感性は抑え込むべきものか――美学者・伊藤亜紗が語る、最適解の時代に「感じる力」を取り戻す方法
PIVOT 公式チャンネルPIVOTの佐々木が聞き手となり、美学者の伊藤亜紗に、著書『身体の美学入門』を手がかりに話を聞いた回である。番組での紹介は「東京科学大学教授」。話題は美学の定義から始まり、ルッキズム、美醜の基準の変化、AIと「最適解」の問題、美的経験の磨き方、組織の会議にまで広がった。
伊藤の立場は一貫している。感性は長く知性の邪魔者として扱われてきた。しかし感性には、社会に与えられた枠組みをなぞる面と、そこから飛び出す面の両方がある。そして最適解が簡単に手に入る時代だからこそ、後者をどう取り戻すかが問われている、というものだ。
美学とは「言葉にしにくいものを、あえて言葉で分析する学問」
伊藤によれば、美学は18世紀中頃のヨーロッパで成立した学問だが、日本ではあまり学問として認識されていない。入門書を書いた理由を問われると、伊藤は「あまりにも知られていないので」と答えた。ただし入門書は一番難しい本でもあるという。専門の中で最も大事な部分を分かりやすく伝える必要があるからだ。伊藤は本書を「難しいことを簡単に言う本」にしたつもりだと語っている。
本書には美学の定義がいくつか書かれている。「感性を扱う学問」「違いを扱う学問」「私の中の他者を扱う学問」の三つである。伊藤はまず、美学は感性を扱う学問として成立したと説明する。成立以前、感性はまともに扱われていなかった。むしろ「ない方がいい」ものに近かったという。人間の認識能力の中で最も優れているのは知性とされ、感性はいい加減で、その場に流されやすく、正しい認識を邪魔するものとみなされていた。感性に流されずにどう認識するか、という発想のもとで、感性は邪魔物扱いされていたのである。その評価が少しずつ変わり、感性にもそれなりの価値があると考えられるようになったとき、感性が学問の対象になった。
では、古代の人間は感覚で動いていたのか。佐々木がそう尋ねると、伊藤はまず、人間を能力に分解しようとする動機そのものが面白いと応じた。そのうえで、「どうすれば良い人間になれるか」という最終目標はどの時代も変わらないと思う、と述べる。その目標に向けて、どの能力を伸ばし、どれを抑えるかを整理していく過程で、「感性には黙っておいてもらおう」という流れが多かった。伊藤はこれを歴史的な背景として説明した。
ライプニッツの認識の分類――根拠が言えるか、言えないか
感性の社会的地位を引き上げるうえで貢献したのが、ライプニッツらによる認識能力の整理である。本書ではこれが図にまとめられている。
この分類では、人間の認識能力は「上位」と「下位」に分かれる。上位が知性、下位が感性だ。感性は認識能力の一つとして認められたが、位置づけはあくまで下位だった。そのうえで、認識はまず「明晰」か「曖昧」かに分かれる。明晰とは、何かをはっきり感じ取れている状態である。佐々木が「よく分からないけれど何かすごく感じる」という経験は感性に入らないのかと尋ねると、伊藤は、それも美学の対象にはなりうるが明晰ではなく曖昧の側だと答えた。明らかな違いを感じ取れていることが、明晰の条件になる。
明晰な認識のうち、知性と感性を分けるのは「判明」かどうか、つまり判断の根拠を言えるかどうかである。伊藤は昆虫の例を挙げた。目の前の昆虫を蝶だと判断したとき、なぜそう思うのかと聞かれれば、いくつも理由を挙げられる。これが知性の働き方だ。これに対して、芸術作品を見て「これはすごくいい」と思ったとき、その気持ちははっきりしているのに、理由を問われるとうまく言えない。確かに感じているのに根拠が分からない。これが感性の特徴だという。佐々木が「論理的であることと関係するのか」と確認すると、伊藤は、働き方を論理的に説明できるのが知性だと答えた。
言葉と感性は仲が悪いからこそ、互いを磨き合う
言語化できるかどうかが大きな違いなのかと問われ、伊藤は「大きいと思う」と答えた。そのうえで、一般向けには美学を「言葉にしにくいものをあえて言葉を使って分析する学問」と説明しているという。
感性も言語化できないわけではない。ただし伊藤は、言語化によって大事なものが失われる場合があることも認める。なぜこの作品がいいと思ったのかを言葉にすればするほど、かえって信用できなくなる。料理の感想にもそういうことがある。それでも、言葉と感性は仲が悪いからこそ互いに磨き合える、と伊藤は言う。感じたことは言葉にすることで深まる。言葉の側も、感じたことを正確に言い表そうとすることで洗練されていく。美学は仲の悪い二つをうまくぶつけながら切磋琢磨させる学問だ、というのが伊藤の説明である。
佐々木は、何でも言語化できる知人を挙げ、そういう人は知性が発達しているのかと尋ねた。伊藤の答えは「そういうわけでもない」。それがその人の感性を貧しくしているかどうかもよく分からないが、人によって知性と感性のどちらが優位かの違いはあるだろう、という。言語化は知性にも感性にも役立つ。そのうえで、論理的に説明できるわけではないのが感性だ、と伊藤は整理した。
では、どうすれば感性を言語化できるようになるのか。伊藤によれば、人はすでにかなり言語化している。「美しい」「かわいい」「かっこいい」といった形容詞をたくさん使っているからだ。感性を表すこうした言葉を磨いていくことが、大事な作業の一つになる。佐々木が「うだるような暑さ」「フライパンの上にいるような暑さ」といった例を出すと、伊藤はそれも含まれると応じた。文学に近いのではないかという問いには、文学に近いが科学としてやろうとしている、と答える。ある暑さをなぜそう表現するようになったのか。そうした言葉には歴史的な経緯がある。普段は経緯を知らずに使っているが、それを知ることで言葉をもう少しうまく使えるようにする。これが美学の仕事の一つだという。
「違い」を扱い、「私の中の他者」を扱う
二つ目の定義「違いを扱う学問」について、伊藤は、感性は基本的に微妙な違いが分かるかどうかに関わると説明する。感性が敏感でない時や人にとっては、どのコーヒーでも同じだ。違いを敏感に感じているとき、人は感性で感じている。問題は、対象の違いをキャッチできるかどうかが、そのまま人間の側の違いにもなってしまうことである。敏感な人だけが分かる、分かる人と分からない人がいる、という形で、感性は人の間にも差を作る。伊藤はここがポイントだと述べた。
三つ目の「私の中の他者を扱う学問」は、なぜそう判断したのか自分でも分からないのに、はっきりそう思っている、という感性の性質に関わる。伊藤はこれを「ちょっと不気味」だとしつつ、そこが面白いと言う。自分でコントロールできないものが自分の中にある、という感覚である。
佐々木は、人を美しい、醜いと感じる感覚も、結局は社会が決めたものを自分の感想のように言っているだけなのかと尋ねた。伊藤は、そういう部分もあると認めつつ、そうではない部分も見いだしたいと答える。判断の背後には社会や歴史がある。しかし感性には、そうした枠組みを超えていく力も同時にある。両方の側面を見る必要がある、というのが伊藤の考えだ。
両者を見分けられるようになるのかという問いには、自分でも驚く経験を例に挙げた。それまで興味のなかったことに突然興味を持つ。美味しいと思っていなかったものが急に美味しく感じられる。「こんなふうに感じる回路が自分にあったのか」という瞬間は、自分が変わるきっかけになる。伊藤は、そういうときは枠組みの外に「ピュッと出た」のではないかと述べた。
ルッキズム――「見た目で判断してはいけない」は正しい、でも人はやってしまう
「なぜ人は人を美しい、醜いと思うのか」という問いに対し、伊藤はまず、すぐに答えを求めること自体が良くないのだろうと笑いながら、次のように説明した。「美しい」「醜い」はかなり単純化された感想である。実際には人は、この人はいい人そうだ、長く付き合いたい、今日だけの関係でいい、といった計算をつい行っている。そしてその判断の一部は、どうしても見た目に頼っている。
伊藤は、現在は「あるべき」「正しさ」をめぐる議論が非常に多いと指摘する。ルッキズムでいえば、人を見た目で判断してはいけないという主張は正しい。しかし人は、正しいと分かっていてもやってしまう。その部分をどう抑圧せずに扱い、そこにある良い可能性を取り出していくか。本書が向かいたい方向はそこだという。
ルッキズムが最近特に強まっているのはなぜかと問われ、伊藤は社会運動の歴史を例に挙げた。黒人たちが「ブラック・イズ・ビューティフル」という言葉を使い、それまで否定的に語られてきた黒人の身体の見た目について、特有の美しさがあると主張して社会の目を変えようとした運動である。当時は「ルッキズム」という言葉はなかったが、同種の運動はあった。社会運動では権利や法律の問題が注目されがちである。しかし権利や法律の問題がいったん落ち着くと、見た目の問題が浮上する。権利としては認められても、身体としては受け入れられていない、という状態が残るからだ。伊藤は、これが繰り返されてきたパターンで、ルッキズムという言葉がない時代からずっと問題だったのだろうと述べた。
美醜の基準は変わる――それは「いいこと」
