、戦争やめたいっていうのが。もうその時は11年目だったんです。アフガニスタン、長すぎなんですよ、戦争するの。ものすごく莫大なお金もかかるし、もうそろそろ切り上げないといけないっていう、そんな感じでしたね。そんなこと言ってたんですけども、そっから数年また延びてしまって。
クルナ州がどんな状況だったんですか?ものすごくね、貧しい場所です。もうそれこそ本当山ん中なんですよ。本当ヒマラヤ山脈のつなぎ目みたいな感じで、道路とかも全部土で、水道もないですね。家とかも泥の壁ですよ。土壁みたいな感じで。
ベースキャンプみたいなとこにずっと?そうですね。自分たちで作りました。あ。だから砂袋とか、ボックスの中に砂を入れて、それで壁を積み上げて、有刺鉄線を張ったり、クレイモアっていう地雷みたいなもんがあるんですよ。それを設置したりしまして。で、もう24時間誰か起きてますね。
そういう場所も戦場になってる。何千人っていますね。もうテロなんで誰が敵かわかんないですよ。制服着てないから、戦闘員。あ。だからテロリストの人たちは、タリバンの人はもう市民に混ざり合って普通に生活してましたね。でも見てないとこで武器を持って攻撃してくる。
めちゃくちゃ難しいとこなんじゃないですか?めちゃくちゃ難しいんですよ。テロは本当に厄介な敵ですね。昔の第2次世界大戦ってさ、ナチスとかさ、日本軍とか、ちゃんと敵がはっきりしてるじゃないですか。テロはそれがわかんないですよ。だから戦術とかやり方が全然違ってきますね。ただ単に敵を倒したら俺らの勝ちとかそういうわけじゃないんです。やっぱりそういった考えじゃないですか。イデオロギーって言うんですけど、考えを完全に潰すとか倒すのはものすごく難しいことです。で、結果上、アメリカ、アフガニスタンで負けてるじゃないですか。だからテロにはなかなか勝てません。
思想そのものを潰さないと真の勝利にはならない。うん。ならないです。難しいもの。へえ。
市民に紛れてるじゃないですか。はい。間違えて市民に攻撃しちゃうとかもあり得るんですか?それが戦争の残酷なとこですね。市民に怪我人、死者が出るのは、どの戦争も当たり前のことですね。それがよりテロ組織だから、見た目からもわかんないから、敵かなって思ったら市民だったとか。
いや、とりあえず僕らがその戦地にいた時のルールは、撃たれなかったら撃ち返さない。積極的に撃つっていうことはよっぽどのことがない限りなかったですね。例えば相手がもしRPGやそういった武器を持ってたら、もちろん倒していいんですよ、そこで。でもそんなにブラブラそういうもの持ってるタリバンの敵っていないんですよね。撃ち殺した人が市民だったっていうことはあんまりなかったです。もちろんあったんですけど、ないようにちゃんと気をつけてやってましたね。先行的に攻撃した場合ももちろんありますけど、ほとんどが撃たれてから場所が分かる。そっちから撃たれてる、で、あっちから来てるからあっちへ動きに行こうって、そんな感じでしたね。
いろんな場所で戦ってましたけど、割と味方が殺されるとかも日常にある。ありました。僕も仲間はもちろん失ってますね。やっぱりそれが1番辛いすよね。やっぱり路肩爆弾で亡くなった人もいるし、普通に撃たれて。
あとあったのが、僕の友達が亡くなったんですけど、アフガニスタンの軍人にちょっと裏切り者がいたんですね。その裏切り者が僕の友達を撃ち殺した。紛れてね、アフガニスタンの軍人に紛れて、裏切ってタリバン側についたみたいな。そうですね。タリバンがお金を出したか、アフガニスタンの軍人が本命の心をタリバンの方に置いていたっていう感じです。スパイと言ったらちょっと大げさですけど、そんな感じの人も、そういう敵もいました。
