雨穴はなぜどの媒体でも受けるのか 成田悠輔が聞いた「プロではないこと」の強み

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概要

全身黒ずくめに白い仮面という姿で活動するホラー・ミステリー作家の雨穴は、Web記事、YouTube動画、小説、映画、ミュージックビデオ、プリクラまで、性質の違う媒体で作品を出し、それぞれで反響を得てきた。経済学者の成田悠輔は対談で、雨穴にとってホラーとは何か、そしてなぜ媒体をまたいでも人の心をつかめるのかを尋ねた。これに対して雨穴は、自分には思想もプライドもなく、専門性へのコンプレックスがあると繰り返し語った。成田はその「専門家ではないこと」が、ソーシャルメディア時代にはむしろ強みになるのではないかという見立てを示した。

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黒い服と白い仮面は「一番楽だったから」

成田がまず聞いたのは、あの見た目がどのように生まれたかだった。雨穴によれば、特別な思想はない。ネットで活動を始めるときに姿を隠したかったが、どう隠すかを考えたところ、黒い服とお面がいちばん作るのが楽だった。その結果、少しカオナシのような見た目になったという。

成田は、制服やスーツが「毎日考えずに同じものを着られるから楽」と言われるのと同じで、毎回メイクをするよりこのほうが楽かもしれないと応じた。さらに冗談で、自分は白タイツに黒い仮面で雨穴のコスプレをしようかと考えていたと話し、雨穴は「オセロみたいですね」と返している。

カオナシに似ている点について成田が意識しているのかと聞くと、雨穴は偶然だと答えた。作ったあとで自撮りしてみて似ていると気づいたが、そのまま活動を始めたという。今のところトラブルにはなっていない。収録で使っている仮面は最初から同じもので、ずっと使い続けている。

雨穴がこの番組に出た理由も語られた。以前から番組を見ていて、成田のことは最初は怖い人だと思っていたが、中田さんや長野さんの回を見て、かわいらしい人かもしれないと感じたという。

謎をすべて解き明かす「邪道」のホラー

成田は「いちばん難しいことから」と前置きして、ホラーとは何か、よいホラーの条件は何かを尋ねた。

雨穴はまず、よく言われる考え方を紹介した。ホラーの本質は「分からないこと」にある。分からないから人は不安になり、怖いと感じる。そこから逆算して、分からなさを再現するのがよいホラーだ、という考え方である。そのうえで雨穴は、自分の作品はこうした正統派のホラーから見るとかなり邪道で、おそらくあまりよくないホラーだと話した。理由は、最後に謎をすべて解き明かし、読者に分からせてしまうからだという。そのため、自分にはホラーを語る資格がないのではないかと付け加えた。

結末は書き進めるうちにずれていく

謎をどこまで解くのか、全体の構造を最初に決めてから書くのかと成田が尋ねると、雨穴は、大まかには最初に考えるが、書いているうちに頭の中で変わっていき、最初に想像していなかった結末にたどり着くことがほとんどだと答えた。

結末の良し悪しを決める要素として、雨穴は二つを挙げた。一つ目はストーリーの自然さである。最初に「ここに行って、ここに行って、最後はここ」という大まかな設計図を作るが、細部を詰めていくと、その流れが不自然に感じられることがある。雨穴は、ストーリーを動かすのは人間であるキャラクターだと考えている。人間の心理としてこの順番で動くのはおかしいと思えば、少しずれた方向へ進める。そのずれが積み重なり、最終的に予定とは違う場所に着くのだという。

二つ目はケレン味である。雨穴はずっとWebやインターネットで活動してきた。人は驚いたり感情が動いたりしたときにSNSで感想を書いたり反応したりするので、ネットを基盤にしている以上、ケレン味が最も重要だと話した。成田がケレン味とは何かと聞くと、雨穴は「とにかく驚くこと」、最初の予想を大きく裏切られることだと説明した。本格的な文学やミステリーの世界の人からは安っぽい、俗っぽいと思われる要素かもしれないが、自分はネットが基盤の人間なので入れなければならない、というのが雨穴の考えだった。

ケレン味の物差しはTwitter

成田は、ネットといっても性質はさまざまだと指摘した。Web記事の世界があり、YouTubeには長尺とショートがあり、Twitterのような短いテキストの世界もある。そのなかで、雨穴が最も重視しているケレン味の物差しはどこなのかと尋ねた。

雨穴の答えはX、つまり旧Twitterだった。Webメディアでライターをしていた時期は、記事のURLがTwitterで拡散されなければ誰にも読まれない状況が5年から10年ほど続いていたという。成田が2010年代かと確認すると、雨穴は肯定した。Twitterで受けなければ記事は読まれない。その経験が今の創作の出発点にあり、成田の「出発点は言葉で、それもWeb記事的な言葉の空間なのか」という問いにも雨穴はうなずいた。

