義手の東京藝大生・河邉宏太が語る、障害を「使う」ことと、その居心地の悪さ

YouTubeで開く ↗
概要

河邉宏太さんは東京藝術大学先端芸術表現科の2年生で、21歳である。左腕は生まれつき肘の先までしかなく、装飾義手をつけて暮らしている。インタビューでは、中学からの不登校、高校の2度の退学、うつ病、アルバイトに100店舗以上落ちた経験を経て藝大に入った経緯が語られた。

20分で読めます

話の軸になっているのは、河邉さんが自分の障害をどう扱っているかである。藝大受験では障害を意図的に前面に出した。一方で、マイノリティであることが評価につながる現代アート市場を「キモい」と言い、障害者コミュニティの中では自分の障害の軽さに気まずさを覚えるとも話す。障害を使う戦略と、それに対する違和感の両方が、本人の言葉で語られている。

「機能しない」装飾義手

河邉さんの義手は塩化ビニル製で、握手すると硬く、ビニールの感触がある。表面には藝大の同期や友人がペンで絵や文字を書き込んでいる。俳句を作る友人に書いてもらった句もあり、本人はこれを「タトゥー」と呼ぶ。指の間に火のついたタバコを挟んだまま忘れ、溶かしてしまった跡も残っている。

義手は肘の関節までを覆い、ベルトで留めているだけだ。その下にある生身の腕は、使わないので筋肉が発達せず細い。先端には指の「でき損ない」のような形がある。途中で失ったのではなく、先天的に腕が「できる途中で」止まった形だという。本人は「顔みたいで可愛いでしょ」と見せる。蒸れるのでガーゼをかぶせていて、これを「手の靴下」と呼んでいる。

河邉さんは義手の種類も説明した。筋肉の電気信号を読み取って動く筋電義手、先端のパーツをフックなどに付け替える作業用義手、肩の後ろにハーネスを通し、肩の動きでフックを開閉させる能動義手がある。河邉さんがつけている装飾義手は、名前のとおり見た目を補うためのもので、機能としては物を押さえる程度しかできない。

義手がなくても困らないという感覚

装飾義手を選んだのは、母親の勧めによる。河邉さんの説明では、途中で腕を失った人には元の感覚が残ることがあるが、生まれつきの場合は腕の先端そのものが「指先」になる。料理が好きで物を押さえることは多いが、義手の先で押さえるより生身の先端で押さえるほうが自然だという。義手を使うとかえってマジックハンドを操作しているような感覚になるので、義手へのこだわりはあまりない。服を着るのに便利だからつけている、と話す。

日常生活で不便を感じることはほとんどない。食事は片手で、器をテーブルに置いて食べる。歩きながらカップ麺を食べるようなことはできないが、困るほどではない。創作についても、大きな立体物を作るわけではなく、主に小説を書いている。身体表現についても、五体満足の役は演じられないが、自分のコンセプトでパフォーマンスをする分には自分の身体があれば十分だという。

今の義手は高校1年のころに作ったもので、子どものころは成長に合わせて何度も作り直してきた。これまでに10本ほど使ったという。義手は右手の大きさに合わせて作るが、その後も右手が成長したため、今では義手のほうが少し小さい。作り直したい気持ちはあるが、面倒で後回しにしている。作製費は五、六十万円ほどかかるものの保険が適用され、自己負担は5000円程度だという。

腕より深刻だった、もう一つの持病

生まれは東京で、2歳ごろから川崎で育った。父親は音楽関係の会社を経営していたが、両親は河邉さんが小学生のころに離婚している。父親は仕事の都合で早くから別居しており、離婚したことは後から知った。その後は正社員として働く母親に育てられ、生活に不自由はなかった。英語が得意な母親は、英語関連の仕事を2〜3年おきに変えてきて、現在は翻訳をしている。河邉さんは母親に「めっちゃ感謝している」と話した。

