「作っている時だけ不安から逃れられる」──雨穴が成田悠輔に語った創作の原点と動機

YouTubeで開く ↗
概要

『変な家』などで知られるホラー・ミステリー作家の雨穴は、成田悠輔との対談の後半で、自分の創作の出発点、作業のしかた、そして何を動機に作り続けているのかを語った。成田は雨穴の作品には一貫したテーマがあるとみて、独自の解釈を示した。この記事では、雨穴自身の説明と、それに対する成田の読みを分けてたどる。

9分で読めます

原点はビーチ・ボーイズの「キャビン・エッセンス」

成田はまず、ホラー作家を名乗ることにしっくり来ないという雨穴に、これだけは知っておくべきホラーは何かと尋ねた。読むものでも見るものでも体験するものでもよい、雨穴にとってのホラーの良さを凝縮したものは何か、という問いである。

雨穴が挙げたのは小説や映画ではなく音楽だった。怖い曲として話題になる曲は多いが、その文脈ではあまり語られない曲として、アメリカの古いグループであるビーチ・ボーイズの「キャビン・エッセンス」を紹介した。雨穴によれば、作者のブライアン・ウィルソンは当時精神的にひどく病んでおり、この曲はその心理状態をそのまま形にしたようなものだという。番組ではこの曲を実際に流した。

雨穴がこの曲に怖さを感じたのは、8年ほど前の体験がきっかけだった。夜、このアルバムをかけながらうとうとして寝てしまい、ふと目を覚ました時に、曲の途中の音圧が急に高くなる部分がちょうどパソコンのスピーカーから流れていた。その時、自分はどこに来てしまったのだろうという、異世界に迷い込んだような感覚を覚えたという。それ以来この曲とブライアン・ウィルソンのファンになった。

雨穴は、この曲が作られた時期にブライアンが作っていた曲を音楽以外の方法で表現したいと考えたことが、いまの活動の始まりだったと明かした。成田はその飛躍の大きさに驚いたが、雨穴自身は、その試みは結局まったくできなかったとも付け加えている。それでも原点はそこにあるという。

曲から感じたものが作品にどう反映されているかについて、雨穴は、形のはっきりしない不気味さや不安な感じという点で、かなり影響を受けているだろうと答えた。はっきりした引用のようなものではなく、雰囲気のレベルの影響だという説明である。

成田の感想:「究極の睡眠不足」のような曲

この曲を初めて聴いた成田は、「究極の睡眠不足みたいな曲」だと感想を述べた。音が変わる局面や曲の終わり方で、突然不連続に場面が切り替わる。人は寝て起きると心がまったく違う世界に入っているが、それを圧縮したような感じを受けたという。人間の感情や周りの空気がリセットされることを延々と繰り返しているようだとも表現した。まったく眠れない状態が続くと、ハイになったかと思えば一瞬寝落ちしてすっきりし、心が穏やかになったと思うと突然不安に襲われる。そうしたことが短時間に次々と起きる感じに近い、というのが成田の見立てである。

成田はさらに、『変な家2』にも構造的に似た部分があるのではないかと述べた。まったく異質な小さなホラーやミステリーが順番に続く異様な構成をとっており、読者は短時間にまったく違うホラーの世界へ連れて行かれる。普通の物語世界の時間の流れではありえないことが起きているように感じた、というのが成田の読みで、雨穴はこれにうなずいた。

15〜16時間作業した後の深夜が最も「乗る」

どんな心身の状態の時に一番よい創作ができるのか、と問われた雨穴は、15〜16時間ほどぶっ通しで作業した後の深夜3〜4時頃を挙げた。その時間帯にはむしろ体が元気になり、アドレナリンが出続けている感覚があるという。午前3時頃から明け方8時頃までが、最もブーストがかかる時間だと雨穴は話した。

そこに至るまでの15時間は、遊びや飲みに出ている時間ではない。雨穴の場合、ずっと部屋でノートパソコンを開いており、集中できなかったり他の動画を見てしまったりしながらも、基本的には断続的に原稿を書き続けている。それがだんだん乗ってきて夜中に突入し、そこからさらに加速するという流れである。

1日にパソコンへ向かう時間は、長い時で20時間近い。ルーティンはほぼないが、本の締め切りが近い時期には2〜3か月ほど休みなしで毎日20時間という状態になることもあるという。ただし日によってまったく違う、とも雨穴は補足した。

動画も音楽も「100%ひとり」

動画制作の体制を問われた雨穴は、最初から今まで100%ひとりで作っていると答えた。グループではないかとよく言われるが、動画の編集もひとりで行っている。ミュージックビデオについても、作曲、出演、編集をすべてひとりで手がけており、雨穴は「外部の血は一滴も入っていない」と表現した。成田はこれを「今日一番の衝撃」と受け止めた。

成田は、雨穴ほどの立場なら外注もコラボも思いのままで、雨穴に便乗したい人もいくらでもいるはずだと指摘し、なぜひとりを貫くのかと尋ねた。雨穴の答えは単純だった。人に頼むのが苦手で、迷惑なのではないかと考えてしまう。それならひとりでやるのが一番楽だ、という。大変ではないか、委ねたい誘惑はないのかと重ねて問われると、自分から頼まなくても声をかけてくる人は意外といないと答えた。成田は冗談めかして、人間だと思われていない可能性があると応じた。

