兒玉遥が語る、HKT48初代センターの重圧とうつ病からの回復

YouTubeで開く ↗
概要

街録chのインタビューに、HKT48の1期生で初代センターを務めた兒玉遥が登場した。芸能活動は15周年を迎え、9月19日で30歳になる。現在は俳優業を軸に活動しており、3冊目となる写真集の撮影を終えたところだという。兒玉はそのコンセプトを「今までの写真集の中で一番リアル」「どこまでもリアル」と説明した。最近は精神疾患や美容整形について、さまざまな媒体で語っている。

18分で読めます

聞き手は生い立ちから順に質問していく。話題は、ダンス未経験のままセンターに抜擢された経緯、総選挙での順位の上昇、そして重度のうつ病による2度の休養と回復にまで及んだ。兒玉は当時の自分を「追い込みすぎた」と振り返る。一方で、アイドルを経験したこと自体は良かったと考えている。

目立ちたがりのガリ勉少女

兒玉は福岡県出身で、生まれた時だけ別の土地にいたという。父は会社員、母は専業主婦で、弟が2人いる3人きょうだいの長女だ。テレビの中の世界には憧れていたが、自分には遠いものだと思っていた。小学校は私服で、ギャル風の奇抜な格好をして「学校で一番目立ちたい」と考えていた。ダンススクールに通う友人が洗練されて見えたので、真似をしてルーズソックスを履いていたこともある。

中学生の頃はティーン向けファッション雑誌に夢中で、読者モデルに憧れ、雑誌のオーディションにも応募していた。しかし最終審査はどうしても東京で行われる。東京へ行く手段はなく、親もステージママのように協力的ではなかった。芸能は東京に行かないと無理なのだと思い、諦めていたという。一方で「芸能の夢がはっきりあったわけではない」とも話す。当時はバスケットボール部に所属し、生徒会にも入り、勉強を必死に頑張る「ガリ勉」のような生活を送っていた。

そんな時に、AKB48の福岡版ができるらしいと耳にした。地元を拠点に芸能活動ができるなら「やるしかない」と思い、応募を決めた。誰も受かるとは思っていなかったので、親に相談せずネットで応募したと記憶している。全身写真と自撮りをガラケーで撮り、データを貼り付けて送った。

歌もダンスも素人だったオーディション

オーディションは14歳の夏、3次審査まであった。2次審査は福岡・天神の会場で、自己アピールをして質問に答えるだけだった。緊張で頭が真っ白になり、何を話したかはまったく覚えていないという。受験者には年下の子が多く、14歳の兒玉はちょうど真ん中くらいだった。

最終審査は歌とダンスの実技である。兒玉のダンス経験はゼロで、歌も友達とカラオケに行く程度だった。周囲にはダンスができる子が多く、東京から受けに来た人や、何度もオーディションを受けている人もいた。歌唱曲には、当時大好きだった西野カナの「Best Friend」を選んだ。ダンスは、講師がその場で初めて聞く曲の振り付けを1時間ほどで教え、覚えられたかを審査するものだった。兒玉によると、完璧に踊れたのは2割ほどで、なんとなく踊れる子がいて、残りはまったくできなかった。兒玉自身は「浮いていたと思う」と話す。

聞き手は、技術の高い人を選ぶオーディションとは違うのではないかと指摘した。兒玉はこれに同意し、48グループには「ファンと一緒に成長していく」という育成型のコンセプトがあったので、それがありがたかったと語る。最終的に選ばれた1期生は23〜24人ほどだった。受験時はAKB48が「フライングゲット」を出していた頃で、兒玉はファッション雑誌を通じてAKB48の衣装や特集に触れていたという。

学校での孤立と「センターになれなければ受験に専念」という約束

合格すると毎日レッスンが始まった。学校を最後までいるとレッスンの開始時刻に間に合わないため、事情を説明して毎日早退した。1期生の合格は地元のニュースで流れ、同級生にも知れ渡った。

オーディションは中学3年の夏で、部活の中学総体が始まる直前だった。一人だけ大会に集中していない部員とみなされ、「幽霊部員」と呼ばれて仲間外れにされた。掃除の時間はずっとトイレ掃除をしていたという。教師からは「あんたなんかが芸能界でやっていけると思っとると」と言われた。勉強を頑張ることが正義という雰囲気の強い学校で、兒玉自身も生徒会や勉強に熱心なタイプだった。そのぶん芸能活動が肯定される空気はなく、肩身が狭かったと振り返る。

