世界3位から個人レッスンへ――田児賢一が語る「僕に教わりたい人に教える」理由

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概要

全日本総合を6連覇し、世界ランキング3位まで上り詰めた元バドミントン選手の田児賢一は、違法カジノ問題で日本バドミントン協会の登録を抹消され、所属していた実業団からも解雇された。現在は1対1のレッスンを中心に指導を行い、YouTubeでも発信している。インタビューは、田児が指導を頼まれている実業団の女子チームの体育館で行われた。田児は、身体能力に恵まれなかった自分が頭脳で世界と戦ってきた経緯、ギャンブルと勝負の関係、処分への考え、そしてなぜ代表監督ではなく個人レッスンを選ぶのかを語った。

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「平等に教える」のは好きではない

田児は、YouTubeで発信しているレッスンの延長として、この実業団女子チームの指導を手伝っていると説明する。ただし軸にあるのは「僕に教えてもらいたい人を教えたい」という考え方だ。たとえばクラブチームで10人を見るとしても、その10人を平等に、平均的に扱うのはあまり好きではないという。10人いれば、田児に教わりたいという気持ちの強さも1から10まで差がある。その差を大事にしたいので、作業的な指導は苦手だと話す。

指導者としてのモチベーションを問われると、田児は「全然ない」と答えた。レッスンを受けに来た人や一緒にラケットを振る人のバドミントンに対する考え方が豊かになればいい。結果が出ることがもちろん一番だが、それと同時にバドミントンがさらに楽しくなることの方が大事だと考えている。

1時間10万円という価格の意味

聞き手が「1時間6万円」という料金を公表していることに触れると、田児は、現在は1時間10万円に上がっていると訂正した。当初はもっと低い額から始めたという。本人は「お金の話はあまりしたくない」と前置きしつつ、この価格には選手のセカンドキャリアを切り開くという意図があると説明する。自分のレッスンの価値を上げていくことで、元実業団選手のように自分ほどの実績がない人が、たとえば田児の30%の額で教えても生活できる基準や水準を作らなければならない。田児はそれを自分の役割として自覚しているという。

バドミントン選手のセカンドキャリアについて、田児は、会社に残って働く人、他チームに移籍する人、監督やコーチとして誘われる人がいて、実力主義の面が強いと述べる。そのうえで、何をもって豊かとするかは別として、セカンドキャリアで大きく稼げるところまでバドミントン界はまだ行けていないのではないか、と見ている。高額レッスンは、それを切り開くための一つの手段だという位置づけだ。

世界3位の人に直接教わる価値は大きい、という聞き手の言葉に対して、田児は、過去の成績が効くのは最初の1回だけだと答える。もう一度この店に来てこの料理を食べたいと思うかは、味で決まる。レッスンも同じで、それを意識しながら教えているという。1回で来なくなる人もいれば、何度も来る人もいる。

違法カジノ問題で日本のバドミントン界から離れたにもかかわらず、ヨネックスと仕事をするまでに信頼を回復できた理由について、田児は、実力も大事だとしたうえで、人とのつながりや、世話になったことを忘れないといった基本的なことを挙げ、きちんとコミュニケーションが取れていたからではないかと振り返る。

バドミントン一家に生まれて

田児は埼玉県出身で、両親ともにバドミントン選手だった。成績では父より母の方が上で、全日本では10回ほど優勝していたという。ただし田児自身は、そうした家庭環境はあまり関係なく、自分でやりたいからやっていただけだと話す。

母の現役期間は長く、一般的には33〜35歳ぐらいで引退するところを40代前半まで続けていた。母が練習したいので幼い田児も大会や練習場に連れて来られ、自然とバドミントンが目の前にある環境だった。一方で、卓球の福原愛のように幼少期から親に指導されたことは「1mmもない」という。楽しむバドミントンと勝ちを目指す厳しいバドミントンを両方含めれば、バドミントンから離れた時期はないとも述べた。