実戦と訓練とで1番大きかったギャップって何ですか?緊張感が違います、全然。やっぱり実戦の時は実弾じゃないですか。だからものすごいアドレナリンが出るんすよ。ものすごくハイになるというか、もう緊張感が全然違くて。訓練の時はあまり出ないですね。本当に。
うるさい。実弾はものすごくやかましいんすよ。耳栓とかつける人いないすから、アメリカで、実戦で。だからもう耳がずっとキーンとして、あとはみんなも怒鳴りまくりで。そっか、じゃないと指示とか聞こえないですね。聞こえないですね。無線を使って、みんなもう全速で走ってますよ。もう動きがまず早くないと。はい。はい。常に死と隣り合わせの状況。そうですね。
ずっと訓練で銃撃とかしてたじゃないですか。で、実際に人を撃った体験とかって覚えてますか?はっきり言って、僕は銃を相手に向けて撃ち倒したことは1回もありません。僕が倒した時は、僕が無線で呼んだ迫撃砲とか、アパッチヘリコプターのヘルファイアミサイルとか、そういうので撃ち返したことはあるけど、当たって敵を倒したっていう確認は僕はしたことないんです。
幹部だから、どちらかというとその撃つのを指示する立場とか。そうです。幹部はやっぱりコントロールです。分隊にあっちから回れとか、こっちの分隊は撃ちまくって、その間に回り込んでいけとか、そういう分隊をコントロールするのが小隊長の仕事ですね。
逆に司令塔として自分が死んだらダメになっちゃうんじゃないかとか、そういう気持ちも大きいんですか?やってて。ああ、そういう気持ちはあんまりなかったですね。やっぱり死の覚悟は絶対できてたんですよ。やっぱり戦争で戦ってるから。でも俺が死んだらダメだとかいうのはあんまりなかったですね。やっぱり俺にはちゃんとした責任がある、こうしないと俺の仲間が傷つく、もう仲間に対しての気持ちの方が大きかったですね。
あ、そうですね。やっぱりご家族に悪い、申し訳ないっていうね。責任があるじゃないですか、小隊長として。ご家族に合わせる顔がないなとか、そういう辛い思いはたくさんしましたね。やっぱり戦ってる仲間って、夫の人もいるし、父親の人もいるし、誰かの息子や娘でもあるから、そういう人たちをちゃんとご家族に戻したいなっていう気持ちが大きいですね。
友達の方とか自分の部下の方が殺されていくじゃないですか。メンタルとかは保ってるんですか?いや、ものすごく辛いっすよ。本当にもう落ち込むですね。どんだけ訓練して、どんなに優秀で強い兵隊さんでも、やっぱり死ぬ時は死ぬんだなって。もうどうしようもない時とかあるんで。
僕も副小隊長と僕は2人亡くしたんですよ、2週間連続で。その時はもう2人で殴り合って喧嘩してましたね、お互いに。やっぱりストレスが溜まりすぎて、それともうがっくり落ちて、相手を責めて自分を責めてみたいな感じで。お前がこうやったからあかんかったんやって感じで、もう2人で喧嘩になって、違う部下にちょっとやめろやめろってね、ちょっと離されて。やっぱり落ちますよ。それが1番辛いすね。
それでもその戦争は次の日も続くから、やるしかないっていう。やるしかないですね。僕が住んでた場所も結構生活が全然違うんですよ。こういった大きな街で、都会とか東京とかで住んでたら、ものすごく楽じゃないですか?水道水もあるし、蛇口をひねったら温かい水も出るし、ご飯とかもうレストランどこにもあるじゃないですか。僕が住んでたアフガニスタンはそんなのがない。水道もないし、最初行った時、シャワーとかお風呂も最初5ヶ月ないんすよ。ご飯も、もう袋で食べるよね。はい。そんなの毎日食べてましたね。だからそういった面でも結構辛いんすよ。うん。
ある意味それがやりたくて入ったんで、自分はどれだけタフなんだ、試してみたいっていうのはあったんですけど、やっぱりずっとやってくとメンタル落ちてきますね、どんどん。はい。
