梅宮アンナが語る乳がん「フルコース」治療、残った胸をめぐる選択、そして梅宮家の少女時代
街録ch〜あなたの人生、教えて下さい〜梅宮アンナは乳がんと診断され、右乳房の全摘出と脇のリンパ節切除を受けた。取材時点でも治療は続いている。このインタビュー前編では、まず標準治療の実際、公表後に届いた民間療法や宗教の勧誘、再建手術を選ばなかった理由と残った左胸の扱いについて語っている。後半では、父・梅宮辰夫と母・クラウディアのもとで過ごした少女時代、一家が経済的に苦しかった時期、芸能界入りのきっかけ、そして世間を騒がせた恋愛の始まりまでをたどる。
ステージ3Aで受けた「フルコース」の標準治療
梅宮が選んだのは標準治療である。本人の説明では、標準治療は大きく抗がん剤、手術、放射線の「3大治療」に分かれる。それらを終えた現在は、毎日薬を飲む投薬治療の段階にある。著書のタイトル『フルコース』はこの治療の流れを指している。
乳がんのステージは4まであり、数字が小さいほど治療の期間も内容も軽く済む。梅宮はステージ3Aでかなり進行していたため、3まで来るとほぼすべての治療をフルで行うことになる、と説明した。
治療は「めちゃくちゃ痛い」「苦しい」と梅宮は率直に話す。一番痛かったのは手術である。手術中は麻酔で痛くないが、その後の回復期に自分はかなり苦しんだほうだと振り返った。
家族の状況も重なった。梅宮は、人間は50歳前後でがんになることが多いのではないかと話す。体が古くなり、女性は更年期も来る。親が老いていく姿を見るのも子どもとしてつらい。梅宮家では7年前に父・辰夫が亡くなり、その前には介護的な負担があり、亡くなった後の後片付けも大変だったという。娘は24歳で、いつ結婚してもおかしくない年齢だ。親の介護、自分の病気、子どもの人生が同時に重なると、いつ自分が休めるのかわからない、と梅宮は語った。
自分を支えるのは自分
撮影時の梅宮は歩きながら話せるほど体力が戻っていて、本人も「全然元気」と言う。もともと外に出て太陽を浴び、人と話すのが好きな性格で、治療中もずっと仕事を続けていた。病気のことを隠さずに発信することも、自分を支えるものの一つだったという。
治療中に何が支えになったのかはよく聞かれる質問だ。家族や子どもが支えだと答える人が多いが、梅宮は「まず自分が自分を支えること」だと考えている。自分で自分を支えて初めて周りに感謝できる。家族がいてもがんが治るわけではないので、自分で気持ちを上げていかなければ何も始まらない。治療を経験してみて、結局は自分の考え方次第だとよくわかった、と語った。
一方で、落ち込んだ時期もあった。娘から「ママ、うつなんじゃない?」と言われたのは、おそらく放射線治療の頃だったと梅宮は振り返る。
一番つらかったのは放射線、そして抗がん剤との闘い
意外にも、梅宮が最もつらかったと話すのは放射線治療の痛みである。現在の照射はピンポイントで行われるが、結局は患部を焼くことになり、組織が縮むので痛む。抗がん剤のつらさはネットにたくさん情報があるのに、放射線について話してくれる人は少なかった。実際に受けてみて「痛いって先生言ってなかったよね」と思ったという。
抗がん剤にはとてもネガティブなイメージがあり、選ばない人さえいる。梅宮自身、世間から「抗がん剤をやめろ、今すぐやめろ」「あなたが標準治療をやっていると公言すると悪影響だ」と言われたことがある。梅宮の理解では、抗がん剤は狙った場所にだけ効けば問題ないが、元気な細胞も殺してしまうので副作用が出るのは事実だ。治療を通して一番実感したのは、がんに勝つ以前に、まず抗がん剤に打ち勝たなければならないということだった。抗がん剤に負けて体が弱ると、がんも一緒に勢いづいてしまう。だから、どうすれば抗がん剤に耐えられるかを考えながら治療していたという。
最初に受けたAC療法は赤い液体の抗がん剤で、海外では「レッドデビル」と呼ばれるほど強いものだと梅宮は説明する。梅宮の場合は膀胱がひどく痛み、トイレの回数が非常に多く、尿は真っ赤になった。点滴が血管から漏れれば皮膚移植が必要になると言われるほどの薬でもある。早く抗がん剤の期間が終わらないかとは思ったが、やめたいとは思わなかった。これでがんを治すのだから、という気持ちで続けたという。
抗がん剤治療中には肺炎を起こし、緊急入院もしている。このときは本当に死にそうになり、自分はがんではなくこの病気で死ぬのだと思った。コロナ禍で多くの人が肺炎で亡くなったのはこういうことだったのか、とそのとき実感したという。
公表後に殺到した民間療法と宗教の勧誘
病気を公表してから、新興宗教や民間療法の誘いが非常に多く届いた。通院先の病院は公表前に、「公表するといろいろな所から物が届いたり勧められたりするので、『お気持ちだけで』と答えてください」と助言していた。最初はピンとこなかったが、公表と同時に「がんにはこの水が効く」「このサプリが効く」「抗がん剤をやめてもっといい薬を」といった勧誘が次々に来た。中には1クール400万円する治療法もあったという。
自宅マンションの下で宗教への勧誘を受けたこともある。「絶対あなたにはこれが必要です」と強く言われたり、大量の物が届いたりした。自作の曲を送ってきた人もいた。「聴けばリラックスできる」なら理解できるが、「これを聴けばがんが治る」と言われると、それはどうなのかと思った。こうした無責任な言葉を信じてしまう人がどのくらいいるのかと梅宮は考えた。弱っている人に宗教が近づくという話はよく聞いていたが、公表するとこういうことが本当に起こるのだと実感した。世の中にはがんにまつわる商売が非常に多く、心が弱っているところに「これが効く」と言われれば、つい手を出してしまう人がいる、と梅宮は指摘する。
家族をがんで亡くした人や、がんを克服した人からの勧めもあった。「姉はステージ4だったが、この方法でがんが消えた」という手紙や、大腸がんや胃がんから回復した著者が「アンナさんも大丈夫、治ります」と送ってきた本もある。梅宮は、がんの部位も出発点も人によって違うのに、なぜ「これをやればあなたも治る」と言えるのか、それがとても嫌だったと話す。
梅宮自身は、保険で受けられ、科学的なエビデンスのある治療をやるべきだと考えていた。こうした勧めを「毒りんご」と呼び、一度も手に取らなかった。病院が示した治療法だけをやり通し、治療途中だからと勧められたビタミン剤すら口にしなかった。発見時点で抗がん剤も効かず手術もできない症例があると聞いていたので、「アンナさんにはまだこの治療法があります」と言ってもらえることがありがたく、感謝して治療を受けたという。同じ理由で、梅宮は自分がやったことを他人に勧めることもしない。自分はこうやって社会復帰した、と伝えているだけだと強調した。
右胸の全摘では一度も泣かなかった
現在はメンタルもだいぶ安定しているという。全摘を告げられたときも、胸のことで泣いたことは一度もない。梅宮の場合は乳房全体ががんになっていたため、一刻も早く体から切り離さなければと思い、「今日でも切ってください」という気持ちだった。がんは放っておけば進行し、死に直結する。そう考えると、胸を失うことを悲しむより、手術ができること、抗がん剤があることの喜びのほうが大きかったという。
ただし、取った後も痛みは続いている。筋肉や組織を剥がす手術なので、今も痛い。術後しばらくは左胸だけが残っていたため体のバランスが崩れ、なんとなく左に寄って歩いていたという。
