愛知県で唯一の黒人ハーフの少年だった芸人・ぶらっくさむらいが語る、父探しの旅と「OWARAI」への挑戦
街録ch〜あなたの人生、教えて下さい〜ぶらっくさむらいこと武内剛(本名・武内剛)は、カメルーン人の父と日本人の母のもとに生まれ、名古屋で育った。現在45歳。かつては「ハーフ芸人」としてテレビのネタ番組に出演し、その後、2歳のとき以来会っていなかった父をイタリアで探す映画を作った。現在は事務所を離れ、英語でのスタンダップコメディに挑戦している。街録chのインタビューで武内は、肌の色のせいで居場所を見つけられなかった少年時代から、父との再会と別れ、日本のお笑いを英語で世界に届ける計画までを語った。
「竹内剛」という名前と、17歳で初めて話した黒人
武内が父に会ったのは、2歳のときの1週間だけだという。本人は何も覚えておらず、「僕の世界線に親父はもう存在しない状態だった」と振り返る。本名は武内剛。「マイケルとかジェームスとかボビーとかが真ん中に入っていたら、まだ逃げ場があった」と武内は笑う。日本人らしい名前なのに自分だけ肌が黒い。そのずれを意識したところから、もやもやが始まったという。
武内によれば、当時は冗談抜きで、自分が愛知県で唯一の黒人ハーフの少年だったと思うという。生まれて初めて黒人と実際に話したのは17歳のころだ。先輩に連れられて行った名古屋市内のヒップホップのクラブで、おそらくアフリカ系のオーナーと「ワッサップ、ブラザー」といったやり取りをしたのが最初だった。この話をアメリカの黒人に伝えると、「マジか、信じられない」と驚かれるそうだ。
シングルマザーとして証券会社で働いた母
高校までは母と2人で暮らした。0歳から保育園に通い、母は事務の仕事などで生計を立てていた。武内が小学校に上がる前ごろ、母は当時「四大証券」の一つと言われた大手証券会社に就職した。母は高卒で、本人は「運が良かった」と話していたという。株の営業を担当し、名古屋の支社で女性の中ではトップクラスの成績を上げた。そのため武内は、シングルマザーの家庭でも貧しい思いをした記憶はなく、「めっちゃ恵まれていた」と語る。男社会だった当時の職場で、母は「男に負けるか」という勝ち気さで成り上がったという。
母方の祖父は武内が生まれる前に亡くなっており、祖母も武内が1歳になる直前に他界した。母は身内をほとんど頼れないまま、一人で子育てをするしかなかった。武内は今になって、その大変さを実感していると話す。
旅好きの母と、ペルージャで出会った父
両親の出会いについて、武内は「これまた複雑」と前置きして語った。現在81歳の母は20代のころ、つまり1970年代に、女性一人でヨーロッパを13か国ほど旅した。そのときイタリアの国と文化に魅了され、その後数年はイタリアと日本を行き来しながら暮らしていたという。
父は21歳のとき、祖国カメルーンから夢を求めてイタリアに渡り、まず学生として過ごしていた。2人はペルージャの大学のイタリア語クラスで出会った。当時、母は32歳、父は23歳だった。母はそれまで男性と交際した経験がなく、父にすっかり惚れ込んで自分からアプローチしたという。母は日本での仕事とイタリア行きを続けながら3年ほど交際し、「この人との子どもが欲しい」と望んで、35歳のときに日本で武内を出産した。入籍はしていない。
武内によれば、父は当時学生で、アフリカ出身の黒人がイタリアで就ける仕事はほとんどなかった。差別も今より露骨だったと武内は推測する。父は経済的に子どもを育てられないと母に伝えたが、母は「自分一人でも絶対に育てる」と言って出産を選んだ。武内は母からそう聞かされてきた。父探しの映画を作り、いろいろな人の声を聞いた今、今よりはるかに偏見が強かった時代に外国人との子どもを産むと決めた母の覚悟を、あらためてすごいと感じているという。
小学校入学翌日の「来た、逃げろ」
武内の地元は名古屋市中村区だ。本人によれば、1980年代の地元は校内暴力が問題になるほど荒れていた。母は、地元の小中学校に入れたら「100%いじめられるか、不良になる」と心配した。そこで住所をこっそり借り、名古屋中心部の小学校に通わせた。武内は小学1年から、30分ほどかけて学区外の学校に通った。今思い返すと、その学校の子どもは半分以上が学区外から来ていて、医者の家の子もいれば、自分のような「わけあり」の子もいたという。
それでも、肌の色を理由にした扱いがなかったわけではない。武内がはっきり覚えているのは、入学式の翌日ごろの出来事だ。友達が一人もいなかった武内は、校庭で遊んでいた5〜6人の輪に「混ぜて」と近づいた。すると子どもたちは一斉に武内を見て、「わ、来た、逃げろ」と走り去った。そのとき初めて自分が人と違うことを強く意識し、寂しくなったという。
保育園のころは0歳から一緒に育っていたので、周りの子は「色の黒い子」くらいに受け止めていて、「外人」という認識はなかったと武内は見ている。父に会いたい気持ちも、子どものころはあまりなかった。母から愛情をたっぷり注がれて育ったので、父がいないことを疑問に思わず、「こういう家族もあるんだろう」と思っていたという。
アフリカを避けた思春期
中学生のころには、自分だけ肌の色が違うことへの意識が強くなった。当時の日本のメディアでは、アフリカといえば槍を持って動物を追いかけるイメージで、アフリカ出身のタレントも「おバカキャラ」として扱われていた。そのため武内は、アフリカや黒人という話題に触れないようにし、半ばタブー視していたという。1980〜90年代にはハーフの子が珍しく、周りは真っ先に「お父さんとお母さんはどうやって知り合ったの」と聞いてくる。しかし父のいない武内には、その質問が嫌だった。
小学校では明るく、みんなを笑わせるのが好きな子だった。ところが中学年ごろから、いじめとまではいかない「いじり」が増えた。電車や道で、唯一の黒人の少年は子どもたちの格好の注目の的になり、「俺の居場所はこの社会にないのか」ともやもやし始めたという。
運動は苦手で、音楽や漫画、テレビが好きな文化系だった。見た目から運動ができると思われるのは「ハーフあるある」だと武内は言う。『スラムダンク』が人気だった中学1年の4月、バスケ部に入ったが、ボールにも触らせてもらえない補欠だった。他の生徒から「すごい補欠がいるぞ」という視線を感じ、そのプレッシャーに耐えられず5月には退部し、美術部に移った。荒れた時期もあったが、喧嘩はめっぽう弱く、本気の喧嘩になると「大したことない」とすぐにばれたという。
パンク、グラフィティ、そして停学