誘われるまま広がった媒体

成田は、雨穴ほど異なる媒体を組み合わせている作り手は少ないとして、それが意図的なのか、誘いに乗っていたら結果としてこうなったのかを尋ねた。

雨穴は後者だと答えた。もともと何の思想も持っていない人間で、文学で素晴らしい作品を書こうとか、映像の世界で上に行こうといった目標はまったくない。物を作るのが好きなので、作らせてもらえるならジャンルは何でもよいという。

成田は、特定の媒体に強く依存する作品も多いと続けた。紙の本で売れた作品をYouTubeにしても人を引きつけられるとは限らないし、YouTube、Twitter、テレビもそれぞれまったく違う世界である。これらを渡り歩いてどこでも人の心をつかむのはとても珍しく、雨穴はそれができている数少ない一人ではないかというのが成田の見方だった。そのうえで、特定の媒体へのこだわりやプライドがないから他の場所へも出ていけるのではないかと自己分析を求めた。

雨穴は「プライドは全然ない」と即答した。この外見の人物がプライドのなさを自己分析している光景に成田は笑いが止まらなくなり、自分もプライドがない点は似ているかもしれないと話した。

図画工作の人気者と、美術という壁

雨穴はそのうえで、たまたまうまくいっているだけで、自分がやっても受けない媒体はあるはずだと留保した。そして、自分の根っこにある体験を語った。

子どものころは勉強もスポーツもあまりできなかったが、図画工作の時間だけはクラスの人気者になれた。自分の作ったものを周りの子が「すごいね」と言ってくれ、注目を浴びる子どもだったという。ところが中学・高校になると、図画工作は美術という科目に変わる。図画工作の成績はオールAだったのに、美術ではあまり活躍できなかった。雨穴は、美術は図画工作に比べて専門的でアカデミックなセンスが求められるのだろうと考えている。専門的な部分を求められるとうまくいかない。だから大人になってからも「ずっと図画工作だけをやって生きていきたい」と思っていたという。雨穴はこれを、専門性へのコンプレックスのようなものかもしれないと表現した。

「技術が一歩足りない」ことが生む距離の近さ

成田は、裏を返せば専門性やプロらしさから自由だとも言えると応じた。雨穴の動画には、いい意味で手作り感が残っていて作り込みすぎていない。『変な家』の間取り図にも、ペンとノートで手作りしたような感触がある。洗練されすぎる手前で止まれる「反専門性」「アンチプロ性」が、読者や視聴者との距離を縮めているのではないか、と成田は話した。

雨穴はこれに部分的に同意しつつ、注意点も挙げた。もし自分がそれを意識して、あえて下手に、不完全に作ろうとし始めたら、かえってよくないという。動画の編集も間取り図の制作も本人としては一生懸命やっているが、技術が一歩足りない。その足りなさが、見る人との距離感や、いい意味での雑さ、リアルさとして奇跡的に成り立っているのではないか、というのが雨穴の自己評価だった。

根なし草が光る時代という成田の見立て

成田はこの話を一般論に広げた。一つの技術を突き詰めた「プロ」は、その腕が発揮できる場所とそうでない場所がはっきり分かれる。すると本人も別の場所へ移りにくく、見る側にも何が本業で何が副業かが見えてしまい、それが興ざめにつながることがあるという。

例として成田が挙げたのは、テレビの芸人とYouTuberだった。スタジオで会う芸人は、ひな壇で神業のようなフリートークを展開していて、とんでもない技術だと感じる。ところが同じ人がYouTubeで、雑な設定のまま完全なフリートークをすると、微妙な素人感が出て急に冷めることがある。実際、技術のある芸人がYouTubeに来ても、ほとんどは大して人の心をつかめていない、と成田は話した。逆に、自分の部屋で撮って自分で編集し、自分の世界を出すことに長けたYouTuberがテレビに出て、他人の土俵であるひな壇で話すと、とてもつまらなく見えることがある。そこから成田は、どこでもプロではない人は、かえってあらゆる場所でぎりぎりプロでありうるという性質を持てるのではないか、と考えたという。

雨穴はこの話が「すごくしっくり来た」と答えた。自分はずっと根なし草のようで、どこにも属せない寂しさを感じてきたが、それがかえってよかったのかもしれない、と。

成田はさらに、今は根なし草の時代だと続けた。動画や映像の世界は少し前まで、映画でもテレビ番組でも、プロだけが壁で囲まれた狭い世界にいた。それがここ10〜20年で一気に誰でもできるものに変わった。これは、根を持つプロの限られた世界から、根なし草や雑草だらけの世界へと拡張したということでもあり、同じことがあらゆる領域で起きているのがソーシャルメディア時代ではないか、というのが成田の見方である。雨穴は、根なし草が光る時代に生まれたのは運がよかったと応じた。