美醜の基準は時代を超えて固定されているのか。伊藤によれば、美を時代を超えて定義したいという立場の人もいて、黄金比のような考え方は昔からある。そうした普遍的なものがベースにある可能性はある。しかし、その上に乗っている文化的な要素は時代ごとに変わるので、絶対的ではないと伊藤は考えている。
痩せている方がよいという価値観について、伊藤は、「太っているのは悪だ」という流れは歴史的に長く、遡ると16世紀頃まで行き着くと説明した。その後、太っているのは良くないから体をスリムにしなければならないという考えが出てきて、アメリカのプロテスタント的な禁欲主義の価値観などと結びついていった。日本ではやはり戦後に出てくる、という。江戸時代にはふくよかな人の方が人気だったという佐々木の指摘にも、伊藤は同意した。
伊藤は、人間の趣味が変わっていくことを「すごくいいこと」だと評価する。現在醜いとされているものも、美しく見える可能性が常にあるということだからだ。変化のきっかけについては、何か特殊な事例があり、それをメディアが一気に広めて変わっていくのではないか、と伊藤は推測している。
佐々木は、男性については古代ローマの彫刻から現代まで、筋肉のある体がかっこいいという基準があまり変わっていないのではないかと問うた。平成期にいったん緩んだものの最近は鍛える人が増えており、戦争の増加や、AIに知性が代替されるなかで身体性が見直されていることが背景にあるのではないか、という見立てである。これに対し伊藤は、最近はむしろ緩んできていると感じると答えた。勤務先の大学には理系の学生が多く、もともと体力で勝負していない学生が多い。そのため性別の規範から意外と自由な学生もいて、おそらく男子学生だが服装は女性的だったり、メイクをしていたりする学生もそれなりにいる。自分の学生時代と比べると、だいぶ解放されていると感じるという。
AIが差し出す「最適解」と、抑圧される感性
AIによって美学や人間の捉え方はどう変わるのか。伊藤は、「AI時代の〇〇」はもういろいろなところで聞かれてうんざりだろうと前置きしたうえで、感性が抑圧されていると感じていると述べた。AIは最適解をくれる。人間の判断が最適解に乗っ取られていくことは、かなり危険だと伊藤は考えている。
伊藤が最近読んだ本として挙げたのが、パランティアのアレックス・カープによる『テクノロジカル・リパブリック』である。伊藤によれば、同書では「美的判断」という言葉が使われており、そこが面白かったという。同書の議論を伊藤は次のようにまとめた。人々は信念を失っている。真善美のような大きなものについての価値判断を警戒し、自分はこれがいいと言うとすぐに叩かれるため、自分にとっての美しさや良さを口にしないようになった。その結果、信念のない状態に陥っている。では信念をどう取り戻すのか、というときに「美的判断」が出てくる。
伊藤は、あらゆるものに同等の価値があるとする相対主義的な時代には、特定の強い判断が暴力的に映ったり、非常にリスキーに見えたりすると述べる。それは人間の進む方向として正しいのかもしれない。しかし、それで本当に進む意味があるのか、面白いのか、という基準で考えると、信念や、最適解ではない価値を、意思決定として選び取れることが大事なのではないか。伊藤は、そうした問題意識を持つ人にこそ本書を読んでほしいと語った。
ただし伊藤は、どうすればそれが可能になるのかまでは本書に書けていないと認めている。美的な判断は根拠を言えない。それを会社などの意思決定の中心に置いてしまうと「結構やばいことになる」。どうすれば美的判断を取り戻せるのかが、いま気になっている点だという。
信念を共有する共同体と「ホーム」としての文化
説明責任がある場では感覚だけでは通用しない、という佐々木の指摘に伊藤も同意する。伊藤によれば、カープの本では、それができるのはオーナー企業か国家のどちらかだと書かれており、カープ自身は国家の方を選んでいく。伊藤はこれに対し、信念を共有する共同体をうまく作ることが鍵であり、それは国家かもしれないが、もっと小さな規模でもできるのではないかと考えている。共同体の中で「自分たちにとってはこれがいい」という感覚をなんとなく共有できれば、美的判断も共有できるようになる。そうすれば、それが暴力的な意思決定にはならないのではないか、という見立てである。
感性を共有する方法論についても、伊藤はあまり議論されていないと指摘する。ビジネスに感性が重要だとはよく言われるが、話は「アート作品を鑑賞しましょう」に行き着きがちで、意思決定に感性をどう関わらせるかまでは議論が及んでいない。そこが気になっているという。
佐々木が文化との関係を尋ねると、伊藤は、文化とは自分にとっての「ホーム」のようなものだと答えた。環境として整えられていると、ほっとする、安心する、ここが自分のホームだと思える、ということである。家族と同じ空間で過ごすうちに感覚が似てくる、という佐々木の例に対して、伊藤は、それが同質性につながるのは良くないとしつつ、ベースとしてのホーム感を共有できる共同体があるといいのではないかと述べた。知性による答えが収束していくなら、文化の部分が感性にとって重要になるのかもしれない、とも話した。
AIが学べる感性、学べない感性
AIは感性を持つのか。伊藤は本書で、社会的に規定された感性と、そこから逸脱していく感性の二つを分けている。前者についてはAIも学習できるし、すでに学習しているだろうと伊藤は考える。しかし後者、つまり自分から新しい美を発見するようなことは、あまりありえないような気がするという。
では人間に残される価値は何か。伊藤は、人の魅力に心を持っていかれてしまうことだと答えた。弱さでもあるが、思ってもみなかったところで何かに魅力を感じ、人生が変わってしまう。そうした部分は人間ならではだという。佐々木が恋愛のことかと尋ねると、恋愛もそうだが、その恋愛もいまは最適化され、後退していると伊藤は付け加えた。
ただし、対象は人に限らない。食べ物でもいい。伊藤は、高校生の息子が急にぬいぐるみに目覚めた例を挙げ、そういうことでもいいと述べた。それまで自分の世界になかったものにパッと出会い、飛びつく力が感性にはある、というわけだ。
本書後半のテーマである「エロスから愛へ」についても話が及んだ。身体の魅力というと性的なニュアンスが強く、すぐ恋愛の話になりがちである。しかし時間をかけて相手を知っていくと、身体として捉えていたものの背後に、その人の人生、歴史、価値観が見えてくる。そうなると、それは単なる性的な興味ではなく愛情になっていく、と伊藤は説明した。また、見た目がどれほど重要かという問いには、最初から美しいと思わなくても、何か「引っかかる」ことをきっかけに好きになることがあるので、単純に美しいから好きになるわけでもないと答えている。
影響されることも大事、そこから飛び出すことも大事
感性は知性より多様なのか、それとも誰もが認める美男美女のように収束していくのか。佐々木の問いに、伊藤は、本人たちは自分がいいと思ったと言うだろうが、かなりの部分はそう思わされているだろうと答えた。ただし伊藤はそれを否定しない。みんなに影響されてしまう力は、共同体としての文化を作る力であり、それはそれで大事だという。ただしその力は多様性をなくす方向に働く。だから、そこから「ぴょんと」出ていく力も同時に見ていきたい、というのが伊藤の立場である。
では社会の多様性に向けて美学をどう生かすか。伊藤がまず挙げたのは、正しさからどう距離を取るかである。正しさの呪縛は非常に強い。正しさは重要だが、もう一つ別の軸を持ちたい。それが社会の多様性につながるのではないか、と伊藤は言う。真善美ほど大きな話でなくてもいい。自分の感じたことを抑圧しなくていい、他人の感じたことにいちいちジャッジしなくていい、そういう領域があってもいいのではないか。
好き嫌いを出しやすくすることかと問われると、伊藤は、好き嫌いになると喧嘩が起きると笑いつつ、その喧嘩も大事だと述べた。感じたことを言語化してすり合わせる。自分の感じ方にバイアスや差別的なものがあれば、直す努力はするべきだ。ただし、それは簡単には直らないということも同時に自覚した方がいい、という。
佐々木は、マスメディア一辺倒の時代と違い、今は好きなものを深掘りする手段が多いと指摘した。これに対し伊藤は、今は何にでも名前をつけ、「〇〇派」のように派閥化して言語化し、自分のプロフィールにしていく傾向があると述べた。学生を見ていると、自分を定義しなければならないというプレッシャーも感じるという。そうなると、感性というよりカテゴライズの話になっていく部分もある。カテゴライズはやめた方がいいのかと問われると、伊藤は、それはそれで文化なので難しいと答え、この点は答えを出さないままにした。
最適解が「虚しい」フェーズと、感じることが持つ回復の力
ビジネスパーソンへのメッセージを求められ、伊藤は、最適解を選んでいくことが虚しく感じられるフェーズが訪れるのではないかと述べた。佐々木は、すでに来ている気がする、ずっとやっていると飽きると応じた。伊藤は、さまざまなことのコストが下がった先に、何のために生きているのかという本質的な問いが出てくるのではないかと考えている。
