最短距離を選び続けた物理学者・野村泰紀が「遠回り」から得たもの
PLAYERS公式理論物理学者の野村泰紀は、東京大学で素粒子物理学を学び、カリフォルニア大学バークレー校で研究者としてのキャリアを築いた。経歴だけを見ればまっすぐな道のりである。この対談では、聞き手のベテランちが幼少期から現在までを順にたどり、番組のテーマである「遠回り」について尋ねた。野村は受験でも研究でも最短距離を選んできたと振り返る。一方で、30代半ばに心身が限界を迎えて起き上がれなくなり、その経験が人生で最大の遠回りになったと語った。
茨城の田んぼと荒れた公立中学
野村は神奈川県で生まれたが、小学校の6年間は茨城県で過ごした。周りは田んぼばかりで、遊びといえばヤゴを捕ったり、クワガタを探したりすることだった。朝に道へ出ればコクワガタは普通に見つかった。ノコギリクワガタのような「いいやつ」を捕るには森へ行き、砂糖水のような甘いものを木に塗っておいて、夜にもう一度見に行く必要があったという。
親が研究者だったわけではない。父親は普通の会社員だった。横浜に土地を買った直後に茨城への転勤が決まり、土地をそのままにして一家で移ったという。当時は夜10時、11時まで働き、土曜も出勤するのが普通の時代だったため、野村には子どもの頃に父親と過ごした記憶がほとんどない。
中学からは横浜に移り、地元の公立中学に通った。野村によれば「むっちゃ荒れて」いて、ズボンの太さで立場が決まるような学校だった。本人はヤンキーではなかったが、一度調子に乗ったのか挑発したのかで揉め、周りを囲まれて1対1で戦わされた。結果はボロ負けで、血だらけになった。ただし鼻血が思い切り出ただけで、傷だらけになったわけではないと笑う。
物理への関心の芽は、この頃に図書室で読んだ講談社ブルーバックスにある。図書室に行った理由はおそらく不純なもので、休み時間の居場所だったのだろうと野村は言う。パラパラと読んだ1冊が面白く、2〜3冊は読んだ記憶がある。成績は悪くはなく、「たぶんいい方だった」という。
ソフトテニス漬けの高校と「物理7点」
高校は県立の進学校に進み、中学から続けていたテニスに打ち込んだ。硬式テニス部はなく、軟式(ソフトテニス)だった。野村は、試合中に静かにしているのが礼儀の硬式と違い、軟式はヤジが飛び交う世界だと説明する。そのため部員同士でヤジを浴びせ合い、ヤジに耐える訓練までしたという。練習中に水を飲んではいけない時代で、毎日夜10時ごろまで練習し、最後は筋トレで締めた。その結果、団体戦で神奈川県ベスト4に入った。野村は「なんか勝ってしまいましたね」と振り返る。
高校3年で部活を引退した後、塾にも通っていなかった野村は、受験がどういうものか分からないまま、偵察のつもりで模試を受けた。唯一覚えているのが、物理が7点だったことだ。野村はこれをある程度は仕方がないと説明する。中高一貫校は高2までに全課程を終え、最後の1年を受験対策にあてる。県立校はぎりぎりで課程が終わるように組まれているうえ、物理は数学と違って高2あたりから始まるので、その時点では範囲の半分も習っていなかった。それでも、学校の試験では普通に点が取れていた得意科目だったので、7点はショックだった。
そこでゴールが見え、逆算が始まった。どこに行くにはどうすればいいかを計算し、高3の夏前には駿台予備校に通い始めた。
夏の集中講義と「東大一本勝負」
志望校を決めるきっかけになったのは、高3のときの物理の先生である。先生は相対性理論や量子力学のスリットの話など、受験には出ない内容を授業中には扱えないため、夏休みに2週間の集中講義を開いた。朝10時から午後3時ほどの講義で、野村は、先生にとっては部活の顧問のような活動だったのではないかと推測する。大学の物理につながることを話すのが好きな人だったという。
野村はこの講義で「こういう世界があるのか」と感じ、中学の頃に本を読んでいた記憶も呼び起こされた。こういう分野に進みたいと思い、本を見ると、著者の多くが東京大学の人だった。今ならネットで東大出身でない立派な研究者がいくらでもいると分かるが、当時は検索すらない。野村は、Googleの創業者も同世代で、自分が高校生のときには彼らも高校生だったと例に挙げ、調べる手段が本しかなかったと話す。そこで、この分野をやるなら東大に行くのがいいと考えた。
ここからは試験対策に集中した。研究という目標から見れば遠回りかもしれないが、受験では最短距離を狙い、「遠回りをしない思考」をしていたと野村は言う。部活に使っていた時間がすべて空き、体力もあった。教師からは舐めているのかと言われたが、前期は東京大学だけを受けた。理由は明快である。滑り止めといっても良い大学なので、そこに受かったら、浪人してもう1年勉強する道を選べるとは思えない。1校しか受けなければ、落ちたら問答無用でもう1年やることになる。野村は、ぎりぎりで受からなくてもおかしくなかったが、たまたま合格したと話す。落ちていてもそれはそれで人生は何とかなる、とも付け加えた。
東大でのテニスサークルと素粒子物理学との出会い
大学に入ると、野村はテニスサークル「東大サンフレンド」に入り、本郷に進んでからは「ウィンブルドン」というサークルにも入った。当時の仲間とは今でも会っており、数日前にも会ったという。後にアメリカに渡った後、初めて出たテレビ番組はHKT48が出演する深夜の科学番組だった。若い頃の写真を求められ、実家に残っていた学生時代の写真をディレクターに送ったところ、酒を飲んでいる写真とテニスコートでの集合写真しかなかったという。
学問の面では、東大の入試は理科一類という大きな枠で行われ、物理学、数学、化学、工学などが含まれるので入学時に専門を決めなくていい。野村はこの仕組みを良い点に挙げる。物理をやりたい気持ちはあり、2年の半ばごろに理学部物理学科への進学が決まった。
大学院を意識した4年生のゼミで、後に博士論文の指導教員になる柳田勉と出会う。分野は素粒子物理学の理論で、野村はこれを非常に面白いと感じた。もともと実験にはあまり関心がなく、この時点で理論に進むことを決めた。
理論家と実験家は「違うスポーツ」
ベテランちが理論と実験の違いを尋ねると、野村は、今は両方をこなせる人はいないと答える。専門化が進み、それぞれの最先端の知識にたどり着くには片方に絞るしかない。物理学者であり化学者であり医者でもある、ということが無理なのと同じで、それが物理の中でも起きているという。
違いは生活の面でも大きい。理論家は基本的に紙と鉛筆で考え、議論する。今はコンピューターも使うが、野村自身は大規模シミュレーションもせず、ソフトウェアを少し使う程度で、自由でモバイルな働き方だという。一方、素粒子の実験で最大のものは10兆円規模のプロジェクトで、実験グループは5000人ほどになる。シフトが決まっていて休めず、装置のあるヨーロッパに行かなければならない。
加速器で何をしているのかについて、野村はスケールの説明から入った。原子の中心には原子核があり、その周りを電子が回っている。原子核を1円玉とすると、電子が回っているのはサッカーコートの端あたりで、原子核は原子の10万分の1ほどの大きさしかない。原子核は陽子と中性子からなり、陽子や中性子はさらにクォーク3つでできている。人間はそこからさらに1万分の1ほどのスケールまで分かっているという。
これほど小さいものは顕微鏡では見えない。量子力学では、小さいスケールは高いエネルギーに対応する。野村は正確な説明ではないと断りつつ、小さいものを見るには粒子をぶつけて壊し、出てきたかけらを集めて解析し、元の構造がどうなっていなければならないかを推定すると説明した。より小さい構造を見るには、より細かく砕く必要があり、そのためにより高いエネルギーが要る。粒子を徐々に加速するので装置は巨大になる。周長27kmの円形トンネルで陽子を何周もさせ、光速の99.9999999%ほどまで加速してぶつける。壊れて出てくる数百から数千のかけらを1つでも取りこぼすと再構成できないため、2〜3mに及ぶ検出器で周囲をすべて覆う。トンネルには超伝導を使い、空気とぶつからないよう真空にする必要もある。リニアモーターカーに似ているかと聞かれた野村は、加速の原理は違うが、お金がかかる点は似ていると答えた。
実験の仕事をしながら、理論家が数学を駆使してぎりぎりの勝負をしている世界に入ってきて勝てるわけがない。だから理論家と実験家は別のスポーツのようなものだと野村は言う。ただし暮らしが違うだけで、科学としては密接に関係している。理論は実験結果を見て考え、実験でテストしてもらう必要がある。理論家の提案をもとに次の実験が計画されることもある。
王道か、独自路線か
ベテランちは、理論家から見てセンスのいい実験家、そうでない実験家はいるのかと尋ねた。野村は、そういう見方はあるとしながらも、自分のセンスが常に正しいわけではないと答える。こんなところをやっても仕方がないと思われた研究が大発見になることもあるからだ。
野村はこれを音楽にたとえる。J-POPの王道で戦う人がいる一方で、意味の分からない新しい音楽をやる人もいる。後者はたいてい潰れるが、たまに当たると、その人にしかできないものになる。研究でも同じで、王道を行けばそれなりの研究者にはなれるが、競争が激しすぎて本物になるのは難しい。少し違う場所でやれば、当たる確率は低いが、当たったときには大きな成果になる。野村は、期待値は同じくらいだからみんな迷うのだと話した。
なぜ理論物理だったのか