大会に出始めたのは小学4年生ぐらいで、最初は県大会のダブルスに出て、おそらく優勝した。シングルスはまったくできなかったという。小学4年から6年になる頃まではサッカーもしており、週に2日サッカー、2日バドミントンという生活だった。サッカーで県大会優勝するのは大変だが、バドミントンでは明らかに結果が出ていたので、自然とバドミントンを選んだ。当時は基礎トレーニングをしていなかったため、サッカーで走ったことは自分にとって良かったのではないか、と母とも話すという。

年間休み10日の中学時代

地元の小学校を卒業した田児は、電車で通う私立の強豪、埼玉栄中学校に進学した。全国から選手が集まる学校で、筋力トレーニングなどを本格的に始めたのはここからだという。モチベーションは全国優勝といったものではなく、毎日必死にやるだけで、「今日も終わった、明日も頑張ろう」の繰り返しだったと振り返る。

平日は朝練から始まり、授業の後、午後3時半〜4時から練習し、帰宅は8時半〜9時。休日は朝9時から一日中練習で、休みは年間10日あればいい方だったという。勉強はしておらず、仕方もわからなかったと田児は話す。高校もそのまま埼玉栄に進んだ。

誰にも負けない存在だったのかという問いには、勝てない相手はいくらでもいたと答えた。中高では先輩に勝てず、世界に出れば世界ランク上位の選手には勝てない。「勝てない人だらけ」だったという。

シングルスを始めたのは15歳から

田児が本格的にシングルスに取り組んだのは、15〜16歳の高校入学後だった。中学の全国大会では個人戦でシングルスかダブルスのどちらかしか選べず、田児は2年と3年の時にダブルスで全国大会に出ていた。高校になると両方に出場できるようになり、そこからシングルスを本格的に始めた。田児自身、かなり遅いと認めている。

他の選手は小学生の頃から厳しい練習を積み、シングルスの動きが体に染み込んでいる。自分にはそれがなかったので、先に頭で考えないと無理だった。肉体勝負では勝てない。それがうまくはまったのではないか、と田児は分析する。体力テストの成績も中の下ぐらいで、身体能力は高くなかったという。

では、身体能力が中の下でもテクニックと頭の使い方次第で世界を狙えるのか。田児は、努力は必要だとしたうえで「やりようはある」と答えた。ただし、世界のトップになる選手は頭脳よりも身体能力が抜群に高い人だと明言する。高く跳べて、速く走れて、重いものを持てる選手が強い。田児は自分について、頭だけで世界3位まで行ったわけでもなく、身体的に足りていたとも思っておらず、少し技術があった程度だと語った。

6連覇は「ほっとする」だけだった

全日本総合に初めて出たのは高校1年の時で、憧れの大会だったので本当に嬉しかった。しかしそれ以降は、あまり嬉しくなくなったという。2連覇目はほっとする気持ちの方が強かった。勝って当たり前と見られる状況は面白くなく、プレッシャーの方が大きかった。田児は自分が強いと思ったことはなく、いつかどこかで負けるという不安と戦っていた。優勝すればそれを一旦乗り切れるので、ほっとするだけだったという。

全日本で優勝して日本で一番になってからは、国内では受けて立つ立場、横綱のようなものだったと田児は表現する。それでも毎日全力で、手を抜くことはあまりなかった。「どうせやっているのだから」という思いが強く、もっと上に行きたいという気持ちがあったからだと振り返る。

世界一が見えていたわけではないが、当時の世界ランク5位前後の選手たちに、自分がまだ海外で無名だった頃から憧れていた。同時に「自分がやらなかったら誰がやるんだ」という気持ちもあり、世界で勝ちたいという思いが一番強かった。6連覇や5連覇を目指したわけではなく、世界を目指していた結果がついてきただけだという。

