ファッションYouTuberげんじが語る、芸人の挫折からブランド運営の揉め事、親友の死まで

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概要

YouTubeでファッション情報を発信して10年を超え、自身のアパレルブランドも運営するげんじが、街録chのインタビューに答えた。18歳で芸人を目指して挫折したこと、ファッションアプリ「WEAR」での評価、ブランド立ち上げ後の出資元とのトラブル、「台風セール」炎上、アルコールに頼った日々、ヒカルのアパレルへのレビューをめぐる応酬、そして地元の友人の死。話題は多いが、全体を通して語られるのは、無理を重ねた時期を経て、肩の力を抜いて続けるという今の姿勢に至った経緯である。

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登録者100万人、ZOZOTOWNでの売上が大きい理由

聞き手はまず、げんじがファッション系YouTuberとして登録者数100万人ほどを抱え、ブランドの売上が50億円規模に達していることに触れた。げんじはこれを認めたうえで、売上はフォロワーだけで立っているわけではないと説明する。ブランドの一部はZOZOTOWNに出店しているため、たとえばアディダスの商品を見に来た人が、横に並んだげんじのアイテムも気に入って一緒に買うことがあるという。

ブランドは大きく2つに分かれている。手頃な価格帯の「ウィム」と、高級路線の「LIDNM(リドム)」だ。リドムの中には、げんじがインタビュー中に身につけていたジュエリーを扱う「ライフ」というラインもある。売上はZOZOTOWNで展開するウィムの方が大きいという。

YouTubeは10年を超え、年齢は32歳になった。聞き手が「尋常じゃない」と驚くと、げんじは「狂気的に継続した」と応じた。続けられた理由として挙げたのは、YouTubeを始める前からWEARに私的に投稿していたほどファッションが好きだったことである。もう一つの理由が、芸人時代の挫折だった。人を笑わせたいのに笑ってもらえなかったトラウマに比べれば、見てもらえるだけでありがたい。その感覚が10年続けられた支えになっているという。

工業デザイナーの父と、芸人を志した高校時代

げんじは埼玉県の出身だ。父は工業デザインの会社を経営しており、公共トイレにある赤ちゃんを座らせる三角形の設備を最初に手がけ、グッドデザイン賞を受けたという。歯科の、寝た姿勢で治療を受ける器具の仕組みにも関わったらしい。池袋の事務所を訪ねると、仕事で描いた非常にうまい絵があったと振り返る。

会社勤めをする大人を父以外に知らなかったため、小中学生の頃はサラリーマンになる自分を想像しなかった。バラエティ番組が好きで、人前で無茶振りをされても嫌がらずにこなし、逆に誰かに話を振ることもあった。そうした経験から、中学3年の頃にお笑い芸人になりたいと思うようになった。

高校2年で進路を決める段階になり、大学に4年間通ってから芸人を目指すより早く始めたいと考え、親に相談した。母は不安がって他の専門学校の見学に連れて行ったが、父は反対しなかったという。後にげんじは、世の中から悪いニュースをなくしたい、人は笑っている瞬間は嫌なことを忘れているから芸人を目指したい、と父に話したとも語っている。

ワタナベコメディスクールでの所属と挫折

高校卒業後、げんじはワタナベエンターテインメントのワタナベコメディスクールに入った。18歳のげんじが最年少で、周りは大学生や社会人、吉本から移ってきた人もいた。同期にはちゃんぴおんずの大崎、フワちゃん、土佐兄弟がいたという。

コンビの相方は、当時36歳で見た目は45歳くらいの脱サラした人だった。共通の話題はほとんどなかった。何人かと組んではすぐ解散していたが、社会人経験があって人として話ができること、見た目の年齢差が親子のようでキャッチーなことから、この人と組んだという。ネタはげんじが書いていた。スクールの最後にある所属オーディションでは面白い人も落ちていたが、げんじたちのコンビはオーディションライブでウケて所属になった。

