感性は抑え込むべきものか――美学者・伊藤亜紗が語る、最適解の時代に「感じる力」を取り戻す方法

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概要

PIVOTの佐々木が聞き手となり、美学者の伊藤亜紗に、著書『身体の美学入門』を手がかりに話を聞いた回である。番組での紹介は「東京科学大学教授」。話題は美学の定義から始まり、ルッキズム、美醜の基準の変化、AIと「最適解」の問題、美的経験の磨き方、組織の会議にまで広がった。

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伊藤の立場は一貫している。感性は長く知性の邪魔者として扱われてきた。しかし感性には、社会に与えられた枠組みをなぞる面と、そこから飛び出す面の両方がある。そして最適解が簡単に手に入る時代だからこそ、後者をどう取り戻すかが問われている、というものだ。

美学とは「言葉にしにくいものを、あえて言葉で分析する学問」

伊藤によれば、美学は18世紀中頃のヨーロッパで成立した学問だが、日本ではあまり学問として認識されていない。入門書を書いた理由を問われると、伊藤は「あまりにも知られていないので」と答えた。ただし入門書は一番難しい本でもあるという。専門の中で最も大事な部分を分かりやすく伝える必要があるからだ。伊藤は本書を「難しいことを簡単に言う本」にしたつもりだと語っている。

本書には美学の定義がいくつか書かれている。「感性を扱う学問」「違いを扱う学問」「私の中の他者を扱う学問」の三つである。伊藤はまず、美学は感性を扱う学問として成立したと説明する。成立以前、感性はまともに扱われていなかった。むしろ「ない方がいい」ものに近かったという。人間の認識能力の中で最も優れているのは知性とされ、感性はいい加減で、その場に流されやすく、正しい認識を邪魔するものとみなされていた。感性に流されずにどう認識するか、という発想のもとで、感性は邪魔物扱いされていたのである。その評価が少しずつ変わり、感性にもそれなりの価値があると考えられるようになったとき、感性が学問の対象になった。

では、古代の人間は感覚で動いていたのか。佐々木がそう尋ねると、伊藤はまず、人間を能力に分解しようとする動機そのものが面白いと応じた。そのうえで、「どうすれば良い人間になれるか」という最終目標はどの時代も変わらないと思う、と述べる。その目標に向けて、どの能力を伸ばし、どれを抑えるかを整理していく過程で、「感性には黙っておいてもらおう」という流れが多かった。伊藤はこれを歴史的な背景として説明した。

ライプニッツの認識の分類――根拠が言えるか、言えないか

感性の社会的地位を引き上げるうえで貢献したのが、ライプニッツらによる認識能力の整理である。本書ではこれが図にまとめられている。

この分類では、人間の認識能力は「上位」と「下位」に分かれる。上位が知性、下位が感性だ。感性は認識能力の一つとして認められたが、位置づけはあくまで下位だった。そのうえで、認識はまず「明晰」か「曖昧」かに分かれる。明晰とは、何かをはっきり感じ取れている状態である。佐々木が「よく分からないけれど何かすごく感じる」という経験は感性に入らないのかと尋ねると、伊藤は、それも美学の対象にはなりうるが明晰ではなく曖昧の側だと答えた。明らかな違いを感じ取れていることが、明晰の条件になる。

明晰な認識のうち、知性と感性を分けるのは「判明」かどうか、つまり判断の根拠を言えるかどうかである。伊藤は昆虫の例を挙げた。目の前の昆虫を蝶だと判断したとき、なぜそう思うのかと聞かれれば、いくつも理由を挙げられる。これが知性の働き方だ。これに対して、芸術作品を見て「これはすごくいい」と思ったとき、その気持ちははっきりしているのに、理由を問われるとうまく言えない。確かに感じているのに根拠が分からない。これが感性の特徴だという。佐々木が「論理的であることと関係するのか」と確認すると、伊藤は、働き方を論理的に説明できるのが知性だと答えた。

言葉と感性は仲が悪いからこそ、互いを磨き合う

言語化できるかどうかが大きな違いなのかと問われ、伊藤は「大きいと思う」と答えた。そのうえで、一般向けには美学を「言葉にしにくいものをあえて言葉を使って分析する学問」と説明しているという。

