知能がほぼゼロ価値になる世界で人間はどう動くのか:落合陽一『マタギドライヴ』を読む

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概要

メディアアーティストの落合陽一は、著書『マタギドライヴ:計算機自然の辺縁における脱人間知性的文明論』で、AIと計算機が環境そのものになった世界で人間がどう生きるかを論じた。このインタビューで落合は、知能のコストが崩壊すると能力の再分配が急速に進み、人間の最適な行動は農耕型の「深掘り」から狩猟採集型の「探索」へ移ると主張する。ただし社会全体が狩猟採集に戻るのではない。自動で進化するプラットフォームの横で探索行動をとる生き方が成立する。その姿を、農耕社会の横で山に入って熊を獲る人々になぞらえて「マタギ」と呼んでいる。

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8年かけた本と、その前の2冊

落合によれば、『マタギドライヴ』には8年かかった。出発点は2015年の『魔法の世紀』である。この本の最終章のタイトルが「デジタルネイチャー」で、その内容を1冊にまとめたのが2018年の『デジタルネイチャー』だった。ところが、デジタルネイチャーの中で人間がどう生きるのかについては語っていない、と誰かに指摘された。その生き方を言い表す言葉として「マタギ」を選び、書き始めたのが『マタギドライヴ』だという。

『魔法の世紀』の主張はシンプルだと落合は言う。ユビキタスコンピューティングによって社会は再魔術化する、というものだ。マックス・ウェーバーは、科学が世界を脱魔術化すると論じた。しかしニューラルネットやディープラーニングが行き渡ると、人間は自分がなぜその道具を使えているのか、ほとんど分からなくなる。IoTデバイスも増え、仕組みの分からない道具が身の回りにあふれる。落合は、分からない道具を使うとき、それはもはや自然になってしまうと考える。そこで新しく立ち現れるものを「デジタルネイチャー」と名付けた。

落合はさらに、デジタルネイチャーを書いた後の2020年ごろ、人工物とバイオマスの量が逆転したという論文が出たことに触れた。名実ともに世界はデジタルネイチャーに近づいている、というのが落合の見方である。

「自然」とは何か——東アジア的な自然観を前提にする

AIが人間より賢くなり、あらゆる場所に入り込む。計算資源の投入量が増えれば、ある時点から人間がいなくても研究や道具の発明が進むようになる。落合はこの議論をもっと真剣に考えようとした。そのとき最初に突き当たったのが「自然とは何か」という問題だった。

落合によれば、自然の捉え方はヨーロッパ、東洋、イスラムの創造観でそれぞれ異なる。西洋思想の系譜では、超自然は上にあり、自然と人間と人工物はそれぞれ別の場所に置かれる。イスラム型の考え方では、神が作った被造世界の中に自然、人間、人工物があり、超自然は別枠になる。これに対して東アジア思想では、超自然的なものも人工物も人間も、自然の中に含まれるものとして扱われることが多い。新しい自然が立ち現れ、それが全体を包むというデジタルネイチャーの発想は東アジア的だ、と落合は位置づける。そこから、デジタルネイチャーがどんな自然なのかを考えていくのがこの本だという。

落合は農耕社会の例も挙げた。農耕社会の人は、田んぼのような人工的に作られた風景を見ても「自然」だと感じる。それは狩猟採集の時代にはなかった人工物である。同じように、我々はコンピューターに満たされた世界を少しずつ自然として受け入れていくだろう、と落合は見ている。

科学が自然を追いきれなくなる

落合は、従来の自然は科学が解明できる程度に安定していたと説明する。生物は急速に進化しないし、科学技術も毎日変わるわけではない。だから「科学が自然を明らかにする」という立場が成り立った。

しかし自然が計算機と一体化し、コンピューターが勝手に道具を作り、コンピューター自身の研究を始めると、状況が変わる。人間の科学ではなく、コンピューターの科学がコンピューターの自然を追いかける状態になる。落合はこれを「理由が分からないが結果が使える」魔法の世紀の到来と表現する。デジタルネイチャーは進化と変化を続け、一瞬ごとに技術進化が起きて形を変える。落合の言葉では、自然の進化が「光の速度」になっていく。

落合は、多くの人がこの感覚にようやく気づき始めていると言う。AI企業の中ではすでにAIがAIを研究している。人間はむしろボトルネックであり、人間を入れずにループを回せるかが焦点になる。そうなると、その内容を人間に理解させることに意味があるのかさえ分からなくなる。このとき人間はどういう生存戦略をとるのか。それがこの本の重要な問いだという。