レッスンでも最初はまったくついていけなかった。劇団四季の経験がある宮脇咲良や、アクターズスクールに通っていたメンバーもいて、ダンスの上手さに驚いていたという。

最初のポジション発表は、AKB48の握手会の場でHKT48をお披露目する機会に向けたものだった。レッスン場で、当時の支配人が「センター、兒玉遥」と発表した。兒玉は周囲の反応を見るのが怖かったという。ダンスは「下から数えた方が早い」レベルで、「なんであんなにできてない人が」と絶対に思われていると感じた。みんながセンターを目指していたので、嬉しい気持ちよりも「ごめんなさい」という気持ちが勝ってしまったと話す。

ただ、センターになりたい気持ちは強かった。兒玉は母と「センターになれなければグループを諦めて高校受験に専念する」と約束していた。親はまさか本当にセンターになるとは思っていなかった。だからこそ、やるからには全力で頑張ろうと決めていたという。

なぜ選ばれたのかについて、兒玉は今だから思えることとして二つ挙げた。一つは「超絶伸びしろがある」こと。もう一つは、下手すぎて悪目立ちしていたことだ。レッスン後も居残りして練習していたので、その一生懸命さも含めて運営が判断したのではないかと推測している。デビュー公演やCDデビューまでに期間があり、「ここでアピールできればポジションは変わる」とも言われていた。そのためメンバー同士は仲良くするというより、競い合う雰囲気だったという。

AKB48選抜での悔し涙と「下手すぎてワロタ」

HKT48は結成からCDデビューまで1年ほどかかった。持ち曲が少なく、毎日先輩グループの曲を借りて劇場公演をしていた。兒玉は「CDデビューが遅いのは自分のせいか」とまで考えていたという。

その間に兒玉は、AKB48のシングル「真夏のSounds good!」の選抜に、HKT48からただ一人選ばれた。MV撮影はグアムで行われ、振り入れは前日だった。ホテルのロビーに鏡を並べた簡易レッスン場で、先輩たちと一緒に3時間ほど振りを覚える。先輩たちはその時間で振りを入れて復習し、翌日には踊れる。しかし数カ月前までダンス未経験だった兒玉は、振りが入らなかった。当時はスマートフォンがなく、動画を撮って復習することもできなかった。その結果、まったく踊れていない姿がMVに残ってしまった。

2ちゃんねるにはスレッドが立ち、「下手すぎてワロタ」と書かれた。兒玉は自分への悔しさに加えて、代表として行ったのにアピールできなかったことを申し訳なく思い、メンバーに「結果を出せなくてごめんなさい」と謝ったという。

その後、指原莉乃がHKT48に移籍してきた。メンバーもニュースで知り、「まだアイドルにもなりきれていない自分たちのところに、テレビでバリバリ見ていたプロのアイドルが来る」と混乱した。ただ、指原はグループを引っ張り、メンバーとよく話してくれたという。

デビューシングルのセンターには後輩の田島芽瑠が選ばれ、兒玉は外れた。当時は悔しかったと話す。自分がなぜ選ばれていたのかもわからなかったので、何を頑張ればいいのかもわからなかった。ただ、歌もダンスも他のメンバーよりできていないことは明確だったので、とにかくそこを頑張ろうと思っていた。「私ではセンターに足りなかったんだ」と感じたという。

総選挙37位から17位、9位へ

兒玉が強く意識していたのは、AKB48の選抜よりも、HKT48の中で選ばれることと総選挙だった。デビュー直後の総選挙では、HKT48から指原莉乃と宮脇咲良だけがランクインしたと記憶している。兒玉の順位は37位、17位、9位と上がっていった。

当時の総選挙は16位ごとにグループが分かれ、上位16人の「神7」を含む選抜だけが表題曲を歌えた。17位は「あと一歩で選抜」の順位で、兒玉は「めちゃくちゃ悔しかった」と話す。HKT48では「控えめI love you!」で念願のセンターに戻った。売上の数字は当時見ていたが、よく覚えていないという。忙しすぎたことと、その後の休養もあって、当時の記憶はあまり残っていないと語った。