感性も言語化できないわけではない。ただし伊藤は、言語化によって大事なものが失われる場合があることも認める。なぜこの作品がいいと思ったのかを言葉にすればするほど、かえって信用できなくなる。料理の感想にもそういうことがある。それでも、言葉と感性は仲が悪いからこそ互いに磨き合える、と伊藤は言う。感じたことは言葉にすることで深まる。言葉の側も、感じたことを正確に言い表そうとすることで洗練されていく。美学は仲の悪い二つをうまくぶつけながら切磋琢磨させる学問だ、というのが伊藤の説明である。

佐々木は、何でも言語化できる知人を挙げ、そういう人は知性が発達しているのかと尋ねた。伊藤の答えは「そういうわけでもない」。それがその人の感性を貧しくしているかどうかもよく分からないが、人によって知性と感性のどちらが優位かの違いはあるだろう、という。言語化は知性にも感性にも役立つ。そのうえで、論理的に説明できるわけではないのが感性だ、と伊藤は整理した。

では、どうすれば感性を言語化できるようになるのか。伊藤によれば、人はすでにかなり言語化している。「美しい」「かわいい」「かっこいい」といった形容詞をたくさん使っているからだ。感性を表すこうした言葉を磨いていくことが、大事な作業の一つになる。佐々木が「うだるような暑さ」「フライパンの上にいるような暑さ」といった例を出すと、伊藤はそれも含まれると応じた。文学に近いのではないかという問いには、文学に近いが科学としてやろうとしている、と答える。ある暑さをなぜそう表現するようになったのか。そうした言葉には歴史的な経緯がある。普段は経緯を知らずに使っているが、それを知ることで言葉をもう少しうまく使えるようにする。これが美学の仕事の一つだという。

「違い」を扱い、「私の中の他者」を扱う

二つ目の定義「違いを扱う学問」について、伊藤は、感性は基本的に微妙な違いが分かるかどうかに関わると説明する。感性が敏感でない時や人にとっては、どのコーヒーでも同じだ。違いを敏感に感じているとき、人は感性で感じている。問題は、対象の違いをキャッチできるかどうかが、そのまま人間の側の違いにもなってしまうことである。敏感な人だけが分かる、分かる人と分からない人がいる、という形で、感性は人の間にも差を作る。伊藤はここがポイントだと述べた。

三つ目の「私の中の他者を扱う学問」は、なぜそう判断したのか自分でも分からないのに、はっきりそう思っている、という感性の性質に関わる。伊藤はこれを「ちょっと不気味」だとしつつ、そこが面白いと言う。自分でコントロールできないものが自分の中にある、という感覚である。

佐々木は、人を美しい、醜いと感じる感覚も、結局は社会が決めたものを自分の感想のように言っているだけなのかと尋ねた。伊藤は、そういう部分もあると認めつつ、そうではない部分も見いだしたいと答える。判断の背後には社会や歴史がある。しかし感性には、そうした枠組みを超えていく力も同時にある。両方の側面を見る必要がある、というのが伊藤の考えだ。

両者を見分けられるようになるのかという問いには、自分でも驚く経験を例に挙げた。それまで興味のなかったことに突然興味を持つ。美味しいと思っていなかったものが急に美味しく感じられる。「こんなふうに感じる回路が自分にあったのか」という瞬間は、自分が変わるきっかけになる。伊藤は、そういうときは枠組みの外に「ピュッと出た」のではないかと述べた。

ルッキズム――「見た目で判断してはいけない」は正しい、でも人はやってしまう

「なぜ人は人を美しい、醜いと思うのか」という問いに対し、伊藤はまず、すぐに答えを求めること自体が良くないのだろうと笑いながら、次のように説明した。「美しい」「醜い」はかなり単純化された感想である。実際には人は、この人はいい人そうだ、長く付き合いたい、今日だけの関係でいい、といった計算をつい行っている。そしてその判断の一部は、どうしても見た目に頼っている。

伊藤は、現在は「あるべき」「正しさ」をめぐる議論が非常に多いと指摘する。ルッキズムでいえば、人を見た目で判断してはいけないという主張は正しい。しかし人は、正しいと分かっていてもやってしまう。その部分をどう抑圧せずに扱い、そこにある良い可能性を取り出していくか。本書が向かいたい方向はそこだという。

