永野と三宅香帆が語る「プロっぽさ」への違和感と、コンビを組まなかった理由

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概要

芸人の永野と文芸評論家の三宅香帆による対談である。三宅の部屋に永野を招く設定で、二人はこれまで永野が「乱入」する特殊な番組でしか会っておらず、腰を据えて話すのは実質初めてだという。話は、芸人の「オンとオフ」の切り替えから始まった。永野は、仕事をプロらしくこなすことへの強い違和感を繰り返し語る。三宅は好き嫌いを割り切れない自分の読み方を重ねていく。話題はその後、ピン芸人を選んだ理由、「笑わせる作法」への疑問、お笑いの歴史観、同世代からの嫉妬にまで広がった。

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玄関先での「注意喚起」

対談は、三宅が玄関の扉を開けて永野を迎える場面から始まる。永野は入るなり、チャイムが鳴っただけで扉を開けてはいけないと三宅に注意する。自分だったからよかったが、不審者だったら三宅のキャリアも終わりだ、世の中は不審者しかいないのだから、と冗談めかして念を押した。三宅がコーヒーを淹れてもてなし、永野はコーヒーが大好きで常に飲んでいると話す。

永野は、例の乱入番組では毎回騒いだ後に挨拶するので、三宅にどう思われているのか気まずかったと明かした。三宅は、芸人が収録中は盛り上げ、「カット」がかかった途端に「ありがとうございました」とすっと素に戻る姿が、プロっぽくて好きだと話した。

芸人の「オフ」は8割が芝居

永野はこれに「気をつけてください」と返す。知らない男を部屋に入れるなという注意に続く、二つ目の注意だった。芸人が収録後にすっとオフになるのは芝居が入っている人が多い、と永野は言う。業界を知らない人に「かっこいい」と思わせるためのやり方で、そういう人が8割だというのが永野の見立てである。

永野自身は、乱入番組の後は本当に疲れてぐったりしているだけだという。そこでまた「永野ショー」が始まったと思われるのが嫌で、おとなしくしているのだと説明した。

三宅が、テレビで騒いでいるときとそうでないときの差が大きいタイプなのかと尋ねると、永野は、一人の人間なので差はないと思うと答えた。ただ、多くの人はオンとオフをきっちり分けて働いているのに対し、自分は「よくない」やり方をしてきたとも付け加える。

「めんどくさい」は緊張をやわらげる保険

永野によれば、最近はそうでもないが、少し前までは現場に向かう前に「めんどくさいな」と思いながら現れていた。始まればアドレナリンで一気に振り切り、終わったら「はあ、終わった」となる。オンとオフの二つの顔を使い分けるのではなく、オフのまま現れてオンになり、またオフに戻る。その流れが好きなのだという。永野はこれを、本当はめんどくさくないのに「めんどくさい」と口で作っている「現実逃避」だと自己分析した。

三宅は、めんどくさいと思うことで自分に保険をかけ、緊張がなくなる感覚は分かると応じた。緊張というより「負担」に近く、収録や人前で話す前には「これから1時間半どうなるんだ」という心持ちになる。三宅は、この話を人にしたのは初めてだと言う。

永野は、実際に三宅と話すのは楽しいと断ったうえで、部屋に入る前にマネージャーや別現場のスタッフから「今日楽しみです」「盛り上がるんでしょうね」と言われるのは少し嫌だと話した。やるからには思い切りやりきらないと気持ちが悪い性格だが、「さあ頑張るぞ」と気合を入れる行為そのものが嫌なのだという。ただし、そうした「だるさ」をスタッフにアピールすることはなく、失礼だとも考えている。あくまで自分の内側で作っている状態だと強調した。

お笑いを「仕事」にしないための少年性

永野は子どもの頃からお笑いが好きで、学生時代はマニアックな芸人まで追いかけていた。しかし自分で始めた時点で、お笑いファンではなく、他の芸人を「ライバル」と見る気持ちに変わった。自分を証明しなければならないという意識である。

永野は、究極的にはお笑いは自分にとって仕事ではない気がすると言う。好きでやっているからだ。一方で同世代の芸人は、毎日現場に通うルーティンの中でお笑いを仕事にしていき、それが良いとされる。永野にはそれが気持ちのうえで違うように感じられた。だから「今日の役目は」と気合を入れるのを避け、高校生がだるそうにするのをかっこいいと思うように、「めんどくさい」という顔で登場し、全力を出して帰る。16歳の少年のような役割を心の中で保つために、あえて役割を放棄しているのだという。