高校の先生も理論の人で、おそらく物性理論の出身だった。そのため、実験か理論かはあまり迷わなかったという。面白さについて野村は、学生のうちは自分で発見できないので「学ぶ喜び」が中心で、研究者になると「解ける喜び」に変わっていくと説明する。ただ、研究者でもすべてを知ることはできないので、学ぶ喜びはずっと続くという。
学ぶ楽しみならどの学問にもある。その中で物理が刺さった理由を聞かれ、野村は「根本的だと思ったから」と答えた。素粒子物理学は自然界がどういうルールで動いているかを見つける学問で、原理的には人間の体を作る粒子もそのルールで動いている。ラプラスの悪魔のように、原理的にはすべてを計算で導けることになる。ただし野村は、それも微妙な議論で、実用上は不可能だと留保をつける。素粒子の理論を解いて人の次の行動を予測することはできない。化学、生物学、経済学、政治学など、スケールに応じた学問が必要になる。それでも「本当はこれで動いている」という点に魅力を感じたという。宇宙初期の計算にも素粒子の理論が使われる。
大学院での本気と、海外の若手に受けた衝撃
大学院ではかなり研究に打ち込んだが、最初のうちは甘かったと野村は振り返る。それでも、指導教員の柳田が新しいアイデアを口にすれば、分からなかったという結果も含めて翌日には必ず持っていくようにしていた。柳田は酒を飲んでいるときにも電話をかけてくる人だった。高校の部活仲間と千葉に泊まりがけで出かけたとき、着いたばかりの夕方に電話がかかってきて、翌日までに結果を出さなければと、夜7時か8時に一人で帰って朝までに仕上げたこともあったという。野村は柳田を分野の大物で、ニュートリノの研究で歴史に残る業績を持つ人だと紹介している。
転機は博士1年のころに訪れた。当時は海外の研究者と直接接する機会がほとんどなかった。大御所がシンポジウムで講演することはあっても、話す機会はない。そこへ、若手を呼んで話してもらう新しいタイプのイベントのため、アメリカの若手ポスドク2人が来日した。ポスドクは博士号取得直後の任期付きの職で、2〜3年で自動的に終わるため、その間に次の職を見つけなければならない。富士山のふもとで開かれるイベントの前に東京に立ち寄ることになり、案内役を募っても誰も手を挙げなかったので、野村が引き受けた。
野村は東京に住みながら初めて東京タワーに登った。しかしきれいだと言っていたのは最初だけで、あとはずっと物理の話になった。その若手の一人は口を挟めないほど喋り続ける人物で、野村が自分の研究を話すと、すぐに答えを出し、別の話題と結びつけてまた話し始めた。年齢はほぼ同じだが、何度も飛び級していたことを後で知った。野村は、自分もこのまま少しずつ上がってはいけるが、2〜3年後でもここには届かないと感じ、そこから一気に研究のペースを上げた。野村が30歳でアメリカに渡ったとき、その人物は29か30歳でハーバード大学の正教授になっており、その後プリンストン高等研究所に移ったという。
野村にとって、この人物は「サンプル数1」だった。アメリカのポスドクは全員このレベルだと思い込み、この海に放り込まれたら完全に死ぬと考えて準備した。実際に行ってみると全然違い、まったくひるまなかった。自分が一番ではないかと思うほどだったと笑う。野村はキャリアの面での大きな出会いとして、この人物に加え、高校の物理の先生と指導教員の柳田を挙げた。
バークレーで当たった研究テーマ
博士号取得後、野村はMITやプリンストンなどからもオファーを受けたが、ポスドクとしてバークレーを選んだ。そこで、自分が考え始めていたテーマと近いことをバークレーの教授が研究しており、しかもそれが注目されている分野だった。英語が拙い若手でも面白いと思ってもらえ、共同研究は大きな成果につながった。次々にアイデアが出たという。
ベテランちが研究の内容を尋ねると、野村は標準模型から説明した。標準模型は非常に成功した理論で、電磁気力、クォークを閉じ込めておく「強い力」、そして「弱い力」という3つの力を含む。これらを一つの力の異なる側面として見ようとするのが、1970年代に原型が提案された大統一理論である。
野村は、物理学の歴史は統一の歴史だと言う。電気と磁気は似ているが別の力に見える。しかし相対性理論では、ある人に電気に見えるものが、その人に対して運動している人には磁気に見えることがあり、両者は同じ力だと分かる。さらにさかのぼれば、ニュートンの仕事も統一である。野村は、リンゴが落ちてひらめいたという逸話自体には意味がないとしたうえで、本当の問いは「リンゴはどこから落としても落ちるのに、なぜ月は落ちてこないのか」だったと説明する。力が働かなければ物体はまっすぐ等速で進むことは、ガリレオやデカルトによって知られていた。それなら月は地球の周りを回らずに飛んでいくはずで、軌道が曲がるのは地球に向かって落ち続けているからである。月の運動に必要な力と、リンゴの落下に必要な力を調べると同じ式になった。天上の月は神の法則、地上のリンゴは別の法則と考えられていたものが一つになった。それが衝撃だったと野村は言う。
大統一理論もすぐに支持を集めたアイデアだった。統一すると力だけでなく、クォークや電子など十数種類の粒子も見事にまとまる。統一が起こるのは、現在の実験よりはるかに高いエネルギー、つまり非常に小さいスケールであり、小さいところで同じだったものが、私たちの日常では分かれて見えるという構図である。一方で、粒子の質量がぴったり合わないなど、細かい点ではうまくいかない部分もあった。
そこで野村たちが使ったのが、小さいスケールでは空間が3次元である保証はないという考え方である。野村は紙を借りて説明した。紙は2つの数字で位置が決まる2次元の物体に見える。しかしウイルスのような小さな存在から見ると厚みがあり、表か裏か、真ん中か3分の1の位置かまで指定しないと会えない。本当は3つの数字が必要なのに、大きなスケールでは2つで足りるように見える。同じように、私たちの世界にも統一が起こるような小さなスケールにだけ、感じ取れない方向があるかもしれない。その枠組みで統一理論を作ると、厄介な問題が消え、力を統一しつつ現在のデータとも合うものが作れた。野村によれば、この研究がよく受け入れられ、ポジションを得て出世することにつながった。
フェルミ研究所から、合わないと感じてバークレーへ
バークレーで1年ちょっと研究したころ、まだアメリカのシステムもよく分からないうちに、フェルミ研究所(フェルミラボ)のセミナーに招かれた。行ってみると空きポストがあるから応募しないかと言われ、よく分からないまま出したら採用された。ポスドクは1〜2年しか経験していない。
研究所では、周りがみなプロで学生もいないので、論文は書きやすい。一方で「余計な話」が入ってこない。野村は、生物学の教員との会話や、学生の基礎的すぎる質問がとても良い刺激になると考えている。たとえば「宇宙が膨張するなら人間も膨張しているのか」という、研究者が考えなくなっている問いを投げられると、改めて説明する過程が生まれる。同じレベルの人ばかりが集まると方向性がそろってしまう。研究所のスタイルが合う人もいるが、いろいろな人と交わるのが好きな自分には合わなかったと野村は言う。翌年にはバークレーから声がかかり、今度は大学のスタッフとして戻った。
ここまでを振り返り、荒れた中学やテニス漬けの時期はあっても、経歴としては一直線に見えると野村は言う。個人としては恋愛で「爆死」するなど、それなりに苦労しているとも付け加えた。
30代半ばでの責任と、起き上がれなくなった日
本当の遠回りはこの後に来た。アメリカの大学では、テニュア(終身在職権)を得るまでに1年半ほど委員会が審査し、世界の30〜40人のトップ研究者に意見を聞いて、その人が世代の中でどの位置にいるかを評価する。これを通って准教授になったころ、野村は30代半ばで、数十人の研究者を抱えるグループのリーダーを任された。
仕事は研究とはまったく違った。官僚や政治家に成果を説明しに行き、予算の削減を受けた。今から考えれば他のグループも削られていて失敗ではなかったが、スペースも減らされ、それまで部屋を使っていた人たちに出ていってもらう必要が生じた。相手には退職したバークレーの大物教授もおり、退職後も数年は部屋を使えるという約束を覆さなければならなかった。「あなたは若いから知らないかもしれないが、私はこういう仕事をして、このグループにこれだけ尽くしてきて、こういう約束がある」といったメールも届いた。研究でも朝から晩まで働き続けていた。
そしてある日、まったく起き上がれなくなった。すぐに病院に運ばれ、待合で幼い子どもが泣き、アンパンマンが流れていた。その歌詞の「何のために生まれて」が一番こたえ、耐えられなくなったという。最初に処方された薬は効き目が強く、飲むとすぐ楽になるが、切れたときの落ち込みが激しく、命の危険を感じるほどだったと野村は語る。
その後も2〜3年おきにぶり返した。引き金の一つが、研究を先に発表されることへの恐怖である。論文は毎日インターネット上に公開され、野村は最低でも50〜60本、多い日は100本ほどに目を通す。そこに、6か月かけて温めてきたアイデアとほぼ同じものが出ることがある。すぐに出さなければ、相手の論文を見てから書いたものと区別できなくなる。共同研究者がヨーロッパとアメリカにいれば、8時間ずつ交代で原稿を編集し、24時間を2サイクル回して出すこともあった。仕上がっていなければ、諦めるか、できた部分だけで出すか、重なる部分を認めて引用し、別の部分で差別化するかを決めなければならない。最終的な評価はコミュニティが決める。こうした事態のたびに脇汗が出てパニックのようになる状態が、10年近く続いた。