成田自身の「素人」としての立ち位置

雨穴は、成田にも根なし草のような印象があると動画を見て感じていたと話した。成田は、自分もただの素人だと答えた。研究の世界では一応プロだが、その世界と人前に出る世界は水と油で、何の関係もない。研究の世界では、多くの人の心に届くものを作ったり話したりすることはむしろ悪いこととされる。暗号のような言葉で議論しているプロたちの世界であり、一般の人が聞いて心を動かされるような「ぬるいこと」を言う人間は偽物だとみなされる、と成田は説明した。そのため、番組に出るときも本を書くときも、自分はただの素人として、日曜大工や「日曜図工」のようにやっているという。

プリクラで初めてぶつかった壁と、お化け屋敷

成田は、雨穴が先ほど「自分が受けない媒体もあるはず」と言ったことを受けて、全力でやっても光らない表現スタイルは何かと尋ねた。ミュージックビデオまで自作自演していて、本人は「ひっそり」と言うものの数百万回再生に達しているため、答えは簡単には出なかった。

そこで成田は質問を変え、まだ試していないがやってみたいものはあるかと聞いた。雨穴が挙げたのはお化け屋敷だった。きっかけはプリクラをプロデュースした経験で、そのとき初めて壁にぶつかったという。動画や本なら100%自分でコントロールできる。しかしプリクラは客との共演のようなもので、客は勝手に撮影し、どう反応するかも分からない。コントロールしきれないなかで大体をコントロールすることの難しさを知ったと雨穴は話した。お化け屋敷はその拡張版のようなものだろうと雨穴は考えている。もしかすると自分が輝けない、苦手なフォーマットかもしれないが、だからこそやってみたいという。

成田はさらに話を広げ、ディズニーランドの雨穴版のような「雨穴パーク」を提案した。レストランの店員も、客を驚かす役も、パレードの出演者もすべて雨穴の分身で、1万体ほどいるという想像である。成田は、とんでもなく受けるか、悪夢のように誰も入らないかのどちらかだろうと笑った。雨穴は、カオナシのパクリだと叩かれそうだと返した。

動画を見た人にも見ていない人にも成り立つ小説

成田は、同じ作品でも媒体によって質や雰囲気が根本的に変わっているように見えると指摘した。『変な家』は、YouTubeで語られるときには、一見不気味でありながらユーモアとチャーミングさのある、雨穴らしい奇妙な雰囲気がある。一方、本になるとその要素は消え、ほぼ純粋にシリアスなホラーとして読める。この空気の違いは意図的に作っているのか、それとも本人が画面に出るかどうかで結果的に変わるだけなのか、と成田は尋ねた。

雨穴によれば、『変な家』はWeb記事とYouTubeで発表したあとに小説化した。その際に最も考えたのは、二つの読まれ方を両立させることだった。動画を見た人が読んでもしっくりくること。そして、動画をまったく見ずに文芸小説として初めて読んだ人にも違和感がないこと。YouTubeを見た人には、あの姿の雨穴が間取りを調べて冒険している物語に見え、そうでない人には普通のオーソドックスな小説として読める。そういう形を目指したという。

成田はこれを受けて、雨穴の作品はアメーバのようだと評した。四角い箱に入れば四角い形に合わせ、丸い箱に入れば丸くなれる、不思議な柔軟さがある。もし最初から小説という形式が根幹にあり、その世界に徹底的に適応して作られていたら、YouTube動画に展開するのは難しかったのではないか。出発点がWeb記事的なものだったことが、いい意味での秘訣なのかもしれない、と成田は話した。

雨穴は、自分は何者にもなれなかったと振り返った。漫画家やミュージシャンを目指したこともあったがプロにはなれず、そうしたアマチュアリズムがおそらく自分の根っこにあるのだろうという。

肩書きは「アメーバ」か

成田は、漫画家やミュージシャンのような確立されたカテゴリーで自分を定めなかった、あるいは定められなかったからこそ、何者にでもなれるスタイルを自分で見つけたのではないかと述べ、今の雨穴は自分を何者だと思うか、肩書きをつけるなら何かと尋ねた。

雨穴はしばらく考え、「何でも屋」や「よろず屋」も少し違うと答えた。どうしても自分をカテゴライズできず、便宜的に「ホラー作家」と名乗っているが、それも少し違う気がする。そのうえで、成田が言った「アメーバ」かもしれないと話し、成田は「ぜひ明日から肩書きはアメーバで」と返した。

最後に成田は、動画はどのような体制で作っているのか、チームがあるのかと尋ねた。雨穴の答えは「完全に1人」だった。グループではないかとよく言われるが、最初から今まで100%一人で制作しているという。成田はこれに「衝撃」と反応し、ここで収録された部分は終わっている。