ちくわぶの謎から「理解されない生き方」まで──平野紗季子と成田悠輔の対談

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概要

エッセイスト・フードディレクターの平野紗季子と経済学者の成田悠輔の対談である。話は、分類しにくい食べ物の話題から始まる。そこから発信のあり方、アテンション・エコノミーへの距離の取り方、ゆっくり進むことの意味へと移り、最後は二人それぞれの生き方の話になる。平野は「見てみたい」という欲望と日々の思い出を、成田は「何をやっているかわからない人」であることを、自分の軸として語った。

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ちくわぶを食べると記憶が消える

成田はまず、最近食べたもので既存のカテゴリーやジャンルに分類できないものはあるかと尋ねた。平野は、文化というより個人的な経験だと断ったうえで「ちくわぶ」を挙げた。特に好きなのは、おでんや煮物に入った、出汁が染み切っていないちくわぶだという。色々食べた後にそれを口にすると「記憶が飛ぶ」、つまりそれまで食べていたものをすべて忘れてしまうと平野は話す。

成田は、それはちくわぶの凄さではなく平野の特異さではないかと返した。すると平野は、同じことが生麩でも起きると言う。京都の日本料理で焼いたものや田楽が付け合わせに出ると、鴨などを食べていても生麩を食べた瞬間に全部消えてしまう。平野はこれを「消しゴム」と表現し、何かの成分でも入っているのかと冗談めかした。

二人はそこから、ちくわぶとは何者なのかという話に進んだ。魚の練り物とは違うのに、おでんの中では練り物の仲間のような顔をしている。原料は小麦だろうと平野は推測した。ここで成田は、小学生の頃に毎週金曜日の卓球の帰りにおでん屋の屋台に寄り、80円のちくわぶを毎回頼んでいたことを思い出したと話した。成田によれば、練り物は長く煮てもアイデンティティを保ち続けるのに対し、ちくわぶは煮すぎても入れすぎてもだめで、ちょうどよい「生存期間」が短い繊細な食べ物だという。

買っても食べ方がわからない生麩

話題は生麩に移る。生麩もちくわぶと同じく「あれは何なのか」と思う食べ物だが、平野によればもっとムチムチしているという。成田は、生麩は意外に手強いと言う。店で田楽として出てくると美味しいのに、自分で買うとどう食べればよいかわからない。

成田は、京都からの帰りになぜか生麩を買い、新幹線の中で開けてかじりついてみたが微妙だった、という体験を5回ほど繰り返している気がすると話した。生麩はとても好きで食べたい気持ちがあるのに、買ってもどう食べればいいかわからない。平野は、焼いた方が良いのではないか、刺身のようにそのままでもいけるはずだと応じた。

偏った好みに特化したコースと「うんざりするまで食べる」

成田は、生ちくわぶだけのコースを出す店を誰かに作ってほしいと言った。そんなコースを誰が喜ぶのかという問いには、少なくともこの二人は行くだろうと答え、平野も「私たちが行かなくて誰が行く」と同意した。

成田は、異様に偏った好みだけに特化したコースを作ってほしいと話し、例としてパクチーだけのコースを挙げた。パクチーは好きだが、同時に「うんざりしたい」気持ちもあるという。好きなものを、もういいやと思うところまで食べたいということだ。平野もこれに共感し、嫌になってから新しい味が出てくる、「第2章」があると話した。成田は、バターサンドが延々と出てくる店を臨時開店してほしいと頼み、平野は来てくれるなら、と応じた。

ポッドキャストで再生数を見ない理由

成田は、ポッドキャスト番組を続けるうえで大事にしていることを尋ねた。平野の答えは、ポッドキャストについては再生数を見ていない、というものだった。J-WAVEで制作しているラジオ番組ではランキングが出てしまい、それも一つの指標にはなる。ただ、ポッドキャストはYouTubeと違って再生数がリスナーには見えず、平野自身もあまり見ないようにしているという。「こっちの方が数字がいいから、その傾向でやっていこう」と進めていくと、何のためにやっているのかわからなくなる瞬間が来る、というのが平野の考えである。

では、どんな時にうまくいったと感じるのか。平野が挙げたのは、2025年3月に東京駅で(NO) RAISIN SANDWICHの店をオープンした時のことだ。平野は何年もポッドキャストでノーレーズンサンドの話をし続けてきた。それを聞いていたリスナーが、開店について「推しが武道館に行った気分」と感想を書いてくれた。それを読んで、やっていてよかったと思ったという。