アメリカに渡ってからの7〜8年、丸1日休んだ日はなく、半日休んだ日もなかったかもしれないという。当時はノートパソコンで家から作業できる環境ではなく、大学の計算機を使うため夜2時ごろまで大学にいた。クラウドで共同編集するツールもSkypeもなく、国際電話は高かった。交代での編集も、メールで「この時間までにお前が持って、寝る前に俺に渡せ」とやり取りしながら進めた。相手が寝ている間に24時間が過ぎれば1日を失うので、起きたらすぐ電話するような生活だった。
遠回りで変わった考え方
体調を崩したのは30代半ばで、その後10年ほどは症状と共存してきた。今はかなり少なくなったという。野村は、狭い意味のキャリアだけで見れば、もっとやれたという思いはあると認める。休みを入れなければ続けられなくなり、明らかに自分がおかしいと分かるときは、重要な局面でも寝るようになった。その意味で研究のペースは遅くなった。ベテランちはこれを、肘を壊した後のエースピッチャーにたとえた。
一方で、人生全体では得たものがあると野村は言う。自分の学生が同じような状態になったとき、症状は違っても理解できる。また、こうした番組に呼ばれたときも、以前ならどう見られるか、業界でどう評価されるかを考えただろうが、そういうことはどうでもよくなった。年齢もあり、その時間を研究に注いでアインシュタイン級の仕事ができるなら価値があるが、差がわずかなら、その時間で人と話したいと考えるようになった。特にこの2〜3年は、自分では一生経験できないようなことを第一線でやっている人と会う機会が増えた。それを逃すのはもったいないという考え方に変わってきたという。
象徴的な出来事として、野村はCERNでの会議を挙げた。CERNはヨーロッパの素粒子研究の中心で、世界最大の加速器を持つ。まだ完全には回復していないが、最悪の状態からは戻りつつあった時期に、大きな会議で締めくくりに近いトークを任された。どうしても行きたかった野村は、アメリカから飛行機でジュネーブへ飛び、車を借りて会場のビルの前まで行った。しかし中に入れなかった。ラップトップを開き、家の方で緊急の用事ができたので行けないとメールを送り、そのまま空港へ引き返した。
無理なのは分かっていても諦められなかった理由を、野村は、行かなければエースピッチャーとしてのキャリアに傷がつく、つまり周りからどう思われるかを気にしていたからだと振り返る。結局キャンセルしたが、それを覚えている人は誰もいない。自分が思うほど影響はないのだと実感として分かるようになり、少し軽くなったという。
ベテランちは、一線の研究を続ける人もいれば、野村の高校の先生のように早くから教育や普及に切り替える人もいて、それで全体の生態系が回っていると話を向けた。野村は、トップアスリートのようにやり続けるのは立派で、自分もその面を消したくないと正直に思っていると答える。ただ、それだけでなくてもいい。科学者として生きていたい気持ちはあり、他の活動が研究に悪い影響を与えすぎないようにはするが、他のことをすると無駄になるという考え方はなくなった。ベテランちは、将棋連盟の会長を務める羽生善治と、今もサッカーだけを続けるキングカズを例に挙げ、野村はどちらも立派で、全員がカズのようにできるわけではなく、そうでない道が劣っているわけでもないと話した。
「遠回りとは、深まること」
番組恒例の最後の問いで、野村は遠回りを「深まること」と表現した。遠回りしたことで自分は深くなったと思う。尖ったところで少し良い仕事はできたかもしれないが、遠回りによって深みが出たと自分では考えている、という。
ただし、わざわざ遠回りする必要はないとも言う。しないで済むならそれでいい。最短で行こうとした結果として遠回りになるのが一番美しく、最後まで最短で行ける人はほとんどいないので、結局は誰でも遠回りになるという。
ベテランちが、今取り組んでいるホログラフィーにも直接たどり着いたわけではないと指摘すると、野村はそれを認めたうえで、ホログラフィー自体が遠回りだった可能性も結構あると答えた。20年後に最終的な形から見れば、こんなところを通る必要はなかったと言われるかもしれない。それでも、そこを通ったからこそたどり着ける場所がある、と野村は話を締めくくった。
僕個人としてはそれなりに苦労してますよ。もちろん恋愛なんか爆死もしてますし。爆死?(笑)爆死してますし。
で、アメリカ行って研究者になって。そうですね。多分人間的にはちょっとやばいやつというか。いやいやいや、そんなことないですよ。もうその時期一番きついですよね、この業界は。博士号を取って大学でそれなりのポジション取るまでの。
で、立てなくなって2ヶ月ぐらい。もちろん病院でアンパンマンとかが流れるんですね。実は小さい頃……。「何のために」で俺が泣いてるんですよ。「何のために」って。(笑)いやいやいや。
軽くその幼少期からというか、なぜ今このような物理学者が生まれていくのかというのを聞きまして。僕は生まれたのは神奈川県だったんですけど、小学校6年間は茨城で過ごしてるんで、もう結構田舎の、田んぼだらけの。だから遊びっつってもヤゴ取ったり、クワガタとか結構いるんで普通に朝道に出ていくと。でもコクワガタっちゅうしょぼいのしかいないんですよ。しょぼいって失礼なんですけど。ノコギリとかいいやつは森に行かないといけないんで。森に行って、なんか樹液みたいなのを塗って、夜にまた行くとか。砂糖水みたいなね、甘いの。
なんか親がすごい賢くてみたいなことではなくですか?いや、別に普通の会社員でしたし。しかもそこに行ったのは、横浜に土地を買ったらしいんですよ、頑張って。いいじゃないですか、すごい。で、買ったんだけど、買った瞬間茨城に転勤が決まってしまって、ほったらかしたまま行って6年過ごしたっていう。だから子供の頃(父親に)ほとんど会った記憶ないですね。当時きっと10時、11時じゃないですか、その会社員さんが。で、土曜は普通に出勤するのがまだ主流だったし。なるほど。まだ時代がね、今ほど働き方改革とかなってないので。全然違ったんで。で、中高は横浜に来て、そしたらもう全然違いましたよね。
それ、受験したんですか?してないです。僕は地元の中学校、普通の公立中で、むっちゃ荒れてましたよ。ああ、ヤンキーとかいっぱいいそうですよね、横浜なんて。だから当時はズボンの太さで偉さが決まるわけ。はいはいはい。こういうね、ボンタンっていう。作業服みたいなね。そう、そんなこと言ったらもう大変ですよ。(笑)作業服ってなんやねん。え、気をつけよ。怖いですよ、ヤンキーのみんな。(笑)多分ヤンキーは見てないと思うんで大丈夫です。あんま興味ないんで。
僕はヤンキーじゃなかったんですけど、当然そこには中学生だし入るわけじゃないですか。で、1回なんか調子乗ってその中に入っていったか、僕がなんか挑発したかで、やり合いになって。普通、調子乗って入ってくとタイマンで戦わされるわけですよ。周り囲まれて。で、僕は1回やった時は、なぜかボロ負けしまして、もう血だらけで帰りました。え、血だらけ?血だらけですもん。でも血だらけって言っても鼻血だったんで、別に傷だらけになったわけじゃないんですけど。思いっきり入っちゃったっていうだけ。
へえ、すごい。でも物理はその時もう好きなんですか?図書室みたいなのあるじゃないですか。そこに行った理由は多分不純だったと思うんですけど、休みとか。で、そこにあった講談社ブルーバックスって、今でも科学系の一般向けに書いてるのでは王道というか、なんて言うんですかね、単語が出てこないけど、伝統ある有名な科学の啓蒙書のシリーズがあるんですけど、それをなんか読んでた記憶とかあります。パラパラとではあったと思うんですけど。じゃあ、うっすらなんか好奇心みたいなのはあった。あったはずです。で、その1冊目が良かったのか、2冊、3冊ぐらい多分読んだと思います。
その時からもう勉強はできたんですか?できなくはなかったって感じです。全然悪かったとかいうことはないです。多分いい方だったんじゃないですかね。へえ。で、高校行く。そうですね。高校も県立で、高校もずっと部活でしたね。何やってたんですか?テニスやってて、中学校からやってたんですけど、高校は軟式しかなかったんですよ。ああ、硬式テニスないとこあります。なかった。今はあると思うんですけど、なかったんで、それやってて。軟式は硬式よりちょっとドロくさいんですよね。硬式テニスはね、お嬢様とかが「ふっ」とか言ってやってるイメージというか。なんか試合とかもうヤジって。確かに硬式は絶対やったらあかんみたいな。そう、静かになりますもんね、打つ時。そうだから、ヤジに耐える訓練とか色々やらされましたよ。ヤジに耐える訓練?なんすかそれ?ヤジられるんですか?そうです、部員から。
当時はまだ、これもそう、水を飲んじゃいけないとか。ああ、そっか。夜も毎日10時とか真っ暗になってから帰る。10時?見えなくなるでしょ、白いの。違います。最後は筋トレとか。ああ、なるほど。エンディングはもう筋トレして。それで結局神奈川ベスト4まで。あ、すごい。やっぱ意味あんね。いや、なんか勝ってしまいましたね。いや、すごいっすね、県ベスト4か。団体がそうで、個人は横浜市でベストぐらいですけど。いや、でも強いっすね、めっちゃ。いい経験でしたよ。
で、テニスしてて、東大現役っすか?一応。現役で入るんですか?その状態から。それはですね、これも事実を言うしかないんですけど、高3ってやっぱ引退なんですよ。進学校なんで、そうは言うても県立校だけど。で、その時に模試を受けに行ったんですよ。塾とか行ってなかったんで、分からないじゃないですか。受験とか言われても突然降ってくるようなもんで、あんまり意識してなかったんで、1回受けに行ってみようという。覚えてんのはもう本当、物理が7点っていうのだけ覚えてます。
