灘から東大4連敗、20年目で「呪縛」を降りた ナツミートが語る英才教育と浪人の実態

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概要

ナツミート氏は灘中学・高校を卒業後、東京大学を4回受験して4回とも落ちた。3浪目の終わりに、東大を目指す理由そのものが急に消える瞬間があったという。その後は東京都立大学を受け、4浪で入学した。取材時は27歳の学部3年生で、4浪に加えて2年生を3回やっている。インタビューでは、0歳から始まったと本人が言う英才教育、灘での転落、浪人中に陥った完璧主義、東大を諦めた瞬間、そして都立大での生活を順にたどった。本人の結論は、受験に20年縛られてようやく自分が受験に向いていないと気づいた、というものである。

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資産家の母と、6浪して医師になった父

ナツミート氏は大阪市の生まれで、一人っ子だ。母は大阪で約90年続く呉服屋の娘で、本人によれば母方の祖父は最盛期に100億円の資産があったという。母の実家には3億円ほどの着物があり、塀の中に3階建ての城のような建物があったと話す。

父は医学部を目指して6浪し、神戸大学医学部に入った。父と母は6歳差で、父が浪人を重ねたため2人は同じ時期に大学生だった。別々の大学に通っていたが、母が父の大学の学園祭に来たことで親しくなり、大学2年で学生結婚した。父は精神的に不安定だった母のケアをするうちに1年留年し、呉服屋に婿入りしている。

父は開業医になり、保険適用外の自由診療として腰椎椎間板ヘルニアのレーザー治療を身につけた。本来なら切開手術が必要なところを、レーザーを当てるだけで15分で終わる治療だという。父が発明したものではなく、当時ごく少数の施設でしか行われていなかった治療で、名古屋の専門施設に大阪から通って習得し、大阪で開業した。この治療でタレントのやしきたかじん氏のヘルニアを治し、「たかじんのそこまで言って委員会」で取り上げられて父自身もタレントのようになった。そこで橋下徹氏と出会い、維新の会から出馬して衆議院議員になった。ナツミート氏は自分の家を「資産家と成金のハーフ」と表現する。

父が描いたロードマップ

教育熱心だったのは主に父のほうで、母は短大卒で、それほど教育に関心はなかったと本人は見ている。父は中学受験で兵庫県の男子校で3番手ほどの六甲に落ち、高校受験では2番手ほどの甲陽に補欠で落ちた。父はその原因を、親が教育に投資してくれなかったことだと考えていたらしい。だから息子には最初から完璧な教育投資をすると決めていた。

1994年、ナツミート氏が生まれる5年前に希学園という塾ができた。小学4年生から通う塾だが、父は「子どもができたら絶対にこの塾に入れる」と考えていたようで、本人は生まれた時点でロードマップができていたようだと話す。ナツミート氏が物心ついた頃、父は「成功者になりつつある」段階だった。父の開業はおそらく2006年、本人が7歳ぐらいの頃で、その直前の小学校受験用の塾代は母方の実家が出したという。

意外なのは、父の目標がそれほど高くなかった点だ。父は自分の受験経験から、お金をかければ入れる世界ではないと知っていた。大阪で一番の進学校である大阪星光に入れば十分だと考えていたらしい。灘の前に、本番の緊張に慣れるため四国で最も難しいとされる愛光中学を受けて合格した時点で、父は「中学受験の大失敗は避けられた」と思ったという。大学については、おそらく医者になると思っていたのだろうと本人は推測している。

2歳からの塾通いと「常に2つ前から始める」教育

本人は「塾で生まれたと言っても過言ではない」と言う。最初の塾は2歳頃だった。幼稚園は仏教系のパドマ幼稚園で、2歳半から入る「最年少」クラスを含めて4年間通った。受験して入ったかどうかは覚えていない。最初の記憶は、肉が一切出ない精進料理の給食を食べ終えられず、担任に怒られている場面だという。パドマ幼稚園には付属の小学校はないが、ナツミート氏の同期だけでもパドマ出身者が6人、灘に進んだ。

習い事は10個ほどやっていた。楽器のほか、今はなくなったという「裸教育」もあった。男女とも幼稚園では裸になり、砂の運動場で逆上がりなどのトレーニングを曲に合わせて何周もこなす。肌を強くするためと説明され、紫外線が強くなる午後の前に終わった。年長のとき、誕生日の週に将来の夢を言う朝礼で「総理大臣になりたい」と言った。週刊こどもニュースを見ていた影響だという。

