梅宮アンナが語る乳がん「フルコース」治療、残った胸をめぐる選択、そして梅宮家の少女時代

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概要

梅宮アンナは乳がんと診断され、右乳房の全摘出と脇のリンパ節切除を受けた。取材時点でも治療は続いている。このインタビュー前編では、まず標準治療の実際、公表後に届いた民間療法や宗教の勧誘、再建手術を選ばなかった理由と残った左胸の扱いについて語っている。後半では、父・梅宮辰夫と母・クラウディアのもとで過ごした少女時代、一家が経済的に苦しかった時期、芸能界入りのきっかけ、そして世間を騒がせた恋愛の始まりまでをたどる。

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ステージ3Aで受けた「フルコース」の標準治療

梅宮が選んだのは標準治療である。本人の説明では、標準治療は大きく抗がん剤、手術、放射線の「3大治療」に分かれる。それらを終えた現在は、毎日薬を飲む投薬治療の段階にある。著書のタイトル『フルコース』はこの治療の流れを指している。

乳がんのステージは4まであり、数字が小さいほど治療の期間も内容も軽く済む。梅宮はステージ3Aでかなり進行していたため、3まで来るとほぼすべての治療をフルで行うことになる、と説明した。

治療は「めちゃくちゃ痛い」「苦しい」と梅宮は率直に話す。一番痛かったのは手術である。手術中は麻酔で痛くないが、その後の回復期に自分はかなり苦しんだほうだと振り返った。

家族の状況も重なった。梅宮は、人間は50歳前後でがんになることが多いのではないかと話す。体が古くなり、女性は更年期も来る。親が老いていく姿を見るのも子どもとしてつらい。梅宮家では7年前に父・辰夫が亡くなり、その前には介護的な負担があり、亡くなった後の後片付けも大変だったという。娘は24歳で、いつ結婚してもおかしくない年齢だ。親の介護、自分の病気、子どもの人生が同時に重なると、いつ自分が休めるのかわからない、と梅宮は語った。

自分を支えるのは自分

撮影時の梅宮は歩きながら話せるほど体力が戻っていて、本人も「全然元気」と言う。もともと外に出て太陽を浴び、人と話すのが好きな性格で、治療中もずっと仕事を続けていた。病気のことを隠さずに発信することも、自分を支えるものの一つだったという。

治療中に何が支えになったのかはよく聞かれる質問だ。家族や子どもが支えだと答える人が多いが、梅宮は「まず自分が自分を支えること」だと考えている。自分で自分を支えて初めて周りに感謝できる。家族がいてもがんが治るわけではないので、自分で気持ちを上げていかなければ何も始まらない。治療を経験してみて、結局は自分の考え方次第だとよくわかった、と語った。

一方で、落ち込んだ時期もあった。娘から「ママ、うつなんじゃない?」と言われたのは、おそらく放射線治療の頃だったと梅宮は振り返る。

一番つらかったのは放射線、そして抗がん剤との闘い

意外にも、梅宮が最もつらかったと話すのは放射線治療の痛みである。現在の照射はピンポイントで行われるが、結局は患部を焼くことになり、組織が縮むので痛む。抗がん剤のつらさはネットにたくさん情報があるのに、放射線について話してくれる人は少なかった。実際に受けてみて「痛いって先生言ってなかったよね」と思ったという。

抗がん剤にはとてもネガティブなイメージがあり、選ばない人さえいる。梅宮自身、世間から「抗がん剤をやめろ、今すぐやめろ」「あなたが標準治療をやっていると公言すると悪影響だ」と言われたことがある。梅宮の理解では、抗がん剤は狙った場所にだけ効けば問題ないが、元気な細胞も殺してしまうので副作用が出るのは事実だ。治療を通して一番実感したのは、がんに勝つ以前に、まず抗がん剤に打ち勝たなければならないということだった。抗がん剤に負けて体が弱ると、がんも一緒に勢いづいてしまう。だから、どうすれば抗がん剤に耐えられるかを考えながら治療していたという。

最初に受けたAC療法は赤い液体の抗がん剤で、海外では「レッドデビル」と呼ばれるほど強いものだと梅宮は説明する。梅宮の場合は膀胱がひどく痛み、トイレの回数が非常に多く、尿は真っ赤になった。点滴が血管から漏れれば皮膚移植が必要になると言われるほどの薬でもある。早く抗がん剤の期間が終わらないかとは思ったが、やめたいとは思わなかった。これでがんを治すのだから、という気持ちで続けたという。