で、それはしょうがないんですよ、ある意味。当時、中高一貫校とかは高2の終わりまでに全部の課程を終わらして、最後の1年はトレーニング、受験対策する。で、僕ら県立はギリギリ終わるように組んでるじゃないですか。受験対策の時間なんかないんで。で、物理って後半から始まるので、数学と違って高2ぐらいから始まるから、高3の春ってことは半分も見てないわけですよ。そうすね。だから多分力学とちょっと波をやってるかどうかぐらいの感じ。学校でしかやってないわけだから。だからもちろんそんないい成績取れると思って受けてない。偵察しに行っただけなので。でもそれでも7点はちょっとショックでした。比較的得意だと思ってたし、学校の試験なんかでは普通に取れてたんで。
でもそこから大体ゴールが分かって、そうすると色々計算し始めるじゃないですか。どういうところに行かなきゃいけなくて、と。最終的には僕やっぱ塾行きましたし、高3の夏前には行ってました。当時の駿台予備校ですね。え、先輩、お願いします。僕も駿台ですよ。ただ大学はどこって決めてなかったんですよ。で、決めたのが今の物理の話につながるんですけど、高3の時にその物理の先生が、相対性理論とか量子力学の結構面白い話、スリットでどうとか。受験に基本出ないんですよ。だから授業中にさすがにやれないんですよ。文句も出るし、きっと親御さんから。なので夏に集中講義といって、2週間、朝から晩と言っても部活ほどじゃなくて、10時から3時とかでしょうね。それを2週間。だから本人としては部活の顧問の活動みたいな感じだったんだと思います。聞いてはいないけど。なるほど。物理教えるのが、話すのが好きだったんですよね。大学の物理につながるようなことを教えたいぞという。
で、僕はそれに座ってて、こういう世界があるのかっていうか、それがまた呼び起こされたっていうか、中学の時に色々読んでたみたいなのが。そうすると、こういう感じのことをやっていけたらいいだろうなっていうのはあって。そうすると本とか見ると、どうも著者とか大体東京大学なんですよ。すいませんね、見てる皆さんごめんなさいね。なんか自慢みたいな体ですからね。今だとネットとかあるんで、別に東大なんか出てなくても立派な人いっぱいいるの分かってるじゃないですか。当時って検索すらもちろんないですからね。Googleだって僕の同世代の人が創業したわけで、僕が高校生の時、セルゲイもラリー・ペイジもみんな高校生だったわけで。だから何にもないわけですよ。調べようと思っても、そういう本を見るぐらいしか調べようがないんで。そうするとやっぱり、これは東京大学に行かないといかんのじゃないかみたいな、これをやりたかったらそこに行っておくのがいいんじゃないかっていうんで、後はもうひたすら勉強というか。
ああ、へえ。そこでも死に物狂いでというか。そうですね。試験対策ですね。だからあんまりいい勉強法じゃないのかもしれないけど、少なくともここを突破すると自分の……。だから遠回りみたいなテーマだったんですけど、その時は遠回りをしない思考をしてました。ある意味、物理学の研究という自分の行きたい道からしたら遠回りだけど、受験においては最短というか。そう。でもそれをやりたいためにはやっぱ最短だと思って、そしたらこの大学に行くのがやっぱ一番近道で、そのためには何をやるかっていうのもずっと逆算というか。で、それまで本当に朝練から夜までやってて、夏休みもほぼ毎日やってたのが、全部時間空いてるわけだから。そうです。もう体力はいっぱいありますから。どうやっていいかわかんない状態からひたすらやって。最終的には、それでも先生には言われましたけどね、なんか舐めてんのかみたいな。でももう決めてたんで、そのまま。現役の伸びを見せて。そうですね。そのままそこだけ出して。あ、東大のみで。
おそらく僕はギリギリっていうか、受かってなくてもおかしくないんですよ。で、例えばいわゆる滑り止め校を受けて受かっちゃったとするじゃないですか。滑り止め校って言ったっていいところなわけですよ。そしたらもう1年勉強するっていうことを選べますかと。心折れちゃいそう。絶対選べないすよ。周りは大学行って楽しそうで、絶対入っちゃうんですよ。だったら1個しか受けなければ、落ちたら問答無用でもう1年やらされるわけだから、っていう思考法で。前期、東京大学1本勝負。で、たまたま受かった。危ないとこでしたね、これ。受かってなかったらね、本当ね。いや、別にそれはそれで、人生って大体なんとかなりますから。(笑)
で、大学入られて。そしたらもうテニスサークルですよ。おめでとうございます。何というサークルで?僕は東大サンフレンドってとこに最初。え、知ってます?サンフレ、まだありますよ。え、入ってたの?いや、僕は入ってないですけど、僕の同期とかいっぱいいますよ。それ結構強くて、しっかりやってるとこでしたね。そう、サンフレだ。で、その後本郷に行ってウィンブルドンっていうとこにも入るんですけど。ウィンブルドン。チャラそう。いや、なんかチャラくやってますよ。今でも会いますしね。数日前も会いましたし。エンジョイというか。そうですね。でもなかなか楽しかった。
本当に後で、アメリカにその後、大学院終わって行っちゃうんですけど、最初に出させてもらったテレビ番組が、HKT48とアイドル科学TVみたいな深夜番組だったんですよ。で、なんか肩書きとかすげえ硬くなっちゃうんで、若い頃の写真とかないですかと。持ってないじゃないですか、アメリカにもう単身行ってるんで。そしたら実家に戻ったら、逆にすぐ行っちゃったから全部残ってたんですよ。親としても倉庫に入れたまま全員が忘れてるから。そしたらその学生時代の写真をディレクターに送ったんですけど、全部酒飲んでる写真。(笑)見事に飲んでる写真しかないんです。あとはテニスコートで全員で「いえーい」っつってみたいのあります。真面目にしてる写真なんか撮らないですからね。まあ、そうですよね。だから、こんなのやったなと思って。いいな、楽しそう。
で、どうやって物理始めるんですか?大学で。そうですね。東大のいいのは、僕は本当にいいと思うんですけど、ほぼ決まってたんですけど、あんまり決めなくても理一っていう大雑把なやつで取るんですよ。理科一類っていうのはほとんど全部入ってて、物理学、生物学、数学も入ってますからね。化学、工学、エンジニアも全部そうなんで、入る時に決めなくてよかったんで。ただ物理をやりたいなってのはありました。で、実際物理学科、2年の半ばぐらいで決まるのかな。で、物理学科に入って、理物ってやつですね、理学部物理学科。で、そのままヘロヘロしてたんですけど、大学院にやっぱ行かなきゃいけないっていうんで、4年生の時にゼミで出会ったのが、その後博士論文の恩師になる人なんですけど、それが物理の中でも素粒子物理学の理論という分野だったんですけど。で、それがまた非常に面白く感じますよ。あ、面白いと。で、もうこれは絶対理論だと。元々僕あんまり実験やる質じゃなかったんですよね。
物理の中でも割とプラクティカルなことを実験していくパターンと、ゴリゴリの理論でいくパターンがあるけど、こっちだと理論だと。そうですね。実験と理論を両方やれる人ってもういないので。専門化がやっぱり進みすぎちゃってて。複雑すぎるから、どっちも両方こなそうとしたらやらなあかんこと多すぎて不可能。無理ですね。だからプロとして物理学者でもあり化学者でもあり医者でもあるみたいなのは、やっぱりもう無理じゃないですか。それよりもっとちっちゃいってことです。物理の中でもやはり分かれていて、そうじゃないとやっぱり最先端の知識までたどり着かないです。なので、このジャンルの情報量が多すぎるってことですね。そうですね。やることも多すぎるし、その後分かるんですけど、人生のライフとしても全然違います。理論家ってやっぱりもう基本、紙と鉛筆なり議論して。今はもちろんコンピューター使いますけど、僕のやってるのは大規模シミュレーションとかですらしないので、本当にちょっとソフトウェア使うぐらいなんで、自由というかモバイルな人ですけど。
実験の人とかはやっぱり、一番大きいのだと、僕の分野、素粒子分野だともう10兆円とかのプロジェクトなんで。で、研究のコラボレーションというか、その実験のグループが5000人とかなので、みんなシフトは決まってるし、それ休むわけにもいかないから時間も決まっているし。で、ヨーロッパにそのマシンがあるんですけど、だからヨーロッパに行かなきゃいけないし。それはなんか素粒子を爆速で飛ばしたりとか。そう、それでぶつけるんです。ぶつけたりとか。で、なぜそんなことをやるかと言うと。それどうなるか見なきゃいけないです。
そうですね。素粒子っていうのは小さいところを探るんですね。原子があって、原子っていうのも実は点ではなくって、中心に原子核っていうのがあって、その周りに電子っていうのがフラフラしてるんですよ。で、全然サイズ違うんですよ。原子核っていうのの周りを電子っていうのが回ってるのがいわゆる原子、アトムなんですけど、例えば原子核が1円玉だとすると、電子が回ってるのはサッカーコートの端とか。なので、もう全然、原子のサイズよりさらに5桁、10万分の1ぐらい小さいのが原子核なんです。なんか教科書の図やと、原子核これぐらいで電子これぐらいみたいな図になってるけど、本当はもっとギュって小さい。そう、全然小さいです。で、それがさらに中性子と陽子っていう粒からできてるのが分かっていて、実は中性子とか陽子も、もっと小さいクォークっていうの3つでできてるんですけど、てことは、さらに原子核より今だと1万分の1ぐらいのサイズまで人間分かってるんですよ。
