愛知県で唯一の黒人ハーフの少年だった芸人・ぶらっくさむらいが語る、父探しの旅と「OWARAI」への挑戦

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概要

ぶらっくさむらいこと武内剛(本名・武内剛)は、カメルーン人の父と日本人の母のもとに生まれ、名古屋で育った。現在45歳。かつては「ハーフ芸人」としてテレビのネタ番組に出演し、その後、2歳のとき以来会っていなかった父をイタリアで探す映画を作った。現在は事務所を離れ、英語でのスタンダップコメディに挑戦している。街録chのインタビューで武内は、肌の色のせいで居場所を見つけられなかった少年時代から、父との再会と別れ、日本のお笑いを英語で世界に届ける計画までを語った。

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「竹内剛」という名前と、17歳で初めて話した黒人

武内が父に会ったのは、2歳のときの1週間だけだという。本人は何も覚えておらず、「僕の世界線に親父はもう存在しない状態だった」と振り返る。本名は武内剛。「マイケルとかジェームスとかボビーとかが真ん中に入っていたら、まだ逃げ場があった」と武内は笑う。日本人らしい名前なのに自分だけ肌が黒い。そのずれを意識したところから、もやもやが始まったという。

武内によれば、当時は冗談抜きで、自分が愛知県で唯一の黒人ハーフの少年だったと思うという。生まれて初めて黒人と実際に話したのは17歳のころだ。先輩に連れられて行った名古屋市内のヒップホップのクラブで、おそらくアフリカ系のオーナーと「ワッサップ、ブラザー」といったやり取りをしたのが最初だった。この話をアメリカの黒人に伝えると、「マジか、信じられない」と驚かれるそうだ。

シングルマザーとして証券会社で働いた母

高校までは母と2人で暮らした。0歳から保育園に通い、母は事務の仕事などで生計を立てていた。武内が小学校に上がる前ごろ、母は当時「四大証券」の一つと言われた大手証券会社に就職した。母は高卒で、本人は「運が良かった」と話していたという。株の営業を担当し、名古屋の支社で女性の中ではトップクラスの成績を上げた。そのため武内は、シングルマザーの家庭でも貧しい思いをした記憶はなく、「めっちゃ恵まれていた」と語る。男社会だった当時の職場で、母は「男に負けるか」という勝ち気さで成り上がったという。

母方の祖父は武内が生まれる前に亡くなっており、祖母も武内が1歳になる直前に他界した。母は身内をほとんど頼れないまま、一人で子育てをするしかなかった。武内は今になって、その大変さを実感していると話す。

旅好きの母と、ペルージャで出会った父

両親の出会いについて、武内は「これまた複雑」と前置きして語った。現在81歳の母は20代のころ、つまり1970年代に、女性一人でヨーロッパを13か国ほど旅した。そのときイタリアの国と文化に魅了され、その後数年はイタリアと日本を行き来しながら暮らしていたという。

父は21歳のとき、祖国カメルーンから夢を求めてイタリアに渡り、まず学生として過ごしていた。2人はペルージャの大学のイタリア語クラスで出会った。当時、母は32歳、父は23歳だった。母はそれまで男性と交際した経験がなく、父にすっかり惚れ込んで自分からアプローチしたという。母は日本での仕事とイタリア行きを続けながら3年ほど交際し、「この人との子どもが欲しい」と望んで、35歳のときに日本で武内を出産した。入籍はしていない。

武内によれば、父は当時学生で、アフリカ出身の黒人がイタリアで就ける仕事はほとんどなかった。差別も今より露骨だったと武内は推測する。父は経済的に子どもを育てられないと母に伝えたが、母は「自分一人でも絶対に育てる」と言って出産を選んだ。武内は母からそう聞かされてきた。父探しの映画を作り、いろいろな人の声を聞いた今、今よりはるかに偏見が強かった時代に外国人との子どもを産むと決めた母の覚悟を、あらためてすごいと感じているという。