「まず日本一」という当時の風習

世界を優先したくても、当時の日本ではそれが難しかったと田児は語る。まず日本一になれというのが日本の風習で、全日本総合を欠場する選手は一人もいなかった。今は全日本を棄権して海外の大会に行く選手や、途中でやめる選手もいて、日本基準ではなく世界基準になっている。田児はそれを羨ましいと話す。当時それが許されなかった理由については、世界で勝った日本人がいなかったからではないか、と推測している。田児自身は本当は1回勝てば十分だと思っていたが、結果として5回、6回と続いたという。

ギャンブルと「自運」、そして自制心

当時すでにギャンブルにはまっていたのかという問いに、田児は、もともと嫌いではなくやることもあったが、はまっていたと言えるかはわからないと答えた。あくまでバドミントンが第一で、ギャンブルが試合に悪影響を与えたことはない。むしろ「試合にいい方向に働くためにやっていただけ」だという。食事も生活も、自分は何でもバドミントンにつなげるタイプで、その中の一つにギャンブルがあっただけだと説明した。

田児は運には「自運」と「天運」があると言う。天運は誰にでも回ってくる運で、自運は自分が持っている運だ。その自運を知りたいという気持ちがあったのではないかと話すが、この感覚を言葉で説明するのは難しいとも認めている。

ギャンブルで負ける時は、たいてい自分をコントロールできていない時だという。熱くなって負ける。これはバドミントンのコートの中でも同じで、どの競技でも同じだと田児は考える。バドミントンは相手をどう崩していくかのスポーツだが、先に自分が崩れたらどうしようもない。感情を力に変えられればいいが、コントロールできなければ自分が崩れてしまう。

トマス杯優勝は「奇跡」に近かった

田児は、世界最大の男子団体戦であるトマス杯で日本の優勝を経験している。田児によれば当時日本初の優勝で、その後も優勝はないという。ただ、それが選手としてのピークだったわけではない。当時の自分の実力は今より全然低く、いろいろなことがうまくいって結果がついてきた、サッカーで日本がブラジルに勝ったような奇跡に近いものだったと振り返る。

淡々としたタイプに見えるという聞き手に対し、田児は、自分はどちらかといえばアグレッシブなタイプだと答えた。そうでなければギャンブルなどやらず家にいる、という理屈だ。

普通の青春はなかった

田児は、違法カジノの件で世間から批判されることには納得しているし、仕方がないと思っている。ただ、それまでバドミントンでやってきたことには自信を持ち、今は違う形でバドミントンに関わりながら続けていかなければならない。それを大切にしているという。

バドミントンが人生のすべてで、それ以外のことはわからない。修学旅行には行っておらず、卒業式にも入学式にも出ていない。高校の卒業式の日は全英オープンに出場していたという。修学旅行の時期も試合や合宿だった。高校2年から日本代表に入っていたからだ。田児の説明では、現在の代表にはA代表と、24歳以下が対象のB代表があり、A代表に入ると非常に忙しくなる。

代表入りも狙っていたわけではなく、毎日全力でやった結果だという。代表に入って調子に乗ることもなかった。入ってからの方が厳しいので、調子に乗る理由がない。代表入りはスタートでもゴールでもなく、やることが大変になり、強度を上げていくだけの話だと田児は述べた。

違法カジノ問題と処分への考え

日本でカジノをやった点について、田児は、認識の甘さがあったと認める。パチンコなどと同じような感覚で、あそこまで大きな騒ぎになるとは当時思っていなかった。謝罪会見なども含め、その点は反省しているという。一方で、反社会的な組織と関わったことは一度もなく、田児が全員を引き連れていったという報道は全く違うと述べた。それぞれが行きたい時に行っていただけで、結果として自分だけが解雇されたため、首謀者のように映ってしまった。それが世間の怖さだという。ただ、自分の中ではあまり関係のないことで、多くの人に迷惑をかけたことから学び、また同じことをしたらただの「アホ」だと話した。