小学校は受験して追手門学院小学校に入った。私立小学校の中では2番手くらいで、同期からも灘に6人が進んでいる。ただ受験自体が難しいわけではなく、学力とお行儀の2軸で見られる試験だと本人は説明する。蝶結びができるか、箸で豆を左から右に移せるかといった内容で、親の面接もあり、その対策まで塾がやってくれた。

特徴的なのは、常に2段階先を学んでいた点だ。小学校受験の対策をしながら、同じ塾で「幼児算国」として中学受験向けの算数と国語をやっていた。小学1年で小学3年程度の内容をやっていたので、小学校の勉強で分からないことは一度もなかった。本人はこれを「人生において良くなかった」と振り返る。先取りして逃げ切る勝ち方しか知らず、逆境にとても弱くなったからだ。

教育虐待にならなかった理由

小学校の6年間、勉強へのモチベーションは下がらず、むしろ上がり続けた。できることがモチベーションにつながったのだろうと本人は言う。家ではゲームが禁止で、やしきたかじん氏にもらったPSPは母が見えないところに隠した。クリスマスにDSを頼んだときも、知育系のソフトしかもらえなかった。それでも苦痛ではなかったという。父は「質の高いお笑いは小さい頃から摂取すべきだ」という考えで、M-1やすべらない話は見せた。ほかの番組はほとんど見られなかったため、ダウンタウンの松本人志氏は知っているのに浜田雅功氏は知らなかった。クレヨンしんちゃんのような下品なものも禁止ではなかった。

聞き手は、こうした教育が虐待になるケースとの違いを尋ねた。本人の答えは、自分がタフで、容量が大きく、素直だったからだというものだ。ただ中学生の頃、母がママ友に「洗脳するねん」と話しているのを見てとても嫌な気持ちになったといい、ある程度は洗脳もあったのかもしれないとも言う。周りの友だちはゲームをしていて、多少の疎外感はあった。それでも5歳ぐらいから、人と遊ぶより本で情報を得るほうが有意義だと考えていたので、教育方針と合っていたのだろうと本人は見ている。今は人と関わるのが好きなので、当時の自分は本来の自分ではなかったようだとも語った。

小学校には算数と国語の習熟度別クラスがあり、上位クラスは高い志望校を目指す子、その下は内部進学より少し上を狙う子というふうに分かれていた。外部の中学を目指す子は半分ほどで、灘志望は10人ぐらいだった。当時は学歴主義のような考えはなく、「足が速ければモテる」と普通に思っていた小学生だったという。学内でトップだったわけでもない。灘には最低点で合格した。国語はよくできたが算数はかなり苦手で、本番の算数が簡単で差がつかなかったのが幸いした。

灘入学後の転落

灘に入った本人は調子に乗り、次は東大理三だと考えた。父はそこまで考えていなかっただろうという。一方で、入試が終わるまで禁止だったインターネットが解禁され、スマホを買ってもらった。LINEや動画、テンプルランのような軽いゲームに加え、「笑っていいとも!」にはまって芸能人の名前を覚えたくなり、1日5時間ほどテレビを見るようになった。

東大受験向けの鉄緑会に通い始めたが、親が管理をやめた途端に宿題が終わらなくなった。そのうえ灘の授業と宿題は極端に難しかった。本人は先取りの逃げ切りで勝ってきたので、新しいことを学ぶのが得意ではなく、授業もあまり聞いていなかった。小学校時代は個別指導で宿題の分からない部分だけを聞いてしのいでいたが、それをやめると授業についていけなくなった。神戸大学の学生が教える個別指導塾を試したところ、灘の中学の数学を神戸大の理系学生が解けなかったという。鉄緑会と学校の両立は無理だと判断して早々にやめ、学校の勉強に絞ろうとして個別指導もいくつか試したが、教える側が太刀打ちできず、どれもやめることになった。

親が管理をやめたのは、灘に入れたことで父が自分の役目は終わったと思ったからではないかと本人は言う。ただ中学生にもなって親に勉強を管理されるのは気持ち悪く、自立はどこかで必要だとも話す。