それで、なんで最終的に引き上げようってことになったんですか?ジェレミーさんたちは。決まってるんですよ。この部隊は10ヶ月、10ヶ月で大体ローテーションだから、また新しい部隊が来て僕らの任務を引き継いだ。へえ。じゃ、次はあなたの番。次はこの部隊の番。それの繰り返しです。ああ。うん。で、一旦帰国するって感じなんですか?10ヶ月ローテーションで。はい。で、帰国して、また違う部隊に配属されるか、また戻っていくか。うん。
10ヶ月間で全体の情勢とかって変わったんですか?その当時。あ、ものすごい変わりますよ。ある村でね、パトロールしてたんですね。で、そこでやっぱりタリバンの人がいるから市民が苦しんでたっていうのはもちろんあったんですよ。で、僕たちが追い出して、村人にありがとうっていうお礼の言葉をいただいた。そういった小さいスケールでの違いは出せたなとは思います。
最初、小隊って何人いたんですか?乗り込んだのが30人ぐらいですね。30人。はい。最後、引き上げの時には何人になるんでしょう?えっと、2人亡くして28人。2人で良かったって言ったら言い方悪いんですけど。残念ながらね、死人が出たっていうのはありましたけど、全滅にはならなかったんですよ。
それで、じゃあ10ヶ月で帰ってきて。はい。23歳の時。うん。12月ですね。ちょうどクリスマス前に帰国しました。うん。帰ってきたらもう1番最初には家族に会いに行くって感じ。会いに行くですね。友達と家族に。もう人生で1番、2番、トップ3には入るぐらい嬉しかったです。
でもやっぱり複雑な気持ちは多いんですよ。やっぱり帰ってきて1番最初に思うのは、あんなに激しく戦って、せっかく帰ってきたけど、なんか本当の意味では喜べない。こうやってみんながアメリカで平和に暮らしてる国民でいいんですけど、一方でこの悲惨な中で戦ってるアメリカ人がいるっていうことは分かってないんですよ。ああ。自分がやったことがあんまり意味がないっていうのとは違うんですけど、前に感じたことない気持ちになりましたね。
戦争が完全に終わったわけではないっていうことですもんね。はい。残念ながらね、やっぱり心の中で戦って、なんかうつ病になる人とかも多いんですよ。色々悩んで。で、残念なことにね、自殺する方とかもすごいんですよ。アメリカで今でも平均1日22人から30人ぐらい、毎日自殺してますね、毎日。それ軍人の?軍人です。はい。
戦争に行って体験することは個人で違うんですよ。どんなに激しく戦っても、何もしなくても、戦争に行って戻ってきたら違うんです。人格が変わるというか、2度と同じ人間としては戻ってこれないです、1度行ったら。それが本当の戦争で、なんて言うのかな、あんまり知られてない真実だと思います。
それこそ戦地のシーンとかがフラッシュバックとかするんですか?フラッシュバックあります。僕はもう個人で戦争のこと毎日考えてます。毎日思い出しますね、毎日。ものすごく悩んだ時期、落ち込んだ時期もありまして、もうそれこそやっぱりヤケ酒っていうか、お酒をものすごく飲んでた時期もありましたね。
なぜかなんか、今までやってた趣味とかも楽しくなくなったりとか、人との関係を避けたりとかね。そういった辛い時もすごくありました。
どうやって立ち直ったんですか?僕は当時付き合ってた女性、今は僕の妻なんですけど、その人にものすごく支えてもらった。うん。やっぱり話すことが大事だと思います。ああ。1人で苦しむんじゃなしに、はい。もっと声を出して、助けを求めることが大事だと思います。そっか。
やっぱり本当、もうカウンセリングや、ちゃんとしたお医者さん、心理カウンセラーに行く人もいますし、薬を飲む人もいますし、麻薬とかね、お酒に手を出す人ももちろんいますね。うん。対応の仕方は個人個人ですごく差が出ます。へえ。
