「才能で語りたい」――芸人・永野が語るライ麦畑、ニルヴァーナ、ピンク・フラミンゴ
PLAYERS公式芸人の永野が、書評家の三宅香帆を聞き手に、人生に影響を与えた本・音楽・映画について語った対談である。話は個人的な愛好品の紹介から、希望を語る表現への反発、「多様性」を口にする人への苛立ち、お笑い界の体育会系的な構造、そして50歳を過ぎて感じる「友情より才能」という実感へと進む。永野が一貫して語るのは、自分にとって創作は「現実逃避」であり、そこでこそ自分が冴えるという感覚だ。
レッチリの歌詞からブコウスキーへ
三宅から本について聞かれた永野は、読書経験は「すごく少ない」と前置きしたうえで、数少ない読書も結局は洋楽から来ていると説明する。きっかけはレッド・ホット・チリ・ペッパーズだった。ホリプロをクビになり、28歳前後でお笑いの仕事が「パタンと消えた」時期に、それまで本を読んでこなかったことに思い至った。そこで、レッチリのアルバム『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』の1曲目の歌詞に出てくる人名、チャールズ・ブコウスキーを読んでみようと考えたという。
友人のいた中野の広い書店で見つけたのが『パルプ』だった。永野によれば、ブコウスキーが70歳前後で書いた作品だが、とても70歳の作品とは思えなかった。「こんな具体的に、露骨に書いていいんだ」と感じ、タイプライターで「ガツガツガツ」と書いているような感触に惹かれたという。他の本が整えられたものに見えたのに対し、ブコウスキーは「細胞がそのまま打たれたような」衝撃だったと語る。三宅も、日本の作品に比べて海外の作品には「ここまで書いていいのか」と読者に委ねる部分があると応じた。その後、永野は『町でいちばんの美女』なども読み、作家単位で読んでいくようになった。
「僕だ」と思いながら読んだ『ライ麦畑でつかまえて』
永野が「普通すぎて恥ずかしい」と言いながら挙げたのが、19歳頃に読んだサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』である。「これは読まなきゃダメだ」という圧を感じて生きてきて、本を読まないのに手に取った。読むと主人公ホールデンが脳内に話しかけてくるようで、「これは僕だ」と思ったという。永野は、世界中の少年が同じように思うのではないかとも言う。
一方で永野は、この本を「危ない本」とも表現する。ジョン・レノンを撃ったマーク・チャップマンが、警察が来たときにこの本を読んでいたという話に触れ、当時は意味がわからなかったが今はわかる気がすると述べた。
三宅は、太宰治の『人間失格』も大人になって読むと違う印象になるが、17〜18歳で読むと強く「食らってしまう」小説であり、『ライ麦畑』もそれに近いと語る。三宅自身も18歳頃に読んだという。
永野にとって『ライ麦畑』は、読み返していない本でもある。今の年齢で読むと「汚れそう」で、冷静になって印象が変わるのが嫌だからだ。19歳で読んだ体験のまま終わらせたいという。受けた影響としては、「今この時、自分は行動しないといけない」という感覚を挙げた。
三宅はこの本について、世代を問わず多くの人が「10代で読むべき作品」と言い、自分もそう思ってしまうのが不思議だと話す。日本の話でも同じ世代の話でもないのに、ここまで「若い人の作品」と思われる小説は他にない、「変な小説」だと述べた。
希望を語らないニルヴァーナ
音楽で永野が挙げたのは、高校2年生のときに出会ったニルヴァーナである。1991年頃に登場し、数年後にボーカルが銃で自殺するまでずっと好きで、その衝撃的な終わり方も含めて今も影響が残っているという。対談では『ネヴァーマインド』のジャケットを見せながら話が進んだ。
永野が衝撃を受けたのは、カート・コバーンの歌詞だった。本人は歌詞を「カット&ペースト」、つまり何かの断片をつなげたものだと言っていたと永野は紹介する。多感な時期のロックは、先生が嫌だ、恋の歌、社会がどうだ、あるいは破壊的なことを言いながら女の子を歌う、といったものが多かった。今のヒップホップも「自分はここにいる」と主張するものだと永野は見ている。それに対してコバーンの歌詞は、「こうなってこうなってこうなりました」という筋ではなく、絶望の心情をただ熱を込めて羅列しているように感じられた。「俺はもう消えてしまいたい」ということを、それこそ『人間失格』のように言っているだけ、というのが永野の受け止め方である。
永野は、ニルヴァーナの影響で人生が悪い方向に行った面もあると冗談めかしつつ、それ以来「希望」を言ってくる表現があまり好きではなくなったと語る。「なんで言われなきゃいけねえんだよ」とずっと思っているという。
高円寺のビデオ屋で出会った『ピンク・フラミンゴ』
映画については、18歳で上京し、高円寺のレンタルビデオ店で借りた作品の話になる。地方ではハリウッド映画のようなシネコン作品しか知らなかったが、その店には青春・スポーツ・アクションコメディと並んで「カルト」の棚があった。そこで見た1本が、ジョン・ウォーターズの『ピンク・フラミンゴ』である。
三宅も大学生のとき、映画好きの友人が見ているのを横で見たという。三宅が「クソみたいなシーンがいっぱいありませんか」と言うと、永野は犬の本物の糞を食べる有名なラストシーンや、鶏を巻き込むシーンを挙げ、ずっと「最悪」な映画だと認める。三宅も高知出身で、有名な映画以外はそもそも来なかったという点に共感を示した。