知能のコストがゼロに近づくと、能力が再分配される

落合は、計算量が地球上の物質として無視できない規模になっていると指摘する。計算機は台数だけでも人間の数に匹敵する。さらに重要なのは生産量の比較だという。人間の知的生産量を論文などで測ったとして、AIはその何十万倍ものコンテンツや知的生産を行うようになる。そうなれば、人間とAIの比率は「AI無限大に対して人間ほぼゼロ」に近づく。落合は、このとき人間の最適な探索行動が変わると考える。

その背景として落合が挙げるのは、計算能力の自然化、つまりコストの崩壊である。オープンソースのモデルがすぐに出てくると、トップモデルは強いコスト圧力にさらされる。これが繰り返されると、モデルは蒸留され、安い機械の上でも動くようになる。その結果、あらゆるところで知能はほぼゼロ価値になる、と落合は言う。

知能がゼロ価値になると、まずコストが下がる。落合がそれ以上に強調するのは、次に「能力の再分配」が大きく加速することだ。どんなに小さな子どもでも、大人と同じ知的生産能力を使えるようになる。すると道具が一瞬で作れる状態に変わる。これまで道具の制作や使用には、技術的な摩擦と時間の摩擦があった。アプリを作る会社はアプリを作ることで稼いできた。しかし誰でも買わずに作れる時代になれば、わざわざ作る人がいるだろうか、と落合は問う。

これまでは技術的な堀を固め、その周りで新しいものを作るのが定石だった。しかし新しい道具を作る時間や新しい技術に適応する時間が短くなり、探索行動そのものが安く速くなれば、最適戦略はおそらく変わる、と落合は述べる。環境の中をうろうろしながら新しいものを見つけ、作るコストが大きく下がる。今できることを今やり、それが一瞬でバズって消える。そういうサイクルが繰り返されるようになるという。

農耕型から狩猟採集型へ、そして「マタギ」

落合によれば、農業生産や工業生産は、人間が何かに投資し、それを転がし、深掘りして技術を作ることの繰り返しだった。産業革命を経て工業社会になっても、この農業社会的な世界観は続いてきた。ところが計算機や技術のリソースが豊かな自然のように存在するようになると、人はそこから何かを取ってきて消費するような行動に変わる。落合はこれを、昔の狩猟採集の世界に近いものと捉えている。

ただし落合は、社会全体が狩猟採集化するわけではないと強調した。マタギは農耕社会の横にある狩猟採集的な社会である。村では米を作り農業を営んでいるが、山に入って熊を獲る人たちもいる。同じように、自動で進化するプラットフォームのすぐ横で、探索行動をとる人々のアプローチが成立する世界へ移る、というのが落合の見立てだ。

聞き手が「それが人間の今後の生き方の中心になるということか」と尋ねると、落合はプラットフォーム側では人間が要らなくなるからだと答えた。プラットフォームはAIだけでどんどん動いていく。落合はそれを否定しているわけではない。自動化されたプラットフォームがある前提で探索行動に出る。そういう圧力がかかる社会を何と呼ぶかを考えたとき、「狩猟採集化」ではなく「マタギ化」が近いと思った。狩猟採集化と言うと、社会全体が農耕を信じなくなり、狩猟採集に変わってしまう話になるからだ。落合は、マタギは日本語の中でいい言葉だと語った。この図式自体は2018年に『デジタルネイチャー』を書いた後すぐに描いていた。その後、自然とは何か、計算機とは何か、技術的な裏付けとして本当に自動進化するのかを考え続けて現在に至る、と振り返った。

作る人から、選び意味を与える人へ

日常や仕事ではマタギ的な行動がどう現れるのか。この問いに落合は、「2026年中にあらゆるものはAIで書けるようになる」と言われていて実際にそうなっている気がする、と前置きしてから答えた。人間は約300万年前に石器を作って以来、道具で自然を加工し、人工物を生み出してきた。しかし今は、人間が機械と共同して作る。自律生成されたものを人間が選び、ディレクションする形に変わった。道具そのものがもう人間の側にはない。人間の立ち位置は、観察し、選択し、意味を付与することになった。落合は、これは奇妙だが、おそらくもう元には戻らないと言う。

意味の付与の仕方は人によってまったく違う。落合はこれを宗教体系にもたとえた。インフルエンサーが言っていたから選ぶ人もいれば、美術史の中で美しいから選ぶ人もいる。道具の性能が横並びになれば、ブランドで選ぶしかなくなる。ブランドで選ぶことも、何らかの意味による選択である。