親の管理を離れて落ちていく灘生は「めちゃめちゃ多い」という。ただ多くは高3の初め頃まで遊んでいても、地頭か要領の良さで現役合格するか、1浪で東大理一ぐらいには受かる。ナツミート氏が以前受けた知能検査のIQは111で、東大生の平均は120と言われ、灘はそれより高いだろうと本人は推測する。自分は灘の中ではかなり低いうえ、受験に役立つ情報だけを取捨選択する要領の良さもなかった。成績は学年約180人のうち、中学で150位前後、高校で170位前後。数学はほぼ最下位だった。

灘の進路観と「理三信仰」

灘から東大に進むのは、浪人を含めて90〜100人ほどだと本人は言う。東大と同じくらい難しい医学部に行く人もいるので、120位くらいでも「1浪すれば行ける」という感覚がある。現役で理三に行くのは多い年で25人、少なくても10人ほどだ。そういう集団にいると、自分の地頭も保証されていると思い込んでしまう。話していてIQが20も違うとは感じないからだ。本人は、灘生は単に賢いというより「受験戦士」であり、受験戦士でない時期があっても受験戦士になれる根性や当たり前の水準の高さがあると見る。脳が疲れにくく、集中力を持続させられるのではないかとも話した。

灘では1浪までは当然とされ、東大に届かなければ浪人するのが普通の流れだ。本人の知人で、現役で一橋大学に進んだ人がいるが、それはかなり珍しい。「もったいない」と見る人もいれば、浪人して京大や早稲田に流れるリスクを避けた損切りの潔さとして尊敬する人もいるという。早稲田政経には灘に推薦枠が1つあり、成績がかなり悪い生徒でも条件を満たすと言われたほど緩いが、誰も使わない。早稲田政経より上に行かなければ受験勉強をしたことにならない空気があるからだ。

本人によれば、灘生全員が納得する基準は「京大の医学部以外の学部より上」かどうかである。京大の非医学部は「ギリアウト」、つまり「ちょっと届いた」程度の扱いになる。立派な進路で職業にも困らないが、高校卒業時点の学歴としてはそう見られる。一方で理三は別格で、何浪しても全員が尊敬する。本人の同期にも、何年か浪人して理三に受かった人がいた。定員が100人ほどしかない学部だからだ。教師が浪人を勧めることはないが、東大英語の第1問に合わせた要約演習が続くなど、授業には東大寄りの傾向があったという。

東大志望の本当の理由と、スクールカースト

ナツミート氏が東大を目指した本当の理由は、中1の終わり頃からテレビタレントになりたいと思うようになったことだった。笑っていいとも!を見ていて、東大はテレビ受けがいいと考えた。在学中にNSCに入って芸人を目指そうとも思っていた。歴史が好きで世界史も日本史も二次試験で使えることから、理三をやめて文系に切り替え、文科三類を目指した。

この夢は親に言えなかった。今YouTubeをやっていることは父も応援しているし、父自身も昔はドリフターズになりたかった人で、医師として吉本芸人と共演もしている。応援されることは分かっていたが、それまでの教育投資の重みがあって言い出せなかったという。

学校での立ち位置は最初、最下層だった。からかわれることへの耐性がなく、すぐ泣いたり怒ったり物を投げたりする子どもで、太ってもいた。本人はインドのカースト制度にたとえ、バラモンやシュードラのさらに下にいたと言う。そこから陸上部に入って少しずつ馴染み、痩せ、からかわれる耐性もついていった。母のおかしさを学校で話すうちにそれがネタとして受けるようになり、高3では文化祭の漫才大会で優勝した。最後はクシャトリヤぐらいまで上がったと本人は言う。

ただし、上がった理由は勉強ではない。灘では勉強ができることは「人権のベーシックインカム」のようなもので、全員が持っている前提だ。面白くない生徒がとても勉強ができることで一目置かれることはあっても、評価そのものが上がることはない。評価されるのは面白さやプログラミングの強さといった個性だという。