進んだのは本人いわく「超底辺高校」で、パンクやハードコアのバンドに打ち込んだ。のちにラップも始めるが、その前にグラフィティにのめり込む。ラップを教えてくれた3人ほどの先輩も、全員が名古屋でグラフィティをしていた。社会に反抗したい気持ちとぴったり合ったという。中学時代に母とイタリアへ行った際、落書きだらけの地下鉄が走るのを見て、トレビの泉より感動し、「日本に帰ったら俺もやりたい」と思った。中学のころから一人で描き始め、警察にも2回捕まった。これについては「今は反省している」と語っている。
学校生活では、小学生のころの記憶として、エイズが話題になり始めた1989〜90年ごろ、「エイズはお前が持ってきた」と言われたことを挙げた。腕力で黙らせると、それ以降は言われなくなったという。中学3年のときには、ノリで消火器を窓から投げて停学になった。本来は退学になるところだったが、三者面談で母が泣いて頼み、担任ももらい泣きした。担任は「俺が絶対に卒業させる」と学年主任に掛け合い、なんとか卒業させてくれたという。母は塾や通信教育、家庭教師でちゃんと育てようとしていたが、この一件以降は「高校さえ出てくれればいい」と諦めていたと武内は話す。
当時は精神的にもかなり参っていて、周りの声がすべて自分の悪口に聞こえるほどだった。それでも友達にはそういう姿をほとんど見せなかった。今になって当時の話をすると、友人たちからは「悩んでいるようには全然見えなかった」と言われるという。暗く振る舞うとネガティブな方へ飲み込まれて抜け出せなくなるので、もともと好きな明るさや笑いの側にいようとしていた、と武内は説明する。
「外国人は受け入れ禁止」と言われた現場
高校卒業後は、日本の社会に希望を持てず、就職も進学もしないままフリーターになった。それでも「何者かになりたい」という野心は強くあったという。
職を転々とする中で、忘れられない出来事がある。建築現場で働いていたとき、親方に呼ばれ、来週から別の現場に行ってくれと言われた。理由は、その現場では保険の関係で外国人の受け入れが禁止になったからだという。武内は「僕は外国人じゃなくて武内剛で、パスポートもめちゃめちゃ日本のパスポートです」と訴えたが、親方は元請けには逆らえないと謝った。そのうえで「ハンディキャップがあるなら人一倍頑張って見返してやれ」と励ましてきた。武内は「俺のこの見た目はハンディキャップなのか」と思い、親方の励まし方も少しずれていると感じたと笑って振り返る。
人と話すのが好きで接客の仕事を望んだが、19歳ごろ、「君がいるとお客さんがびっくりしちゃうから」と言われたことも大きなショックだった。武内は、店長が気にしなければ済む話だと思う一方で、日本には同調圧力が強くあり、同じような人を同じような格好で雇うことが店のブランディングだったのかもしれないとも語る。一言で「差別」と言い切るのは難しいところだという。
「日本に復讐してやる」と、母の涙
20歳ごろ、行き詰まった武内は同居していた母と激しく衝突した。「日本なんか嫌いだ、日本に復讐してやる」と暴言を吐くと、母は号泣し、「そんなに悩んでいたなんて知らなかった。全部私のせい、本当にごめん」と謝った。武内はそこでハッとした。母がいなければ自分は絶対に生きていない。このままではだめだと思い、自分を変えるためにアメリカ行きを決めたという。
アメリカを選んだのは、ラップやパンク、映画などアメリカの文化が好きだったからだ。英語を話せるようになりたかったし、映画で見るような、明るく開放的で他人に干渉しない世界を見てみたかった。「世界は日本だけじゃない」と考え、まずはお金を貯めて3か月間、バックパックでアメリカを旅した。
ニューオーリンズの衝撃と、ニューヨークという居場所
旅の始まりは南部のニューオーリンズだった。武内によれば、アメリカ音楽発祥の地と言われ、住民の9割以上がアフリカ系アメリカ人の町だという。出発前に英会話学校のNOVAに3か月通っていたが、訛りが強く、現地の英語は「1ミリもわからない」ほどだった。スマホもない時代で、途方に暮れ、危ない目に遭いそうにもなりながら、逃げるように北へ向かった。シカゴを経てニューヨークに着き、そこに住んでいた日本人の先輩の家に転がり込んだ。
ニューヨークで武内は「ここが俺のオアシスだ」と興奮したという。移民の多いアメリカの中でも特に移民の町で、さまざまな人種、宗教、肌の色の人が入り混じっている。日本にいたときのようにじろじろ見られることもなく、居心地がよかった。世界中から才能あるエンターテイナーが集まる町でもある。当時23歳の武内は、2〜3年ここで鍛えて日本に帰り、日本で勝負しようと考え、ビザを取って再び渡米した。
最初の1年ほどは英語学校に通い、その後3年間は演劇学校で学んだ。結果的に7年ほど住み、気づけば30歳になっていた。卒業後は現地のエンターテインメント企業に雇われないとビザが切れてしまう。多くの人はそのタイミングで帰国する。武内も就職先が見つからず、天才たちがひしめく中で自分のスキルはまだ素人同然だったと振り返る。相談した弁護士からは、アメリカではその見た目で役者を目指しても珍しくないが、日本に帰ればギャップでチャンスがあるのではないかと言われた。「すごく的確な助言だった」と武内は言う。ちょうど黒人の演歌歌手ジェロが話題になっていた時期で、自分も民謡を歌えば売れるかもしれないという「邪念」も抱いて帰国したという。
学ラン一人コントの沈黙と、ハーフタレントブーム
帰国後、最初は音楽で勝負しようとしたが、歌がそれほどうまくなかった。もともとお笑いも好きで、歌ネタの芸人をテレビで見ていた印象もあった。ところが事務所に入ってデビューした当初は、プライドがあって見た目にはまったく触れず、スキンヘッドに学ランで一人コントをしていた。4分間のネタで笑いはゼロ。作家からは、正直ネタが入ってこないと言われた。ニューヨークでは見た目が違うのも、どんな言語を話すのも当たり前だったので感覚が麻痺していた、日本はまだ違うのだと気づいた、と武内は語る。
デビューした2012年ごろ、ちょうどハーフタレントのブームが来た。武内は「今考えたらめちゃくちゃ幸運だった」と言う。ほかのハーフ芸人がやっていたような「ハーフあるある」をギターを弾きながら披露すると、デビュー1〜2年目でネタ番組に出られるようになった。テレビ出演が最も多かったのはデビュー1〜3年目だったという。
しかし勢いは続かなかった。関西出身でもなく、お笑いのいろはも分かっていない状態で、当時の所属事務所SMAに入った。武内によれば、当時のSMAは今ほど売れている芸人がおらず、「芸人の墓場」と呼ばれていたという。「お前にここはまだ早い」「40歳くらいで行き場をなくした芸人がたどり着く場所だ」と言われたこともある。養成所もなく独学だったのに、1年目から売れたことで、いきなり戦場のような現場に送り込まれた。武器がないまま勢いだけで乗り切ろうとしたが、甘くはなかった。
