デパートの実演販売から「ハンドパワー」へ Mr.マリックが語る、プロになるまでの14年

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概要

MCのベテランちが、遠回りを経て成功した人物に話を聞く対談番組「遠回りのPLAYERS」。今回のゲストは77歳のMr.マリックである。師匠に弟子入りする従来の道を選ばず、デパートのおもちゃ売り場で手品を実演販売しながらプロを目指したマリックは、どのような経緯で「ハンドパワー」にたどり着いたのか。前編では、少年時代にマジックと出会ってから、アメリカのコンテストでの優勝と挫折、半年間の失踪、ユリ・ゲラーのブームによる危機、そして「ハンドパワー」「きてます」という言葉が生まれるまでが語られた。

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東大医学部生のMCと、若手マジシャンを追い続けるマリック

冒頭、ベテランちは自分が東京大学医学部の4年生で、友人とYouTubeチャンネルを運営していると自己紹介する。医学部は6年制なので留年すれば退学になりかねない状況で、撮影をしていることを母親から心配されているという。

マリックはこれを受けて、マジック界にも東大出身のマジシャンがいると話す。芸名「東京さん」という東大卒のマジシャンが活躍しており、京大卒のマジシャンもいる。今は学歴に関係なく好きなことに挑戦する人が多い、というのがマリックの見方である。若手と直接会う機会は少ないが、ネットで技を見ているという。

最近の若手で注目している人物として、マリックはイブキという若手を挙げた。「マジックのオリンピック」と呼ばれるFISMでグランプリを取り、日本人として初の受賞になったという。マジックは海外から来た文化であり、その世界で日本人がチャンピオンになったことを、マリックは「すごいことが起きている」と表現する。

マリックは自分たちの世代の状況も説明した。以前はマジックは師匠に弟子入りして学ぶものだったが、マリックの世代から師匠を持たずに独学で学ぶ人が出てきた。そのため、プロになる方法そのものが分からず、そこから考えなければならなかった。今は仕事の場が多くあるという。ベテランちが「それはマリックさんが道を開いたからでは」と聞くと、マリックは「たまたまテレビが世に出してくれた」「時代ですよ」と答えた。

人生グラフと目の前のマジック

番組ではゲストに、生まれてから現在までの幸福度を上下で表す人生グラフを書いてもらっている。マリックはグラフを見せながら、人生には良いときも悪いときもあり、「プラスとマイナスは同じくらい」で最終的には帳消しになる、と話した。1月に喜寿を祝ったばかりだという。若さの理由を聞かれると、好きなことをやっていれば昨日も今日も同じだと答えている。

経歴の話に入る前に、マリックはテーブルを用意させ、目の前でマジックを披露した。舞台のショーを見る機会はあっても、間近でマジックを見る機会は少ないという。マリックのキャリアはデパートでの実演販売から始まっている。当時はプロのマジシャンたちが舞台で演じており、テーブルの上で小さく演じる「テーブルマジック」は「お金にならない」と言って誰もやっていなかった。マリックはデパートでグッズを売るためにこの形式を続けていた。これがテレビの時代とうまく合ったと話す。大きな舞台はテレビで映すと寂しく見えるが、小さなテーブルならカメラで寄れるし、観客にも参加してもらえる。

披露されたのは、ライター・時計・鍵・小銭・サングラスの絵が描かれた5枚のカードを使ったマジックである。マリックは最初に紙袋をテーブルに置き、「最初からここにあることを覚えておいて」と伝えた。ベテランちが自分でカードを混ぜてテーブルに広げ、こっくりさんのように人差し指をカードの上で動かして、好きなところで1枚を押さえる。選ばれたのは鍵のカードだった。紙袋を開けると、中には鍵が入っていた。

マリックはさらに、その鍵をベテランちに渡して曲げられるか試させた。鍵は曲がらないように作られており、ベテランちも「めちゃめちゃ硬い」と確認した。しかしマリックが手にすると鍵は曲がり、マリックは「これがハンドパワーです」と言った。ベテランちが驚きながら笑ってしまうと、マリックは「驚くと人間は笑えてくる」「笑いの根源は驚き」だと説明した。

マリックはマジックを続けている理由を、人が驚く顔を見るのが面白いからだと話す。1人で鍵を曲げても意味がない。大人になると人の驚く顔を見る機会はほとんどないが、マジックなら一番近くでそれを見られる。本物の魔法使いにはなれないが、そこを目指して今も続けているという。

岐阜の少年と、転校してきた「手品の天才少年」

マリックは岐阜で生まれた。3人きょうだいで、1つ上に姉、4つほど下に弟がいた。父は岐阜の繁華街・柳ケ瀬の近くで、自宅で洋服を仕立てる職人だった。小学校までは地味な子どもだったという。