会社の例で言えば、パワーポイントの資料を作ってと頼んでも、おそらく誰に頼んでも同じものが出てくる。観察や意味付与ができる人に頼む価値は残る。しかしそうでない人に頼む意味はなくなってしまうだろう、と落合は言う。環境側から産物が立ち現れるので、人間は観察し、文脈化し、解釈する仕事ばかりをすることになる。制作は人間から環境側へ分散する。落合は、これを危機として受け止める人もいるだろうと付け加えた。

「ラブ上等」とモラベックのパラドックス

聞き手が「哲学や人文科学ばかりになるのか」と尋ねると、落合は、意味付与が好きな人はそうなるだろうと答えた。そうでなければ「ラブ上等が好きなんじゃないですか」と続けた。聞き手が「より感覚的なものになるのか」と重ねると、落合はそこが重要なポイントだと応じた。

落合が持ち出したのはモラベックのパラドックスである。ハンス・モラベックが1988年ごろの本に書いたもので、落合によれば次のような内容だ。人間が難しいと思っている記号操作、つまり検索、最適化、記号処理、言語生成、哲学などは、デカルトから数えてもせいぜい数百年しか取り組んでいない。一方、ものを食べることや、直感で良し悪しを判断することには、30億年ほどの時間をかけてきた。鳩でも餌を食べるが、食べる行為の方が長い時間をかけて獲得されたものだ。だからコンピューターはいつまでもご飯を食べないし、直感でものを選ぶことはまだ難しい。入力すれば選んだように見せることはできる、と落合は留保をつけた。

落合によれば、身体を進化させた末に記号操作に至った人間は、記号操作こそが人間の本質だと思うようになり、自らをホモ・サピエンス、つまり賢い人と名乗った。しかし実際には、賢くなったのは道具の方だった。では人間とは何だったのか。身体を使い、宴会や祭りをしていた人間性に戻ってしまった、というのが重要なポイントだろうと落合は語る。

聞き手が「本能むき出しで恋愛したり喧嘩したりする、原始化のようなものか」と聞くと、落合はそういう層も元気だろうと答えた。同時に、意味付与の側から取り組む層も元気だろうと言い、アートを挙げた。本能的なもの、スポーツ、恋愛、学問を批評する人々も、それぞれ存在し続けるという見方である。

意味のない「バッジ」をつけ合う社会

落合は、SNS上で「バッジ」をつけ直して遊ぶ人々がいるかもしれないとも述べた。お金持ちですというバッジ、株をやっていますというバッジ。実にくだらないバッジをつけまくり、意味のないことをし続ける。どれも本質的には意味がない社会構造になれば、人間の側にバッジをつける意味はほとんどなくなる、と落合は言う。聞き手が「政治もそうでしょうね」と言うと、落合は政治もバッジをつけるのが大人気だと応じた。

聞き手が「平安時代のような感じか」と尋ねると、落合はおそらくそうだと答えた。聞き手が「それはそんなに悪くないのでは」と言うと、落合は悪いとは思わないと言い、そう思えるかどうかは人によるというニュアンスを残した。

主体と客体が分かれない——「味わう」文明

マタギドライヴのメッセージを単純化してほしいと頼まれ、落合は発酵と醸造のメタファーを使った。デジタルに発酵してきたもの、デジタルに醸造されたものがあり、それが計算機自然になる。人間は環境とどう生きるか、そしてともに味わう関係性をどう生成するかに時間を使うようになる、という。

落合によれば、いま壊れてきているのは「考える文明」の方だ。近代は感覚から撤退し、思考をどう取り出すか、誰が考え、誰が所有し、誰が責任をとるかを問題にしてきた。これは主体と客体を分ける発想である。しかしその分離がそもそも成立しにくくなった。「味わう」ことを中心に据えれば、主体と客体は分離されない。料理人は料理を出すときに自分も味わっている。作り手は味わうことで食べる人と共有し、味わう人も一緒に作っている。

落合が例に挙げたのはAITuber、つまりAI版のVTuberである。AITuberに入力しているのは客だ。作り手は客と一緒に、AITuberがどう変化するかを見ている。作り手も多少は味付けするだろうが、機械の能力の大部分から見れば、ラーメンに胡椒を振りかける程度にすぎない。ではラーメンを作っているのは誰かと言えば、聞いている人だ、と落合は言う。これまではクリエイターがすべてを作り、客が受け取る形で、主体と客体の間に明確な差があった。その差がほとんどなくなったとき何が残るか。落合の答えは「テイスト」である。