だからもう本当に小さいとこ探るんですけど、それどうやってやるかって言うと、顕微鏡なんかじゃもちろん見えないわけですよ、拡大しようったって。で、どうやるかっていうと、実はこれ、量子力学というのを知ってると分かるんですけど、小さいっていうのは高いエネルギーに対応してるんです。ちょっと不正確だけど、どういう意味かって言うと、小さいとこ見ようと思ったら、ぶつけたりしてぶっ壊すなりぶっ飛ばして、それを集めて解析して、どういう構造になってなきゃいけないかっていう風にして見るんです。なるほどなるほど。てことは、より小さい構造を見ようと思うと、より粉にしないといけないです。なるほど。だから高いエネルギーがいるんですよ。
で、高いエネルギーにするためには、徐々に加速しながら高いエネルギーにしていくので、でかいマシンになるんです。で、実際あのマシンは何周もさせるんですね。で、光速の、プロトンだから、99.9999999%ぐらいまで加速して。限りなく光に近い速さにして。そうです。で、それで陽子っていうちっこい粒同士を、27kmの円周を何十周もさしてきたのをバチッとぶつけるっていう作業をするわけですよ。で、出てきたかけら、それがもう何百、何千個に壊れるので、1個でも漏らすと全然再構築できないんで。しかもいろんな種類のが出るんですね。物によってはなかなか止まらないので、もうでかい、2m、3mのところまで全部検出器ですごい精度で埋めて。で、このトンネルは加速するために全部超電導体を使ったりして。だから10兆円とかなっちゃうんですけど。
なんかリニアモーターカーみたいなことですか?そう、リニアモーターカーと似てますね。でも加速の原理、細かいことは違うんですけど。なんとなくそういうような感じ。トンネルみたいなのをボーって。そうそう。ただ真空にしなきゃいけない。空気にぶつかったらあれなんで。リニアは真空にしなくていいんで。死んでしまうので、真空にしたら。(笑)でもそういうテクノロジーでずっとやるので、お金かかるのはリニアモーターカーでも分かりますよね、お金かかるじゃないですか。だからそういうことをやるので、それをやりながら、理論物理のあんなこの数学のなんとかとかずっとやってギリギリとかっていう勝負をしてるわけじゃないですか、僕ら。それをやってる人が入ってきて勝てるわけないですよ。そうすね。で、僕もそんなことできるわけないですよね。だからもう完全に理論物理学者と実験物理学者っていうのは、もう全然違うスポーツというか。そうです。っていうことになってる。
で、もちろん物理学を進めるためにはお互いが見つけたことが必要だから。そうですよね。理論の人も結局その実験結果を見て考えていくし。そうです。で、テストもしてもらわなきゃいけないし。で、理論の人が考えたロジックに基づいて、じゃあ次こういう実験やりましょうかって。その通りです。やっぱ早いですね。いや、すいません。だからそういう感じなので、お互いが関係ないっていうのは暮らしがあんまり関係ないだけで、サイエンスって意味ではもう密接に関係してるんですけど。
で、これちょっとそれちゃうんすけど、そういう時って、理論の人から見た時にこいつセンスあるなっていう実験の人もいれば、こいつちょっとなっていうのもあるんですか?その逆も然りなんですけど。ありますけど、でもそのセンスって、僕のセンスが必ず合ってるわけじゃないから。逆にそういう、こんなとこやってもしゃあないのになみたいなのが大発見になることもあると思うんです。逆にここで言うと、発見して当然とは言わないまでも、メインストリームでやってるようなもんですよね。普通のJ-POPで戦ってるみたいな。で、意味不明な新しい音楽をやってる人がいるじゃないですか。それは大体潰れるわけですよ、普通。変すぎて。たまにそっから当たると、すごいってなると。そこはもう勝負ですよね。なるほど、熱いな。いいっすね。
結構どの分野でもそういうとこあると思います。王道で勝っていけば、王道のすごい人にはなれるけど、競争が激しすぎて、大体はそれなりで終わって、そこで本物の本物になるのは難しいけど、逆にちょっと違うとこでやれば、1発当てた時に「おっ、この道で行ったか」という。へえ。でもやっぱ確率は低いので、そこは期待値同じぐらいだから、みんな迷うというか。
なるほど。で、大学入って、素粒子の話が今出たと思うんすけど、高校の時に物理に惹かれた時も、やっぱりいわゆる抽象度の高い理論物理みたいなところに惹かれた?あ、そうですね。その先生も多分理論の人で、明らかに。高校の先生の方も多分物性の理論だと思うんですけど、今から考えると。だから実験か理論かは逆にあんまり迷わなかったかもしれないですね。それは特にどういうところに面白さを感じるというか。そうですね。やってる間はもちろん自分で発見なんかできないわけなので、当時の面白さは、え、こんなことがって学ぶ喜びが多いですよね。で、どっかで研究者としては見つける喜びにもちろん変わっていくんで。ただ学ぶ喜びは常にあるんで。研究者って言ったって全部知るのは絶対無理なんで、常に新しいこと学んでるから、好奇心があってそういうのが好きな人だったら、そこでの楽しみはずっと持てると思いますよ。
なんかでもとはいえ、その学ぶ楽しみって全部の学問にあるというか。その中で特別刺さったのは何なんですかね?根本的だと思ったからですね。基本そうです。この方程式が分かれば全部それで動いているんだと。ただ実際上計算はできないから、じゃあ人間の脳の動きまで素粒子論で計算できますかと。本当は素粒子の物理学って、自然界がどういうルールで動いてるかを見つける学問なので、そのルールに従って動いてるはずだから、原理的には僕らの粒々も全部それで動いてるはずなので。ラプラスの悪魔みたいなこと、全部計算で導けるんだと。そうです、原理的には。と、それも微妙なんですけどね。そのために同じだけのリソースが必要でとかなってきて難しい議論になるんですけど、できたとしても、そこの話に行くまでに事実上できないわけです。この素粒子の理論を解いて人間を作ってくださいとか、あなたが次どういう行動をするか読めますかって、読めるわけないんで。
そのスケールの学問が必要なんですけど、人間に行くまでも化学が必要で、化学から生物学が必要で、生物が動いた時にどういう活動するか、経済学が必要で、政治学が必要で、そのスケールに応じたものが必要なんですけど、本当はこれで動いてるっていう、そこに魅力があったんですね。とりあえず一番ちっさいすもんね。てことは一番基礎的というか、ある見方では。っていうのが確かにテンション上がったってことなんで。そう。しかもそれがたくさんあるだけでこれができていって、だから宇宙の初期なんかを計算するのも全部その素粒子の理論を使うんですよ。それがないと何もできないので。そこら辺で魅力を感じたんですかね。なるほど。
で、ちょっと戻るんすけど、研究者になられてアメリカ行かれるんですよね、院を卒業して。そうですね。大学院入って、大学院は相当やりましたね。でも最初のうちは甘かったんですよ。甘かった?自分はマジでやってるつもりあったんですけど、結構泊まったりもしてやってて、例えば教授がなんか、こんなアイデアがとか言ったら、絶対翌日には結果を持っていくようにして、分からなかったも含めて必ず。酒飲んでる時とかでも電話かかってきたりするような人だったんで。1回、千葉に高校の時の部活の仲間と行ったんですよ、大学の時。で、行ったら夜、当時はまだSNSないですから、携帯、弁当箱みたいなので、それでいきなり「さっきの話だけど、なんとかかんとか、これどうなのかなと思って」って。ほんで俺、翌日まで持っていかなきゃいけないと思って、着いたばっかりで、夕方から今日は泊まって大騒ぎっていうのに、7時か8時に「ちょっと俺帰ります」って帰って。へえ。で、朝までに仕上げた記憶とかあるんで、それなりにやってたつもりはあったんですよ。
じゃあ先生も結構えぐいすごい人だったんですか?本当に分野の大物です。研究者としても超有名な、ニュートリノとかでは本当にずっと歴史に残る業績を。調べりゃ分かっちゃうんで名前出してもいいんですけど。まあそんな感じでやってたんですよ。ところが博士1年かなんかの時に、当時は今と違って外国の研究者と接する機会はほとんどないんですよ。今は結構トップの研究所だと、例えば1/3が元々外国人だったりするんですけど。大御所はたまに来て会議とかするんですけど、それはまたちょっとステージも違うし、直接話す機会はないし。フォーマルな、正式な講演を聞くシンポジウム的なのがあって、みたいな感じで来るんですよね。
ただその時に、若手、ポスドクって言うんですけど、博士号を取った直後に、みんな1年とか2年のポジションしかまず取れないんですよ。上級講師とか准教授とかみたいなのに行くってこと?准教授なんかもうはるか上です。助教じゃないか。助教だってはるかに上です。3年経ったらもう首なの。首っていうか自動的にアウトなので、その間に次を見つけて生き残って、その間にやっと大学のどっかの講師とか助教とかを見つけるっていう。だから普通、助教とか取るのはポスドクやった後になるので、やっぱ30代になるんですけど、そのポスドクだった人が来たんですよね、アメリカの2人。そういうの呼んで、若者に話してもらおうみたいな、新しいタイプのイベントみたいな。で、富士山の麓であるイベントだったんだけど、東京に寄ってから行くっていうことになって。で、教授はやっぱ夜、時間外まで空いてません、若造だから。じゃあ誰か大学院生がちょっと東京を見せてやってくれないと。若手が案内。でも誰も手をあげないから、僕が「はい」って言ったんですよ、やりますって。