腕の欠損の原因は、医師にもわからないと言われている。河邉さんによれば、生まれた直後に家族が気にかけたのは腕ではなかった。詳しくは話せないとしたうえで、内臓系の別の持病があり、生まれてすぐ手術しなければ命に関わる状態だったという。そちらの対応に追われたので、腕については「手がないけど全然いけるっしょ」という受け止め方だったそうだ。特別扱いされない環境で育ったことが、自分の障害を「普通」と感じてきたことにつながっているかもしれない、と河邉さんは振り返る。

通っていたのは普通学校で、体育も鉄棒は見学したが、マット運動やサッカー、バスケットボールには参加した。差別を受けたこともある。友達の家に遊びに行こうとしたとき、「うちのお父さんがそういうの苦手だから河邉君は来ないでほしい」と断られた。小学生の言葉遊びで「生姜(ジンジャー)」と「医者(ドクター)」をもじった「ジンジャードクター」とからかわれたこともある。それでも、ひどいいじめを受けたわけではなく、幼いながら「そういう感じのやつね」と冷静に受け止めていたという。

義手のコミュニティで初めて「障害者A」になった

障害者としての自覚が生まれたのは、中学生か高校生のころだった。義手をずっと担当してくれていた義肢装具士の紹介で、上肢障害(腕の欠損や麻痺)がある人たちのコミュニティ、NPO法人ミッションアームジャパンに初めて参加したときである。

そこでは「あなたはどういう障害なんですか」という自己紹介から会話が始まった。先天性か後天性か、義手を使っているかどうかを互いに確認し合う。河邉さんはこのやりとりが苦手だった。それまでは単に「人間A」として生きていたのに、そこに来た途端に「障害者A」になった。自分がそういうカテゴリーに入っていることを初めて意識し、急に分類された感覚が「生き苦しかった」という。同じ特徴を持つ人たちと一緒にいることで安心できる面があることは、河邉さんも認めている。

100店舗以上の不採用と「頭で勝負」

母親は、義手と持病のために、息子が将来お金に困っても日雇いの肉体労働やコンビニのアルバイトで食いつなぐことは難しいだろうと考えていた。実際、河邉さんは高校時代、コンビニ、飲食店、スーパーなどのアルバイトに応募し、軒並み落ちた。「義手です」と伝えた瞬間に、「うちではそういう人を受け入れたことがないので」と断られる。数えていたら100店舗を超えていた。途中からは楽しくなり、いつまで落とされるか「ワクワク」していたと笑う。

はじめは面接まで行っていたが、そのうち電話で応募して最初に義手のことを伝えるようにした。その時点で断られることが多く、面接まで行くのは「コスパが悪い」からだ。面接に来てほしいと言われて行っても、結局は落とされることがあった。

そのため家には、勉強していい会社に入る、頭で勝負するという雰囲気がなんとなくあった。河邉さんは中学受験をしたいと言い出して塾に通わせてもらったのに、飽きて行かなくなり、受験自体を「飛んだ」こともある。

絵も楽器もできず、本と小説へ

芸術には縁がなかった。母親はピアノを弾いていたが、楽器は両手が前提なので自分にはできない。絵も下手で工作もできない。中学の美術・音楽・技術の成績は1か2だった。不登校だったことも影響しているが、手先はまったく器用ではないという。本人は自分を「藝大生で一番絵が下手」と笑う。

小さいころから好きだったのは本である。小学生で山本有三の『路傍の石』にはまり、中学生のころには太宰治、谷崎潤一郎、川端康成を読んだ。小説を書き始めたのは、中学で不登校になって時間があったからだ。小説は紙とペン、あるいはスマートフォンがあれば始められる。絵の具を買う必要がなく、始めるコストがゼロだったことも理由だという。

不登校、二度の高校退学、うつ病

不登校の理由を、河邉さんは集団行動が合わなかったからだと説明する。小学校のころから、禁止されている漫画を持ってきた、下校中に寄り道したといった理由でたびたび親を呼び出されていた。規範に合わせて生活するのが難しいタイプだったのだろう、と本人は言う。その流れで中学に行かなくなった。中学時代は家にこもって散歩をしたり本を読んだり書いたりしていて、本人いわく「割とエンジョイしていた」。