伊藤は、感じることは単純に言えば人を元気にし、生きていく力になると言う。その根拠として挙げたのが、病気の人の回復過程を見てきた経験である。それまで自分の世界に入っていなかったものをパッとキャッチし、「これはいい」と感じられることが、回復過程のステップとしてよくあるという。だからこそ、感じる力が死んでいくのは人間にとって良くないのではないか。自分が変わっていける力、新しいものに出会う力をずっと磨いていきたい、と伊藤は語った。
佐々木が「知性がCPUなら感性はセンサーか」とたとえると、伊藤は、どういう環境に置かれてきたかを背負ったうえでのセンサーだ、と補足した。感性には文脈と歴史がある、ということである。
感性を磨くには「一度言葉を忘れる」
感性を日常的に鋭敏にするために何ができるか。伊藤の答えは「一度言葉を忘れる」ことだった。言葉にできない状況に身を投げ込む、行ったことのない場所に行く、ショックを受ける。伊藤は本書で「降伏(サレンダー)」の経験を取り上げており、それまでの言語的な枠組みでは説明できないところに行ってみる経験が大事ではないかと述べた。
ここで紹介されたのが、アメリカの哲学者ジョン・デューイによる美的経験の分析である。デューイは「再認」と「知覚」を区別した。再認とは、社会的な枠組みに乗ってその範囲内で物事を処理する、効率重視の認識の仕方である。知覚とは、そうした枠組みではなく、対象と本当に新しく出会っていく経験を指す。再認ばかりしていると「つまらない人になってしまう」と伊藤は言う。ただし、知覚は意識的にやるものというより、やってくるもの、圧倒されてしまうようなものだろうとも付け加えた。
体を動かさないと知覚は起きないのか。伊藤は、動いた方が確率は高い気がすると答えた。パソコンの前での知覚については、知覚とは「やばい」という感覚だと思うが、パソコンの前ではあまりそう思わないし、電源を落とせばなかったことにできてしまう、と述べている。伊藤自身も子どもに「パソコンばかり見て」と怒られるそうで、パソコンの前での知覚もゼロではないとしつつ、あまり良くないと認めた。
一方で伊藤は、単に「身体性が大事」と言いたいわけではないとも断っている。それは保守的な主張にも聞こえるからだ。伊藤が強調するのは経験である。情報として知ることと、経験が持つ厚みとは違う。デューイのメッセージについては、プラグマティズムの立場から、そうした経験を重ねることが人間としての成長の姿だと考えていたのだろう、と伊藤は説明した。
着ぐるみの集まりで体験した「知覚」
美的経験の例として伊藤が挙げたのは、まったく違うコミュニティに行ってみることだった。伊藤は2年ほど前、全身着ぐるみを愛好する人たちの集まりに参加したという。動物が好きな人たちが自分で着ぐるみを作り、その姿で数百人、数千人規模で集まる。伊藤にとっては「すごく知らない世界」だった。
そこではコミュニケーションそのものが動物的で、あまり言語を使わず、初対面でもハグをする。伊藤は人間の姿で参加したが、それでも受け入れてもらえた。その文化を少しずつ知っていくなかで、それまで当たり前だと思っていたことが全部役に立たなくなる。すると、すべてが鮮やかに飛び込んでくる。この人のこの振る舞いは何のサインだろうと、いちいち理解しようとするようになり、物事を当たり前にスルーしなくなる。伊藤はこれを対象への「降伏」のような経験だと語った。着ぐるみの集まりに行くことが重要だと言いたいのではなく、まったく違うカルチャーに接することが、知覚としての美的経験になるのではないか、という趣旨である。
知覚を重ねると、人を大事にできるようになる
こうした経験を重ねると人はどう変わるのか。伊藤は、相手をとても大事にできるようになるのではないかと答えた。再認は、ある意味で相手をラベルで見ることである。この人はこういう人だ、と。これに対して知覚は、その人を世界で唯一の、歴史も含めて大事な存在として見ることだ。そういう目で見られたら嬉しいし、相手をそういう目で見られれば深いつながりができる、と伊藤は言う。
ステレオタイプで決めつければ、行為や決断の正確さや効率は上がる。しかし目の前の個別性が見えなくなる。一方で伊藤は、毎回相手を個別に見ることはできないので、両方必要だとも認める。問題は再認の側に偏りすぎることだ。佐々木が、年を取ると再認が増えるのではないかと言うと、伊藤は、人生経験の分だけ「再認すればいい」となりがちだと応じた。経験が知覚の邪魔をすることもある、ということである。
人は楽な方に流れる。どうすれば知覚を楽しめるのか。伊藤は、着ぐるみの集まりも人に誘われて行ったものだと明かしつつ、デューイの整理に触れた。知覚は目的が内部にあり、それをすること自体が楽しい。再認は目的が外側にあり、何か別の目的を達成するために行う。やっていること自体を楽しめるかどうかが、知覚を可能にする分かれ目ではないか、と伊藤は述べた。
会議にも感性は働いている――日常の中の小さな逸脱
佐々木は、同じ会社、同じオフィス、似た人ばかりという定型化された日本の生活の中で、どうすれば苦痛ではなく内側からの衝動として逸脱的な感性を取り込めるのかと問うた。伊藤が手がかりとして挙げたのは、自身が行っている会議の研究である。組織の会議を参与観察しているという。
伊藤によれば、会議は知的な活動だが、同時に感性もかなり働いている。「なぜ今そっちに話が行ったのか」というような、合理的ではない部分がいろいろある。無駄な会議が多いのではという佐々木の冗談に対して、伊藤は、その無駄が文化を作っている部分もあるかもしれないと答えた。一見スピーディーに進む会議でも、感性的な判断はいちいち行われている。たとえば何かが報告されたとき、組織がそれを「いいね」と受け止めるのか「めんどくさいね」と受け止めるのか。それはその組織の風土であり文化だという。
会議によっては、それが意識的に表出されている。誰かが発表するたびに上司的な立場の人がいちいち反応する会議がある。伊藤はそれを、感性的な判断をみんなで共有していこう、カルチャーを作っていこうという動きだと見る。会議は意思決定の場であると同時に、組織そのものを作る場でもある。そこには感性が関わっている。一方で、カルチャーから外れるような発言が出たとき、議論がわっとそちらに流れることもある。
ここから伊藤は、非日常的な経験をしなくても、日常の会議の中で組織のカルチャーを意識しつつ、そこから少し外れたことを小さく起こしていくことはすぐにできるし、そちらも重要なのではないかと述べた。
感性から遠い人に読んでほしい――資本主義と美学の関係
最後に、本書をどんな人に読んでほしいかを問われ、伊藤は、感性というと芸術の話だと思われがちだが、芸術に親しんでいる人はもちろん、感性と関係のない仕事や専門を持つ人にこそ読んでほしいと答えた。そうした人は感性を抑圧しているかもしれず、その抑圧に気づくことで変化が起きるかもしれないからだ。
佐々木は、効率と正解を求める資本主義の中で、みんながそれを目指すほど美学を追求することが差別化や競争力を生むのではないかと問うた。伊藤は、差を作り出すという意味では大きな強みになると同意し、逆にそれを持っていないと自分で判断できなくなる、自分の中に基準がなくなってしまうと述べた。
そのうえで伊藤は、自身が子どもだった80年代には、広告がもっとかっこいいものとして認識され、新しい感性を常に発掘していたと振り返る。いまの広告には感性的な実験があまりなくなり、広告はなるべくない方がいいという風潮にもなっている。伊藤はそれを「残念」だと述べ、資本主義の中で新しい感性に出会っていく可能性はいろいろあるはずだと語った。佐々木が、デジタル化で効果の数値化が進み、そうしたものが評価されにくくなっているのかもしれないと応じたところで、対談は締めくくられた。
今回のPIVOTトークは美学をテーマにお話を伺います。
日本ではあんまりこの学問として認識されてない。感性を扱う学問として成立したっていうことですよね。最終ゴールはいい人間にどうやったらなってくかっていうのは、どの時代も変わらないと思うんですよね。言葉にしにくいものをあえて言葉を使って分析する学問。
AIが美学とか人間の捉え方ってどう変わっていくと見てらっしゃるんですか? 感性がなんか抑圧されてるなってことは思っていて。最適解を選んでいくっていうことが虚しいっていうフェーズが訪れるんじゃないかな。
感性を豊かにしていくってために、どういうことを普段からできるんですかね。
1回言葉を忘れるっていうのはいいんじゃないですかね。言葉にできない状況に身を投げ込むとか。
皆さんこんにちは。PIVOTの佐々木です。今回のPIVOTトークは美学をテーマにお話を伺います。ゲストにお迎えしましたのは東京科学大学教授の伊藤さんです。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
美しいと書いて美学ということで、私も定義とかあまり知らなかったんですけど、今回この『身体の美学入門』ということで、美学っていう学問はもう今かなり広がってきてると言いますか、結構新しい学問なんでしょうか? どうなんでしょうか?