2年目ごろ、テレビにまだ出ていたときに、飲み会でザブングルの松尾から言われた言葉を今も覚えているという。芸人のチャンスは1キャリアに1回来ればいい方で、「お前のチャンスは2年前だった」。当時は浮かれていたので意味が分からなかったが、3年目ごろから仕事が減り、アルバイト中心の生活になった。緩やかな下降線をたどる中で、松尾の言葉は的確だったと感じたという。
コロナ禍で決めた父探し
その後、武内はSMAからサンミュージックに移籍し、数年所属した。そこへコロナ禍が来た。もともと少なかった仕事がさらに減り、ライブもイベントもできず、人に会うことさえ制限された。39歳だった武内は、事務所にいても意味がないと考え、独立してYouTubeも始めた。
時間だけはたっぷりあった。そのとき、2歳のとき以来父に会っていないことにふと思い至った。今思えば「虫の知らせ」のようだったと武内は言う。このタイミングで行かないとだめかもしれないと感じ、父を探すと決めた。
手がかりは、約40年前に撮った数枚の写真と父の名前だけだった。父のことを知る唯一の存在だった母は、2019年ごろから認知症が始まり、今は名古屋の介護施設に入所している。父の昔のことはもう思い出せない。ただ母は症状が出る前、父はカメルーンに帰っても仕事がないから戻っていない、いるならイタリアで、おそらく結婚しているだろう、と話していた。日本にいる段階で、昔の父を知る人とメールで連絡が取れ、父はおそらく今もミラノにいると教えてもらった。ただ、その人も父の連絡先は知らず、ネットで調べても父らしき人物は見つからなかった。
ミラノの9日間
武内はとにかくミラノへ行った。「今思えばめちゃくちゃバカですよね」と本人は言う。3〜4日目までは父の顔写真を見せて「この人を知りませんか」と尋ねる地道な方法を続けたが、効果はなかった。5日目ごろ、SNSにイタリア語、日本語、英語で事情を書き、「このままではピザとパスタの食レポをして帰国することになりそう」と情報提供を呼びかけた。すると大きな反響があり、行くべき場所の助言が届いた。
移民の多いミラノには、カメルーン人が集まるバーがあると知った。見ず知らずの怪しい日本人のために、アフリカ出身の人がわざわざそのバーまで連れて行ってくれた。店には入れ替わり立ち替わり20人ほどが集まり、そのうち60代くらいの男性が写真を見て、「これはジェームスだ。1か月ほど前にあそこの路上で見た。昔から知っている」と言った。そのときは挨拶しただけで連絡先は交換しなかったが、「お前が日本に帰るまでに絶対見つけ出す、ノープロブレムだ」と請け合ってくれた。その2日後、父のメールアドレスが手に入った。
恐る恐る考え抜いてメールを送ると、父から返信が来て、会うことになった。ミラノ到着から9日目、武内は父と再会した。物心ついてからほぼ初めて父を前にして、武内は「赤ちゃんレベルの大号泣」をしたという。聞き手が、会いたい気持ちを抑えつけていたのではと尋ねると、武内は「やっぱりそうなのかもしれない」と答えた。日本では息子が父に愛情を表現することはあまりないが、一度でいいからこの目で父の姿を見たかったという。
父はイタリアで結婚しており、武内には腹違いのきょうだいが2人いた。帰国後、母の施設で父と写った写真やビデオメッセージを見せると、母は一瞬分かったのか「良かったね」と言った。すぐに忘れてしまうのだが、と武内は付け加えた。
父の死と、カメルーンの祖母との対面
父と再会したのは2021年5月だった。その後のある年の7月、父のイタリア人の妻から連絡が来た。父が危篤で、病院で昏睡状態にある、可能なら今すぐイタリアに来てほしいという内容だった。父は数週間後、病気で亡くなった。
完成した映画を父は見られなかったが、試作版は送ることができた。父は「言葉が出ないくらい感動した」と伝えてくれたという。父は長くカメルーンの家族と連絡を絶っていたが、亡くなった後にカメルーンの家族から父の妻へ連絡が来て、葬儀も営まれた。父の母、つまり武内の祖母は90歳で存命だった。「最後の願いとして孫の顔を見たい」という祖母の希望を受けて、武内は2024年、腹違いの弟、妹とともにカメルーンを訪れ、祖母と初めて対面した。祖母はその1年後に亡くなった。武内は、半年遅ければ会えなかったかもしれないと話す。
武内はこの経緯を本にまとめ、最近出版した。親子や家族の問題に取り組む団体から講演の依頼も受けている。そうした場で話を聞くと、親に会えない人や子どもに会えない人がたくさんいることを知り、「ミラクルみたいな話だね」と言われるという。お笑いは今後も続けたいが、40歳を過ぎてこうした出来事が自分に起きたので、何らかの表現活動を通じて伝えていきたいと武内は語った。
日本のコントと漫才を英語で――「OWARAI」
現在、武内は日本のお笑いを世界に届けるプロジェクト「OWARAI」に関わっている。武内によれば、これまで海外で通用する日本のお笑いは、裸芸のようなノンバーバルなものしかないと思われてきた。このプロジェクトでは、日本の伝統的なコントや漫才をすべて英語にし、日本の芸人が英語で演じる。それで笑いが取れるかを試しているという。
取り組みは1年以上前に始まり、今年3月にはアメリカのシカゴで公演を行った。武内はそこでプロモーションなど裏方を手伝った。そして今月、浅草の東洋館で10日間にわたり「OWARAI浅草」という公演のMCを務めた。完全にインバウンド向けの公演だったが、かなり受けたという。今後は常設公演のようにして、日本のアニメや侍のように、お笑いを世界に届けたいと話す。ネタは、日本人と海外の人が共有する常識をすり合わせながら調整する。たとえば「合コン」は通じないので、英語に合わせてアレンジするという。
武内にとって、このプロジェクトは「やっと英語を使えるチャンスが巡ってきた」場でもある。コロナ禍以降は、映画作りや生活のための仕事でお笑いから離れていた。それでも、人を笑わせることはほかに代えがたいものだとあらためて感じたという。半年ほど前からは、日本だけでなく世界の人を笑わせたいと、英語でのスタンダップコメディも始めた。次の目標は、スタンダップコメディでのワールドツアーだという。
日本の芸能界にいたころを振り返り、武内は「負け惜しみじゃないけれど」と前置きして、そこは自分のポテンシャルを100%発揮できる場ではないと感じていたと語る。それでも売れたくて続けていた。今は個人事務所になり、嫌な仕事は受けなくていい。「本当に伸び伸びやっている」と話して、インタビューを締めくくった。
あ、武内さん、よろしくお願いします。ありがとうございます。じゃ、ちょっと歩きながらいいですか?ありがとうございます。お時間使っていただいて。
いえいえ、こちらこそありがとうございます。
武内さんは、カメルーン人のお父さんと日本人のお母さんの、ミックス、今どきの言い方だと。
そうですね。もうハーフ、ハーフ芸人って言ってやってましたね。
今はもう芸人じゃないんですか?