問題が発覚した経緯を問われると、田児は「僕からは言えない」とした。良い悪いの概念を除けば、自分はただギャンブルをしていただけだ、とだけ述べている。

解雇については、やってしまったことが悪いので自分の中で受け止められた。自業自得で、プレイヤーとしては一区切りだと感じたという。当時は、その前に捻挫をして時間を費やしており、治ったら世界一になりたいという気持ちはあったが、結果がついてきていない時期だった。問題発覚前の世界ランキングは覚えておらず、20位か30位ぐらいではないかという。15位から30位あたりは入れ替わりが激しいとも補足した。

処分の重さについては、関与した者の間で処分に差があったことに本音では思うところがあったという。八百長をしたわけでも、ドーピングをしたわけでもない。それが日本という国だと田児は言う。海外ではワールドカップに裁判中の選手が出ていることもあるが、日本ではありえない。国によって違う、としか言えないという。

そのうえで田児は、あくまで個人的意見として考えを述べた。世間の見方は「ギャンブルをしたやつがバドミントンなんかするな」だが、自分の考えでは、悪いことをしたのだから今まで以上に練習し、もっと結果を出してみんなに恩返ししなさい、でいいと思う。刑事事件になって逮捕され刑務所にいるならどうしようもないが、そうでなければ練習はできる。ただ、自分も悪いことをしたとわかっているから引いてしまう。それも自分が日本人だからだという。どこまでの罰が正当かを突き詰めれば裁判になるような話で、スポーツ界でも芸能界でも、不倫したら出られないといったことが起きる。そうした状況は本質を得ていないと感じている。

マレーシアでの5年間

その後の人生について誰かに相談したかと問われ、田児は、バドミントンを極めていたのであまり不安はなかったと答えた。ただ人生として厳しい状況ではあり、その時に助けてくれた人たちに、極めたもので還元したいという思いが強かったという。

仲の良いマレーシアの知人のオーナーが心配してくれ、こちらで全部面倒を見るから来いと声をかけてくれた。それで5年ほどマレーシアに住んだ。そのオーナーがチームを持っていたので、若い選手の練習相手をして経験を伝え、半年に一度ほどあるマレーシアリーグ(田児の言葉では「Jリーグのマレーシア版」)に助っ人として出場した。コロナ禍で日本の緊急事態宣言が出た時、親とも会えなくなるかもしれないので一度日本に帰れと言われ、帰国したという。

世間からは、桃田より先に試合に出ている、といった見方もあった。だが処分は、日本バドミントン協会に登録がある大会には出られないというもので、海外で試合に出てはいけないというルールではなかった。田児はルールに基づいていたと説明する。カジノの件は聞かれても嫌ではないが、言えることもないという。守ってもらった桃田と、飛ばされた自分という形で明暗が分かれたが、それを恨んではいないと話した。

「肩の荷が降りた」――誰のためのバドミントンだったか

気持ちの整理について聞かれると、田児は、当時からできていたと答えた。むしろすっきりした。「やること終わった」という感覚だったという。それまでは会社のため、日本のためにバドミントンをしていて、自分のためにはほとんどしていなかった。肩の荷が降りたのだ。

田児によれば、自分のためにバドミントンをしなくなったのは高校1年の頃からだ。高校2年でインターハイに優勝して代表に入れば、高校3年は学校のために頑張らなければならない。高卒で実業団に入り、社会人1年目で日本一になれば、今度は会社のためにならなければならない。レベルが上がるほど日本で応援してくれる人が増え、その人たちのためにも頑張らなければならない。17歳から24〜25歳までの7〜8年間がそうだった。

その期間は、長いというより「きつい」ものだったと田児は語る。何度日本一になっても嬉しくも楽しくもない。周りは強くていいなと言うが、孤独だった。日本に自分より強い選手がいないので、悩みは自分で全部解釈するしかなく、練習も自分で工夫しなければならない。特別扱いしてもらえた良いこともあったが、結果を出し続けるのは簡単ではなかった。自分のためにやらなかったことは良くなかった面もあり、同時にそういう気持ちを持っていたからそれなりの結果が出た面もある。両方あるとしたうえで、田児は今の選手には「自分のために頑張ってほしい」と伝えたいと話す。