それでも永野にはとんでもなく刺さった。冒頭、ウォーターズ本人のナレーションで、地元ボルチモアを舞台に、どちらが最低かを争う夫婦と家族の話が始まる。今では作れないような「最低加減」を見て、表現は何をやってもいいのだと感動したという。その後もカルト映画を見たが、多くは気持ち悪くて不愉快だった。ウォーターズ作品だけは画面がポップでおしゃれで、「品」を感じ、笑えるのだと永野は言う。ただ、人に勧めると「なんでこんなものを見せたの」と言われるそうだ。
「多様性」を語る人に見せると顔が歪む
ここから永野は、苛立っていることがあると話し始める。18歳の自分はドラァグクイーンのディヴァインを見て、ちゃんと感動していた。ウォーターズもゲイで、そうした人たちの作品に触れてきた。それなのに最近、取ってつけたように「多様性」を言ってくる人がいる。永野は「お前より知ってるよ」と言いたいという。自分は相手が野球をやっていた頃にディヴァインを知っていた、という言い方もした。
永野が『ピンク・フラミンゴ』を好きな理由の一つは、「俺たちは最低だ」とかましてくるところにある。今この映画が作られないのは、作っても「わかる」と共感されてしまい、世の中が「共感の柔らかさの綿」に包まれていきそうだからではないか、と永野は推測する。
さらに永野は、自分のリテラシーの高さを示すために「ピンク・フラミンゴいいですね」と言う人もいるが、この映画の良さは別にあると言う。「多様性」を口にする人に実際に見せると、ちゃんとぎょっとする。その人の根底にある差別意識があらわになる、というのが永野の見方だ。「人はみんな平等だと言っていたよな」と言いたくなるが、映画の前では「あれは何ですか」という反応になる。三宅も、あの映画は普通にぎょっとするものだと認めている。
サブカルで武装して入ったお笑い界は体育会系だった
三宅は、ある時期の芸人には、映画・本・音楽といったサブカル的な素養を持ちながら、その道に進まず芸人になった層がいるのではないかと問いかける。永野もそうかもしれないと認める。当時は第3世代の芸人が流行っていたこともあった。
しかし実際に入ってみて永野が失望したのは、そこが「スポーツかヤンキー」の世界だったことだ。東京に来たのは、はみ出し者と呼ばれるような変わった人に会いたかったからなのに、お笑い界もまた「社会」であり、陽キャと陰キャが教室を作るような構造だったという。お笑いを始める前は、『ピンク・フラミンゴ』を見てワクワクし、ジョン・フルシアンテについて読んだりしていた。映画を撮るのは厳しそうだし、本当はインディーズ的なことをやりたかったが、お笑いには才能がある気がした。それで飛び込んだら体育会系の世界で、ずっときつかったと振り返る。
永野は、スポーツ経験者が悲しい顔をしていても、ボールを投げれば100何キロ出るのだと思うとぞっとする、自分は投げても壁まで届かないかもしれない、と話す。三宅はこれに強く共感し、ドッジボールが許せないまま生きてきたと語る。小学生がボールで人を「殺し」、殺された人は「外野」に行き、人を殺せば内野に戻れる。二人は、あれはドッジボールではなく「キルシステム」だと笑い合った。
「昔の自分に認められるか」という三宅の葛藤
永野は三宅に、自分に対しても含めて「今嘘をついているな」と思ってしまうタイプかと尋ねる。三宅は、嘘をついてしまって「終わってしまった」と感じることがあり、本当の言葉のままでいたい気持ちがあると答えた。
三宅は、本だけを書いていた時期から、ここ数年でYouTubeやテレビにも出るようになった。そのため、大学生や高校生の頃の自分が今の三宅香帆を「いいね」と思えるかが気になり、その一線を越えたくないという。永野は、カート・コバーンも「17歳の自分に向けてやっている」と言っていたと指摘し、同じことを言っていると反応した。世の中では、大人になれば変わるのが当然だとすぐ言われる。だが変わろうとせずに苦しんでいる姿はすごい、と永野は感動を口にした。
得意げになれる時間としての創作
三宅は永野に、映画を撮ったり次回作を考えたりするとき、誰に見てほしいかと尋ねる。永野は、特定の相手はなく、たぶんみんなに見てほしいと答える。ただし、個人的すぎるので、みんなが喜ぶものにはならないだろうとも言う。『ピンク・フラミンゴ』をみんながいいと言うわけではないのと同じで、そういうものを作りたい衝動は本当にあるという。
テレビやYouTubeでもよいのではないかと言われることもあるが、映画が好きだということに加え、永野は映画を撮っているときの自分が「得意げ」だと気づいたという。調子に乗っている状態は楽しい。三宅も、書いているときがいちばん冴えていて、頭がクリアになる感覚があると応じる。二人はその「脳が気持ちいい」状態を共有した。
永野は三宅に、書かなくても生活できるほどお金を得たとしても、きっと書くでしょうと言う。周囲にはそうした衝動があまりなく、「金さえあれば」という人もいる。そういう人を見ると、自分が青臭く見えてしょんぼりすることもあると永野は語る。ネタを作るのも好きで、それも同じ感覚だが、映画は人を巻き込んでやるところが楽しいという。
「友情・努力・才能」とスティーヴィー・ワンダー