抗がん剤治療中には肺炎を起こし、緊急入院もしている。このときは本当に死にそうになり、自分はがんではなくこの病気で死ぬのだと思った。コロナ禍で多くの人が肺炎で亡くなったのはこういうことだったのか、とそのとき実感したという。

公表後に殺到した民間療法と宗教の勧誘

病気を公表してから、新興宗教や民間療法の誘いが非常に多く届いた。通院先の病院は公表前に、「公表するといろいろな所から物が届いたり勧められたりするので、『お気持ちだけで』と答えてください」と助言していた。最初はピンとこなかったが、公表と同時に「がんにはこの水が効く」「このサプリが効く」「抗がん剤をやめてもっといい薬を」といった勧誘が次々に来た。中には1クール400万円する治療法もあったという。

自宅マンションの下で宗教への勧誘を受けたこともある。「絶対あなたにはこれが必要です」と強く言われたり、大量の物が届いたりした。自作の曲を送ってきた人もいた。「聴けばリラックスできる」なら理解できるが、「これを聴けばがんが治る」と言われると、それはどうなのかと思った。こうした無責任な言葉を信じてしまう人がどのくらいいるのかと梅宮は考えた。弱っている人に宗教が近づくという話はよく聞いていたが、公表するとこういうことが本当に起こるのだと実感した。世の中にはがんにまつわる商売が非常に多く、心が弱っているところに「これが効く」と言われれば、つい手を出してしまう人がいる、と梅宮は指摘する。

家族をがんで亡くした人や、がんを克服した人からの勧めもあった。「姉はステージ4だったが、この方法でがんが消えた」という手紙や、大腸がんや胃がんから回復した著者が「アンナさんも大丈夫、治ります」と送ってきた本もある。梅宮は、がんの部位も出発点も人によって違うのに、なぜ「これをやればあなたも治る」と言えるのか、それがとても嫌だったと話す。

梅宮自身は、保険で受けられ、科学的なエビデンスのある治療をやるべきだと考えていた。こうした勧めを「毒りんご」と呼び、一度も手に取らなかった。病院が示した治療法だけをやり通し、治療途中だからと勧められたビタミン剤すら口にしなかった。発見時点で抗がん剤も効かず手術もできない症例があると聞いていたので、「アンナさんにはまだこの治療法があります」と言ってもらえることがありがたく、感謝して治療を受けたという。同じ理由で、梅宮は自分がやったことを他人に勧めることもしない。自分はこうやって社会復帰した、と伝えているだけだと強調した。

右胸の全摘では一度も泣かなかった

現在はメンタルもだいぶ安定しているという。全摘を告げられたときも、胸のことで泣いたことは一度もない。梅宮の場合は乳房全体ががんになっていたため、一刻も早く体から切り離さなければと思い、「今日でも切ってください」という気持ちだった。がんは放っておけば進行し、死に直結する。そう考えると、胸を失うことを悲しむより、手術ができること、抗がん剤があることの喜びのほうが大きかったという。

ただし、取った後も痛みは続いている。筋肉や組織を剥がす手術なので、今も痛い。術後しばらくは左胸だけが残っていたため体のバランスが崩れ、なんとなく左に寄って歩いていたという。

再建手術を選ばなかった理由

残った左胸をどうするかという段階になると、医師も周囲もまず「今の時代は再建ができる、手術したとわからないほどきれいな胸が作れる、しかも保険適用だ」と勧めてきた。しかし梅宮は、それほど簡単な話ではないと感じた。

梅宮の説明では、Aカップの人とDカップの人では再建でやることが違う。残った胸にボリュームがある場合、同じ大きさを作れるとは限らない。再建は腹部や背中の組織を移して行うもので、梅宮の場合は左胸を半分に切って小さくし、右も同じサイズで作ろう、と提案された。成功したとしても傷や膿、癒着が起き、7回、8回と手術を重ねた人を梅宮は知っているという。また、既存の傷を一度開いて中に器具を入れ、半年ほどかけて皮膚を伸ばす方法もあると聞いた。梅宮にとってはホラーのような話で、「もう無理」と思った。

そこまでして胸を維持したいとは思わなかった。梅宮は、自分の人生で胸がそれほど大事なものではなかっただけのことだと話す。胸は女性の象徴だとか、胸をなくすと女性でなくなるといった感覚は自分にはなかったという。