そうですね。一応ヨーロッパで18世紀……。日本ではあんまりこの学問として認識されてないみたいな感じですよね。
美学っていうテーマで、元々ご専門ですけど、今回この入門っていう形で出されようと思った理由っていうのはどこら辺にあるんでしょうか?
あまりにも知られていないので。まずは入門からって思ったんですけど、でも入門って多分1番難しくて。専門の人に1番大事な部分を分かりやすく伝えるっていうことなので。難しいことを簡単に言うっていう本にしたつもりです。
そういうことですね。今日はこの美学をテーマに、感性から捉え直す人間の本質ってことで、今感性が大事だ、知性だけじゃなく感性の比重が高まるみたいな話もよくする中で、感性とは何か、そこを社会の文脈で捉え直すってとこも含めて是非お話を伺えればと思うんですけど、まず最初にこの美学とはという定義で、いろんな定義が書かれてたんですけど、感性を扱う学問である、違いを扱う学問である、あと私の中の他者を扱う学問であるということなんです。美学とは簡単に言うと何なんでしょうか?
感性を扱う学問として成立したっていうことですよね。18世紀中頃にヨーロッパで成立したって申し上げたんですけど、それまではあんまりちゃんと扱われてなかった。というかなんか、ない方がいいよね、ぐらいの。
あ、そんな感じだったんですか?
感じだったんですよね。やっぱり人間の知性が最も優れたもので良いもの、良い認識能力だったんだけど、感性ってなんかすごいいい加減で、ちょっと邪魔するものっていうか。
原始的なものみたいな感じなんですか?
原始的だし、割とその場その場に流されちゃうみたいな感じなので、感性に流されないようにどう認識するかみたいな、割と邪魔者扱いだったんですよね。それがちょっとずつ変わっていって、感性もそれなりにいいんじゃないかみたいになってった時に、それが学問の対象になったっていう感じですね。
元々人間って、理性とか知性とかそういう概念っていつ頃からあったんですか? 元々は感性の方が強いっていうか、感覚で動いてる部分の方が古代は多かったんですかね? そんなわけではないんですか?
そうですね。そもそも能力に分解しようっていうモチベーションがなんか面白いですけど。
そう、確かにそうですよね。
そうですね。だから最終ゴールはいい人間にどうやったらなってくかっていうのは、どの時代も変わらないと思うんですよね。そうなってく時にどこを伸ばして、どこをちょっとセーブしてみたいなことを凸凹整理してく中で、感性にはちょっと黙っといてもらおうみたいな流れがやっぱ多かったっていうのが歴史的な背景だと思います。
その意味ではこの感性と知性の定義みたいなもの様々あるかなと思うんですが、この本の中でも紹介されてたライプニッツによる認識の分類。これかなり分かりやすくまとめられてるんで、ちょっとご説明いただいてもいいですか?
はい。ライプニッツたちがこの人間の認識能力を整理して、その中に感性もそれなりに重要だよねっていう風に、感性の社会的地位をアップするのにすごい貢献したっていう図なんですけれども。人間の認識能力で、優れてるものとそれほどでもない認識能力って上位と下位っていうのがあって、上位が知性なんですよね。で、下位が感性だ。だから認識能力だけど、感性は一応下位だよねっていう位置付けだったんですね。
あ、そうなんですか。
どこが違うかって言うと、知性っていうのはなんでそう判断したかっていう根拠が言える。例えば、目の前に昆虫とかがいて、その昆虫が蝶なのか蛾なのかっていうのがあった時に、自分は蝶だって思ったとしますよね。で、それはなんでですかって言われたら色々言えると思うんですよね。そういう風になんでって言われたらこうですって言えるのが知性の認識能力の働き方。それに対して感性っていうのは、例えば芸術作品を見てこれすごいいいなって思った気持ちははっきりしてるんだけど、なんでですかって言われるとなんかうまく言えない。はっきりしてるんだけど根拠は分からんみたいなのが感性の特徴で、そこが違いなんですよね。
その意味で言いますと、言語化できるかっていうのは大きい違いなんですか?
大きいと思います。私、美学を一般の方向けに説明する時は、言葉にしにくいものをあえて言葉を使って分析する学問っていう説明の仕方をしてます。
そうすると感性自体も別に言語化できないわけじゃないってことなんですね。
そうですね。言語化することでなんか大事なものが失われてくケースもあると思いますよ。
ありますね。
どうしてこの作品いいと思ったんですかって、言えば言うほどなんか信用できなくなるみたいな。
分かりますよね。料理とかもそうですよね。
あるとは思うんですけど、でもその言葉と仲は悪いからこそお互い切磋琢磨できる部分があって、感じたことも言葉にすることでより深まってくし、逆に言葉の方も感性で感じたことをちゃんと言語化しようと思ってすごく洗練されてくっていうのがあると思うんで。仲悪いものをうまくぶつけながら切磋琢磨してく学問かなって思ってます。
そういうことですね。ちょっと図に戻りますと、認識で明晰と曖昧ってありますけど、明晰は自分で明確に感じることができるっていうもので、これが曖昧だともう知性でも感性でもなくなっちゃうんですか?
そうですね。曖昧は単純によくわからんっていう。
よくわかんないけどなんかすごい感じるなみたいなのあるじゃないですか。あれって感性にならないんですか?
それは一応美学の対象にはなると思いますけど、でも明晰じゃないですね。曖昧な方ですね。
曖昧すぎるということですね。明らかな違いを感じないといけないわけですね。
そうですね。
それが明晰ってことなんですね。あ、そういうことか。で、明晰な上で知性と感性があって、そこが判明している、根拠が言える。これってロジカルってこととは関係するんですか?
働き方が論理的に言えるっていうのが知性ですね。
そうか。だからここの認識の根拠をちゃんと論理で言えないと、ただ単にそれが好きだからとか、そういうのじゃ知性じゃなくてやっぱ感性になっちゃうんですね。
そうですね。
ああ、そっか。私の知り合いとかでもえらく言語化がうまくて何でも言語化できる人とかいるんですけど、やっぱそういう人は知性が発達してるってことなんですか?
そういうわけでもない。それが感性を貧困にしてるかどうかよくわかんないんですけど。でも人によってどっちがより優位かって多分あると思いますね。
言語化イコール知性ではないんですか? 感性も言語化できるっていうのが美学の1つの考えなわけですよね。言語化は感性にも知性にも両方役立つって考えていいんですか?
両方役立つと思います。ただそれが論理的に説明できるっていうわけでもないっていうのは感性ですよね。
確かに。料理とかを表現する時って別に論理じゃないですもんね。
そうですね。
自分の感情とかをうまく言語化できるっていうことが美学なんですか? 感性っていうか美学というか。
そうです。そこを目指している学問ですね。
ああ、そういうことなんですか。今日のテーマじゃないですけど、どうやったら感性って言語化ができるようになっていくんですか?
1つは、みんな結構言語化してると思うんですよね。単純に言うと形容詞をいっぱい使ってると思うんですね。美しいとか可愛いとかかっこいいとか。その感性を表現するための言葉をちゃんと磨いてくみたいなことが1つ大事な作業かなと思いますね。
確かにそういうことか。例えば暑いとかでも、ただ暑いっていうだけなのか、うだるような暑さだとか、なんかに例えて、フライパンの上にいるような暑さだとかそういう感じで。
そうですね。そういうのも入ると思います。
文学に近いんですか? ちょっと。
文学に近いんですけど、それを科学としてやろうとしてて。例えば歴史的な経緯とかがあるわけですよね。どうしてその暑さをこう表現したのかみたいな歴史的な経緯を知らないで使ってるけど、それを知ることで、もうちょっとよく使えるようにするみたいな。
そういうことですね。それで言うと、感性を扱う学問であると、違いを扱う学問っていうのはどういう意味なんですか?
