最短距離を選び続けた物理学者・野村泰紀が「遠回り」から得たもの

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概要

理論物理学者の野村泰紀は、東京大学で素粒子物理学を学び、カリフォルニア大学バークレー校で研究者としてのキャリアを築いた。経歴だけを見ればまっすぐな道のりである。この対談では、聞き手のベテランちが幼少期から現在までを順にたどり、番組のテーマである「遠回り」について尋ねた。野村は受験でも研究でも最短距離を選んできたと振り返る。一方で、30代半ばに心身が限界を迎えて起き上がれなくなり、その経験が人生で最大の遠回りになったと語った。

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茨城の田んぼと荒れた公立中学

野村は神奈川県で生まれたが、小学校の6年間は茨城県で過ごした。周りは田んぼばかりで、遊びといえばヤゴを捕ったり、クワガタを探したりすることだった。朝に道へ出ればコクワガタは普通に見つかった。ノコギリクワガタのような「いいやつ」を捕るには森へ行き、砂糖水のような甘いものを木に塗っておいて、夜にもう一度見に行く必要があったという。

親が研究者だったわけではない。父親は普通の会社員だった。横浜に土地を買った直後に茨城への転勤が決まり、土地をそのままにして一家で移ったという。当時は夜10時、11時まで働き、土曜も出勤するのが普通の時代だったため、野村には子どもの頃に父親と過ごした記憶がほとんどない。

中学からは横浜に移り、地元の公立中学に通った。野村によれば「むっちゃ荒れて」いて、ズボンの太さで立場が決まるような学校だった。本人はヤンキーではなかったが、一度調子に乗ったのか挑発したのかで揉め、周りを囲まれて1対1で戦わされた。結果はボロ負けで、血だらけになった。ただし鼻血が思い切り出ただけで、傷だらけになったわけではないと笑う。

物理への関心の芽は、この頃に図書室で読んだ講談社ブルーバックスにある。図書室に行った理由はおそらく不純なもので、休み時間の居場所だったのだろうと野村は言う。パラパラと読んだ1冊が面白く、2〜3冊は読んだ記憶がある。成績は悪くはなく、「たぶんいい方だった」という。

ソフトテニス漬けの高校と「物理7点」

高校は県立の進学校に進み、中学から続けていたテニスに打ち込んだ。硬式テニス部はなく、軟式(ソフトテニス)だった。野村は、試合中に静かにしているのが礼儀の硬式と違い、軟式はヤジが飛び交う世界だと説明する。そのため部員同士でヤジを浴びせ合い、ヤジに耐える訓練までしたという。練習中に水を飲んではいけない時代で、毎日夜10時ごろまで練習し、最後は筋トレで締めた。その結果、団体戦で神奈川県ベスト4に入った。野村は「なんか勝ってしまいましたね」と振り返る。

高校3年で部活を引退した後、塾にも通っていなかった野村は、受験がどういうものか分からないまま、偵察のつもりで模試を受けた。唯一覚えているのが、物理が7点だったことだ。野村はこれをある程度は仕方がないと説明する。中高一貫校は高2までに全課程を終え、最後の1年を受験対策にあてる。県立校はぎりぎりで課程が終わるように組まれているうえ、物理は数学と違って高2あたりから始まるので、その時点では範囲の半分も習っていなかった。それでも、学校の試験では普通に点が取れていた得意科目だったので、7点はショックだった。

そこでゴールが見え、逆算が始まった。どこに行くにはどうすればいいかを計算し、高3の夏前には駿台予備校に通い始めた。

夏の集中講義と「東大一本勝負」

志望校を決めるきっかけになったのは、高3のときの物理の先生である。先生は相対性理論や量子力学のスリットの話など、受験には出ない内容を授業中には扱えないため、夏休みに2週間の集中講義を開いた。朝10時から午後3時ほどの講義で、野村は、先生にとっては部活の顧問のような活動だったのではないかと推測する。大学の物理につながることを話すのが好きな人だったという。