残った左胸も取りたい――再建は保険、切除は自費

梅宮は今、健康な左胸も取ってしまおうかと考えている。左胸は現時点ではがんではないが、5年後に再発する人もいれば、数か月で再発する人もいる。梅宮は再発率やがんになる確率を調べる検査を受けて陰性だった。本来なら喜ぶ結果だが、梅宮にとっては左胸があることが日常生活でつらい。今でもブラジャーの生地が当たるだけで痛い。

聞き手が、海外の有名人がリスクを理由に胸を取った例を挙げると、梅宮はアンジェリーナ・ジョリーの例を説明した。ジョリーは母親をがんで亡くしていて、検査結果が陽性だった。このままではがんになる可能性が高いという数字が出たため、予防として切除した。家族にがんの人がいるかどうかは重要な要素で、梅宮の父もがんだった。こうした予防切除はアメリカでは日本よりずっと一般的で、日本でも検査は保険で受けられると梅宮は話す。

しかし梅宮は陰性だったため、普通の病院で「胸を取ってください」とは言えない。現状で可能なのは、性別を移行する人が胸を取る手術と同じカテゴリーで、自費で行う方法だけだという。

切除を考える理由は大きく二つある。バランスの問題と、生きていたいという思いだ。生きていたいからこそ取ってしまおうという考えだと梅宮は言う。胸を作るという選択と、胸をなくすという選択は同じ重みを持つはずだと梅宮は考えている。

聞き手も、片方を切除した人がバランスのためにもう片方も取りたいと思うのは自然なことのように感じる、と応じた。梅宮は、これは体験した人にしかわからないつらさや痛さであり、こうしたことを考えて公表する人がまだ少ないから世の中が変わっていかないのだろう、と話した。

変化した死生観、年齢、髪

がんと診断されると、ほとんどの人は傷つき、「なんで私が」と嘆く。梅宮もそういう人が多いと理解しているが、嘆いても仕方がない。どうやって治していくかに頭を切り替えるのが、自分は早かったのかもしれないと話す。

人間は100年、200年と生きるわけではなく、いつか寿命が来る。どんな形で死ぬかはわからない。がん治療中でも、「死にたくない」ばかり考えるのではなく、道に出たら事故で死ぬかもしれない、と考えた。あと何十年も生きるわけではないだろうと覚悟ができたという。

年齢も大きかったと梅宮は振り返る。診断時は51歳で、娘はすでに成人し、自分は結婚と離婚も経験していた。20歳で診断され、これから結婚や出産を考えなければならない年齢だったら違っていたはずだという。抗がん剤を投与すると強制的に生理が止まり、閉経状態になる。それを受け入れられたのも年齢のおかげで、諦めがついたのだと話した。

一番受け入れるのに時間がかかったのは髪だった。撮影日もウィッグを着けていた。髪はだいぶ生えてきたが、まだパサパサしていて仕事には向かない。梅宮の説明では、抗がん剤で毛が出てくる毛穴がガタガタになるため、生えてくる髪もクリクリになるという。

10年続くホルモン療法と、1日9回の下痢

治療はまだ長く続く。梅宮はこれからホルモン剤を10年、飲み薬の抗がん剤を2年服用する予定で、抗がん剤は2027年3月に終わる。ホルモン剤の副作用はあまり感じていないが、飲む抗がん剤では下痢が起きる。飲み始めた頃は1日9回トイレに行き、体がヘロヘロになった。医師に相談して血液を調べると、カリウムがかなり不足していたので、薬で補充しながらバランスを取った。

下痢がつらいという声はよく聞くが、梅宮は、薬が体から出ていってくれている、デトックスだと考えて、「よし来た」と前向きに受け止めていたという。

「外人」と呼ばれた小学校時代と、居場所のなさ

インタビュー後半は生い立ちに移る。梅宮は東京・渋谷区で生まれた。4歳の頃には、父はテレビや映画に出る人だと理解していた。ただ、通っていた私立の女子校は厳しく、芸能活動を一切認めていなかった。オファーがあってもすべて断らなければならず、芸能には興味が湧かなかったという。