音声は「隣にいる」メディアだ

平野はポッドキャストの性質をこう説明した。基本的に時間の制限がなく、何十分でも1時間でも使える。音声だけなので聞き流されることが多い。そのため視聴の機会は「長く、でも薄く」なり、自分のストーリーや考えていることを長い時間をかけて共有できる。その対極にあるのが、10秒で刺すような切り抜き動画である。平野は、そうした映像の世界が非常に強くメインストリームになっているとしたうえで、長く浅くコミュニケーションを続ける場として、ポッドキャストはとても向いていると述べた。

成田は、音だけだと横にいるような感覚になりやすいのではないかと付け加えた。平野もこれに同意した。ほとんどのメディアは相手が180度向こうにいる感覚になりやすいが、音声だと隣にいる感覚になれる。平野自身、友達が増えたような感覚があるという。成田は、レンズを介さないことが大事なのではないかと話した。レンズはこちら側とあちら側を分け、どこかに焦点を当ててしまう。だから映像全般にはその限界がある、というのが成田の見方である。

成田にとってのバイラル──「勝手にそうなっただけ」

平野は逆に、短く強い言葉で世の中にバイラルさせることの価値をどう考えるかを成田に尋ねた。それで多くの人が成田を知っているのではないか、という問いである。成田の答えは「どうでもいい」だった。YouTubeもTikTokも自分で作ったり出したりしたことは一度もない。どこかに少し出たものが勝手に切り抜かれ、出回っているだけだという。

成田は、自分にとってそれは良くも悪くもなく、その現象を眺めている感覚で、科学実験や社会実験をしているようなものだと話した。そうなることを目指していたわけではない。むしろ最近は、そうならないように頑張っているという。この番組でも、できるだけ切り抜きにくい話をしようとしている。短時間で強い言葉をパッと言えば切り抜かれやすく広がりやすいが、今はそれをやめようと思っていて、ほぼやっていないと成田は述べた。平野は、ちくわぶの話はあまりバイラルしなさそうだと笑った。

中毒性の高い屋台が街中に乱立している

その社会実験から何を思うかと問われると、成田はまず「しょうもないな」と答えた。そして食べ物にたとえて説明した。食べ物にも、パッと食べて瞬間的に中毒になれるような調味料や素材がある。動画の世界で起きていることもそれと同じだという。これまでは、そうしたものを作ったり出したりできる人がごく一部に限られていた。それが急に民主化され、誰でもどこでも屋台を出せるようになった。その結果、中毒性の高いファストフードの屋台が街中に乱立している状態だ、というのが成田の見立てである。

成田は、かつてその誘導を牛耳っていたのは日本テレビやフジテレビのようなごく一部のメディアで、その構造が崩れて誰でもやれるようになったことは「いいことと言えばいいこと」だと認めた。一方で、その結果として至るところが罠だらけになっているとも言う。

食べ物の世界では、何を売ってよいかの規制や成分表示の義務、特定のものへの課税、保健所への申請など、さまざまな規制が導入されてきた。成田は、情報についても同じことが行われ、「情報保健所」のようなものが作られていくのではないかと推測する。ただ難しいのは、今流通を握っているのがすべて海外の企業で、彼らは日本の規制を気にしないことだ。YouTubeは最近ましになってきて、危ないことをするとすぐBANされるようになったが、それでも十分ではない。成田は、規制をかけることのできない悪を生み出してしまったというのが、自分の観察から思う実態だと語った。

平野がアテンション・エコノミーに乗らない理由

成田は、平野がそうしたアテンション・エコノミー的な世界でバイラルさせることを全くやっていない点を「偉い」「尊敬している」と言った。平野はこれを否定した。それが最適解だとしても、やるかやらないかは個人の自由で、やらない選択肢もある。そういう意味で平野は、ポッドキャストを、健やかでいたいが発信から降りたくはない人にとっての適切な場所、オルタナティブな居場所だと感じているという。

成田はさらに、その誘惑にそもそも興味がないのか、意識的に避けているのかと尋ねた。食べ物の界隈で言えば、味の素をめぐる論争に参戦する、といったことである。平野は、Xで何を発言すればバズるか、食べ物ならどんなテーマが盛り上がるかはもちろんわかると答えた。ただ、それで盛り上がって自分に何が残るのかと考えてしまうという。それが楽しい人や、そこで生きている実感を得られる人はやればいい。しかし自分には何の意味があるのかと思ってしまう、と平野は述べた。

「頭の中にあるものを現実で見てみたい」

では、どんな時に素直にやっていてよかったと感じるのか。平野によれば、店をやったり色々な仕事をしたりする中では大変なこともあり、店を一つ立ち上げるのもしんどい。そういう時には、なぜやっているのだろうと考える。突き詰めると、名誉のためでもお金のためでもなく、単純に「見てみたい」という欲望なのだと平野は言う。頭の中にあるものを現実の世界で見てみたい、ただそれだけだという。そして、自分だけが思っていても周りが見たくないと言えば形にできないことも多いので、「わかるよ」と言ってくれる人がいるのがとても嬉しいと話した。