ところが卒業後のライブではまったくウケなくなった。10回ライブをやって1回笑い声が聞こえればいい方だったという。在学中のライブは月1回程度で、客席には同級生やバイト先の知人が多く、学生であることでハードルも下がっていた。デビュー後は、笑うために金を払って来た客の前で、芸歴5年、10年、12年の先輩と横並びで舞台に立つ。今なら「ウケなくて当たり前」と思えるが、当時は悔しさと恥ずかしさでいっぱいだった。同じ舞台で大崎はどのライブでもウケていたという。

コンビ仲がうまくいかず、1年半ほどで解散した。ワタナベでは解散すると自動的に事務所との契約も切れる。その後ピン芸人として3回ほどライブに出たが、ピンネタの練習をしたこともなく厳しかった。大スベりした帰り道、最寄り駅から自宅までの10分の間に、げんじは膝をついた。大学には行っていない、コンビは解散して事務所も解雇された、ピンもうまくいかない、今の自分と組んでくれる人もいない。「詰んだ」と感じたという。20歳前後のことだった。

WEARで1位を争った「ロジカルなファッション」

同じ時期、げんじはWEARにコーディネートを投稿していた。ファッション好きの自覚は高校時代からあった。父にリサイクルショップのトレジャーファクトリーで合皮のライダースジャケットを買ってもらったのがうれしく、大切に着ていたという。やがて本革のライダースが欲しくなり、購入先もWEARを参考にして、スクール在学中に4万円ほどのライダースをリボ払いで買った。自分も参考にしているWEARに投稿してみようと思ったのが最初の投稿である。

ランキング制度があったことで、のめり込んでいった。3位でも2位でも悔しく、1位を目指した。雑誌を見ながら何がかっこいいかを論理的に考え、お笑いのネタを振り返るようにアウトプットを繰り返した。すると、色物より白と黒を中心にしたコーディネートの方が閲覧数や保存数、お気に入り数が伸びることが、データとして見えてきたという。

聞き手が「好きなものより1位になれるものを選んでいたのか」と尋ねると、げんじは否定した。芸人時代にスベった経験から、悔しさ以上に恥ずかしさが強く残り、奇抜に目立ちたいとは思わなくなった。もともと無地で落ち着いた、上品さのあるファッションが好きだった。1位になったものを後から好きになったこともあれば、好きなものを投稿したら1位になったこともある。心を売って1位を目指したわけではない、という説明だった。

げんじによれば、当時のファッションSNSは「こういうものを買った、かっこいいでしょ」という自分に向いた投稿が多かった。げんじは誰かの参考になりたいという思いで投稿しており、文章で論理的に解説する人はほとんどいなかったという。成果は大きかった。WEARの公式ユーザー「WEARISTA」に選ばれ、ZOZOTOWNで使える年間120万円分、月10万円分のポイントを受け取るようになった。フォロワー数ランキングでは1位か2位にずっと入っていた。現実の芸人としては泥水もすすれない状態なのに、ネット上の「げんじ」は多くの人に称賛される。ネットと現実の落差が非常に大きかったとげんじは振り返る。

友人の一言で始めたYouTube

YouTubeを始めたきっかけは偶然だった。ピン芸人として活動していた頃、同じ友人と3日続けて遊ぶことになった。1日目の帰り道、げんじが同じ友人と同じことを繰り返すのは成長がない気がして嫌だ、違うことがしたいと話すと、友人が「YouTubeを撮ってみないか」と言った。げんじはYouTubeをテレビ番組やミュージックビデオが流れる場所だと思っていたが、友人からHIKAKINやはじめしゃちょーの存在を教わった。

翌日、アップロードする予定のない動画をいくつか撮り、友人のパソコンで編集してみると、はじめしゃちょーのような動画になった。遊びで終わらせたくないと思い、次の日に公開用の動画を撮って1週間ほどかけて編集し、アップした。これが始まりだという。

最初は芸人のプライドもあり、女装企画などお笑い寄りの動画を3、4本出した。しかし眼鏡の紹介などファッションの動画を出すと、再生数が明らかに違った。WEARでYouTubeを始めたと告知していたこともあり、視聴者が求めていたのはお笑いではなく、げんじが何を良いと思うか、WEARで1位になったコーディネートがなぜ1位なのかという解説だった。げんじはここで、芸人を志したときの「誰かの役に立ちたい」という思いと、ファッション発信がつながったと話す。自分のファッションのコンテンツが世の中の需要に合っているなら、喜んでファッションを発信しようと考えた。開始から5〜6か月で登録者は10万人に達した。男性で、ファッションが好きで、げんじのような服を好む人が10万人集まったことが、とてもうれしかったという。

