横浜流星が語る映画『正体』 冤罪という重いテーマを娯楽作として届ける試み

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概要

経済学者の成田悠輔がホストを務める対談番組『夜明け前のPLAYERS』に、俳優の横浜流星が出演した。新作映画『正体』の公開初日、舞台挨拶を終えたその足での収録である。『正体』は藤井道人監督の作品で、原作は染井為人の同名小説。顔を変えながら潜伏し、日本を縦断する主人公・鏑木を横浜が演じた。成田は作品を観た感想を細かく伝え、冤罪という社会問題を扱う作品をどう娯楽として成立させたのか、ひとりの人物の中の複数の姿をどう演じたのかを尋ねた。横浜は、多くの人に届けるためにエンターテインメントに寄せたと答え、映画には「残るもの」であり続けてほしいと語った。

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公開初日の実感と、4年前に始まった企画

横浜は公開初日について、作品が無事に完成して観客に届けられることは当たり前ではなく、幸せに感じると話した。身が引き締まる、大事な一日だという。

企画には最初の段階から関わっていた。ただし、はじめから『正体』を撮る予定だったわけではない。藤井監督は当初、横浜と監督がともに好きな「雨ざらし」というアーティストを題材にしたオリジナル脚本を書いていた。横浜はその脚本をとても面白いと感じたが、「自分たちの力不足」で実現しなかったという。その後に出会ったのが『正体』で、4年前のことだと振り返った。成田が「最初に逃亡劇というテーマやコンセプトがあって、それをどう具体化するかで紆余曲折があったのか」と確かめると、横浜はそれを認めた。

メッセージと娯楽の両立、ホラーのような場面と美しい場面

成田が特に評価したのは、社会的なメッセージや批評性を持ちながら、映画として単純に楽しめる点である。成田は、メッセージ自体はかなりストレートだと見る。ストレートなメッセージは表現を誤ると説教臭くなったり優等生的になったりするが、この作品にはその嫌みがまったくなく、娯楽として観ても楽しめるのがすごいと述べた。

成田はさらに、ショットや場面の種類の多さを挙げた。横浜がトイレの入り口に立ち尽くす場面は、成田が最近観たどのホラー映画よりも怖かったという。一方で、横浜ともう一人の人物が凍った湖のような場所に出ていく場面では、氷の白と、後ろから差し込む太陽の黄色がグラデーションを作っており、一枚の絵として美しかったと語った。映画としての完成度がある一方で、逃亡や冤罪の問題が絡むため、考えることもできるし、ただ感じることもできる作品だというのが成田の見方である。

藤井監督の前作『ヴィレッジ』と比べても、成田は、いい意味で重苦しさが消えていると感じたという。ほろっと笑える場面、ホラーのような側面、単純に美しい場面といった複数のモードがあるので、緊張感が高まりすぎずに時間が過ぎていく、というのが成田の感想だった。

「より多くの人に届ける」ためにエンタメへ寄せた

社会問題に関わるテーマを演じる難しさや面白さを問われた横浜は、観客がどう感じるかは自分には分からないと前置きしたうえで、今回は藤井監督が意図的にエンターテインメントに寄り添ったと説明した。監督はどちらかというと社会派の作品を撮ることが多いが、今回はより多くの人に伝えたいという思いから娯楽の方向に振った。そのため、観客が自分ごととして捉えられる作品になったのではないか、と横浜は話す。重苦しくなく楽しめる点は、制作側として本当に意識していたところだという。

冤罪そのものについて横浜は、あってはならないし、なくなってほしいと心から思っていると語った。観た人がどんな形でもいいので何かを受け取ってくれたら嬉しい、というのが横浜の思いである。

5つの姿を演じても「別人格ではない」

鏑木は逃亡の過程で見た目も立場も変えていく。成田が、どの姿が一番しっくりきたか、あるいは演じにくかったかを尋ねると、横浜は髪がボサボサで髭も伸ばしっぱなしの姿が普段の自分に近いと答えた。自分も普段は髪がボサボサで、髭も伸ばしっぱなしにしてしまうし、声もボソボソしていて猫背なので、その姿が一番落ち着いたという。

ただし横浜は、今回は5つの人物を演じているだけで、別人格ではなかったと強調した。鏑木の本来の目的や心を見失わないよう大切にしたが、どんな状況でもその気持ちを維持するのはとても大変で、心が疲弊したと明かした。

成田は、ひとつの作品で同じ人物なのに違う人物のような役を演じることはあまりないと指摘した。周囲との関係や、どこで何をして生き延びているかという職業が変わるだけでなく、逃亡や自分の冤罪と向き合う時間の中で内面も変わっていくので、演じるのは難しそうだと述べた。横浜はこれに同意し、難しかったと答えた。気持ちを維持するのも大変だったうえに、鏑木は人と関わってその温かさに触れることで徐々に鎧が取れ、本来の姿に戻っていく。その変化も表現しなければならなかったという。

評論でも当事者の叫びでもない、フィクションというレンズ

話は冤罪問題そのものに広がった。成田によれば、日本では冤罪問題がずっと消えない。よく分からない罪で追い詰められる人もいれば、何十年も裁判を戦う人もいる。さらに、冤罪なのかどうか分からないグラデーションの中で生きている人も多い。だから今この瞬間も、肉体的か精神的かは別として、逃亡劇のような時間を過ごしている人がこの国にたくさんいる、と成田は述べた。

成田自身も、日本の法治や司法、警察・検察の問題を社会問題として直接議論したり、専門家と話したりすることがあるという。ただ、そうした議論はどうしても評論家やコメンテーターのような立場からの議論になるか、当事者の証言や叫びになりがちだと成田は感じている。今回の作品はそのどちらとも違い、フィクションというレンズを通して問題に新しい光を当てている、というのが成田の評価である。

社会問題にはどうしても関心を持ちにくい。そのため映画には、問題との心の距離を縮める可能性があるのではないか、と成田は問いかけ、横浜も同意した。成田は、第三者としてエピソードを聞くよりも、観客が横浜演じる人物に自分を重ねられる感覚があると話し、そうした装置としての映画の可能性を感じると述べた。

映画は「残るもの」であってほしい

成田が、今後演技や表現の場所がどうなっていくと考えるかを尋ねると、横浜は自分は映画が好きだと答えた。映画はこのまま変わらないでほしいという。

その理由として横浜が挙げたのは、『ヴィレッジ』のプロデューサーだった川村さんの言葉である。川村さんは、ドラマは流れるものだが映画は残るものだと言っていた。横浜自身も映画は残るものだと考えており、映画がずっと変わらずあり続けてほしいと語って対談を締めくくった。