状況が悪くなったのは高校に入ってからである。学力では神奈川県有数の進学校を狙えたが、不登校で内申点がなく、レベルを落とした「自称進学校」に入った。「本当はもっと上に行けたのに、ここでも学校に行けずに落ちこぼれている」という状態が、自業自得だとわかっていてもつらかった。3〜4か月で退学し、精神科でうつ病の診断を受けて抗うつ薬を処方された。重度のADHDという診断も受けている。

8月に全日制高校を辞めた後は、通信制を探す気力もなく、翌年4月まで「中卒ニート」の期間があった。4月に通信制高校の1年生として入り直したが、現役の年齢で大学を受けるために高卒認定を取り、高2の学年で再び退学した。大学受験までの約3年間、友達はゼロだったという。

二松學舍大学で見つけた友人と、藝大への転身

現役の年齢で合格したのは、二松學舍大学文学部国文学科である。河邉さんは、夏目漱石もかつて通った文学のコアな大学だと紹介した。

ただ、ここでも授業にはほとんど出なかった。その代わり、週5で飲み会をし、週3で終電を逃す生活を送った。二松學舍で見つけた「最高の友達」とは2人でたばこを吸い、酒を飲みながら文学を語り合った。単位は1年で10も取れず、留年が確定した。先生の質は非常に高かったが、学生のやる気が自分と合わなかったと話している。

もう一つの理由は、文学部が研究者を育てる場所であり、創作者を育てる場所ではなかったことだ。会社員として生きていくのは無理だと確信していた河邉さんは、自分で価値を作って生きていかなければならないと感じていた。文学に触れられるのは楽しかったが、創作には直接生きなかった。

そのころ、東京大学の文学研究会というインカレサークルに入り、藝大先端芸術表現科の学生と親しくなった。その人も小説を書き、アートもしていた。「河邉も先端受けなよ」と言われ、「オッケー」という軽いノリで受験を決めた。二松學舍には2年生まで在籍した。

先端芸術表現科は「センスを先に取り、技術は後で」

河邉さんによれば、藝大の多くの専攻は、彫刻や工芸、油画、ピアノなどの技術を身につけた状態で入学し、入学後に芸術センスを磨くカリキュラムになっている。先端芸術表現科は逆で、センスのある学生を先に取り、入学後に写真、映像、工作などの技術を週替わりで詰め込む。

そのため入試では、藝大で唯一ポートフォリオを提出する。電子工作でも絵画でも、パフォーマンスでも文学でもよく、どういうテーマやコンセプトで制作したいのかを示す。倍率は7倍ほど。共通テストは3科目で足切りがなく、2割程度の得点で受かる人もいるという。河邉さんは「趣味で」6教科8科目を受けた。勝負は2次試験で、ポートフォリオ、小論文かデッサンの選択(河邉さんは小論文)、実技、面接がある。東大より難しいと言われることについて、河邉さんは、東大に入れる人は藝大に入れないし、藝大に入れる人は東大に入れない、と分野の違いとして説明した。

「星に向かって歩く」「伊達車椅子」とDOの思想

ポートフォリオに入れたのは、東大の文学研究会で知り合った友人たちとの遊びだった。道端で「お金をください」と叫んで物乞いをしてみる、四つん這いで散歩する、星に向かって歩く。こうした「本当にくだらないこと」を、受験用に書き換えたのである。

たとえば「星に向かって歩く」には次のようなコンセプトをつけた。人は区画された道に縛られていて、道を進むには目的地がなければならない。Googleマップのピンが立つ場所しか目的地にできない。では、届かないけれど確かにそこにある星に向かって歩き続けることは、何を意味するのか。河邉さん自身はこれを「意味わかんないこと」と笑いつつ、写真などの記録とコンセプト文をまとめ、面接で説明した。