感性って基本的に微妙な違いを分かるかどうかっていうとこに関わってくると思うんですけど、あんまり感性が敏感じゃない時とか人っていうのはなんか何でもいいみたいな。どのコーヒーでもいいみたいな感じだと思うんですけど、敏感に違いを感じてる時っていうのを感性で感じてると思うんですよね。なので、感性っていうのは基本的に微妙な違いをキャッチできるかどうか。で、問題は、対象の違いをキャッチすることが結構人間の違いを言うことになっちゃうので。つまり敏感な人だけが分かるみたいな、分かる人、分からない人みたいな人間の側の違いも作ってくっていうところがポイントかなと思いますね。
違いを扱う。私の中の他者を扱う。これはどういう意味ですか?
これはつまり、なんでそう判断したかが自分でよくわからないけど、はっきりそう思ってるわけですよね。この作品はいいみたいな。ちょっと不気味だと思うんですけど、でもそこが私は面白いなと思ってて、自分でコントロールできないものが自分の中にあるっていう感じですね。
ここにも「なぜ人は人を美しい・醜いと思うか」って書かれてますけど、なんとなく感性で感じてるような、この人は美しい、醜いっていうのも、基本的に社会に決められてるっていうか、私の中の他者によって決められている感覚を単に自分の感想のように言ってるに過ぎないっていうことなんですかね。
そういう部分もあると思うんですけど、そうじゃない部分も見出したいなと。やっぱり判断してる背後には社会とか歴史とかもちろんあると思うんですよね。けどそういう枠組み的なものを超えてく力っていうのも同時に感性にあると思っていて、その両方の側面っていうのを見てく必要があるのかなと思います。
美学を極めていくと、これは他者の感覚を自分のことのように言ってるだけなのか、本当に自分の内面から出てきたものなのかってのは、分けることもできるようになってくるんですか? 意識していくと。
自分でもびっくりすることってあると思うんですよね。それまで全然興味なかったことにいきなり興味を持つとか、それまで全然美味しいと思ってなかったものが急に美味しいと思えるとか、自分の中でも、こんな風に感じる回路あったんだみたいな。そういう自分が変わってくきっかけにもなると思っていて、そういう時って多分、それまで枠組み的に感じてたものの外にピュッと出たっていうことなのかなっていう形では感じられると思います。
分かりました。美学の定義を伺ったんで、この上でちょっとテーマについて聞いていきたいんですけど、まずここに戻ると、なぜ人は人を美しい、醜いと思うか。この答えって何なんですか? って、こうやって答えをすぐ求めること自体が良くないんだと思うんですけど。
美しい・醜いってのはすごい単純化した感想なんですけど、この人いい人だなとか、この人とは長く付き合っていきたいなとか、この人とは今日この場限りでいいよとか、そういう計算をついついしてしまうと思うんですね。そういうことって結構見た目で判断してるっていう部分はどうしてもあるんじゃないかと思って。この本の持っていきたい方向性としては、こうあるべきとか、正しさみたいな議論がすごい今多い。
確かに正解を求めようとしますね。
そうですね。正解もそうだし、道徳的に正しい。例えばルッキズムとかも、人を見た目で判断してはいけないっていう。それは正しいです。正しいけどでもやってしまうっていうのが絶対出てくるので、いかにそこを抑圧しないで、その部分のいい可能性みたいのを取り出していくかっていうところに注目したいなっていう感じですね。
ルッキズムって昔からあると思うんですけど、特に最近強いですよね。これなんでですか?
いろんな社会運動の中にルッキズム的な要素ってのはたくさんあったと思うんです。本の中で、例えば黒人の人たちがブラック・イズ・ビューティフルっていう言葉を使って、それまですごく否定的に語られてきた黒人の体の見た目っていうのを、自分たち自身が、いやそんなことない、黒人の体特有の美しさがあるんだっていう風に言って、社会の目を変えてくみたいなことはあったんですけど、その時はルッキズムって言い方はしてなかったけど、そういう運動はあったわけですよね。社会運動って権利の問題とか、法律変えるぞみたいなものが結構フィーチャーされがちなんですけど、そういう法律、権利の問題が一旦落ち着くと、見た目の問題が結構出てきて、権利的に認められても体的に受け入れてもらえてないみたいなことが残るわけですよね。そういう意味ではある種の繰り返されてきたパターンがあって、その中でルッキズムって言葉はなかったけど、ずっと問題になってきたってことかなと思いますね。
それも含めてこの問いとも絡むんですけど、時代と美醜ってことで言うと、美しい・醜いの基準もどんどん変わっていくんですか? ある程度固まった、時代をまたがって美しいものだみたいな基準もやっぱりあるんですか?
美を時代を超えて定義したいっていう立場の人もいるんですけど、それはもしかしたらベースにあるかもしれないけど、その上に乗っかってる文化的な要素っていうのは時代時代でやっぱり変わってくると思うので、絶対的ではないのかなと思いますね。
超えたものはあんまりないんですか? それは人の派閥によって違うって感じなんですか?
そうです。黄金比とか色々昔から、そういう考え方はありますよね。
例えば女性が痩せてる方がいいみたいなダイエットブームとか、ああいうのっていつからなんですかね?
それもすごく歴史的には長くて、太ってるのは悪だみたいな流れって、すごく遡ると16世紀ぐらいまで遡れるんですよね。だんだん太ってるのは良くないから体をスリムにしなきゃいけないっていうのが出てきて、アメリカのプロテスタント的な禁欲主義的な価値観とかと結びついたりしてできてくるんですけど、日本だとやっぱり戦後ですよね。そこに出てくる。
江戸時代とかちょっとふくよかな人の方が人気でしたよね。
そうですね。でもそうやって人間の趣味が変わってくっていうのはすごいいいことだなと思ってて。つまり現状で醜いと思われてるものも、美しく見える可能性は常にあるっていうことなので。なんかきっかけがあってっていうことなんですかね。特殊な事例があって、それをわっとメディアとかが広めて変わってくってことなのかなと思いますけどね。
メディアが決めるんですかね。確かにメディアの影響は大きそうですよね。例えばなんですけど、男性の場合は昔のローマの時代とかから、カエサルとか見ててもムキムキじゃないですか。それで体がかっこいいっていうのがあんまり変わってない気もしまして。むしろ痩せてるイケメンみたいなブームもあったと思うんですけど、またちょっと体を鍛える人が日本とかでも増えてたり、特にアメリカなんかみんな鍛えてますよね。
そうですね。
だから男はある程度筋肉があって強い方がいいみたいなのって結構普遍性があんのかなとかって思ったり。そういうのってどうなんですかね。身体と美学っていう意味で言いますと。
でも最近はね、だんだん緩んできてもいいのかなっていう気が。
そうですよね。平成は緩んだ気がするんですけど、最近またちょっと鍛えた方がいいっていうような。それは例えば力みたいなものを使わなきゃいけないシーンが、逆に世界で戦争とかも増えてるじゃないですか。何が起きるかわからないっていうところの人間の本能的な危機感だったり、もしくは、後で伺いますけど、AIなんかによって知性が奪われる中で、やっぱり身体性みたいなものが重視されるので、そこをもう1度磨き直さなきゃいけないみたいな、そういった時代の潮流もあるのかなと思うんですけど。そういうとこどうなんでしょうね。
大学の学生とか見てると、理系の学生が多いってこともあって、あんまりマッチョ信仰ない。
信仰ない。
そうですね。元々そっちで勝負してない感がある学生たちが多いので、そうすると意外とジェンダー規範から自由な子とかも。多分男の子なんだろうなって思うけど服装は女の子だったり、メイクしてる子とかもそれなりにいるので、私の頃から見るとだいぶ解放されてるなっていうのは思いますね。
ああ、そういうことですよね。それもまた変わるかもしれないっていうのが美学の面白いところですよね。そしたら時代時代の雰囲気とかメディアとかによって影響していくということですよね。この文脈で言った時にも、AIが進化することによって美学とか人間の捉え方ってどう変わっていくと見てらっしゃいますか?