小学校入学翌日の「来た、逃げろ」

武内の地元は名古屋市中村区だ。本人によれば、1980年代の地元は校内暴力が問題になるほど荒れていた。母は、地元の小中学校に入れたら「100%いじめられるか、不良になる」と心配した。そこで住所をこっそり借り、名古屋中心部の小学校に通わせた。武内は小学1年から、30分ほどかけて学区外の学校に通った。今思い返すと、その学校の子どもは半分以上が学区外から来ていて、医者の家の子もいれば、自分のような「わけあり」の子もいたという。

それでも、肌の色を理由にした扱いがなかったわけではない。武内がはっきり覚えているのは、入学式の翌日ごろの出来事だ。友達が一人もいなかった武内は、校庭で遊んでいた5〜6人の輪に「混ぜて」と近づいた。すると子どもたちは一斉に武内を見て、「わ、来た、逃げろ」と走り去った。そのとき初めて自分が人と違うことを強く意識し、寂しくなったという。

保育園のころは0歳から一緒に育っていたので、周りの子は「色の黒い子」くらいに受け止めていて、「外人」という認識はなかったと武内は見ている。父に会いたい気持ちも、子どものころはあまりなかった。母から愛情をたっぷり注がれて育ったので、父がいないことを疑問に思わず、「こういう家族もあるんだろう」と思っていたという。

アフリカを避けた思春期

中学生のころには、自分だけ肌の色が違うことへの意識が強くなった。当時の日本のメディアでは、アフリカといえば槍を持って動物を追いかけるイメージで、アフリカ出身のタレントも「おバカキャラ」として扱われていた。そのため武内は、アフリカや黒人という話題に触れないようにし、半ばタブー視していたという。1980〜90年代にはハーフの子が珍しく、周りは真っ先に「お父さんとお母さんはどうやって知り合ったの」と聞いてくる。しかし父のいない武内には、その質問が嫌だった。

小学校では明るく、みんなを笑わせるのが好きな子だった。ところが中学年ごろから、いじめとまではいかない「いじり」が増えた。電車や道で、唯一の黒人の少年は子どもたちの格好の注目の的になり、「俺の居場所はこの社会にないのか」ともやもやし始めたという。

運動は苦手で、音楽や漫画、テレビが好きな文化系だった。見た目から運動ができると思われるのは「ハーフあるある」だと武内は言う。『スラムダンク』が人気だった中学1年の4月、バスケ部に入ったが、ボールにも触らせてもらえない補欠だった。他の生徒から「すごい補欠がいるぞ」という視線を感じ、そのプレッシャーに耐えられず5月には退部し、美術部に移った。荒れた時期もあったが、喧嘩はめっぽう弱く、本気の喧嘩になると「大したことない」とすぐにばれたという。

パンク、グラフィティ、そして停学

進んだのは本人いわく「超底辺高校」で、パンクやハードコアのバンドに打ち込んだ。のちにラップも始めるが、その前にグラフィティにのめり込む。ラップを教えてくれた3人ほどの先輩も、全員が名古屋でグラフィティをしていた。社会に反抗したい気持ちとぴったり合ったという。中学時代に母とイタリアへ行った際、落書きだらけの地下鉄が走るのを見て、トレビの泉より感動し、「日本に帰ったら俺もやりたい」と思った。中学のころから一人で描き始め、警察にも2回捕まった。これについては「今は反省している」と語っている。

学校生活では、小学生のころの記憶として、エイズが話題になり始めた1989〜90年ごろ、「エイズはお前が持ってきた」と言われたことを挙げた。腕力で黙らせると、それ以降は言われなくなったという。中学3年のときには、ノリで消火器を窓から投げて停学になった。本来は退学になるところだったが、三者面談で母が泣いて頼み、担任ももらい泣きした。担任は「俺が絶対に卒業させる」と学年主任に掛け合い、なんとか卒業させてくれたという。母は塾や通信教育、家庭教師でちゃんと育てようとしていたが、この一件以降は「高校さえ出てくれればいい」と諦めていたと武内は話す。

当時は精神的にもかなり参っていて、周りの声がすべて自分の悪口に聞こえるほどだった。それでも友達にはそういう姿をほとんど見せなかった。今になって当時の話をすると、友人たちからは「悩んでいるようには全然見えなかった」と言われるという。暗く振る舞うとネガティブな方へ飲み込まれて抜け出せなくなるので、もともと好きな明るさや笑いの側にいようとしていた、と武内は説明する。