で、初めて東京在住ながら東京タワー登ったりしたんですけど。あるあるで。いいですね。でも物理とかもずっと話してんですよ。一応登って最初ぐらいは、綺麗だね、みたいな。(笑)で、それがね、もう圧倒的でしたね。はあ。内容のレベルが高い。知識のレベルと、とにかくずっと喋ってるやつなんですよ。口を挟む間もないぐらい喋ってるやつなんですけど、たまに僕の方が「僕はこんなことやってて」って言うと、「ああ、それなら」とか言ってあっという間に答えが出てくるし、「いや、これこうこうでっていうかさ、これとも関係してて」とか言って、またぶわーって始まっちゃうんです。これやばいなと。言ったらポスドクやと思って、まあまあ言うてもポスドクやから仲間ぐらいの感じでしょうと思って来たら、とんでもないとこにおった。
そう。だから、2、3年ずれてますけど、実は年齢はほぼ同じなんですけど、彼は何度も何度も飛び級してるんで。後から知った。このまま行ったら、俺もちょこっと上がってはいるけど、ここにいるから、あと2、3年でここにはいかんだろうっていうことになって、ぶわっと上げましたね。でも良かったっすね、それ。良かったんですよ。わかんないすもんね、その海外のレベル感。でも後で知ったのは、その後アメリカに僕も行くことになるんですけど、行った時にはもう、僕は30歳で、彼は29か30でハーバードの正教授になってましたから。すごいやつやった、普通に。いい話すね。で、その後プリンストン高等研究所に、ハーバードの教授なんかどうでもいいって感じでピョンって行っちゃったんですけど。で、僕はでもそれがサンプル1だったんです。だからアメリカのポスドクは全員あれぐらいやと思って、これはやべえと。こんなの海に放り込まれたら俺完全死亡だなと。通用しないぞと思って、もうそっからはものすごいやった。いいっすね。で、行ったら全然違うんで。スポーツ漫画みたいな話すね、ほんまに。全くビビらなかったです。あれ、もしかして俺が一番ちゃう?みたいな。(笑)
で、それはいい出会いでしたね。だから3人ぐらい大きな出会いがありますね。高校の時のウコン修二先生と、大学の柳田勉さんが僕の指導教官になるんですけど、その2人との出会いは大きかったですね、キャリアの面では。なるほど。
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で、アメリカ行って研究者になって。そうですね。そこからは、本当に研究しかしなかったですけど、だからもう多分人間的にはちょっとやばいやつっていうか。(笑)いやいやいや、そんなことないですよ。もうその時期一番きついですよね、この業界は。博士号を取って大学でそれなりのポジション取るまでの。で、もうそこは本当にずっとひたすら仕事ですよね。場所もポストも変わっていくのに、研究も結果出さなあかんくて忙しいみたいな感じです。
そうですね。僕は実は最初オファーもらったのがいくつかあったんですよ。で、結局バークレーを選んでいくんですね。今いるとこでもあるんですけど、ポスドクをバークレーでいくんですよ。他は結構いいとこありました。MITとプリンストンとか。で、バークレーに行ってやってて、なんかたまたまいいネタ、テーマにヒットするんです。僕がちょっと考え始めてたのを、そこの教授がやってて。なんかそれも大事って聞きますね。周りの、それこそ研究者になってる友達とか、その時その業界で熱いのも大事やし、それが教授とも噛み合わなきゃいけないしみたいなのがあるみたいな。そうそう。まさしくそれで、それが全部うまくいって。あ、はまったんだ。たまたま結構注目されているようなところを、自分で温めてたやつに似たことを教授がやってたんで、これを言えば向こうは、英語が拙いやつでも、なんか面白いぞという感じで。しかもそこがものすごい当たったっていうか、いいことができて、ロングブースも多かったし、もう次から次へとアイデアが出てくるんで。
そしたら1年ちょいやった後に、まだアメリカのシステムとかわかんない頃に、フェルミ研究所っていう研究所があるんですけど、セミナーに来ないかって言われて。セミナーって普通にやるんですよ。自分の研究を発表したりして、逆に自分たちも呼んで学び続けるんですけど。そのセミナーに行ったら、ジョブがあるんで出してみないかって言われて、なんだかよくわかんないけど出したんですよ。そしたらそのまま通っちゃったんで。だから本当にポスドクは1年か2年ぐらいしかやってなくて。すごい。
ちなみにその大当たりしたバークレーでの研究内容はどういう?ざっくりでいいんですけど。そうですね。今までの素粒子のモデルっていうか模型が、今、標準模型って言われるすごく成功してる理論があるんですよ。それ読みました。ありがとうございます。で、それには例えば3つ違う力とかが入ってたりするんですね。電磁気の力とか、さっき言ったクォークを中に留めとく強い力っていうんですけど、強い力、力が強いんじゃなくてこういう名詞です。強い力っていうものがあったり、弱い力ってあるんですけど、それを例えば本当に1つの力の違う側面として見ようっていう、統一する試みとかがあったんですよ。嬉しい。それですよね。そうですね。それも70年代にオリジナルアイデアがあって、大統一理論とか偉そうな名前。(笑)いや、まあ偉いですよ。だって、いろんな力をジャンル分けしなきゃいけないと思ってたのが、1個になったら嬉しいすよね。そう。電磁気みたいな感じです。
電気と磁気って、僕らのスケールでは似てるけど一応別の力なんですよ。プラスとプラスは反発、プラスとマイナスは引き合う、マイナスとマイナスは反発。で、片や磁気は、NとSは引き合う、NとNは反発。似てるじゃないですか。だけど似てる力と思ったのが、実は同じ力だってことが分かります。で、それは例えば相対性理論に行くと、ある人にとって磁気に見えるものが、その人に対して運動してる人から見ると、運動してると相対論でいろんなもんが変わるんですけど、時間の進みが変わったりで、電気と思ってたものが磁気に見えるとかいう変わり方もするので、基本同じ力ってことが分かるんですよ。で、そうやって統一する歴史なんですよ、物理が。物理ってそれが気持ちいいんすもんね。1個になったぞみたいな。そうです。もう元々、現代物理学の出発点、ニュートンからして統一なんで。そう。運動方程式1個でなんかめっちゃ説明できたぞって。
あれもそうすよね、りんご。りんご落ちてきて。そうです。りんごの落ちてくる話って、時々りんごが落ちてきてひらめいたとか言って、何の意味もないすよね。いや、嘘です。りんごでひらめいたんじゃなくて、本当かどうかは置いといて、例としても意味をなしてないんで。りんごは落ちると。高いとこから落としても落ちると。すげえ高いとこから落としても落ちるじゃないですか。しかもりんご以外も落ちるじゃないですか。じゃあなんで月が落ちてこないのかっていうのが問いですよね。ニュートンの疑問はそれで。で、答えは、月も落ちているっていうのが答えですよね。
なぜなら、その直前にガリレオ・ガリレイとかデカルトっていう人のおかげで、何にも力が働いてなければ物はまっすぐ等速で進んでいくんだっていうことは知られてました。てことは、地球があって何の力も働かなければ、逆に月って地球の周りにあるはずないんですよ。ピューンって行ってしまうから。だけど地球に向かって落ちるから軌道が変わるわけですよね。で、そこで落ちるのをやめたらまたまっすぐ行っちゃう。だからずっと落ちてんだと。落ち続けることで回ってるんだと。で、そういう運動をするには月と地球にどれだけの力が働かなきゃいけないかを調べて、りんごがこのスピードで落ちていくためには、りんごと地球の間に引き合ってる力はどれだけじゃないといけないかを調べてみた式が、全く同じ式だったわけですね。それも統一なんですよ。
昔は、りんごは落ちて、月は全く落ちないのは何でか。それはね、りんごは地上の話だろうと。月は天界だぞ、星なので、神様のルールに決まってるだろうって言ってたのを、全く同じですって統一していくことだった。それが衝撃的だったわけで。そう。りんごの落ちる速さ、その加速度がどうこうみたいなのは、別に計算すりゃすぐ求まるというか、それがボーンってでかくなったのが嬉しいっていう。そうです。それと同じ式でちょうど月が回り続けると。1本の式で全部が理解できる。で、それをやってきたのが歴史だから、戻ると、この3つを統一する。この3つの力、知ってる電磁気、それはもう18世紀の話ですけど、今知ってる3つの力、電磁気、弱い力、強い力を統一できるってのはやっぱり魅力的で、すぐ受けたアイデアではあるんですよ。
でもうまくいかない部分もあるんですよね。で、うまくいく部分もあるんですよ。もうなんか見事にうまくいく。それを統一すると、僕ら、クォークっていうものがあったり、電子ってものがあったりっていうのもあったりするんですよ。いっぱい粒子の種類があるわけですよね。10何種類とか。
そう。で、そうすると力だけじゃなくてそいつらもビコンとほぼ同時に統一されて、で、すごい小さいものがちゃんと僕らのような、僕らのエネルギー。実はその統一が起こるっていうのは超絶なエネルギーを。はい。今やってる実験の10、え、12桁とかぐらい高いエネルギーになったら統一するっていう理論なんですけど。はいはいはい。だから元々小さいところでは同じ力が分岐していくみたいな感じですね。