AI時代のなんとかって、もういろんなとこで聞かれてうんざりだと思うんですけど。
そうですね。何を押さえようかなって感じなんですけど。でも感性がなんか抑圧されてるなってことは思っていて。
あ、そうですか。
それをどういう風に引き上げられるのかなっていうことは考えてるんですけど、つまりAIって最適解をくれるじゃないですか。人間の判断が最適解に乗っ取られていくっていうのは結構危険なことかなと思っていて。最近読んだ本で、カープの『テクノロジカル・リパブリック』。
パランティアのですね。
そうです。そこに、最終的判断でしたっけ、エステティック、美学って言葉が使われていて、すごい面白いなと思ったんですよね。あの本の中では、みんな信念を失っていると。真善美みたいな大きいことに対する価値判断っていうのをみんな警戒して、つまり自分はこれがいいっていう風に言うとすぐ叩かれるし、なるべく自分にとっての美しさとか良さみたいなのを言わないようになっていった結果、信念がない状態になってると。じゃあそこからどうやって信念を取り戻していくかってなった時に、その最終的な美的判断って書いてあって。そうなのかってまず面白かったんですけど、すごい相対主義というか、どんなものも同じ等しさがあって、それゆえに特定の強いジャッジをすることがすごい暴力的に映ったり、すごくリスキーに見えたりするっていう時代の中で、でもそれって人間が進んでく方向として、本当に正しいかもしれないけれども、本当に生きる意味があるのかというか、面白いのかみたいな基準で考えた時に、もう1回その信念であったり、最適解じゃない価値みたいなものをちゃんと意思決定として選択できるようなことっていうのは大事なんじゃないかなと思っていて、そういう問題意識を持ってる人に実は読んで欲しいなと思っている本なんですよね。
特にビジネスパーソンとか、ロジカルシンキングとかどうしても正解を求める形に行きがちですもんね。
そうですね。でもどうやったらそれができるのかみたいなところまでは、ちょっと本の中にも書けていなくて。つまり美的な判断って根拠を言えないわけじゃないですか。
そうですね。
それをいろんな会社とかの意思決定の場の判断基準の中心に置いちゃうと、結構やばいことになると思うので、どうしたらそれをもう1回取り戻せるのかっていうことはすごい今気になってるとこですね。
その意味で言いますと、説明責任がある場所では絶対感覚的なものだけだと無理な……。
なっちゃいますね。人を説得しなきゃいけないっていう。カープの本の中では、いわゆるオーナー企業はできるだろうって書いてあって。
そうですよね。
オーナー企業か国家どっちかだみたいなことは書いてあって、結局彼は国家の方を選んでいくんですけど。だからある種の信念を共有する共同体みたいなのをうまく作っていく。それは国家かもしれないけど、もうちょっと小さいサイズでもできるような気がするんですよね。
確かに。
そういう共同体の中で、自分たちにとってはこれがいいよねっていうのをなんとなく共有していくことができれば、多分その美的な判断も共有できるようになって、それが暴力的な意思決定にはならないと思うんですよね。
じゃあ、美学や感性を共有するにはどうしたらいいんですかね? 言語もあるでしょうし、一緒に過ごすってのもあるでしょうし。
確かにその方法論であったり可能性ってあんまり議論されてないですね。色々ビジネスに感性が重要だとかって言われるけど、意外とアート作品を鑑賞しましょうみたいな話になっていたりとか、あんまり意思決定の部分でどう感性を関わらせるかみたいなことまで議論が行っていないので、その辺はすごく気になるところですね。
そうですね。そこでいう感性、美学って、ちょっと言葉が大きくなっちゃいますけど、文化みたいなものと重なるところはあるんですか?
あると思います。
どう関係を捉えればいいんですか? 美学と文化の関係っていうか。
文化って自分にとってホームというか、それが環境として整えられてるとほっとするとか安心するとか、自分にとってのホームだなって思えるっていうことだと思うんですよね。
家庭とかもそうですもんね。家族が同じ空間で過ごしてるんで、みんな似てきたり、感性も似てきますよね。
だから、それが同質性につながってくと、それはそれで良くないとは思うんですけど、ベースとしてのホーム感みたいなのが共有できる共同体っていうのがあるといいのかなとは思うんですけどね。
そうするとAI時代にはやはりこの感性って見直されていくんですかね。知性ってやっぱりどうしても、1つじゃないにしろ、ほとんど答えは収斂しちゃうものなんですかね。
そうかもしれないですね。
収斂しちゃいますか?
だから文化差みたいなところが感性になってくるのかもしんないですね。
AIは感性を言語化できるようになっていったりするんですか? ディープラーニングとかもそこに近いかもしんないですけど、別に言語化せずともなんとなく学習していくみたいな。感性は持つんですか? AIは。
本の中では、社会的に規定されてる感性の部分と、それを逸脱してく感性、2つに分けてるんですけど、多分前者についてはAIは学習できると思うし、もうしてると思いますよね。でも後者に関して、逸脱していくような、自分から新しい美を発見するみたいなことっていうのは、あんまりありえないような気がしますね。
結局人間に残された価値は何になるんですか? 美学的に言いますと。
人の魅力とかに心を持ってかれちゃうみたいなことだと思うんですよね。ある種の弱さだとは思うんですけど、思ってもみなかったところでふっと何かに魅力を感じて、人生変わってしまうみたいな、そういう部分って人間ならではなのかなと思います。
恋愛とかそういうことですか?
恋愛もそうだと思いますけど。でも今恋愛も色々ね、後退してますよね。
最適解になってる。
最適解になってますよね。で、どんどん後退してると思いますね。
恋愛を失ったら人間もうなんか意味がなくなりますね。寂しいですね。
そうですね。でも対人だけじゃないとは思うんで、食べ物とかでもいいですし。例えば最近うちの息子、高校生なんですけど、急にぬいぐるみに目覚めて。そういうのでもいいと思うんですよね。それまで自分の世界になかったものにパッと出会うっていうことっていうのは、やっぱ感性のパッと飛びつく力みたいのはあると思いますね。
この本の中でも後半は愛について書いてますよね。
そうですね。
これはその意味でもエロスから愛への進化。エロスから愛にどうやって進化していくんですか?
体の魅力を感じるって言うと、すごい性的なニュアンスが結構強いかなと思うんですけど、すぐ恋愛の話になっちゃうみたいな。それはそうだとは思うんですけど、ただ時間をかけて相手のことを知っていくと、体として捉えていた背後にあるその人の人生とか歴史とか価値観みたいのが見えてくると、それは単なる性的な興味じゃなくて愛情になっていくっていうことだと思います。
人間って、外に見えるもの、顔とか体とか、そこから愛につながるっていうか、この人いいなって感じるのって何パーセントぐらいなんですかね。やっぱそこが1番大きそうですよね。
やっぱり、必ずしも最初に見た時に美しいなっていう風には思わなくても、なんか引っかかるみたいな風に思ってたところがきっかけで、その人のこと好きになるとかあると思うんですよね。だから単純に美しいから好きになるっていうことでもないのかなと思いました。
その意味では、感性の方の人の感じ方っていうのは知性より多様性があるんですかね。要するにこの人はかっこいいって思う人の種類って、人によって、感性によってかなりバラエティがあるのか。けどやっぱり、例えばキムタク、ちょっと古い例ですけど、キムタクがかっこいいってのは9割の人が思うのかとか、そういう美みたいなものもやっぱある程度収斂していくっていうか、それも思い込まされてるってとこあるんですかね。メディアとかを通じて、この人が今美女のモデルであると、この人がイケメンのモデルであるとかって、社会がいいと言ってるのを自分がいいと思ってるみたいなところも影響してるんですかね。
そうですね。ご本人たちはそうは言わないとは思いますけど、私がいいと思ったっておっしゃるとは思うんですけど、でもかなりの部分はそう思わされてるって部分あると思いますよね。それが文化を作ってく力なので、共同体としての。それはそれで大事な力だと思うんですよね。みんなに影響されちゃうっていう部分で、それがダメだってわけじゃなくて、それもそれで重要なんだけど、でもそれは割と多様性をなくしていく方向なので、それだけじゃなくて、そっからぴょんと出てく力も同時に見ていこうっていう感じですね。
今回美学と知性、社会がテーマでしたけど、そこが多様性を持つようにどう社会に働きかけていけばいいかっていうか、美学を生かしていけばいいか、そこはどう考えてらっしゃるんですか?