人を巻き込む話から、永野は「才能」を重視する考えを語る。コンビを組まなかったことに触れ、コンビでやっていたら無理だっただろうと言う。18歳のときに同じ夢を持っていただけでは、才能の差などが出てくるからだ。東京で映画を撮ったり三宅のような人と会ったりすると、才能のすごい人がいる。それが基本にあるのは残酷だが楽しい、ということを経験で知ったという。
永野が大昔の記憶として話すのが、1980年代のテレビで見た「ウィ・アー・ザ・ワールド」関連のインタビューだ。三宅はNetflixのドキュメンタリー『ポップスが最高に輝いた夜』(字幕では「ウィ・アー・ザ・ワールドが作られた夜」)を見たと話す。永野の記憶では、インタビュアーがスティーヴィー・ワンダーに、友情・努力・才能のうち一番大事なものは何かと聞いた。当時の永野は『キン肉マン』の影響で「友情」という言葉が好きだったが、スティーヴィー・ワンダーは笑顔で「才能」と答えた。子どもは友情や努力に行きがちなのに「才能なんだ」と思い、小学生の永野にとってトラウマ級だったという。
映画を撮ったときも、昔の友達がいたわけではないが楽しかった。10を言わなくても1で伝わる「才能トーク」の方がいい気がする、と永野は言う。三宅は、友情は性格でつながるが、才能同士のつながりは作品に対してだけなので「不純物少なめ」な感じがすると整理した。
50歳を過ぎた友情のきつさ
永野は「友情きついっすよ」と言い、まだ若い三宅に「50過ぎて同級生やってごらんなさい」と語る。創作に関わる仕事をしてクリエイティブな人と会い続けていると、才能の圧倒的な差に揉まれていく。そうなると、東京の才能ある人に早く会いたいと思うのだという。
三宅は、地元の友達は仕事で会う人とは別の枠にいるのではないかと問う。永野の答えは「残念な話」だった。人生にあまり満足していない地元の友人とは、変な鋭さが残っていて話が盛り上がる。だが満足している人は、人生のバランスが取れているため、学生時代に磨いていたものを磨かなくなる。生活が楽しくない人は考え事をしているから磨き続ける。それが良いというわけではない、と永野は断りつつ、地元で幸せな人で面白い人はなかなかいないと話した。
永野から物書きはどうかと聞かれた三宅は、若いうちに評価されて社会的には恵まれた立場になっても、傑作を書き続ける人はいると答える。読者に評価され続けたいという気持ちがあるのではないかという。三宅は最近会った五木寛之が、90代でなおYouTubeに出て本を宣伝したいと話していたことを挙げ、すごすぎると語った。永野は、凡人はそうした欲望がなくなると応じる。三宅は、その域になるとお金や生活が満たされているかは関係なく、創作欲求と人に届けたい欲求の世界になるのではないかと述べた。
創作は現実逃避、ゴルフやバーベキューは「社会の所作」
永野は、自分には甘えたところがあるとも認める。クリエイティブ系に片足でも入っていれば、「才能で勝負します」「これは感覚で」といった子どもっぽい言い方が許され、お金のことなども誰かがやってくれる。だが普通の社会ではそうはいかず、「ちゃんとしなさい」と言われる。だから映画などには現実逃避の面があるのかもしれない、と永野は話す。三宅が「創作が現実逃避の先なのか」と確かめると、永野は「もちろんです」と繰り返した。
永野はネタ作りが大好きで、無趣味だと言われることもある。以前は真面目だからかと思っていたが、違う、これは現実逃避なのだと気づいたという。自分にはゴルフのようなスキルもなく、映画の見すぎでゴルフクラブは人を殴る道具に見える、と冗談も交えた。キャンプやバーベキューは「立派な人が休日にやるもの」で、きついと感じる。ヒロシの一人キャンプは別だとしつつ、今のキャンプは「社会の所作」に見え、「すみません、やります」という義務のように感じるという。
これに対して創作では、自分の感覚のまま、幼いままでいられる。三宅は、作る方が「脳内で非社会・非現実」なのだと言い換えた。永野はさらに、想像の中には法律もなく何でもあり、しかも自分にしかできないことだと付け加える。休日のゴルフやバーベキューに対しては、それで休めているのかと思ってしまうという。
ただ永野は、人といる方が休めるという人がこの世にはたくさんいることも認める。自分はリモート飲み会には絶対参加しなかった。休み時間にみんながドッジボールをしていたのと同じで、休み時間にこそバーベキューをする人たちがいて、自分たちはそうではない。「残念ながら現実はそういうこと」だと永野は話を締めくくり、長居すると怖がられるからと言って席を立った。
19歳ぐらいの時にあれ読みました。『ライ麦畑でつかまえて』を。あれはもう、恥ずかしいこと言っていいですか?もう「僕だ」とか思うようになるんですよね。
高円寺のビデオ屋さんで、今じゃ考えられないけど、青春、スポーツとか、アクション、コメディとかで「カルト」ってやつです。カルトって言って見た中の1本で『ピンク・フラミンゴ』ってやつ。カルト映画だ。
『ピンク・フラミンゴ』は何がいいかってさ、あの、多様性がっていう人に『ピンク・フラミンゴ』見せると、ちゃんとギョッとするんですよ。あらわになる、そいつらの根底にある差別意識が。友情きついっすよ。
50過ぎて同級生やってごらんなさい。才能の差が。こういう職業してるから、クリエイトの人と会うから、めちゃくちゃそこ揉まれていくわけですよ。才能の圧倒的さ。まずい、まずい。飯が。早く金子ノブアキに会いたいとかも。東京の。
ぜひ、あの、人生に影響を与えたコンテンツとかあったら。映画と音楽お好きですよね。本とか読まれますか?