母の状態と、東京での浪人

現役時の東大は100点ほど足りなかった。浪人を決めたが、家庭の状況が問題だった。母は高校の頃から様子がおかしくなっていたという。有名店のスープは開業時から継ぎ足していると聞いてそれを真に受け、ずっと鍋で何かを煮ていた。冬場は冷蔵庫に入りきらない鍋をベランダに置いていた。家事が苦手で、皿洗いも洗濯もほとんどせず、洗濯しても2週間干さないこともある。3週間に1回来るダスキンの業者に家事を全部任せていた。躁の時期と鬱の時期があり、躁の時期は飲み会から朝4時に帰り、10時にはパチンコ屋の行列に並ぶ。鬱の時期は1日16時間ほどドラマを見続け、毎日1クール分を見終えていた。当時は双極性障害のような診断だったが、実際は違ったという。

この家では浪人は無理だと見かねた父が、東京に移ることを提案した。父は息子がいずれ東大に行くと思っていたし、自分も東京に仕事がある。しかも父は本人が東大に落ちる数か月前の衆院選で落選し、議員宿舎を失っていた。東京に拠点ができるという点で利害が一致し、東京で浪人することになった。東大に受かってもいないのになぜ上京しているのかと言われるのが怖く、周囲には強く隠していた。1浪目は駿台お茶の水校に通い、成績は25点ほど伸びたが、それでも80点ほど足りなかった。

2浪目の工夫と失敗

2浪目は「地頭はあるはずなのに勉強時間が取れていない」という問題の解決に取り組んだ。駿台では授業を受け、ノートをまとめ、さらに覚えるという段階を踏むが、自習にあたるのは最後の段階だけだ。授業はメモを取るのに精一杯で定着まで行かないので、参考書で自習するほうがいいと考えた。ペースメーカーとして、通信添削で知られるZ会の東大進学教室に週1コマ・2時間だけ通い、駿台はやめた。

さらに、スマホにスクリーンタイム制限をかけて親にパスワードを設定してもらい、1日3時間しか使えないようにした。ところが制限は毎日0時にリセットされる。0時になった瞬間に3時間ぶん使い切ってしまい、風呂にも入れず変な時間に起き、何も勉強しない生活になった。センター試験は1浪目も2浪目も674点で、二次試験は179点から180点へ1点上がっただけだった。

本人は浪人をおすすめしないと言う。浪人に必要なのは意志よりも「メンタリティ」で、自己啓発のようなことが必要になる。時間が無限にあると思うと、完璧主義に陥るからだ。東大では漢字が6点分出るが、それを完璧にしようと最初は漢字の書き取りまでやっていた。すぐやめたものの、要領よくやるのではなく完璧にしようという気持ちは残った。本人の考えでは、簡単な問題を解けるようになるうちに本質が分かっていくのが順序であり、最初から本質を理解しようとすると膨大な時間がかかる。ある程度解けるようになってから考えればいいことを、最初から隅々まで塗りつぶそうとしてしまう。しないでおこうと思ってもしてしまうのだという。

3浪目、生活を立て直しても成績は下がった

モチベーションのピークは3浪目だった。きっかけはダイエットの決意だ。陸上部出身で太るのが怖く、中学の頃から3浪目まで2日に1回は走っていた。ただ走りに行くのは面倒で、空腹でないと走れないと感じていた。そのため、帰宅後に「走らなければ」と思いながら空腹で元気のない状態でスマホをいじる時間が多かった。そこで11月までに痩せきり、そこからランニングの誘惑を断とうと考えた。

Z会の経験から、家では勉強できず、外に出ることが大事だと分かった。そこで予備校に戻った。駿台は午前に地歴などの科目、午後に数学がある。自分は地歴が得意なので、午後に地歴の授業がある河合塾を選び、午後を自習に充てる形にした。朝に走り、シャワーを浴びて河合塾に行き、授業と自習をこなし、ジムに行って20〜21時にスマホを触る。走れる時間が朝しかないので必ず起きられ、夜も早く寝るようになった。1日1時間程度だった勉強時間が6時間ほどになった。6時間は長くないが、6倍になったのだから今までとは違うだろうと思っていた。

結果は下がった。センターは700点前後で前年と大きく変わらず、二次は本人の記憶で167点ほどだったという。

2月、自転車の上で「全部意味ない」と気づく

この年の2月、センター試験が終わって東大に出願も済ませ、私立大学には一切出願していない時期に転機が来た。本人はすでに、ここまでやってきたがダメだと感じ始めていた。河合塾から自転車で帰る途中、都庁の前あたりで、東大に入ってタレントになりたいという夢について考えていた。なぜ自分はこんなに欲張りなのか、完璧主義なのか。欲張りだから完璧主義なのか、完璧主義だから欲張りなのか。それをぐるぐる考えていたとき、急に「これ全部意味ない」と思ったという。