テロワールを失わない醸造

では、どんなテイストを残せばよいのか。落合はこれを「テロワールを失わない醸造とは何か」という問いとして語っている。抽象化するときに、その土地や文脈性を失わないように意味を抽出しなければ、コンテンツは意味を失う。コンテンツも工学も発明も楽に生まれる時代には、技術が損益分岐点を超えたという一時的な事実だけでは足りない。固有の何かが必要になる。落合によれば、それを求める先は人によって違う。ブランドに求める人、歴史に求める人、作り手や土地に求める人、過激さに求める人。殴り合うコンテンツがたくさんできたからそれでいいと思う人もいる。

落合は、ロボット同士が走る100メートル走の例も挙げた。それを見て「ええ」と引く人もいれば、技術の粋についてうんちくを語りながら楽しむ人もいる。あらゆるものが自動で作られるようになったとき、我々がそれをどう見るのかを考えなければならない。それが身体経験なのか、文化なのか、気候なのか。そうしたテロワールをきちんと考えることが大切だ、と落合は言う。

ユーザーが作っているのかと問われれば、ユーザーも作っているし、醸している側も作っているし、利き酒師もいる。あらゆるものが人間の手の中で動かなくなった世界で、制作物や発明や文化として共有されるものをどう考えるのか。落合はこの問いを8年間さまよいながら考え、これは発酵と醸造のメタファーだといった発想を詰め込んだのがこの本だと述べた。

仕事はどう変わるか——「虚構」を信じられるか

「ホワイトカラーは要らなくなるのか」と聞かれ、落合は、重要なのはどの虚構をみんなが信じられるかだと答えた。客のデータで強化学習し、それを客に提供し直してお金を取ることを奇妙だと思ったことはないか、と落合は問う。AIを訓練しているのは業者でもあるが、正解データを与え続けている我々でもある。それなのに、我々が最も高いお金を払って使わせてもらっている。本来は相手が我々のデータを使わせてもらっているはずだ。AIを中央に置くと、主体と客体は本当は分かれていない、と落合は指摘する。

トレーニングが自動化されているなら、問題は計算資源を持っているかどうか、つまり資本があるかどうかだけになる。しかしオープンなモデルが出てくればその圧力も下がるので、おそらく資本の問題でもなくなっていく、と落合は見る。便利なものは環境側にあり、我々は合意形成のうえで向こうから情報やサービスをもらっている気がするからお金を払う。この虚構を信じられる人は、最近ではそれほど多くないだろうと落合は言う。

会社も同じだ。社長がAIを使って会社を回し、APIを回しているだけなら、社員はその会社で働きたいと思うだろうか。聞き手は「つまらないですよね」と応じた。社員1人のユニコーン企業が増えているが、そこに労働力として加わった人は、同じことを自分でやればいいと考えるかもしれない。虚構が崩れると、人は会社を出て自分でやったり、逆に新たな虚構を強く信じたり、宗教性が強まったりする。反応は人によってさまざまだが、道具と人の関係がここまで根本的に変わると、社会のかなり大きな部分まで変わるだろう、と落合は述べた。

多様性の増大、ファンタジーの消失、中動態の文明

どんな世界になるのかと問われ、落合は、自然とともに生きていた時代の民族観は非常に多様だったと指摘した。SNSを見ても、人によって価値観はまったく違う。価値観の違いを受け入れたまま工業ができるようになったようなものなので、実に不思議な世界になりそうだ、と落合は言う。多様性については、増すと思うし、減る要素はまったくないと明言した。

落合によれば、これは『魔法の世紀』で書いたことでもある。20世紀は「映像の世紀」だった。1つのスクリーンをみんなで見る道具で国民国家を作り、戦争の道具にもなった。マスメディアが一方向に発信するものをみんなで共有していた。21世紀には、それが物理空間にも出てくる。N人がN通りの違うものを作り、それをコンテンツとして見るようになる。バーチャルなものが現実に影響し、動作原理は分からないが使えるものが増える。一方で、SNSがある時代にイエティを探しに行く人はいない。この世界からファンタジーはほぼなくなる。2015年ごろに書いたこれらのことが自然化した結果が今だ、と落合は言う。

人々はバラバラになっていく。やる人とやられる人、発信する人と受け取る人の区別もあまりなくなる。受動態でも能動態でもなくなる。落合は、文明に対して「中動態」になるという考え方を、従来とは違う文明論だと位置づけた。文明に対して能動的だと思えれば人間は働きやすい。受動的だと思うと悩む。しかし能動的でも受動的でもないと言われると、アイデンティティがおかしくなる人がたくさん出るだろう、と落合は言う。

聞き手は、人はパーソナライズされたものを好む一方で、集まって同じことをするのも好きではないか、と問いかけた。落合は、そうした本能は変わらず残り、両者が並存すると答えた。ある時間には自分のやりたいことをし、別の時間にはみんなで集まる。ライブも増えているし、会社もみんなで集まりたいから存在しているのだと思う、と落合は述べた。