野村はこの講義で「こういう世界があるのか」と感じ、中学の頃に本を読んでいた記憶も呼び起こされた。こういう分野に進みたいと思い、本を見ると、著者の多くが東京大学の人だった。今ならネットで東大出身でない立派な研究者がいくらでもいると分かるが、当時は検索すらない。野村は、Googleの創業者も同世代で、自分が高校生のときには彼らも高校生だったと例に挙げ、調べる手段が本しかなかったと話す。そこで、この分野をやるなら東大に行くのがいいと考えた。

ここからは試験対策に集中した。研究という目標から見れば遠回りかもしれないが、受験では最短距離を狙い、「遠回りをしない思考」をしていたと野村は言う。部活に使っていた時間がすべて空き、体力もあった。教師からは舐めているのかと言われたが、前期は東京大学だけを受けた。理由は明快である。滑り止めといっても良い大学なので、そこに受かったら、浪人してもう1年勉強する道を選べるとは思えない。1校しか受けなければ、落ちたら問答無用でもう1年やることになる。野村は、ぎりぎりで受からなくてもおかしくなかったが、たまたま合格したと話す。落ちていてもそれはそれで人生は何とかなる、とも付け加えた。

東大でのテニスサークルと素粒子物理学との出会い

大学に入ると、野村はテニスサークル「東大サンフレンド」に入り、本郷に進んでからは「ウィンブルドン」というサークルにも入った。当時の仲間とは今でも会っており、数日前にも会ったという。後にアメリカに渡った後、初めて出たテレビ番組はHKT48が出演する深夜の科学番組だった。若い頃の写真を求められ、実家に残っていた学生時代の写真をディレクターに送ったところ、酒を飲んでいる写真とテニスコートでの集合写真しかなかったという。

学問の面では、東大の入試は理科一類という大きな枠で行われ、物理学、数学、化学、工学などが含まれるので入学時に専門を決めなくていい。野村はこの仕組みを良い点に挙げる。物理をやりたい気持ちはあり、2年の半ばごろに理学部物理学科への進学が決まった。

大学院を意識した4年生のゼミで、後に博士論文の指導教員になる柳田勉と出会う。分野は素粒子物理学の理論で、野村はこれを非常に面白いと感じた。もともと実験にはあまり関心がなく、この時点で理論に進むことを決めた。

理論家と実験家は「違うスポーツ」

ベテランちが理論と実験の違いを尋ねると、野村は、今は両方をこなせる人はいないと答える。専門化が進み、それぞれの最先端の知識にたどり着くには片方に絞るしかない。物理学者であり化学者であり医者でもある、ということが無理なのと同じで、それが物理の中でも起きているという。

違いは生活の面でも大きい。理論家は基本的に紙と鉛筆で考え、議論する。今はコンピューターも使うが、野村自身は大規模シミュレーションもせず、ソフトウェアを少し使う程度で、自由でモバイルな働き方だという。一方、素粒子の実験で最大のものは10兆円規模のプロジェクトで、実験グループは5000人ほどになる。シフトが決まっていて休めず、装置のあるヨーロッパに行かなければならない。

加速器で何をしているのかについて、野村はスケールの説明から入った。原子の中心には原子核があり、その周りを電子が回っている。原子核を1円玉とすると、電子が回っているのはサッカーコートの端あたりで、原子核は原子の10万分の1ほどの大きさしかない。原子核は陽子と中性子からなり、陽子や中性子はさらにクォーク3つでできている。人間はそこからさらに1万分の1ほどのスケールまで分かっているという。