転機は中学2年のときだった。名古屋から転校してきた少年が、たまたま空いていたマリックの隣の席に座った。親しくなると、その少年は「明日テレビに出るよ」と言い、実際に「街のチャンピオン」という特技を持つ人が出る番組に出演した。紙を丸めた筒に入れたミルクを消したり、筒から金魚を出したりと、プロのような演技を中学2年生がしていたという。父親が社長で、高価な本格的道具を持っていたらしい、とマリックは話す。

教室では道具がなくてマジックができないため、少年は長良川で写生大会があったときに、拾った石を川に投げて見せた。普通なら水に落ちるはずの石が、空中で消えた。さらに袖の下から石を出して、また消して見せた。マリックには、その少年が魔法使いに見えたという。

当時マリックは剣道に夢中だったが、それをやめ、毎日その少年の家に通って手品を1つずつ教わった。マリックは、最初に出会った相手が一流だったことが大きかったと振り返る。相手が下手だったら、おそらくマジックを好きにならなかった、と話している。

やがて少年が敬老会などで演じるときに、マリックはアシスタントとしてついて行くようになった。少年2人のマジックは珍しく、よく受けた。人付き合いが苦手だったマリックにとって、大勢から拍手をもらう体験は大きかった。「拍手をもらえたら人間は変わる」と話している。少年の父親の縁で、紡績工場の多い一宮の文化祭にもよく行った。そこには若い女性の働き手が多く、花をぱっと出しただけで歓声が上がった。マリックはこれを「ジャニーズ状態」と表現し、ここで受けなかったら続けていなかっただろうと語った。

パロマ入社と、デパートの手品売り場

高校は工業高校に通った。名古屋の演芸場などでプロの芸を見る機会もでき、好きなことで生きる姿に憧れたが、卒業の時期にマジックの道に進みたいとは言えなかった。

就職先に選んだのは、ガス湯沸かし器のパロマだった。当時は蛇口をひねれば水しか出ないのが当たり前で、湯を沸かすことにも手間がかかっていた。そこへ蛇口から湯が出る機械が現れたことを、マリックは「魔法のようなこと」と表現する。寝癖を湯で直せる時代になったことに感動し、この会社に入ったという。マリックは、人は感動したところから行動を起こすのだと話している。

平日は岐阜から名古屋のパロマに通い、日曜日は名古屋のデパートのおもちゃ売り場にある手品コーナーに通った。3軒ほどあったデパートを開店から閉店まで回り、実演販売を見続けた。本も動画もなく、マジックを見られる場所はそこしかなかったという。

ある日曜日、名古屋のデパートで手品売り場を担当していた人から声をかけられた。その人は東京に異動するので売り場が空く。毎週日曜日に来ているのなら、ここで働かないかという誘いだった。ここで働けば毎日が日曜日になる、と言われたという。

入社したばかりでパロマを辞めることになり、マリックは母校の校長室まで挨拶に行った。校長から大丈夫かと聞かれ、好きなことだからと答えると、校長は、学校が紹介した就職先以外で活躍している卒業生がもう1人いると話した。それがデザイナーの山本寛斎で、土木科の出身だったという。マリックは2人目だと言われ、許可をもらって会社を辞めた。マリックは今年、その学校の100周年の祝いでショーを行う予定だと話している。

弟子入りではなく、実演販売からプロを目指す

デパートで働き始めてからも、プロになるまでには長い時間がかかった。決まった道がなく、どうすればプロになれるのかが分からなかったからである。

マリックは研修生のような形で、演芸場のプロの楽屋を見せてもらったことがあった。そこでは弟子が厳しく叱られていた。金属製の筒をテーブルに置いただけで怒られている弟子がいたので理由を聞くと、指紋がついたからだという。触れば指紋がつくのは当然だと思ったが、柔らかいスカーフをかけ、布越しに持って置かなければならなかった。車を誘導するときに「オーライ」と言った弟子が、師匠に殴られる場面も見た。「いいです、いいです」と言わなければならなかったという。靴ひもを結ぶのが遅いと言って殴られることもあった。マリックは、マジックと関係のないことで叱られるこの環境を見て、弟子入りはやめたという。

別の道として参考にしたのが初代・引田天功だった。現在のプリンセス天功は2代目で、初代はデパートの実演販売からプロになった人物だという。マリックはこれを時代の変わり目と捉え、弟子入りせずに実演販売をしながらマジックを勉強してプロになろうと考えた。ベテランちはこれを、芸能事務所に入らずに路上ライブから売れたミュージシャンに例えている。マリックは19歳ごろから14年間、デパートで実演販売を続けた。

アメリカでの優勝と、その夜に見たイリュージョン

実演販売で生活はできるようになったが、プロとして認められるには名前を知られる必要がある。そこでマリックが目指したのは、海外の賞を取ることだった。当時、世界のコンテストに出る日本人はいなかった。マリックが出たのは世界大会のFISMではなく、アメリカの大会だったという。