「コスパ」を語ることへの業界からの反発

げんじの発信の中心は、使い回しの利く服だ。1着が超かっこよくても、他のアイテムに合わせられなければ意味がない。黒のデニムはシャツにもダウンにもTシャツにも合うからコスパがいい、という考え方である。ところが当時は、ファッションは語るものではなく見せるものだという空気が強く、こうした発信は業界から見るとよくないことだったらしい。

販売歴10年の人や、ハイブランドを何十年も買い続けてきた人からは「何が6000円で買えるんや」といった反応があった。派手な服を好む人には、無地を推す発信が陳腐で愚かに見えたらしい。当時は自由に意見を言いやすい環境だったこともあり、誹謗中傷は非常に多かったとげんじは語る。耐えられた理由を聞かれると、芸人時代の真っ暗な絶望に比べればまだましだったこと、応援して見てくれる人が大勢いたこと、一緒にYouTubeを始めた友人の思いもあったことを挙げた。ただ、強がるつもりはなく、つらい時期もあったと付け加えた。

中傷は仕事にも響いた。6〜7年前、ある企業から商品紹介の案件を何度か受けていた。げんじが紹介すると商品が売れたため、依頼が続いていたという。ところがアンチがその企業に直接メールを送ったり、企業のXアカウントにげんじの顔を加工した画像を送りつけたりしたため、企業は依頼を止めることになった。自分一人が我慢すればいいと思っていたげんじも、従業員やマネージャー、一緒にYouTubeを始めた友人にまで影響が出ていると知って、申し訳なく悲しい気持ちになった。そこで向き合うことを決め、しかるべき対象に法的措置を取っていった。訴えて有罪になったアンチもおり、今ではほとんどいなくなったという。

毎日投稿の時代と、壊れかけた24歳

聞き手は、1日に何本も投稿していた時代の個人YouTuberには、うつやパニック障害になった人の話をよく聞くと話を向けた。げんじは、最初の1年ほどは躁状態のような勢いでやれていたと振り返る。水溜りボンド、カリスマブラザーズ、ヘキトラハウスといった同時期のYouTuberとたまに会い、動画の内外で彼らが寝ずに働く大変さも見ていた。自分だけではないと思えたこと、芸人時代は働きたくても仕事がなかったのに今は働けているという喜び、登録者100万人規模のYouTuberと同じことをやれているという実感。これらが病まずに続けられた理由だという。

それでも、一度も壊れなかったわけではない。自殺を考えた時期があったとげんじは明かした。ブランドを立ち上げ、東京に出てから友人が増え、有名な人たちと飲むことが多くなった。自分の時間よりも、その人たちが楽しく過ごす時間をどう作るかを優先して付き合いを広げるうち、自分のキャパシティを超えていることに気づかなかった。二日酔い、三日酔い、四日酔いが当たり前になり、外からはうまくいっているように見えたブランドも、裏側ではうまくいっていなかった。

24歳ごろ、死を考え始めて危ないと感じ、一人で宮島へ行った。3泊4日、仕事は一切しなかった。すると、マイナスだった気持ちが翌日には0になり、次の日には30%、さらに70%と戻り、帰る頃には100%になっていたという。

ただ、別の沖縄旅行では、最終日に一人しか泊まれないヴィラで、オーナーに「げんじという人は泊まっていないと答えてほしい」と頼んだこともあった。東京で凸撃された経験があったわけではない。それでも、ここにいると知られたら誰かが押しかけてくるのではないかという強迫観念のようになっていた。今考えればおかしな話だと、げんじ自身も語っている。