再建手術を選ばなかった理由
残った左胸をどうするかという段階になると、医師も周囲もまず「今の時代は再建ができる、手術したとわからないほどきれいな胸が作れる、しかも保険適用だ」と勧めてきた。しかし梅宮は、それほど簡単な話ではないと感じた。
梅宮の説明では、Aカップの人とDカップの人では再建でやることが違う。残った胸にボリュームがある場合、同じ大きさを作れるとは限らない。再建は腹部や背中の組織を移して行うもので、梅宮の場合は左胸を半分に切って小さくし、右も同じサイズで作ろう、と提案された。成功したとしても傷や膿、癒着が起き、7回、8回と手術を重ねた人を梅宮は知っているという。また、既存の傷を一度開いて中に器具を入れ、半年ほどかけて皮膚を伸ばす方法もあると聞いた。梅宮にとってはホラーのような話で、「もう無理」と思った。
そこまでして胸を維持したいとは思わなかった。梅宮は、自分の人生で胸がそれほど大事なものではなかっただけのことだと話す。胸は女性の象徴だとか、胸をなくすと女性でなくなるといった感覚は自分にはなかったという。
残った左胸も取りたい――再建は保険、切除は自費
梅宮は今、健康な左胸も取ってしまおうかと考えている。左胸は現時点ではがんではないが、5年後に再発する人もいれば、数か月で再発する人もいる。梅宮は再発率やがんになる確率を調べる検査を受けて陰性だった。本来なら喜ぶ結果だが、梅宮にとっては左胸があることが日常生活でつらい。今でもブラジャーの生地が当たるだけで痛い。
聞き手が、海外の有名人がリスクを理由に胸を取った例を挙げると、梅宮はアンジェリーナ・ジョリーの例を説明した。ジョリーは母親をがんで亡くしていて、検査結果が陽性だった。このままではがんになる可能性が高いという数字が出たため、予防として切除した。家族にがんの人がいるかどうかは重要な要素で、梅宮の父もがんだった。こうした予防切除はアメリカでは日本よりずっと一般的で、日本でも検査は保険で受けられると梅宮は話す。
しかし梅宮は陰性だったため、普通の病院で「胸を取ってください」とは言えない。現状で可能なのは、性別を移行する人が胸を取る手術と同じカテゴリーで、自費で行う方法だけだという。
切除を考える理由は大きく二つある。バランスの問題と、生きていたいという思いだ。生きていたいからこそ取ってしまおうという考えだと梅宮は言う。胸を作るという選択と、胸をなくすという選択は同じ重みを持つはずだと梅宮は考えている。
聞き手も、片方を切除した人がバランスのためにもう片方も取りたいと思うのは自然なことのように感じる、と応じた。梅宮は、これは体験した人にしかわからないつらさや痛さであり、こうしたことを考えて公表する人がまだ少ないから世の中が変わっていかないのだろう、と話した。
変化した死生観、年齢、髪
がんと診断されると、ほとんどの人は傷つき、「なんで私が」と嘆く。梅宮もそういう人が多いと理解しているが、嘆いても仕方がない。どうやって治していくかに頭を切り替えるのが、自分は早かったのかもしれないと話す。
人間は100年、200年と生きるわけではなく、いつか寿命が来る。どんな形で死ぬかはわからない。がん治療中でも、「死にたくない」ばかり考えるのではなく、道に出たら事故で死ぬかもしれない、と考えた。あと何十年も生きるわけではないだろうと覚悟ができたという。
年齢も大きかったと梅宮は振り返る。診断時は51歳で、娘はすでに成人し、自分は結婚と離婚も経験していた。20歳で診断され、これから結婚や出産を考えなければならない年齢だったら違っていたはずだという。抗がん剤を投与すると強制的に生理が止まり、閉経状態になる。それを受け入れられたのも年齢のおかげで、諦めがついたのだと話した。
一番受け入れるのに時間がかかったのは髪だった。撮影日もウィッグを着けていた。髪はだいぶ生えてきたが、まだパサパサしていて仕事には向かない。梅宮の説明では、抗がん剤で毛が出てくる毛穴がガタガタになるため、生えてくる髪もクリクリになるという。
10年続くホルモン療法と、1日9回の下痢
治療はまだ長く続く。梅宮はこれからホルモン剤を10年、飲み薬の抗がん剤を2年服用する予定で、抗がん剤は2027年3月に終わる。ホルモン剤の副作用はあまり感じていないが、飲む抗がん剤では下痢が起きる。飲み始めた頃は1日9回トイレに行き、体がヘロヘロになった。医師に相談して血液を調べると、カリウムがかなり不足していたので、薬で補充しながらバランスを取った。
下痢がつらいという声はよく聞くが、梅宮は、薬が体から出ていってくれている、デトックスだと考えて、「よし来た」と前向きに受け止めていたという。
「外人」と呼ばれた小学校時代と、居場所のなさ
インタビュー後半は生い立ちに移る。梅宮は東京・渋谷区で生まれた。4歳の頃には、父はテレビや映画に出る人だと理解していた。ただ、通っていた私立の女子校は厳しく、芸能活動を一切認めていなかった。オファーがあってもすべて断らなければならず、芸能には興味が湧かなかったという。
梅宮は、自分をかわいいと思ったことは今まで一度もないと話す。むしろ容姿はコンプレックスだった。小学1年から6年まで参宮橋に住み、電車で学校に通っていたが、近所の悪ガキから「外人、外人」と言われ、石を投げられた。ハーフであることがとても嫌だった。一人っ子で、相談できるきょうだいもいなかった。三井系の若葉会幼稚園は最高に楽しかったが、小学校に上がってから自分の名前も顔も嫌になり、居場所がないと感じていたという。
愛情深い父と、「笑っていればいい」母
父・辰夫は地方の仕事が多く家を空けがちだったが、家にいるときは惜しみなく愛情を注いだ。中学からのお弁当はすべて父が作り、学校行事には必ず来た。いつも家族を最優先する父で、親の愛情をたくさんもらったと子どもながらに感じていた。だから変な道には行かなかったのだと思う、と梅宮は話す。
母・クラウディアについては、父のプロポーズの言葉が「何もしなくていい、ただずっと笑っていてくれ」だった。母は50年以上それを貫いた。梅宮は子どもの頃、母を「お母さん」というより「このきれいな人は誰だろう」と感じていた。学校から帰っても「おやつよ」という母ではなく、梅宮は鍵っ子だった。母はおそらく子ども好きではなかったのだろう、と梅宮は見ている。
その頃の母は、月曜から金曜まで料理教室に通っていた。梅宮が聞いたところでは、崇拝する先生の弟子やアシスタントになりたくて熱心に通っていたという。家族のためというより、趣味を優先していたと梅宮は話す。代わりに家にいたのはベビーシッターの「れい子さん」で、東映まんがまつりや遊園地、デパートの屋上の遊園地によく連れて行ってくれた。梅宮は、れい子さんをお母さんだと思っていたという。
それでもぐれなかった。一人でいることを楽しみ、午後3時頃に帰宅して自分で鍵を開け、テレビを見る時間が好きだった。雨の日に迎えに来てもらえず濡れて帰ったこともあり、そのときは不満に思った。しかし、自分に娘が生まれてみると、迎えに行くのは面倒だと母の気持ちが理解できたという。
梅宮家の「氷河期」