2012年に帰ってくるじゃないですか。そっからまた実戦に行ったりするんですかね。そこからはもう行きませんね。戦争には行ったんですよ。でも実戦ではない。お仕事変えたんですよ。歩兵だったじゃないですか。うん。で、2014年の時、僕は情報科に変わって、180°ぐらい違うお仕事に変えました。ああ。一応戦地には行ったりもするんですか?行ってましたね。
なんで変えようと思ったんですか?階級が上がるごとに歩兵にいると、ものすごくストレスがかかるお仕事ばっかりなんですよね。だからもう違うお仕事やりたいなっていう夢もあったし、僕はもう軍にいるつもりがなかったんですね。で、情報科に行ったら、歩兵でいるよりかは民間でのお仕事が情報科の方がやりやすい。そういう組織があるじゃないですか。CIAとかさ。そういった民間の情報局に入りやすいかなって。そういうお仕事がしたかったから、お仕事変わりました。
え、その情報科にいながら、民間に転職しようと考えてたんですか?考えてましたね。もう当時本当に悩んでた時があって、もう軍が、うん、嫌になった時期があったんで。あ。転職しようかなって考えてましたね。結果的には転職しなかったんですけどね。ずっと軍にいたんですけど。
最初、若い頃というか1年目はすごいモチベーションで入ってきたじゃないですか。徐々に徐々にこう心が削られて。そうです。簡単に言うとそうですね。本当に嫁にね、怒鳴ったり、揉め事ですよね。彼女のせいじゃないのに、自分の心の整理ができないから。
やっぱり残ろうっていうのはなんでなんですか?息子が生まれたんですね。うん。ほんでやっぱり公務員ですから、生活が安定してるっていうのもあるし、当時やってたお仕事が結構好きだったんですよ。うん。で、お仕事で一緒になった司令官もものすごくいい人で、やる気が出たなっていうのもあるんですよ。で、やっぱり子供ができたし、この子供のために頑張ろうみたいな。そうです。
家族ができてから考え方が変わった部分とかもありますか?ありますね。まず絶対に死ねないなっていう気持ちが大きくありますね。で、やっぱり子供が力を送ってくれてるんですよ。あ、子供のために頑張れ、僕の帰りを待ってる人がいるから。それだけの力をもらってるみたいな。父親として、夫として死ねないです。そっちの方が、僕個人より大事なんで。
アフガニスタンの戦争あるじゃないですか。大統領が変わったりするじゃないですか。それこそ大統領ってアメリカ軍の最高司令官です。はい。で、それが民主党と共和党で、はい。まるっきり逆というか、その考え方で言うと。そう。はい。変わった時って、やっぱり軍の動きというか、そういうのも全然違うんですか?そうですね。組織の大きさも変わるし、大統領がどっちの党かによってものすごく変わってきますね。
ああ、そっか。で、軍の中でもどっちの支持派とかがいるから。いや、それはないです。軍は右とか左に分かれないんですよ。もう軍っていうのは大統領、最高司令官に忠誠を誓わないとダメなんですよ。大統領の命令は絶対。そっか。誰が大統領でも関係ないんです、僕らは。命令は命令ですから。嫌って言えないのが命令です。向こうは頼んでないんです。向こうはもう命令してきてるんです。だから言われたことを任務遂行するだけです。
基本的に軍のお仕事、役目っていうのは、やってることは2つなんですよ。第1は戦争に行って勝つこと。これが第1のお仕事。で、第2は、戦争をやってない時は戦争するための準備とか訓練だけです。だから大統領はあんまり関係ないんです。実は別ですね。そうやらないとできないし、そういった方がやりやすいんです、別れてた方が。うん、うん。まあ、そうですよね、確かに。
アフガニスタンの戦争が終わったのが2021年ですよね。それぐらいですね。はい。そんなふうになると思ってました?ああ、アフガニスタンは多分、タリバンは戻ってくるなって僕はもう思ってましたね。ああ。うん。アフガニスタンの軍だけではタリバンを追い出すことは無理だって。それぐらいタリバンっていうのはものすごく大きな組織でパワフルで、いかにテロと戦うのが難しいか。でも僕は多分、多くの軍人が分かってたと思うんですよ、内心ね。もうそれを言わなかっただけで。