ルッキズムが最近特に強まっているのはなぜかと問われ、伊藤は社会運動の歴史を例に挙げた。黒人たちが「ブラック・イズ・ビューティフル」という言葉を使い、それまで否定的に語られてきた黒人の身体の見た目について、特有の美しさがあると主張して社会の目を変えようとした運動である。当時は「ルッキズム」という言葉はなかったが、同種の運動はあった。社会運動では権利や法律の問題が注目されがちである。しかし権利や法律の問題がいったん落ち着くと、見た目の問題が浮上する。権利としては認められても、身体としては受け入れられていない、という状態が残るからだ。伊藤は、これが繰り返されてきたパターンで、ルッキズムという言葉がない時代からずっと問題だったのだろうと述べた。

美醜の基準は変わる――それは「いいこと」

美醜の基準は時代を超えて固定されているのか。伊藤によれば、美を時代を超えて定義したいという立場の人もいて、黄金比のような考え方は昔からある。そうした普遍的なものがベースにある可能性はある。しかし、その上に乗っている文化的な要素は時代ごとに変わるので、絶対的ではないと伊藤は考えている。

痩せている方がよいという価値観について、伊藤は、「太っているのは悪だ」という流れは歴史的に長く、遡ると16世紀頃まで行き着くと説明した。その後、太っているのは良くないから体をスリムにしなければならないという考えが出てきて、アメリカのプロテスタント的な禁欲主義の価値観などと結びついていった。日本ではやはり戦後に出てくる、という。江戸時代にはふくよかな人の方が人気だったという佐々木の指摘にも、伊藤は同意した。

伊藤は、人間の趣味が変わっていくことを「すごくいいこと」だと評価する。現在醜いとされているものも、美しく見える可能性が常にあるということだからだ。変化のきっかけについては、何か特殊な事例があり、それをメディアが一気に広めて変わっていくのではないか、と伊藤は推測している。

佐々木は、男性については古代ローマの彫刻から現代まで、筋肉のある体がかっこいいという基準があまり変わっていないのではないかと問うた。平成期にいったん緩んだものの最近は鍛える人が増えており、戦争の増加や、AIに知性が代替されるなかで身体性が見直されていることが背景にあるのではないか、という見立てである。これに対し伊藤は、最近はむしろ緩んできていると感じると答えた。勤務先の大学には理系の学生が多く、もともと体力で勝負していない学生が多い。そのため性別の規範から意外と自由な学生もいて、おそらく男子学生だが服装は女性的だったり、メイクをしていたりする学生もそれなりにいる。自分の学生時代と比べると、だいぶ解放されていると感じるという。

AIが差し出す「最適解」と、抑圧される感性

AIによって美学や人間の捉え方はどう変わるのか。伊藤は、「AI時代の〇〇」はもういろいろなところで聞かれてうんざりだろうと前置きしたうえで、感性が抑圧されていると感じていると述べた。AIは最適解をくれる。人間の判断が最適解に乗っ取られていくことは、かなり危険だと伊藤は考えている。

伊藤が最近読んだ本として挙げたのが、パランティアのアレックス・カープによる『テクノロジカル・リパブリック』である。伊藤によれば、同書では「美的判断」という言葉が使われており、そこが面白かったという。同書の議論を伊藤は次のようにまとめた。人々は信念を失っている。真善美のような大きなものについての価値判断を警戒し、自分はこれがいいと言うとすぐに叩かれるため、自分にとっての美しさや良さを口にしないようになった。その結果、信念のない状態に陥っている。では信念をどう取り戻すのか、というときに「美的判断」が出てくる。

伊藤は、あらゆるものに同等の価値があるとする相対主義的な時代には、特定の強い判断が暴力的に映ったり、非常にリスキーに見えたりすると述べる。それは人間の進む方向として正しいのかもしれない。しかし、それで本当に進む意味があるのか、面白いのか、という基準で考えると、信念や、最適解ではない価値を、意思決定として選び取れることが大事なのではないか。伊藤は、そうした問題意識を持つ人にこそ本書を読んでほしいと語った。

ただし伊藤は、どうすればそれが可能になるのかまでは本書に書けていないと認めている。美的な判断は根拠を言えない。それを会社などの意思決定の中心に置いてしまうと「結構やばいことになる」。どうすれば美的判断を取り戻せるのかが、いま気になっている点だという。