これほど小さいものは顕微鏡では見えない。量子力学では、小さいスケールは高いエネルギーに対応する。野村は正確な説明ではないと断りつつ、小さいものを見るには粒子をぶつけて壊し、出てきたかけらを集めて解析し、元の構造がどうなっていなければならないかを推定すると説明した。より小さい構造を見るには、より細かく砕く必要があり、そのためにより高いエネルギーが要る。粒子を徐々に加速するので装置は巨大になる。周長27kmの円形トンネルで陽子を何周もさせ、光速の99.9999999%ほどまで加速してぶつける。壊れて出てくる数百から数千のかけらを1つでも取りこぼすと再構成できないため、2〜3mに及ぶ検出器で周囲をすべて覆う。トンネルには超伝導を使い、空気とぶつからないよう真空にする必要もある。リニアモーターカーに似ているかと聞かれた野村は、加速の原理は違うが、お金がかかる点は似ていると答えた。

実験の仕事をしながら、理論家が数学を駆使してぎりぎりの勝負をしている世界に入ってきて勝てるわけがない。だから理論家と実験家は別のスポーツのようなものだと野村は言う。ただし暮らしが違うだけで、科学としては密接に関係している。理論は実験結果を見て考え、実験でテストしてもらう必要がある。理論家の提案をもとに次の実験が計画されることもある。

王道か、独自路線か

ベテランちは、理論家から見てセンスのいい実験家、そうでない実験家はいるのかと尋ねた。野村は、そういう見方はあるとしながらも、自分のセンスが常に正しいわけではないと答える。こんなところをやっても仕方がないと思われた研究が大発見になることもあるからだ。

野村はこれを音楽にたとえる。J-POPの王道で戦う人がいる一方で、意味の分からない新しい音楽をやる人もいる。後者はたいてい潰れるが、たまに当たると、その人にしかできないものになる。研究でも同じで、王道を行けばそれなりの研究者にはなれるが、競争が激しすぎて本物になるのは難しい。少し違う場所でやれば、当たる確率は低いが、当たったときには大きな成果になる。野村は、期待値は同じくらいだからみんな迷うのだと話した。

なぜ理論物理だったのか

高校の先生も理論の人で、おそらく物性理論の出身だった。そのため、実験か理論かはあまり迷わなかったという。面白さについて野村は、学生のうちは自分で発見できないので「学ぶ喜び」が中心で、研究者になると「解ける喜び」に変わっていくと説明する。ただ、研究者でもすべてを知ることはできないので、学ぶ喜びはずっと続くという。

学ぶ楽しみならどの学問にもある。その中で物理が刺さった理由を聞かれ、野村は「根本的だと思ったから」と答えた。素粒子物理学は自然界がどういうルールで動いているかを見つける学問で、原理的には人間の体を作る粒子もそのルールで動いている。ラプラスの悪魔のように、原理的にはすべてを計算で導けることになる。ただし野村は、それも微妙な議論で、実用上は不可能だと留保をつける。素粒子の理論を解いて人の次の行動を予測することはできない。化学、生物学、経済学、政治学など、スケールに応じた学問が必要になる。それでも「本当はこれで動いている」という点に魅力を感じたという。宇宙初期の計算にも素粒子の理論が使われる。

大学院での本気と、海外の若手に受けた衝撃

大学院ではかなり研究に打ち込んだが、最初のうちは甘かったと野村は振り返る。それでも、指導教員の柳田が新しいアイデアを口にすれば、分からなかったという結果も含めて翌日には必ず持っていくようにしていた。柳田は酒を飲んでいるときにも電話をかけてくる人だった。高校の部活仲間と千葉に泊まりがけで出かけたとき、着いたばかりの夕方に電話がかかってきて、翌日までに結果を出さなければと、夜7時か8時に一人で帰って朝までに仕上げたこともあったという。野村は柳田を分野の大物で、ニュートリノの研究で歴史に残る業績を持つ人だと紹介している。

転機は博士1年のころに訪れた。当時は海外の研究者と直接接する機会がほとんどなかった。大御所がシンポジウムで講演することはあっても、話す機会はない。そこへ、若手を呼んで話してもらう新しいタイプのイベントのため、アメリカの若手ポスドク2人が来日した。ポスドクは博士号取得直後の任期付きの職で、2〜3年で自動的に終わるため、その間に次の職を見つけなければならない。富士山のふもとで開かれるイベントの前に東京に立ち寄ることになり、案内役を募っても誰も手を挙げなかったので、野村が引き受けた。