子どもの頃、梅宮はこれといって得意なものがなかった。父からは「趣味がないやつはダメだ」とよく言われたが、何にも興味が湧かず、中学生頃には焦りもあった。今振り返ると、渋谷の中心に生まれ、欲しいものが特になかったからではないか、と梅宮は考えている。友人たちは渋谷で遊びたがったが、梅宮にとって渋谷は歩いて行ける場所だった。
梅宮一家は、梅宮が生まれる前から松濤の庭の広い平屋に住んでいた。父はバーベキューが好きで、夏にはクラス全員を招いて誕生日会を開いた。ところが、梅宮が6歳頃に父がだまされて大金を失い、松濤に住めなくなった。梅宮はこれを、これまで話したことのない「梅宮家の氷河期」と呼ぶ。一家は父の知人が経営する参宮橋のアパートの2階に移った。カンカンと音を立てる螺旋階段のある建物で、3人で6年間暮らした。金額は聞いていない。父がだまされてお金を失ったことはほかにも何度かあったが、一番大きかったのがこのときだという。
同じ頃、父は厄年に大病もした。家で突然血を吐いたこともあった。体も悪くし、お金も失った時期だった。その後、父の体調が回復して俳優の仕事が再び順調になり、梅宮が中学1年のときに一家は松濤に戻り、マンションを購入した。父がバラエティ番組によく出るようになったのは、梅宮が芸能界に入った後のことだという。梅宮は、いい思いも嫌な思いもした山あり谷ありの家族だった、と話した。
中学卒業後の「ニート」生活と、自分で選んだ高校
梅宮は私立の女子校が合わず、中学2年のときに父に、高校には行きたくない、一度やめさせてほしいと頼んだ。中学3年で学校を離れ、1年ほどは「ニート」のような生活をした。しかし半年ほどで危機感を覚えた。誰とも話していないのに、夕方の渋谷には女子高生があふれていて、彼女たちの会話にまったくついていけない自分に気づいたのだ。
夏休み前、梅宮は父に「学校に行きたい」と伝え、自分で受験したいから塾の費用を出してほしいと頼んだ。自分で見つけた学校の願書を取りに行き、半年ほどの勉強で合格した。1年遅れの高校入学だった。
選んだのは神奈川県の大倉山にある学校である。生まれも育ちも都心で、学校も山手線の内側だったので、少し田舎に行ってみたかった。東横線に乗ると途中から景色が変わり、田んぼが見えてくる。通学がプチ旅行のようで、自分で選んだ高校での生活は最高に楽しかったという。
東横線でのスカウトと、名前を隠したデビュー
芸能界入りのきっかけは、東横線の車内でのスカウトだった。最初に梅宮に目を留めたのは、同じ車内にいた女優の中谷美紀で、「あの子かわいいよ」とスカウトマンに声をかけたという。渋谷で降りたところで男性から名刺を渡され、見るとスターダストプロモーションだった。当時流行していた『ちびまる子ちゃん』のB.B.クィーンズなど、知っている名前が並んでいた。
しかし梅宮は芸能界に興味がなかった。父がいる世界は、梅宮にとって特別なものでも憧れでもなかったという。「私なんて無理です」と答え、名前を聞かれると、梅宮と言えば身元がわかるので「アンナです」とだけ名乗った。隠していたわけではないが、騒がれるのが面倒だった。
当時、渋谷から歩いて帰る途中によく名刺を渡された。芸能やモデルのスカウトと同じくらい多かったのがAVのスカウトだったという。毎日大量の名刺を持ち帰る娘を見て、父は「梅宮辰夫」の名刺を持たせた。ただし、梅宮が実際にそれを出したことは一度もない。
唯一なりたかった職業は客室乗務員だった。小学生の頃に『スチュワーデス物語』を見て堀ちえみに憧れたのがきっかけだ。ただ、1972年生まれの第2次ベビーブーム世代で競争が激しく、CAになるなら特定の短大に行けと言われても、偏差値的に無理だと思っていた。父は娘の夢を知っていたので、山城新伍と二人でCA10人ほどを招き、ふぐをごちそうしながら試験の内容を聞き出したという。梅宮本人は参加せず、父からその話を聞かされた。結局、勉強も大変そうだと迷っているうちにスカウトがあり、熱心に誘われたこともあって、高校卒業後に正式にスターダストに所属した。
オーディションに落ち続けた日々と、父の登場
所属後はキャンペーンガールのオーディションを受けたが、ことごとく落ちた。100受けて1つ受かればいい世界なのかと思い、落ちるたびに失望した。失望に慣れなければいけないのかとも考え、次に落ちたらもうやめようと決めた。その「最後」のオーディションで、着物の会社の仕事が決まった。雑誌『JJ』の仕事を始めたのも同じ頃だという。
所属当初も梅宮は父の名前を伏せていた。あるとき事務所から「両親を連れて来てください」と言われ、父だけでいいかと確認して、父を連れて行った。事務所の人々は、現れたのが梅宮辰夫だったので非常に驚き、「なんで言わないんだ」と言われたという。それでもスターダストは「梅宮辰夫の娘」を売りにせず、父の名前を隠しも強調もしないで、梅宮個人として売り出してくれたと梅宮は評価している。
ワイドショーが作った「父・娘・恋人」の三角関係
バラエティ番組に出るようになったのは、ある男性との交際がワイドショーで大きく報じられてからだと梅宮は話す(動画の目次では羽賀研二との交際として紹介されている)。梅宮はテレビが苦手で戸惑ったが、それが順番だったという。
世間が面白がったのは、娘の恋人を気に入らない父、心配される娘、その恋人という三角関係だった。当時はワイドショーの全盛期で、ほぼ毎日報じられた。父のインタビューを取ってはそれを恋人にぶつけ、恋人がまた変わった発言をすると、今度は梅宮にコメントを求める。その繰り返しが終わらなかった。スターダストの社長からは、何千万円もかけてCMに出るよりワイドショーに出るほうが知名度が上がる、犯罪以外なら何でもやっていい、と言われていた。ただ梅宮自身は計算していたわけではなく、自然に好きになり、自然にそうなっていっただけだという。周囲がなぜそこまで心配するのか、当時の梅宮には本当にわからなかった。父はやきもきしていた。
父の過干渉はそれ以前からあった。中学3年のときの初デートでは、母から話を聞いた父が「どんなやつか見に行く」と言い、母の運転する車の後部座席から双眼鏡で梅宮を見ていたという。速度を落とせ、もっと早く行け、と父が指示し、母が運転していた。梅宮がそれを知ったのは大人になってからである。問題の交際は21歳から26歳までの5年間続いた。前編は、聞き手がその相手を取材したことがあると切り出すところで終わる。
すみません。じゃあ、あ、おはよう。じゃ、よろしくお願いします。はい。じゃあよろしくお願いします。
街録チャンネル見習いディレクター募集中です。面白い映像を作りたいという若者、ご応募お待ちしております。
本出されてた。出版社の方紹介していただいて。あ、はい。嬉しいです。ありがとうございます。いえいえ。とんでもないです。なんかね、街録の話が来たよって言ったらもう周り、私の周りみんなすごい良かったじゃんって言って、皆さん大喜びです。あ、本当ですか?
はい。梅宮アンナさん、普通に今も投薬中ってことなんですよね。そうです。そうです。そうです。乳がんになって、手術して右胸取って、で、脇のリンパも取って。
決して軽くはないんですよね、その手術の内容を。
はい。それが一応その私が選んでるあの治療が標準治療というものなんですよ。で、標準治療っていうのは大きく分けて3大治療で、抗がん剤、手術、放射線。で、それを経て今はあの投薬治療です。毎日薬を飲んでます。
こんなタイトルになってました。それが一応がん治療のフルコースってことですか?