雨穴のようになりたい子どもにキャリアのアドバイスを求められたらどう答えるか、という質問には、雨穴は「もうやめなさい」とだけ言うと答えた。成田も、話を聞く限り真似のしようがなく再現性がなさそうだと感じていたと述べ、雨穴は「辛い人生なので」と理由を添えた。

成功しても幸せを実感できない

それでも今は幸福なのではないか、多くの人に求められ楽しまれていることを享受しているのではないか、と成田は問いかけた。雨穴は、とてもありがたいことだと感じているし、ドッペルゲンガーのように上から自分を見れば非常に幸せな状態だとは思う、と答えた。ただ、その幸せを気持ちとして実感できていないという。

成田は、YouTuberとしても作家としても一級で、ミュージックビデオを作っても当たる、マリオの確変状態のような状況ではないかと重ねた。それでも実感がないと言えば怒り出す視聴者もいるだろうとしたうえで、何が足りないのか、満たされることはないのかと尋ねた。

創作の動機は不安を麻痺させること

これに対する雨穴の説明が、この対談の核心の一つになった。雨穴によれば、自分が何かを作る原動力は、楽しさや幸せではない。普通に暮らしていると襲ってくる不安や、わけのわからない辛さを忘れたり麻痺させたりするために作っている。何かを作っている時だけはいろいろな不安から逃れられるから作る、自分はそういう人間だという。今も、辛さを作ることで必死に埋めているという気持ちに近いと話した。

満たされていけば、その辛さを埋める必要も薄れていくのではないか、と成田が問うと、雨穴は不安はどんどん湧いてくると答えた。不安がないと不安になる性格で、ある不安が取り除かれると別の不安を探し、見つけるとまたそこで不安になる。そうした悪循環がずっと続いているという。

成田は、その不安の悪循環こそを才能と呼ぶのかもしれないと返した。雨穴は「そうだとありがたいですけどね」と応じている。成田は、最初に会った時は雨穴が本当に人間なのか気になってじろじろ見てしまったが、話を聞いて、才能の循環に追われ続け、不安を内側から製造できる超人的な才能だという意味で、別の意味で人間ではないという結論にたどり着いた気がする、と冗談交じりにまとめた。

家族と間取りはなぜ結びつくのか

最後に成田は、雨穴の作品には一貫して執着しているテーマがあるように見えると切り出した。成田の見立てでは、それは「物の構造と心の構造のずれが生み出す不安」である。多くの作品では、親子や家族といった人間関係や、情念・感情の関係が描かれる。それと合わせ鏡になるように、家の間取りや絵に描かれた物の配置といった物理的な構造も描かれる。単純に言えばこの二つが照らし合わされているが、そこには常にずれが残り続ける。そのずれが不安を生み、確定できない謎を生み、ホラーを生み出しているのではないか、と成田は述べ、この問題への執着はいつどこで生まれたのかと尋ねた。

雨穴の答えは、作り方の順番に関するものだった。手を動かして物を作るのが好きなので、まずマテリアルがあり、そこに物語をつけていく。そうすると、自分が行き着くストーリーが自然と家族や親子のほうに流れてしまう。おそらくかなり無意識にやっていることだという。

『変な絵』で気づいた自分の中の「母性」への不安

無意識にそうなるほど家族や親子の問題が深刻なのではないか、と成田が水を向けると、雨穴は家族間のトラブルなどはまったくないと断った。そのうえで、『変な絵』を書いた時に初めて気づいたことを語った。『変な絵』は母親の母性が暴走してしまう物語だが、書き進めるうちに、作中の母親と自分がすごく同化してしまうような感覚を覚えたという。もしかしたら自分の中に母性的なものがあり、それがいつか暴走して、自分がそれに食い殺されてしまうのではないか。そういう不安はあると思った、と雨穴は話した。

成田の解釈:変えられそうで変えられないもの

成田は、それが家族の具体的な原体験のような分かりやすい話ではないのだろうと受け止めたうえで、自分の考えを述べた。家族や親子は人と人、心と心の関係であると同時に、人間の力では動かせない鎧のように私たちを拘束するものでもある。間取りも、簡単には変えられず、与えられたものとみなすしかない構造の、最も身近な代表例ではないか。日常を静かに拘束してきて、心がそれに反応して暴走するしかないような何かが、雨穴の創作の底をずっと流れているのではないか、というのが成田の読みである。

雨穴がこれを「変えられそうに見えて変えられないもの、ということですかね」と言い換えると、成田はさらに話を広げた。世界や社会は人間が作り出したものだから、本来は変えられるはずだ。にもかかわらず私たちは常に受動的で惨めで、それによって追い詰められ、混乱し、不安に苛まれている。もし絶対に変えられない条件であればまだ楽だが、変えられそうな希望が一瞬差し込むのに、ほとんど変えられないという現実に絶えず叩きつけられる。成田は、この世界と人間の関係の一つのシンボルが、家族や間取りとして雨穴の作品に現れているのではないかと述べた。

成田自身はこれを「何の結論も落ちもない、取り留めもない感想」だと断っており、雨穴はそこまで考えてもらって光栄だと答えた。雨穴が明言したのは、作る時はマテリアルが先にあること、家族や親子へ向かうのは無意識であること、そして『変な絵』で自分の中の母性への不安に気づいたことまでである。「変えられそうで変えられないもの」をめぐる世界観は、あくまで成田の解釈として提示されたまま、対談は終わった。