いや、今も芸人をやってるんですけど、事務所は辞めて、今は英語でスタンダップコメディにチャレンジ中っていう感じでね。
あ、そうなんですか。
横浜で女性が笑顔になるための安全安心な医療を提供し続ける朝夫人家朝安さんの提供でお送りします。
お父さんに会ったことなくて、会いに行くって映画作ってたんですよね。
そうなんですよ。最近はね、リバイバル上映を地元の名古屋でやっていただきました。
会ったことなかったんですね、お父さんにね。ほとんど。
いや、実際は2歳の時に1回会ったことがあるんですけど、1週間だけ。でも2歳なんで、何も覚えてないっていうか。なので僕の世界線に親父はもう存在しない状態でしたね。
で、言うと、だからもう、なんていうか、名前も本名、武内剛って言うんですよ。マイケルとかジェームスとかボビーとかが真ん中に入ってたら、まだちょっと逃げ場あったんですけど、武内剛で、あれ、俺だけ色黒くね?みたいな感じで。その辺りからちょっとモヤモヤが始まるというか。
ちょっと大体、今に至るまでを質問しながら聞いてこうっていう感じなんですけど、え、40…
今45なんですよ。
45歳。愛知県名古屋市出身で。45年前、その名古屋で黒人の方とのハーフって、だいぶ目立ってたんじゃないですか?
あ、そうですね。マジで冗談抜きで、当時僕が多分愛知県で唯一の黒人の少年だったと思うんすよ。黒人ハーフの。
いないですもんね、確かに。見たことなかったですね。
で、僕、生まれて初めて黒人の人と実際に生で喋ったのが17歳ぐらいの時に、先輩に連れられてヒップホップのクラブに行ったんですよ。名古屋市内の。その時に初めて、多分アフリカ系の人だったと思うんですけど、ヒップホップのクラブのオーナーをやってて。そこで初めて「ワッサップ、ヘイブラザー」みたいな交流をしたのが初めて。これをアメリカの黒人の人とかに言うと、「お前マジか、アンビリーバブルだ」みたいな、びっくりされますね。
2歳の時に1週間会っただけで、あとはずっとお母さんと2人暮らしなんですか?
そうでしたね。高校までは母親と2人暮らしでしたね。母子家庭で。
保育園、幼稚園は?
保育園行ってましたね。もう0歳から。
あ、0歳から。そっか、シングルマザーだっけ。
シングルマザーで。
お母さん何の仕事して育ててくれてたんですか?
事務の仕事かなんかをやってたと思うんですけど、僕が小学校に上がる前ぐらいから、証券会社、当時日本の4大証券会社の1つと言われてた大きな証券会社に就職することができて。
おお。お母さん結構エリートなんですかね?
いや、全然エリートじゃなくて高卒なんですけど、運が良かったって言ってました。
あ、そうなんですか。
で、そこで営業をやってて、株の営業なんで、もう本当ギャンブルの世界なんですけど。それで割と、女性の中ではちょっとトップセールスマンぐらいの成績を名古屋の支社で叩き出したので、僕はシングルマザーなんだけど、自分が貧しい思いをしたとかはないんですよ。めっちゃ恵まれてましたね。
お母さん、めっちゃ仕事できる女性だったんだ。
結構負けん気が強くて。当時まだかなり男社会だったと思うんですけど、そのサラリーマンの世界も。でも、絶対私は男に負けるかみたいな感じで、成り上がりましたね。
周りの人と自分は違うなって、いつぐらいから思ってるか。
それがですね、保育園の時は0歳からみんなずっと育ってるんで。周りの子はいわゆる両親が日本人の子供ばっかりなんだけど、みんな何となく、君は色が黒い子なんだなみたいな。でも外人とか、そういう認識ってないと思うんですよ。
で、僕、地元は名古屋の中村区っていうとこなんですけど、僕が生まれ育った80年代ぐらいは結構荒れてて、地元が。めちゃめちゃ校内暴力とかが問題になってて、先生を殴ったとか。で、母親が、僕をここの地元の小中学校に入れたら100%いじめられるか、不良になっちゃうとすごい心配して。今はもう多分厳しいから絶対できないんですけど、越境入学、名古屋の中心部の方にある小学校に、住所をこっそり借りて通わせたんですよ。僕、小学校1年から地元から30分ぐらいかけて離れた小学校に行ってたんですね。
それって、いろんなジャンルの人の子供たちがいるって感じなんですか?
そうですね。今思い返せば、そこの小学校、中学校に通ってた子供たちは半分以上越境入学でしたね。家が医者の息子とか、あとはちょっと訳ありの僕みたいな子とかも来てた気がしますね。学区外から。
じゃあ肌の色が違うからって、別にいじめられることとかはそんななく?
いや、これがですね、なくってこともないんですよ、やっぱり。子供は結構残酷だもんで。だから小学校1年生の時に、いきなり自分が全く知らない土地の小学校に行かされて。めっちゃはっきり覚えてんのが、4月、入学式の次の日ぐらいに、多分そこの学区の子供たちだと思うんですけど、5、6人ぐらいで校庭で遊んでたんですよ。僕もそこに混ぜて欲しいなと思って、友達1人もいなかったんで。で、「僕も混ぜて」みたいなこと言って寄ってったら、その子たちが一斉に僕を見て「わ、来た、逃げろ」みたいな感じで逃げ出してったんですよ。その時に、あ、やっぱ俺ってちょっと人と違うんだっていうのをめっちゃ意識して、ちょっと寂しくなった瞬間すね。
触れ合ったことないし、その黒人のお父さんに会いたいみたいな気持ちはなかったんですか?子供の頃とかでは。
あんまりなかったですね。
なんでなかったんですか?
あんまりまだ自我が芽生えてないというか、母親から結構愛情をたっぷり注がれて育てられたんで、あんまり父親がいないことを疑問視しなかったというか。こういう家族もあるんだろうなみたいな。で、ちょっと年齢が上がって中学校ぐらいになると、やっぱ人と違うとか、自分だけ色が黒いとか。あと、アフリカのイメージが当時の日本にあんまりなかったというか、メディアとかでは槍持って動物を追いかけてるみたいなイメージとか、それこそボビーさんがおバカキャラみたいな扱いをされてたんで。あんまりそこに触れないようにしましたね、アフリカとか。黒人とかいうのも嫌でしたね。ちょっとタブー視してたというか。
今だったらハーフの人とか外国人とか珍しくも何ともないですけど、やっぱ80年代、90年代は珍しかったんで、みんな興味本位で開口一番に聞いてくるじゃないですか。
そう、そう。「え、お父さんとお母さんどうやって知り合ったの」とか。でもこちとら親父いないんで。それが結構嫌でしたね。
お父さんとお母さんって、どこで出会ってるんですか?それ。
それがですね、これまたちょっと複雑なんですけど、僕の母親、81歳なんですけど、20代の時がもう超ぶっ飛んでて。母親が20代の時だから1970年代に、女性1人でヨーロッパを13カ国ぐらい旅をしたんですよ。で、イタリアに行った時に、イタリアという国とか文化に魅了されて、その後イタリアと日本を行ったり来たりしながら数年生活してたんですけど、そこで1977年かな、出会ったんです。
お父さんは何してる人?