そう。あの、ステージがあって、がんって。ステージ4まであるんですけど、数字が少なければ少ないほど治療の期間も内容も結構ライトで済むんですけど、私の場合はステージ3Aっていう、結構進んでたんで。3ぐらいになってくるともうほとんどフルで治療します。
だってやっぱめちゃくちゃ痛いんですよね。まあ痛いって、安易な衝撃かもしれないですけど。
苦しいです。痛い場所はどこかって言うと、その治療の中で言うと手術です。で、手術の時はもちろん痛くないけど、その後ね、手術の後が結構、私は苦しんだ方なんじゃないかなと思います。
あの、本読ませていただいたんですけど、50代でなると、親のこととか子供のこととか、なんか上と下にこう人間関係があるじゃないですか、家族に。こんな、闘病以外で大変なことも起こるんだとか。
大体人間50歳ぐらいから多分がんだと思います。やっぱ50年も生きてれば体もこう古くなっていくし、女性なんかはやっぱりちょうど更年期みたいなのもあるし、親が老いていく様とかも子供ながらすごい辛いし。でね、うちは7年前ですけども、父が他界して、で、その後片付けというかも大変だったし。私の今娘が24歳なんですけど、うちの父の介護的なものもあった中、うちの父は7年前に亡くなりましたけど、親も介護になって、自分も中年になって病気があって、で、娘、うちは娘ですけど、娘がもう結婚しても不思議じゃない年なので、そこにまた子供が生まれちゃったりしたらもう大変ですよね。やることが多くて、いつ自分が休むのみたいな。
今で言うと、もうこうやって歩きながら撮影とかもできてるから、体力的にはだいぶ回復されてるんですか。
全然元気です。全然、もう私外に出ないと元気じゃないんです。太陽を浴びるのが大好きで、外に出て人と話すのがすごい好きで。だからあの治療中なんかもずっと仕事してました。
もう結構積極的に発信されてたんですよね。もう隠さずというか。
そう、その発信することがなんかこう自分を支えてた1つでもあって。よくその治療の中で支えになったものは何ですかってあるんですよ、よく質問が。皆さん本当色々、みんなそれぞれだと思うんですけど、私なんかはやっぱり自分が自分を支えないと、まずそこだと思っていて。例えばお母さんがいるとか、娘がいたので娘が支えですとか、子供が支えですっていう言葉をよく聞くんですけど、もうそれも自分が自分で支えて初めて周りに感謝できるんだよね。やっぱりいくら家族がいてもがんが治るわけじゃないので、やっぱそこは自分で気持ちを上げていかないと、やっぱり何も始まんないんですよ。本当に自分が治療をしてすごい分かったんですけど、やっぱり自分次第ですね。あの、考え方と。
だってあの本の中にも、病に診断されたとかじゃないけど、娘さんからちょっとママうつなんじゃないみたいな。
ああ、そのなんかこう私がちょっとうつっぽかったのは、多分えっと放射線の時だと思うんですけど。1番放射線が辛かったんですよ、痛み。なんかやっぱりその照射するんでね。今ピンポイントでやるんですけど、照射って結局焼くんですよ。で、縮むから痛いのね。でもその痛いとか、その話っていうのはネットですごい出てくるんですけど、放射線の話あんましてくれる人いなくって。で、自分がやった時に、え、痛い、痛いって先生言ってなかったよねって。
あ、確かにイメージだと、抗がん剤っていうものがとんでもなく辛いっていうのはすごいなんか耳にするし、なんかそれを選択しない人すらもいるみたいな。
そうなんですよね。抗がん剤ってすごくネガティブなイメージがすごいあって、私も実際世の中から、抗がん剤やめろ、今すぐやめろ、なんかあなたが抗がん剤をやってる、標準治療やってるって言うとあの悪影響だみたいなことを言ってきた人もいて。抗がん剤ってすごくね、そこのピンポイントにだけ効けば問題ないんですけど、元気な細胞も殺しちゃうんで、やっぱり色々副作用が出てくるのが事実なんですよね。だから自分があの治療してて1番痛感したのは、がんに勝つってよりも、要は抗がん剤に勝たないといけなかった。抗がん剤に負けちゃうと、がんも一緒になってこうどんどんどんどん元気になってっちゃうから、まず抗がん剤に打ち勝つにはどうしたらいいのかっていうのを考えて治療してました。
抗がん剤中にね、あの、私は肺炎を起こして緊急入院をしてるんですね。で、その時にもう本当死にそうになっちゃって。あ、私あのがんで死ぬんじゃなくって、あ、なんかこの感染症で死ぬんだっていう。なんかそのコロナの時もたくさんの方が亡くなった時に、やっぱりその肺炎になっちゃったりで、あ、こういうことなんだって、その時思いましたね。
発信するとこんな副作用あるんだってのが、あのめっちゃ、それ新興宗教とか、あと民間療法の誘いが、もう本当にすごくって。要は自分の行く病院の先生が、まず最初にその公表する前に私に言ってくれたことなんですけど、まず公表したら、ものすごいいろんなところからいろんなものが届いたりお勧めされたりするんで、本当にアンナさん、お気持ちだけでって言ってくださいって言われたんですよ。
で、最初なんかあんまりこうピンとこなかったんですけど、やっぱり公表したと同時に、はい、もうがんにはこのお水が効きます。このサプリが効きます。その抗がん剤をやめて、もうちょっといい薬があるから。それはワンクール400万とかするものなんですけど。で、そういう治療法ね、世の中にはやっぱりこれ効くよっていうものはたくさんあって。でも私は自分がちゃんとこの保険で治療ができる、科学的に、もうエビデンスもちゃんとある治療法をやるべきだって思ってたから、私は一切そういう、あの、毒りんごって私は呼んでるんですけど、毒りんごを手にすることはなかったんですよ。
やっぱ心が弱くなるから。家に帰ったらマンションの下に、宗教に入りませんかっていうのもあったし。アンナさん、もう聞いてください、絶対あなたにはこれが必要ですみたいなことをすごい言われた。すっごいあの物も届いたし、で、曲とかも作ってくれたりした人がいて。これを聴くと気持ちがリラックスするからっていうんだったら分かるんですけど、これを聴いたらがんが治ります。
ええ、みたいな。それはちょっとどうなのっていう。こんな無責任なことを言って、これを信じちゃってその方向に行っちゃう人っていうのが少ないのか多いのかどっちなのかなと思って。でもさ、確かにその元気ない人に宗教の人とかが寄って勧誘するとかってよく聞く話だから、公表するとこういうこと起こるんだって。
本当にあのがんにまつわる商売というか、そういうのものすごい世の中にはたくさんあってね。これ効くよって言って、心の弱ってるところにこれ効くよって言ったら、あ、そうなんだって言って行ってしまう人がやっぱり。私はもう1個の、自分の1個だけ、自分の病院が差し出してくれた治療法のみを見事に自分が全部やってきて、途中だから、市販されてるビタミン剤すら口にしなかったんで。せっかく抗がん剤ありますよ、まだアンナさんにはこの治療法がありますよって言ってくれてる、すごくありがたいことなので。やっぱり発見の時にもう抗がん剤も効かない、手術もできないっていう症例は、そういうの聞いてたのもあったんで、私はちゃんとまだアンナさん治療の薬がありますよって言ってくれてるので、ありがたく感謝をしてやってました。
今はだいぶメンタルは安定してます。安定しますね。もちろん人間だから多少のこう浮き沈みはあるんですけど。ただ私はあの、乳がんですよ、はい、胸を手術して全摘ですよって言われても、そこに関しては泣いたことが一度もないんですよ。
胸こそそんなにあの抵抗なかったって書いてました。
なかったんですよ。なぜならば私のあのがんって全部がもうがんになってたから、一刻も早く自分の体から切り落とさないと、切り離さないとと思ったんで、もう先生早く、もう今日でも切ってくださいっていう感じだったんですよね。そうじゃないとそのがんってすごい進行してっちゃうんで、ほっといて治るもんじゃなくって、ほっといたらもう死に直結していくものだし。そう考えたら、別に胸を嫌って言って泣くよりも、手術ができるとか抗がん剤があるってことの方の喜びが強かったから、なんかなかったし、逆にもう本当感謝で、ありがとうございます。実際取って、で、取ったその嬉しさはあるんだけども、ただ痛い。痛いです。
今も?今も痛いです。あの筋肉とかを剥がすんでね。その胸だけを綺麗に切っても、やっぱり中のその組織とか剥がしたりするんで痛いです。
歩くのバランスが大変なんだってのも。あ、なるほどと思う。やっぱり左側の胸が残ってるんで、なんとなく、最初の頃ですけど、左の方に行っちゃうんですよね。なんとなくですけど左に歩いてるなみたいなのはありましたね。
今もうそのバランスみたいなのは慣れてきたんですか?