永野は、みんなこうしているのだと思っていたが、実際にはあまりやっていなかったと振り返る。三宅は、プロから見ればあえてプロらしくしない「アマチュアな行為」に見えるのではないかと指摘した。永野もこれを認める。10年ほど前にテレビに出た後、仕事が減った時期には、この姿勢がアマチュアだったせいではないかと思った。そうは思いたくなかったが、とも言う。ところが最近は仕事が評価されるようになったので、この考え方は正しかったのではないかと感じているという。

三宅は、YouTubeでもテレビでも、永野だけが「本当のことを喋っている」ように見えると話した。その理由は、今語られたような余白を残しているからではないかと推測する。永野もその可能性を認めた。

プロっぽく振る舞うことへの潔癖

永野は、なぜかは分からないが、その点だけは「異常に潔癖」で、プロっぽく振る舞うことが嫌なのだと語る。芸人のオンとオフの切り替えに気をつけてほしいと言ったのも、それがプロっぽさを演出する手段の一つだからだという。

そのうえで永野は、ある提案を冗談交じりに口にした。三宅が現場で「すっとオフになった芸人」を見かけたら写真を撮り、マネージャー経由で永野側に送ってほしい。それがプロっぽさの演出かどうかを永野が判定するというのだ。互いの連絡先も居場所も知らず、マネージャーを介して伝えるだけの関係である。三宅はこれを「すごいプラトニックな関係」と表現して笑った。

三宅香帆の割り切れない「好き嫌い」

永野の話を受けて、三宅は自分にも通じるところがあると語り始めた。三宅はいまも小説を読むのが楽しい。同時に、嫌いなものは本当に嫌いだという。

三宅の考えでは、批評家や書評家は、プロであるほど作品の面白さを見つけたり、この先売れるもの・評価されるものを見極めたりする仕事になっていく。三宅はそこを割り切れないまま今に至ったと感じている。本に限らず、世界のあらゆるものが好きか嫌いかのどちらかだという。

永野は自分の場合を話した。昔映画をよく見ていた頃、多くの人がするように「50点」「100点」と点数をつけることはなかった。せっかく作ったのだから認めよう、という気持ちがあったからだ。ただ、純粋さのない作品は嫌いで、映画として面白くなくても、この人は何がやりたかったのかが見えるとぐっとくるという。

三宅は、評価の軸が一つではないと説明した。好きか嫌いかの軸と、傑作かどうかの軸がある。好きだが全世界に勧めようとは思わない作品もあれば、好きではないが傑作なのは分かる作品もある。好きでもないが、デビュー作でやりたいことがたくさん詰まっているのは分かる作品もある。三宅が特に嫌なのは、「なぜこの作家がこれを書く必要があったのか」と感じるものだという。さらに、生き方や美学がそもそも違いすぎて嫌い、という場合もあると付け加えた。二人は作品を見ることを「戦い」だと言い合った。

審査員はできない、M-1は1位しか見ない

永野は、お笑いの審査員は依頼も来ないだろうし絶対にやらないと言う。他の人がネタについて感想を言うのを聞くと、「そうなんだ」と驚くほど自分と違うからだ。永野は自分の感覚だけで見ているため、全体を見渡す視点がない。三宅も、評する人には「全体マップ」があると応じた。

三宅がM-1の順位と自分の順位が違うと感じるかを尋ねると、永野は、今は1位以外見ないと答えた。優勝者が決まった後、チャプターを飛ばして優勝ネタだけ見る。「今年の1位はこれです」と人が決めたものに興味が持てず、なぜ見なければならないのかと思えてくるのだという。永野自身はこれを天邪鬼だと言い、WBCのような話題もまったく分からないと話した。

三宅は、永野が以前ある話題を嫌いだと公言していたことに触れた。永野は、それでその関連の仕事をもらったと認め、自分を「歩く矛盾」だと笑った。三宅は、その仕事での永野のコメントが好きだったと伝えている。

小説家ではなく文芸評論家になった経緯

永野は三宅に、小説は書かないのかと尋ねた。三宅はフィクションは書かないと答える。読みたい小説が古今東西にあふれていて読み切った感覚がまったくなく、今さら自分が書かなくてもと思うからだという。