野村は東京に住みながら初めて東京タワーに登った。しかしきれいだと言っていたのは最初だけで、あとはずっと物理の話になった。その若手の一人は口を挟めないほど喋り続ける人物で、野村が自分の研究を話すと、すぐに答えを出し、別の話題と結びつけてまた話し始めた。年齢はほぼ同じだが、何度も飛び級していたことを後で知った。野村は、自分もこのまま少しずつ上がってはいけるが、2〜3年後でもここには届かないと感じ、そこから一気に研究のペースを上げた。野村が30歳でアメリカに渡ったとき、その人物は29か30歳でハーバード大学の正教授になっており、その後プリンストン高等研究所に移ったという。

野村にとって、この人物は「サンプル数1」だった。アメリカのポスドクは全員このレベルだと思い込み、この海に放り込まれたら完全に死ぬと考えて準備した。実際に行ってみると全然違い、まったくひるまなかった。自分が一番ではないかと思うほどだったと笑う。野村はキャリアの面での大きな出会いとして、この人物に加え、高校の物理の先生と指導教員の柳田を挙げた。

バークレーで当たった研究テーマ

博士号取得後、野村はMITやプリンストンなどからもオファーを受けたが、ポスドクとしてバークレーを選んだ。そこで、自分が考え始めていたテーマと近いことをバークレーの教授が研究しており、しかもそれが注目されている分野だった。英語が拙い若手でも面白いと思ってもらえ、共同研究は大きな成果につながった。次々にアイデアが出たという。

ベテランちが研究の内容を尋ねると、野村は標準模型から説明した。標準模型は非常に成功した理論で、電磁気力、クォークを閉じ込めておく「強い力」、そして「弱い力」という3つの力を含む。これらを一つの力の異なる側面として見ようとするのが、1970年代に原型が提案された大統一理論である。

野村は、物理学の歴史は統一の歴史だと言う。電気と磁気は似ているが別の力に見える。しかし相対性理論では、ある人に電気に見えるものが、その人に対して運動している人には磁気に見えることがあり、両者は同じ力だと分かる。さらにさかのぼれば、ニュートンの仕事も統一である。野村は、リンゴが落ちてひらめいたという逸話自体には意味がないとしたうえで、本当の問いは「リンゴはどこから落としても落ちるのに、なぜ月は落ちてこないのか」だったと説明する。力が働かなければ物体はまっすぐ等速で進むことは、ガリレオやデカルトによって知られていた。それなら月は地球の周りを回らずに飛んでいくはずで、軌道が曲がるのは地球に向かって落ち続けているからである。月の運動に必要な力と、リンゴの落下に必要な力を調べると同じ式になった。天上の月は神の法則、地上のリンゴは別の法則と考えられていたものが一つになった。それが衝撃だったと野村は言う。

大統一理論もすぐに支持を集めたアイデアだった。統一すると力だけでなく、クォークや電子など十数種類の粒子も見事にまとまる。統一が起こるのは、現在の実験よりはるかに高いエネルギー、つまり非常に小さいスケールであり、小さいところで同じだったものが、私たちの日常では分かれて見えるという構図である。一方で、粒子の質量がぴったり合わないなど、細かい点ではうまくいかない部分もあった。

そこで野村たちが使ったのが、小さいスケールでは空間が3次元である保証はないという考え方である。野村は紙を借りて説明した。紙は2つの数字で位置が決まる2次元の物体に見える。しかしウイルスのような小さな存在から見ると厚みがあり、表か裏か、真ん中か3分の1の位置かまで指定しないと会えない。本当は3つの数字が必要なのに、大きなスケールでは2つで足りるように見える。同じように、私たちの世界にも統一が起こるような小さなスケールにだけ、感じ取れない方向があるかもしれない。その枠組みで統一理論を作ると、厄介な問題が消え、力を統一しつつ現在のデータとも合うものが作れた。野村によれば、この研究がよく受け入れられ、ポジションを得て出世することにつながった。