後がない状態で、受からないだろうと思いながら完璧主義について考え尽くした結果、ずっと前提にしてきたことが崩れた。「灘を出た人間は、最低でも文系なら東大に行かないと勉強したことにならない。これだけ受験勉強をしてきたのだから、それが欠けると人生に欠陥があることになる」。そういう感覚があったが、そんなことはないという当たり前のことに気づいたのだと本人は言う。2歳から受験をしてきた人がそこで解放されたことを、周囲は「よく気づけた」と褒めてくれた。その年の東大は出願済みだったので淡々と受け、淡々と落ちた。

すぐに吹っ切れたわけではない。周りは来年も東大を受けるものと思っていたし、同級生と電話するうちに、いっそ大学に行かなくてもいいのではないかという気持ちにもなった。小説家として稼ぐ方法を書いた本を買ったりもした。入試後に六本木のつるとんたんで会食した際、相手は「来年は赤本から固めたほうがいいのでは」と優しく助言してくれたが、「東大は諦める」とはっきり伝えると受け入れてくれた。大学に行く気がなくなりかけていたところ、高校時代の漫才の相方に「どこかには入って卒業するべきだ」と言われた。

都立大を選んだ理由と「学歴厨」をやめること

受けてきたセンター試験の結果を使えて効率がいいことから、一橋大学か都立大学が候補になった。都立大にはTwitterで知り合った甲陽出身の親しい友人がいた。この段階になると「知り合いの誰の後輩になるか」で選ぶことになり、後輩になってもいいと思えるのがその友人だった。4浪目で都立大を目指すことは灘の友人にも話した。普通なら東大に受かるまで続け、そのまま引きこもりのニートになることもある中で、スパッとやめたことが評価されたという。3浪目に「ナツミート」の名前でYouTubeを始めており、「雷獣」チャンネルで4浪期間を振り返った動画は100万回ほど再生されている。そのタイトルが「4浪の後輩が東大を諦められた話」という趣旨で、それ自体が灘にとって東大、あるいは「賢くあること」が呪縛であることを表している、と本人は言う。

学歴厨の定義を問われると、本人はそれが層ごとにあると答えた。理三の人はMARCHの序列を知らず、法政も同じようなものだと思っているだろう。高い水準ではものすごい学歴厨だが、同じ構図がさまざまな層にある。自分はそこからドロップアウトして勝負を降りたので楽になった。京大より下だと同窓会に行きにくいという話もある中で、都立大でも明るく同窓会に行けているのは幸せだという。都立大に行くと決めた瞬間が学歴厨をやめた瞬間で、嬉しい一方で、灘の世界から降りた寂しさもある。

本人は、東大に入っても不幸な人は多いだろうと見ている。東大と京大の差より、東大の最下位と最上位の差のほうが大きい。勉強以外に取り柄がなければ劣等感だらけになる。東大生が「一応東大です」と言うのは嫌みな謙遜ではなく、自分は東大生と言えるような存在ではないと本気で思っている可能性が高い、とも話す。勉強では理三首席に絶対勝てない以上、何らかのコンプレックスは残り続ける。だから得意なことをやったほうがいい、というのが本人の考えだ。

都立大での生活:チアリーディングとミスターコン

都立大の合格は余裕ではなかった。共通テストは合格者平均より低く、個別試験の対策は共通テストの後に始めた。4浪目は河合塾に緩く通っていた。合格したときは、やっと身分がつき普通の生活に戻れるとほっとした。

大学の勉強は楽しくなかった。社会学者の宮台真司氏の授業だけは全部出て全部メモを取ったが、ほかに楽しい授業は数えるほどしかなかった。大学を続けられたのは男子チアリーディングのおかげだという。男子チアは応援する対象がなくても演技を披露するもので、ナツミート氏自身が、人を両手のひらに乗せて持ち上げ、最後は片手で支える技ができる。全員初心者から始めて3年でここまで行けることに魅力を感じた。瓶に最初に大きな石を入れ、その後に砂や水を入れるたとえを引き、最初に入れるべき石はこれだと思ったと話す。都立大に入らなければこれをやれなかったとも言う。