全日本で10回優勝した母ならその悩みがわかったのではないか、という問いには、勝ち続ける大変さは母もわかっていたと思うが、それは自分もわかっていたので相談することではないと答えた。母の時代は気合いと根性が絶対的に強く、ラケットの重さも倍ぐらい違ったと思う。自分の時代は技術も戦術も必要で、世界のトップに勝つための具体的なことは母でもわからないと思っていたという。聞き手が「iPhone 17とiPhone 2や3の悩みは違う」とたとえると、田児は「OSが違いすぎる」と同意し、今は観客がバドミントンに求めるものも昔とは全然違うと付け加えた。

問題の後に残された人たちの方が大変だったと田児は言う。桃田賢斗も大変だったはずだ、と。

桃田賢斗との違い――「いかに動かなくていいか」

桃田はその後世界チャンピオンになった。田児は、もともと実力があった選手で不思議はないと話す。いろいろなことがうまくいって世界チャンピオンになり、逆に少しずつ歯車が狂って勝てなくなった。それは選手として当たり前のことで、桃田の場合は上がった時がすごかったのだという。田児は試合をよく見ており、解説の仕事をすることもある。

二人のプレースタイルは全く違う。田児によれば、桃田は「ザ・シングルスプレイヤー」だ。運動神経が高く、小さい頃からずっとシングルスをやってきた。コートの四隅をうまく使い、相手を走らせるのがシングルスプレイヤーのやることだという。

一方の田児は、それをやると自分が不利になるので、いかに動かなくていいかを考えてプレーしていた。自分が動かなくて済むように、相手も動かないようにする。珍しいタイプだと本人も認める。だからこそ3位なのかもしれない、とも言う。このタイプで近年世界一になった選手はおそらくいないが、田児は、今のバドミントンに必要なのは自分のようなプレーだと考えている。聞き手の、身体能力の差がなくなれば頭脳で差をつけるしかない、という言葉にも同意した。

YouTubeと日本バドミントン界の報酬

YouTubeを始めたのは、マレーシアでコロナが広がる1〜2年ほど前だという。始めた時期は良かったのではないか、と田児は振り返る。投稿するのはバドミントンの動画だけだ。カジノに行ってみたといった企画をやれば目立つだろうが、ファンの大半は田児のバドミントンを見たい人たちなので、そういうことは極力しない。自分の中ではカジノの件はネタになっているが、業界にはネタにしきれていない人もいて、その人たちの反感を買いたくないという。かけた額の最大は何百万円程度で、何千万円や何億円といった規模ではなかったと話した。

バドミントンで稼げるのかという話題では、国内の大会には賞金がなく、あるのは「地位と名誉だけ」だと田児は言う。トマス杯も、優勝すると思われていなかったので報奨が何も準備されていなかった。決勝の相手はマレーシアで、マレーシアが優勝していれば選手一人ひとりに3,000万〜5,000万円と土地が与えられることになっていたという。日本の報奨は何十万円のレベルだった。

田児は、日本の選手は生活のためにバドミントンをしていないと指摘する。ブラジルのサッカー選手が生活を豊かにし家族を助けるために練習するのとは違う。その状況を変えたかったが難しかった。それが今のレッスンにつながっているという。ちゃんとバドミントンをやってきたのだから、他の人にない知識があるはずだ。それを自分の考え方を好きな人と共有し、その人の未来が明るくなればいい、という思いでやっている。

高層ビルの30階から見えなかったもの

日本代表のコーチや監督には興味がない、と田児は言い切る。代表に集められた選手全員が田児に教わりたいわけではないはずで、それが嫌なのだという。

田児はバドミントン界を高層ビルにたとえた。自分は30〜35階にいた人間で、1〜5階の人の考え方を知らなかった。上から見れば下の人はほとんど見えない。しかしYouTubeは1階から35階まで、あらゆる人が見る。レッスンを通じて1〜5階の人と触れ合うと、田児に教わりたい人が結構いた。お金を払ってでも受けたいという人たちだ。