母と同じくというか、21歳の時に祖国カメルーンからイタリアに、上京じゃないですけど、夢を求めてすごい期待をして行くわけですよ。
出稼ぎに行ってたみたいな?
いや、出稼ぎっていうか、最初は学生をやってたみたいなんですけど。カメルーンってすごい、いわゆる発展途上国みたいな感じなんで。
あ、じゃあ当時、お父さんは仕事?学生?
当時は学生だったんですよ。母親も行ったり来たりしてたんだけど、親父と会ったのがペルージャっていう町の大学の、イタリア語クラスみたいな。2人は学生で出会いましたね。母親が当時32歳で、親父が23歳だったらしいんですけど、当時女性が子供を産むことができるのが35歳ぐらいがギリギリマックスみたいな。で、母親、ぶっちゃけそれまで男性とお付き合いしたことなかったんですよ。
あ、そうなんだ。へえ。
で、もうこの人はやばいというぐらい惚れ込んじゃったんですよ、僕の父親に。で、母親の方からアプローチして付き合ったんですけど、しばらく母は日本に帰って仕事をして、またイタリアに行ったりとか、3年ぐらいお付き合いする中で、母親がこの人と子供が欲しいっていうことで、母が35歳の時に僕を日本で出産しました。
はあ。それはじゃあ籍を入れないで出産したってことなんですか。
そうなんですよ。今回その親父探しの映画作ったりして、いろんな人の声を聞いて、当時の母親の覚悟というか決断がすごいなと思いまして。今よりも多分めちゃめちゃ偏見とかあったでしょうし、外国人の子供を身ごもって出産するっていうことに対して。
で、お父さんはやっぱ若いし、ちょっとまだ結婚早いなみたいな感じだったんですか?
そうですね。父親は当時学生で、しかもアフリカ人の黒人の人なんて、イタリアで仕事マジでないんですよ。今よりも多分差別とかも露骨だったと思いますし。本当に金もなくて、「私はもう子供育てられない、今の経済状況では」みたいな感じで、母親に念押しをしたらしいんですけども、母親がそれでも自分1人でも絶対育てるからって、母親の方からの願いで僕を産んだっていうのを、常々言ってましたね、母親は。
お母さん方のおじいさん、おばあさんとかとはどんな関係なんですか?
僕のおじいちゃんは僕が生まれる多分23年前に亡くなってて、僕のおばあちゃん、母のお母さんも、僕が1歳になる直前で他界しちゃったんですよ。なので母親は身内にもあんまり頼れないまま、僕をシングルマザーで育てるしかなかったっていう。
そっか。それ大変ですね。
そうすね。今考えるとマジで大変だったと思います。
武内さんは学校でどんなキャラなんですか?
昔はめちゃめちゃ明るくて、本当にみんなを笑わせたり楽しませたりするのがすごい好きでしたね。
おお。人気者みたいな。
でもやっぱ小学校中学年ぐらいから、いじめまで行かないにしろ、いじりとか。電車とか乗ってても、道歩いてても唯一の黒人の少年がいるんで、めっちゃ面白がるわけですよ、子供たちは。「なんだあれ」みたいな。そこら辺から、なんなんだ俺、俺の居場所はこの社会にないのかみたいな。結構モヤモヤし始めたんすよね。
なるほどな。
そのモヤモヤ、何で発散してるんですか?それは。
いや、それが結構エンタメ。やっぱ音楽とか漫画とか、あと当時テレビとか。めちゃくちゃ文化系で、球技はめちゃくちゃ苦手なんですよ。
この見た目でって言うとあれですけど、体育とかで戦力になりそうって思われそうですもんね。
そうですね。それも本当にハーフあるあるで、やっぱバスケ部。僕、球技が苦手で。当時スラムダンクがすごい人気だったんで、中学校の時は1回バスケ部に入ってみたんすよ。中1の4月ですね。で、まずボールすら触らせてもらえないんで、補欠要員になるわけですよ。2年生3年生の世話というか。でも他の生徒とか「すげえ補欠いるぞ」みたいな感じの視線を感じて、そのプレッシャーに耐えかねて5月で辞めましたね、バスケ部。で、美術部に入りましたね。そっから180°方向転換で。
荒れるとかではないんですか?
いや、これがですね、ちょっと荒れちゃった時期もあるんですよ。でも僕めちゃめちゃ喧嘩弱いんで、本当にガチの戦闘になったら一瞬でバレるんで。こいつ大したことねえなっていう。
高校も行きますか?
高校も行きました。もう超底辺高校に行きましたね。
その頃ぐらい、何になろうかなと思ってました?
いや、高校の時は音楽にどっぷりはまってましたね。バンドとかもやってましたね。
どういう系のバンドに憧れてた?
パンクバンドですね。パンクとかハードコアとか。
それ高校卒業までやるんですか?
高校2年生ぐらいまではやってたんですけど、ラップも後ほどちょっとするんですけど、僕グラフィティにめちゃくちゃはまっちゃって。落書きなんですけどね、要は。僕にラップを教えてくれた先輩たちも3人ぐらい、全員グラフィティを名古屋でやってて。当時社会に反抗したいっていうのがすごいあったんで。で、僕中学校の時にもイタリアに1回行ってるんですけど、母親と。イタリアもすごい落書きだらけなんですよ。グラフィティだらけで、地下鉄とか落書きまみれの電車がバーって走ってるのを見て、トレビの泉より感動しちゃって。あ、これ日本帰って俺やりてえと思って。中学校ぐらいから1人で落書きしてたんですけど、これは本当に2回ぐらい警察にも捕まってるんで、今は反省してるんですけど、高校ぐらいの時までめちゃめちゃやってましたね。
はあ。高校卒業してどうするんですか?
当時やっぱり本当に自暴自棄になっちゃって、あんまり日本の社会に希望を抱けなくなってしまって。
それ何があったんですか?
例えば小学校の時、エイズが流行り始めたんですよ。89年、90年ぐらい。で、急に「エイズはお前が持ってきた」みたいなこと言われて。それは結構ムカついたんで、ちょっと腕力でその子は黙らせたら、それ以降なくなったんですけど。で、高校卒業してもう意味ねえなと思って、就職も進学もしなかったんですよ。フリーターで卒業するんですけど。
親とかはどうして欲しかったんですか?