総選挙の順位は1年間引きずったという。17位の翌年は何としても人気を上げなければならず、一度上がった以上もう下げられないという気持ちがあった。兒玉は、他のグループと競うならまだしも、同じグループ内で序列を決められる構造だったと語っている。

「反省ノート」が自分を責める道具になった

休養までの5年間に何が起きていたのか。兒玉は、センターに選ばれた時から「人気にならなきゃいけない」「実力も上げなきゃいけない」という思いがずっとあったと話す。総選挙の順位、売上、握手会の列の人数といった数字を気にしすぎて、自分を追い込んでいったという。「何を頑張れば、ちゃんとしたアイドルになれるのかがわからなかった」とも語る。

聞き手は、テレビにも出ていたのだから外から見れば十分成立していたのではないかと尋ねた。兒玉は「今ならわかる」と認めつつ、当時はテレビで見ていた先輩のようにはなれていないとずっと感じていたと答えた。試験なら98点で「あと2点」とわかるが、アイドルは数字を渡されても理由がわからない。聞き手のこの指摘に、兒玉も同意している。

他のメンバーと悩みを話すこともできなかった。ふさぎ込み、「同じ土俵にいるメンバーとしてヘラヘラするのは良くない」と自分に課していた。兒玉は「誰もそんなこと思ってない」と前置きしたうえで、センターのプレッシャーを自分の中で大きくしすぎたと振り返る。マネージャーからは「はるっぴはそのままでいいよ」と言われることが多かった。しかし、みんなよりできていないのにそのままでいいとはどういうことかと、かえって悩んだ。自分の良さや、スタッフがなぜ自分をこの位置に置いているのかがわからなかった。「子どもすぎた」とも話している。

兒玉は毎日「反省ノート」をつけていた。中学のバスケ部の顧問が部員全員に書かせ、毎日提出させていた習慣を続けていたのだ。できていないところを書き出して改善策を考える作業である。しかし名前のとおり欠点ばかりを書くので、足りない部分を足そうとし続けても永遠に埋まらなかった。シングルでセンターを務めても、大観衆の前で歌っても、喜びはなく、ずっと自分を責めていたという。オーディションまでは自信のあるタイプだった。しかし初日から「歌もダンスも全然できない」というスタートだったので、そこから自信を失ったと振り返る。

総選挙前夜の幻覚と幻聴

兒玉は著書で、せん妄のような症状について書いている。聞き手がそのことを尋ねると、兒玉は最初の休養前から症状が出ていたと答えた。医師からはうつ病の症状だと説明されたという。

総選挙の前日、ホテルで寝ていると金縛りになった。「嘘だ、嘘だ」と思って目を開けると、目の前に現れたおばあさんが「嘘じゃないよ」と言ったという。兒玉は「初めて幽霊を見た」ような体験だったと話す。ぐるぐると回る渦巻きが、前世と今を結ぶ空間のように見えたこともあり、その世界を本気で信じていた。幻聴もあった。そうした状態のまま、兒玉は9位として総選挙のステージに立った。

9位になっても解放はされなかった。翌日から総選挙ガイドブックのような水着雑誌の撮影、楽曲のMV撮影、ドラマのセリフ覚えと、休みなく仕事が続いた。やっと選抜に入れて嬉しいはずなのに、体がついてこなかった。選抜メンバーになったからにはしっかりやらなければという思いが、さらにプレッシャーになったという。やる気がないわけではなかった。これから走らなければならない時に、頭が動かなくなり、心も弱っていった。

紅白での「悪目立ち」と最初の休養

せん妄のような症状はやがて出なくなった。しかし眠れない日が続き、いつも踊れていた曲が踊れなくなり、インタビューでも言葉が出てこなくなった。周囲から様子がおかしいと言われ、兒玉は半ば強制的に心療内科へ連れて行かれた。デビューから5年目、20歳の頃である。「私がそんな病気のはずない」と思っていたという。

決定打になったのはNHK紅白歌合戦だった。この年の紅白では番組中に投票の順位を発表し、16位以内に入らなければ曲を歌えないという新しい企画が行われた。総選挙で9位だった兒玉は、16位以内には入りたいと思って本番に臨んだ。しかし結果は29位前後で、曲は歌えなかった。