1つは、正しさからどう距離を取るかっていうことですね。正しさの呪縛みたいのはやっぱすごい強いと思うので。正しさは重要なんだけど、もう1個別の軸を持ちたいっていうことですね。それを持つことが多分社会の豊かさにつながっていくんだと思うんですね。
それは先ほどおっしゃった真善美とかにも近いような感じですね。
そうですね。でもそんな大きくなくても、ある種、自分の感じたことを抑圧しなくていいというか、人の感じたことにいちいちジャッジしないというか、しなくてもいい領域があっていいんじゃないかっていう風に思いますね。
その意味では好き嫌いとかそういったものをより出しやすくなるというか、それを表現しやすくなるっていうことが大事なんですかね。
ただ、好き嫌いってなっちゃうと喧嘩が起きちゃう……。
好き嫌いっていうよりも。
でもその喧嘩も大事だと思うんですよね。それをちゃんとすり合わせる、それが言語化だと思うんですけど、感じたことを言語化してすり合わせたり、自分の感じ方にある種のバイアスというか差別的なものがあったら、それは直す努力はするべきなんですけど、でもそんな簡単に治んないってことも同時に自覚した方がいいと思います。
今まではマスメディアが強い時代だったんで、この基準だっていうのをメディアから一方通行的に訴えられて、そんなにモデルがなかったじゃないですか。けど今は、先ほどのぬいぐるみもそうですけど、自分の好きなものをどんどん深掘りするためのものが本だけじゃなく動画とかで色々あったり、感じたものを深掘りしやすい時代ではあるんですかね。
何でも名前つけますよね。自分のプロフィールにしていくっていうか、割となんとか派みたいな派閥化して言語化していく。自分を定義しなきゃいけないっていうプレッシャーも、学生とかを見てると感じる部分もあって、そうすると実は感性というよりはカテゴライズの話になってく部分もあるのかなと。
カテゴライズはやめた方がいいんですか?
難しいですね。それはそれで文化だと思うので。だと思うんですけど、ある種の感性も同時に働かせるというか。そうですね。難しいですね。
答えが出なくなって。特にビジネスパーソンに言いたいことってありますか? どうしても知性とかAIまみれになって、今後本当に、私も見てたら、言い方ですけど、AIバカみたいな人が本当増えるだろうなっていう気がするんですよね。もうAI依存ばっかりして考えることをやめるのも良くないですけど、さらに進むと感じることさえやめる恐れもあるじゃないですか。ビジネスパーソンへの警鐘も含めて、美学をどう生かせばいいか、AI時代に生かせばいいかとかありますか?
最適解を選んでいくっていうことが虚しいっていうフェーズは訪れるんじゃないかなとやっぱり思うんですけど、どうなんですかね。
そろそろ来てる。もうすでに来てる気しますよね。ずっとやってると飽きますもんね。
そうですね。そうなった時に、いろんなことのコストが下がっていった先に、何のために生きてるのかとか、そういう本質的な問いって出てきちゃうんじゃないかなと思うんですけど、出てこないのかな?
いや、出てくると思います。徐々に出てきてると思いますし、考えますよね。
やっぱ感じるってすごく、単純に言うと元気になるというか、生きてく力になるなっていう風に思っていて。それはいろんな病気の方とかの回復の過程とか見てても、それまで自分の世界に入ってなかったものをパッとキャッチできて、これいいなって感じられることとかが、すごく回復の過程にステップとしてあったりするんですよね。そういうことを考えると、やっぱ感じるって生きていく上ではすごく前向きな力をくれると思うんですよね。そういうものが死んでいくのはやっぱり人間にとっては良くないんじゃないかなと思ってて。自分がどんどん変われるっていうんですかね。新しいものに出会っていく力みたいなものは、ずっと磨いていきたいなと思いますけどね。
知性ってある意味、機械とかで言うとCPUみたいなもんですよね。感性はセンサーみたいなもんですか? ものを感じていく。
人工物に歴史があるのかわかんないですけど、どういう環境に置かれてきた機械なのかっていうことを背負った上でのセンサーって感じですかね。
文脈と歴史があるっていうものですね。感性。これはこの本のテーマじゃなかったですけど、この感性、美学の知識であるとか蓄積も生かしながら、感性を正しく捉え直す、しかも豊かにしていくっていうために、どういうことを普段からできるんですかね。
1回言葉を忘れるっていうのはいいんじゃないですかね。
言語も大事だけど忘れた方がいいんですね。
そうですね。言葉にできない状況に身を投げ込むとか、行ったことない場に行くとかでもいいんですけど、ショックを受けるとかですね。そういうのは大事かな。この本の中で、降伏、負ける方の降伏。
こっちもね、出てますね。
サレンダーですけど、そのサレンダー経験みたいのって結構大事なんじゃないかなと思うんですよね。自分のそれまでの言語的な枠組みだと説明できないところに行ってみる。
そういうことか。このジョン・デューイによる美的経験の分析っていう、これもちょっと解説していただいてもいいですか?
ジョン・デューイっていうアメリカの哲学者が整理してるものなんですけども、美的経験には再認と知覚っていう風にデューイが分けてるものがあって、再認っていうのは、社会的な枠組みに乗っかってその範囲内で物事を処理しましょうっていう、結構効率重視な感じの認識の仕方ですね。それに対してデューイが知覚って言ってるのは、そういう社会の枠組みじゃなく、本当に新しく対象と出会っていくみたいな、そういう経験のことを知覚っていう風に言ってますね。
これの再認ばっかりやってたらダメだってことですよね。
そうですね。つまんない人になってしまう。でも知覚って多分、意識的にやるってよりも、やってくるものなのかなと思うんで。圧倒されちゃうみたいな。
衝撃の自由な展開ですよね。
そうですね。
新しい場所に行く旅とかそうですよね。新しい人と会って話すとか、あといろんなものを見るとか、この知覚を意識すればいいんですね。逸脱的感性を磨くような機会。だから同じようなことばっかりしてたらダメってことですね。これって動かなくてもあるもんなんですか? やっぱどっかの身体性と結びついて、新しい場所とか人と会ったり、やっぱ動かないとこの逸脱的感性って花開かないんですか?
動いた方が確率は高い気はしますけどね。
パソコンの前でも知覚ってあるんですか?
どうなんでしょう? やばいっていう感じだと思うんですよ、知覚って。で、パソコンの前でやばいってあまり思わないっていうか、電源を落とせばいいじゃんっていうことになったりとか、なかったことに結構できちゃう。
そうですよね。けど私自身もそうですけど、パソコンの前で過ごす時間本当長いなと思って。
良くないですよね。あんまり。子供にもよく怒られるんですよ。パソコンばっか見てっていう風に。そうですね。ゼロではないと思いますけどね、もちろん。
例えばですけど、仕事の場合で言うと、リモートワークをしてずっと家にいてパソコンで色々やってたら、知覚ないですよね。やっぱりずっと家とかにいて仕事してるのは良くないんじゃないかなっていう風に。
今もちょっとリモートがまた見直されたりしてるじゃないですか。現場会議。やっぱ人間って動き回った方がいいんですかね。色々。うん。とりあえずなんかすごいコンサバティブな。そう。なんか原始的な感じでしますか?単に身体性大事だみたいなことも別に言いたいわけではないんですけど。
はい。身体性ってどう考えたらいいんですか?身体性っていうのは古いじゃないですか?けど一方で、そうですね。知覚するための一番のセンサーは身体なわけですよね。うん。うん。身体と紐づいてるもの多くないですか?多いと思います。そうですね。やっぱり経験なんじゃないですかね。情報として知るよりも、経験が持つ厚みみたいなものに。
すごいコンサバティブな…いや、そっちに持っていきたいわけじゃないんですけど、デューイはこれどういうメッセージだったんですか?やっぱこの逸脱的感性に接するようなところに、意識的に自分も身を置いて美的経験を磨いた方がいいっていうのはそういうメッセージだったんですか?プラグマティズムですよね。そうですね。うん。それがこう人間としての成長の姿だっていうスタンスだと思うんで。うん。うん。
美的経験ってどんなものが他にあるんですか?旅行とか、美術鑑賞したり自分で描いたりとかもそうですよね。そうですね。そういうのもあると思いますし。うん。なんか全然違うコミュニティに行ってみるとかも結構いろんな衝撃があると思うんですけど。うん。うん。
例えばなんかもうすごい特殊な例を挙げると、あの2年ぐらい前に、全身着ぐるみを愛好する人たちの集まりっていうのに行ったんです。動物が好きな人たちで、自分でこう着ぐるみを作って、その姿でもう何百人、何千人って集まるのがあるんですけど、すごい知らない世界ですよ、私からしたら。
