異状死の9割が解剖されない日本:法医学者・岩瀬博太郎が語る死因究明の現場

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概要

千葉大学で法医学教室を率いる岩瀬博太郎さんに、東京大学医学部医学科5年生のベテランちさんが話を聞いた対談である。岩瀬さんは3年前まで東大で法医学の講義も担当しており、ベテランちさんはその授業を受けていたはずだという。二人は先輩と後輩の関係にあたる。対談の中心は、日本では警察が扱う死体のうち解剖されるのは約1割にとどまるという問題である。岩瀬さんは、その結果として殺人が見逃されていると考えている。出演を引き受けた理由について、岩瀬さんは、法医学を真面目に取り上げてもらえそうな依頼は基本的に断っていないと説明した。

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法医学者の一日と仕事の範囲

岩瀬さんによれば、法医学の主な仕事は遺体を解剖し、各種の検査を行って死因を明らかにすることだ。それだけでなく、傷害事件の被害者や虐待を受けた子どもなど、生きている人の診察も行う。

解剖はほぼ毎日ある。午前8時半にまずCTを撮り、9時頃から解剖を始める。一件あたり2時間以上かかり、長いときは12時間に及ぶ。長引く理由は傷の多さで、チェックすべき箇所が増えるほど時間がかかる。解剖が終わると警察に仮報告をして、その日の解剖業務は終わる。解剖のない日は学部生や大学院生の指導にあたる。

報酬の仕組みは大学ごとに異なる。千葉大と東大では大学からの給料だけで仕事をしている。警察からは解剖ごとに謝礼金が出るが、これを個人で受け取ってよい大学なら「結構いい給料」になると岩瀬さんは話す。千葉大や東大が個人の受け取りを認めないのは、解剖が就業時間中の業務だからだという。

解剖の種類についても説明があった。事件の可能性を否定できないときに行うのが司法解剖で、実際には結果的に事件性がないものがほとんどだという。また、ここ10年ほどは比較的新しい「調査法解剖」が行われている。こちらは死因がわからない遺体であれば解剖できる制度で、事件性のあるものに限らず幅広い遺体を扱っている。

遅刻した実習が法医学への入口になった

岩瀬さんはもともと内科か皮膚科に進むつもりだった。考えが変わったのは、当時の東大が研究に偏りすぎていると感じたからだ。ある科の実習を回っていたとき、学生を指導していた教員に対し、教授が「なんでここにいるんだ、学生の相手なんかしないで研究しろ」という趣旨のことを言う場面を見た。それから臨床に不安を覚えるようになった。そこへ、のちに恩師となる当時の法医学教授から声がかかったという。

ただ、岩瀬さん自身は当時かなり不真面目な学生だったと振り返る。午後1時ごろに起き、授業にはほとんど出ず、夕方から卓球部の練習をして酒を飲んで寝る毎日だった。最初のきっかけは、その寝坊で法医学の実習に遅刻したことだった。その回の実習は早く終わる内容で、1時半にはほとんどの学生が帰り、5〜6人だけが残っていた。岩瀬さんは慌てて友人の記録を写させてもらった。そこで当時の法医学の先生に目をつけられ、おそらく皮肉だったのだろうが「頑張ってますね」と言われた。さらに「うちにはお酒がいっぱいあるから遊びに来なさい」と誘われ、教室に入り浸るようになったという。ベテランちさんは、今の大学は真面目になって実習にも絶対に遅れないよう言われる、と対比していた。

志望者はいても残らない理由

法医学に進む人が少ないと言われる点について、岩瀬さんは、まずポストがないことを挙げる。内科や外科なら病院に就職できるが、法医学は大学の基礎教室しか行き先がなく、定員が決まっている。そのうえ給料もさほど良くない。

ドラマの影響もあって、志望者は意外といるという。法医学ドラマは1〜2年おきに作られていて、岩瀬さんは『アンナチュラル』を面白かった作品に挙げた。ただ、志望していた学生も、在学中に臨床科の魅力に惹かれて離れていく。ドラマの登場人物のように部下を罵倒するようなことは実際にはしないそうで、最近の法医学は女性が多く、7〜8割を占めるという。こうした実情を知ってもらい、人が来てくれればという思いも出演の理由にあると岩瀬さんは語った。

警察にとっても人手不足は困るはずだが、国としては法医学の重要性があまり認識されていない、と岩瀬さんは見ている。国は問題が起きていないと認識しているのだろうが、実際には「起きているはず」だという。

解剖して初めてわかった死因

解剖をしていなければ誤った結論になっていた例として、岩瀬さんは二つを挙げた。一つは、自転車に乗っていて車と接触した翌日に自宅で亡くなった人のケースである。交通事故による死亡の可能性があるとして解剖したところ、覚醒剤のような乱用薬物が検出され、それが死因だった。事故として処理されていれば、車の運転者の責任が実際より重く問われていたかもしれない。もう一つは子どもの解剖で、普通は子どもが飲むはずのない精神科の薬が大量に検出された例である。