梅宮は、自分をかわいいと思ったことは今まで一度もないと話す。むしろ容姿はコンプレックスだった。小学1年から6年まで参宮橋に住み、電車で学校に通っていたが、近所の悪ガキから「外人、外人」と言われ、石を投げられた。ハーフであることがとても嫌だった。一人っ子で、相談できるきょうだいもいなかった。三井系の若葉会幼稚園は最高に楽しかったが、小学校に上がってから自分の名前も顔も嫌になり、居場所がないと感じていたという。

愛情深い父と、「笑っていればいい」母

父・辰夫は地方の仕事が多く家を空けがちだったが、家にいるときは惜しみなく愛情を注いだ。中学からのお弁当はすべて父が作り、学校行事には必ず来た。いつも家族を最優先する父で、親の愛情をたくさんもらったと子どもながらに感じていた。だから変な道には行かなかったのだと思う、と梅宮は話す。

母・クラウディアについては、父のプロポーズの言葉が「何もしなくていい、ただずっと笑っていてくれ」だった。母は50年以上それを貫いた。梅宮は子どもの頃、母を「お母さん」というより「このきれいな人は誰だろう」と感じていた。学校から帰っても「おやつよ」という母ではなく、梅宮は鍵っ子だった。母はおそらく子ども好きではなかったのだろう、と梅宮は見ている。

その頃の母は、月曜から金曜まで料理教室に通っていた。梅宮が聞いたところでは、崇拝する先生の弟子やアシスタントになりたくて熱心に通っていたという。家族のためというより、趣味を優先していたと梅宮は話す。代わりに家にいたのはベビーシッターの「れい子さん」で、東映まんがまつりや遊園地、デパートの屋上の遊園地によく連れて行ってくれた。梅宮は、れい子さんをお母さんだと思っていたという。

それでもぐれなかった。一人でいることを楽しみ、午後3時頃に帰宅して自分で鍵を開け、テレビを見る時間が好きだった。雨の日に迎えに来てもらえず濡れて帰ったこともあり、そのときは不満に思った。しかし、自分に娘が生まれてみると、迎えに行くのは面倒だと母の気持ちが理解できたという。

梅宮家の「氷河期」

子どもの頃、梅宮はこれといって得意なものがなかった。父からは「趣味がないやつはダメだ」とよく言われたが、何にも興味が湧かず、中学生頃には焦りもあった。今振り返ると、渋谷の中心に生まれ、欲しいものが特になかったからではないか、と梅宮は考えている。友人たちは渋谷で遊びたがったが、梅宮にとって渋谷は歩いて行ける場所だった。

梅宮一家は、梅宮が生まれる前から松濤の庭の広い平屋に住んでいた。父はバーベキューが好きで、夏にはクラス全員を招いて誕生日会を開いた。ところが、梅宮が6歳頃に父がだまされて大金を失い、松濤に住めなくなった。梅宮はこれを、これまで話したことのない「梅宮家の氷河期」と呼ぶ。一家は父の知人が経営する参宮橋のアパートの2階に移った。カンカンと音を立てる螺旋階段のある建物で、3人で6年間暮らした。金額は聞いていない。父がだまされてお金を失ったことはほかにも何度かあったが、一番大きかったのがこのときだという。

同じ頃、父は厄年に大病もした。家で突然血を吐いたこともあった。体も悪くし、お金も失った時期だった。その後、父の体調が回復して俳優の仕事が再び順調になり、梅宮が中学1年のときに一家は松濤に戻り、マンションを購入した。父がバラエティ番組によく出るようになったのは、梅宮が芸能界に入った後のことだという。梅宮は、いい思いも嫌な思いもした山あり谷ありの家族だった、と話した。

中学卒業後の「ニート」生活と、自分で選んだ高校

梅宮は私立の女子校が合わず、中学2年のときに父に、高校には行きたくない、一度やめさせてほしいと頼んだ。中学3年で学校を離れ、1年ほどは「ニート」のような生活をした。しかし半年ほどで危機感を覚えた。誰とも話していないのに、夕方の渋谷には女子高生があふれていて、彼女たちの会話にまったくついていけない自分に気づいたのだ。

夏休み前、梅宮は父に「学校に行きたい」と伝え、自分で受験したいから塾の費用を出してほしいと頼んだ。自分で見つけた学校の願書を取りに行き、半年ほどの勉強で合格した。1年遅れの高校入学だった。

選んだのは神奈川県の大倉山にある学校である。生まれも育ちも都心で、学校も山手線の内側だったので、少し田舎に行ってみたかった。東横線に乗ると途中から景色が変わり、田んぼが見えてくる。通学がプチ旅行のようで、自分で選んだ高校での生活は最高に楽しかったという。