料金が高いから富裕層ばかり来るのかといえば、そうではない。1回10万円でも、毎月バイトして1万円ずつ貯めれば1年に1回受けられる。そういう人もいる。その時の必死さ、今の時間を大切にしようという熱量は全く違う。10万円を欲しいものに使う人も、酒やたばこ、ギャンブルに使う人もいる中で、自分のレッスンに使ってくれるのは嬉しいという。

ファンだから、レッスンを受ければ会えると思って、バドミントン経験がないのにラケットやシューズを買い、何万円と何時間をかけて来る人もいる。そういう人が一緒にバドミントンをして「明日からも頑張れます」と言って帰っていく。「やるしかないでしょ」と田児は笑った。お金儲けではなく、価値を上げていかなければならない。だから額も上げていかなければならないのだという。

現在、元トップ選手や元実業団選手の多くがレッスンを行っており、相場は1万5,000円から2万円ぐらいだと田児は言う。もし田児が1万5,000円でやれば市場がおかしくなり、他の人たちは3,000円でやらなければならなくなる、と説明した。

代表監督のオファーが来たらどうするかという問いには、話は聞くが断ると答えた。日本のバドミントン界に戻らないとへそを曲げているわけではなく、手伝えることがあれば臨時で手伝う。ただしトップには置かないでほしいし、今のやり方の通り時間に応じた報酬を払ってほしいと伝えるという。初心者を教えるのも実業団を教えるのも自分の中では同じで、実業団や日本代表を教える方に箔がつくと世間は見るが、そんなことはない。

1〜5階の人の苦悩は想像するしかなく、体験はできない。これができないのか、ここで苦労するのか、と知っていくことができる。スター選手が何百人規模のイベントに呼ばれても、一人ひとりに対応できない。それも嫌なので、レッスンは基本的に1対1だ。このスタイルは違法カジノ問題があったから生まれたのかと問われると、田児は、結局こうしていたと思うと答えた。

才能にあふれた妹

田児には妹がいる。家族の中で一番才能があり、何をやってもすぐできるようになったという。バスケットボールもサッカーもバドミントンもできたが、どれも続かなかった。家族全員がバドミントンをしている中でバドミントンを続ければ兄と比べられる。それも嫌だったのではないか、と田児は推測するが、本人に聞いたわけではなく「わからない」と繰り返した。楽しくやればいいのに、とも言う。

母親は、田児のYouTubeを見て、よくうまく教えられるねと言うという。田児は、ものを言語化するのが一番難しいと話した。

「もう人生にモチベーションはない」

今後について田児は、バドミントンを教えることは続けると思うが、人生にもうモチベーションがあまりないと語った。教わりたい人がレッスンに来て、その結果すごく喜んでくれたら嬉しい。しかし体育館を建ててアカデミーを作りたいといった気持ちは全くない。バドミントンはやりきったという感覚があり、一度バドミントン界から離れてフィールドを変えた方が、人生のモチベーションができるかもしれないと話す。インタビュー時点で36歳、2日後に37歳になるところだった。

ただ、世話になっている人たちを裏切らないよう、自分のできることを精一杯やらなければならないという責任感はある。そういう感じで生きていけばいいのではないか、というのが田児の答えだった。自分は変わっているとも認めるが、物事の的は得ていると思うと話し、一部だけ切り取られればずれていると言われるかもしれないが、世間とはそういうものだと付け加えた。

ライバル不在の孤独については、すごいと思える選手がいてくれればありがたいと述べ、そうした選手は海外にいたと話す。それが自分の中の基準であり教科書で、それを基準にすれば今のバドミントン界で教えられないことはないと思うという。強い国としては中国を挙げ、インドネシアやマレーシアも続けた。どこのリーグが一番稼げるかという問いには、市場の大きさと富裕層の多さから中国ではないかと答えた。バドミントンで金持ちになるには、自分がスーパースターになるのが一番早い。桃田もおそらく稼いでいるだろうが、「それは本人に聞いてください」と田児は答えを保留した。