こうした活動のきっかけも友人だった。制作の手伝いを募集していた友人を手伝い、その友人が次は星に向かって歩きたいと言った。友人が「お前もやりたいことがあったら手伝う」と言ってくれたので、河邉さんは「伊達車椅子」をやりたいと答えた。歩ける人が伊達眼鏡のように車椅子を使うパフォーマンスである。ほかの友人も四つん這いで歩きたいなどと言い出し、全部やろうという流れでアーティストグループのような集まりができた。何でも意味と価値があるのではないか、という考えはその瞬間に生まれたという。

河邉さんは、コンセプトに価値を置く現代アートでは、コンセプトを書き換えればあらゆる行為(do)を芸術として解釈できるのではないかと考え、これを「DO」と呼んでいる。ただし、自分に芸術的センスがあるとは思っていない。自分がやっているのは言語の上で屁理屈をこねることで、その言葉の力は幼少期からの読書で培ったものかもしれない、と話す。

通信を表す紙のメガホンと、乾燥エビの小論文

実技試験の課題は「通信について表現しなさい」だった。縦長の封筒が1人200枚配られ、切っても貼ってもよい。試験時間は6時間ほどで、途中でご飯を食べる。工作ができない河邉さんは、置いてあった長方形の厚紙を丸めてメガホンにし、側面に封筒を貼った。

説明の中心は色である。メガホンの口元を紫に塗り、外側に向かって赤や青に分かれていくようにした。自分の言葉は紫だが、紫は人によって青っぽくも赤っぽくも見える。メガホンから言葉が広がるにつれて、赤っぽく解釈されたり青っぽく解釈されたりする。河邉さんは実際にはもっと詳しく説明したという。

小論文では、エビフライほどの大きさの乾燥エビが2匹配られた。地球の生物を何も知らない火星人でも、これを見れば生物らしいこと、しかも死んでいることがわかるはずだ。なぜわかるのかを説明せよ、という問題だった。試験会場は甲殻類の匂いでいっぱいだったという。

河邉さんは、奇抜な発想で受かる道と、模範解答のような内容を誰よりもきれいな文章で書いて受かる道があると考えた。文章には自信があったので、正攻法を選んだ。目のようなものがあり、対称に並んだ線状のものは足だろう。2匹はほぼ同じ形をしているが、自然界で生物以外にこういうことは起こりえない。生物は生殖によって自分をコピーするからだ。こうした内容をまっすぐに書き、合格した。

障害で「塗りつぶした」受験戦略

河邉さんは、合格の理由を作品の面白さだけに帰していない。現代アートでは作家性が重視され、どういう背景を持つ人がどんな作品を作ったかまでがセットで評価されがちなので、マイノリティは強い。そう聞いた河邉さんは「じゃあ俺受かるやん」と思い、ポートフォリオを「障害一本で塗りつぶした」。

伊達車椅子についてはこう説明した。歩けるのに車椅子で移動すると、後ろ指を指される。つまり足がある人は、車椅子という移動手段を選べなくなっている。杖も普通は足腰が悪くなければ使わない。赤ん坊が四つん這いなのは二足歩行ができないからとされるが、二足歩行できる人は四つん這いも杖も車椅子も選べない。いちばん制限されているのは健常者ではないか、という問いである。

メガホンの紫も障害と結びつけた。両腕がない友人から見れば自分は健常者に近いが、健常者の中にいれば障害者である。重度の障害者と健常者の中間にいる自分は、赤と青の間の紫だ、という説明である。面接でも障害者であることを伝え、教授に「障害者か」と思われて受かった、と河邉さんは振り返る。聞き手が「キャラ付けと作品の神話性がはっきりしている人が受かるのか」と尋ねると、河邉さんはそうだと思うと答えた。美術市場で成功する村上隆のような人も、キャラ付けと説明がうまい人だという。

マイノリティが強い市場は「キモい」

それでも、マイノリティが強いという現代アートの傾向を、河邉さんは「あんまり良くない」と考えている。キモいのは作家ではなく市場であり、鑑賞者だという。健常者と障害者、ストレートとLGBT、男性と女性の作品を並べて、マイノリティの側を評価する見方のことである。