信念を共有する共同体と「ホーム」としての文化

説明責任がある場では感覚だけでは通用しない、という佐々木の指摘に伊藤も同意する。伊藤によれば、カープの本では、それができるのはオーナー企業か国家のどちらかだと書かれており、カープ自身は国家の方を選んでいく。伊藤はこれに対し、信念を共有する共同体をうまく作ることが鍵であり、それは国家かもしれないが、もっと小さな規模でもできるのではないかと考えている。共同体の中で「自分たちにとってはこれがいい」という感覚をなんとなく共有できれば、美的判断も共有できるようになる。そうすれば、それが暴力的な意思決定にはならないのではないか、という見立てである。

感性を共有する方法論についても、伊藤はあまり議論されていないと指摘する。ビジネスに感性が重要だとはよく言われるが、話は「アート作品を鑑賞しましょう」に行き着きがちで、意思決定に感性をどう関わらせるかまでは議論が及んでいない。そこが気になっているという。

佐々木が文化との関係を尋ねると、伊藤は、文化とは自分にとっての「ホーム」のようなものだと答えた。環境として整えられていると、ほっとする、安心する、ここが自分のホームだと思える、ということである。家族と同じ空間で過ごすうちに感覚が似てくる、という佐々木の例に対して、伊藤は、それが同質性につながるのは良くないとしつつ、ベースとしてのホーム感を共有できる共同体があるといいのではないかと述べた。知性による答えが収束していくなら、文化の部分が感性にとって重要になるのかもしれない、とも話した。

AIが学べる感性、学べない感性

AIは感性を持つのか。伊藤は本書で、社会的に規定された感性と、そこから逸脱していく感性の二つを分けている。前者についてはAIも学習できるし、すでに学習しているだろうと伊藤は考える。しかし後者、つまり自分から新しい美を発見するようなことは、あまりありえないような気がするという。

では人間に残される価値は何か。伊藤は、人の魅力に心を持っていかれてしまうことだと答えた。弱さでもあるが、思ってもみなかったところで何かに魅力を感じ、人生が変わってしまう。そうした部分は人間ならではだという。佐々木が恋愛のことかと尋ねると、恋愛もそうだが、その恋愛もいまは最適化され、後退していると伊藤は付け加えた。

ただし、対象は人に限らない。食べ物でもいい。伊藤は、高校生の息子が急にぬいぐるみに目覚めた例を挙げ、そういうことでもいいと述べた。それまで自分の世界になかったものにパッと出会い、飛びつく力が感性にはある、というわけだ。

本書後半のテーマである「エロスから愛へ」についても話が及んだ。身体の魅力というと性的なニュアンスが強く、すぐ恋愛の話になりがちである。しかし時間をかけて相手を知っていくと、身体として捉えていたものの背後に、その人の人生、歴史、価値観が見えてくる。そうなると、それは単なる性的な興味ではなく愛情になっていく、と伊藤は説明した。また、見た目がどれほど重要かという問いには、最初から美しいと思わなくても、何か「引っかかる」ことをきっかけに好きになることがあるので、単純に美しいから好きになるわけでもないと答えている。

影響されることも大事、そこから飛び出すことも大事

感性は知性より多様なのか、それとも誰もが認める美男美女のように収束していくのか。佐々木の問いに、伊藤は、本人たちは自分がいいと思ったと言うだろうが、かなりの部分はそう思わされているだろうと答えた。ただし伊藤はそれを否定しない。みんなに影響されてしまう力は、共同体としての文化を作る力であり、それはそれで大事だという。ただしその力は多様性をなくす方向に働く。だから、そこから「ぴょんと」出ていく力も同時に見ていきたい、というのが伊藤の立場である。

では社会の多様性に向けて美学をどう生かすか。伊藤がまず挙げたのは、正しさからどう距離を取るかである。正しさの呪縛は非常に強い。正しさは重要だが、もう一つ別の軸を持ちたい。それが社会の多様性につながるのではないか、と伊藤は言う。真善美ほど大きな話でなくてもいい。自分の感じたことを抑圧しなくていい、他人の感じたことにいちいちジャッジしなくていい、そういう領域があってもいいのではないか。

好き嫌いを出しやすくすることかと問われると、伊藤は、好き嫌いになると喧嘩が起きると笑いつつ、その喧嘩も大事だと述べた。感じたことを言語化してすり合わせる。自分の感じ方にバイアスや差別的なものがあれば、直す努力はするべきだ。ただし、それは簡単には直らないということも同時に自覚した方がいい、という。