人間力は代替されず、それを補っていた能力が目減りする

落合は「残酷な話」だと前置きして、人を集める才能について語った。これまでは、人間に関与する力が特になくても、何らかの技術があれば人を集められた。歌がものすごくうまい人のコンサートには人が来る。しかし超リアルタイムで歌を上手にするボイスチェンジャーが世の中にあれば、人間力の高い人の方に人が集まるだろう、と落合は言う。人間力という能力は、実はあまり代替できていないからだ。

同じように、ものを作るコストが大きく下がり、技術的な壁がほぼなくなったのに、ものを作る人の数はあまり増えていない、と落合は指摘する。少しは増えているかもしれないが、と留保しつつも、作り続けたり検証し続けたりする能力は、環境側がどれだけ潤沢な知能を与えてもあまり変わらないと言う。改善のプロセスを自分の中で回したいと思う人は、意外と多くないのだ。

聞き手が「人間力の希少性は上がるのか」と尋ねると、落合は「今までと一緒」だと答えた。人間力の母数は変わっていない。強い人は強い。変わるのは、人間力を補完してきた能力の方が目減りすることだ。面白い人は面白いし、面白くない人は面白くない。面白くない人は何をやっても人を引きつけられない、という当たり前の結論に達する、と落合は言う。聞き手が「それは以前からそうだったのでは」と返すと、落合は違うと答えた。これまでは何らかの技能があれば、一緒にいて面白いという以上の価値があった。ホームランを打てる、速い球を投げられるといった肉体の能力はそれでいい。しかし知的技能を高めることで付加価値を作ることが、人間力以上に魅力的だった時代もあった。落合は、その部分が揺らぐと言っている。

問題解決より価値発見——嗅覚をどう磨くか

マタギになるにはどうすればよいか。落合の答えは「雑多なものを多量に取り込む」ことだった。本にも書いたとおり、価値発見のための工学の方が、問題解決型の工学よりも重要になるという。課題解決が大事だと長く言われてきたが、課題解決の能力が全員に配られてしまえば、意味を持つのは価値発見の方だけになる、と落合は言う。

聞き手がコンサルを例に出すと、落合は、課題解決をうたうコンサルはコモディティ化の要素が大きくなると答えた。プロデューサーやスカウトのような仕事については、プロデューサーも価値発見だと述べた。価値発見型の方に比重が大きく移るのかという問いには、解決型の価値がゼロ円に近づくのだから移る、と答えている。聞き手が「嗅覚のようなものですね」と言うと、落合は、価値を探しに行く行為はかなり狩猟採集的ではないかと応じ、二人は「それこそマタギだ」と確認し合った。

その嗅覚をどう磨くのか。落合はテロワールの話に戻り、雑多なものを食べまくるしかないと答えた。いろいろなものを食べてみること、フットワーク軽くいろいろなものにアクセスしてみることの方が、「あの人は熟練の職人だから」ということよりも重要になる。熟練の職人の目で見ると面白い価値発見ができることもたまにある、と落合は認める。しかし能力や技能が全員に分配されていると考えると、農耕社会で培われてきた技能訓練とは違う結論になりやすい。

落合によれば、探求行動をとり続けないと意味がなくなってしまう。そして今のAI社会にきちんと適応した人は、感覚的には2割くらいではないかと言う。AIが勝手に進歩していく環境で、その進歩をキャッチアップしている人は、できることや知れることが増えて楽しいと感じている。聞き手が「落合さんが今最先端でやっていることも、2〜3年後には標準装備になり普通の人でもできるようになるのでは」と問うと、落合はそうだと答えた。聞き手は、それでもできない人がたくさんいそうだと付け加えた。

終盤:専制化と「中年はどうすべきか」

インタビューの終盤は、次回への導入として短いやりとりが続いた。民主主義は後退するのかという問いに対し、企業も含めてあらゆる意味で専制主義的なところが増えている、非常に専制主義的だ、という趣旨の発言があった。専制主義が行きすぎた先に起こるのは革命であり、その匂いがする、ターミネーターより悲惨な「ターミネーター社会」になる、という言葉も出たが、字幕からはどこまでが落合の発言かを明確に切り分けられない。

最後に聞き手が中年はどうしたらいいかと尋ねた。落合は、毎日成長が感じられればよいとしたうえで、「AIに精通しつつ、AIのコミュニティには行かない方がいい」と答えた。落合自身がマタギとして今後どう生きるのかという問いは、続編に持ち越された。