普通なら小説家を目指すのではないかと問われると、三宅は、成り行きの部分が大きいと説明した。本が好きで書店でアルバイトをしていた頃、ちょうどブログブームで、店員が書店のブログを更新する文化があった。そこで本を紹介していたら大きく話題になり、本にしないかと声がかかった。それが最初の著書になったという。三宅は、感想がお金になるとは思っていなかった、お笑い以上に職業として成立するのかと今も不思議に思う、と話した。

「天邪鬼」ではなく自分の作るものへの関心

三宅の話を聞いて、永野は自分のことを捉え直した。三宅は小説そのものへの愛にあふれている。一方で自分は、自分が作るお笑いに関心があるのではないか、と永野は言う。お笑い芸人の多くは当然お笑いが好きで、M-1になれば見る。永野は、それを見ないのは天邪鬼だからだと思っていたが、実は自分の作るものへの興味でいっぱいなのかもしれない、そこだけナルシストなのだと考え直した。三宅も、クリエイターにはそういう人が多い印象があると応じた。

永野は、「今年のピン芸人は」「漫才コントは」と全体で語られる枠組みに対し、良くも悪くも自分は違う場所にいる感じがして窮屈だと話す。現場で20人ほどの芸人が「お願いします」と集まる場も、永野には「芸人の社会」に見えてだるいという。始める前は、ただふざけて好きなことをやるつもりだったのに、そこは社会だった。だから教室の隅にいるようにだるそうにする。ただ、やりきらないとただのナルシストになってしまうし、自分も気持ちが悪いので、本番では振り切る。以前は「なんだあいつ」と思われていたが、最近は「それが永野だ」と理解されるようになってきたという。

他人の人生を背負いたくない

三宅は、一人で活動していることもそうした理由からなのかと尋ねた。永野は、デビュー当時はコンビを組むのが当たり前だったと振り返る。今のピン芸人もコンビやトリオから転じた人が多いが、永野は最初からピンだった。

永野はその理由を次のように説明した。学生時代からの相方なら、その人との空気があるのでまだいい。しかし一緒にやりたかった相手は「やらない」と言った。地元の宮崎から東京に出てきて新しく関係を作り、その人とずっと一緒にいるのは考えられない。しかも、組めばその人の人生を背負うことになる。高校時代の友達と組んでいたとしても同じで、人の人生を背負うのが本当に嫌だったという。普通のコンビはそこまで考えていないらしい、とも永野は言う。

永野は、一人でやってきて本当に正しかったと思うことがあると続けた。18歳頃の目標と今の目標が変わっている。他人とずっと組んでいたら、18歳の目標のままでいるしかなかっただろうというのだ。仮に相方がいれば、三宅と話すことも「課外活動」のように扱われかねない。だが50歳を過ぎて課外活動などするわけではなく、すべて自分自身なのだ、と永野は言う。寂しかったが、コンビを組まなくて本当によかった、人とは絶対無理だと語った。

三宅はここがいちばん共感できると言った。書き手はほとんどが一人で書く。三宅は、演劇やバンドをやる人に憧れがあり、集団でいることともの作りがなぜ両立するのかと不思議に思ってきた。一人ならできるが、という気持ちが強いという。永野は、一人ならエゴの塊でいられると応じた。

「笑わせる作法」はしらじらしい

三宅は、一人で活動する最大の難しさは、軌道修正を一人でしなければならないことではないかと問いかけた。コンビなら相方同士で指摘し合える。永野は勉強のようなことをしているのか、と。

永野の答えは逆だった。今この場でも、会話は二人で成り立っていて、三宅が軌道修正することもある。それが人間として普通で、むしろコンビの方が変だと永野は考えている。自分の言ったことに「いや、何とかだろ」と返されたら本当に腹が立つ。三宅に言われるのとは違うのだという。

永野は、そうしたやりとりは生の会話ではなく、ただの「作法」だと感じるようになり、次第にしらじらしく見えてきたと話す。仮に永野に相方がいて、三宅に対して何か言ったことに相方がツッコんだとする。そのツッコミが名ツッコミでなくても、三宅はたぶん反射神経で笑うだろう。作法で笑ってしまうのだ。しかし、そういう「笑わせる作法」「芸人的な振る舞い」は要るのかと永野は疑問を投げかけた。自分は見た目こそ派手だが、三宅とは普通に喋っている。永野はそれを、間違っているかもしれないと留保しつつ、人間はそうあるべきだと思っていると述べた。三宅も同じことを感じていたと応じた。