マリックはクロースアップ部門で1位を取り、日本人として初めて海外の賞を獲得した。プロレスで言えば海外のチャンピオンベルトを持ち帰るようなもので、これで行けると思ったという。

しかし、トロフィーをもらって喜んでいたその日の夜、状況が変わった。マリックが優勝したのはアマチュアが集まるコンテストで、その夜にはラスベガスなどから来たプロによる別のガラショーがあった。場所はハワイで、3,000人ほどが入る劇場だった。演芸場しか知らなかったマリックは、そこで大規模なイリュージョンを見た。美女を出すと言えば本当に美女が現れ、美女が宙に浮く。衣装も新しく美しかった。

一方、マリックがやっていたのは碁石の色を変えるような小さなマジックだった。優勝はしたものの、自分のやっていることとあの舞台はつながっていない。当時のマジックを100年続けても、あそこには行けないと感じたという。ベテランちは、感性やセンスでは戦えず、資金や機材の勝負になる世界をアメリカで見せつけられたのだと受け止め、ジャズ漫画『BLUE GIANT』を引き合いに出した。

マリックはその日のうちにマジックをやめると決めて帰国し、初めて実家に戻った。しかし、好きな道で行くと言って会社を辞めた手前、親にやめるとは言えなかった。寝ていても悔し涙が自然に出てきたという。悲しいときの涙とは違い、泣くつもりがなくても勝手に出てくるのだと話している。

半年間の失踪と、シーモンキー

実家に5日ほどいたが言い出せず、マリックは名古屋に戻った。マジックとは関係なく、友人の家でぶらぶらする生活が半年ほど続いた。デパートの仕事もそのまま放り出した状態で、業界の回覧に顔写真入りで載せられ、「指名手配」「お尋ね者」のようだったと冗談交じりに語っている。当時はまだマリックではなく本名で活動していた。

そこへ声をかけたのが、手品用品で知られるテンヨーだった。テンヨーは当時、シーモンキーという商品を売り出そうとしていた。ふりかけのような粉を水に入れると、それがメダカのように育つというものだという。マジックをやめていても実演販売の経験があるなら、ということで、東京駅八重洲口の大丸のおもちゃ売り場で売らないかと誘われた。

シーモンキーはよく売れた。マリックは、大丸には東京に遊びに来た人が東京でしか買えない珍しいお土産を探しに来ており、珍しい品物が売れる場所だったと説明する。これでようやく普通に生活できるだけの収入が得られるようになった。

ベテランちが売り方のコツを聞くと、マリックは衝動買いの難しさを語った。シーモンキーは本来いらないもので、欲しいと思うのは一瞬である。少しでも考えさせると売れないし、2人連れでもだめで、1人の客でなければならない。連れが一言止めれば終わってしまう。値段を言うタイミングを外すと、財布に手をかけた客も考え直してしまう。単価の安いものを一瞬で売らなければならない、とマリックは話す。

「食うために働くのか」とテンヨーの手品セット

収入は安定したが、マジックをしていたころの楽しさはなかった。客は土産として買っていくだけで、目の前で喜んでいるわけではない。話題は毎日何個売れたかという売上ばかりになる。マリックは、食うために働くのか、働くために食うのか、という問いが浮かんだと話す。好きなことをやって気がついたらお金があった、というのがマリックの考える理想で、売上のためにシーモンキーを売る毎日はマジックの世界とは逆だった。

そのころ、テンヨーから8種類の手品を1つにまとめたセットが発売された。それまでの手品の実演販売は、1つ見せて1つ売る形だった。1つ見せると、客が「できるかどうか」「種を教えてくれたら買う」とやり取りが長くなり、種を教えた瞬間に客はいなくなってしまう。売上が伸びにくい仕組みだった。セットなら1つ見せれば8種類が売れる。マリックはこれを「革命」と呼ぶ。シーモンキーの隣で手品セットも売らせてもらうことになり、マリックは手品の実演販売に戻った。人が驚く反応がある分、やはりマジックのほうが楽しかったという。

これが23歳前後のことで、24歳ごろには同じ売り場で働いていた女性と結婚した。ベテランちが、今はネット漫画のキャラクター商品ばかりが売れていると言うと、マリックはそれを知らない様子で、世代の違いがうかがえるやり取りもあった。

月収数百万円の実演販売と、手品専門店

生活が安定すると、マリックは海外の手品を集めたプロショップを開いた。当時は手品の専門店がなかったという。資金は自分で出しており、それだけヒット商品が多く、実演すればするだけ売れる時期だった。