はい。はい。で、微小なところ、微小なスケールイコール巨大なエネルギーの状況下では一致していたものが、僕らが生きてる普段の人生では別れて見えているよ。電磁気もそうで、電気と磁気ってすごい光のスピードに近いスピードで移動したりすると入れ替わったりするけど、僕らそんなスピードで動けないから、僕らにとっては電気は電気、磁気は磁気に見えるみたいな。
相対性理論でも、だから光に近づくと全部ぐちゃってなるみたいな、よく言われてるやつの、ま、別。はい。そうです。エネルギーでやっぱりエネルギーが高くなったりっていうところが本質なので、自然界の一番小さいところから、ま、出てきてるわけじゃないですか。そいつをいっぱい持ってきて、で、その一番小さいところでは同じ力だし、ものは実は同じ風に振る舞うっていう理論ができてたんだけど、細かいところはどうもうまくいかないんですよね。
ま、そこはちょっと細かい話になっちゃうんですけど、例えばいろんな種類の質量、粒子の質量がばっちり合わないとか。うん。うん。そういう小さいとこの話してるんで、小さいところで僕らの空間が3次元である保証って実はないですよ。はい。はい。
で、それはこの紙と一緒で。紙をちょっと貸していただけると。紙って普通は、すいませんね。この紙って普通2次元って言うんですよね。はい。3とか2とか、2つの数字を決めればいい。そうですね。数直線が、ま、x軸、y軸あって1点が決めれるよと。そう、それを2次元って僕ら言うんですよ。1点を決めるのに数字が2つ必要ですと。
で、僕らの空間を普通3次元って言ってるのは、やっぱり縦にどれだけ行って、横にどれだけ行って、上にどれだけ行ったかっていう3つ数字がいる。はい。で、だから普通これは2次元って言うんですよ。はい。だけど嘘で。はい。これ2次元に確かに見えるんだけど、このぐらいの大きさの人間からすれば。はい。
これウイルスとかから見れば、じゃあ2、1のとこで会おうぜって言っても、実は厚みあるんで。はい。表で会うのか、裏で会うのか、真ん中で会うのか、1/3のとこで会うか言わないと会えないんですよ。はい。だから本当は3つ数字必要なんだけど、大きいスケールでは2つで済んでるように見える。はい。
で、それと同じようなことが僕らの世界に起こっていて。なるほど。なるほど。3次元がこの場合でかくて、で、残りが小さいと。はい。で、そういう風な状況で、小さいのが本当に統一が起こるようなスケールだとしたら、今人間が知ってるとこより10桁小さいんで、もちろん感じることできないわけですよ。本当は1、2、3、4、5、6、なんか方向があるんですけど。はいはい。
そういう枠内で統一理論をやれば、そういう実は変な問題がバーンって消えるんですよ。うん。で、見事力を統一しつつ、完全に今のデータと合うようなものが作れるみたいなことをやったり。ああ、めっちゃ嬉しいっすね。うん。で、それ結構受けたんです。やっぱりポジション取れて、ポーンと出世できてというか。へえ。
で、フェルミラボっていう研究所に行ったんですけど。はい。そう、研究所なので論文とか書くの簡単なんですよ。みんなプロだから。学生もいないし、教えなくてもいいんですよ。うん。余計な時間取られないというか。はい。そうそう。その代わり余計な話が入ってこないんですよ。なるほど。
ちょっと生物学の先生との会話とか、学生があまりにも基礎的なことを聞いてくるとか、でもそれってすごくいい刺激なんですよ。基礎的なことも聞かれると。なんで、みたいな。例えば、ま、これちょっと基礎的すぎますけど、例えば宇宙が膨張するってことは人間も膨張してるのとか、もう研究者だと考えなくもなってるようなことを言われると、あ、それはね、そうじゃなくてとか。で、そのプロセスがなくなっちゃってたのが。
はい。はい。偶然性というかセレンディピティ的なのが、やっぱなんすかね、同じレベルのアスリートみたいなので集まってるから。方向性が同じなんですよ。はい。で、僕はだから本当に陸上でも同じことやってるんじゃなくて、いろんな人と交わるのが好きだったし、自分のスタイルがそうだったんで。研究所のスタイルの方が合う人もいるんですよ。いるけど、僕はそうだったんで、もう次の年には、うん、バークレーからリクルートかかったこともあって、もう戻っちゃうんですよ。
ああ、なるほど。ここにおったらちょっと合わないぞということで。バークレーに戻って。うん。で、それはもう本当に途中で戻るんで、大学のスタッフになったっていう。うん。だからそこまでは、結果的に言うと、色々荒くれに巻き込まれたりテニスばっかりやったりとかしてるけど、パッと見るとま、一直線。一直線に。うん。うん。うん。個人としてはそれなりに苦労してますよ。はい。もちろん。うん。恋愛なんか爆死もしてます。爆死。爆死してますし。で、でもまあそうだったんですけど、本当の回り道は。
はい。ま、それで教授に、准教授になるんですね。准教授になると任期が取れるんですよ。うん。で、そこまでも本当にそれこそ1年半委員会が立ち上がって、こいつがどういう論文をやって、どういうとこで何を喋って、世界中の30人、40人のトップの研究者に意見を聞いて、こいつは同世代でどのぐらいの位置にいるかとか、ずっと審査するってのがあるんですね。どこの大学でも。
で、一応それを通って准教授ぐらいになった時に、グループ全体のヘッドっていうか長みたいなのにならされたんですよ。すげえ若いのに。お、いくつぐらいの時ですか?30半ばじゃないですかね?34、5。
で、ま、仲間の何十人かいる研究者たちのドンとして、うん、説明しに行って、で、今度は全然違う人たちですよ。官僚とか政治家なんで。はい。はい。で、こいつら結果出してるぞと。そうやるんですけど、予算とかちょっとやっぱ減らされたんですよね。はい。はい。で、それは他のとこも減らされてるから、特に失敗では今から考えるとなかったんですけど。はい。
で、そうすると帰るとやっぱり僕らのスペースが減らされたりするんですよね。まあ、お金ないとね。はい。え、で、そうすると今まで座ってた人たちに出ていけって言わなきゃいけないわけですよね。はあ。もう机ないぞと。そりゃバークレーの教授でリタイアした人たち、超大物ですよ。そりゃそうっすね。
うん。で、ま、頼むと、ま、人によっては約束があったりするわけです。リタイアしてもこの部屋を何年かは使わしてもらうと。で、それを覆さなきゃいけないわけですよ。ある。あの、お父さんの小泉師匠みたいな感じで。はい。超大先生とかに言いに行かないといけないわけですよね。
メールとか来るんですよ。やっぱり人によっては、まあまあ、そんなには攻撃してないけど、あなたは若いから知らないかもしれないが、私は、ま、この教科書にも載ってるこういう仕事をして、今までこんだけ、うん、このグループに尽くしてきて、で、こういう約束があって、このオフィス。知っとるかなって感じのをずっとやったり。
ま、研究自体もまあやりすぎだったでしょうね。もう朝から晩までやってたんで。そしてポシャりました。ポシャったんですか?ええ。ああ、大変です。ある日全然起き上がれなくなって。へえ。ま、もちろんもうすぐ病院送り。でもアンパンマンとかが流れるんですね。小さい子が小さい頃いたんで。何のために生まれて、俺が泣いてんですよ。何のために生まれて、みたいな。
笑ったら関係。いや、いいや。アンパンマンが頭の中でですか?あ、違うです。小さい子供です。小さい子供と、で、アンパンマンも流してるんですけど、一番食らっちゃって。耐えられない。そう、そう、そう。
で、その後もやっぱりそうですね、ま、色々ありましたね。で、最初に処方された薬とかが、逆に飲んでるとすごいんですよ。はい。一瞬で治れるんですよ。ああ、強すぎちゃってというか。あ、もう来た。もう効きすぎやないみたいな。はい。切れたらやばいです。本当に命の危機です。異常でしたもん。切れた時のダウン差みたいな。ま、本当そういうのね、薬はリスキーなやつあるんで。そうっすね。
で、そこからでも、ま、2、3年起きにぶり返しましたね。ああ、そうですか。1日ちょっと嫌な、もう6ヶ月とか考えてる論文がちょっとすっぱ抜かれたりすると僕ら終わりなんですよ。そうすると本当に1日、2日で同時っていう感じで出さなきゃいけなかったり。
ああ、こういうことやってるぞ。あいつらの核心のアイデアはこれだってなったら、もうすぐ持ってってみたいな。出ちゃったりするわけです。似てるのが。やっぱり似たようなこと考えてるんで。で、僕ら論文って毎日インターネット上に上がってくるから、パッて、ま、毎日チェックするんですけど、本当に誰が出してくるかわからないです。そうです。50、60本、最低でも。多い日は100本ぐらいチェックするんですけど、おいっていう日があるんですよ。これ同じじゃねみたいな。はい。
で、これ6ヶ月やって何しようが、すぐ出さないと、見てから書いたのと区別できなくなるんで。はい。だからもうそうすると多分、緊急事態発生、緊急事態発生みたいになって、大体共同研究者がヨーロッパとアメリカだったりすると、8時間ずつ俺がエディットするから、次お前にメールで渡すから、次エディットして、24時間2サイクルで出すぞっていう感じ。
もう今ある分でも、もうすごい速さで出さないと、時間経てば経つほどパクったんじゃねってなるから、同時で伝えようというアピールのためにもうすぐ行かなきゃいけないですよね。そうそうです。はい。はい。で、それがちょっと遠かったらもうディシジョンしなきゃいけない。諦めるか。はい。はい。はい。後半できてないと切って出すか。はい。