永野は子ども時代のテレビを振り返る。「誰だこの人」という人がよく出ていて、実は小説家らしいといった人も話していた。三宅は「謎の文化人」と表現した。永野はそれが好きだった。ある時期から作法が流行したが、永野は芸人を始めてからテレビをあまり熱心に見なくなった。近づくと自分がぶれそうだったからだという。そのぶん今は新鮮に見られるが、見ると子どもの頃より「生じゃない会話」に見える。自分と三宅の会話に「やれやれ」という顔でツッコまれたら手が出そうだ、と永野は冗談を言った。

オープンマイクが日本で成立しない理由

三宅は、YouTubeが流行している背景には、テレビよりYouTubeの方を「生っぽい」と感じる人がいることがあるのではないかと話した。永野が本当っぽく見えるのも、もともとそういう感覚を持っているからだと今日分かった、と。永野も、テレビよりYouTubeの方が肌に合っていたと認めた。

永野は、大手事務所にいた時期もあったがやめて、今は大手ではない事務所にいる。大手が嫌だったわけではなく流れでそうなったのだが、その立場から見えることがあるという。アメリカのスタンダップコメディには、一般の人がマイクを取るオープンマイクの文化がある。しかし日本では成立しないと永野は考えた。見る側は「吉本です」といった所属や、「M-1に出ました」といった肩書きで見方を変えてしまう。売れていない芸人や、そのへんのおじさんがいくら面白い話をしても、純粋には見てもらえないだろうという。

それなのに子どもの頃は、文化人の話を、脈絡もオチもなく噛みまくっていても楽しく見ていた気がする。だから今の作法はよろしくないと思う、と永野は話した。日本のメディアを憂うなんて何様だと自分でも言いつつ、三宅は「すごく分かる」と応じた。三宅は、今のところそういうものを見る文化がない気がする、動画の方がありそうだと述べ、永野も、若い人が見ているYouTubeやTikTokには期待できるかもしれないと語った。

ひょうきん族、ダウンタウン、そして揺り戻し

三宅が、芸人的なものが広がったこの数年に変化を感じるかと尋ねると、永野は、変わってはいると思うとしたうえで、自分の肌に合うのは、いろいろな人が混在している状態だと答えた。

永野は高校生の頃、お笑いに「スカッと」していた。世代的にはウッチャンナンチャンやダウンタウンの時代で、流行っていたから飛び込んだ人も多かった。当時のお笑いは今よりロックに近く、若者の反抗的なテンションや素人っぽさがあったという。

永野は自分の主観だと断り、昔のことは勉強不足だとも言いながら、次のような流れを語った。『オレたちひょうきん族』でのさんまやたけしが、メタなことをやる走りだったと永野は考えている。子どもの頃に忘れられないのは、それまで笑っていたドリフが急に古く見えたことだ。ちゃんと扮装しているのに「昨日お前飲んでたろ」と言い出すようなメタな笑いが新鮮すぎて、世界が変わった。とんねるずがスタッフを画面に出す内輪的な笑いにも、ついていきたいと思った。ウッチャンナンチャンやダウンタウンの笑いは、さらに学生っぽく、それまでの型から外れていた。その頃に落語家が出てきて話すと、子どもの頃には見られていたものが、途端に型にはまったものに見えたという。

永野は、誰でもできると思って、怖かったがこれしかないと思ってこの世界に入った。ところがその後、また逆に型が作られ、お笑いが「すごいもの」になっていった。だから揺り戻しでもう一度混ざればいいと思っているだけかもしれない、と永野は言う。「すごい」お笑いに少し飽きたとも認め、オープンマイクのようなものがあればいいと語った。三宅が「時代を変えようとしていますね」と言うと、永野は「革命家です」と答えた。