先端芸術表現科には、ろう者、難聴、麻痺のある人、いわゆるハーフなど、マイノリティの背景を持つ学生が多い。美術予備校では「君の障害使えるじゃん」「このバックグラウンドで作品作れないの」と言われることもある。それをきっかけに作品を作り、表現が広がっていくことは、個人にとっては良いことだと河邉さんは認める。しかし全体として見ると「キモい」。聞き手が、受け手が反応してしまうのは仕方ないのではと言うと、河邉さんは、仕方ないが最終的にはそういうものがない社会がいい、と答えた。

河邉さんが思い描くのは、自分が義手をアピールして注目を集めた結果、義手が目立つアイデンティティではなくなる社会である。本人も「それは理想的すぎる」と付け加えた。

乙武洋匡の不倫騒動と、「全員に義手の友達がいる」状態

河邉さんは乙武洋匡さんが好きだという。ABEMAの番組で乙武さんが普通にコメンテーターの一人として出ていることを「すごいこと」だと感じている。とくに乙武さんの不倫騒動には「ものすごく感銘を受けた」。障害者とセックスは切り離して考えられがちだったが、障害者でもモテて不倫もする、という今までにない障害者像を示してくれたと感じたからだ。普段のテレビ画面に障害者が映っていること自体、数十年前には考えられなかった、とも話す。

河邉さんはモデルの仕事もしている。障害者モデルの事務所には所属せず、あるカメラマンが撮る可愛い女性やダンディな男性のモデルの中に、義手の自分が普通に並ぶ。社会の場面にただ存在しているだけで、障害者が普通のことになっていく、という考え方である。

周りの人間関係についても同じことを言う。普段一緒にいる人は、河邉さんが食事や制作をする様子を見ているので、「お風呂のときは外すの」といったことを今さら聞かない。話しているうちに義手であることも忘れる。一方、義手の友達がいない人は、「義手の藝大生」というサムネイルを見て、義手への偏見やバイアスからクリックする。河邉さんの友人は全員、一人ずつ「義手の友達」がいることになる。YouTubeのチャンネル登録者が10万、100万人になれば、100万人が一人ずつ義手のインフルエンサーをフォローしている状態になる。河邉さんはそうなりたいと言う。

バイアスでクリックされることは、藝大に受かった理由と同じだと河邉さんは認めている。そのうえで、自分のステップアップには利用していきたいという。自分のフォロワーは、義手の人をかわいそうだとは多分思っていない。そういう人を増やしていければいい、と話す。

障害者コミュニティの中のヒエラルキーと気まずさ

自分に後ろめたさはないのかと聞かれ、河邉さんは、自分より重い障害の人を見ると「ごめん」と思うと答えた。ここで、先に触れた義手コミュニティでの居づらさがもう一度語られる。

河邉さんによれば、先天性は後天性より楽である。後天性の場合は元々あったものを失うショックがあり、幻肢痛もある。片手より両手がないほうが不便で、欠損より麻痺のほうがつらいこともあり、麻痺は進行する場合もある。コミュニティの中で河邉さんの障害はかなり軽い。「これつらいよね」「こういうときどうしてる」という話題で盛り上がっていても、右手があるからできてしまう、と共感しきれないことが多かった。その場でいちばん障害が軽い自分が「障害者です」と藝大にアピールして入り、義手の藝大生としてYouTuberのような活動をしていることが「ちょっと気まずい」という。

ただし河邉さんは、この気まずさ自体が差別的な感情だとも言う。相手を障害の重さで見ていることになり、「こういう障害の人」として接していることになるからだ。そのうえで、障害者のコミュニティには障害の重さによるヒエラルキーがあり、重いほうが偉いといった空気もある、と指摘した。

藝大という場所:真面目な同期と「行方不明がかっこいい」美学

一方で、藝大は居心地がいいと河邉さんは言う。マイノリティに限らず、出身地も日本各地や海外とさまざまで、異質なものを受け入れる「体力」がある。人を見る基準も多い。普通は話している相手をそのまま理解するが、藝大では、話している姿とは別に、この人の作品にはどんな姿が現れているのかに関心が向く。自分が没頭して作っているものがあるから、他人が心を込めて作ったものにも敏感でいられる。河邉さんはこれを「ある意味誠実なあり方」と表現した。