「外国人は受け入れ禁止」と言われた現場

高校卒業後は、日本の社会に希望を持てず、就職も進学もしないままフリーターになった。それでも「何者かになりたい」という野心は強くあったという。

職を転々とする中で、忘れられない出来事がある。建築現場で働いていたとき、親方に呼ばれ、来週から別の現場に行ってくれと言われた。理由は、その現場では保険の関係で外国人の受け入れが禁止になったからだという。武内は「僕は外国人じゃなくて武内剛で、パスポートもめちゃめちゃ日本のパスポートです」と訴えたが、親方は元請けには逆らえないと謝った。そのうえで「ハンディキャップがあるなら人一倍頑張って見返してやれ」と励ましてきた。武内は「俺のこの見た目はハンディキャップなのか」と思い、親方の励まし方も少しずれていると感じたと笑って振り返る。

人と話すのが好きで接客の仕事を望んだが、19歳ごろ、「君がいるとお客さんがびっくりしちゃうから」と言われたことも大きなショックだった。武内は、店長が気にしなければ済む話だと思う一方で、日本には同調圧力が強くあり、同じような人を同じような格好で雇うことが店のブランディングだったのかもしれないとも語る。一言で「差別」と言い切るのは難しいところだという。

「日本に復讐してやる」と、母の涙

20歳ごろ、行き詰まった武内は同居していた母と激しく衝突した。「日本なんか嫌いだ、日本に復讐してやる」と暴言を吐くと、母は号泣し、「そんなに悩んでいたなんて知らなかった。全部私のせい、本当にごめん」と謝った。武内はそこでハッとした。母がいなければ自分は絶対に生きていない。このままではだめだと思い、自分を変えるためにアメリカ行きを決めたという。

アメリカを選んだのは、ラップやパンク、映画などアメリカの文化が好きだったからだ。英語を話せるようになりたかったし、映画で見るような、明るく開放的で他人に干渉しない世界を見てみたかった。「世界は日本だけじゃない」と考え、まずはお金を貯めて3か月間、バックパックでアメリカを旅した。

ニューオーリンズの衝撃と、ニューヨークという居場所

旅の始まりは南部のニューオーリンズだった。武内によれば、アメリカ音楽発祥の地と言われ、住民の9割以上がアフリカ系アメリカ人の町だという。出発前に英会話学校のNOVAに3か月通っていたが、訛りが強く、現地の英語は「1ミリもわからない」ほどだった。スマホもない時代で、途方に暮れ、危ない目に遭いそうにもなりながら、逃げるように北へ向かった。シカゴを経てニューヨークに着き、そこに住んでいた日本人の先輩の家に転がり込んだ。

ニューヨークで武内は「ここが俺のオアシスだ」と興奮したという。移民の多いアメリカの中でも特に移民の町で、さまざまな人種、宗教、肌の色の人が入り混じっている。日本にいたときのようにじろじろ見られることもなく、居心地がよかった。世界中から才能あるエンターテイナーが集まる町でもある。当時23歳の武内は、2〜3年ここで鍛えて日本に帰り、日本で勝負しようと考え、ビザを取って再び渡米した。

最初の1年ほどは英語学校に通い、その後3年間は演劇学校で学んだ。結果的に7年ほど住み、気づけば30歳になっていた。卒業後は現地のエンターテインメント企業に雇われないとビザが切れてしまう。多くの人はそのタイミングで帰国する。武内も就職先が見つからず、天才たちがひしめく中で自分のスキルはまだ素人同然だったと振り返る。相談した弁護士からは、アメリカではその見た目で役者を目指しても珍しくないが、日本に帰ればギャップでチャンスがあるのではないかと言われた。「すごく的確な助言だった」と武内は言う。ちょうど黒人の演歌歌手ジェロが話題になっていた時期で、自分も民謡を歌えば売れるかもしれないという「邪念」も抱いて帰国したという。