佐々木は、マスメディア一辺倒の時代と違い、今は好きなものを深掘りする手段が多いと指摘した。これに対し伊藤は、今は何にでも名前をつけ、「〇〇派」のように派閥化して言語化し、自分のプロフィールにしていく傾向があると述べた。学生を見ていると、自分を定義しなければならないというプレッシャーも感じるという。そうなると、感性というよりカテゴライズの話になっていく部分もある。カテゴライズはやめた方がいいのかと問われると、伊藤は、それはそれで文化なので難しいと答え、この点は答えを出さないままにした。

最適解が「虚しい」フェーズと、感じることが持つ回復の力

ビジネスパーソンへのメッセージを求められ、伊藤は、最適解を選んでいくことが虚しく感じられるフェーズが訪れるのではないかと述べた。佐々木は、すでに来ている気がする、ずっとやっていると飽きると応じた。伊藤は、さまざまなことのコストが下がった先に、何のために生きているのかという本質的な問いが出てくるのではないかと考えている。

伊藤は、感じることは単純に言えば人を元気にし、生きていく力になると言う。その根拠として挙げたのが、病気の人の回復過程を見てきた経験である。それまで自分の世界に入っていなかったものをパッとキャッチし、「これはいい」と感じられることが、回復過程のステップとしてよくあるという。だからこそ、感じる力が死んでいくのは人間にとって良くないのではないか。自分が変わっていける力、新しいものに出会う力をずっと磨いていきたい、と伊藤は語った。

佐々木が「知性がCPUなら感性はセンサーか」とたとえると、伊藤は、どういう環境に置かれてきたかを背負ったうえでのセンサーだ、と補足した。感性には文脈と歴史がある、ということである。

感性を磨くには「一度言葉を忘れる」

感性を日常的に鋭敏にするために何ができるか。伊藤の答えは「一度言葉を忘れる」ことだった。言葉にできない状況に身を投げ込む、行ったことのない場所に行く、ショックを受ける。伊藤は本書で「降伏(サレンダー)」の経験を取り上げており、それまでの言語的な枠組みでは説明できないところに行ってみる経験が大事ではないかと述べた。

ここで紹介されたのが、アメリカの哲学者ジョン・デューイによる美的経験の分析である。デューイは「再認」と「知覚」を区別した。再認とは、社会的な枠組みに乗ってその範囲内で物事を処理する、効率重視の認識の仕方である。知覚とは、そうした枠組みではなく、対象と本当に新しく出会っていく経験を指す。再認ばかりしていると「つまらない人になってしまう」と伊藤は言う。ただし、知覚は意識的にやるものというより、やってくるもの、圧倒されてしまうようなものだろうとも付け加えた。

体を動かさないと知覚は起きないのか。伊藤は、動いた方が確率は高い気がすると答えた。パソコンの前での知覚については、知覚とは「やばい」という感覚だと思うが、パソコンの前ではあまりそう思わないし、電源を落とせばなかったことにできてしまう、と述べている。伊藤自身も子どもに「パソコンばかり見て」と怒られるそうで、パソコンの前での知覚もゼロではないとしつつ、あまり良くないと認めた。

一方で伊藤は、単に「身体性が大事」と言いたいわけではないとも断っている。それは保守的な主張にも聞こえるからだ。伊藤が強調するのは経験である。情報として知ることと、経験が持つ厚みとは違う。デューイのメッセージについては、プラグマティズムの立場から、そうした経験を重ねることが人間としての成長の姿だと考えていたのだろう、と伊藤は説明した。

着ぐるみの集まりで体験した「知覚」

美的経験の例として伊藤が挙げたのは、まったく違うコミュニティに行ってみることだった。伊藤は2年ほど前、全身着ぐるみを愛好する人たちの集まりに参加したという。動物が好きな人たちが自分で着ぐるみを作り、その姿で数百人、数千人規模で集まる。伊藤にとっては「すごく知らない世界」だった。

そこではコミュニケーションそのものが動物的で、あまり言語を使わず、初対面でもハグをする。伊藤は人間の姿で参加したが、それでも受け入れてもらえた。その文化を少しずつ知っていくなかで、それまで当たり前だと思っていたことが全部役に立たなくなる。すると、すべてが鮮やかに飛び込んでくる。この人のこの振る舞いは何のサインだろうと、いちいち理解しようとするようになり、物事を当たり前にスルーしなくなる。伊藤はこれを対象への「降伏」のような経験だと語った。着ぐるみの集まりに行くことが重要だと言いたいのではなく、まったく違うカルチャーに接することが、知覚としての美的経験になるのではないか、という趣旨である。