同期は24人で、尖った人は少なく、仲が良く真面目な学生が多い。授業に前のめりで参加し、フィルムやパフォーマンスの課題にも質の高い作品で応える。入学前の専門が絵画、文学、ダンス、音楽、建築などとばらばらなので、マウントを取り合うこともなく、分野ごとに相談相手がいる。河邉さんは円満な学年だと話す。

ただ、河邉さん自身は藝大にもあまり通えていない。技術を入学後に詰め込む専攻なので、週5日1・2限が必修といった時間割になっており、単位を落として留年しそうだという。小学校と中学校は卒業したが、高校は2回、大学は1回辞めている。「学校を卒業した回数より退学した回数のほうが多い」と河邉さんは笑う。中卒になってしまうので、藝大を辞めるつもりはない。

大学ごとのジンクスを聞かれると、藝大は「行方不明になってなんぼ」だと答えた。就職は一番ダサく、大学院も安牌だ。制作にのめり込み、仕事やお金をどうでもいいと思っている人が音信不通になり、誰もその人が今何をしているか知らない状態が一番かっこいい。河邉さんは、これはあくまで自分の考えだと断った。

自分はそうではなく「商業作家」だという。障害をアピールして藝大に入ったのも、自分を商品としてプレゼンしたということだ。芸術家と名乗ったほうが得な場面では芸術家と自己紹介するが、本当の意味での芸術家だとは思っておらず、ビジネス寄りだと自認している。周囲には、稼ぎと自分のやりたい表現を器用に両立させている人が多い、という見立ても話した。

主席卒業、大学院、そして「職業・河邉宏太」

当面の目標は主席卒業である。卒業制作展で各専攻から1人、一人前のアーティストと認められた証として大学が作品を買い上げる「買い上げ賞」があり、これが主席扱いになる。金額は数万円程度で、教授が審査する。留年すると対象外になるので、ストレートで卒業しなければならない。河邉さんは「主席ってサムネに書きたい」と笑った。主席を取った人がその後名を上げるかについては、そうしたい人ならできる力はあると答え、美術館で展示するなど成果を上げている友人のラッパーを例に挙げた。主席を取っても富や名声に関心を持たず、自分の芸術に没頭する人もいるという。

卒業後は、東大か早稲田の大学院で文学研究をしたいと考えている。藝大で制作はできるが、文学研究もきちんとやっておけばよかったと思ったからだ。

現在は、クマ財団の支援クリエイターに採択されて奨学金を受け、家庭教師などのアルバイト、文章や写真の仕事も少しずつしている。学費、生活費、家賃をすべて自分で払っても少し余裕がある程度には稼げているという。今のまま「のらりくらり」とやっていければいいと言いつつ、一発当てたい気持ちも子どものころからある。お金は多いほうがいい。いい暮らしがしたいし、旅行もしたいし、車も欲しい。病気が多いので、何があっても大丈夫なように余裕が欲しい、という理由も挙げた。

理想として名前を挙げたのは、落合陽一さん、ひろゆきさん、乙武さんである。何で稼いでいるのか具体的にはよくわからないが、その人であるというだけで価値がある。河邉さんは「職業・河邉宏太」になりたいという。撮影や取材から始めて、河邉宏太が話しているだけで価値がある状態を目指す。展示をして美術館に作品を出すこと、今は自分で作っている本を商業出版して書店に並べること、プロの小説家やアーティストになることも挙げ、YouTuberでもいい、と付け加えた。

最後に聞き手が、障害がプラスに働いたことのほうが多い人生だったのかと尋ねた。河邉さんは「プラスに働かせた」と言い直し、せっかくだから使っておこうという考えだと答えた。障害を使うことを肯定しながら、障害を評価する市場や、コミュニティの中で障害の重さを比べてしまう自分への違和感も抱えている。インタビューはその両方を残したまま終わっている。