ブランド創業と大阪の出資元とのトラブル

ブランドの裏側で揉めていたのは、立ち上げ時の資金構造が原因だった。げんじには自己資本がなかった。一緒にブランドをやろうと声をかけたデザイナーは、ちょうど前職のアパレルを辞めたいと考えていたため独立して加わった。しかし、げんじ自身の生活も大変な中で、彼に月40〜50万円の給与は払えない。そこに、デザイナーが前職時代に取引していた、国内に縫製工場を持つ大阪の会社が協力を申し出た。デザイナーの給与を払い、初期費用やECサイトの運営、カスタマーサポートまで引き受けてくれたという。

げんじはお金を出してくれたこと、きっかけを作ってくれたことには今も感謝していると断ったうえで、1年、2年、3年と経つうちに問題が見えてきたと話す。カスタマーサポートは任せて大丈夫と聞いていたが、住所変更の反映漏れで商品が届かないといった問い合わせに対応が追いついていなかった。

より大きかったのは在庫の問題だ。げんじによれば、大阪の会社は他の事業で赤字を抱えており、げんじのブランドの売上でそれを補填したかった。げんじが過去の販売実績から500〜1000着が適正と考えるシャツを、大阪側は3000枚作ろうとする。1500着売れて1500着残れば、過剰生産の決定に関わっていないにもかかわらず、セールで売れという圧力がかかる。定価で買ってくれた客がいるのに値下げして不公平な思いをさせるのは、げんじには「全然綺麗じゃない」と感じられた。自分の影響力が過剰に、しかも軽視されながら使われていると感じるようになり、ブランド運営が楽しくなくなった。ブランドなしでYouTubeだけをやりたいと思うほどだった。

げんじがブランドをやめたいと伝えると、大阪の会社のナンバー2で身長190cmほどの代表が初めて怒った。げんじに直接ではなく、大阪の会社に籍を置くデザイナーを大声で詰めたという。怖い人だと思ったら夕食をおごってくれ、笑顔で話すので悪い人ではなさそうだと思ってしまう。そうして丸め込まれていったと振り返る。

在庫2億円をめぐる交渉と、自己資本への移行

大阪側は当然すんなりやめさせてはくれず、在庫をどうするのかという話になった。在庫は2億円ほどあったという。埒が明かないため、弁護士を通じて交渉することになった。

交渉の途中、ほとんど経営に関わっていなかった会社のトップの韓国人から、会いたいという連絡が直接入った。弁護士に相談すると、有利な話ができるかもしれないという。念のため録音機器を持ち、相手が反社会的な人物を連れてくる可能性も考え、個室ではなく開けた場所としてホテルのラウンジを選んだ。ところが現れたのは60歳前後の韓国人男性一人で、「ごめんね」と謝ったという。

そこでようやくトップとまともに話ができ、げんじ側から条件を示せるようになった。在庫は切り分けることになった。客に自信を持って勧められるベストセラーアイテムはげんじ側が買い取る。大阪の会社が必要以上に積んだとげんじが考えるアイテムは、大阪の会社に残す。この内容で契約を交わし、げんじは25歳ごろ、自己資本でブランドを運営できる状態になった。

「台風セール」炎上と、言い訳に見えた説明

しかし問題はそれで終わらなかった。げんじの名前で検索すると出てくる炎上の一つが「台風セール」である。切り分けの結果、旧来の販売サイトは「旧リドム」として大阪の会社のもとに残り、げんじ側は「新リドム」としてデザイン、生産、販売を行い、買い取ったベストセラーも新しいサイトで売る体制になった。

あるとき、死者が出るほどの大きな台風が来た。フォロワーから「台風セールって何ですか、さすがにこれはないです」と連絡があり、げんじは初めてそれを知った。旧リドム側は、過剰に積んだ在庫をさばく手段としてセールか過去の購入者へのメールしかなかったため、「台風の日も自宅でショッピングを」という趣旨でセールを打ったという。それが、死者の出た災害に絡めて商品を売ろうとした極悪な行為として大炎上した。