成田は、平野がわかりやすく人を集めたり動員したりしにくいスタイルでやっていることに、ジレンマや不思議な分裂はないのかと尋ねた。平野の答えは、別に東京ドームに立とうとしているわけではない、というものだった。成田は、平野がそのバランスの絶妙なところにいると評した。

平野は、閉じた自分だけの世界でやろうと思っているわけでもないと付け加えた。東京駅のような、むしろ自分を知らない人の方が多い場所に出ていくのは、ある意味でジャンプだという。平野はそれを「シーズン3」「新シーズン」のような楽しさと表現し、店がどこまで育っていくのかをこの先も見てみたいと話した。

ゆっくり、寄り道をしながら進む

成田は、ゆっくり変化すること、ゆっくり成長することが大事なのではないかと話した。平野は、自分はもともとゆっくりな人間だと答えた。成田によれば、速さや規模を求めると燃え尽きていくしかないのではないか。それはそれで美しいのかもしれないが、結局は思い出を作りたいだけで、思い出はゆっくり動いた方ができるのではないかという。平野も「味わい深い」と同意した。

成田はこれを散歩にたとえた。いろんなところを眺めたり、変な草や花を拾ったりしながら、どちらかの方向にはゆっくり向かっているが、効率は悪く寄り道だらけ。そういう感じが大事なのではないかという。ただ、目的地にできるだけ早く進むのもよくないが、すべてが寄り道になると人間は狂うようにできているのではないか、とも成田は述べた。平野も、どこに向かっているのかわからないのはきついかもしれないと応じた。そこで成田は、目的地や進む方向の感覚はあって弱い心をどうにか保ちつつ、実際は寄り道だらけ、という形にできないかと考えているという。平野は、それが自分にとって一番健やかで合っている動き方かもしれないと話した。

どこにたどり着くのかと問われると、平野は、物を食べて何かを感じ、そこで思ったことから何かを作りたくなったら作る、そういう日々で得た思い出が豊かならそれでいい、と答えた。未来がどうなるかは本当に考えていないという。

誰かの最後の晩餐をプロデュースするなら

成田が最後の晩餐について考えることはあるかと聞くと、平野は考えないと答え、よく聞かれる質問だと認めた。そこで成田は問いを変え、自分ではなく誰かの最後の晩餐をプロデュースしなければならないとしたらどうするかと尋ねた。平野の答えは水羊羹だった。平野は、ムチムチした系統のものに惹かれている、「呪われている」、前世がムチムチした何かなのかもしれないと冗談を交えて話した。

成田は、水羊羹は病気でも体力が落ちていても、歯がなくなっていても食べられると評した。甘くてひんやりしていて良さそうなので、水羊羹を買ってタイムカプセルに入れておきたい、ノーレーズンサンドも一緒に入れたいと成田は話した。

成田の目標は「理解できない人」のまま終わること

最後に平野は、成田自身は生き方の目的をどう考えているのかと問い返した。成田は、目的はもちろんないし、平野にとっての「食べること」のようなコアもないと答えた。むしろなくしたいのだという。人はついそういうものを求め、持つべきだと思いがちだ。自分が何をやっている人間なのか、アイデンティティを確定しなければならないという思い込みは、人間にとても強い。肩書きや職業をやたら付けたがるのも、人をできるだけ単純に、安心できる名前でカテゴライズしたいという欲望があるからではないか、と成田は話す。そして自分はそこから逃げたいのだという。

平野が、成田のアイデンティティは見た目にすごく出ていると指摘すると、成田は、そろそろ眼鏡も毎日違うものにして、日によって星形にしていくのがいいかと思っていると応じた。成田が目指したいのは、何をやっているかわからない人、誰にも評価されない人であり、理解できない人として最後まで行けたら理想だという。ただ、人間は弱いのでなかなか難しいとも認めた。

成田は、ただ生きて、ただ死にたいと話した。長く生きたいとか、その中で何かを成し遂げたいということはない。かといって切腹して華麗に早く散りたいわけでもなく、平野はそれもまたアイデンティティが強すぎると応じた。成田が望むのは、どこかを旅している最中にトゥクトゥクに轢かれて交通事故で亡くなるような最期だという。平野がそれを「生き様」だと言うと、成田は、その時バッグに水羊羹が入っていたらいいと付け加え、対談は終わった。