映画、僕ね、映画とかでも洋画とか、特に洋楽とか好きって言ってたんですけど、でも三宅さんだから本ってあるのかなって、今ここに来ながら考えてたんですけど、すごい少なくて。でもそれも結局、洋楽の影響では。
洋楽でレッド・ホット・チリ・ペッパーズって言って、レッチリ。その歌詞の中に出てくる言葉、人の名前があって。で、僕ホリプロにいて、ホリプロクビになったみたいな、28歳あたりとか。その後またやるんですけど、徐々にお笑いが、なんかこうパタンって消えたからどうしようみたいな時期に、本とか読んだことなかったなと思って。
で、レッチリ、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、レッチリって略されてるんですけど、レッチリの歌詞であった、あれ読んでみようと思って。チャールズ・ブコウスキー。
へえ、渋いところ。
歌に出てきたっていうのは、普通にその固有名詞で、チャールズ・ブコウスキーとか。えっとね、『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』っていうアルバムの1曲目の歌で。チャールズ・ブコウスキーとか思って、中野に友達がいて、そこの本屋さんで。本屋さんも今もう郊外にしか、あの広いのなくなってきたじゃないですか。
ないですよ。今東京マジでなくなってますよね。あの広い本屋良かったですよね。
あの、なんか平和な。あそこでまさかのあの作品があったんですよ。『パルプ』っていう。それを読んだんですよ。で、多分70ぐらいの時に書いてるやつなんですね。で、読んだら70じゃないですよ、作品がもう。
確かに『パルプ』は前衛的。
前衛的でとんでもなくて、もうこんな具体的に、露骨に書いていいんだと思ったんですよ。なんかタイプで打ってるとか言って、もちろん考えて打ってんだろうけど、ガツガツガツって書いてる感じがいいらしいんですね。他の本ってなんかこう……みたいな感じ。
でも確かに、日本の作品とかに比べると海外の方が、こんな描写していいんだとか、ここまで投げていいんだみたいな、委ねられてるところ。
細胞がそのまま打たれたみたいな。超衝撃で。その時期結構読みましたよ。『町でいちばんの美女』とか。
そうですね。人で好きになるんで、結構その。
じゃあ作家読みというか。
作家読みです。
作家読みで言うと、これもう普通すぎて恥ずかしいんですけど、19歳ぐらいの時に、これは読まなきゃダメだぐらいの圧を感じて生きてきたから、本とか読まないのに、ついにあれ読みました。『ライ麦畑でつかまえて』。サリンジャー。
なんかもう古典的な19歳でいいですね。古典。
あれはもう、恥ずかしいこと言っていいですか?もう「僕だ」とか思うようになりますね。あれやばくない?あれは初めての体験というか、脳内に話しかけてくるというか、主役が、主人公が。
そうなのね。
で、うわあって思って、もうあれ自分だってみんなが思うじゃないですか。世界中の少年たちは特に。ホールデンっていう少年がいて、主人公なんですけどね。
もう僕はそういう、『ライ麦畑』でもホールデンみありますね。
あります。なんか、その少年で、少年性を忘れずにみたいな。
あるんだよ。だからさ、あのジョン・レノン撃った人いたじゃん。マーク・チャップマンも。暗殺者。撃って、警察が来た時に『ライ麦畑』を読んでたんですよね。当時は意味わかんなかったけど、今は意味が分かるというか、なんか危ない本ですよね、あれは。
なんか、ま、傑作ですけど。
いや、でも強いですよね。その、何て言っていいんですか?太宰治の『人間失格』とかも、別に大人になってから読むと普通って感じだったりはするけれど、17、18、19ぐらいに読むと特に食らっちゃうみたいな、強い、食らっちゃうところがある小説だと思うんですけど、『ライ麦畑』も私は結構それに近いなって思います。私もやっぱり18ぐらいで読んでました。
なんかね、僕ね、だから変な感じで、ブコウスキー好きとかも30ぐらいで読んだから、むしろお笑いも始めて、うまくいってないけどあったから、いやらしさもあって、なんか入れたいみたいな読み方もあったんですけど、19ぐらいで読んだサリンジャーの『ライ麦』は、なんて言うのかな、そういうのじゃなくて、もう動かすものというか。
もうおっしゃる通り強い、強すぎて、なんか今何かしなきゃいけないと思いましたね。そういう部分があるんですけど、だから『ライ麦』が好きすぎて読み返してないですもん。
え。
なんか汚れそうで。この年で読んだら。19で読んだで終わらせたくて。
印象が変わっちゃうのが嫌だ。
そう、そう、そう。冷静になったら嫌なんで。あれであるんですよね、今じゃないとダメだっていうのが。それっぽいことがあるんですけど、今この時に自分は行動しないとっていうのに、すごい影響を受けました。今やんなきゃいけないと。物事っていうのは。
確かに。でもなんか不思議なんですよね。『ライ麦畑でつかまえて』って、結構世代関係なくいろんな人が、やっぱり10代の時に読むべき作品だみたいなこと言うし、私もやっぱりそう思っちゃうんですよ。で、でもすごい不思議だと思って。別に日本の話でもなければ、同じ世代の話でもないし、なぜみんな、これは若い人の作品だってこんなに思う小説って他にないよなと思って。変な小説ってよく思います。
本以外だと、曲とか映画とか、影響受けたものありますか?