学ラン一人コントの沈黙と、ハーフタレントブーム

帰国後、最初は音楽で勝負しようとしたが、歌がそれほどうまくなかった。もともとお笑いも好きで、歌ネタの芸人をテレビで見ていた印象もあった。ところが事務所に入ってデビューした当初は、プライドがあって見た目にはまったく触れず、スキンヘッドに学ランで一人コントをしていた。4分間のネタで笑いはゼロ。作家からは、正直ネタが入ってこないと言われた。ニューヨークでは見た目が違うのも、どんな言語を話すのも当たり前だったので感覚が麻痺していた、日本はまだ違うのだと気づいた、と武内は語る。

デビューした2012年ごろ、ちょうどハーフタレントのブームが来た。武内は「今考えたらめちゃくちゃ幸運だった」と言う。ほかのハーフ芸人がやっていたような「ハーフあるある」をギターを弾きながら披露すると、デビュー1〜2年目でネタ番組に出られるようになった。テレビ出演が最も多かったのはデビュー1〜3年目だったという。

しかし勢いは続かなかった。関西出身でもなく、お笑いのいろはも分かっていない状態で、当時の所属事務所SMAに入った。武内によれば、当時のSMAは今ほど売れている芸人がおらず、「芸人の墓場」と呼ばれていたという。「お前にここはまだ早い」「40歳くらいで行き場をなくした芸人がたどり着く場所だ」と言われたこともある。養成所もなく独学だったのに、1年目から売れたことで、いきなり戦場のような現場に送り込まれた。武器がないまま勢いだけで乗り切ろうとしたが、甘くはなかった。

2年目ごろ、テレビにまだ出ていたときに、飲み会でザブングルの松尾から言われた言葉を今も覚えているという。芸人のチャンスは1キャリアに1回来ればいい方で、「お前のチャンスは2年前だった」。当時は浮かれていたので意味が分からなかったが、3年目ごろから仕事が減り、アルバイト中心の生活になった。緩やかな下降線をたどる中で、松尾の言葉は的確だったと感じたという。

コロナ禍で決めた父探し

その後、武内はSMAからサンミュージックに移籍し、数年所属した。そこへコロナ禍が来た。もともと少なかった仕事がさらに減り、ライブもイベントもできず、人に会うことさえ制限された。39歳だった武内は、事務所にいても意味がないと考え、独立してYouTubeも始めた。

時間だけはたっぷりあった。そのとき、2歳のとき以来父に会っていないことにふと思い至った。今思えば「虫の知らせ」のようだったと武内は言う。このタイミングで行かないとだめかもしれないと感じ、父を探すと決めた。

手がかりは、約40年前に撮った数枚の写真と父の名前だけだった。父のことを知る唯一の存在だった母は、2019年ごろから認知症が始まり、今は名古屋の介護施設に入所している。父の昔のことはもう思い出せない。ただ母は症状が出る前、父はカメルーンに帰っても仕事がないから戻っていない、いるならイタリアで、おそらく結婚しているだろう、と話していた。日本にいる段階で、昔の父を知る人とメールで連絡が取れ、父はおそらく今もミラノにいると教えてもらった。ただ、その人も父の連絡先は知らず、ネットで調べても父らしき人物は見つからなかった。

ミラノの9日間

武内はとにかくミラノへ行った。「今思えばめちゃくちゃバカですよね」と本人は言う。3〜4日目までは父の顔写真を見せて「この人を知りませんか」と尋ねる地道な方法を続けたが、効果はなかった。5日目ごろ、SNSにイタリア語、日本語、英語で事情を書き、「このままではピザとパスタの食レポをして帰国することになりそう」と情報提供を呼びかけた。すると大きな反響があり、行くべき場所の助言が届いた。

移民の多いミラノには、カメルーン人が集まるバーがあると知った。見ず知らずの怪しい日本人のために、アフリカ出身の人がわざわざそのバーまで連れて行ってくれた。店には入れ替わり立ち替わり20人ほどが集まり、そのうち60代くらいの男性が写真を見て、「これはジェームスだ。1か月ほど前にあそこの路上で見た。昔から知っている」と言った。そのときは挨拶しただけで連絡先は交換しなかったが、「お前が日本に帰るまでに絶対見つけ出す、ノープロブレムだ」と請け合ってくれた。その2日後、父のメールアドレスが手に入った。