やっぱり僕もアフガニスタンの軍と一緒にね、任務を遂行したことあるんですけど、まずもう弱いです。本当に雑魚すぎてもう何にもできないなっていうのが僕の印象でしたね。本当にこんなんじゃ絶対に負けるなっていうのが僕の第一印象でしたね。結果的にそう終わってしまったし。
一応終わったっていう形になったじゃないですか。その後タリバンが再び支配して。うん。その時は、実際に戦地に行ってた身としてはどんなことを思うんですか?悲しい。なんか自分がやったことは無意味だったなっていうのが、ああ、正直な気持ちです。人生の中で1番楽しいって言ったら20代、30代ですから。その時の20代の前半、僕は全部アフガニスタンで戦ってた時か、アフガニスタンに行くための訓練をやってたんですよ。
あんなに頑張って、仲間も亡くなって、結果がこんなになったっていうのが残念な思いでしたね。本当に軍人として、やっぱり戦争には勝たないとダメなんで、絶対に。だから、そういう結果が出せなかった全体的には、1兵士として残念ではあります。
今って少佐でしたっけ?今は少佐ですよ。副大隊長やってます。副司令官ですよ、大隊の。ああ、そっか。さっき言ってたのは小隊の。そう、小隊、中隊、大隊の。小隊が大体30人、中隊が100人ぐらいですよ。で、大隊が400、僕のところは400人いますね。僕の大隊に中隊が4つあるんです。
へえ。ゆくゆくは司令官になる?そういった確実な流れで、副大隊長になったから司令官になれるっていう、そういうのは決まってないんですよ。やっぱり本当に司令官になるっていうことは、もう本当に優秀な人で、セレクションで選び出された人だけにしかないですよ。へえ。軍って司令官に全責任があるんですよ。大隊が成功したらみんなのおかげ、大隊が失敗したらそれは司令官のせいだけです。へえ。絶対責任なんです。
ずっと副大隊長の人もいたりするんですか?中には。いや、ずっとはいないですね。副大隊長のお仕事は、ある意味司令官よりストレスがかかるお仕事なんですよ。司令官っていうのは、なんて言うの、もっとこういった任務を遂行したいとか、こういったトレーニングをしたいって言うんですよ。それを実現化させるのが僕のお仕事なんですよ。ロジスティックと。実際に形づくっていくんですね。そう。プラン、計画を立てるのが僕のお仕事なんですよ。
で、軍もそれを知ってるんですよ。だから副大隊長、XO、エグゼクティブ・オフィサーっていうんですけど、僕のネームもXOなんですけど。このXOの仕事は軍で2年間って大体決まってるんですよ。もうそれ以上やるともう本当に疲弊してしまいます。ああ、それ一応決まりなんすね。もう2年間頑張ったって感じで、はい。違うお仕事やってねって。だから僕も18
ヶ月やってるんですよ。もうここまで来てますよ。まだちょっとしかエネルギーがないんですよ。あと半年。あと半年頑張って違う仕事できる。
へえ。本当は持ち続けてこうというか、その軍人で最後まで行くっていう。
そうですね。あと5年で僕引退できるんで。
あ、そうなんですか。
軍は20年働いたらもうあの定年退職できる。で、軍ってはっきり若者がやるお仕事なんですよ。僕みたいに30代後半の40代になってずっとやってても意味がないんです。やっぱ戦う人は若い人だね。もちろんそれ以上やる人もいますよ。どんどんどんどんね、階級が上がってって、そういう人たちはもうものすごく稀で、ほとんどの人は3年間やって、4年間やって、6年間やって出るか、僕みたいに20年やって退職。
へえ。
だから5年頑張ります。43歳で一応引退。引退します。
でも、その後はどう考えてるんですか?