曲だと、もうこれもまっすぐすぎて恥ずかしいんですけど、自分の世代で言うと、高校2年生の時にニルヴァーナってバンド。もうこれはすごくてですね。ご存知だと思いますけど、ニルヴァーナっていうバンドが出てきて、91年から3年ぐらいしたら、ボーカルがショットガン自殺、ショットガンなのか、銃自殺で死んじゃうんですけど、そこまでずっと好きで。その衝撃の終わりも含め、いまだに入っちゃいましたね。
へえ。
ジャケットとか知ってます?これなんかね。
見たことあるかな。
そう、絶対知ってると思うんすよ、これ。ちょっと待ってください。あ、これ。周りは違うんですけど。で、これはセカンドアルバムっていうか、メジャーになった『ネヴァーマインド』で。
オマージュされてる、こういうやつ。
そう、そう、そう。赤ちゃんがドルを取ろうとして、皮肉の。で、これが遺作の。
ああ、これを。なんかこの人体模型みたいな。これ、そっか、遺作なんだ。
なんですよ。このバンドは、カート・コバーンっていうボーカルの人が書く歌詞が、本人は「コピー&ペースト」って言ってるんですよ。何かの断片を。それは和訳ですけど、自分の中で衝撃だったんですよ。
なんか、ああいう多感な時って、先生が嫌でとか、恋の歌とか、社会がなんとかだとか言って。それまでのロックも、破壊的なことを言えば、女の子のことを歌ったりとか。で、今は例えばヒップホップとかも、自分はここにいてみたいなことじゃないですか、アティテュードが。カート・コバーンのこのコピー&ペーストな詞が、その絶望の状態を、ただ熱を込めて言ってるだけみたいな。こうなってこうなってこうなりましたじゃないんですよ、もう。
ああ。自分の絶望の心情を言ってるだけ。
心情を言ってるとか、羅列みたいな。歌詞の羅列で、たまに文があるみたいなので。それが自分には刺さりましたね。
へえ。
良くも悪くも人生、ま、悪いが大きいですけど、ニルヴァーナのせいで悪い方向に向かったんですけど、影響は受けましたね。他の、日本も含めロックっていうのは、当時はロックが流行ってたから、なんかこう、色々あんだけど頑張ろうみたいな、俺はここにいるみたいな。で、今のヒップホップもわかんないけど、俺はここにいるじゃないですか。
はい。
俺はもう消えてしまいたいみたいなことを、それこそ『人間失格』じゃないけど、ガーって言ってるだけみたいな。それがすごく好きですね。
良かったんですね。
そう。そっから、あんまり好きじゃないですね、ずっと希望とか言ってくるのが。なんで言われなきゃいけねえんだよって、ずっと思うんですよ、僕。
映画はどういうのがお好きなんですか?
映画はもちろんいっぱい見ましたけど、東京に来て18歳の時に、高円寺のビデオ屋さんでレンタルして。今はネットとかあるけど、当時は何にもなくて、田舎者だから、ハリウッド映画みたいな、今のシネコンのやつしか知らないわけですよ。そしたら、今じゃ考えられないけど、青春、スポーツとか、アクション、コメディとかで「カルト」ってあったんですよ。カルトって言って見た中の1本で『ピンク・フラミンゴ』ってあって。
カルト映画だ。サブカルだ。
ジョン・ウォーターズの。これがとんでもなく刺さりました、僕には。
ディヴァインの。私も見ました。大学生の時に、映画好きの友達が横で見てるのを見ました。
どうでした?これ。
すごい、なんかクソみたいなシーンがいっぱいありませんか?
それこそクソみたいなシーンどころか、ワンちゃんの実際のうんこを食べたりとか。最後のシーンが有名ですけど。
そこにいたのやばいじゃないですか。鶏をなんかしちゃったり。なんかグロい。
グロい。ずっと多いみたいな。ずっと最悪。
好きなんですね。
好きです。これが、ま、本当に理解されないんですけど、あの、何て言えばいいのかな。まず、ハリウッドしか知らないわけですよ。今までスピルバーグじゃないけど。
分かります。私も高知出身なので。高知とか、まず来ないんですよね、映画がね。有名なのしか。
で、『ピンク・フラミンゴ』を見た時に、いきなりあのジョン・ウォーターズ本人のナレーションで始まるんですよね。これはなんとかでと言って、自分の地元がボルチモアってとこで、全部そこの話なんですけど。ボルチモアでとか言って、どっちが最低かって話なんですけど、ある夫婦とある家族の、マジで今だと本当に作れないような最低加減を。それをやっちゃうんだとか、これやっちゃっていいんだ、何でもやっていいんだ表現っていうので感動したし。それ以降のカルト映画みたいなのも多少見たけど、気持ち悪いんですよ。見てて不愉快だし。ジョン・ウォーターズの作品だけは品を感じるんですよ。
おしゃれ。
ポップだし。本当に、僕はただ気持ち悪いのは不愉快ですけど、ウォーターズのだけは笑える。
なるほどね。だから違う。絵がポップでおしゃれなところが品に感じるって。
品に感じて。でもね、これみんなに勧めるけど、「なんでこんなの見せたの」とか言われる。全然違うの、これ。アンディオンゴールがもう映画撮らないって言ったんですよ、この作品を見て感動して。
『ピンク・フラミンゴ』は、だからすっごい腹立つのが、これ使えないかもしんないけど、ディヴァインを見てるわけですよ、俺。あのドラァグクイーンのディヴァインを、もう18歳の時に見て感動してんですよ、ちゃんと。で、ジョン・ウォーターズもゲイだし、そういう中で作品性とやる中で、最近なんか俺に多様性を言ってくるやついるの。いや、お前より知ってるよって言いたい。取ってつけたように言ってくる人いるんですけど。いや、あなたが普通に野球とかやってる時に、俺ディヴァイン知ってるんすけど。