さらに生放送中に、兒玉は勘違いしたような動きをしてしまった。最後の上位3人は中央に集まるようアナウンスされていたが、兒玉は16位から順に名前を呼ばれるものと思い込んでいた。自分が呼ばれないまま最後の3人の段階まで進んだと思い、キョロキョロしながら中央付近を通り過ぎた。その姿が、1位・2位が目立つべき場面で映ってしまった。ネットでは「入ってないのに勘違い」といった書き込みがされ、スレッドも立った。兒玉は今なら面白い話として話せると言うが、当時は「とんでもない間違いをしてしまった」と落ち込んだ。

年明け、医師の判断で最初の休養に入った。兒玉にとっては嫌なことで、安心はなかったという。休むという選択肢が自分の中になく、もっと頑張りたかった。HKT48での活動がすべてだったので、居場所がなくなる怖さもあった。

悪化したままの復帰と2度目の休養

最初の休養は1カ月半ほどだった。何が治ったのかわからないまま復帰したが、兒玉は「より悪化して戻った」と話す。症状は前より悪くなり、薬の副作用やストレスで過食し、体重は20キロほど増えた。それがさらに自分を追い込んだ。

それから1年ほど頑張った。以前はライブも握手会も、歌って踊ることも楽しかったのに、心が動かなくなった。「自分は全然できていない」「みんなに迷惑をかけている」とネガティブな考えに傾き、番組の途中で母に「もうやめたい」と連絡することもあった。家族の見方は分かれていた。母はずっとサポートし、心配していた。父は、休んでいる兒玉が甘えているように見えた時期があり、「いつまで休んどると」という雰囲気になったこともあった。兒玉自身も初めての症状で、何が起きているのかわからなかったという。

2度目の休養は、医師に言われる前に兒玉自身が「もうアイドルはできない」と感じ、運営に申し出た。運営からは「はるっぴが気が済むまでゆっくり休んでいいからね」と言われた。当時は心の病を公表する風潮がなく、「体調不良による休養」と発表した。兒玉の説明によれば、48グループはCDの握手券を先に販売し、毎日劇場公演もあるので、休めばすぐに知られてしまう。説明しなければファンを心配させるが、病名までは言えない。その結果、「体調不良」という表現になったのだという。当時、心身の不調で長期休養するメンバーはあまりいなかったとも話している。

「社会復帰できるのは1割」と「生きてるだけでいい」

休養中の兒玉は、ベッドでずっと天井を見ていた。後に知ったことだが、医師は母にだけ「この状態から元気に生活できるようになるのは1割」と伝えていたという。兒玉自身も一度は社会復帰を諦めた。

支えになったのは母の言葉だった。母は「生きてるだけでいいよ」「はるかのことは全部私が守るから、生きててくれればいい」と言った。兒玉は、この言葉がすごく嬉しかったと振り返る。自分にできることが何もなくなったと感じていた時期だった。頑張らなくていいのだと思えたことで気持ちが変わったという。15歳から走り続け、グループで結果を出して売れることだけが人生の希望だった。その夢が破れた後の選択肢や外の世界のことは考えたことがなく、本当に何をしたらいいのかわからなかった。グループで順位を上げ、憧れの先輩のように有名になることだけを考えていたと話す。

回復の最初の段階は、朝起きて食べて眠るという基本的な生活を取り戻すことだった。それができるまでに半年ほどかかった。その頃には話す、書く、覚えるといった、以前できていたことができなくなっていたという。それでも自宅で療養するうちに少しずつ元気になり、何をしたい、何を食べたいといった欲が出てきた。

運転免許、一人旅、留学、ノートで自分と向き合う

最初の挑戦は、祖母の家に泊まり込んで自動車教習所に通うことだった。勉強すらできないと思っていたので、兒玉にとっては大きなチャレンジだった。しかし2週間ほどで免許が取れた。仮免許の頃から「私できるかも」「勉強もできるし運転もできる」と感じ、ここで初めて自信を取り戻したという。

その後は、アイドルでなかったらやりたかったことを全部やった。一人での海外旅行、そしてフィリピン・セブ島での1カ月の語学留学である。小さい頃に何が得意で何に心が動いたかというルーツをたどり、今後どんな仕事をしていくかを、ジャーナリングのようにノートに書いて考えた。かつての反省ノートとは違い、自分と向き合うための作業だった。