いやいやいや、もう全然、それどころか、じゃあ今度こっちの胸をどうするかってなった時に、先生方も含めて世の中もそうだったんだけども、私にまず皆さん言ってくるのは、再建ができるから、もう全然今の時代は本当に綺麗な胸がそのままリアルに、本当その手術した感じがしないような胸を作れるから、しかも保険適用になるんですね、みたいな感じなんですよ、世の中が。でもそうじゃなくて、いやいやいやいや、そんな簡単に言いますけど、実際のところ胸がAカップの人とDカップの人じゃやることが違ってくるんですよ。
例えばバランスで悩むんであれば、こっちの胸ボリュームがあるので、ボリュームに対してじゃあこっちの胸も同じようにサイズが作れるかっていったらそうじゃないんですよ。で、どうやって作るかっていうと、お腹の肉とか背中の肉を持ってきて再建手術っていうのは行われるんで、実際はやっぱり左の胸を半分に切るって言われたのね。アンナさんの場合は半分切って小さくして、こっちも同じサイズで作りましょうみたいな。こっちのBカップにして、こっちもBで作りましょうみたいな。だけどすごい実は大変な時間もかかって、実際手術が成功っていうかしたとしても、傷があったり膿んだりして癒着があったりして、7回8回手術を重ねた人を私は知ってるのね。だから他人事じゃないけど、もうホラーでしかなくて、話を聞いたら。
いや、それよりもそんな大変な思い、だってそもそもこっちに、じゃあ今から手術をしようと思ったら、この傷を1回開いて、その中にちょっとあるものを入れるんだけども、半年ぐらいかけて皮を伸ばすんですよ。もう聞いただけで、いや、もう無理ですよ。でもそんな思いしてまでなんか胸を維持しようなんて思わなかったし、自分にとってそのおっぱいっていうのがそんな人生の中で大事なものではなかっただけのことなんで。胸は女性の象徴だとか、胸をなくすとなんか女じゃなくなるとかっていう思いっていうのは私にはなかったんですよね。
ただむしろ、じゃあ今私が何を思ってるかって言うとね、こっちの胸はもうその乳がんっていうものでは今の段階ではないけども、この先分からないです。はっきり言って、こっちの。5年とかして再発する人もいるし、数ヶ月で再発しちゃう人もいるんですよね。でも私は一応そのチェックもして、今後再発率とか、がんになる確率っていうのを調べることができる検査があって、私はそれが陰性だったんですよ。それ本当喜ぶんだけど、陰性だから。あ、良かった、再発率が低いって本当喜ぶけども、私の場合はこっちの胸があることがすごく生活の中できついんですね。例えばブラジャーにしても、今もそうなんですけど、生地がここに当たるのが痛いんですよ、今でも。いっそのことこっちの胸も取ってしまおうかなっていう風に思ってます。
ああ。なんか海外のアーティストかなんかで、もうリスクがあるから取りましたみたいな。取りましたよね。
アンジェリーナ・ジョリーなんですけど、お母様が乳がんだったんですね。がんで亡くなっていて。家族の中にがんの人がいるかいないかっていうのもとっても、あの、これは大事なことなんですけども、私も父ががんだったんで。で、調べて、アンジェリーナ・ジョリーの場合は陽性だったんですよね。このままで行くと多分乳がんになりますよっていう数字が出て、で、そういう人が予防で取れるんです。で、それもあのアメリカでは結構ポピュラーで、日本よりも全然ポピュラーで。日本もむしろそれで保険で検査ができるんですけど、ただ私は陰性だったので、正直普通の病院で、はい、胸を取ってくださいっていうわけにはいかなくって。実際じゃあどういう風にするかって言うと、そうですね、女性が男性になる時にやっぱ胸を取る人いるので、そのカテゴリーになりますけど、自費でやることしか今はないですね。
正直、生きていたいから取りたい。あとやっぱりバランスも大変だっていう、その2つ、大きく分けて2つなんだけど理由が。で、生きてたいんですよ。で、生きてたいからこそもう取ってしまおうっていう考えなんだね。だから私はこの胸を作るという選択と、胸をもうなくそうという選択は同じ重みのような気がするんです。
それ確かに、切除するって決めた人がバランス取るために両方ともやっちゃうって、なんか全然普通に自然に思いそうなことじゃないですか。
そうなんですよね。だからなんかこれって本当に体験した人しか分からない辛さだったり痛さだったりするんで、私みたいなこういうことを考えて、こういうのを発信して公表するっていう人がまだまだ少ないので、だから多分世の中が変わっていかないんだろうなと思った。
がんが家族にいた人から、例えば物が送ってくるっていう中に、うちの姉はステージ4でしたけど、もうこの方法をやってがんが消えましたとか、がんが治りました、だからアンナさんもやってくださいっていうのも結構多いんですよ。例えばその大腸がんとか胃がんとかの、そういう本をね、復活できたから本を書かれた著者の方が送ってきて、アンナさんも大丈夫です、治ります。いや、私胃じゃないし。私だからっていう。そのがんになった部位も違えばスタートポイントも違うし、もうみんな違うのに、どうしてそうやってなんか、これをやったから、これをすればあなたも治るって言えちゃうのかなと思って、私はすごい嫌だったんです、それが。だから私は自分がやったことを絶対人に勧めてないんですよ。これをやったからあなたもやってみたいなことじゃないんで。私がこうやって社会復帰してったよっていうことは言ってるだけで、勧めたことはないかな。
だからそう、どう向き合っていくかみたいなことの方が大事ですね。なんかすごくこう、乳がんになりましたって、ほとんどの人がやっぱり傷つくし、なんで私が、なんで私がって言って嘆いちゃう人が多いんですね。でももうそんなこと言ってもしょうがなくて、どうやって治していこうっていう風に、頭の切り替えかな。切り替えが私は早かったかもしれないですね。
人間ってずっと生きてないでしょ。100年、200年も生きてない。今100年社会って言われてるけど、でもそこでいつか寿命が来て、それがどういう方法で亡くなるか分からなくて。私もがんの治療してて、死にたくない、死にたくないばっかり考えるんじゃなくて、例えばちょっとそこ道出たら、私轢かれて死んじゃうかもしれないんですよね。それ分かんないから。あと何年生きるか分かんないけど、そんな何十年も多分生きることないだろうなって自分で思って、覚悟ができるっていうか。
でもしかも私51歳だったから、その時にね。例えばこれが20歳の時に乳がんですって言われて、抗がん剤、放射線やる。これからどうしよう。子供産むのに大丈夫かな?結婚もしてないしって。そういう年齢だったらまた違ったと思うんですけど、私はもう51歳で子供ももう成人してて、で、一回結婚して離婚して、そういうことがあったんで。でも実際あの抗がん剤って体に投与した瞬間から、というかその時からもう強制的にあの生理もなくなるし、もう強制的に閉経になっちゃうんですね。だから年齢もあったと思うんですよ、自分で。諦めがつくというか。それ若かったら多分違ってたと思うんですけど。
髪の毛のが一番ちょっと受け入れるのに時間かかった。そうですね。やっぱり髪の毛がね、ないのはね、ヤバいです。ヤバいです。
え、でも今ちょっとメイク立ちですか?今はだいぶこう。
もうね、これちょっと今日もウィッグですけど、先ほどあのご覧になってたと思うんですけど、だいぶもう生えてきて。こう仕事をするとなるとちょっとまだ、あの髪の毛とか、あの髪質だとまだまだパサパサしてるんで、ちょっとクセがちょっと出てっちゃったりとか。やっぱり抗がん剤で1回こうやっちゃうと毛根がもうガタガタなんですよ。人間って髪の毛張るとこう丸いんですね、普通は。で、この上から髪の毛が普通に生えてくるんですけど、この髪の毛が出るこの入り口、出口というか、ここがガタガタになるんですよ、抗がん剤で。だからガタガタの形で生えてくる。クリクリになっちゃうんです。
やめたくなるぐらい痛いですか、抗がん剤治療中。
えっとね、抗がん剤っていっぱい種類があって、私が最初やったAC療法っていう赤い液体の抗がん剤なんですけど、海外ではこれをレッドデビルって言われてるぐらい劇薬なんですよ。何?レッドデビルとか言って超怖い名前みたいな。で、それを体に入れてるとものすごく、私の場合は膀胱がすごい痛かった。もうお願い出せみたいな。もうすごいです。おトイレの回数もこんなに行くのっていうぐらい。おトイレ行くと真っ赤っかだし、漏れると皮膚移植ですぐらい言われるし、結構な薬なんですよね。だからもうやだな、早く抗がん剤期間終わんないかな、終わんないかなって言って、やだなとは思ったけど、やめたいとは思わなかった。これでがんを治すんだもんって、やってましたね。
10年かかるんですね、さっきホルモンと。
はい。あの、乳がんの中でも大変というのは治療が長いんですね。で、私が当時51歳だったので、60…そうですね、薬を、これからホルモン剤を10年飲むのと、飲む抗がん剤を2年間飲むんですね。抗がん剤に関しては来年の2027年の3月で終わります。終わらないのはホルモン剤です。ホルモン剤は10年の。
あ、それがなんか飲むことにちょっと副作用あるんですか?