なるほどね。昨今の。
昨今のね。昨今の何なの。
『ピンク・フラミンゴ』も見てないような人が。
そう、下品だとかいうやつが多様性だと。『ピンク・フラミンゴ』がすごい好きなのが、その、「俺たち最低だ」でかましてくるじゃないですか。あれが好きで。
なんか今『ピンク・フラミンゴ』が作れないのは、多分『ピンク・フラミンゴ』を作ったとて、「わかる」ってなんか言いそうっていうか、世の中が共感の柔らかさの綿の中に包まれていきそうという。
そうで、自分のリテラシーの高さを表現するために『ピンク・フラミンゴ』いいですねって言うけど、『ピンク・フラミンゴ』は何がいいかってさ、あの、多様性がっていう人に『ピンク・フラミンゴ』見せると、ちゃんとギョッとするんですよ。
ギョッとしますね。
あらわになるんですよ、そいつらの根底にある差別意識が。
でも普通にギョッとしますからね、あの映画。
だから本当に、世の中多いじゃないですか、最近言ってくるやつが。そいつに見せると面白いっすよ。気持ち悪いって顔するんですよね。なんでだよ、お前言ってたよな、人はみんな平等だって。
だが『ピンク・フラミンゴ』を見ると。
そう、その前では、「あれはなんすか」みたいな。そうなんすよ。
文字では伝わらない熱量を、もっと分かりやすく。伝えたいものが伝わる世界へ。映像配信の技術で支援するPLAY。
今永野さんの話を聞いてて、やっぱりある時期の芸人さんって、根底にサブカルがある人たちが芸人っていう文化に来た世代がいる気がしており。
かもしんないすね。
永野さんたちの世代っていうのは、サブカル的な映画とか本とか音楽とかを持った人が、そのまま映画とか本とか音楽に行かずに、芸人さんの方にやってきてる層がいませんか?
いますね。
います。やっぱりこう、なんでしょう、日本でやるなら芸人だってなったんですかね、それは。
なったのか。実際流行ってたのもあったんですよ。私たちの世代の時は、第3世代の人たちがいて。だけど結局、入ってきて結構失望したのが、スポーツかヤンキーなんすよ。
ああ。
で、自分って結構、東京にそういう変わったやつと会いたくて、はみ出し者と言われてる人と会いたかったのに、ここもさっきの社会の話じゃないけど、社会なんだと思って。陽キャと陰キャとこう教室を作り、みたいな。
作り、みたいな。
だから最初のその配信というか、あれで結構そういう人たちとぐーって会うことになったから、あ、じゃんってなりました。
なるほどね。
そう。お笑いとか始める前は、『ピンク・フラミンゴ』とか見てワクワクして、ジョン・フルシアンテがどうとか言って、読んで。映画とかを撮ったりするにも厳しそうじゃないですか。映画は映画でわかんないけど、厳しい世界なんだろう。本当はインディーでそういうのやったらいいんだけど、お笑いってなんか俺、才能ある気がしたんで。でもそこに飛び込んだらって思ったら、蓋を開けたらめちゃくちゃスポーツ、ヤンキーの世界だったから、結構ずっときつかったのがありますよ。
なるほど。
みんななんかさ、悲しい顔とかするけどさ、玉投げたら100何キロ出るんだろうと思うとさ、ゾっとするじゃん。俺別に玉投げても、そこの壁まで行かない可能性あるんですよ。そういうやつが。いやあ、あんたたちなんかいじけてるけど、弾投げて100何キロって恐ろしくない?100何キロ出る人の悲しみって?
いや、でもそれはすごい分かります。私ドッジボールってものの許せなさで今ここまで生きてきた人間なので。ドッジボールってやばくないですか?だって小学生で、球投げて殺すんですよ、人を。
で、外野に押し寄せ。
外野って言葉怖い。
外野ってね、殺されたら外野ね。もう1回人を殺したら内野に戻れ。
内野に戻れって言ってんだっていう。やばすぎる。怖すぎる。
本当に。
ドッジボールじゃないよね、ボールなんですよ。ずっと思ってたんですけど。キルシステムみたいなね。キルシステムやりますで。これだといいよね、キルシステムだったら。
なんかすら、そうなんだよな。それ思うと止まんなくなるよね。
止まんなくなりますよ。本当に。
本当に止まらなくなるし。三宅さんってどうです?そういう、なんか嘘じゃんとか結構思っちゃうタイプなんですか?自分に向けても含め、今嘘ついてんなとか。
嘘。そうですね。嘘ついている、ダメだ、どうしたらいいんだ、嘘をついて終わってしまったみたいな時あります。
難しい。
難しいです。どうしたらいいんですか、あれは。本当の言葉のままで行きたいんですけれども、みたいな気持ちがあります。
ありますよね。
あります。それこそ、本だけ書いてた時期から、YouTubeやったりテレビやったりするようにここ数年でなって、それによって、大学生ぐらいの自分だったら、今の三宅香帆いいねって思えてるんだろうか、みたいな。
カート・コバーンと同じこと言ってます。カート・コバーンが、どうやってやってんですかって、17歳の自分に向けてやってるみたいな。
いや、でもそうなんですよ。そのままでいたいというか、大学生とか高校生の時の自分が「なんかいいね」って言えるまでやりたいみたいな、そのラインを超えたくないみたいな気持ちがあって。
でも今ってほら、大人になって変わる、それが大人だってすぐ言うじゃん。で、いや、変わろうとせずに苦しもうとしてる、苦しんでる姿はすごいなって感動しました。
そう、なんかすぐ言いますね。永野さんは、それこそ今映画を撮られたりとか、次回作も考えられたりとかするわけじゃないですか。それは誰に見てほしいとかあるんですか?