収入を聞かれると、マリックは1日に70万円ほど売れる日があり、その15%が手元に入ったと答えた。ベテランちはこれを1日約10万円、月300万円ほどと計算している。マリックは、一生この実演販売で家族を養っていけると思ったという。

ユリ・ゲラーの登場で客が離れる

順調だった実演販売の風向きが変わったのは、ユリ・ゲラーのブームだった。マリックによれば、最初のブームは1974年に来た。ある日、客が「昨日テレビを見ました」とスプーンを持ってきて、曲げてほしいと言った。前日までは、金属の輪がつながったり外れたりするチャイナリングを演じれば人が集まって売れていたのに、突然誰も足を止めなくなった。色が変わるハンカチなどを見せても、客は興味を示さなかった。マジックへの関心がすっと消えるのを感じたという。

子どもに輪ゴムを2本渡されて、「これをつないでみて」と言われたこともある。子どもには超能力とマジックの区別がつかず、金属の輪はつなげるのになぜ輪ゴムはつなげないのか、と聞いてくる。マリックが「これはマジックだから」と答えると、手品は「インチキ」だと言われた。マリックは、筋道が通っているのはむしろ手品の方で、超能力の方がインチキではないかという考え方もあるが、超能力を本物だと信じる人には仕掛けのある手品が偽物に見えたのだと話す。これを境に売上が落ちた。

ブームは一度では終わらず、再び訪れた。このときの特徴は、ゲラー本人がスプーンを曲げるだけでなく、テレビを見ている人のスプーンも曲がると言ったことだった。生放送で視聴者がテレビの前でスプーンを持ち、「曲がった」という電話が次々とかかってきたという。マリックは、マジシャンならそうは言わないので、このフレーズが斬新だったと評価している。ベテランちは最初、ゲラーの力で視聴者の体が曲がったと勘違いしていたが、視聴者がスプーンを曲げたという話だと分かって納得していた。

スプーン曲げの実演と、8年間の研究

マリックはここで再びテーブルを用意し、カレー用の普通のスプーンを使ってゲラーが演じていたスプーン曲げを見せた。マリックは実際にゲラーと直接会い、これから見せるものと同じだと確認したという。

ベテランちが硬さを確かめたスプーンを、マリックは首の部分をこすってから指1本で曲げて見せた。次に、ベテランちにスプーンの首をこすらせ、傷がないことを確認させたうえで、体温で温めるようにしていると、スプーンがゆっくり上に曲がっていった。まっすぐに戻したスプーンをベテランちに持たせ、こすり続けると柔らかくなり、指で押すとゴムのようにたわむ。最後には首の中央に亀裂が入り、スプーンは2つに切れた。

マリックは、これが大ブームになり、世の中の人が手品に一時的に興味を失ったと話す。鳩を出しても、どこかに隠していたものを出しただけだろうと思われる。ところがスプーン曲げについては、人々は「これは何だ」と言いたくなる。マリックはマジックをいったん脇に置き、スプーン曲げだけを8年かけて研究した。店は家族や他人に任せ、ゲラーがニューヨークにいると聞けば現地まで行って追いかけたという。

マリックは、日用品を使う点に夢があると話す。ベテランちは、種があるかどうかは別として、日常のものを使うからインチキに見えにくいのではないかと応じた。マリックは、昔はマジシャンが魔法の杖を持っていたが、自分の力でやるように見せる形として「ハンドパワー」になったのだと説明する。

「ハンドパワー」も「きてます」も客が生んだ

マリックがスプーン曲げを見せると、近くの客はほぼ100%マリックの手を触ってきた。何か仕込んでいるのではないか、何か出ているのではないかと言われるため、マリックは「何か出てるんでしょうね」としか言えなかった。すると客のほうから「ハンドパワーですか」と言われ、マリックは「そうですね」と答えた。

すると、手を触っていない客が「なんか来てるのか」と聞き、手を触った客が「来てるぞ、来てるぞ」と答える。マリックの手を触りながら、客同士が「来てる」「来てない」とやり取りしていたという。帰り際には色紙にサインを求められ、「ここに『来てます』と書いてください」と頼まれた。マリック自身は、言われた意味もよく分からないまま書いたと話している。

マリックは、客が感じたことをそのまま言葉にしてくれたのが良かったと振り返る。ベテランちは、自分で考えた言葉ではなく、見ている人の目線から生まれた言葉だから流行ったのだと受け止めた。マリックは「不思議とお客さんが教えてくれる」と語っている。

後編へ

前編の終わりには、この後の話題が断片的に示された。深夜番組「11PM」から特番として1時間まるごと出ないかと声がかかり、そこで一気に売れたこと。一方で、暴露本が次々と出てストレスがたまり、耳の奥の三叉神経に関わる顔面麻痺を発症して顔が動かなくなったことである。ブームの頂点とその裏で起きた出来事は、後編で語られる。