いや、親ももう諦めてましたね。中学校ぐらいまで結構塾とか行かせたりとか、進研ゼミをやらせたりとか、家庭教師の人を呼んだりとか、ちゃんと育てようとしたと思うんですけど、全く学校っていうものに馴染めなくなっちゃったので、勉強もしなくなっちゃって。で、高3の時に、なんかノリで消火器を窓から投げて停学になったんですよ。その時に母親と僕の担任が三者面談をして、本当は僕はもう退学になるはずだったんですけど、母親がすごい泣いて先生にお願いしてくれて、先生もそしたらもらい泣きして、「お母さん分かりました。俺がこいつを絶対卒業させるから。学年主任にも直談判しますんで」みたいな感じで言ってくれて、なんとか本当に裏技を使って卒業させてくれたというか。なので母親も、もう高校さえ出てくれればいいやっていう感じで、そっからもう諦めてましたね。
なるほど。そういう生きづらいような状況がずっと続いてるから、ずっとストレスが溜まってる状態なんですか。
そうですね。メンタル的にも結構病んでましたね、当時は。全部がネガティブで、自分のことを悪く言ってるように聞こえるみたいな感じでしたね。
友達はいるんですか、その状況って。
友達はいますけど。僕、外面いいんすよ。友達にはそういう姿ほとんど見せないんですよ。だから友達も、今おっさんになって自分の過去とかを振り返ると、「いや、全然当時そんな風に見えんかった、悩んでるように見えんかったな」みたいなことは言われますね。
そういう、無理に明るく振る舞うような癖がついてたんですかね。
あ、そうですね。
暗く振る舞ってると生きてけないなっていう感じがあったんですか?
ありましたね。あんまりネガティブな方向に行っちゃうと、そこに飲み込まれて抜け出せなくなっちゃうので。そういうのよりは、元々明るい方が好きなんで、笑いとか。
なるほど。でも、どうなんですか?就職もしなくて進学もしなくって、何するんですか?
そうですよね。でも何者かになりたいっていう野望はめっちゃあったんですよ。で、とりあえずフリーターで職を転々としながらやってたんすけど。
でもその時も、例えば建築現場の仕事で、ある日急に、僕の勤めてた建築会社の親方に呼ばれて、「ちょっと武内、話がある」と。「本当申し訳ないけど、来週からお前ここの現場には来れなくなったから、別の現場行ってくれ」みたいな。「え、なんでですか、僕結構ここの現場好きだったんですけど」とか言って。「いや、ここの現場は外国人が保険の関係で受け入れ禁止になったんだ」みたいな。「いや、僕は外国人じゃなくて、武内剛っていう、パスポートもめちゃめちゃ日本のパスポートなんですけど」とか言って。でも親方が「いや、でも武内、ごめん、俺も元請けにはノーと言えないもんだよな」みたいな。「でもな、武内、お前ハンディキャップしとったらな、人一倍頑張って見返してやれ」とか言って。親方、俺のこの見た目ハンディキャップなの、とか思って、親方の励まし方もちょっと間違ってるなと思いつつ。そんなことも結構いっぱいありましたね、やっぱり。
そうか。一生懸命頑張ってんのに現場クビになっちゃうみたいなこともあったんですけど、その。
でも僕、割とコミュニケーションが好きなんで、接客の方が好きなんすよ。でもやっぱり「接客はちょっと、君がいるとお客さんもびっくりしちゃうからな」みたいなことを言われて、それは結構ショックでしたね。やっぱ19歳ぐらいの時だと。でも日本の場合、同調圧力ってのもすごいあるなと思って。その店長も別にそんなこと気にしなきゃいいのに。でも一応店の売上とかイメージとか、同じような人を同じような格好をさせて雇ってるのが、そこのブランディングみたいなのもあったのかな。よくわかんないけど。
だからなかなか一言で言うのは難しいとこですよね。それを例えば差別だとかいうのがね。
本当に22歳ぐらいの時、もう結構行き詰まって、日本で。あ、20歳ぐらいですね。で、親とめちゃめちゃ喧嘩したんですよ。母親と一緒に住んでたんですけど。その時に「日本なんかもう嫌いだ、僕が日本に復讐してやる」みたいな暴言を吐いたら、母親が号泣しちゃいまして。「あんたがそんなに悩んでたなんて知らなかった、全部これ私のせいだから、本当にごめん」みたいな。で、そこで結構ハッとして、俺なんでこんなこと言っちゃったんだろうと。
母親がいなかったら僕も絶対生きてないんで。多分そこで、これじゃダメだと思って、やっぱ自分を変えようと思って、アメリカに行くことを決意するんですよ。アメリカの文化が本当に好きで、さっきの音楽、ラップとかパンクロックとか、あと映画とか。英語もやっぱりペラペラに喋れるようになりたいし。やっぱりアメリカの映画の中で見る、本当にみんな明るくてオープンな雰囲気で、あんまり他人に干渉しないような世界をちょっと見てみたいなと思って。この日本でこの生き苦しい状態で、絶対世界って日本だけじゃないと思って、とりあえずアメリカ行ってみようと思って、3ヶ月アメリカにまず行きました。お金を貯めて。
それ英語学校とか通うんですか?
いや、3ヶ月バックパック旅行で、全米ではないんですけど何州かをバスと電車で回りました。
へえ。
そこで色々、もう本当にカルチャーショックでしたね。第1発目の。
どういうカルチャーショックがあるんですか?
最初ニューオーリンズっていうとこから行ったんですよ。アメリカの南部の、アメリカの音楽の発祥の地と言われてるんですけど。そこって9割以上アフリカンアメリカンの黒人の人の町で、めちゃめちゃ訛りとかもきついんすよ。僕、当時まだ英語が全然喋れなくて、駅前留学NOVAって知ってます?ちゃんとNOVAに3ヶ月通って旅行したんですけど、NOVAの英語が全く通じないぐらい、何言ってるか1mmもわからないぐらいなってるんですよ。当時スマホもなかったんで、本当行き場も失って、ちょっと危ない目にも遭いそうになりながら、逃げるように北上して、シカゴとか行って、ニューヨークに行って。ニューヨークは元々日本人の僕の先輩が住んでて、そこにちょっと転がり込むんですけど。
ニューヨークで本当に「ワオ、アメイジング」だと、もうここが俺のオアシスだぐらいちょっと興奮しちゃいまして。アメリカって移民の国なんですけど、ニューヨークは特に移民の町みたいな。その中でもすごいいろんな人種、宗教、肌の色の人がぐちゃぐちゃってなってて。もちろん日本にいた時みたいにじろじろ見られることもないし、すげえ居心地が良くて。ここに住んだら、ちょっと自分を変えれるかもなって思いましたね。
ああ。
で、特にエンターテインメントの天国というか、世界中から天才的なエンターテイナーが集まる町なので。自分は当時23歳で遅かったんですけど、ちょっとここで鍛えて2、3年で日本に帰って日本で勝負しようと思って、ビザを取ってアメリカにもう1回行ったんですよね。
あ、それってニューヨークで、歌とかそういうのを鍛えてみたいな。
そうですね。最初1年ぐらい英語学校に行ってて、その後演劇の学校に行きましたね。3年間ニューヨークで。結果7年ぐらい住んじゃったんですけど。
もう25とかで戻ってきたんですか?