あのホルモン剤はそう、私はそんな感じてないんだけども、抗がん剤はですね、皆さん同じなんですけども、下痢をします。最初始めた時は1日9回ほど行っていて、もう体ヘロヘロになっちゃうんですよね。やっぱ全部、脱水症状というか、出ちゃうんで。あ、どうしよう、どうしようっていう感じでね。先生なんか私しんどいんですけど、なんだろうなってなってたら、血液を調べたらやっぱカリウムがかなりなくなっていて。で、そういう時はちゃんとお薬が補充されて、それでバランスを取っていくんですけども、四六時中トイレ行きましたね、最初は。だからその下痢が辛くてっていう声はよく聞くんだけども、でも抗がん剤がこう体から出てくれてるんだろうな、デトックスで出てってくれてるんだろうなって思うから、私はすごい喜んで、よし来た、嬉しいみたいな感じでポジティブに考えるかな。何事も。
大体いつもですね、今まで生まれてきてからどんな風に生きてきたかってことを聞くのがちょっとメインなんですけど。アンナさんは出身っていうか、生まれはどこに?
はい。あの、東京の渋谷区の代々木原で生まれました。
お父さん梅宮辰夫さんで。そうです。お母さんクラウディアさん。そうです。もう両親がテレビに出てるのがもう当たり前というか。
まあまあ、そうですよね。4歳の頃はもう、あ、うちのお父さんはテレビに出てる、映画に出る人だなってのは4歳の頃からもう分かってたし。
え、てかそのもうテレビとかも0歳で出てる感じです?
ただ私あの私立のね、女子校だったんですけど、すごい大変厳しくて、芸能活動を一切認められてない学校だったんですね。自分の家族というか父親がそういう仕事をしてても自分は出られないから、全然興味が湧かなかったというか。もう全部、例えばオファーがあってもお断りしなければいけないし。例えば自分が、なんだろう、私って可愛いよねって思ったこと1回もなくて、本当に。大人になって、今でも思ってます。どっちかって言うとコンプレックスだったんです。あ、そうなんですか。私、自分の顔が。
え、なんかこのパーで来いって。
そう。あの、小学校の時に参宮橋に住んでたんですね、私。小学校1年生から6年生、参宮橋に住んでて、学校はあの、小学校からその目白にあったんで電車で通ってたんですけど、街のね、あのその自分の住んでるエリアのこう悪ガキがいて、やーいやーいって。もう本当今でこういう言葉使っちゃいけないけども、外人、外人って言われたわけ。で、本当になんかこう外の人って書くから、ずっと言われて石とかも投げられて。で、なんかこう自分がハーフだってこともなんかすごく嫌だったんですよね。
しかも兄弟がいるわけじゃないから。そう。1人っ子だったし。全然何とも思わなかったんです。すごい素晴らしい幼稚園に行ってまして、三井財閥がやってる幼稚園に行ってたので、若葉会幼稚園っていうとこに行ってたんで、最高に楽しかったんですけど、小学校にね、やっぱり上がってからですよね。なんか自分の名前が嫌だと思ったのと、この顔が嫌だっていうのと、自分のなんていう、居場所が実はない幼少期というか。
そっか、え、お父さんは結構忙しい感じなんですか?
そうですね。もう当時はやっぱり地方に行ってたことも多かったし、あんまり家にいないってはいないんですけど、ただいる時はもうこれでもかっていう愛情を注ぐ梅宮辰夫さんなので。例えばその私中学からお弁当だったんですけど、中学の3年間全部父親がお弁当作ってくれたし、もう絶対学校行事にはもう絶対来たし、いつも家族を第一優先に考えてる父親だったので、そういう意味では親の愛情をいっぱいもらったっていうすごい感じをいつもしてたから、子供ながらね。だから変な道には多分行ってないと思う。
ああ、お母さんとの関係はどうだったんです?
母親はクラウディアさんですけど、なんせうちの父が結婚する時に、何にもやんなくていい。もう本当何にもしなくていい。ただ1つ、ずっと笑ってくれ。笑ってくださいって。笑ってさえいれば僕はいいんですっていうのがプロポーズの言葉だったので。で、うちのクラウディアさん見事50何年間それを貫いて。小さい時に思ってたんですけど、お母さんっていう感じじゃなかったんですよ。なんかこの綺麗な人は誰なんだろうみたいな。誰なんだろうぐらい遠い感じなんで。誰なんだろうっていうか、この人お母さんだよねって。でもなんかお母さんらしいことをしないから、例えば学校帰ってきたら、はい、おやつよとか、そういうのなかったのね。なんかいつも鍵っ子だったし、私。
世間一般のお母さんとは明らかにかけ離れてるなっていうのが、もう子供だから感としてあったんですか?
そう。もうね、あの多分子供が好きじゃないんだと思うんですよ。え、そう。そういう人います、本当に。でも私は別にそれでなんかぐれなかったというか、逆にその鍵っ子って言うと寂しいっていう風に思われるかもしれないけど、私は自分で家の鍵を開けるのがすごい好きだった。そう、そう、自分の時間だみたいな。で、母はその時何をしてるかって言うと、月曜から金曜全部お料理学校に行ってたんです。
お料理学校みたいなとこ。料理学ぶ気はあるんですね。で、作れるんだけど。もう聞くないですよね。聞くところによると、その学校というか、お料理教室のその、すごい崇拝してる先生のところのお弟子さんになりたかったんだから、もう子供がいるのに、もうあの趣味優先みたいな。
そういうのは別に梅宮辰夫さんが別になんか許してたというか、別にあんまり。その料理も家族のために?
いや違います。違う。するとかはなく、その自分がその弟子になりたい、なんかこうアシスタントになりたいっていうので一生懸命一生懸命通ってて。普通に考えたらね、子供が生まれたら多分子供中心になる人がほとんどだと思うんですけど、全然、なんかあの人変わってるんですよ。
え、お父さんがそれこそ映画とかお芝居の仕事で家を結構数週間とか空ける時とか、どんな生活なんですか、それ?