ただし、岩瀬さんは前提として、解剖に回すかどうかを判断するのは警察だと強調する。その判断を法医学者に任せればもっといろいろなものが見つかるはずだと考えている。警察が「念のため」程度で持ち込む遺体の中にさえ、こうした例が混じっているからだ。千葉大では年間400件前後を解剖している。解剖数を10倍にすれば、こうした事例も10倍見つかる可能性はあるか、とベテランちさんが問うと、岩瀬さんは「ありえるでしょうね」と答えた。埋もれている事例はそれなりにあるはずだが、表に出ないために日本は安全だとされ、国として必要性を感じていない、というのが岩瀬さんの見方である。

医者の世界の固定観念と「自己暗示」

話題は医師のキャリア観に移った。ベテランちさんは、特定の病院で研修してこの科に進むのが花形、といった内輪のキャリアプランが今も固定化していると感じている。知人の東大生は在学中に休学して起業し、成功した。ところがOB会で教授に事業の話をしたところ、「そんなことをしていたら根無し草になる」と説教されたという。

岩瀬さんは、医者は自分の科を愛さないとやっていけないほど辛い仕事だからではないか、と推測する。そして「医者は自己暗示の生き物」だと言う。解剖で人の体にメスを入れるときも、これは罪なことではないという暗示がある。相手が生きている人になる外科では、その行為が患者を救う大事な行為だという信念がなければ続けられない。だから外科医は外科行為を神聖なものと考えているのだろう、と岩瀬さんは話す。ベテランちさんは、医者の中には科の数だけ宗教のようなものがあると表現した。

岩瀬さん自身、法医学に進むときにはかなり「何をしているんだ」という目で見られた。最後まで皮膚科、内科、法医学の間で迷っていたころ、皮膚科の勧誘の場に顔を出した。そこで同級生が「こいつは法医学の大学院を受けている」と明かしてしまい、医局員たちが「なぜそんなところへ行くんだ」と大騒ぎになった。そのとき医局長が「そんなことを言うな、こういう人間が本当は必要なんだ」と周りを制した。これで法医学をやめられなくなった、と岩瀬さんは笑う。最近は起業する学生やAI研究に進む人も増えて多様になっており、面白いと思うとも付け加えた。

北欧は9割、日本は1割

本題の死因究明制度について、岩瀬さんは、日本の解剖率は他国と比べて低いと指摘する。北欧では警察が取り扱う死体、医学的にいう異状死の約90%を解剖するのに対し、日本は約10%だという。

解剖しない残りの9割は、遺体の外表を見たうえで、現場が荒れていない、怪しい人物がいないといった理由から、解剖不要とされる。しかし岩瀬さんは、外表だけで死因を判断するのは基本的に無理であり、判断しているのも慣れていない人たちなので「結構騙されていると思う」と言う。

その結果として岩瀬さんが挙げるのが、保険金目当てや遺産目当ての殺人が繰り返される事件だ。こうした事件は「大体10件目でバレる」。ベテランちさんが、解剖率が10%だからかと聞くと、岩瀬さんは「そうなんですよ」と応じた。ベテランちさんが木嶋佳苗の事件を例に出すと、岩瀬さんは、あの事件も10人ぐらいに手をかけていたと述べた。食事を喜ぶ男性に睡眠薬を混ぜて飲ませる手口だったという。

岩瀬さんによれば、最近は警察もこの点に気をつけていて、解剖をしない場合でも保険金の有無は必ず調べるようになった。ただ、目的が保険金でなかったらどうするのか、という問題は残る。

なぜ制度は変わらないのか

どうすれば解剖が増えるのか、という問いに、岩瀬さんは簡単な答えを示さなかった。遺族が国を訴える道を考えても、見逃された被害は見逃されたこと自体に気づかれない。遺族が「おかしいのではないか」と訴えることは実際によくある。しかしその時点で遺体はすでに火葬されていて証拠がなく、取り合ってもらえない。

ベテランちさんは、防衛医大や産業医大のように警察が法医学者養成の大学を作ってはどうかと提案した。岩瀬さんは、それには法医学者が反対するだろうと答えた。警察の内部に置けば客観性を保てなくなるからだ。警察は「こいつが犯人だ」と思い込むとそちらに引っ張られやすく、組織内では中立を守るのが難しいという。

警察から謝礼が出るなら大学は解剖を増やせば得をするのでは、という問いにも、岩瀬さんは否定的だった。大学はこの分野にあまり注目しておらず、法医学教室だけが潤っても他の部署との兼ね合いがある。そもそも病院はどこも赤字で、千葉大病院も東大病院も厳しい。病院に組み込んで大量に解剖したとしても、今度は警察が予算不足を理由に「やめてくれ」と言い出すだろう、と岩瀬さんは言う。ベテランちさんが、警察も国も死んだ人のことだからとなあなあになっている状態かと問うと、岩瀬さんは「そんな状況ですね」と認めた。