げんじは、ここで自分が全部説明すればよかったと振り返る。実際には、インスタグラムのストーリーで「自分ではない、旧リドムは大阪の別会社で」と説明した。事実ではあったが、それまで旧と新の区別をフォロワーに話していなかったため、炎上後に初めて説明すると言い訳のように、あるいはトカゲの尻尾切りのように受け取られた。揉めに揉めて終わったと思った後も、なかなか収まらなかったという。その後、自社サイトのブランドとは別に、ZOZOTOWNで展開するウィムを立ち上げて自由に取り組んだ結果が、今につながっていると話す。

それでもやめなかった理由と、インフルエンサー支援

聞き手は、これだけ揉め事があれば普通はやめるのではないかと驚いた。げんじは、ファッションを通して世の中を幸せにするという考えは当時も今も変わらないと答えた。同じことを繰り返すファッション業界であってほしくない。そう考え、辞めた直後あたりから、ファッションインフルエンサーを支える事業を始めた。自分が嫌だった点を解消しながら、クリエイター、視聴者、ブランドの三方が満足するように、クリエイターが作るブランドの世界観を一緒に守る仕組みである。クリエイター側に立って考えられる唯一のファッションインフルエンサー事務所を作りたいという思いで、現在は22人のクリエイターのブランドを手がけている。並行して、他社にいる人も含め、似たトラブルに巻き込まれないよう後輩を育てているという。

こうした考え方の源について、げんじは芸人を始める頃に読んだ本を挙げた。例として『夢をかなえるゾウ』を挙げ、他者貢献こそ幸せの本質だと自分は捉えている、誰かのために生きることが自分の幸せにもなるという考え方ができた、と話す。

姉への怒りと、ADHDの診断

本を読んで成長したいと思った原動力の一つは、姉への怒りだったとげんじは明かした。父が中国に支社を作り、母も手伝いで中国へ行くことがあったため、小学6年頃のげんじと中学生の姉の二人だけが家に残る期間が1年ほど続いた。その結果、姉とはひどく仲が悪くなった。

げんじは最近ADHDと診断された。集中したいことには集中できるが、そうでないことにはまったく集中できず、宿題も片付けもできなかった。一方の姉は早稲田に進むほど勉強ができ、真面目で、かなりヒステリックだったという。母の不在中に家を守らなければという自覚が芽生えたのか、小学校から高校まで、げんじはあらゆることに干渉され、監視され、怒る必要のないことでも怒られた。やりたくてもできない自分もいた。姉が包丁を持ち出し、げんじがクイックルワイパーで応戦したという忘れられない光景もあった。

すべてにおいて劣っているという感覚があり、本を読むのも、芸人として売れたいと思ったのも、振り返れば姉を見返したいという気持ちが大きかったという。その怒りは、友人ができ、好きなことを発信して褒められ、仕事仲間にも恵まれて満たされるうちに、姉以外のモチベーションが生まれ、薄れていった。2〜3年前まではまだ怒りがあったが、今は好きではないものの、特に何の感情もないと話す。

週8回の飲み会と、行かないという判断

話はアルコール依存に近かった時期に戻る。東京で一人暮らしを始めると、YouTuberや芸能人と飲む機会が増えた。芸能人のいる場に顔を出せるなら喜んで行った。溝口勇児とも、げんじのブランドに出資させてほしいという話の会食があったという。24歳の自分に年上の大人たちが敬語を使い、高級店で、ときには女性もいる会に出続けるうち、週8回ほど飲むようになった。二日酔いのまま朝起きて仕事をし、日中はブランドの揉め事に対応し、夜は人脈を広げなければと飲みに出る。XやYouTubeのコメント欄を見れば、「ファッションを分かっていない」「犯罪だ」「反社だ」と追い詰めるアンチがいる。しんどかったという。

若い頃にこうした誘いを断るのは難しそうだと聞き手が言うと、げんじも、何にストップをかければいいかも分からなかったと同意した。それでも、コロナ禍の1年ほど前には、飲みたくないのに行く、家で過ごしたいのに会う、ということをやめ始めていた。その後コロナが来て、さらに落ち着いたという。聞き手が、あるYouTuberたちの集まりで問題になった人が多かったことに触れると、げんじは自分も誘われていて当日まで行く予定だったが、気が乗らず行かなかったと明かした。