その後はもう僕、やりたいことはあるんですよ。僕は個人的には牧場経営したいなと。もう軍と全然違う仕事やったりして。もう政府とかそういった軍関係、情報関係と全く違うお仕事。個人的に牧場とかそういった畑でやりたいですね。
牧場買うんですか?
買えますよ。逆に言うと牧場買えるぐらいのあれが溜まりつつあるんです。アメリカ軍の1番の素晴らしいとこは、20年やったら年金が出るんですよ。その年金がもらってた給料の50%、もう死ぬまでずっともらえるんですよ。そうなんです。で、僕、少佐で、給料結構いいんですよ。多分もう1回階級上がると思うんですよ。中佐になれる勢いなんですよ、今ね。中佐の給料って、絶対生活するには困らない給料ですね。それの半分が僕も死ぬまでもらえるっていうことで、生活では困らないの年金は出るんですよ。
へえ。
アメリカっていう国は本当軍人をものすごく大切にする国で。
1番最後の月収の半分が毎月振り込まれる。
半分、そうそう。
へえ。
その上、20年やると絶対怪我とかするんすよ。障害が出るんですよ、体に。例えば僕もう耳が聞こえないですよ。もうほとんど悪くて。だから、それは軍が、これはもうあなたは軍のせいで聴力って言うんですか、がなくなったから、それだけのお金を出しますという、そういうのものしかかりになるんですよ。だからさらに出るんですね。だから牧場やりたいですね。僕の嫁がそういった馬とか大好きなんですけど。
へえ。お嫁さんのため。
ですね。
プラスそういう保証も出るし、これまでの貯金もあるから。
そうすね。社会人最初の20年目までは死ぬほどきついけど、その後は光があるみたいな。
本当に自分がやりたいことをできる。今決して僕は軍が嫌いとか軍をやりたくないとか、そういうんじゃないんですよ。でも確実に違うお仕事をやりたいなって。もっとペースがスロー、遅めのお仕事をやりたい。
第2の人生ですね。
そう。で、もっと家族とか地域の人たちと一緒にね、生活していきたいです。
今YouTubeとかでも発信してるじゃないですか。
あ、YouTubeやってますよ。米兵ジェレミーでYouTubeのチャンネルやってます。主に銃の紹介や実体験談があって、面白おかしく個人的にやってます。
日本に向けてやろうと思ったんですか?日本語じゃないですか。
日本語ですけど、なぜかと言うと、日本語でやってる方がまず少ないんですよ。ああいったことを英語でやってる方はもう何百人っていますよ。もちろんアメリカは銃王国なんで。
ああ。
だから、やってる人が多すぎるなっていうのと、僕自分でこうやって日本語喋れるから成功するんじゃないかなっていう、そういった発想ですよ。こういった動画を作って自分でやりたいことをやる、自分で面白いなって、もう作ることが楽しくなってきた感じ。
へえ。
そういった発想でやりました。
うんちの体験とかも話されてらっしゃいました。あれだけちょっと毛色の違う動画というか。
そうですね。やっぱり自分でやって、アフガニスタンに行って実践した動画ってそんなにないじゃないですか。ないと思うんで、自分にしかできないなと思って、こういう人もいるんだよって。本当の戦争はこんなんだよって話したかったです。
確かにそれを日本で話すっていうのもなんか意味がありそうなことですね。
やっぱ日本ってよく聞くのが、なんか平和ボケって聞くじゃないですか。でもこの世っていうのは本当ものすごく残酷なこと、暴力的なことがあるっていうことを伝えたかったです。本当に日本っていうのは豊かで平和な国だなっていうのが第一に思いますね。ある意味でいいんですよ。
素晴らしい。うん。