単位では危機があった。3年目に進むには30単位が必要だったが、1回目の2年生の前期までに14単位しか取っていなかった。それまでに取った以上の16単位を取らないと即放校のような状況になり、過去にないほど頑張って21単位を取って回避した。

その嬉しさと、フォロワーがいることから、2回目の2年生のときに都立大のミスターコンに出た。本人はミスコンを「数字」の勝負だと確信していた。SNSの数字を持っている人が勝つということだ。それでも油断せず、ほかの候補者がしない毎日投稿をInstagramとXで続けた。本人の説明では配点は3つに分かれる。約40%は学外の人も参加できる毎日の投票で、本人のリスナーが投票してくれた。女子のミスコンはファンの中年男性の投票数で決まっているのではないか、とも話す。約30%は当日会場で見た人の投票によるパフォーマンス。残る約30%は配信アプリ「ミクチャ」でのランキングで、視聴者がアイテムを課金して贈るほど順位が上がる。どれだけイケメンでも配信の上手さは別物で、本人は「このアイテムが来たら坊主にする」といった企画をやった。配信とツイートは大得意なので、グランプリを獲った。登録者1万人以上のYouTuberならミスターコンに勝てるだろうと本人は言う。

今の大学生活と、20年の振り返り

取材時点では1回目の3年生で、単位が足りず留年が続いている。留年していいとは思っていないが、大学への情熱はない。ギリギリにならないと動けないし、自分の能力を生かせている場所は大学ではないと感じている。ただ、なるべく早く卒業したいという。卒業後のことはまだ決めていない。一度は就職してみたいが、YouTuberに限らず、自分自身の人間性に依存した稼ぎ方をしたいと話す。そう言えるのは実家が裕福だからで、感謝しているとも付け加えた。

聞き手が「どこかでこうしていれば東大に入れた道はあったか」と尋ねると、本人は「気づくのに20年かかった」と答えた。自分はかなり受験に向いていない。むしろもっと早く、どんなアウトプットなら自分の得意なことになるかを磨くべきだった。宿題を写していた時間は無駄だった。勉強できていない閉塞感がずっとあり、それでも勉強はしたいという状態が続いていた。そんな時間を注ぎ込むくらいならスパッと諦めるべきだったが、その勇気がなかった。親にテレビスターになりたいとも言えない人間だったからだ。

早すぎる受験がマイナスになったのではないかという問いには、難しいと答えた。自分は能力以上の力で灘に入った面があるが、灘に入ってよかったとは思っている。灘よりいい学校はないと断言する。ただ理想は、賢すぎて手に負えないから灘に入るというように、無理をせず入るべくして入ることだ。どうしても入れたいなら年長から始めたほうがいいが、入るべくして入る学校に入るという考え方なら、小5からの塾で十分だと本人は言う。小6からは入試問題の演習になるので、それより遅いと才能があっても厳しい。本当は小4がいいという。

テレビスターになりたいと言えなかったのは、早くから受験に触れすぎて頭が受験戦士モードになり、抜けられなくなったからでもある。灘に入れば親に対して責任を果たしたことになる、という感覚もあった。本人によれば親族はほとんど医者で、誰も就職活動をしておらず、就職しろと言われたこともない。東大に入ってサラリーマンになることも本来おかしな選択だったはずだという。

灘というコミュニティについて

それでも灘のよさははっきりしていると本人は言う。最初はスクールカーストの最下層に置かれた自分を、変わっていく過程も含めて見守り、精神的に成長すれば受け入れてくれた。グレたり不登校になったりしてもおかしくない時期に、そこまで行かずに伸び伸びと育ててくれたコミュニティだったという。カーストが全くなかったとは言わないが、人間関係の煩わしさはないに近い。人に無関心でありながら、人のすごさは認められる。お笑いの面でも面白い人が多く、ハイコンテクストな話が通じる。

最後に、勉強してきたことについて改めて問われると、本人は「灘に入ってからもう諦めたらよかった」と答えた。灘という場所は肯定しながらも、その後の東大を目指した年月は手放すべきだった、というのが取材を通じた本人の結論である。