いや、もう30になってましたね。
あ、30。
はい。あ、やべえと思って。学校を卒業して、エンタメの会社に雇ってもらわないとビザのステータスが失効しちゃうんですよ。みんな大体そこのタイミングで帰るんですけど、僕もなかなか就職先はなくて。自分のスキルも、ニューヨークの天才たちが群雄割拠してる中では全然ド素人みたいなもんだったんで。で、1回弁護士かなんかに相談したら、「多分アメリカで君の見た目で役者とか目指しても別に珍しくもないけど、逆に日本に帰って勝負したら、そっちの方がチャンスあるんじゃない?ギャップとかで」みたいなこと言われて。すげえ弁護士の的確な指示にね。で、ちょうどそのタイミングで、演歌歌手のジェロって覚えてます?あの人が黒人の見た目で演歌でバズったので、ワンチャン俺が民謡とか歌ったらバズるかもしれんぞと邪念がよぎりまして、帰ったんですよね。
どのルートから売れようと?
そうですね。最初は音楽で勝負しようと思ったんですけど、やっぱ歌がそんなうまくないんすよ。お笑いとかも元々すごい好きだったんで。多分テツandトモさんとか、歌ネタをやってる人をテレビで見てた印象があって。事務所に入ってデビューした手前の頃は、やっぱそれはちょっとプライドがあって、なんか意味わからない、学ラン着て1人コントみたいなのをやってましたね。
あ、そうなんすか。
やってました。で、やっぱりこの見た目で、僕スキンヘッドで、学ランで1人コント。別に自分の見た目とかに一切触れるわけでもない。もうバカリズムさんみたいな1人コントで。で、当然4分のネタの間、ノー笑い、ゼロ笑いで終わって。作家さんとかに、正直ネタが入ってこないみたいなこと言われて。
ああ。
そこで、あ、そうなんだと思って。ニューヨークにいたから僕は感覚が麻痺してたんすよ。もうみんな違って当たり前というか、どんな見た目の人がどんな言語喋っても、別にそれはいいよみたいな価値観だったんですけど、日本ってまだ違うんだって思ったんですよ。その時に、僕デビュー1、2年目が2012年だったんですけど、ちょうどハーフタレントブームが来たんですよ。これ今考えたらめちゃくちゃ幸運だったんですけど。僕12年デビューで、1、2年目が1番テレビとかに出てたんですよね。
デニスさんとかマテンロウさんとか。
そうですね。ハーフあるあるの、アントニーとかゆきおちゃんがやってたようなハーフあるあるを、僕はギター漫談でやったんですよ。そうしたら結構ネタ番組とかに、本当に1年目2年目ぐらいで出ることができて。
ああ、そっか。その1、2年目の勢いそのまま、キープするのは難しかったですか?やっぱ。
難しかったっすね。関西人でもないし、そんなにお笑いのイロハも分かってない状態でポーンと、当時SMAに所属したんですけど、今ほど売れてる芸人さんがいなくて、芸人の墓場って言われてたんですよ。「ブラック、お前SMAじゃなくてワタナベとか行った方がいいんじゃねえか」みたいな。「お前にここはまだ早い」みたいな。「ここはもう40ぐらいになって行き場所を失った芸人がたどり着く墓場みたいな場所だ」みたいなことを言われてたんですよ、SMA。
そう、そう。で、養成所とかもないので、独学で色々お笑いを勉強してたんですけど、いきなり1年目で割と売れちゃったもんだから、いきなり戦場とか、ひな壇みたいなとこにぶち込まれて。でも何の武器もないんで、とりあえず勢いとかだけで乗り切るんすけど、そんな甘くなかった、やっぱり。
ああ、まあね。そっか。
いきなり戦場に送り込まれた感じになったんで。
その3年目ぐらいから仕事がなくなって、バイトオンリーになってくる感じなんですか?
そうです。あそこから緩やかな下降線を下ってて。僕、今も忘れないのが、2年目ぐらい、結構テレビ出てた時に、ザブングルの松尾さんが何かの飲み会で僕にアドバイスしてくれて、「いや、でもブラックサムライな、めっちゃキャラあるんだけど、芸人はな、大体1キャリアに1回チャンス来ればええ方やねん」みたいな。「でもお前のチャンスは2年前だったな」みたいなこと言ってて。俺その時わかんなくて、まだ浮かれてたんで、調子乗ってたんで。あ、俺のチャンス終わってんのって思いましたね。後で、あの松尾さんのメッセージは的確だったなって思いましたね。
松尾さんにはもう見えてたんでしょうね。キャリアが長いと分かるんでしょうね。それで言うと、そのカメルーンの父親に会いに行きたいって言い出すのは何年目なんでしたっけ?
コロナ禍の時ですね。ちょうどSMAからサンミュージックに移籍しまして、数年サンミュージックでお世話になってたんですけど、コロナがやってきて、仕事もライブとかも何もなくなって。元々仕事なかったんですけど、元々ない上にさらになくなったんで。しかもライブもイベントもダメ、なんなら人と会っちゃダメっていう状況だったんで、これ事務所にいても意味ないなというか、1人でちょっとやってみようと思って。その時年齢も39とかだったので。で、辞めたはいいけど、YouTubeとか僕も始めたりして、でも時間だけがたっぷりあったじゃないですか、コロナで。で、ふと、あ、そういえば俺、親父に2歳の時以来会ったことないな。今思えば本当に虫の知らせのような感じで、このタイミングで行かないとダメかもとか思って、よし、親父探すぞっていう感じで、行動に移すことを決めましたね。
手がかりとしてはどんなものがあったんですか?