それは、いや、そういうのはないですけど、多分みんなに見てほしいんですし。でも多分、そのみんなが喜ぶものではないと思うんすよ。個人的すぎて。それこそね、『ピンク・フラミンゴ』もみんながいいねって言うわけじゃないわけです。でもそういうものを作りたい衝動っていうのは本当にありますね。
なんでかって言われて、じゃあそれテレビでできないか、YouTubeでもいいじゃんって言うんですけど、やっぱり映画ってものが好きだしっていうのもあるし、なんだろうな。やっぱりそういうのやってる時って、分かったんですけど、得意げなんですよ、自分が。完全に得意げにやってるなって思うんですよ、そういう映画撮ったり。なんとかしてる時って、得意げっていうか、調子乗ってることって楽しいじゃないですか。
ああ、なるほど。
いつですか、それって。調子乗ってるって違うか。単純に、なんか今細胞が、アドレナリンがすごいなってありません?
ああ、でもやっぱり書いてる時が1番。
冴えてるみたいな気持ち。
そうそうそう。
クリアになるの?でしょ?そうそう。あれってやりたいすよね。
やりたいですね。気持ちいいですね、脳がね。
だからさ、あれやんなくても、ま、いいとこに行ったとするじゃん。書かなくてもあなたは生活できて、お金持ってなっても、きっとやるでしょ。
そうですね、確かに。
それが、はっきり言ってあんまりない人もいるんですよ、周りで。別に金さえあればってなると。結構自分が青臭く見えてしょんぼりしちゃう時もありますけど、そんななんだ、みたいな。
例えば、ネタを考えてる時と映画を作ってる時だと、冴えてるって感じは全然違いますか?
ネタも好きですよ。やるのはネタも好きですし。一緒ですけど、やっぱりこう、映画とか巻き込んでなんかやる感じが楽しいし。
ああ、人を巻き込むのが楽しくなってきたんですね。
そうですね。楽しいですし、そういうのはやっぱり、最初に話したコンビで始めなかった話じゃないけど、多分コンビでやってたら無理なんすよ。やっぱり18歳の時に同じ夢を持ってただけだから、やっぱり差が出て、才能の差もあるだろうし。コンビっていうものの。18歳の時に同じ夢を抱いていただけで、それは無理なんですよ。僕、やっぱり才能が大事だと思うんで。
で、東京に出てきて映画撮ったり、こういう三宅さんと会ったりして、自分があるとかいう意味じゃなく、才能すごい人がいるじゃないですか。それが基本にあるのが、残酷だけど楽しいって、僕は経験で分かりますね。才能っていうのがなくて、ただ夢を持ってっていうのは、やっぱり無理がある。
個人でね、才能を戦わせていくしかないという。
そう。俺これ大昔ので覚えてるのが、『We Are the World』を歌ったんですよ。あれで、誰だっけ、スティーヴィー・ワンダー。出てたっけ?
ドキュメンタリーありますよね。『We Are the World』が作られた夜っていう。Netflixで見ました。
僕はそれじゃなくて、もう大昔、当時80年代のテレビで、リアルなインタビューでスティーヴィー・ワンダーに聞くんすよ。友情、才能、努力、あなたが1番大事なものは何ですかと。『We Are the World』って、マイケル・ジャクソンとか、みんないて、友情、友情ってね。当時『キン肉マン』ってあって、友情って言葉が結構好きだったんです、当時。友情で、スポ根で努力。才能。スティーヴィー・ワンダーが笑顔で「才能」って言った。
俺、結構あれトラウマ級で。小学校の頃、スティーヴィー・ワンダーに言われたらもうどうしようもない、本当に。友情と努力に行きがちじゃないですか、子供とか。イエーみたいな。あ、才能なんだと思って。
で、実態権で映画を撮った時とかも、別に昔の友達とかいないわけじゃないですか。でも楽しく、言葉が、10言わなくて1で伝わる才能トークっていうか。あれの方がいい気がすんだよな。
ああ、でも確かに。友情だと、人間の性格とかでしか繋がらないけど、才能同士の繋がりは、マジで作品に対してのみだから、不純物少なめって感じがしますね。
そう、そうなんですよ。友情きついすよ。まだ三宅さんは若いからあれですけど、50過ぎて同級生やってごらんなさい。才能の差が。マジでこういう職業してるから、クリエイトの人と会うから、めちゃくちゃそこ揉まれていくわけですよ。やっぱりあの人たちは違うじゃん、普通に生活してる人は。才能の圧倒的さ。まずい、まずい。飯が。早く金子ノブアキに会いたいとかも。東京の人に会いたいな。才能に会いたいなと思える。
へえ。でも地元の友達って、そことは全然別のところにいません?仕事で会った人とかだと、確かに友情なのか才能なのかみたいな問題はあるんですけど、友達って意外と別の枠にいる。
三宅さん、これ残念な話をすると、人生にあんまり満足してない人、地元の友達とは変なソリッドさが残ってんですよ。だから話が湧くんですけど、盛り上がるんですけど、満足しちゃってる人とは、あんまり。もう満足しちゃって、そこを磨かなくても人生がバランス良くなってるから、学生の時とかに磨いてたものを全然磨いてないんすね。
ああ。
だけど、残念ながらあんまり生活が楽しくない人って磨くじゃん。めちゃくちゃ磨いてるから、考え事してるから。それがいいわけじゃないですよ。でも、ずっと仲いいとって、結構ちょっと失われたピースがあるんですよね。難しいよ。これないもん、地元で幸せでっていう人で、面白い人って。
なるほど。なんか別の面白さになってくるというか。
そう。どうなんですか、物書きの人って。すごく恵まれていて書く人っているんですか?