もしくはもうフルなのを出して、部分的にはかぶってますとも認めて引用すればいいので、僕らのは。そうすると他人がそれをどう評価するかはもう最終的に他人の。ここも自力で行ったのに、ここはもう自力じゃないという手で諦めて、こっちで差別化を図る方に行くというパターンもあり。もしくは、だから自力のところは、ま、ちょっと遅れても、もっと内容がすごい多ければ。はい。はい。パクった感じにならないんで。はい。はい。途中で出ましたと。一応自分たち的には自力でっていうアピールをするんだけど、最終的にどう評価されるっていうのはやっぱりコミュニティなので。
で、そういうのずっとやってるわけです。毎日毎日ずっとバクバクバクバクしてみたいな。で、そういうのがまた来ると、その都度もう脇汗が出てきてパニックみたいになるっていう状態が、ま、10年近く続いて。はい。あ、あと休み一切取らなかったですからね。アメリカ7、8年。そうか。丸1日休んだ日は絶対ゼロですし。あ、そうですか。本当に半日休んだ日もなかったんじゃないか。はあ。へえ。
で、夜の2時ぐらいまで大学にずっといて。かわいそう。今はラップトップがあるから家でできるじゃないですか。当時ないんで。あ、強いパソコンが大学にしかないから。行くしかないんですよ。だから今の方とちょっと違うんですよね。
例えば8時間とかでローテーションしてみんなでエディットするって、大したことなく聞こえるわけです。Overleafとかああいうのあるから。みんながクラウド上で。うん。当時ないので、本当にそれこそメールで、ここからここの時間までお前が持って、寝る前にこの時間までに俺に渡せ、みたいなことをやって、それを2サイクルで。
今だったらGoogleドキュメントでクラウドでポンポンポンで、ま、しかもSkypeで話せるじゃないですか。もう国際電話で話したらやたら金かかるし。なるほど。面と向かって話すことができないから、そういうことが起こったらもうなんかアレンジメントしてなんとかする。ディシジョンメイキングするのに、ヨーロッパとかだとまだ寝てるわけじゃないですか。そうですね。で、それで1周、すなわち24時間経っちゃったら1日失っちゃうわけですよ。これ今行ったやつをどうすると、出すんか諦めるんか。そう。はい。それすらできないので、もう起きたらすぐいいから電話してるみたいになったりして。
それが40代ぐらいですか?30半ばで、あのポシャりました。なるほど。それでそっから、まだだから10年ぐらいはそれと共存しながら来て。はい。ま、でも今もう随分なくなりましたけど。うん。
だから、ま、ちょっとテーマに戻ると、だからあそこが一番の本当の遠回りなんですけど、だから実際そのせいで、狭い意味のキャリアだけだとやっぱりもっとやれたなってのはあります。まあね、数だけ考えたらそりゃ休まずにひたすら出した方がね。それからはやっぱ休みを入れないと無理になりましたし。そうですね。明らかに自分がおかしいっていうのが分かる時があるんで、そしたら結構重要な局面でも寝ます。うーん。だからそういう意味でスローにはなりました。
うん。なんかだから1回肘壊してからのエースピッチャーみたいなことですよね。活躍はするけども。うん。それなりに。だけど人生全体を見ると、やっぱりあの後、自分の学生がそうなったりもします。うん。うん。で、そういう時に、ま、分かるしね。うん。具体的な症状は違ったりするんですけどね。
ま、分かるし、あとこういうところとかも、ま、素晴らしいとこだけど、呼んでもらったりしても余計なこと色々考えたと思うんですよ。こういうとこに出るとどう見られるだろうかとか、業界でのなんとかはどうだっただろうかとか。うん。うん。どうでも良くなりましたからね。うん。うん。ま、人生的にはそうっすね。うん。
ま、それむずいぜ。なんか結構全部のジャンルそういうのはありません?本当の本当のトップ層に行けば行くほど閉じていて、しんどいが、その分身動きも取りづらいみたいな。うんうん。ま、多分医者でもあるだろうしな。
うん。やっぱり年取るってのもあって、ここでこの時間をその分研究に注げば、もしかしたらちょっと上なわけ。それで時間使う。で、それでアインシュタインの仕事ができるならやる価値あるけど、どうせしょぼいがちょっとしょぼいになるぐらいの違いだと、その間の時間、方々と話して。
特に僕、人と一緒するの好きなんで。本当に絶対自分じゃ死ぬまでに経験できなかったようなことを、しかも一線でやってる人と会わしてもらう機会が増えたんですよ。ま、全部ここ2、3年ですけど。それを逃すのはもったいないんじゃないかみたいな考え方になってきて。うん。うん。うん。人生の影響って意味では、すごいその回り道が大きかったな。そうですね。
うん。本当に大変ではあったんですよ。例えばまだ、CERNっていうヨーロッパにある、あの、それこそ今世界で一番大きい加速器のある、ヨーロッパ共同研究所みたいなのがあって、で、そこはヨーロッパの素粒子研究の中心なんですけど、そこの中でもかなり大きい会議に呼ばれて、締めの方の時のトークをまだ任されたりしてたんで。あ、だから絶対行きたかったんです。はい。
まだダメな時ですね。ダメだけど、完全ダメよりは復活してる時。はい。で、アメリカから飛行機乗ってジュネーブまで行って、で、車を借りて。はい。で、そこの目の前まで行くわけですよ。はい。で、そこのビルでやってるわけです。会議を。はい。はい。入れないんですよね。はあ。うん。ま、そういう症状ですね。はい。
うん。で、ま、お医者さんですからね。で、それで開けてコンピューター、それもうラップトップがある時代で、そこから、ちょっと家の方で緊急のあれがプログラムがあってね、行けないって送って、車でそのまま空港帰って。あの、自費で帰って大変やん。みたいなこともあったし。
まそれだって言ったら、ほんま楽しみにして行ってるわけですよね。そのスピーチもあるし。いやいや、もうそれ言ってる時はもう無理なんだけど、心は避けられないみたいな感じ。ああ、もうやらなしゃあないって。そうで、ギリギリまで。あ、責任がでかすぎてみたいな。うん。
責任というより、多分当時の思考は、またこれも過去は全部忘れちゃうんですけど、はい、これを行かなかったら傷がつくっていうか、俺の、うん、エースピッチャーとしてのこのキャリアに。周りからどう思われるかですよ、結局は。はい。で、結局あれ結局キャンセルしたわけで。はい。全然誰も覚えてないですよ。俺があれキャンセルしたの。まあね、行かんくてもね。うん。
やっぱり自分が思ってるほどあんまり影響ないんだっていうのが、なんとなく肌感としても分かるようになってきて。うん。少し軽くなってきて。へえ。っていうプロセスだったですね。へえ。
結構みんな、そのどこまでプレイヤーで、その一流アスリートとして活動して、ま、その高校の。うん。今でいったらちょっと普及の活動もされてる状態というか、言ってますよ。で、高校の時に出会った人とかも、もっと早くその、ま、高校で普及するという方に切り替えて、ま、そうやって生態系みたいなのが、ま、進んでいってるというか。うん。うん。ま、それ。うん。
そう。全体がやっぱ公なんですよね。それはやっぱりトップアスリートのように、うん、ずっとやり続けるってのはすごく立派で。はい。そういう人もたまにいて、で、自分もそういう面を消したくはないとは正直思ってるんですけど。うん。うん。ま、それだけじゃなくてもいいかなと。そう。
ただ、ま、必要以上にネガティブな影響が出てくるぐらいにはやっぱりやらないようにしようと思ってるけど、ま、科学者としてまだ生きていたいってのはあるんだけど、だからと言って他のことをやったら無駄になるのかっていうような思考がなくなってきた。
ま、羽生さんもね、やっぱ将棋連盟の会長とかもやってるし、まあ、なんかそういうのありますよね。うん。キングカズだけじゃないですか?未だにずっとサッカーだけやってる。だからそれはそれで立派な。それはかっこいいですけどね。はい。ただ全員ができることじゃないし。そう、そうじゃない道はそれに劣ってるかって言うと、はい、ま、そうでもないんじゃないかなという気もするっていうとこはあります。はい。
いや、ということで色々聞いてきたんですけども、この番組必ず毎回最後に聞いてるんですけども、一応先生にとって遠回りとは、ということで何か一言。そうですね。ま、結局遠回りとは深まることですよね。よし。
そのやっぱり遠回りしたことで、僕自身はすごく深くなったと思います。そうじゃないと、尖ったところで少しいいことはできたかもしれないけど、結局遠回りしたことで深みが出たというか、と自分では思ってるので。うん。うん。
まあ、遠回りをわざわざ、でもね、僕はする必要はないと思ってて。しないで済むならしないで済む。最短で行こうと思ってたのが結果遠回りになるみたいなのが、ま、一番美しいというか。うん。というか絶対遠回りになります。最後まで最短で行ける人なんてほとんどいないと思うから。
そう。ここもね。うん。やっぱホログラフィーに直では行ってないですもんね。行ってないですね。色々あってここにホログラフィー。で、ホログラフィー自体が遠回りだったっていう可能性も結構あると思う。そう。最終形を見ればこんなとこ通る必要なかったねみたいな。20年後見たら、ホログラフィーやってたんや、ってなるかもしれない。うん。そうそう。でもそれがあったからそこに行くっていうこともあるから、まあいいんじゃないすかっていう。
はい。ありがとうございます。え、皆さんもね、あの、ホログラフィーで、はい、頑張っていきましょうということで、よくわかりませんが、そういうことだそうなので、はい、今日はありがとうございました。あ、どうもありがとうございました。
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