解剖の費用と「20年前は0円」

費用についても具体的な数字が出た。岩瀬さんによれば、人件費を含めて解剖だけで20〜30万円ほどかかり、各種検査まですべて行うと40〜50万円ほどになる。医師を一日拘束し、補助スタッフも必要になるためだ。現在は警察が負担しているが、20年前は0円でやっていた。

岩瀬さんは、これが日本の法医学が小さいままの原因だと考えている。警察が費用を払い始めるのが遅く、大学には解剖をやるメリットがなかった。そのため、他国では巨大な研究所が法医学を担っているのに、日本は大学の教室レベルにとどまっている、と岩瀬さんは説明する。

週刊文春に実名で訴えた経緯

岩瀬さんが千葉大に赴任した初日、最初に言われたのは、来年から国立大学が法人化されて文部科学省からの予算が削られるので、お金にならない司法解剖はやめてほしい、ということだった。岩瀬さんはこれに対し、法人化されるなら法人への業務依頼として警察から費用を取れるはずだと学部長に主張し、一緒に働きかけてほしいと頼んだ。学部長はこれを了承した。

二人は県警本部長などのもとを回って要望書を出したが、前例主義の役人たちには当然のように無視された。困っていたとき、ある役人が「国民が死因究明に関心がないから財務省は金を出さない」と口にした。それを聞いた岩瀬さんは、それなら世間に知らせてやろうと考え、週刊文春に実名で記事を書いてもらった。辞める覚悟でやったという。もともと内科や皮膚科をやりたかったので、辞めさせられたらそちらをやり直せばいい、という気持ちもあったと話す。当時は警察内で千葉大に解剖を持ち込むなという指示も出ていたらしいが、最終的には費用が支払われるようになった。

病院側から解剖を求めることもある

法医学者の側から解剖を求めることはあるのか、という質問に、岩瀬さんは子どもの死亡例を挙げた。小児科のある病院から、子どもが亡くなったが死因がわからない、なんとかならないか、と相談が来ることがあるという。岩瀬さんによれば、他国では子どもの異状死はほぼ100%解剖される。

日本では、初動を担う所轄の警察官が、解剖すれば仕事が増えるために面倒がって、解剖しない方向に傾くことがある。そういうときは警察本部の検視官に、解剖しないのかと問いかけることがあるという。ベテランちさんが、警察も大学もやる気がないように聞こえて暗い気持ちになったと言うと、岩瀬さんは、皆基本的には悪い人ではなく、どこも仕事量が多すぎるのだと補足した。

医者になるべきかという後輩の悩み

話がそれる形で、ベテランちさんは本当に医者になって大丈夫か不安だと打ち明けた。岩瀬さんは、医者にはいろいろな形があり、向いているところは必ずどこかにあると答えた。例として作家になった森鷗外を挙げ、手塚治虫の名前も出た。ベテランちさんは安部公房の例を持ち出した。成績が悪すぎたが、医者にならないなら卒業させると言われて卒業したらしい、という話である。岩瀬さんは、それでも単位は取らないといけないと返した。

死者と向き合う仕事のつらさ

亡くなった人を相手にする仕事はしんどくないか、という問いに、岩瀬さんは、つらい面とつらくない面の両方があると答えた。つらいのは、めった刺しで傷が多すぎて解剖が終わらないときや、腐敗が進んでウジが湧いている遺体を扱うときだ。一方で、臨床と違って自分の処置で人が死ぬリスクはない。自分が感染するリスクはあるが、という。

傷の扱いについては、一つひとつについて所見を正確に取り、長さを測り、形を記録し、いつごろの傷かを見ていく。だから傷が多いと大変な作業になる。多数の傷でカモフラージュして別の傷が本当の死因だった、というケースは「ほぼない」。それでも後から指摘されるおそれがあるため、しっかり確認しなければならない。

扱う死因には季節の傾向があり、夏は溺死が、冬は焼死が増えるという。ほかは交通事故が多く、殺人はまれで、日本の殺人では刺殺と絞殺が多い。首吊りや飛び降りといった自殺も運ばれてくる。そうした仕事を毎日続けていて落ち着いた人柄になったのかと聞かれ、岩瀬さんは、今も毎日酒を飲んでいると笑った。

解剖現場の「あるある」とドラマへの違和感

最後に「あるある」として、岩瀬さんは腐敗臭を挙げた。手袋を二重にしていても、外した後に手に匂いが残り、洗っても取れない。それがなぜか一晩寝て起きると消えているという。

法医学を扱うドラマや漫画で「これは違う」と思う描写はあるかと聞かれると、岩瀬さんは、お腹に溜まったガスで遺体が跳ねるという描写は「絶対ないと思う」と答えた。解剖の世界のあるあるについては、次回に続く形で対談は締めくくられた。