恐る恐る考え抜いてメールを送ると、父から返信が来て、会うことになった。ミラノ到着から9日目、武内は父と再会した。物心ついてからほぼ初めて父を前にして、武内は「赤ちゃんレベルの大号泣」をしたという。聞き手が、会いたい気持ちを抑えつけていたのではと尋ねると、武内は「やっぱりそうなのかもしれない」と答えた。日本では息子が父に愛情を表現することはあまりないが、一度でいいからこの目で父の姿を見たかったという。

父はイタリアで結婚しており、武内には腹違いのきょうだいが2人いた。帰国後、母の施設で父と写った写真やビデオメッセージを見せると、母は一瞬分かったのか「良かったね」と言った。すぐに忘れてしまうのだが、と武内は付け加えた。

父の死と、カメルーンの祖母との対面

父と再会したのは2021年5月だった。その後のある年の7月、父のイタリア人の妻から連絡が来た。父が危篤で、病院で昏睡状態にある、可能なら今すぐイタリアに来てほしいという内容だった。父は数週間後、病気で亡くなった。

完成した映画を父は見られなかったが、試作版は送ることができた。父は「言葉が出ないくらい感動した」と伝えてくれたという。父は長くカメルーンの家族と連絡を絶っていたが、亡くなった後にカメルーンの家族から父の妻へ連絡が来て、葬儀も営まれた。父の母、つまり武内の祖母は90歳で存命だった。「最後の願いとして孫の顔を見たい」という祖母の希望を受けて、武内は2024年、腹違いの弟、妹とともにカメルーンを訪れ、祖母と初めて対面した。祖母はその1年後に亡くなった。武内は、半年遅ければ会えなかったかもしれないと話す。

武内はこの経緯を本にまとめ、最近出版した。親子や家族の問題に取り組む団体から講演の依頼も受けている。そうした場で話を聞くと、親に会えない人や子どもに会えない人がたくさんいることを知り、「ミラクルみたいな話だね」と言われるという。お笑いは今後も続けたいが、40歳を過ぎてこうした出来事が自分に起きたので、何らかの表現活動を通じて伝えていきたいと武内は語った。

日本のコントと漫才を英語で――「OWARAI」

現在、武内は日本のお笑いを世界に届けるプロジェクト「OWARAI」に関わっている。武内によれば、これまで海外で通用する日本のお笑いは、裸芸のようなノンバーバルなものしかないと思われてきた。このプロジェクトでは、日本の伝統的なコントや漫才をすべて英語にし、日本の芸人が英語で演じる。それで笑いが取れるかを試しているという。

取り組みは1年以上前に始まり、今年3月にはアメリカのシカゴで公演を行った。武内はそこでプロモーションなど裏方を手伝った。そして今月、浅草の東洋館で10日間にわたり「OWARAI浅草」という公演のMCを務めた。完全にインバウンド向けの公演だったが、かなり受けたという。今後は常設公演のようにして、日本のアニメや侍のように、お笑いを世界に届けたいと話す。ネタは、日本人と海外の人が共有する常識をすり合わせながら調整する。たとえば「合コン」は通じないので、英語に合わせてアレンジするという。

武内にとって、このプロジェクトは「やっと英語を使えるチャンスが巡ってきた」場でもある。コロナ禍以降は、映画作りや生活のための仕事でお笑いから離れていた。それでも、人を笑わせることはほかに代えがたいものだとあらためて感じたという。半年ほど前からは、日本だけでなく世界の人を笑わせたいと、英語でのスタンダップコメディも始めた。次の目標は、スタンダップコメディでのワールドツアーだという。

日本の芸能界にいたころを振り返り、武内は「負け惜しみじゃないけれど」と前置きして、そこは自分のポテンシャルを100%発揮できる場ではないと感じていたと語る。それでも売れたくて続けていた。今は個人事務所になり、嫌な仕事は受けなくていい。「本当に伸び伸びやっている」と話して、インタビューを締めくくった。