フェルミ研究所から、合わないと感じてバークレーへ

バークレーで1年ちょっと研究したころ、まだアメリカのシステムもよく分からないうちに、フェルミ研究所(フェルミラボ)のセミナーに招かれた。行ってみると空きポストがあるから応募しないかと言われ、よく分からないまま出したら採用された。ポスドクは1〜2年しか経験していない。

研究所では、周りがみなプロで学生もいないので、論文は書きやすい。一方で「余計な話」が入ってこない。野村は、生物学の教員との会話や、学生の基礎的すぎる質問がとても良い刺激になると考えている。たとえば「宇宙が膨張するなら人間も膨張しているのか」という、研究者が考えなくなっている問いを投げられると、改めて説明する過程が生まれる。同じレベルの人ばかりが集まると方向性がそろってしまう。研究所のスタイルが合う人もいるが、いろいろな人と交わるのが好きな自分には合わなかったと野村は言う。翌年にはバークレーから声がかかり、今度は大学のスタッフとして戻った。

ここまでを振り返り、荒れた中学やテニス漬けの時期はあっても、経歴としては一直線に見えると野村は言う。個人としては恋愛で「爆死」するなど、それなりに苦労しているとも付け加えた。

30代半ばでの責任と、起き上がれなくなった日

本当の遠回りはこの後に来た。アメリカの大学では、テニュア(終身在職権)を得るまでに1年半ほど委員会が審査し、世界の30〜40人のトップ研究者に意見を聞いて、その人が世代の中でどの位置にいるかを評価する。これを通って准教授になったころ、野村は30代半ばで、数十人の研究者を抱えるグループのリーダーを任された。

仕事は研究とはまったく違った。官僚や政治家に成果を説明しに行き、予算の削減を受けた。今から考えれば他のグループも削られていて失敗ではなかったが、スペースも減らされ、それまで部屋を使っていた人たちに出ていってもらう必要が生じた。相手には退職したバークレーの大物教授もおり、退職後も数年は部屋を使えるという約束を覆さなければならなかった。「あなたは若いから知らないかもしれないが、私はこういう仕事をして、このグループにこれだけ尽くしてきて、こういう約束がある」といったメールも届いた。研究でも朝から晩まで働き続けていた。

そしてある日、まったく起き上がれなくなった。すぐに病院に運ばれ、待合で幼い子どもが泣き、アンパンマンが流れていた。その歌詞の「何のために生まれて」が一番こたえ、耐えられなくなったという。最初に処方された薬は効き目が強く、飲むとすぐ楽になるが、切れたときの落ち込みが激しく、命の危険を感じるほどだったと野村は語る。

その後も2〜3年おきにぶり返した。引き金の一つが、研究を先に発表されることへの恐怖である。論文は毎日インターネット上に公開され、野村は最低でも50〜60本、多い日は100本ほどに目を通す。そこに、6か月かけて温めてきたアイデアとほぼ同じものが出ることがある。すぐに出さなければ、相手の論文を見てから書いたものと区別できなくなる。共同研究者がヨーロッパとアメリカにいれば、8時間ずつ交代で原稿を編集し、24時間を2サイクル回して出すこともあった。仕上がっていなければ、諦めるか、できた部分だけで出すか、重なる部分を認めて引用し、別の部分で差別化するかを決めなければならない。最終的な評価はコミュニティが決める。こうした事態のたびに脇汗が出てパニックのようになる状態が、10年近く続いた。