東横線でのスカウトと、名前を隠したデビュー

芸能界入りのきっかけは、東横線の車内でのスカウトだった。最初に梅宮に目を留めたのは、同じ車内にいた女優の中谷美紀で、「あの子かわいいよ」とスカウトマンに声をかけたという。渋谷で降りたところで男性から名刺を渡され、見るとスターダストプロモーションだった。当時流行していた『ちびまる子ちゃん』のB.B.クィーンズなど、知っている名前が並んでいた。

しかし梅宮は芸能界に興味がなかった。父がいる世界は、梅宮にとって特別なものでも憧れでもなかったという。「私なんて無理です」と答え、名前を聞かれると、梅宮と言えば身元がわかるので「アンナです」とだけ名乗った。隠していたわけではないが、騒がれるのが面倒だった。

当時、渋谷から歩いて帰る途中によく名刺を渡された。芸能やモデルのスカウトと同じくらい多かったのがAVのスカウトだったという。毎日大量の名刺を持ち帰る娘を見て、父は「梅宮辰夫」の名刺を持たせた。ただし、梅宮が実際にそれを出したことは一度もない。

唯一なりたかった職業は客室乗務員だった。小学生の頃に『スチュワーデス物語』を見て堀ちえみに憧れたのがきっかけだ。ただ、1972年生まれの第2次ベビーブーム世代で競争が激しく、CAになるなら特定の短大に行けと言われても、偏差値的に無理だと思っていた。父は娘の夢を知っていたので、山城新伍と二人でCA10人ほどを招き、ふぐをごちそうしながら試験の内容を聞き出したという。梅宮本人は参加せず、父からその話を聞かされた。結局、勉強も大変そうだと迷っているうちにスカウトがあり、熱心に誘われたこともあって、高校卒業後に正式にスターダストに所属した。

オーディションに落ち続けた日々と、父の登場

所属後はキャンペーンガールのオーディションを受けたが、ことごとく落ちた。100受けて1つ受かればいい世界なのかと思い、落ちるたびに失望した。失望に慣れなければいけないのかとも考え、次に落ちたらもうやめようと決めた。その「最後」のオーディションで、着物の会社の仕事が決まった。雑誌『JJ』の仕事を始めたのも同じ頃だという。

所属当初も梅宮は父の名前を伏せていた。あるとき事務所から「両親を連れて来てください」と言われ、父だけでいいかと確認して、父を連れて行った。事務所の人々は、現れたのが梅宮辰夫だったので非常に驚き、「なんで言わないんだ」と言われたという。それでもスターダストは「梅宮辰夫の娘」を売りにせず、父の名前を隠しも強調もしないで、梅宮個人として売り出してくれたと梅宮は評価している。

ワイドショーが作った「父・娘・恋人」の三角関係

バラエティ番組に出るようになったのは、ある男性との交際がワイドショーで大きく報じられてからだと梅宮は話す(動画の目次では羽賀研二との交際として紹介されている)。梅宮はテレビが苦手で戸惑ったが、それが順番だったという。

世間が面白がったのは、娘の恋人を気に入らない父、心配される娘、その恋人という三角関係だった。当時はワイドショーの全盛期で、ほぼ毎日報じられた。父のインタビューを取ってはそれを恋人にぶつけ、恋人がまた変わった発言をすると、今度は梅宮にコメントを求める。その繰り返しが終わらなかった。スターダストの社長からは、何千万円もかけてCMに出るよりワイドショーに出るほうが知名度が上がる、犯罪以外なら何でもやっていい、と言われていた。ただ梅宮自身は計算していたわけではなく、自然に好きになり、自然にそうなっていっただけだという。周囲がなぜそこまで心配するのか、当時の梅宮には本当にわからなかった。父はやきもきしていた。

父の過干渉はそれ以前からあった。中学3年のときの初デートでは、母から話を聞いた父が「どんなやつか見に行く」と言い、母の運転する車の後部座席から双眼鏡で梅宮を見ていたという。速度を落とせ、もっと早く行け、と父が指示し、母が運転していた。梅宮がそれを知ったのは大人になってからである。問題の交際は21歳から26歳までの5年間続いた。前編は、聞き手がその相手を取材したことがあると切り出すところで終わる。