知覚を重ねると、人を大事にできるようになる

こうした経験を重ねると人はどう変わるのか。伊藤は、相手をとても大事にできるようになるのではないかと答えた。再認は、ある意味で相手をラベルで見ることである。この人はこういう人だ、と。これに対して知覚は、その人を世界で唯一の、歴史も含めて大事な存在として見ることだ。そういう目で見られたら嬉しいし、相手をそういう目で見られれば深いつながりができる、と伊藤は言う。

ステレオタイプで決めつければ、行為や決断の正確さや効率は上がる。しかし目の前の個別性が見えなくなる。一方で伊藤は、毎回相手を個別に見ることはできないので、両方必要だとも認める。問題は再認の側に偏りすぎることだ。佐々木が、年を取ると再認が増えるのではないかと言うと、伊藤は、人生経験の分だけ「再認すればいい」となりがちだと応じた。経験が知覚の邪魔をすることもある、ということである。

人は楽な方に流れる。どうすれば知覚を楽しめるのか。伊藤は、着ぐるみの集まりも人に誘われて行ったものだと明かしつつ、デューイの整理に触れた。知覚は目的が内部にあり、それをすること自体が楽しい。再認は目的が外側にあり、何か別の目的を達成するために行う。やっていること自体を楽しめるかどうかが、知覚を可能にする分かれ目ではないか、と伊藤は述べた。

会議にも感性は働いている――日常の中の小さな逸脱

佐々木は、同じ会社、同じオフィス、似た人ばかりという定型化された日本の生活の中で、どうすれば苦痛ではなく内側からの衝動として逸脱的な感性を取り込めるのかと問うた。伊藤が手がかりとして挙げたのは、自身が行っている会議の研究である。組織の会議を参与観察しているという。

伊藤によれば、会議は知的な活動だが、同時に感性もかなり働いている。「なぜ今そっちに話が行ったのか」というような、合理的ではない部分がいろいろある。無駄な会議が多いのではという佐々木の冗談に対して、伊藤は、その無駄が文化を作っている部分もあるかもしれないと答えた。一見スピーディーに進む会議でも、感性的な判断はいちいち行われている。たとえば何かが報告されたとき、組織がそれを「いいね」と受け止めるのか「めんどくさいね」と受け止めるのか。それはその組織の風土であり文化だという。

会議によっては、それが意識的に表出されている。誰かが発表するたびに上司的な立場の人がいちいち反応する会議がある。伊藤はそれを、感性的な判断をみんなで共有していこう、カルチャーを作っていこうという動きだと見る。会議は意思決定の場であると同時に、組織そのものを作る場でもある。そこには感性が関わっている。一方で、カルチャーから外れるような発言が出たとき、議論がわっとそちらに流れることもある。

ここから伊藤は、非日常的な経験をしなくても、日常の会議の中で組織のカルチャーを意識しつつ、そこから少し外れたことを小さく起こしていくことはすぐにできるし、そちらも重要なのではないかと述べた。

感性から遠い人に読んでほしい――資本主義と美学の関係

最後に、本書をどんな人に読んでほしいかを問われ、伊藤は、感性というと芸術の話だと思われがちだが、芸術に親しんでいる人はもちろん、感性と関係のない仕事や専門を持つ人にこそ読んでほしいと答えた。そうした人は感性を抑圧しているかもしれず、その抑圧に気づくことで変化が起きるかもしれないからだ。

佐々木は、効率と正解を求める資本主義の中で、みんながそれを目指すほど美学を追求することが差別化や競争力を生むのではないかと問うた。伊藤は、差を作り出すという意味では大きな強みになると同意し、逆にそれを持っていないと自分で判断できなくなる、自分の中に基準がなくなってしまうと述べた。

そのうえで伊藤は、自身が子どもだった80年代には、広告がもっとかっこいいものとして認識され、新しい感性を常に発掘していたと振り返る。いまの広告には感性的な実験があまりなくなり、広告はなるべくない方がいいという風潮にもなっている。伊藤はそれを「残念」だと述べ、資本主義の中で新しい感性に出会っていく可能性はいろいろあるはずだと語った。佐々木が、デジタル化で効果の数値化が進み、そうしたものが評価されにくくなっているのかもしれないと応じたところで、対談は締めくくられた。