約40年前に撮った数枚の写真と名前ぐらいですね。
はあ。それ探すの大変ですね。
母親が父親のことを知ってる唯一の手がかりだったんですけど、僕の母親が本当2019年ぐらいから認知症が始まっちゃって。結構早かったんですけど。で、今名古屋の介護施設に入所してるんですけど、母親が父親の昔のことを一切思い出せない状態で。でも母親がボケる前に、「あなたのお父さんは、カメルーンに帰るってことは絶対ないと思う。カメルーンに帰っても仕事ないから。だからいるとしたら絶対イタリアで、多分もう結婚してるんじゃない」みたいなことは言ってて。だから何となくイタリアにいるだろうなとは思ってましたね。
で、そっか、実際本当にイタリアに行ったわけですもんね。
そうすね。昔の父親のことを知ってる方と、日本にいる段階でコンタクトが取れて、「多分君の親父はミラノに今もいるよ」みたいなことをその人が言ってくれて。メールのやり取りで。でもその人も父親の連絡先は分からない。で、ネットで調べても全然父親らしき人は出てこないっていう状況でしたね。
じゃ、とりあえずミラノにいるかもしれないからミラノに行って。
そうすね。今思えばめちゃくちゃバカですよね。3日目、4日目ぐらいまでは割とアナログな感じで、「この人探してます」って親父の顔写真と、「知りませんか」みたいなことをやってたんすけど、全然効果なくて。5日目ぐらいの時点で、ネットとかSNSとかに、本当に「こうこうこういう理由でイタリアに来てるんですけど、何の手がかりもなくて本当に困ってます。このままじゃピザとパスタの食レポで日本に帰国することになりそうです。何でもいいんで情報お願いします」っていう感じで、イタリア語と日本語と英語で書いたら、すごい反響があって、「こういう場所に行った方がいいんじゃない?」みたいな。その中で、ミラノも結構やっぱ移民が多いんで、カメルーン人が集まるバーがあるっていうことを聞いて。
その時も本当に、全然見ず知らずの怪しい日本人のために、わざわざそのカメルーンのバーまでアフリカの人が連れてってくれて。そしたら入れ代わり立ち代わり20人ぐらい人がやってきて、60代ぐらいのおじさんがやってきて、「あ、これはジェームスだ」と。「俺はジェームスを1ヶ月ぐらい前にあそこの路上で見た。俺はこいつを昔から知ってんだ。でもその時は挨拶しただけで連絡先は交換しなかったけど、でも大丈夫だ。お前が日本に帰るまでに絶対探し出すから、ノープロブレムだ」みたいな。その2日後ぐらいに父親のメールアドレスをゲットしまして。で、恐る恐る、すごい考えてメールを送ったら返信が来て、親父から。で、無事会おうっていうことになって、ミラノ到着9日目に親父と会いました。
どんな感覚ですか?それ、ほぼ物心ついてから初めて会うって。
そうすね。もう赤ちゃんレベルの大号泣をしてしまいましたね。
そうなんですね。会いたいって気持ちをちょっと抑えつけてたっていうところもあるんですかね。
ああ、やっぱそうなのかもしんないですね。息子から父親に愛情を表現するっていうのは、日本ではあんまりやる人はいないけど、やっぱ1回この目で、もう1度でいいからどんな人か見てみたかったっていうのはすごいあったと思いますね。会いたかったですね、やっぱり。
やっぱ結婚してたんですか?お父さん。再婚か。
はい。結婚してましたね。僕が会った時は結婚してましたね。
あ、そうなんですね。兄弟いたん?
兄弟いたんですよ、2人。腹違いの。
お母さんとかはどんな反応ですか?ちなみに。認知症になっちゃってるからあんまりあれですか?
一応会えた時に母の施設に行って、父親と一緒に写ってる写真とか、あとビデオメッセージを母親に見せたら、一瞬は分かったのかな。「良かったね」みたいなことを言ってましたね。すぐ忘れちゃうんですけど。
そうか。そっか。
父親と会ったのが2021年の5月なんですけど、2020年の7月に、父親の今のイタリア人の奥さんから連絡があって、実は父親が今危篤なのと。病院で昏睡状態で入院してるから、もし可能なら今からイタリアに来てほしいっていうことで連絡があって。で、数週間後に病でこの世を去ってしまいました。
じゃ、映画を作ったものも見れてないんですか?お父さん。
試作品は送って見せることができて、言葉が出ないぐらい感動したって言ってくれたんですよ。父親はずっとカメルーンの家族とは連絡を絶ってたらしいんですけど、カメルーンの家族の方からも父親の奥さんの方に連絡が来て、お葬式もあげて。で、父親のお母さん、カメルーンの、僕らのおばあちゃんですね、90歳でまだ存命で。おばあちゃんが本当に最後の願いで孫の顔を見たいっていうことで、僕とその腹違いの弟と妹とでカメルーンにも行ったんですよ、2024年に。おばあちゃんとも初対面をすることができましたね。
半年ぐらい遅かったら会えてなかったかもしれないですね。
そうですか。
はい。再会して1年後に亡くなっちゃったんで。で、本も最近出したんですけど、色々親子とか家族問題の団体の人とかからも講演の依頼とかもいただいて、いろんな話を聞くと、やっぱり親に会えない人とか、子供に会えない人とかもいっぱいいる中で、本当にミラクルみたいな話だねって言われるんですよね。だからお笑いも好きなのでまだこれからもやっていきたいんですけど、やっぱり自分はこういうことが自分の身に40過ぎて起きたので、何らかの表現活動を通して伝えていきたいなってのはありますね。
それからはどんな活動をしてきた?でも芸人をやりつつみたいな。
そうですね。今、日本のお笑いを世界に届けようっていう壮大なプロジェクトをやってるんですよ。その名も「OWARAI」って言うんですけど。今まで日本のお笑いって、ちょっと裸芸とか、ノンバーバルなのが日本の笑いみたいな、そこでしか道がないみたいな感じになってますけど、今回のそのOWARAIプロジェクトは、日本の伝統的なコントとか漫才とかを全部英語にして、日本の芸人が英語でやるんですよ。それで受けるかどうかっていうので、1年以上前からスタートして、アメリカでもシカゴで今年の3月に公演をして。そこは僕もプロモーションとか裏方の方でお手伝いさせてもらって。
はあ。
で、こないだ、本当に今月なんですけど、浅草の東洋館っていう劇場で10日間「OWARAI浅草」っていうショーの
MCをしまして、そこはもう完全にインバウンド向けのやつなんですけど、そこでもかなりやっぱ受けまして。今後はもう世界中でやって、本当日本のアニメとか、侍みたいな感じでお笑いを世界に届けたいみたいな。
僕そのプロジェクトで今MCも司会もやってて、すごいやっぱり良かったなと思って。なんかやっと自分が英語を使えるチャンスが巡ってきた。しかもやっぱちょっとお笑いスキルもいるじゃないですか。
それでやっぱりちょっとコロナ中に映画作ったりとか、普通の仕事もしたりして、ちょっとそのお金、生活のためにお笑いをずっとやってなかったんですけど、やっぱりちょっと人を笑わせるのってもう唯一無二の、もう麻薬だなと思って。
で、半年ぐらい前から、やっぱりちょっと今度日本だけじゃなく世界の人も笑わせたいなと思って、スタンダップコメディを英語でもやってるんですけど。なので次の目標はやっぱりそうっすね、スタンダップコメディでちょっとワールドツアーしたいですね。
すごいさ。日本のコントとか漫才をこの英語を覚えてやったら、ちょっと受けるんですね。
はい。日本人とこう世界の国の人が共有している常識とか、その辺はちょっとすり合わせて。
ちょっと変えたりもしつつと思。
そうですね。合コンとか言ってもわからないので、そこをちょっと英語にアレンジして。
確かに。
日本の芸能界に出た時は、やっぱちょっと、これ負け惜しみじゃないんですけど、やっぱなんか自分が100%僕のポテンシャルを発揮できるフィールドではないなと思いつつも、やっぱり売れたくてやってたんで。
こう個人事務所になって、本当に今伸び伸びとやってますね、本当に。自分が嫌いな仕事は受けなくていいし。
はい。すいません。ありがとうございました。
ありがとうございました。
はい、じゃ、できたら一度お送りしますので。
はい、よろしくお願いします。
では失礼します。
失礼します。ありがとうございます。
ありがとうございます。街録チャンネル見習いディレクター募集中です。面白い映像を作りたいという若者、ご応募お待ちしております。グッズ、スポンサー券、BASEにて販売中です。応援よろしくお願いいたします。
心で殺すこと 僕は 生きて 小学生世界から 歌れ お
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