そこで兒玉がたどり着いたのは、自分は自己表現をのびのびとできることが好きだという答えだった。歌って踊ることも本当は好きだった。ただ、それを競争の形でやり、数字や順位を追いすぎて責任やプレッシャーを抱え込んだことで疲れてしまった。数字を追うこと自体は良いことで正解でもあり、結果を出して向いているように見える人もいると兒玉は言う。そのうえで、「アイドルとしてトップを目指す」以外の未来を持っていなかったことが自分を追い込んだと話す。センターに選ばれたなら「選ばれちゃったもん」くらいの図太さで堂々としていればよかった。初めてグループを見る人は数字など気にしていない。アイドル活動を楽しみ、ファンと思い出を作ればよかったのだと振り返った。

卒業コンサートのない卒業と、公表の理由

兒玉は卒業コンサートをせずに、「逃げるように」アイドルを離れ、女優に転身した。ファンやメンバーに感謝を伝える卒業コンサートを経ていないことに負い目があり、HKT48の活動を最初はすんなり見られなかったという。卒業コンサートで区切りをつけるのは「絶対セット」だと思っていたからだ。ただ、転身は周囲と協議した結果、戻るより転身した方がいいという結論になったもので、兒玉自身も納得していた。「どのやり方が正解だったか今でもわからない」とも付け加えている。

現在は別のグループで活躍する宮脇咲良については、「一度も休まずに走っている。普通のメンタルと体力ではできない」と語り、嫉妬のレベルではなく尊敬しかないと話した。

うつ病などを公表した理由も語られた。以前は心の病への認知が広がっておらず、公表すれば弱い人と見られて仕事に影響するのではという不安があった。それでも、応援してくれたファンに休んでいた理由を説明できること、同じ病気で苦しむ人の心が少しでも晴れる発信ができることを考え、公表に踏み切った。反響は大きく、自分と同じ思いをした人がこれほど多いのかと感じたという。ファンからは「やっぱりそうだったよね」「あの時握手券を買っていたから、理由を知れてよかった」「今も応援しているよ」という声を直接聞くことができた。わだかまりを抱えたまま休んだという思いが、少し解放されたと話している。

いまの働き方と、これから

これからアイドルになる人に何を伝えるかと聞かれ、兒玉は「マジで楽しみな」と答えた。選ばれたこと自体がすごいことで、プレッシャーはあっても、何も考えずに楽しめばいいと言いたいという。

現在は「自分の心の健康が一番」で、やりたい仕事はやり、やりたくないことは断る。休みたい日は自分から申し出ることもできるようになった。10代の頃は、自分から何かしなくても仕事が山ほどあり、断るという発想もなかった。今は状況が違うとしながらも、「選べることはめちゃくちゃ大事」だと語る。

今後について、兒玉は俳優業を死ぬまで続けたいと話した。俳優は年を取ってもいい職業だからだという。今はまだアイドルらしさや「綺麗でいたい」という意識が残っているが、それがなくなっても、必要とされる限り芝居を続けたいと考えている。そのうえで、美容、株式投資の勉強、メンタルヘルスなど話せることがあれば、俳優業を中心にマルチに活動していくつもりだという。

美容整形は、うつとは別の話として語られた。初めての整形は17歳頃で、コンプレックスだった目の埋没法をスタッフに相談し、止められたが実行した。15分ほどの施術で長年の悩みが解消されたことに感動し、手軽な施術から手を出していった。特にヒアルロン酸にははまったという。丸顔が気になり、MV撮影の前に顎に入れておかなければと考えていた。心が沈んでいた時期にも施術には通っていたと話している。

経験して良かったかと聞かれると、兒玉はアイドルの経験は良かったと答えた。ただし、重度のうつ病まで経験して良かったとは思わないと明言している。心の異変にもっと早く気づいて病院に行っていれば、重症化する前に対策できたはずだという。当時は心療内科という場所があることも知らず、自分がうつ病になるはずがないと思っていた。しかし、そう思っている人ほどなりやすいらしいと話し、もっと早く心療内科を活用すればよかったと振り返った。

芸能界に復帰する前はカウンセラーを目指し、心理カウンセラーの資格も取った。実践にはもっと本格的な学びが必要だと思うとしつつ、「今ならカウンセラーとしてできると思う」とも話す。28歳頃には卵子凍結もした。今すぐ子どもが欲しいわけではないが、将来少しでも望む気持ちがあるなら早めにしておくのが賢明だと考え、選択肢を増やしておいたという。家族を持つかどうかは「選択するかわからない」と笑った。