でもそこに行くともうめちゃくちゃこう経験というか、対象への幸福みたいな感じで。まずコミュニケーションがそもそも動物なので、こうあんまり言語を使わないで、初対面の人でもこうギュってハグをしたりするんですけど。うん。そこもまさにカルチャーが違う、違う文化の中にポンって投げ込まれてます。
私はこう人間の姿で行ってたんですけど、それでもこう受け入れてくれて、そこのカルチャーをちょっとずつ知っていくわけですよね。そうするとやっぱり自分のそれまで知ってた当たり前みたいのが全部こう役に立たなくなって、そのカルチャーを1個ずつ知っていく。そういう時ってやっぱすごいこう全てがビビッドに飛び込んでくるし。うん。この人のこの振る舞いのサインなんだろうみたいに、いちいちこう理解しようとして考えると思うんですけど、当たり前にこうスルーしない感じになると。うん。
そういうなんか全然違うカルチャーに行ってみる。その着ぐるみのとこに行くのがなんか重要だって言いたいわけじゃなくて、なんか全然違うカルチャーにこう接するっていうことは、ここで言う知覚的経験の方になるんじゃないかなと思います。
ああ、経験を積むと人間ってどう変わるんですかね。やっぱ幸せな豊かな人生になっていくって、その究極の目標って何なんですかね。
でも相手のことをめちゃくちゃ大事にできるようになるんじゃないですかね。うん。うん。やっぱり再認の方はある種相手をラベルで見てるわけですよね。この人こういう人だって。うん。でも知覚っていうのは、なんかその人がこう世界に唯一の存在で、歴史も含めてすごく大事な存在なんだっていう風に見ていくっていうことなので。はい。多分そういう目で見られたらすごい嬉しいと思うし、逆に相手をそういう目で見れたら本当に深い繋がりができると思うんで、人を大事にできるんじゃないか、その人のこう世界に唯一の存在であるっていう風に見られるんじゃないかなと思います。
逆にステレオタイプで、こういう人はこうだって決めつけちゃうと、まさにここに書いてるように楽になるというか、行為や決断の正確性、効率性は上がるけれども、うん、その目の前にある個別性みたいなものを見れなくなってしまうっていうことですよね。
毎回毎回相手のこと大事に個別に見ていくのはできないんで、両方必要だとは思うんですけど。はい。ちょっと左が多くなりすぎるとちょっとまずいですね。そうですね。あの人はこうだとか決めて、それで全部レッテル貼りしちゃうと、楽ですけど良くないもんな。
ちょっと老いていくとこの左になりがちですよね。なんか人間の老いて、これで年齢と必ずしもね、紐づかないかもしれませんけど、やっぱりどんどん頭固くなっていくと再認が増えてきますね。確かにその人生経験の分だけ再認すればいいやってなりがちですよね。ああ、そっか。経験が邪魔するのもありますね。新しい美的経験を重ねていかないと。うん。過去の経験から全部判断して再認で、楽は楽なんですね。そうですね。うん。
知覚を楽しまないとそっちにみんな行かないかもしれませんね。楽な方に人間流れるじゃないですか。そうですね。どうやったら知覚を楽しめるんでしょうね。その着ぐるみの方のとこ行くのも別に、まず最初に行く時に楽しいから行こうって感じじゃないじゃないですか。偶然性によるものもあるじゃないですか。そうですね。誘ってもらって行ってるので。そうですね。
でも知覚っていうのは、だから目的が内部にあるって書いてるんですけど、それすること自体がすごい楽しいっていうことですよね。うん。はい。再認は逆にそう外側に目的があるんで、それをすることでなんか違う目的を達成しようっていうことなので、なんかやってること自体を楽しめるかどうかっていうのが、こう知覚を可能にする分かれ目なんじゃないかなと思いますけどね。
ああ、これ皆さんやってほしいですね。どうしましょうか?けどなんかやっぱり同じ会社で働いてて同じオフィスに通って、なんかすごい日本人の生活って学校も含めて定型化されやすいじゃないですか。すごく。うんうん。それですごく似た人ばっかりと集まるっていうのが社会的にそうなりやすい。うん。特に階層化とかも東京とかがより進んでるじゃないですか。
あ、どうしたら新しい逸脱的感性を取り込めますかね。しかも苦痛じゃなく。うん。うん。内面から湧き上がってくる衝動として、楽しみながらできますかね。これ大事ですね。そうですね。これすぐなくなっていくよな。思われません?そう。うん。油断するとなくなってきますよね。そうですね。
でもなんか、私、会議の研究もしてるんですけど、組織の会議っていうのを参与観察して見てるんですけど、会議って知的な活動なんですけど、同時にやっぱ結構感性も働いていて。つまりあんまり合理的じゃない部分っていうかな、なんで今そっちに行ったのみたいなよくわからない部分が結構色々あるんですよね。
大学とか無駄な会議多くないですか?そういうことないですか?大学だけじゃないと思うんですけど。はい。でもなんかその無駄がもしかしたら文化を作ってる部分もあるし。ああ。どんどん一見スピーディーに進んでる会議でも、いちいちその感性的判断をしてる部分もあると思うんですよね。うん。
例えば何か報告事項があった時に、それをこの組織ではどうキャッチするのか、あ、それいいねみたいに思うのか、それめんどくさいねって思うのか、なんかそれってその組織の風土というか文化だと思うんですよね。はい。そういうのが結構会議見てるとこう意識的に表出されてる会議とかもあって。ああ。誰かが発表するとこう上司的な人がいちいちこう反応してるところとかあるんですよね。うん。それってなんかこう感性的判断をみんなでこう共有していきましょうっていうカルチャー、カルチャー作っていきましょうと。
会議ってこう意思決定の場であると同時にその組織そのものを作ってるんで。うん。うん。その組織を作る時になんかそういう感性が関わっているように思うんですけど、なんかそれがカルチャー的な部分もありつつ、それからポッと逸脱するような発言があった時にわーっとそっちに流れたりもするんですよね。だから、うん。
なんかこう非日常みたいな意味で感性的な経験をしなくても、そういうちょっとした会議の中で、うん、うん、ある種その組織のカルチャーを意識しつつ、それからちょっと外れたことっていうのもちっちゃいことも起こしていくみたいなことは、なんかすぐできるし、そっちも重要なんじゃないかなと思います。
日常のルーティンの中に知覚のきっかけを入れていくってことですね。確かにそれが一番いいんですね。遠くに旅行くとそれちょっと突拍子もなさすぎますもんね。日常の中で磨いていくと。分かりました。ありがとうございます。はい。
ということで今日は伊藤さんにお話伺いましたけど、改めてこの本どういう方に読んでいただきたいってのはありますか?今日もいろんなメッセージあったかと思うんですけど。
あ、ありがとうございます。感性って言うとなんかこう芸術の話ですかみたいにこう言われるんですけど、芸術とかに親しんでいる人ももちろん読んでいただきたいんですが、意外となんか感性に関係ない仕事とか専門を持ってる方にむしろ読んでいただきたいなと思って。もしかしたらその感性を抑圧してるかもしれないし、やっぱりその抑圧に気づくことでなんか変化が起こるかもしれないと思うので。はい。遠い人に読んでいただきたいです。
おお。資本主義とこの美学って意外と今後相性は良くなるんですかね。要するに資本主義ってやっぱどうしても1つの答えとか、あと効率性をとにかく求めていって、なんか矛盾するようなところもあると思うんですよ。逆にみんながそれを目指せば目指すほど、美学を追求することが差異を生むというか、競争力を生むっていうビジネス上の利点もあるのかなと思うんですけど、そこどう思われます?
そうですね。差異を作り出していくって意味では、すごい強みになると思いますし、逆にそれを持ってないと、なんていうか、自分で判断できなくなるっていうか、自分の中に基準がなくなっちゃうと思うので。
それがないと皆さんも引き込まれませんもんね。単にこれが正解だからここ行きましょうみたいな感じだと。うん。そうですね。美学的なものの方が組織もそっちに躍動するかもしれませんね。そうですね。うん。うん。
でもなんか私の子供の頃、80年代とかは例えば広告とかがもっとなんかかっこいいものとして認識されていて、はい、なんか新しい感性を常にこう発掘していくっていうところがあったと思うんですよね。うん。でも今ってあんまりそういう広告に感性的な実験があんまりなくなってきてるし、広告はなるべくない方がいいみたいな風にもなってたりするので、そういう意味では残念ですよね。多分そういう資本主義の中で新しい感性に出会っていくってことは、いろんな可能性あると思うんですけど。
うん。デジタル化によってね、より効果とかそういう数値化が進んで、あまり評価されにくくなってるのかもしれませんね。広告の世界で。そうですね。うん。分かりました。ということで是非こちらの本、興味ある方に読んでいただければと思います。ということで伊藤さん、本日ありがとうございました。ありがとうございました。
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