なんか、でもそれこそ、若いうちから評価されてる人って、ある意味恵まれた人に、社会的にはなってくじゃないですか。でも結構、そのまま傑作を生産し続けるみたいな。
そうなんだ。
何なんでしょうね。でもそれは、やっぱりずっとちゃんと読者に評価されたいみたいな。
それはあるんだろうね。そこの磨きはしてんだろうね。
こないだ五木寛之先生に会ったんですけど、大レジェンド。五木寛之先生が90何歳で、まだYouTubeに出て本をパブリシティしたいっておっしゃっていて、素晴らしい、すごすぎると思って。やっぱりそういう欲望。
それってでも、確かにその欲望ってなくなりますもんね、凡人は。
そうそう、そうなんですよ。だから、もう本当にお金とかじゃないわけじゃないですか。生活が満たされてるかどうかとかも、その域に達するともう関係ない気がするというか。
名前を聞きながらちょっと分かる気がするの。それは生活じゃない。
もう創作欲求、そして人に届けたい欲求みたいな世界の話になっていくので。才能とは。難しい。
あとでも、自分はちょっと甘えたところがあるから、才能がとかいうのは、甘えていけるのもあるんですよね。才能があります、才能で勝負しますって言うと、結構子供っぽい甘えた気持ちで、これ才能で行くんで、みたいな会話でいけるんですけど、そっちの感じがないのになると、途端に弱くなるというか。ちゃんとしなきゃみたいな。クリエイティブ系に片足でも突っ込んでると、ちょっと甘えた感じでもオッケーな、なんて言えばいいのかな、お金のこととかを誰かがやってくれたりとか、結構これは感覚でとか、甘えたこと言えるんだけど、社会だと無理じゃないですか、そんな。
確かに。
ちゃんとしなさいみたいな。だから、そっちにちょっと現実逃避はあるのかな、映画とかは。現実逃避の時間みたいな。
なるほど、面白い。創作の方がむしろ、変な話じゃないですけど、現実逃避の先としての。
もちろんです、もちろんです。だから、ずっとネタとか作るの大好きなんですよ。で、無趣味でみたいなのがあるんですけど、それはなんでなんだろう、真面目なのかな、あ、違うなって。現実逃避なんだ、これは。
面白い。
で、自分は元々そういうスキルもないんで、ゴルフクラブを持っても、映画の見すぎで、人殴るものってこっちですよ、ゴルフとか。そういうの見すぎて。
大体ね、殴りますからね。
キャンプとかバーベキューとかあるでしょ。それがね、僕にとってはちょっと立派な人が休日にやるもので、ちょっときついんすよね。逆に作ってる方が、僕のこの感覚とか、ずっと幼稚でいられるじゃないですか。
だけど、もはや、ヒロシさんの1人キャンプのあれは別だと思うんですけど、最初にやったのじゃなくて、今キャンプとかはもう社会の所作に見えて、もう、ああすいません、やりますみたいな。
所作を。
所作を。なんかしきたりみたいなもんです。
そういう意味で言うと、やっぱり作る方が脱社会、脱現実。
脱社会、そう。あと何でもありじゃないですか、想像の中で。法律もないし。
そうですね。
あと自分しかできないことじゃないですか。所作はみんながやってることだし。だから、それは本当に各所で気づいて欲しくて周りに伝えてんですけど、誰も気づかないですよね、この運動。結構普通ですよみたいな。休んでるんすか、それで果たして、みたいな。
確かに。
休んでるんですかと思ったな、俺。あれ休んでんのかなと思って。
その、休日にゴルフする人とか、バーベキューする人ってことですよね。
そう。まあいいんだけど、人の勝手だから。でも。
でもやっぱり、人といる方が休めるっていう人がこの世にはたくさん。
すごいっすよね。リモート飲み会なんて絶対参加しなかったすもん。
いや、そういう人。思い出してください。休み時間にみんなドッジボールしてたわけじゃないですか。そういうことですよ。
キルシステムを。
だから、休み時間にこそバーベキューをする。
うわあ。しないすもんね、ドッジボールを。そういうタイプなんすよ、だから多分。
だからそういうことってことですね。我々のことはそうです。
残念ながら現実はそういうことなんで。
ということで。全然大丈夫でしょ?飲まされて効いてないですか?
元々肝臓が良くて。
やばい。今ミステリ小説だったらやばすぎでしょ。毒入れたのに肝臓が良くて、不条理なショートショートみたいな、下手なショートショートみたいな。毒が回らなかった。笑えるじゃないですよ。
芸大生が作って。
芸大生が作ってどうなったじゃないすよ。じゃあ、そろそろちょっと私。
あの、別に何もないですけど。かっこつけ、何もないですけど、ずっといると怖い時間に入ってくるんで。
怖い時間にね。
ずっといるなって思われるんで、もう怖いんで帰ります。すいません。
また来てください。
お邪魔しました。
ありがとうございます。また来てください。失礼します。帰ります。
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