「三宅ちゃんのデイケア」

コーヒーを飲みながら「革命家です」と言ったあたりから、永野は三宅をいじり始める。この対談は「デイケア」のようだというのだ。夕方まで訪ねてきて、おじさんの過去の話を毎日聞いて帰っていく。三宅が聞き上手で笑顔も素敵だから乗って喋っていたが、そういう感じがある、と永野は言う。文化系で最近話を聞いてもらえていないプライドの高いおじさんをチャイムで迎え、コーヒーを飲ませ、カフェインの力で喋らせ、「革命家ですね」「天才ですね」と言って帰らせる。永野はこれを「三宅ちゃんのデイケア」と名付けた。

三宅は、ゲストが来てくれなくなると強く抗議した。本物の文化系おじさんの話は面白くないから、デイケアもできないし笑顔も出ない。聞いていられず本を読み始めてしまう、と三宅は言う。永野は、文系で話が面白くないのはきつい、理系なら渋みに変わるが、と返した。三宅は、永野のようになりたいと思っている人はいっぱいいると話している。

成田悠輔という「門番」と同世代の嫉妬

永野は続けて、この番組の元になった番組での出来事を明かした。休日ではない方、つまり夜明け前の方の番組で、成田悠輔と話したことである。10年ほど前にラッセンのネタで世に出たときは、周囲から「よかったね、売れて」と子ども扱いのように見られていた。ところが夜明け前の番組に出て以降、同世代から嫉妬されるようになったという。

永野によれば、一緒にばかをやっていた仲間は変わらない。反応したのはインテリ系の人々だった。一発ギャグの芸人は日の目を見てもそういう位置だが、自分はインテリジェンスで生きていく、と考えていた人たちの気持ちがぐらついた。「お前、成田と喋ったのか」ということである。10何年も連絡のなかった人から、小ばかにしたような、嫉妬丸出しのLINEが来たという。夜明け前の番組とNHKの番組のMCは、特に反応が大きかったそうだ。

三宅は、成田が文化人の仲間入りの「門番」のように見えたのではないかと表現した。永野もそれに同意する。永野は、三宅と喋っていることも彼らからすれば嫉妬の対象でしかないと言い、そうした怨念を感じている自分が「今は好き」だと話した。直接向けられれば怖いが、遠くから受けるリアルな嫉妬は「ざまあみろ」に近い感覚だという。

三宅は、以前から不思議に思っていることを話した。「あなたに嫉妬しています」と褒め言葉として言う人がいる。そこには、嫉妬されるのは嬉しいことだという前提がある。しかし三宅は、嫉妬の怖さを『源氏物語』で学んだので、締め殺されるものだと思っているという。

永野は、「あなたに嫉妬しています」が腹立たしいのは、相手が自分と同じレベルにいる前提で言っているからだと応じた。こちらはただ番組に出ただけなのに、同格で負けたかのような言い方をする、と。三宅も、自分よりはるかに本を読んでいない人が、決め台詞のようにそう言ってくることがあると明かした。永野は、自分は育ちとルッキズムで生きているので、そういうところに育ちが出ると思うと冗談めかして語った。さらに、インテリ系の人は三宅と普通に喋れないから、自分のこの状況にも嫉妬するだろうと言い、キャバクラのたとえまで持ち出した。三宅は変なたとえだと退け、女性ゲストが来なくなるようなブランディングはやめてほしいと再び抗議した。

コーヒーのサスペンスと『ピンク・フラミンゴ』

三宅がコーヒーのおかわりを勧めると、永野は、何か入れていないかとサスペンスドラマのような冗談を言う。自分は飲まずに少しずつ睡眠薬を飲ませる古典的なミステリーのようだと、二人はしばらくふざけた。三宅は、ここはデイケアでもキャバクラでもなく、休日に見ているものを見せてもらう番組だと本題に戻した。

話題は愛読・愛好する作品に移る。19歳頃に『ライ麦畑でつかまえて』を読んだという話が出た後、永野は、恥ずかしいことを言っていいかと断って、ある映画を挙げた。18歳のとき、高円寺のビデオ店には、青春・スポーツ・アクション・コメディと並んで「カルト」の棚があった。そこで見た一本が『ピンク・フラミンゴ』で、とんでもなく刺さったという。三宅は、実際に犬の糞を食べるシーンなど、ひどい場面がたくさんある作品だと確認した。

永野は、この映画の良さについて話し始める。多様性を口にする人に『ピンク・フラミンゴ』を見せると、ちゃんとぎょっとする。そこで、その人たちの根底にある差別意識があらわになるのだという。字幕はこの発言の途中で途切れており、この先の議論は収録されていない。