国で豊か、安全な。戦争は知らないで育って、戦争やらないと言って。でも逆にそういった考えでずっと生きてたら、他の国での戦争とか悪いこと絶対あるんですよ。それがどう日本に悪影響出るかを把握してないとちょっと心配になります。で、今よく聞くのが、中国台湾の揉め事、あれは高確率で起こるんですよ。2027年ぐらいに。その時日本がどのように対応するとか、日本国民にどのような悪影響が出るかとか、そういうのを把握してないと、ちょっとやばいことになるんじゃないかなとは思いますよ。
なるほどね。一言じゃないです。そっか。
戦争はやらなければやらない方がいいです。絶対。もう本当に信じられないぐらい残酷なんで、辛いですよ。勝った国も負けた国でも、1番被害が出るのはやっぱり無実の市民だ。ある意味勝者が出ないですよ。
僕が個人で1番ミスったんで。ある任務で僕らは撃たれてたんです。ある家から。その家からタリバンの人から撃たれたことは確実だったんです。でもタリバンの卑怯なところが、自分の家族を人間シールドみたいな感じで使うんすよ。だからその中に自分の子供や奥さんを入れて、俺らが撃てないことを分かってるから撃ってくる。そういったような戦い方をするんですよ。
うん。
当時戦った時、僕、中にその子供がいるのわからなかったんですね。でも絶対あの家から撃たれたことも確実だったんですよ。で、僕はあのヘリコプターとヘルファイアミサイルを撃ち込んだんです。で、戦闘終わって、じゃあチェックしに行こうってその家に行ったんですよ。もちろんそのタリバンの人はやっつけて倒したんですけど、その中にご家族いたんですよ。
で、1人女の子いたんですね。で、怪我して、命だけは幸い亡くならずに、怪我してね。4歳か5歳かのちっちゃい女の子で、もう悲鳴で泣いてたんですね。で、もうそこに母親もいて兄貴もいたんですね。だから、もう混乱状態に。もう向こうは悲鳴でバーって叫んでるじゃないですか。
で、うちも衛生兵がいたんで、それ治療してね、ヘリコプター、ブラックホークに乗ってもらって病院に連れてったんですけど、やっぱりその子供の兄貴、自分の妹が、彼にとったらアメリカ兵に怪我させられただけじゃないですか。で、その兄貴がもうパニクってるんですよ。やっぱ自分の妹が怪我したっていうことで。で、その子供の表情がもうパニックから、そのアメリカへの憎しみに変わる瞬間を目の前で見て、あれは1番苦しかったです。
それが戦争の残酷な場面。そういった市民とかね、全然関係ない人に影響が出るのも戦争の1つ、当たり前なんですけど、やっぱりああいうのは知らないです。あれはもうあれが1番辛かったことです。いくら僕は知らなかったって言っても、僕が命令したミサイルを撃ち込んだ、僕のせいですよ。それを一生背負って生きていかなきゃいけないという罪悪感はあります。それはもう忘れられない。本当になんか悪いことしたなって思います。
兄の子だったかな。もう小学生4、5年ぐらいの子だ。やっぱり自分の妹を傷つけられて、アメリカ人の、アメリカ兵のせいで。なんでお前ら俺のうちにこうやってやってくるんだって、わからないじゃないですか。ああいうことやってると、やっぱ敵しか作らないですよね。敵を倒してるけど、ある意味その息子が憎しみを持って次の新たな敵になるんです。また今の話ですけど、敵になるんです。
それの繰り返しです。真の勝者がいないんで。そうです。
また連絡します。
はい。お願いします。
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たけれ た心を殺すこと 好き 我がままならば 心で殺す
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