えっと、あとね、うちにねさんもいたんですよね。そう、そう。だからベビーシッター的な人がいたので、れい子さんって言うんだけど、れい子さんといつも東映まんがまつりとか映画見に行ったりとか、遊園地とか、あとね、昔だとそのデパートの上がちょっとこう、ちっこい遊園地みたいなのになってるじゃないですか、昭和って。で、そういうとこいつも連れてってもらったりとか。で、れい子さんがお母さんだと思ってた。そうなんですよ。
そうか、じゃあれい子さんの方に親しみを覚えてるんです?どちらかというと。そうですね。れい子さんと過ごした時間が長いのかもしれないですね。もう本当になんかうちは自由ですよね。
あ、その自由は良かったですか?逆に言うと。
うん。なんか私は元々その1人っていうので、1人をすごい楽しんでたので。大体3時ぐらいに家に帰ってきて自分で鍵開けて、そうそう、土曜劇場的なものをやってるし、好きでしたね。ああ、雨降っても濡れて帰ってきてっていう。めんどくさいんですよ、迎えに行くことが。で、自分がやっぱりね、その時はちょっとうーんって思ったけど、自分が子供が生まれて、百々果が生まれた時に、ママのやってたことが理解できたんですよ、その時に。ああ、これはめんどくさいわみたいな。
ああ、なるほどな。大変さね。そう、私はね、ママみたいじゃなかったけど、もうちょっと百々果といた時間が長いんだけども、分かりました、それは。お母さんって大変なんだなと思って。だからなんかその人がどう思うかだから、私たちが子供で良かったですよね、クラウディアさんって感じで。
それで言うとさ、何が得意な子供だったんですか、その子供の頃。
私?いや、なかったと思います。得意なものとかで、よく私父に言われてたんですけど、お前は趣味がないよねって。趣味がないやつはダメなんだよってすごい言われたことがあって。でもどうしよう、何にも興味が湧かないんですよ。なんか何になりたいとかもなかったし。え、どうしようって。そういう焦りはやっぱありましたよね、中学ぐらいから。
それって今思うと、なんでそんないろんなことに興味がなかったんですか?
渋谷区の中心に生まれたからですかね。もう恵まれて欲しいものがない。もうそれが高校、中学になってくると、みんなほら渋谷とかで遊びたいんですよ。で、私立なんでみんな早いんですね、遊びとかも。でも私全然歩いていけるわけですよ、渋谷。そ、その時はもうさっき言ったように、小学校6年間は参宮橋に住んでたんですけど、中学からは松濤に戻ってるんで。
え、松濤ってどういう理由でそうなってるんですか?ずっと松濤。
元々うちの両親は松濤に住んでたんですね、私が生まれる前。私ができて、それで、その時も松濤だったんですけど、松濤のお庭が大きいお庭がある平屋に住んでて、それでみんなクラスを全部呼んで誕生日会とかやってたの。バーベキューが好きなんだよね、うちの父親は。それでよくみんなを招いて、子供たちを遊ばせて、そういうのをよく夏はずっとやってたんですよね。
あ、そういうリッチな生活。
で、参宮橋に行っちゃった理由は、うちの父が騙されちゃったんですよね。まあまあ結構騙されることが多くて、あのお金がなくなっちゃったんです。で、皆さん多分全然知らないし、この話をしたことないですけど、梅宮家氷河期時代っていうのがあって。参宮橋のアパートに引っ越さなきゃいけなくって、螺旋階段のうちに住んでたの、6年間。
ああ。え、螺旋階段がいい。カンカンカンカンっていう、こういう回る螺旋階段でアパートに3人で住んでたんです。アパート何階に住んでた?2階です。ああ。
で、結構お金に…騙されちゃって、お金がなくなっちゃったっていうのは何回かあって。あ、何回かある。何回かあります。多分1番大きいのは私がその6歳ぐらいの時。へえ。でも数千万みたいな?分かんない。ちょっとそこは聞かなかったけど、とにかく松濤には住んでられないみたいになって。で、知り合いのアパートを経営しているお友達がいて、そこに住ませてもらってたんです。
それどこや?あ、そうか。でもずっと梅宮辰夫さん活躍してましたもんね。
うん。でもやっぱりね、多分厄年って言ってた。厄年ですごいまた大きい病気をして。なんかいきなりなんか血とか吐いて、家で、わーってグバーって入って、それでなんかまた大きい病気をやってたんですよね、小学校の時。だからそういう体にも来たし、お金も持ってかれちゃったし。アパートに住んで6年間、アパートに住んでた時代があって、で、私が中学1年生の時に復活して松濤に住んで。その時にはもうマンションになってるんだけども、家が。で、そこを買って。
松濤に戻る時には、その体調も回復して。そうですね。バラエティとかも結構出てるイメージ。バラエティは私が芸能界に入った後ですよね、バラエティは。
で、それで言うと、さっきの松濤に戻るっていうのは、体調がちょっと戻ってきて役者仕事がまた順調にできるようになった。
そうそうそうそう、そうです。そうです。そうです。だからね、なんかこう山あり谷ありで、それなりに色々こう経験はしてますよ。いい思いもしてるし、すごい嫌な思いもしてるし。
はい。中学生、小学校、その私立女子校に入って中学3年で、え、私はそこをやめたんですね。で、ちょっと校風が合わなくて。で、ずっとやっぱり中学の時はちょっと合わないな、ここ自分の場所じゃないなっていうのを思ってて、で、父親に中学2年の時に、もう高校には行きたくないと。一旦やめさせてほしいっていうお願いをして。で、中学やめた後の1年間は私プー太郎だったんですよ。そう。学校やめちゃったから。
そう。ニートだったんです?ニート。そう、ニート。ニート的な感じだったんだけど、ただ半年ぐらいでやばいと思って。なんか私1人誰とも喋ってないんだけど、周りは、友達はあのね、学校で、家が渋谷だから、なんか夕方とか渋谷行くともう女子高生だらけじゃないですか。私みんなの話してること全然ついてけてないって、耳に入ってきたのが多分えっと夏休みのちょっと前だよね。
で、もう1回父親に言ったのは、学校に行きたいと。人生で学校に行きたいと思ったこと1回もないんだけどって言って。じゃあどこ行きたいんだって言って。自分で受験をしたいから、申し訳ないんだけど塾のお金を出してくださいって言って。それで自分で見つけてきた高校の願書を取りに行って、それでそこを受けたら受かったんですね。半年ぐらいしか勉強できなかったんだけど、そんなすごい偏差値が高いとこじゃなかったから、どうにかいけるかなと思って。
え、それ高2の年で高1になったみたいな?そうです。そうです。1年遅れで。ああ。
行って、高校はどこ行ったかって言うと、都内がもう嫌すぎて。生まれも育ちもその中心だったし、学校もこの山手線だし、ちょっぴり田舎に行ってみようと思ったんです。そう、そう。東横線乗って、場所は大倉山なんですけど、なんか風景が変わるんですよ。編ぐらいからこう風景が変わって、なんか田んぼが出てきて。え、これなんかプチ旅行みたいな。学校行くのにちょっと風景が変わるっていいなっていう。で、神奈川県の学校に、あの、受験して受かったんですけど、そこへ行って自分で選んでるから、まあ楽しかったですよね、高校生の時。最高に楽しかったです。
ちょっとした田舎っぽい学校に行くわけじゃないですか。どうやって芸能界に入るんですか、それ。どこ?
東横線に乗ってたんですけど、東横線で声をかけられたんですよね。電車の中です?中です。中です。電車内スカウト。
そうです。で、私を見つけてくれたのが、その時一緒にいたスカウトマンなんだけども、スカウトマンよりも私を見つけてくれたのが、大女優さんの中谷美紀ちゃんです。え、中谷美紀さんが。うん。そうです。ねえねえ、あの子可愛いよみたいな。渋谷で降りた時に声をかけられて、男性のこういうものですって言って名刺を見たらスターダストプロモーションで。で、当時ちびまる子ちゃんが流行っていて、B.B.クィーンズとか書いてあって、結構知ってる女優さん、俳優さんがいたので。だけど興味がなかったんですよね、芸能に対して。
あ、興味なかった。なかった。え、やっぱそれお父さんやってるから?うん。特別な世界ではなかったんだと思います、私には。ああ。そば憧れもしなかったんですね、特に。
そうですね。だからなんか、あ、そうですかみたいな感じで。モデルになんないって言うから、いやできないですよ私なんてっていう感じの子だったんで。いや君やろうよみたいな。じゃあとりあえず名刺持って帰りますって言って。で、名前教えてって言われて、梅宮って言うとバレちゃうから、アンナですって言って、ずっとアンナで通ってました。
はあ、そっか。スカウトさんもその時に梅宮辰夫の娘って分かってない状態なんです?