アメリカに渡ってからの7〜8年、丸1日休んだ日はなく、半日休んだ日もなかったかもしれないという。当時はノートパソコンで家から作業できる環境ではなく、大学の計算機を使うため夜2時ごろまで大学にいた。クラウドで共同編集するツールもSkypeもなく、国際電話は高かった。交代での編集も、メールで「この時間までにお前が持って、寝る前に俺に渡せ」とやり取りしながら進めた。相手が寝ている間に24時間が過ぎれば1日を失うので、起きたらすぐ電話するような生活だった。

遠回りで変わった考え方

体調を崩したのは30代半ばで、その後10年ほどは症状と共存してきた。今はかなり少なくなったという。野村は、狭い意味のキャリアだけで見れば、もっとやれたという思いはあると認める。休みを入れなければ続けられなくなり、明らかに自分がおかしいと分かるときは、重要な局面でも寝るようになった。その意味で研究のペースは遅くなった。ベテランちはこれを、肘を壊した後のエースピッチャーにたとえた。

一方で、人生全体では得たものがあると野村は言う。自分の学生が同じような状態になったとき、症状は違っても理解できる。また、こうした番組に呼ばれたときも、以前ならどう見られるか、業界でどう評価されるかを考えただろうが、そういうことはどうでもよくなった。年齢もあり、その時間を研究に注いでアインシュタイン級の仕事ができるなら価値があるが、差がわずかなら、その時間で人と話したいと考えるようになった。特にこの2〜3年は、自分では一生経験できないようなことを第一線でやっている人と会う機会が増えた。それを逃すのはもったいないという考え方に変わってきたという。

象徴的な出来事として、野村はCERNでの会議を挙げた。CERNはヨーロッパの素粒子研究の中心で、世界最大の加速器を持つ。まだ完全には回復していないが、最悪の状態からは戻りつつあった時期に、大きな会議で締めくくりに近いトークを任された。どうしても行きたかった野村は、アメリカから飛行機でジュネーブへ飛び、車を借りて会場のビルの前まで行った。しかし中に入れなかった。ラップトップを開き、家の方で緊急の用事ができたので行けないとメールを送り、そのまま空港へ引き返した。

無理なのは分かっていても諦められなかった理由を、野村は、行かなければエースピッチャーとしてのキャリアに傷がつく、つまり周りからどう思われるかを気にしていたからだと振り返る。結局キャンセルしたが、それを覚えている人は誰もいない。自分が思うほど影響はないのだと実感として分かるようになり、少し軽くなったという。

ベテランちは、一線の研究を続ける人もいれば、野村の高校の先生のように早くから教育や普及に切り替える人もいて、それで全体の生態系が回っていると話を向けた。野村は、トップアスリートのようにやり続けるのは立派で、自分もその面を消したくないと正直に思っていると答える。ただ、それだけでなくてもいい。科学者として生きていたい気持ちはあり、他の活動が研究に悪い影響を与えすぎないようにはするが、他のことをすると無駄になるという考え方はなくなった。ベテランちは、将棋連盟の会長を務める羽生善治と、今もサッカーだけを続けるキングカズを例に挙げ、野村はどちらも立派で、全員がカズのようにできるわけではなく、そうでない道が劣っているわけでもないと話した。

「遠回りとは、深まること」

番組恒例の最後の問いで、野村は遠回りを「深まること」と表現した。遠回りしたことで自分は深くなったと思う。尖ったところで少し良い仕事はできたかもしれないが、遠回りによって深みが出たと自分では考えている、という。

ただし、わざわざ遠回りする必要はないとも言う。しないで済むならそれでいい。最短で行こうとした結果として遠回りになるのが一番美しく、最後まで最短で行ける人はほとんどいないので、結局は誰でも遠回りになるという。

ベテランちが、今取り組んでいるホログラフィーにも直接たどり着いたわけではないと指摘すると、野村はそれを認めたうえで、ホログラフィー自体が遠回りだった可能性も結構あると答えた。20年後に最終的な形から見れば、こんなところを通る必要はなかったと言われるかもしれない。それでも、そこを通ったからこそたどり着ける場所がある、と野村は話を締めくくった。