流れに逆らう判断はほかにもあった。げんじはかつてYouTuber事務所のUUUMに所属していたが、あるときUUUMからブランドの売上の何%かを求められた。立ち上げにも関わっていないのに、という思いがあった。当時はUUUM所属がステータスで、多くの人が所属を目標にしていたが、げんじは23歳ごろに退所したという。

ヒカルのReZARDをレビューした騒動

ヒカルよりも先に服を作っていたげんじは、4年ほど前、ヒカルから動画内で名指しで「ReZARDの服を紹介しろ」と言われた。げんじはこれをチャンスと受け止めた。予約商品が多かったため、まずメインチャンネルで、名指しでレビューを求められたので届くまで待ってほしいという動画を出した。

げんじの考えでは、ヒカルのファンがどんな品質でも価格でも納得して買うのであれば、服そのものに罪はない。ただ、レビューを求められた以上、同じ価格帯の市場でどの程度の品質か、その品質ならどの程度の価格が妥当かは、プロとして分かる。だから正直に言った。買ったパンツについては、本来パンツには使わない素材を使っているほど生地がペラペラだと指摘した。ReZARDが好きで買う人以外を対象にするなら、この価格ではかなり劣るパンツだ。ただ本当に好きで買う分には、自分が口を出すことではない。そう評価したという。

これに対しヒカルは自身のチャンネルで、「ふざけんな、お前のところのブランドにもあるぞ」という趣旨の動画を上げた。げんじは、レビューしろと言われたからレビューしただけで、逆ギレと受け取られてもおかしくない反応だったと話す。実際、コメント欄には「逆ギレ」という言葉が多かったという。げんじはこれに応え、謝るべき点は謝るが、レビューは間違っていないと思う、自分の発信はぶれていない、という動画を出した。この動画は多くの人に見られたという。

地元の友人の死と、無理をしないという結論

最近は無理をせず自然体でいようとしている、とげんじは話す。10年やれば、何が受け入れられ、何が受け入れられないかが分かってくる。再生数や高評価は今も必要だと思っているが、以前より肩の力を抜いているという。聞き手が、マラソンならゆっくり走る時期もあった方がいい、故障したら進めなくなると言うと、げんじは強く同意した。

そう考えるようになった大きなきっかけとして、げんじは昨年ごろ、地元の友人が自ら命を絶ったことを語った。家が一番近く、3人でよく遊び、大人になってからも会ったり旅行したりしていた友人だった。何があったのかは分からない。友人の母親が、LINEの未送信のメッセージなどを、多少手を加えたうえで送ってくれた。そこには熱いメッセージもあったという。この経験から、げんじは無理をし続けることが正しいとは思えなくなった。嫌なことがあったら逃げた方がいい、そうしないと壊れてしまう。ほどよく肩の力を抜いて、みんなで笑顔で過ごすのが一番いいのではないかと話した。

数字ではなく、クリエイターを通じて服を届けたい

今後の数値目標は特にないという。売上何億円や、どれだけの影響力が欲しいといったものはない。一方で夢は変わっておらず、まだ到達できていないと感じている。まずはブランドを愛してくれる客やこれから買ってくれる人を最大限満足させること。ブランドは買わないがげんじのチャンネルを見ている人、所属クリエイターの動画だけを見ている人も大事にすること。そのうえで、自分たちの恵まれた状況を壊さないことを最優先にしつつ、任せられる部分は任せてクリエイターを増やし、インフルエンサーをきっかけに多くのデザインやクリエーションを世の中に届けたい。それが今新たに挑戦したいことだと語った。

自分の幸せだけを考えれば、今が最大限に幸せだとげんじは言う。新しく動けば、迷いや衝突やトラブルが必ずある。それでも、大学に行かずにすぐ芸人を始めたときのように、やらない方がいいかと悩むときは、やった方が、その間は大変でも後で良かったと思える影響の方が大きいと考えている。ストレスを感じすぎない範囲で、緩く、しかし情熱を持って続けたい。そして、今の幸せが崩れてもおかしくないくらいの覚悟で、ファッションの力を世に広めていきたい。普段はあまりこういうことを話さない、と前置きしたうえでの言葉だった。