分かってないです。全然分かってないし、言う必要もないし、隠してたわけではないんですけど、なんか、ああってなんのがめんどくさくって。まあそのぐらいからかな。でもね、渋谷駅から歩いて帰るので、いっぱい名刺もらってた。
あ、別にそれ以外にもちょくちょくあったんですか?
そう。当時芸能界というか、そのモデルさん、芸能人になりませんかっていうのと、あと同じぐらいにスカウトマンがあったのが風俗が多かったんです。え、分かるよ。風俗、風俗っていうか、えっと、AVになりません?え、もすごい、あ、なんかスカウトされちゃって、え、そんなに私エロいのかなとか思って。で、それですごいこう1日にあの、たくさん名刺を毎日毎日持ってくるから、父親があまりにも私が名刺を持ってくるんで、父親がお前これ持っとけって言って、梅宮辰夫っていう名刺をずっと持たされて歩いてたの。
すごい、それ出すのもちょっと嫌ですもんね。そう、なんか別に、で、結局出すことは1回もなかったんですけど。まあ当時私は、あの、唯一なりたい職業はあったことはあったのね。あの、今で言うCAさんになりたくて、小学校の時にスチュワーデス物語を見て憧れて、堀ちえみさんに憧れて、ちょっとそっちの方向に気持ちは向いてたんだけど、1972年生まれだから第2次ベビーブームなわけ。そう、だから何やっても競争率が激しいし、CAさんになるためにはここの短大に行ってくれって言われたんだけど、絶対偏差値無理だよなってずっと思ってて。で、結局、私がCAさんになりたい、なりたいっていうのも父親はもちろん聞いてるから、で、いっぱいなんかCAさんをあの、呼んでね、色々そのどういうテストがあるんですかみたいなのをよく聞いてる会があったんですよ。
山城新伍さんと。山城新伍さんと2人で、なんかCAさん10人ぐらい呼んで、なんかあのフグをご馳走したりとかして、結構まあまあ、なんかあのコネクションを探すみたいな。まあそういう時代だからね。本気出すとそういうことができるんですね。そうそう、なんか合コンやってました、山城新伍さんと。はい。
え、じゃあアンナさんもそのCAの先輩の話聞くために行ってる?
私は行かなかったんです。聞いてきた話を父親からされて、こういうことをやるんだよ、こういうことやる、なんかやっぱCAになりたいんだったら、あのこの短大らしいよって言って。そっか、どうやっても今からじゃ勉強も大変そうだしな、そんな偏差値も上がんないしなとか思って。
そうこうしてるうちにスカウトがあって、先ほど言ったように、じゃあそこまで言うんだったら、そこまでそんな風に熱烈に言ってくださるんだったらと、スターダストプロモーションに入ることになるんですけど、学校を卒業してからになりますけど、正式には。
当時はキャンペーンガールが多い、そこが登竜門というか、なんか朝響とかいろんな例とか、いろんなあるんですけど、ことごとく落ちるんですよ、私は。
入ったらそんな順調じゃないですか?
じゃないです。100個受けて1個引っかかればいいのかな、この世界は、って。だから毎回失望するわけですよ。オーディション行っては落ちる。オーディション行っては落ちる。で、オーディションに行って落ちてくから、なんか失望に慣れなきゃいけないのかな、みたいな感じだったんですよね。
もう次のオーディション行って落ちちゃったら、もうやめようと思って。なんかこんなんでいいのかな、みたいな。そしたらやっぱり最後引っかかって、着物の会社だったんですけど、こんな顔してますけど、着物の仕事が決まったんでね。それで、同じぐらいかな、JJ始めたのも。
その時って梅宮さんの娘ってこと隠してるんですか?
えっとね、ちょっと面白い話があって、ずっと名前を隠してた。で、何月何日に、ご両親を連れてあるところに来てくださいと言われて、会社の方から、事務所の方から。で、わかりましたって、すいません、父親だけでいいですかって言ったら、あ、いいですよ、お母様は来れないんですかって言うから、ちょっと来れないです、と。父親だけで行って、大問題ですよね。
まさか来ると思ってないですもんね、梅宮さんが。
もうね、本当にびっくりしちゃって。なんで言わないんだって。
そうですよね。そこの社員さんたちも、芸能界の大先輩って感じですもんね。
そうです。
分かってから売り方みたいなの変わってくるんですか、事務所の?
もう本当に売り方は正直、梅宮辰夫の娘の梅宮アンナですという売り方は、やっぱりスターダストさんはしなくて、ちゃんと私個人でやってくれてて、もちろんプロフィールというか隠すこともなく、過剰に父親の名前を出すこともなく、反対に、ちゃんと売ってくれた会社だったんで。
じゃあ、そのバラエティ出演みたいなのっていつからですか?
バラエティは、1番大きかったのは、皆さんご存知だと思うんですけど、ある方と付き合って、そこでワイドショーとか出るから、それでバラエティの順番だったんですよ。
え、あの方と付き合ってからバラエティって自分。
そうです。そうです。そうなんです。もう私も本当に当時テレビが苦手で苦手で。
あ、そうなんですか。
なんかすごい困っちゃって戸惑ったんですけど、それが順番なんですよね。
あの、恋愛って、なんていうか揉め事みたいな雰囲気で報道されてた感じなんですか?
3人のトライアングルが面白かったみたいなんですよ。要は、娘の彼氏が気に入らない、娘をすごい心配する父親。で、それがすごい面白かったんですよね、世の中的に。でも私たちとか、私とか、全然面白いのがよくわからなくて。
なんか必ず朝、時代がもうワイドショーの時代だから、大体毎日出ちゃってワイドショーに。父親のインタビューを取って、今度こう言ってますって彼に聞きに行って、彼が発言することがまたちょっと変わってることを言うから、で、今度それを私にまた来て、私の発言することを、また今度アンナさんがこう言ってますと、もう終わらないんですよ。
毎度ワイドショーがテンションパットしてくれるんですね。
そうです。それで、ある時スターダストの社長がですね、何千万かけるCMに出るより、ワイドショーに出ることの方が知名度がすごく上がるっていう風には言われてたんですよ。だからもう何でもいい、犯罪以外は何でもやっていいぞ、みたいなスタンスで。いや、でも別に計算してるわけじゃないし、自然と好きになって、自然とそういう風に回ってったんですよね。
別にみんながそんなにすごい心配していることって、私にしてみたら、なんでそんな心配するんだろう、みたいな感じにしかならなかったの。父親はやきもきしてましたけど、よくわからなかったんです、本当に。
それ、ちなみに今までに付き合った彼氏とかでも、そういう風にちょっと詮索されるというか、この男じゃないんじゃないかって言われた経験あったんですか?
1番最初に男の子とデートしたのが多分中学3年生の時なんですけど、母に言って、今週の日曜日この人とちょっとご飯っていうかデートなんだ、みたいな話をしたら、父親にそれを母が伝えて、どんなやつか見に行くって言って。
で、私が歩いてるところに、うちの母が車を運転して、父が後部座席に座って逆向いて望遠鏡で私を見てたらしいんです。それはもう大人になって後から知りましたけど。
中学生のその初デートを父親に覗かれるの嫌ですね。
そうなんですよね。それで結局、スピード落とせとか、もっと早く行けとか、そういう指示を出して、母がこうやって運転して。
え、すごい。何もしなくていいよって言ってたお母さんに、そこに関しては命令したんですね。家事とかしなくてもいいって言ってたのに。
そうそうね。ちょっと運転してくれ、みたいな感じなんでしょうね。
あ、そこちゃんとお母さんも嫌だとは言わずに。
そうそうそう。
あの恋愛って長くなかったですか?
5年でした。21から26だったかな?26で終わりました。
いや、でも僕、取材したことあるんですよ、あの方。
そうですか。
生きることは優しさ。
街録チャンネル見習いディレクター募集中です。面白い映像を作りたいという若者、ご応募お待ちしております。
ことにできるよ。生きてさえいればいい。自殺なんてないのさ。
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